9/25(水)のふくおかウォーキング協会の例会は、「「令和」ゆかりの地大宰府を巡る」コースでした。
集合場所は、JR水城駅。参加者44人。
【水城跡】 7世紀後半、朝鮮半島では、国の存亡をかけた戦いが繰り広げられました。当時の日本は、百済を助けるため大軍を朝鮮半島に送りましたが、西暦663年白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れました。
その後、大和朝廷は、敵の侵攻に備えるため、水城や大野城、基肄城を築きました。敵に攻められやすい博多湾の沿岸にあった那津官家も、現在の太宰府市の地に移され、「大宰府」が誕生したと考えられています。
このように「水城」は大宰府を守るのに最も重要な所でした。水城は、長さ1,2km、幅80m、高さ10mの土塁と、内外に水をたたえた濠からなり、福岡平野の最も狭くなった場所をふさぐように築造されています。
僕らが小学生の頃は、太宰府に遠足に行くと、必ずこの水城跡を見学していました。そのころは、どうして水城が築かれたかは、あまり理解していませんでした。
1回目の休憩所「水城館」到着。
ここには、大伴旅人と児島の離別の歌の歌碑があります。
大宰帥(だざいのそち)・大伴旅人が、大納言に任じられて帰京する際、遊行女婦(うかれめ)・児島と詠み交わした歌です。遊行女婦とは、酒宴の席で歌や舞を披露して接待する女性を指します。都から大宰府へ赴任してきた旅人は、
滞在中に愛妻を亡くし、悲しみにくれます。望郷の念や、亡くした妻への思慕を多く詠み残した旅人にとって、児島の存在はどれほどの支えであったでしょうか。
【銘文】 凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも 娘子児島 (普通の身分の方であったなら袖を振ってお別れするものを、恐れ多いので、振りたい袖を我慢しています。)
ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ 大納言大伴卿 (涙など流さないと思っていた私が、水城のほとりで涙を拭うことになるのだろうか。)
二人の別れの場面で詠まれたこの歌は、旅人の出立が公的なものであり、周囲に官人がいるなかで、旅人と児島の間にある身分の隔たりが浮き彫りとなっている様子をうかがわせます。再びは逢えないかもしれないという、
両者の悲しみが色濃く感じられるこの歌は『万葉集』巻6に収められています。 (大宰府文化ふれあい館HPより)
衣掛天満宮は、菅原道真が大宰府に配流されてきたとき、装束を改める為、衣を石または松に掛けたことがおこりとされています。
筑前国分寺跡:奈良時代聖武天皇の命により、国ごとに建てられたお寺跡です。筑前国分寺は九州各国の国分寺の中心でした。
坂本八幡宮に到着しました。4月1日菅官房長官から新年号「令和」が発表されましたが、その令和縁の地がここ坂本八幡宮です。私、今年ここを訪れるのは、3回目です。1回目は、「令和」が発表された翌日ですが、朝9時ごろ行くと
放送局のカメラクルーがたくさんつめかけていました。氏子さんは、朝から境内の掃除をされていました。この小さい小さい神社が一躍脚光を浴びたのです。
坂本八幡宮は、祭神は、応神天皇です。奈良時代には、この辺りに太宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)の大伴旅人の邸宅があったといわれています。
天平2年正月13日、帥の老の宅にて集まり、宴会を開きました。その時詠まれた歌が、
初春の令月にして気淑く(きよく)、風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、、蘭は颯後の香を薫らす
訳)初春のよき月に、気持ちよく風は和らいで、梅は鏡の前でお粉おしろいをはたく女性のように白く美しく咲き、蘭は香り絵のように薫っています。
御朱印もありました。
坂本八幡宮の近くは、「大宰府政庁跡」があります。大宰府展示館の所には、「小野 老」(おののおゆ)の歌碑が建っています。
神亀5年(728)4月、太宰少弐として赴任し、饗宴の席で自ら詠んだ歌が、「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 」
小学校か中学校の時に習いましたね。まさか、この歌が大宰府で詠まれたとは、思いませんでした。
鑑真和上ゆかりの「戒壇院」。
百済を助けるために九州へ下った斉明天皇が朝倉橘広庭宮で亡くなり、その子天智天皇が母の菩提を弔うため「観世音寺」を建立しました。
時間は、12時近くになりました。大宰府参道を通り、ゴールの太宰府天満宮へ。
約9kmのウォーキングでした。