よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京街道(東海道57次)「守口宿~大阪・高麗橋へゴール!」後編(大阪府守口市~大阪市中央区)

2022-12-02 04:48:29 | 京街道(東海道57次)

(前編からの続き)  

 京街道(京都・山科~大坂・高麗橋)ゴールしました!

本町橋から先に進みます。

 

京街道は、京阪東通り商店街の中を通っています。

 

太子橋から大阪市旭区に入ります。

京街道は、文禄年間(1592~1597)淀川左岸の堤防を改修し堤防上に陸路を開いたのに始まります。当初は大阪城京橋口が起点でしたが、江戸時代になって高麗橋東詰に移りました。

 

   

木犀(もくせい)の陣屋跡・・・古市村大字森小路字森の淺田邸の庭園に、みごとな木犀が三本あり、花の季節には蒲生や関目まで香りを漂わせ、それを愛でた十四代将軍徳川家茂が

淺田家に宿泊、多くの大名も守口宿を淺田家に替え宿泊したと言われています。当時、淺田家は森小路の庄屋で、木犀の陣屋、木犀の庄屋として江戸時代まで有名だったと言いますが、

陣屋の建物は現存していません。跡には小さいですが、木犀の木が3本立っています。

 

千林商店街を通ります。

 

古市橋

 

関目交差点 この辺りは、京街道七曲りと言って街道が複雑になっています。

 

秀吉が大阪に都をおいた際、鬼門の治めとして置いたのが関目神社(須佐之男尊神社)です。

大阪城築城の際に、現在の古市森小路からこの関目の地にかけての道路(1kmあまり)を特に屈折させて、敵が攻めてきた時に進軍を防ぎ、敵軍兵数を察知するのに便利なようにしました。

これは俗に「七曲り」といわれています。これと同時に大阪の北の護りとして武神である須佐之男尊を祀り、大阪の鬼門に当るので、鬼門鎮護の神として毘沙門天王を勧請して小さな社を

建立しました。これがこの神社の由緒だと伝えられています。「関目神社」というのは通称で、由緒からもわかるように正式名称は、「須佐之男尊神社」です。

社殿は生徳年間(1712~13年)の台風による被災や明治十八年の大水害により流出するなどしましたが、明治二十一年に復興しました。現在の本殿は、昭和五十二年に再建されたもの。

また毘沙門天王社は昭和六十年に再建されたものです。

この神社の境内には、「関目発祥之地」の石碑があります。現在の野江・関目を中心とした一帯は、平安時代以降は榎並荘と呼ばれていましたが、そのころからこの地は「関目」と

呼ばれていました。この地に見張り所(目で見る関所)があったことから生まれた名だといわれています。

 

阪急オアシスで休憩。

  

休憩後再スタート。

 

榎並地蔵・・・いつから祀られてたかは、不詳ですが古くから野江村の方々により大切にお祀りされていました。石に二体の人物像が彫られ、榎並地蔵として後に発見された

道標と一体の石仏と考えられています。

この辺りの地名が「榎並(えなみ)」です。多分榎の並木があったからだと思いますが、大阪・城東区のHPに由来が載っていました。

野江・関目を中心とした周辺一帯をいい、平安時代以降は榎並荘として史上によく知られていたのは、この地が近衛家の荘園であったからです。

言い伝えによると、この地一帯は大榎の繁茂した地であり、その森には鬼女が住んでいて、往来の人々を苦しめていたのを北面の武士の橘氏をはじめ36人が勅命によってこれを

討ち取りました。この功によりこの地を与えられ、榎を伐採して開懇したことにより榎並の名が起こったといわれています。

また、当地は河内の入江と大川の間に形成された干拓地で、茨田堤の構築により陸地化が進み、平安時代には農地になりますが、この地が大川の南、つまり「江南」に「榎並」の字を

あてたともいわれています。明治22年4月、野江村・関目村・内代村の3村が合併して榎並村となり、大正3年(1914年)10月に榎並町になりました。(大阪・城東区HPより)

 

 

京橋中央商店街に入ります。商店街の中が京街道です。

 

 

京阪の高架沿いに歩きます。

 

寝屋川橋東詰から京橋へ。

京橋の所には、「京橋川魚魚市場跡」の碑があります。江戸時代の川魚市場の跡で、明治時代の末期に中之島に移転するまで、この地で賑わっていたようです

  

京橋(橋梁)は京街道の起点(のち高麗橋に変更)、また東海道五十七次の終点(江戸日本橋から137里4町1間)であり、大坂では数少ない公儀橋でした。江戸時代の擬宝珠には

「元和九年造立」(1623)の銘があった現在と異なり、最長時には100メートルを超える長さを誇っていました。

北詰には京街道沿いに相生西町・相生東町・野田町といった町並が形成され、川魚市場もあり、大坂の玄関口の一つとして賑わいました。南詰は大阪城の虎口の一つである京橋口となります。

 

京橋からは、大坂城が見えます。

 

先へ進みます。

 

 

下記の地図を見ると大阪には、橋が多いですね。

天満橋は、大川に架かる天満橋筋(府道30号線)の橋です。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位置します。

京阪天満橋のガーデンテラスで休憩します。大川(旧淀川)には、屋形船、水陸両用バスなどの観光船が運行しています。

大川沿いには、桜の木がありますので桜の季節には水上からのお花見が楽しめそうです。

 

平安時代、八軒家浜は渡辺の津と呼ばれ、京都からの人々が船を下り、熊野古道へ発つ起点として、大阪の水運と陸路を繋ぐ交通の要所でした。江戸時代には、京都と大阪を結ぶ舟運の要衝

として賑わいました。八軒の船宿があったことから八軒家浜と呼ばれるようになりました。

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や司馬遼太郎「竜馬がゆく」、浪花節「森の石松三十石船」にも八軒家が出てきます。

 従来も、緑道や駐車場として利用されていましたが、平成18年度に京阪電鉄中之島線の建設事業に合わせ、水辺のにぎわい創出、舟運活性化のための水辺空間整備が行われました。

歴史的価値のある八軒家浜を再生するため、地域の住民や企業などと協議を行い、平成20年に雁木・遊歩道・船着場が、平成21年にはにぎわい施設「川の駅 はちけんや」が整備されました。

 

八軒家浜の常夜灯・・・安政7年(1860)、夜の乗下船時の安全の為、地元の町人が燈籠を建てました。その燈籠は、明治時代ごろに生国魂神社へ移され、北門に現存しています。

この燈籠は、残されていた図面を元に復活させたものです。

  

平安時代の後期(11~15世紀)ごろ、現在の天神橋付近は、渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれ、港として熊野参詣に利用されていたため、熊野古道の起点として有名になりました。

熊野古道にはいくつものルートがあって、特に紀伊路、中辺路には、渡辺津から熊野三山までの間に百ヶ所近くの熊野権現を祭祀した九十九王子がありました。

一の王子(窪津王子)があった場所は、現在の坐摩(いかすり)神社行宮とされています。

  

今橋から高麗橋へ。

 

14:15   「高麗橋」に到着しました。

ゴールの高麗橋には、私の街道歩きの師匠「ランドセルさん」がお出迎えに来ていただきました。

ランドセル師匠とは、5年ぶりぐらいの再会です。

 

   

高麗橋は、豊臣秀吉の時代に大坂城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、江戸時代になると、交通の要所であるこの橋は、幕府が直接管理する公儀橋として重視されました。

現在の橋は、昭和4年(1929)に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋として今も現役として使用されています。

明治時代には、高麗橋東詰に里程元標が置かれ西日本主要道路の距離計算は、ここを起点として行われました。

それにしても高麗橋は、江戸の日本橋に似ていますね。

 

本日のGPSです。

このあと、師匠が、緒方洪庵の旧宅、福沢諭吉生誕地を案内していただきました。

緒方洪庵旧宅(適塾)・・・・ 洪庵(1810~1863)は岡山の人で17歳で来阪、中天游に学んだ。天保9年(1838)洋学を志す者のために、自宅に塾を開いた。

1階の奥が洪庵の家族の住居で、2階は塾生が起居していた。そのなかから、大村益次郎(ますじろう)・橋本左内(さない)・福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい)らを輩出し、

また洪庵は、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍した。

 

  

福沢諭吉生誕地・・・・私は、福沢諭吉は大分・中津で生まれたと思っていましたが、ここ大阪の蔵屋敷で生まれていました。

  

淀屋橋で師匠と別れ、歩いて今日のホテルに向かいます。

 

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今年は、奥羽街道(江戸・日本橋~福島・白河)、京街道(京都・山科~大阪高麗橋)を完歩しました。

来年は、どこかの街道に挑戦したいですね。

 

 

 


京街道「守口宿~大阪・高麗橋へゴール!」前編(大阪府守口市~大阪市中央区)

2022-11-29 19:03:25 | 京街道(東海道57次)

11/24(金)8:45 ホテル近くの京阪中之島駅から前日ゴールの守口市駅に向かいます。

守口市駅の前には、「文禄堤の碑」が建っています。

「文禄堤」は、大阪城から伏見城までを繋ぐ最短ルートとして、文禄5年(1596)に豊臣秀吉が毛利輝元、小早川隆景、吉川広家の三家に命じて淀川左岸の堤防を改修・整備したものです。

のちに「守口宿」の一部が築かれました。堤の長さは、約27kmあったといわれていますが、度重なる淀川の改修工事で、そのほとんどは姿を消しており、現在では、この守口市本町の

一部のみが江戸時代の宿場町の面影をしのぶことができます。(京街道ウォーキングマップより)

  

駅前にある「本町橋」、ここが文禄堤です。橋の横に階段がありますので登っていきます。

 

文禄堤の所が、京街道です。ここから昨日、雨と雷で行けなかった守口宿出入口(一里塚)まで行きます。

  

守口の一里塚にやってきました。ここが守口宿の出入口になっています。

 

 

幻の大坂遷都

盛泉寺(じょうせんじ)に来ました。盛泉寺は、教如(きょうにょ)上人を開基として、慶長11年(1606)に創建された東本願寺の末寺で、「東の御堂さん」、「東御坊さん」と呼ばれて

います。本堂は、近くにある「西御坊」の難宗寺と同様、元和元年(1615)の兵火により焼失した後、幾度も風水害を受けてきましたが、天保6年(1835)に再建されて現在に至っています。

次に出てくる「難宗寺」が西御坊と呼ばれるのに対し、盛泉寺は、東御坊と呼ばれています。

 

慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は大政奉還を申し出ました。12月9日には、王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とする新政府が樹立されました。

新政府は、摂政・関白・幕府を廃止し、天皇のもとに、総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職(さんしょく)を置きました。新政府の最高官職であり政務を統括する

総裁には、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が就任しました。

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦争で旧幕府軍が敗れた直後の正月17日、新政府の参与大久保利通(おおくぼとしみち)は、総裁有栖川宮熾仁親王に、大坂遷都を建言しました。

大久保は、「未曾有の大変革にあたり、天皇のいらっしゃる所を『雲上(うんじょう)』、公卿を『雲上人(うんじょうびと)』と呼んでいるように、ごく一部の公卿以外は天皇と接する

こともできずに『上下隔絶(じょうげかくぜつ)』している弊習を打開しなければならない。天皇は、西欧の君主のように、国中を視察し、民を大切に育て、広く民に敬愛される君主と

なられることが重要である。そのためには、遷都が必要であり、遷都の地としては、他国との外交、富国強兵、軍備増強等において、地形的に『浪華(なにわ)』、つまり、

大坂が適当である。」と主張しました。

このとき、大坂遷都論は採用されませんでしたが、同年3月には天皇の大坂行幸が実現します。この行幸の際、密かに三種の神器の天照大神の御霊代八咫鏡(やたのかがみ)を連なって

慶応4年(1869)3月22日(九月明治と改元)明治天皇大阪行幸された折、盛泉寺本堂前に賢所を奉安されました。(四月十一日江戸城無血開城が実現し大阪遷都論は、

まぼろしと化し、江戸遷都となりました)

盛泉寺本堂前には、「内侍所奉安所址」の碑が建っています。

 

 

  

盛泉寺から「難宗寺」に向かいます。

 

難宗寺は、文明7年(1475)に越前の吉崎を退出した浄土真宗の僧・蓮如上人が、文明9年(1477)に創立した守口御坊がはじまりと伝えられ、慶長16年(1611)には本願寺掛所に昇格し、「西御坊」と呼ばれるようになっています。その後、元和元年(1615)の兵火などを経て、文化7年(1810)に再建されたのが現在の本堂です。

 

 

難宗寺のイチョウは、大阪府天然記念物に指定されており、樹高約25m、枝張は、南へ約15m、北へ約13mで樹齢約500年と言われています。

  

大塩平八郎ゆかりの書院跡(白井家屋敷跡)

白井家の隠居所で、江戸時代の陽明学者で大坂東町奉行所の与力大塩平八郎が、守口近郷の農民に陽明学を講義したところです。

 当主の白井孝右衛門は、大塩の私塾洗心洞の有力門人として経済的な支援を行い、大塩平八郎の乱【大坂騒動、天保8年(1837年)2月19日】に参加しましたが、わずか1日で鎮圧され、

後に一家には処罰が下されました。 参考 大塩平八郎の乱 - Wikipedia

 

大塩平八郎ゆかりの書院(白井家屋敷跡)周辺が守口宿の本陣でした。

東海道57番目の宿場町「守口宿」の町並みは、南北約1,3km、そのうち約720mが文禄堤の上にあり、今も残る文禄堤の町筋に守口宿の面影を見ることができます。

人口764人(男370人、女394人)、家数177軒、本陣1,旅籠27軒、問屋場1。(天保14年(1843)東海道宿村大概帳)

守口の地名の謂れは、森口周辺から生駒山地へ広がっていたげんせいりんの入口の意から生じた「森口」が石山本願寺/大阪城との関係で軍事的意味の「守口」に変化したそうです。

 

 

 

街道沿いには、古民家や近代的なマンションと新旧の建物が混在しています。

 

虫籠窓(むしこまど)・・・武士を上から見下ろすことは禁じられており、本格的な二階は、建築されず、高さを抑えた中二階が主に物置部屋などとして利用されました。

通りに面した所には、採光と風通しの為、虫籠窓が設けられました。大名行列などには、この虫籠窓の格子から見学していたようです。

 

本町橋まで戻ってきました。

 

                                                                     (後編につづく)

 

 


京街道「枚方光善寺~守口宿」(大阪府枚方市~守口市)

2022-11-27 21:44:45 | 京街道(東海道57次)

11/23~25 旅行会社の格安ツアーがあり、このツアーで途中になっていた京街道「光善寺~高麗橋」を歩きました。

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11/23(水)博多発7:54の「のぞみ」で大阪へ。ホテルに荷物を預け京阪電車で前回ゴールの枚方光善寺駅へ。

12:00 光善寺駅から前回ゴールした府道13号線に向かいます。空を見るといつ雨が降り出すかもしれません。(一応ポンチョと傘を用意しています)

  

淀川の河川道に来ました。ここから寝屋川迄河川道を歩きます。

 

茨田堤の碑

『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが次のように記載されています。

この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をどうしてもつなぐことができません。天皇はたいへん心配していたところ、ある日夢の中に神が現れて「武蔵人強頸(こわくび)と

河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。

さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。
しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら

偽りの神だから、私は人柱になることはできない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに浮き上がり、

下流へ流れて行ってしまいました。

衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。

仁徳天皇13年(『日本書紀』)には茨田屯倉(まんだのみやけ)が設けられ、この地域一帯が朝廷によって管理・運営されたことが記されています。

『古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。秦人とは渡来人のことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、

完成することができたのでしょう。

淀川のそばに「太間」と書いて「たいま」と読む地名があります。これは「絶間」がなまってこのようによばれるようになったといわれています。当地では、この難工事の物語が伝説として

語り継がれています。昭和49年(1974年)に「淀川百年記念」事業に関連して淀川堤防上に碑が建てられました。淀川の方を向いた表面に「茨田堤」と彫られ、その脇には

「まむたのつつみ」と添え書きされています。(寝屋川市HPより)

 

 

淀川新橋を越えると左側に大きな銀杏の木があります。27日の日曜日には、茨田イチョウ祭りがあるそうです。

そういえば、国道沿いにもイチョウ並木があります。

  

大イチョウの所には、「茨田(まった)樋之碑」があります。

 

明治38年(1905)に完成した茨田(まった)樋は、幹線水路が運用され始める昭和5年(1930)まで利用されました。この碑は、茨田樋を記念して跡地に建てられました。

現在は、遺構が整備され、茨田樋遺跡水辺公園として憩いの場所になっています。

尚、この辺りの地名は「点野(しめの)」といい、難解地名ですね。

  

   

鳥飼仁和寺大橋のガード下を通り国道1号線仁和寺交差点に出ます。

仁和寺というと京都の仁和寺(にんなじ)を思い起こしますが、ここ寝屋川市の仁和寺(にわじ)は、京都仁和寺(にんなじ)の所領であったことに由来すると考えられます。

鎌倉時代初期に後鳥羽・後高倉院の生母であった七条院が京都仁和寺殿を管領(寺務を司る権利を所有)したことによって、仁和寺庄も七条院領となり、のち地頭職は室町院(暉子内親王)へ

寄進され、持明院統の所領になりました。

この時の『室町院御領目録』を見ると、仁和寺庄は上仁和寺庄・下仁和寺庄の二つに分かれており、以後上下ニ庄として史料にあらわれます。

南北朝時代に入って、持明院統の花園上皇は暦応5年(1342年)に妙心寺を再興したとき、上仁和寺庄と下仁和寺庄の地頭職を妙心寺に寄進しました。しかし、応永6年(1399年)大内義弘が

将軍足利義満に謀反(むほん)を起こし(応永の乱)、敗死した大内義弘と妙心寺の拙堂(せつどう)が親しかったために妙心寺領は室町幕府に没収され、事実上の幕府御料所となり、

いわゆる「河内十七カ所」の一部となっていきました。(寝屋川市HPより)

 

 

佐太天満宮あたりが、寝屋川市と守口市の境界です。

佐太天満宮の祭神は菅原道真です。「佐太天神宮記」によると、現在当社がある場所は菅原道真の領地であり、道真が昌泰4年(901)の昌泰の変で失脚して大宰府に左遷されることに

なった際にこの地に立ち寄り、しばらく舟をつないで滞在していたが、出立に際して自身の木像と自画像を残したとされている。また、一説によると道真が当地に滞在したのは宇多上皇の

計らいにより無実の証明が為されることを期待して、都からの沙汰を待っていたためとされており、この「沙汰」が転訛して地名が佐太になったとされる。道真没後50年後の天歴年間に、

道真を慕う里人によって道真が残した木像をご神体として祠を建てたのが当社の始まりであるとする。(wikipediaより)

また、佐太は間宿(あいのしゅく)でもありました。江戸時代枚方宿と守口宿の間の休憩所としての「間宿・佐太」が幕府に認められ、宿泊は禁じられていましたが旅人の憩いの地として

賑わいました。

  

来迎寺(らいこうじ)は、融通念仏宗中興法明上人の弟子・実尊上人によって、正平2年(1347)佐太派の本山として守口市来迎町に建立されました。

本尊は天筆如来(阿弥陀・観音・勢至の三尊のみ影)です。同寺の独特の相続法により、300年余の中で住職が変わるたびに26回も所在地を移していましたが、

延宝6年(1678)に現在の佐太中町に移転し、現在に至ります。来迎寺に伝わる「絹本著色八幡曼荼羅図」は国指定重要文化財で、他に境内裏の「石造十三重塔」は大阪府指定有形文化財

です。また、寛保3年(1743)に寺に現れた女性の幽霊の足跡がついた座具もあり、お寺の法要に合わせて公開されています。後村上天皇の勅願所であり、今なお大方丈に「玉座」が

残されています。

※幽霊の足跡の詳細はこちら→ 江戸の幽霊、大阪まで歩いた? 守口の寺、功徳伝える足跡: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 

來迎寺の横には、「佐太陣屋跡」があります。築城年代は定かではないが貞享年間(1684年〜1688年)に永井伊賀守直敬によって築かれたと云われる。摂津・河内における一万二千石の

所領を管理するための出張陣屋で、枚方の渚から佐太へ移し、明治に至るまで存続した。

永井直敬の家系は最終的に美濃国加納藩となった永井家で、直敬の父尚庸が二万石を分与され諸候に列したことに始まる。尚庸は奏者番、若年寄などを務め、寛文10年(1670年)には

三万石に加増された。

延宝5年(1677年)二代永井直敬が家督を継ぐと度重なる転封となる。貞享4年(1687年)下野国へ三万石で転封、元禄15年(1702年)には三千石を加増され播磨国赤穂へ三万三千石で転封、

宝永3年(1706年)信濃国飯山へ転封、宝永8年(1711年)武蔵国岩槻へ転封となる。宝暦6年(1756年)永井直陳のとき美濃国加納に転封となり、以後明治まで続いた。

 

15:30ごろ佐太陣屋を出た所から急に雷が鳴り始め、どこか避難する所を探します。ちょうど高架橋の下がありましたのでここに避難します。

雷は,何回も近くでゴロゴロ鳴っています。雨も降り始めました。

30分ぐらい待ち、雷も遠くなりましたのでポンチョと傘をさしてリスタートします。

 

鳥飼大橋には、一般道路と大坂モノレールが走っています。大阪モノレールは、門真市から大阪空港(伊丹)間21,2kmを結んでいます。

 

 

まだ16時過ぎなのに辺りが暗くなってきました。初めての地ですので暗くなったらわからなくなりますので帰路につきます。

 

17:00ちょうどに京阪守口市駅に到着しました。

スタート時にセットしていたGPSは、扱い方が悪かったのか、記録していませんでした。

  

※守口市のマンホールは、市のマスコット「もり吉」とサツキ、守口大根が描かれています。

 

 


京街道(東海道57次)4日目「枚方宿~光善寺駅」(大阪府枚方市)

2022-06-21 18:36:47 | 京街道(東海道57次)

5/20(金)京街道4日目。今日は、午後から若狭・三方五湖ツーデーマーチ参加の為、街道歩き終了後、福井県敦賀市に移動します。

9:00枚方市駅に到着。駅にある観光案内所で枚方市観光案内のパンフを受け取ります。

先ず最初に行ったのが、「一乗寺」説明文によると、「当山は寺伝によると元は山城の洛北一乗寺村にあった天台宗の寺院で(現在は浄土宗)、現在地が平安京の裏鬼門に当るところから移され、

伝教大師最澄が阿弥陀仏と日吉大神の像を刻し、王城鎮護の寺社と定めた事に始まるという。弘法大師も役行者、弁財天をの2像を安置、天下鎮護の祈祷をしたと伝える。
 1204年(元久元年)法然の高弟で浄土宗鎮西派の祖聖光房弁長が、南海地方に念仏行脚に出る途中風雨を避けて当寺に留錫し、六字名号を残した。これが寺宝の『名残りの名号』であると

伝える。応仁の乱の戦火で寺は焼失するが、枚方城主の本多政康が1600年(慶長5年)本堂及び日吉神社を再建。知恩院の雄譽雲厳を請じ開堂供養し、その高弟光譽素覚を中興開山とした。
 一乗寺の大檀那であった本多氏は百済王氏の末裔を称し、豊臣秀吉に仕えたが、大坂夏の陣のとき、徳川方に攻められ、枚方城は落城、政康は戦死し、本多氏は没落した。
 寺社は徳川氏に没収されたが、その後本多氏遺臣の尽力で復興されるも、往時の勢いは失われた。
なお、政康の娘(乙御前:おとごぜん)が秀吉の愛妾であった関係で、当寺には豊臣家ゆかりの品が伝わっているとのことである。」

また、この寺には、「鈴見の松」という鶴の恩返しの伝説があります。鈴見の松の伝説はこちらです。→枚方の民話 第1話『鈴見の松と別子山の物語』 | 枚方南支部 WP (shoai.ne.jp)

 

一乗寺から万年寺山を登り、「御茶屋御殿」に向かいます。

御茶屋御殿は、案内板によると

京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄3年(1596)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶屋」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内善正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。

 京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間しばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。

 江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永9年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「台茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。「河内鑑名所記」には、桧皮葺と思われる三棟の建物が描かれている。

 その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起った火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。

  

 

 

御茶屋御殿跡を下りてくると「移ろいの座」というのがありました。「台座の中央に刻まれた溝は夏至の日のお日様の通り道です。太陽のエネルギーが最も力強く感じられる夏至の日は季節の指標として 古来重要視され人々が集うイベントの日でもありました。『移ろいの座』は、その故事に因み、癒しの里にも市民が集い、プロジェクトの活動が世代を超え継承されていくようにとの

願いを込めています。」

 

京街道に戻ってきました。

  

京街道から「淀川資料館」に向かいます。説明文では、古代、大阪のほとんどは海でした。長い年月をかけて、琵琶湖から注がれる淀の流れが土砂を運び、大阪の地を作ったのです。

歴史の中で、幾度も姿形を変えていった淀川。理由の半分は、自然の猛威の歴史。そしてもう半分は、人と淀川との闘いの歴史です。
淀川資料館には、淀川と対峙し、歴史と文化を築いてきた人々が残した、貴重な本物の資料があるのです。ここへ来て、彼らの足跡に思いを馳せれば知られざる淀川の歴史に一歩近づくことが

できるはずです。

館内には、淀川の歴史、淀川の工事に尽力された方々の資料などが展示されています。

 

  

船番所跡は、江戸時代中期以降、三十石には、「過書船」と「伏見船」の2つがあり、それぞれの番所があり、乗客や荷物をチェックしました。

通行手形を持つ特権川船のことを過書船と称し、享保初年(1716)には、乗客を主とした30石船671艘、貨物運送を主とした20石船507艘が、大阪と京・伏見の間を航行していました。

 一方、過書船の営業独占に対抗して、元禄11年(1698)に伏見船の営業が認められたため、両者は、激しく競合しました。泥町村には、過書船・伏見船の船番所がそれぞれ設置され、

淀川を上下する船を監視しました。

 30石船は船頭4人、乗客定員28人で伏見から大阪への下りは半日か半夜、上りは、竿をさしたり、綱を曳き上げるため、1日か1晩を要しました。

 船客相手に飲食物を商う煮売茶舟(にうりちゃぶね)は、「餅くらわんか、酒くらわんか」という売り言葉から俗に「くらわんか舟」と呼ばれました。

昔から、淀川は大阪と京都を結ぶ交通の大動脈として、多くの舟が上下していましたが、大阪夏の陣(1615)の時に徳川方に協力した功によって、淀川を上下する舟に、食物を売る特権を与えられたのがくらわんか舟で、後に地の利によって、枚方の方が繁栄したようです。

発祥の地は、高槻市桂本といわれ、「柱本茶船記録」に書き残されています。1615年の夏の陣で徳川方に協力した報奨として、兵量輸送地であった高槻市桂本に、徳川幕府から商い船の特権が

付与されました。その桂本の淀川堤防上には、くらわんか舟発祥の地としての碑が建てられています。

尚、「江戸っ子だってね、食いねえ寿司くいねえ」のセリフで有名な廣澤虎造の浪曲「森の石松三十石船」は、この三十石船を題材にしています。

西見附は、枚方宿の西側にあります。江戸へ向かう参勤交代の大名が通る時は、まずここに一報が届きました。

 

西見附から先に進みます。このあたり国道170号線と府道13号線が交差しており迷路みたいになっています。地図では「枚方大橋南詰」になっているのですが、この南詰の信号が

わからない。近くの人に聞いてやっとわかりました。

 

国道と府道が交差する前の橋から「水面廻廊」を通っていけばよかったのに・・・・

水面廻廊とは、昭和初期に農業用水路として造られたもので、寝屋川市界まで2.8kmの長さがあります。

枚方市では、この水路を出口雨水幹線として改修するのを機会に、豊かなうるおいのある街づくりの一環として、「水面回廊」と名付けて、地域の状況に応じた整備を進め、

水に親しめ安らぎのある水辺空間を創造していきます。枚方市の桜の名所にもなっています。   

   

伊加賀小学校を通り、「光善寺」へ。

出口御坊光善寺(でぐちごぼうこうぜんじ)は、蓮如上人開基の寺であります。
 文明七年(1475)八月二十一日に福井県の吉崎を退去され舟にて小浜に着かれ、丹波・摂津を抜けて九月五日に河内国茨田郡中振の郷出口村に移られました。御厨石見入道光善が草庵を建ててお迎えされました。出口は京都と大阪の中間地点で淀川の南岸に接し、水陸交通の便利な土地柄でした。当時この地には二丁四方(一万四千四百坪)の大きな池があり、それを埋め立てて諸堂を建立されましたので、山号を淵埋山(えんまいざん)と名づけられました。
 その池は今も小さく残され、石川丈山作という光善寺庭園の一部となっています。
 また池の周囲には梓(はり)の木「現在の植物名-さいかち」がよく茂っていましたので、人びとは光善寺のことを「梓原堂(しんげんどう)」とも呼んでいたと伝えられています。今も光善寺庭園の片隅に梓の大木が残っていて、大阪府の天然記念物に指定されています。
 池に面した書院は五百二十数年前の蓮如上人ご在住当時の姿で残されています。石川丈山は、この書院を萬象亭と名づけました。当時は池のすぐそばを淀川が流れていて、三十石船の上り下りする情景や彼方に見える天王山の風景を借景に取り入れた風流な眺めでしたが、今は淀川の堤防が五百米以上も西へ移り、その風情は昔話となりました。
 天文三年(1534)火災にあい、一時は淀川の向こう側の摂津国島下郡鳥飼や、河内国茨田郡大場等に移転していましたが、慶長年間に再び出口に還って再建されました。
 現在は敷地約三千坪で、本堂は約三百六十年前の建設になるものです。間口は十一間、奥行は八間の大きさです。(光善寺HPより)

 

光善寺から再スタート。このあたりの地図は用意していますが、目印がなく、今、自分がどこにいるかわからなくなりました。

番地を頼りに歩きますが、番地が書いてある所と書いてない所があり、この道で合っているかどうか不安でした。

蓮如上人御田地、腰掛石・・・福井県吉崎から蓮如上人が最初に身を寄せられた「箕屋」があった所です。上人は、このこの石に腰掛けて説教されたそうです。

御田地とは、お上から預かった田畑ですが、ここでは説教の場所です。

 

蹉跎(さだ)神社の御旅所があります。蹉跎神社は、ここから約1、5km先にあります。

延喜元年(901)菅原道真が大宰府へ左遷される途中、山の上で休憩し、都の方を望んで名残を措しんだ。その場所を「菅相塚」という(現寝屋川市菅相塚町)。

その後を娘の苅屋姫が追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。ここから、その山を「蹉跎山」と呼ぶようになった。大宰府でその話を聴いた道真は、

三尺二寸の自身の木像を作って娘に送ったという。天歴5年(951年)、蹉跎山に社殿を造営して木像を祀り、近隣25箇村の産土神としたのが当社の始まりと社伝に伝える。(Wikipediaより)

 

  

時刻も12時半を廻りました。今日は、若狭・三方五湖ツーデーマーチ参加の為、大阪発14時半ぐらいの特急を予約していますので今回は、ここまでとします。

次回こそ、大阪・高麗橋迄完歩したいと思っています。

 

 


京街道(東海道57次)を歩く3日目(その2)「御殿山~枚方宿」(大阪府枚方市)

2022-06-18 07:43:59 | 京街道(東海道57次)

(前回号より続き) 御殿山から街道に戻ってきます。

カササギ橋の所には、枚方なぎさ高校、関西医科大学があります。

 

天の川に架かる「鵲(かささぎ)橋」を渡ります。天の川、カササギ・・・・何か七夕伝説みたいですね。

枚方市から交野市にかけての一帯には、七夕伝説が今も残されています。橋のモニュメントには、カササギが飛ぶ姿をモチーフにしています。

鵲(かささぎ)橋は、七夕の夜、彦星と織姫が会う時、カササギが翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋のことです。男女の契りの橋渡しにも使われます。

大伴家持の百人一首「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける

意味は、七夕の日、牽牛と織姫を逢わせるために鵲が翼を連ねて渡したという橋ーー天の川にちらばる霜のようにさえざえとした星の群れの白さを見ていると、

夜もふけたのだなあと感じてしまうよ。

カササギは、九州北部(特に佐賀県)でよく観察されます。実際我が家の家の前の電柱に巣を作っていました。北部九州では、別名「カチガラス」とも呼んでいます。

 

  

 

天の川を渡り左折すると「枚方宿東見附」です。

 

 

枚方宿(東海道五十六次)の規模の大きさは、京街道の中でも屈指で東見附から西見附まで約1,5kmに及びます。淀川を進む三十石船の乗客に対して、「餅くらわんか、酒くらわんか」と

売りつけに来た小舟は、「くらわんか舟」と呼ばれこの辺りで発展しました。宿の規模は、人口1549人、家数378軒、本陣1,旅籠69軒、でした。

話は、それますが、私、学校を卒業して最初に配属されたのが大阪でした。寮は枚岡(ひらおか)にあり、何も知らない私は、「まいおか」と呼んでいました。(笑)

これと同じ「枚方(ひらかた)」のことを「まいかた」と呼んでいました。「枚」を「ひら」と呼ぶなんて20歳そこそこの私には初めての経験でした。

ここに「枚方」の地名の由来を調べてみました。はっきりとしたことは、わからないということでしたが、候補として、①枚方=「比攞哿駄」説 日本書紀継体天皇24年10月の条に

「比攞哿駄(ひらかた)や笛の吹き上がる近江のや毛野の若子笛吹きあがる」とあり、比攞哿駄が枚方になった説。

②平潟説 河内湖にそそいでいた為、あちこちに潟が入り組んでいた。潟の周囲は平らな入江。③白肩説 神武天皇東征で近畿への上陸地点が白肩之津であった。

話を戻します。

小野平右衛門邸・・・屋号八幡屋。醤油業を営む豪商で岡新町村の年寄・問屋役人を務めました。揚げ見世などが残る幕末期の建物。

 

旧枚方の町は、岡新町、岡、三矢、泥町に分かれていました。

 

枚方橋 現在は暗渠となっていますが、かってここには安居川(中川)が流れていました。江戸時代の枚方宿は、南北2つの「枚方ノ橋」があり、明治時代以降、北の橋は鵲橋、南の橋は枚方橋

と呼ばれるようになりました。現在も「枚方橋」と刻まれた欄干の一部が残っています。

  

宗左の辻 枚方宿は遊郭も栄えたようで「送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と詠われ遊郭から客が帰るときに遊女が宗佐の辻まで見送ったそうです。

宗左とは、江戸時代製油業を営んでいた角野宗左(かどのそうざ)のことで、宗左が住んでいた辻は、京街道と磐船街道の分岐点になっていました。

現在の宗佐の辻には京街道と磐船街道の追分を示す文政9年(1826年)建立の追分道標があり、正面に「右大坂みち」、側面に「願主大阪」とあり和泉屋、近江屋、錦屋、小豆嶋屋と、

刻まれています。

  

ビオルネの所に来ました。ここが枚方で一番の繁華街かな?ビオルネは、フランス語のVIE ORNE(生活を彩る)という意味でショッピングセンターとマンションの複合施設です。

枚方は、東海道五十六番目の宿場ということで第2日曜日には、五六市が開かれるそうです。

  

旧岡村に入ります。この地域には、古い商家や旧家が残っています。京街道を山科から歩いてきましたが、このような旧街道の姿は、初めて見ました。

それだけ枚方市が保存に力を入れていることでしょうね。

  

旧街道の中に「常夜灯」がありました。嘉永7年(1854)、能勢妙見宮に枚方宿の安全を祈願しました。「妙見宮」、「天下泰平」、「驛内安全」と記されています。

  

ここから旧三矢村に入ります。高札場は、幕府のお触書などを人々に知らせるための掲示板みたいなものです。この場所は札の辻と呼ばれていました。

  

三矢公園の中にあるのが枚方宿本陣跡です。江戸時代初期は、宇野新右衛門が、享保2年から明治初期までは、池尻善兵衛が経営していました。天保5年(1785)枚方宿が幕府に提出した

書類によると間口20間、奥行き約24間の敷地に建坪215坪の立派な建物がたっていたようです。

枚方宿の常連は、紀州候(6代藩主宗直から。八代将軍吉宗も紀州藩主時代にはここに宿泊しました)、大阪加番大名、長崎奉行、松江藩、高松藩、岸和田藩などです。

慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見での敗北によって幕府の影響力は衰えます。すかさず3月に明治新政府は、明治天皇の大坂行業を企て、この本陣が休息所にあてられました。

明治3年(1870)に本陣は廃止されます。明治21年(1888)7月には、浄念寺にあった茨田、交野、讃良郡役所がここに移ってきました。明治29年統廃合により北河内郡役所になりました。

  

  

 

明治30年代の浄念寺前の写真ですが、建物は変わっていますが、道幅は明治時代と同じですね。

  

旧木南邸 屋号「田葉粉屋」庄屋と問屋役人を兼ねた木南家の屋敷。虫籠窓や出格子の伝統的町家で敷地内に4棟の土蔵があります。

 

 

鍵屋:江戸時代、淀川往来の船を待つことができる宿「船待ち宿」を営んでいたのが「鍵屋」です。「鍵屋浦には碇はいらぬ、三味や太鼓で船とめる」と歌われました。

近代以降、「鍵屋」は、料亭、料理旅館として平成9年(1997)まで営業を続けていました。

 

鍵屋の本館は、市立枚方宿鍵屋資料館です。入館料200円を払い館内へ。

 

くらわんか舟

 

朝鮮通信使や琉球使節もこの淀川を通行しました。

享保の象は享保14年(1729)長崎を出発し、4月24日にここ枚方宿に宿泊しました。象を安全に通行させるため、道筋にはさまざまな御触れが出されました。

●川越え 馬が渡れる程度の川は、象も歩いて渡れるので浅瀬を案内すること。歩いて渡れない川は、船を用意すること。

●坂道 雨天の場合、坂道には、滑らないように砂をまくこと。

●路面 石の多い所は取り除くこと。●牛馬犬猫 象が驚いて暴れるので道路から遠ざけておくこと。

●看板提灯 道路の障害物は撤去すること。●見物人 近寄らず騒がないよう注意すること。

当番になった宿は、大変だったでしょうね。

 

 

 

枚方には、私の従妹が住んでいます。連絡すると迎えに来てくれ、従妹の自宅にお邪魔しました。3年ぶりの再会でした。

この日の残りの日程は、明日に持ち越しました。

 

 


京街道(東海道57次)を歩く3日目(その1)「石清水八幡宮~御殿山」(京都府八幡市~大阪府枚方市)

2022-06-15 13:55:51 | 京街道(東海道57次)

(前日からの続き)石清水八幡宮駅からケーブルに乗り石清水八幡宮に向かいます。石清水八幡宮は、男山の山頂に位置しています。

 

ケーブルを下り山道を歩きます。

  

男山山上の石清水八幡宮境内にエジソン記念碑が建てられています。これは、発明王トーマス・アルバ・エジソンが八幡の竹を使って白熱電球の実用化に成功したことを記念し、建立されたもの

です。エジソンは白熱電球の点灯時間を飛躍的に延ばすため、動物の爪や植物の繊維など、ありとあらゆる材料を使って実験を繰り返していました。その材料は6,000種を数えたといわれています。

そんな折り、研究室にあった扇に使われていた竹を使って実験すると、思いのほか良い結果を得られたため、世界各国に最良の竹を求めることになりました。
明治13年(1880)夏、エジソンの特命を受け、日本にやって来た助手のウィリアム・H・ムーアは、2代京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」と紹介され、ムーアによって

男山付近で採取された真竹がエジソンの元へ送られました。結果は驚くべきもので、約1,000時間も明かりを灯し続けました。
以来、男山の竹はセルロースのフィラメントにとってかわる1894年までの約10年間、「八幡竹(はちまんだけ)」の名で、エジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの

白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けました。最初のエジソン記念碑は1934(昭和9年)に石清水八幡宮境内に建立されましたが、1958年(昭和33年)に現在の場所に移転され、

1984年(昭和59年)にはデザインを一新し再建されました。

 

 

石清水八幡宮は、貞観元年(859)に奈良の大安寺の僧であった行教が宇佐八幡(大分県)のお告げを受けて平安京の裏鬼門 男山に勧請したのに始まる。

平将門・藤原純友による承平天慶の乱(935 〜 941)の際、朝廷からの勅使が当社へ祈願したところ速やかに平定されたことから国家鎮護の信仰を集めた。

皇室からの崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ国家第二位の宗廟に位置づけられ、天元二年(979)の円融天皇に始まる歴代天皇の行幸は現在に至るまで200回以上を数える。

弓矢の神、戦勝の神として源氏の氏神となったことから武家からも信仰され、織田信長、豊臣秀吉・秀頼も社殿や回廊の修復、再建に尽力している。

現在の本殿も徳川家光によって建てられたもの。

明治維新が始まると官幣大社に列せられ男山八幡宮に改称されたが、由緒ある「石清水」の号を守るべく大正七年(1918)に石清水八幡宮となった。

この「石清水」は境内の石清水社で湧出する冬に凍らず夏に枯れることがない霊泉に由来し、当社創建以前に遡る長い歴史をもつ。

宇佐八幡宮、石清水八幡宮、筥崎八幡宮(福岡県)が日本三大八幡です。※最近は、三大八幡に筥崎宮の代わりに鶴岡八幡宮(神奈川県)を入れる方もありますが、

創建は、筥崎宮が延喜21年(921年)創建、鶴岡宮が治承4年(1180年)創建ですので筥崎宮の方が古いです。

 

折角ですのでご朱印をいただきました。

 

帰りは、ケーブルを利用せず歩いて下ります。展望台の所には、谷崎潤一郎の文学碑があります。

 

展望台からの眺めです。木津川、宇治川、桂川の三川合流が見れます。

私が5年ぐらい前西国街道を歩き、途中天王山に登った時もこの三川合流が見られました。

5月19日(木)京街道3日目。大阪駅から京阪電鉄を利用し石清水八幡宮駅には、9:20到着。ここから枚方宿に向け歩き始めます。

やわた走井餅は、大津宿にも描かれた大津名物走井餅は、明治43年(1910)6代井口市郎右衛門の四男嘉四郎によって名水で名高い石清水の麓へ引き継がれ石清水八幡宮のお参りに欠かせない

やわた名物と言われています。

 

5月19日(木)大阪駅から京阪電車に乗り継いで前日ゴールの石清水八幡宮駅に着きました。今日はここから枚方宿を目指して歩きます。

9:30スタート

 

しばらく歩くと「二宮忠八飛行器工作所跡」の看板があります。二宮忠八は、「飛行原理」を世界の誰よりも早く発見しました。彼の「玉虫型飛行器」の製作を始めた場所がこの地です。

明治22年(1889)烏の翼さばきを見て「飛行原理」を発見。明治24年(1891)烏型飛行機の飛行実験に成功。明治26年(1893)「玉虫型飛行機」の模型を完成。

明治33年(1900)石油発動機があった精米所の当地を買い取り飛行器製作を開始。この付近の木津川には広い砂原があり、飛行機の完成時に試験飛行を予定していました。

明治36年(1903)アメリカのライト兄弟による有人飛行実験の成功を知り、製作を断念しました。

若し、ライト兄弟より先に飛行実験に成功していたら全世界に名が知れ渡っていたでしょうね。彼は大正4年(1915)に航空安全と航空業界の発展を祈願し飛行神社を創建しました。

  

橋本駅周辺に来ると、渡し場の道標があります。

  

橋本駅の近くには、古い民家が立ち並んでいます。ちょっと怪しげな佇まいです。

橋本は、淀宿と枚方宿の中間に位置。橋本の名前は、日本三古橋の1つで、行基が725年(神亀2年)に淀川に架けた山崎橋(山城国山﨑〜橋本間)の最寄りであったことに由来します。

元々、橋本は石清水八幡宮の参拝者が宿泊する場所として賑わっていました。江戸時代(1619年)に京街道の宿場が整備されてからは、淀宿と枚方宿の中間にある宿場として栄えたとのこと。

明治10年(1877)橋本に遊郭が設置されます。昭和5年(1930)に刊行された「全国遊郭案内」では、橋本遊郭が「八幡町遊郭」として次のように紹介されています。

「夜間の不夜城、川岸に弦歌のさんざめくあたりは、実に別世界の感じがある」という表現から遊郭として栄えていた当時の様子が伝わってきます。(千里ニュータウンスケッチより抜粋)

  

マップを見ると、大阪府と京都府の境界がこのあたりですが、看板もありません。勝手にスーパーマツモト付近と決めつけました。

 

街道は、大阪府枚方市に入りました。歩いていると「国史跡楠葉(くずは)台場跡」が見えてきます。

 

①楠葉台場は、京都守護職を務めた会津藩松平容保の建白により江戸幕府が築造し、慶応元年(1865)に完成した砲台場です。「河州交野郡楠葉村開門絵図一分計」という設計図によると、

台場南正面(大坂側)は、西洋の築城様式である「稜堡(りょうほ)式」が採用され、3基の砲台や高い土塁、深い堀などが設けられました。河川台場としては、日本で唯一遺構が残っている

ことなどから平成23年(2011)国の史跡に指定されました。➁造られた目的は、幕末期、開国を求める異国船が大阪湾にも入ってきたので、淀川を遡り京都へ侵入するのを防ぐために築造

されたとされていますが、京都と大坂を結ぶ京街道のルートを曲げて台場内部を通過させていることから実際は、関所として尊王攘夷派らの京都侵入を取締ることにありました。

➂楠葉台場移り変り 慶応4年(1868)1月、大阪城から京都に向けて進軍した旧幕府軍は、鳥羽・伏見で新政府軍と衝突し戦闘が始まりましたが、旧幕府軍は、後退を続け、戦線を立て直す

ために橋本陣屋(八幡市)と楠葉台場に集結します。そこへ新政府軍に寝返った津藩(藤堂家)が淀川対岸の高浜から砲撃を加えたため、旧幕府軍も対戦したののの退路を断たれることを恐れ、

大坂へ落ち延びていきました。その後、台場は新政府軍が接収、跡地は民間へ売り渡され、明治末期には完全に姿を消したようです。

 

戊辰役橋本砲台跡の石碑は、京都の呉服商だった三宅清治郎が、父の安兵衛の遺志に基づき、昭和3年(1928)に建てたものをこの地に移設しています。

幕末期京都から見ると陣屋のあった橋本集落の南に台場があったことから「橋本台場」と呼ばれていました。

 

  

樟葉駅のくずはモールに来ました。ここで休憩します。ちょっとここで気づきましたが、駅名は「樟葉」で町の名は「楠葉」。

調べてみると枚方市と合併する前は、樟葉でした。合併後、楠葉が使われるようになりました。駅名は、樟葉村時代からですのでそのまま樟葉駅です。

  

  

休憩後再スタート。樟葉駅の裏側を歩きます。

 

 

楠葉橋を渡りすぐ左折します。牧野駅の踏切を渡り穂谷川沿いに歩きます。

前島街道の道標があります。前島街道は、京街道と高槻、西国街道を結びます。前島の渡し場跡は、牧野駅西側の淀川の堤防にあり、高槻の渡し場は前島町にあります。

  

阪今池公園の手前から右折しなくてはいけなかったのですが、間違えて直進しました。しばらくして間違っていることに気づき引き返します。

 

民家の庭先には、ブリキで作ったカエルがありました。何に使われるのでしょうか?

 

「三栗」という交差点で府道13号線に合流します。この「三栗」は、「めぐり」と呼ぶそうです。

三栗の先のスーパーで休憩します。あまりお腹はすいてはいませんが、スーパーでサンドウィッチを買いました。

 

休憩後再スタート。踏切を渡った所に「渚院跡」があります。説明文を見ると、

渚院は惟喬親王(844~897)の別荘だとされています。
惟喬親王は文徳天皇(850~858在位)の第一皇子でしたが、立太子争いにやぶれ憂いをはらはすため、しばしば渚の院に来たようです。
【伊勢物語】には親王一行が交野ヶ原に遊猟にかたものの、渚の院で観桜や酒宴に興じ、歌を詠むばかりであったと記してあります。
『世の中にたえて桜のなかりせは春の心はのどけからまし』業平
この歌はこの時同行した在原業平が『渚の桜ことにおもしろし』と詠んだものですが、失意のうちにあって『のどか』でない惟喬親王の心境が詠みこまれていると解釈されています。
渚の院跡には、観音寺が建立され十一面観音を本尊としていましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となり、本尊は渚の西福寺に移されました。
今に残る梵鐘は寛政8年(1796)の鋳造で、河内鋳物師として著名であった枚方村金屋田中家信の作です

  

下記写真は、御殿山です。御殿山の由来は、中世の渚城からその跡地に江戸初期に領主永井伊賀守がここに陣屋を構えたことによるそうです。

登ってみようかとも思いましたが、先を考え写真だけにしました。

 

枚方市まであと少しなんですが、私のGPSのバッテリーがなくなり、今回はここまでとします。

 


京街道東海道57次2日目「伏見~石清水八幡宮」(京都市~八幡市)

2022-06-02 17:39:32 | 京街道(東海道57次)

5月18日(水)京街道2日目。今日は、10:00に伏見桃山駅でJR九州ウォークで知り合った北九州出身「ポンさん」と待ち合わせています。

ポンさんとお会いするのは5年ぶりぐらいかな???  

  

キザクラカッパカントリー カッパのキャラクターでおなじみ、黄桜株式会社の複合施設。

社名の由来は、社長が黄色の桜(淡く緑色のかかった白い花を咲かせるサトザクラの一種)を好んだことから。

  

黄桜とカッパの関係は、1955年(昭和30)に清水崑さんのカッパをキャラクターとして採用。ほのぼのとした雰囲気の崑カッパと誰にでも親しめるおいしい日本酒=黄桜 の精神に通じる

ものを感じブランドキャラクターとしての使用を申し入れた。崑さんがお亡くなりになったあと、1974年(昭和49)小島功氏がカッパを引き継がれて現在に至ります。

私が子供の頃、ちょっと色気のあるこのCMにドキドキしていました。(笑)確か、楠としえさんが歌っていましたね。

  

 

月桂冠は、寛永14年(1637年)、初代・大倉治右衛門が京都府南部の笠置から、城下町として発展し宿場町・港町としてにぎわう伏見に出て来て創業。2017年で創業380年になりました。
屋号を「笠置屋」、酒銘を「玉の泉」として酒の製造と販売を始めました。創業から250年ほどは、主に地元の人たちや、旅人を相手に商う小さな酒屋でした。歴代当主は家業に精励し、

明治の躍進期を迎えました。
明治38年(1905年)、勝利と栄光のシンボル「月桂冠」を酒銘に採用。明治42年(1909年)に大倉酒造研究所(清酒メーカーとして初の研究所)を創設、酒造りに科学技術を導入し品質の向上を成し遂げました。樽詰全盛の時代、びん詰酒に力を入れ、防腐剤なしのびん詰を本格的に販売、明治43年(1910年)には駅販用の「コップ付き小びん」が鉄道で採用されました。
東京市場への進出、洋式簿記採用により経営を近代化するなど次々と新機軸を打ち出し、酒銘が全国に知られていきました。
昭和36年(1961年)には、日本で初めて年間を通じた酒造りを行なう四季醸造システムを備えた酒蔵を完成。その後開発・導入した新規技術の活用と共に、高品質で多彩な酒造りを行なうもとになっています。(伏見酒造組合HPより)

  

  

 

  

湊川より寺田屋に向かいます。

寺田屋事件慶応2年1月23日(1866年3月9日)、坂本龍馬と三吉慎蔵が伏見の寺田屋に止宿中、伏見奉行所の捕り方に踏み込まれる、寺田屋襲撃事件が起こりました。薩長同盟締結直後の出来事

でした。伏見の寺田屋は、江戸時代初めからの船宿といわれます。伏見は京と大坂を結ぶ舟運で栄え、大坂から淀川を遡ってきた過書船が伏見港で荷揚げし、荷物を高瀬船に積み替えて

京都市中へ運ぶ中継地点でした。また過書船の中で最小の三十石船は旅人専用の船で、定員28名、水夫4人が乗り込んで、伏見と大坂八軒家間を1日2回、昼と夜に運航していました。

その船着場となったのが伏見の京橋で、船宿や旅籠が39軒も建ち並んでいたといいます。中でも大きな宿が6つあり、その一つが寺田屋でした。

寺田屋は薩摩藩の指定宿でもあり、大いに繁盛しましたが、幕末に2度、大きな事件の舞台となります。一つが文久2年(1862)春の、薩摩藩国父・島津久光の率兵上京の際に起きた、薩摩藩士の

同士討ちである「寺田屋事件」です。9人の藩士がここで命を落としました。当時、寺田屋にはお登勢という名物女将がいて、亭主を失って後、一人で宿を取り仕切っていたといいます。

非常に面倒見がよく、捨て子を育てたり、志士たちを匿ったりもしていました。坂本龍馬もお登勢を「おかあ」と親しみを込めて呼んだといいます。

龍馬は元治元年(1864)8月頃、お登勢に頼んで、恋仲の娘を宿に置いてもらいました。娘の名は龍。京都の医者・楢崎将作の娘で、将作の死後、一家離散の憂き目にあっていたところ、龍馬と

知り合ったのです。義侠心に富むお登勢はこれを快諾しました。お龍は住み込みの仲居として寺田屋で働くことになり、やがて龍馬を絶体絶命の危機から救うことになります。

慶応2年(1866)1月22日、龍馬は京都で幕末史の一つのエポックとなる大仕事を成し遂げました。犬猿の仲の薩摩藩と長州藩の手を組ませる「薩長同盟」の締結です。翌23日、龍馬は伏見の寺田屋に

戻り、成功を祝って、彼の護衛役である長府藩士・三吉慎蔵やお龍らと、2階の部屋で八つ半(午前2時頃)まで酒を飲み語らっていました。

異変にまず気づいたのは、お龍です。小宴も果て、風呂に入ろうとしていたお龍が、窓の外を見ると、宿を多数の提灯が囲んでいます。即座に彼女は着物もまとわずに2階に駆け上がり、捕り方に

囲まれていることを龍馬に報せました。当時、龍馬は要注意人物として幕府方からマークされており、新選組や京都見廻組、奉行所から狙われていたのです。

ほどなく、奉行所の捕り方が寺田屋に踏み込み、龍馬らのいる2階の座敷に向かいました。灯りを消した座敷を、捕り方の龕灯提灯が照らす中、死闘が始まります。部屋に踏み込んできた捕り方に

龍馬は短銃で、三吉は手槍で応戦、龍馬は左手に負傷しました。捕り方にも死傷者が出て怯んだところ、二人は闇に紛れて脱出。目指したのは、1kmほど北にある薩摩藩伏見屋敷でした。

寺田屋の200m北西に芸州浅野屋敷があり、その西側は濠川に面しています。龍馬と三吉は川を泳いで渡り、対岸の材木小屋に身を潜めます。材木小屋にたどり着いた龍馬は、出血と疲労で身動きができなくなりました。三吉はすぐに発見されるだろうから、潔く切腹しようと言いますが、龍馬はそれを制し、一人で薩摩屋敷に向かうよう勧めます。三吉は承知し、龍馬を残して救援を求める

べく北上します。空が少し白み始めた頃、三吉がようやく薩摩屋敷に駆け込むと、薩摩屋敷にはすでに危急が伝わっており、救援の手勢が出発していました。伝えたのは、お龍です。

彼女は寺田屋の2階に駆け上がり、龍馬に急を告げると、自分の判断で外に飛び出し、薩摩屋敷に駆けていたのです。見事な機転でした。

薩摩屋敷では留守居役の大山彦八が救援態勢を整えて、2人の行方を捜しており、三吉から龍馬の居場所を聞くと、藩の旗を掲げた船を仕立てて川を下り、龍馬を救出します。ちなみに大山は

大山弥助(巌)の長兄で、西郷吉之助(隆盛)の従兄弟でした。薩摩屋敷に保護された龍馬は、数日間、お龍の手厚い看護を受けて過ごし、やがて西郷のはからいで、3人は京都の薩摩屋敷へと移ります。そしてこの事件をきっかけとして、龍馬は命の恩人のお龍を妻に娶りました。 一つ間違えば凄惨な事件になるところでしたが、龍馬とお龍を結びつけた幕末のエピソードとして、多くの人に

好まれる話です。(WEB歴史街道より)

  

寺田屋女将「お登勢」は、近江国大津で旅籠を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。18歳で、伏見南浜の船宿である寺田屋の第6代目主人寺田屋伊助の妻となり、一男二女をもうけた。

夫伊助は放蕩者で、経営を悪化させたので、お登勢が代わりに寺田屋の経営を取り仕切り、姑の面倒も見ていた。伊助は(酒を飲みすぎとも言われるが)病に倒れて35歳で若死にしたが、

お登勢はそのまま女将として家業を続けた。

寺田屋は薩摩藩の定宿であり、文久2年(1862)には寺田屋騒動が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった際には、お登勢もその場にいて3歳の次女を竈に隠して帳場を守った。事件後、薩摩藩からの

見舞金が入り、使用人に命じて即座に畳や襖を取り替えて、営業できるように整えたと言う。

お登勢は人の世話をすることを道楽としており、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊王攘夷派の志士たちを保護した。龍馬に託されたお龍は養女として扱い、お龍の母に仕送りまでしていた。

慶応2年1月24日(1866年3月10日)、寺田屋に滞在していた龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行によって襲撃され捕えられそうなったことがあり、薩摩藩と伏見奉行との間で軋轢が生れ、薩摩側のお登勢も幕府から目を付けられて、危険人物と見なされて牢に入れられかけたこともある。明治10年(1877年)、死去。墓所は寺田屋に程近い伏見松林院。

  

寺田屋の中に「三十石船」の説明文があります。ちょっと古いので書いてみます。

「三十石船とは、江戸時代に淀川を上下した客船です。乗客は先ず船宿に入り、それから乗船していました。寺田屋も有名な船宿の一つでこの付近には、多くの船宿が並んでいました。

淀川は、平安時代以来船運が盛んで、豊臣秀吉、次いで徳川家康が過書船の制度を定め、運賃や営業に対し税を課すなどの取締りを行い、伏見大手筋には過書船番所を設けていました。

船の大きさは、二十石積から三百石積で数百隻が運行し貨物や旅客を運んでいました。その内三十石船は長さ17m、幅2,5m、船頭4人定員28名の旅客専用船で、上りは一日又は一夜、

下りは半日又は半夜で伏見と大坂天満の間を運行しました。船賃は江戸中期で約五十文、途中、枚方に立ち寄ります。そこでは、船客に「くらわんか」と声をかけながら餅を売りにきました。

そうした風俗や船内の様子は落語や講談、浪曲で有名です。尚、三十石船は明治4年(1871)に廃船になりました。」

  

寺田屋でポンさんと別れ、街道に進みます。

 

この伏見は、「鳥羽・伏見の戦い」の激戦地となった所でもあります。戊辰戦争最初の内乱。王政復古後、新政府内部において、討幕派は公議政体派を抑え、前将軍徳川慶喜(よしのぶ)に

辞官納地を命じた。慶喜は大坂に退いて主導権回復を策したが、討幕派の関東での挑発、攪乱(かくらん)工作にのり、江戸薩摩藩邸を焼打ちし、1868年(慶応4)1月2日、旧幕側は、幕兵、会津・

桑名両藩兵ら1万5000人を北上させた。新政府も、薩摩・長州両藩兵ら4500人を出し、1月3日、両軍は、京都郊外の鳥羽と伏見で衝突し、数では3分の1に満たないものの、装備と士気に勝る

新政府軍が幕府軍を1日で退却させ、6日に戦いが終了し、慶喜は海路、江戸へ逃れた。この結果、新政府内での討幕派の主導権が確定し、2月9日、慶喜追討軍が東征に向かうこととなった。

 

和菓子「駿河屋」の横には、「電気鉄道発祥地」の碑があります。明治28年(1895)京都塩小路~伏見下油掛間を日本最初の市街電車が走りました。全長6,7kmの京都電気鉄道伏見線です。

この年の勧業博覧会へ船で淀川を経て入洛した見物客を運びました。

   

この碑の横には「駿河屋」です。550年以上昔の室町時代中期の創業です。紅羊羹が秀吉に取り入れました。また、紀州徳川家とも関連があります。

堺にも系列店(現在廃業)がありましたが、堺店が歌人与謝野晶子の実家です。

店内で笹結びという和菓子をいただきました。おいしかったです。

  

伏見土木事務所の所に「伏見長州藩邸跡」があります。

幕末の元治元(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。

その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。

福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。

  

三栖(みす)神社から濠川沿いに歩きます。

  

京阪の踏切を越えると「伏見港公園」があります。ここには、伏見港の歴史などが書かれています。

 

その突き当りが三栖閘門(こうもん)です。

伏見の街を水害から守るため、1922年(大正11年)、宇治川右岸の観月橋から三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。そのことに伴い1929年(昭和4年)、三栖閘門

(みすこうもん)が建設され、宇治川と濠川との4.5メートルほどの水位差を上下させて調整し船を行き来させていました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が

通航していたといいます。しかし昭和30年代に入って、陸上運輸の発達で貨物船による輸送が減少していき、1962年(昭和37年)、ついに淀川の舟運はなくなってしまいました。

さらに1964年(昭和39年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。(月桂冠HPより)

  

 

街道は、ここから宇治川沿いに歩くようになっています。東高瀬川の所から歩道用の橋を渡るように書かれていますが、何とこの橋「通行止め」です。

他に対岸に渡る橋もないので京阪の踏切迄戻ります。

  

 

踏切を渡りしばらく歩くと下野第二公園の所に「戊辰の役戦没者の碑」があります。

碑には、「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。それが日本人同族の争でもあり、いづれも正しいと信じたるままにそれぞれの道へと己達の誠を尽くした。然るに流れゆく一瞬の時差により

或る者は官軍となり或いは幕軍となって士道に殉じたのであります。ことに百年の歳月に関し、其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対すし、慰霊碑の建つるを見る。

在天の魂以て宴すべし。  中村勝五郎  昭和45年(1970)春」    正にその通りですね。個人で建立されたのかな?

  

街道は、淀宿に入ってきました。

この辺りは、京都競馬場です。付近の有料駐車場は、日、祭の駐車料金がすごく高いです。渋滞解除の為駐車料金を高くしたのかな?

淀小橋旧址は、淀小橋は宇治川に架けられた橋で,紀伊郡納所村と城下町淀を結んでいました。京都・伏見と大坂を結ぶ街道のかなめにあった重要な橋です。

淀小橋は淀川改良工事(明治30~同44年施工)の一環として明治36年に宇治川が付け替えられると,その流路からはずれ撤去されました。この石標は淀小橋の跡を示すものです。

  

納所(のうそ)交差点には、「唐人雁木旧址」があります。説明文によると、「かつてこの辺りは、京都と大坂とをつなぐ重要な港であり、付近は「淀津」と呼ばれた。

納所(のうそ)の地名の由来は、皇室に納める穀類の重要な倉庫があったためで、荷揚げで港は賑わっていた。この地は軍事的にも重要な地であった。そのため、戦国時代から城が築かれ、

近世の淀城と区別するため、「淀古城」と呼ばれている。

秀吉による伏見城の構築に際しての築堤工事により、巨椋池・宇治川などの流路や街道が整備された。結果、宇治川は納所と淀の間を流れ、桂川へ合流した。また納所には、桂川沿いに続く

「大坂街道」と宇治川の流路あとの「伏見街道」も通り、水陸の分岐点となっていたといえる。

宇治川には、淀小橋が架けられ、朝鮮通信使の上陸地にもなり、近くには桟橋や雁木(がんき)(上陸用の階段)も設置され、陸路で京都へ向かった。

明治時代以降、納所を取り巻く水系が大きく変化し、木津川付け替えに続き、明治時代中期には、宇治川も現流路に変わっていった。

  

興杼(よど)神社は、 淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。

祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。

この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、

延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。

元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。 (当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)(興杼神社HPより)

 

稲葉神社:淀城主を長く務めた稲葉家の初代稲葉正成公を御祭神としている。正成は戦国時代の武将で小早川秀秋の家臣だったが、関ヶ原の戦いで家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らさせたことで

有名。3代将軍家光の乳母で大奥を仕切った春日局(福)は正成の後添えだったが、福が家光の乳母になった時に離縁した。しかし、亡くなった前妻の産んだ嫡男ではなく福の産んだ正勝が後を継ぎ、

5代目の正知が享保8年(1723年)淀藩城主となり、以後幕末まで12代148年間稲葉家が藩主であった。

 

淀城跡:淀城は江戸時代に徳川秀忠の命により松平定綱が築いた城です。築城に際し、廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築したと伝えられています。

秀忠・家光父子が上洛の際にはこの城を宿舎としたそうです。江戸中期には春日局の子孫である稲葉正知が入城し、幕末まで稲葉氏が城主を務めました。幕末には老中である稲葉正邦も城主を

務めています。現在は淀城跡公園として整備されており、石垣や天守台が残っています。

 

淀駅前にある「水車のモニュメント」から京都競馬場方向に歩きます。

淀宿は、規模の大きな伏見宿と枚方宿に挟まれ、宿場町としては比較的小規模で、本陣や脇本陣はなく、旅籠が16軒あったのみとされています。この地は、宇治川、木津川、桂川の三川が

合流し淀川へと注ぎ込む三川合流の地であり、淀船の寄港地として栄えました。人口2847人、家数836軒。

街道は、三川合流の宇治川に入ります。

  

  

さくらであい館で少し休憩します。であい館では、ソフトクリームが販売されていましたのでそれを買っていただきました。生き返りました。

木津川の御幸橋を渡ると「石清水八幡宮」です。今日は、ここまでとします。

  

 

 

 


京街道(東海道57次)を歩く1日目「山科~伏見」(京都市)

2022-05-31 14:40:50 | 京街道(東海道57次)

2018年に東海道を踏破しましたが、あとで調べてみると、東海道は、57次だそうです。

京阪電鉄が出しているガイドブックによると、「東海道53次は、実は、❝57次❞だったともいわれています。その理由は、東海道の延長として同じく京と大坂を結んでいた「京街道」にあります。

街道には、伏見・淀・枚方・守口にそれぞれ宿場が設けられており、東海道53次にこれらの宿場を加えた「東海道57次」が本来の姿ではないかというわけです。

湖都、古都、水都をつないできた「みち」と「まち」に思いを馳せてみませんか。

5/21より福井県若狭町で行われる「若狭・三方五湖ツーデーマーチ」に合わせ、この街道を歩いてみることにしました。

本当は、2020年3月に計画しましたが、コロナの緊急事態宣言等があり、今回になりました。この街道は、途中まで「奈良街道」とダブっています。

 

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京街道は、ガイドブックによれば、約60k弱。普通なら4日でいける距離ですが、この街道は見どころ満点のコースですのでさて、何日かかることやら・・・・

5/17(火)博多発6:50の新幹線で大阪へ。大阪のホテルに荷物を預け、京街道の出発点、京都・山科の追分(追分は、滋賀県)からスタートします。

11:15スタート。髭茶屋の所には、蓮如上人の石碑と追分石(道標)があります。(みぎハ京ミチ、ひだりハふしみみち)

  

 

音羽地域は古来より「水不足」で悩んでいたために,明治初期に行われた琵琶湖疏水の開通と,それにつながる「音羽用水路」の完成は,大きな出来事でした。琵琶湖疏水は,技師の田辺朔郎

(たなべさくろう)の綿密な計画のもと,多くの犠牲を出しながらも明治23(1890)年,ついに完成しました。琵琶湖畔の三井寺の近くから長等山トンネルをくぐり,山科盆地の北の山沿いに

走り,九条山を経て京都盆地に入っている。四ノ宮・音羽地域はその通路に当たっているのでした。疏水の完成と共に,疏水から水をひいて山科の田畑を潤(うるお)そうと,用水路が

つくられました。山科には3つの用水路がつくられましたが,その一つが音羽病院の横を流れる「音羽分水路」です(これは後に「洛東用水」と呼ばれます)。疏水の取水所から

約1000mにわたって,四ノ宮・音羽地域を流れており,これによって音羽地域の人たちは,長年苦しんできた「水不足」からやっと救われることになったのでした。この音羽用水路の完成を

記念して,後に「音羽水路紀功碑」が建立されました。

 

 

新幹線のガード下には、道標があります。(みぎうじみち、ひだりおおつみち)

皇塚は、もともとこの地には,直径20mほどの円墳があり,大塚・王塚・皇塚などと呼ばれていた。6世紀前半ごろのものと推定され,山科区内最古の古墳と考えられるが,原型は留めていない。

その名称から,桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったと言われる。この石標は,大塚(王塚・皇塚)の跡を示すものである。なお現在,この地は岩屋神社の御旅所と

なっている。(京都市HPより)

  

名神自動車道のガードの前に、「大宅(おおやす)一里塚」があります。この一里塚は、京都市内で唯一残っている一里塚です。

  

自分で作ったマップを見てみるとこの近くに「醍醐天皇後山科陵(やましなのみささぎ)」があります。街道とは離れていますが、ここに立ち寄ってみます。

醍醐天皇は第60代の天皇、ちょうど菅原道真左遷の頃の天皇です。

 

  

第61代朱雀天皇醍醐陵(だいごみささぎ)を通り醍醐寺へ。

 

世界文化遺産「醍醐寺」は、真言宗醍醐派の総本山。874年に、弘法大師空海の孫弟子、理源大師聖宝によって開創されました。醍醐山全体を寺域とし、山上の上醍醐、山下の下醍醐からなる

広い境内を持ちます。多くの国宝・重要文化財を含む、建造物・仏像・絵画・文書を伝承しており、世界遺産にも認定。豊臣秀吉が豪華な花見を行った桜の名所としても有名で、

「日本のさくら名所100選」にも選ばれています。

  

醍醐寺三宝院は、豊臣秀吉が慶長3年(1598)の催した「醍醐の花見」を契機として整備されました。その庭園は秀吉自ら基本設計したもので国の特別史跡・特別名勝に指定されています。

 

 

醍醐寺仁王門を潜って金堂へ。

  

 

醍醐寺から小野小町ゆかりの隋心院に向かいます。隋心院は、真言宗善通寺派の大本山。小野小町がかつて住んでいたという(諸説あり)ゆかりの寺としても知られ、小町が化粧に使った

化粧井戸や、貴公子たちから寄せられた手紙を埋めた文塚、手紙を下張りに使った文張地蔵などがあります。

  

京都市の南東に位置する山科区小野は、平安時代に小野一族が栄えた場所と伝えられています。

小野一族といえば、古くは大和朝廷の外交の任をもって二回も隋に渡った小野妹子、平安初期にあの世とこの世を行き来し閻魔大王に仕えたとの逸話が残る公卿の小野篁、同じく平安時代前期に

和様書道の基礎を築いたといわれる小野道風などを輩出した孝昭天皇の皇子であった天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)を祖とする一族です。

この山科区小野にある真言宗善通寺派の大本山「随心院」は、小野一族の中でも最も世に知られている小野小町ゆかりの寺といわれています。

小野小町は、小野篁の孫にあたり、出羽の国司を勤めた小野良実の娘であるとされています。また、当時の書家小野道風は、小町のいとこにあたる人となります。

美貌の誉れ高い小野小町は、仕えていた仁明天皇が嘉祥3年(850)び崩御され、その翌年に三十歳を過ぎたころ宮仕えを辞め、小野郷へ戻り、朝夕この水で化粧をこらしたと

伝えられています。

  

小町文塚

 

隋心院から街道に戻ります。

勧修寺(かしゅうじ)は、昌泰3年(900)、醍醐天皇の勅願により、天皇の母・藤原胤子の追善の為に創建された寺です。

街道は、勧修寺から名神高速沿いに歩いていきます。

 

 

深草谷口町には、仁明天皇陵があります。街道は、JR奈良線の高架を歩きます。

  

  

墨染(すみそめ)には来ました。墨染の地名は、平安時代、上野岑雄かむつけのみねが友人である藤原基経の死を悼み、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」と歌ったところ、

この地の桜が墨染色に咲いたという伝説が由来とも言われる。この地は京街道奈良街道大津街道が交差し、宿場町として栄えた事もあり、1699年元禄12年)、茶屋株(お茶屋の営業権)が墨染の南部(現在の関西電力墨染発電所の西側)で許可される。そこから、撞木町(しゅもくちょう)の花街が生まれ、忠臣蔵でおなじみの大石内蔵助もここのでも遊んだ伝説が語り継がれている

花街としての墨染は明治以降も存続するが衰退し1910年(明治43年)、京阪電気鉄道が開通した翌1911年(明治44年)頃、消滅した。(Wikipediaより)

 

料亭「清和荘」の敷地に「近藤勇遭難の地」という石碑が建っています。

慶応3年(1867)12月16日、朝廷に政権が移ったことに伴い王政復古の大号令が発せられ、新選組は伏見奉行所へ追われた。隊長の近藤勇は18日、二条城での会議からの帰りに随行者らと

伏見奉行所へ向かっていた。一行は伏見の城下町に入る直前で襲撃され、近藤は右肩に銃弾を受けた。現場は伏見街道が大和街道へと名前を変える辺り、現在の京都市伏見区・藤森(ふじのもり)、墨染から丹波橋までの間と伝えられる。大坂にいた徳川慶喜はこれを聞き、医師を伏見まで差し向けたという。

襲撃したのは、近藤暗殺を企て、前月、油小路の変で新選組に暗殺された伊東甲子太郎の一派。彼らは薩摩藩伏見屋敷(現在の月桂冠大賞蔵、関連会社・松山酒造の場所、京都市伏見区東堺町)に

かくまわれ、屋敷から持ち出した鉄砲で近藤を返り討ちにしようとした。もともと伊東は新選組の参謀だったが、次第に同調できなくなり組を離れた。坂本龍馬とも親交があり、龍馬暗殺の危険を

内通していたとも言われる。この事件で傷を負った近藤は、年が明けて鳥羽伏見の戦いが始まった1月3日には、大坂城に移り治療を受けていたので、戦の指揮を執ることができなかった。

土方歳三が指揮した。(月桂冠HPより)

  

撞木町京町通沿いにある「撞木町遊郭跡」、今は昔の面影はなく、撞木町遊郭入口の石碑が建っています。通りの中には、大石良雄(大石内蔵助)が山科の閑居から遊興に浸った

よろづや石碑があります。大石良雄(大石内蔵助)(1641~1702)は、播磨赤穂藩主浅野家家老で、元禄14年(1701)主君浅野長矩(1665~1701)が吉良義夫(1641~1702)に

江戸城中で刃傷に及び、切腹を命じられ、領地は没収された。大石良雄は、赤穂藩再興を図りましたが、受け入れられず山科に閑居し、伏見撞木町で遊興に耽るとみせて、吉良邸討入りを

画策したと伝えられています。

  

墨染地区あたりは、お寺が多く点在しています。墨染寺は、墨染の地名に由来します。桜の名所だそうです。

 

勝念寺は、安養山 往生院 勝念寺と号する浄土宗知恩院末の寺院です。織田信長公が深く帰依した聖誉貞安上人によって天正15年(1587)に開創されました。

天正10年織田信長は本能寺で、嫡男信忠は御池御所(烏丸二条)で自刃しました。正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うため、貞安上人に信忠刃の地である御池御所を賜り、

信忠の法名に因んで大雲院という寺院を開創しました。同時に、時の天下人である豊臣秀吉の城下町である此処伏見丹波橋に、布教の拠点とするべく一寺を開創して勝念寺と号しました。

貞安上人が織田信長公より安土で賜った仏像が伝わります。釜敷地蔵尊は、地獄で釜茹での責めに苦しむ亡者に代わり自ら釜の中で苦を受ける身代地蔵尊です。

「かましきさん」として江戸時代より信仰を集めています。

 

  

  

天平勝宝2年(750)創建の金礼宮(きんさつぐう)は、伏見において最も古い神社の一つであり、旧久米村の産土神として崇敬されていました。金札宮の祭神は、天照大神、

天太玉命(白菊大明神)、倉稲魂命ですが、御香宮神社の縁起によると、白菊大明神は御鎮座に先立ってこの地に住んでいたと伝えています。
清和天皇が天太玉命の化身白菊翁の名を金礼に記し奉納したことが、「金礼」の由来と言われてます。

 

伏見大手筋商店街にやってきました。商店街には酒にかかわるものが展示されています。伏見は、灘、西条とともに日本三大酒どころと呼ばれています。(残念ながら福岡は入っていません)

豊かな自然風土に恵まれ、京文化に磨きあげられた伏見の清酒。その歴史は古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったとされています。

以来、脈々と受け継がれてきた酒づくりの伝統が花開いたのは、安土桃山時代のこと。太閤秀吉の伏見城築城とともに伏見は大きく栄え、需要が高まる中で一躍脚光を浴びるようになりました。
さらに江戸時代には、水陸交通の要衡として、伏見はますます発展。酒造家も急増し、銘醸地の基盤が形成されています。そして明治の後半には、天下の酒どころとして全国に

その名とどろかせるようになったのです。まちとともに、人とともに、息づく名酒の歴史がここにあります。

 

伏見宿:伏見城の城下町として発展した伏見宿(東海道五十四次)は、本陣4,脇本陣2,旅籠39軒、人口24,227人、家数6245軒を備えていました。参勤交代の大名たちは、

洛中を通ることが許されなかったため、街道は、ここから山科を抜けて追分を通り、大津へと向かっていきました。

時刻も17時を回ってきました。今日は、京阪伏見桃山駅までとします。