7/21、前日急な雨のため、伊丹駅で中断した西国街道歩きを少しでも取り戻そうとホテルを朝6時に出発。
新大阪より地下鉄で梅田まで。梅田から阪急電車で前日ゴール地の伊丹駅へ。伊丹駅からは、市営バスで市役所前まで移動。 7:11からウオーキングを開始します。
伊丹警察署の先は、千僧(せんぞ)という地名になります。「千僧」という地名は昆陽池・今池(「千僧今池」とも)・籠池を造営した奈良時代の僧・行基が713年(和銅6年)に当地で千僧供養の法会を行ったことに由来するとされています。
左側には千僧の氏神様の「天神社(あまじんじゃ)」があります。私は、菅原道真公の天神様と思っていたのですが、天(あま)神社なんですね。今日は、その天神社のお祭りです。
朝早くから氏子さんたちが準備をされていました。鳥居の横の御由緒を見ると、「御祭神は、大己貴命・熊野皇大神・天照皇大神・応神天皇・豊受姫大神」
初め大己貴命を祀りしが後、猪名神社及び同境内神社等を合祀して祭神を増加せり昔 猪名権現社と称せられ天命天皇の和銅六年(七一三年、今より約千三百年前)行基法師熊野に詣で一夕神見ゆ
明旦其の霊容を彫刻して此の地に帰り小社に遷し猪名権現として祭り池、田、畑の開拓達成の祈願をされた 猪名の號は歌の名所に因れり」
千僧には、陸上自衛隊千僧駐屯地もあります。
桜ヶ丘8丁目のバス停には、道標が立っています。ここが有馬道との交差する所です。民家のお庭には、「紅葉葵」が花を咲かせていました。
有馬道との交差する所に、大鹿交流センターがありました。ここで先ほど朝食にと、コンビニで買ってきたサンドイッチを頂き、しばし休憩します。
「大鹿」とは、平安時代、坂上田村麻呂がこの地で大鹿を射止めたことに起因するそうです。地名の案内板横には、道標が立っています。「すぐ西宮、すぐ京、すぐ中山/有馬、すぐ大阪」と刻まれています。ここの「中山」は、安産で有名な「中山寺」です。「すぐ」というのは、「まっすぐ」という意味だそうです。
昔の街道絵図
また、街道を進みます。「お茶にしませんか」という看板を見つけましたが、まだ朝早いので開いていませんでした。畑には大きなひまわりが咲いていました。
伊丹坂を登ると右側に「伝和泉式部墓」という看板が目に入りました。和泉式部の墓は、全国いろんなところにありますが、ここ伊丹でもありました。高さ152センチメートルの五輪塔。
火輪・地輪を欠き、塔身と一石彫成の請花(うけばな)・宝珠(ほうじゅ)のみが残っています。構造形式は鎌倉調で、1300年代初期の造立と推定されます。平成12年に市指定文化財になりました。
和泉式部は平安時代の女流歌人で、「和泉式部日記」の作者として有名です。「津の国のこや(昆陽)とも人をいふへきにひまこそなけれ芦の八重葺(やえぶき)」という歌を詠んでいます
柳田邦夫このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べています。
和泉式部の墓から再び街道に戻ります。北国1丁目の信号を過ぎた所の多田街道と交差する所に「辻の碑(いしぶみ)」という道標があります。碑には、「従東寺拾里」と書かれています。ここから京都・東寺まで拾里(40km)です。
多田街道は、伊丹郷町の北ノ口から川西市多田神社までの参拝道です。多田神社は、源満仲を租とする多田源氏一族を祀っています。
街道は、松谷化学の工場からJR福知山千を超え、猪名川にやってきました。
この川からは、伊丹空港が近いのでしょうか、離陸した飛行機が私達の頭の上を通り過ぎていきます。
猪名川は、川幅が120間(216m)もありました。渡し船はなく、松尾芭蕉もここを歩いて渡りました。軍行橋を渡ります。
軍行橋を渡ると、右側に「浄源寺」があります。ここには、大銀杏の木があります。また、この一帯昔の面影を残す建物が多く、伊丹市から都市景観形成建築物に指定されています。
国道171号線を少し歩き、新開橋の手前から「大阪府池田市」に入ります。山陽道、西国道を歩いて4県1府を歩いたことになります。残るは京都府。京都まであと約40km。
中国自動車道の高架の所から道が分からなくなりました。先に住吉2丁目の信号がありましたのでそこを渡り、「十二神社」へ行きます。あとで案内板を見ると中国道の建設で街道が途切れているそうです。
「十二神社」というと珍しい神社名ですが、天神七代、地神五代をお祀りしているからその名がついたそうです。
十二神社の前の道を進みます。幼稚園の裏側に「亀之森 住吉神社」があります。私達もここでお詣りし休憩します。休憩している間に私の足に蚊が刺してきました。すぐDバックの中から虫刺されのクリームを塗りました。
この虫刺されのクリームは、昨年今頃、広島県の峠を越えたときに持ってきました。その時から私のDバックに入っています。
幼稚園の所の信号に戻り、再び街道を歩きます。阪急宝塚線「桜井駅」近くがあり、踏切の手前を右に沿って歩くと、石橋南小学校があります。ここの校庭に「石橋」が残っています。
案内板によると、石橋駅南の最初の踏切を通る旧西国街道と旧能勢街道が交叉する西側の小川に架かっていた石の橋で明治40年(1907)ごろまでは幅2間(3.6m)長さ1間(1.8m)の一枚岩でした。
石橋という地名は、この石の橋から起こったといわれています。
また、このあたりは、「宮の前遺跡」のあった所です。宮の前遺跡は、池田市石橋4丁目、住吉1.2丁目、豊中市蛍池北町に広がる遺跡で大よそ東西700m、南北900mの範囲です。
宮の前遺跡は、昭和の初めごろ地元の人々により、石器や土器だどが採掘されており、遺跡の存在が知られていました。昭和43,44年の中国道建設に伴い発掘調査が行われ、その結果弥生時代中期(約200年前)の方形周溝墓、
竪穴住居、古墳時代(約1500年前)の竪穴住居、古墳が見つかりました。
街道に戻ります。阪急西国街道踏切を渡るとすぐ左側に「高札場跡」があります。ここは、京都と山陽地方を結ぶ「西国街道」、大坂と池田、能勢方面を結ぶ「能勢街道」が交わる場所です。
かつて多くの人々や物資が行き来した4この辻には、幕府や奉行所などから庶民に周知させる法令や禁令、生活の模範を掲げていました。
阪大下の信号を斜め左に渡りまっすぐ行くと国道171号線と合流する。しばらく歩くとどうも道が違うことに気が付いた。瀬川5丁目の信号を阪急の踏切を超えなくてはいけないのに国道171の方にきてしまった。
まだ200mぐらいしか過ぎていないので瀬川5丁目まで戻ります。踏切を渡り旧街道へ。このあたり左側は、池田市、右側が箕面市になっています。この旧街道が市境です。
しばらく歩くと左側に自動車学校が見えてきます。ここが「瀬川宿本陣」。案内板を見てみると、「江戸時代の瀬川と半町は、西国街道筋の駅所村でした。公用の人と馬、荷物を継ぎたてる立会(共同)駅と、
参勤交代の西国大名の泊まる「本陣」、庶民の為の旅宿もあった宿場でした。寛永年間(1624~1643)頃に瀬川の宿駅が整備され、宝暦年間(1751~1763)には、半町も瀬川本陣同様の旅舎を造り上げ、
半町本陣を名乗るようになりました。」
半町を過ぎると、阪急。・桜井駅前です。私、楠正成と正行の別れがこの「桜井」と勘違いしていました。桜井の別れは、山崎宿近くの島本町でした。
今日は、雨の心配はしなくてよさそうですが、それにしても暑いです。桜井駅前バス停のベンチで給水タイムにします。10分ぐらい休憩し、再び歩き出します。牧落八幡宮の参道を過ぎると、「牧落の旧札場跡」があります。
札場は、高札場で幕府や領主からのお触れを着札や張り紙に書いて掲示し、村人に通達したものです。ここにも「道標」がありました。これには、「大坂天神 四り半、はっとり二り」と書いてあります。
「はっとり天神」は、豊中にある、足の神様で有名な「服部天神宮」のことです。
更に進むと、道路がカラー舗装、ガードレールが茶色に塗られています。ここが旧街道からでしょうか、このようなカラー舗装の方が、太陽の照り返しもだいぶん和らげてくれるみたいです。
時刻は、11時半です。今日は朝は、パンのみでしたのでお腹も減ってきました。また冷たいものがいいのですが、旧道には、食堂がありません。国道に廻り食堂を探すと、中華の看板がありました。
そこで冷麺を注文し、お水をペットボトルに補充します。お腹もいっぱいになり再び街道へ。
カラー舗装の街道を進むと、右側に大阪府指定史跡「萱野三平旧邸長屋門」があります。
萱野三平は、美濃の旗本大嶋氏の所領である椋橋荘(現豊中市大島町)の代官を務めていた萱野重利の三男として、延宝3年(1675)当地に生まれた三平重實は、13歳の時、大嶋出羽守の推挙により、
播州赤穂の浅野内匠頭の小姓として仕えるようになりました。 元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で内匠頭の吉良義央に対する刃傷事件後、三平は大石内蔵助を中心とした仇討の同志に加わろうと
しましたが、三平を推挙した大嶋氏に迷惑がかかることを心配した父の反対を受け、元禄15年1月14日、当地において自刃し28歳の生涯を閉じました。
三平は、早駕籠で事件の第一報を赤穂にもたらしました。江戸から赤穂まで普通の旅人なら17日、飛脚では8日かかるところを、わずか4日で走破しました。
中に入ると、邸跡は、「涓泉亭(けんせんてい)」となっています。「涓泉」は、萱野三平の俳号です。
街道は、萱野交差点で新御堂筋と交差します。そのまま171号線を進み、西宿2丁目から右に折れます。今宮交差点の所には、「祖谷 観音菩薩碑」があります。
更に進むと、左側に「勝尾寺大鳥居」があります。道標には、北へ36町(約4km)。勝尾寺は、「勝ちダルマ」が有名です。Jリーグ「ガンバ大阪」チームも祈願に訪れているそうです。
小野原地区には、神護景雲年間(767~769)の創建が伝えられる春日神社(小野原西5丁目)が村の氏神として鎮座します。この地は、春日神社の大祭(10月)の際に神輿が巡行するため「お旅所」と呼ばれ、
神輿を置くための台座が所在します。
ところで、地図を見ていると、このあたり、「笹川」という姓がマンションあたりにつけられています。あの「競艇王」の笹川良一さんは、この箕面市豊川のご出身だそうです。
大阪モノレール「豊川駅」のガードを潜り、街道は「茨木市」に入りました。茨木市のマンホールは、市の花「バラ」と市の花「樫」がデザインされています。
西国街道の案内板には、今日のゴール「椿の本陣」まであと1,5kmと書かれています。左側に道標があります。是より豊川学校、勝尾寺、粟生、宿久庄、清水道と書かれています。
「豊川学校」とは、豊川尋常小学校のことで明治39年作家の川端康成が入学しています。笹川良一さんと同級生だそうです。
14:00「郡山宿(椿の本陣)」に到着。
京都と西宮を結ぶ西国街道には、かつて山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽の5つの宿駅があり、郡山宿は、その中央にあって重要な役割を果たしていました。この本陣は、享保3年(1718)焼失し、建物とともに
殆どの古記録が焼けてしまい、現在の建物は、享保6年(1722)西国諸大名の寄付で再建されました。残された宿帳から、摂津、備前、備中、美作、四国の讃岐などの大名や忠臣蔵で有名な赤穂城浅野内匠頭が宿泊し、
また、慶応元年(1865)7月15日に明治天皇がお立ち寄りになっています。この本陣の正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから、いつしか「椿の本陣」と呼ばれるようになりました。
予約をすれば、本陣の中を見学できたのですが、アポなしで行きましたので中に入ることができませんでした。
時刻は、14時を過ぎています。今日の予定は、高槻まででしたが、この暑さ、もう我慢ができません。帰りの新幹線には、まだ時間はありますが・・・・・・・・
歩いているとバスが来ましたので運転手さんに茨木駅に行くバス停を聞き、バスで茨木駅まで行きました。汗をかいた後は、やはりこれですね。(笑)
茨木駅より新大阪へ戻り、17:45ののぞみで博多に戻りました。次回は11月の連休を予定しています。