よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

唐津街道をゆく第2日目その3(原町~畔町)

2010-01-21 18:12:57 | 唐津街道
卯建(うだつ)、バンコが残っている宿場「畦町宿

原町宿を過ぎ、大穂に入る。橋を渡ると道が二手に分かれている。
左は川沿いの道、右手は先で大きな道に交差する。
もう一度地図を確かめ、右側の道を選んだ。
地図では、峠を下った所に「太閤水」があると書いてあるが、峠を上っても
下っても太閤水がみつからない。
民家に聞こうと思っても近くに民家がなく、ただひたすらに歩き続けた。
旧道は、福津市(旧福間町)に入った。
いくつかの峠を下った所に「太閤水」があった。
※(太閤水は、若松の所で説明していますので省略します。)
太閤水は、若松に次いで2箇所目。

月の森池の廻りを通っていくと、「許斐(このみ)窯」が見えてきた。
この先の、畦町橋を渡ると「畦町宿」です。


※写真説明 左上、太閤水、右上、月の森池
        左下、天満宮の変わった形の蘇鉄、右下、畦町宿の町並み

畦町宿は、福津市の案内板によると、
「畦町は、昔(藩政時代)筑前黒田藩が指定した27宿駅の一つであった。
慶長5年(1600)、関が原合戦後、黒田長政が筑前の国主として
入国するまでは、まだ人家も少なかったが、寛永19年(1642)、
唐津街道の整備に際し、青柳(古賀市)と赤間宿(宗像市)との間、
約4里(16km)が遠すぎるということで、当時の鳥ノ巣村と本木村の
一部を街道沿いに集め、宿駅として新たに成立したのが、畦町村である。
当時100余軒の戸数があり、480余人が住んでいた。
街道を行き交う人も多く、商家が圧倒的に多かった。
南北に通じる町並みの入口の両端には、関所のようにして、
「構口(かまえぐち)」があり、御制札所や役人詰所があった。
宿場町として栄えた畦町村も明治年代以降は宿場廃止や鉄道、国道開通
など交通路線の変革とともに宿場の機能を失った。
今では、この宿場と折りも古い家は建て替えられ、昔の家並みは少なく
なったが、「杉ぼて」や「卯建(うだつ)」など江戸時代のたたずまいが
残っている所もあり、宿場町の名残が感じられる。」



※写真説明 左上、バンコがある民家、右上、旧造り酒屋
        左下、卯建のある家、右下、旧庄屋跡。(今は石碑が建っている)

町の中を歩いてみると、民家にバンコ(縁台、ポルトガル語)があり、
今は留め金か何かで閉まっていますが、ここで将棋や碁などを
していたんでしょう。
また、左下の写真のように防火の為に隣に火がうつらないようつけた壁、
卯建(うだつ)、旧造り酒屋には、今はないけど、杉ぼてなど
懐かしく、江戸時代にタイムスリップしているような感じだった。
注)卯建(うだち)・・・梁の上に建て棟木を支える短い柱。又は江戸時代の
             民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの
             袖壁。装飾と防火を兼ねる。
             卯建が上がらないというのは、裕福なところでないと、卯建が
             上げられなかったことから転じています。

注)石碑の高村翁(医師)は、健康保険の基になった定例医として村の医療に
  携わった方です。

懐かしい畦町宿をあとに、街道は上西郷小学校の方に向かった。
ここを左折すると青柳宿の方になるが、今日の行程はここまでとする。
ここまで26386歩(約20.6km)7時間15分



今日の交通費 博多~海老津750円
          福間~東郷200円
          東郷~宗像大社バス代 220円  帰りに宗像大社にいきました。
          宗像大社~東郷バス代220円
          東郷~博多520円         交通費計1910円
    昼食代  スーパーの弁当 398円
          食後のスイーツ  100円        計498円

唐津街道を行く№4(赤間宿~原町宿)

2010-01-06 08:30:39 | 唐津街道
地域が昔の町並みを保存している「原町宿(はるまち)」

赤間宿を11:21に発ち、次の宿場町「原町宿」へ向かう。
12時近くになり、お腹も減ってきた。
近くに食堂がないか探すけど、どこにも見当たらない。
どこか、コンビニがあればそこに寄って弁当でも買おうと思うのですが、
そのコンビニも見つからない。
いつも思うことなんですが、コンビニに行きたいときにコンビニはなく、
コンビニに用がない時には、コンビニがすぐ見つかる。
世の中、うまくいかない。

このあたりが「宮田」なのだろうか、向こう側に「唐津街道・宮田」の標識がある。
その先にスーパーがあった。
そこで、お弁当と食後のスイーツを買い、しばし休憩。
赤間宿から約5.5km。

原町宿は、野坂の信号を渡り、レストランの横を抜けていくと見えてきた。
辻行灯のある入口の案内板を見てみると、
「原町宿は、赤間宿と畦町宿の中間にあり、黒田藩(福岡藩)、唐津藩の
参勤交代の時の休憩所になった」と書いてある。
そして、裏面には、大正、昭和初期の原町宿の地図が書いてある。



原町宿は、JRウオーキングで何回か訪れていますが、
この宿場町に来ると、昭和初期にタイムスリップしたみたいで、
美術館、骨董品屋さん、呉服屋さんの看板などを見ていると
懐かしく、心が和んできます。
昔の町並みを残そうと地域住民の方が一丸となって町作りに
取り組んでおられます。 
   
                                   (畦町宿へ続く)


唐津街道をゆく№3①畦町宿~青柳宿

2010-01-06 08:02:25 | 唐津街道
2月7日の日曜日に唐津街道「畦町宿~青柳宿~箱崎宿」まで
約30km歩きました。
当日は天気も良く、絶好のウオーキング日和でした。

朝、6時50分に自宅を出発、地下鉄、JR、バスに乗り換え、前回ゴール地の
上西郷小学校に着いたのが8時17分。
簡単なストレッチのあと、いざ出発。
内殿信号の県道を古賀方面に向かいました。
今日は前半、ならの木坂という急な峠があるということを地図などで
予備知識を入れていました。
県道を右に入るとならの木坂に入ると地図には書いてあるんですが、
行けど右に入る道がない。結局、旦ノ原井戸まで来てしまいました。
そこでもう一度地図を見直すと内殿の信号をすぐ右に入って内殿橋を通らないと
行けなかったのにまっすぐ来てしまいました。
どうしようかと惰性で歩いていると高速道路古賀PAの入口まで来てしまいました。
「ちょっとコーヒータイム」と家内に言い、古賀PAで今日最初の休憩。
こちらは、てくてく街道を歩いている・・・・ここは、現代の街道の高速道。
その高速道PAで休憩しているなんて何か滑稽で可笑しい。

家内は、もう戻るのはイヤというが、折角の街道歩き、少しでも昔の人と同じ道を
歩いてみたいので、ここは家内を説き伏せ戻ることにしました。
これが、今日の前半だったから戻る決心がついたのですが、終盤だったら
おそらく戻らなかったでしょう。

万歩計のメモリーをチェックし、今来た道をUターン。
内殿橋は信号のすぐ近くにありました。
橋を渡ると険しい山道になってきます。
山道の脇には「唐津街道」の小さな標識があります。
そういえば、昨年放映された、シンクロの原田早穂さんも「山陽道てくてく旅」で
この坂を苦労して登られていました。
ちょっと、ミーハーですけど、今私は原田さんと同じ道を歩いている。そう思うと
何だか元気が出てきました。
坂を下ると県道に合流し、しばらく歩くと先ほど休憩した古賀PAの入口に到着しました。
時間は10時20分。ここで1時間のロス。


※写真説明 左上、ならの木坂、右上、旦ノ原井戸、
        左下、唐津街道道標、右下、福岡県馬術競技場のお馬さん
     
街道は古賀市に入りました。
古賀市は昭和30年ごろ、周辺の小野村、青柳村、古賀村が合併して出来た町で
平成になり市制になりました。

県道を青柳宿に向かって歩いていますが、この道路は歩道がなく、交通量も
少ないため車はスピードを出しています。道路の側道を歩いているんですが、
時々、車のけたたましいクラクションに道路の隅の方に追いやられます。
私も車の運転はしますが、よほどのことがない限りクラクションは鳴らしません。
道路は皆のもの、もう少しゆとりを持ってくれたら・・・と思いました。

話は横道にそれましたが、ガードレールの左側に唐津街道の道標があります。
それには、青柳宿1里、畦町宿2里と書いてあります。
青柳宿まであと1里(4km)です。

左側にドーム型の建物が見えてきました。
中に入ってみると、「福岡県馬術競技場」でした。
そうそう、原田早穂さんもここでお馬さんに乗られましたね。

競技場の道をまっすぐ行くと地図では、また道標があるようになっています。
この道標、探してすぐ、あったのですが、誰か心無い人が白いペンキでいたずら書きをして、
反対側は見にくくなっていました。
写真に収めたかったのですが、あまりに見にくいため、写真は断念しました。
青柳宿までは、あと半里(2km)です。

高速のガードを抜け、右側の交番の横を抜けると「青柳宿」に着きました。
宿の入口の案内看板を見ると
「慶長10年(1605)にお茶屋(本陣)を中心として作られ、以後3期40年かかって
広げられました。その後元禄時代初期(17世紀末)に街並みが完成。
総延長444m、100軒前後の家々が軒を連ね、明治時代まで裏糟屋郡の
中心地として栄えました。
青柳宿は江戸時代2回、明治時代に1回の大火に見舞われ、現在は鈎の手形往還や
西構口に宿場の面影をわずかに残しています。」

旧お茶屋さん(本陣)は、通りの突き当たりにありました。
私達は図々しく、この家を尋ね、この家に残っている宿板を見せていただきました。
この宿板は、黒田藩、薩摩藩、唐津藩の3枚がありました。
宿板の長さは90cm、幅30cmぐらいのものでした。
お茶屋さんの前に昔の佇まいを残している醤油屋さんがあり、
中に入るとまるで江戸時代にタイムスリップしたみたいでした。
私は、大きなメーカーの醤油はあまり買いません。
どちらかというと、地元の醤油を主に買います。
また、地方に行けば、必ずその地の醤油屋さんを訪ねていきます。
値段の割には、美味しいお醤油があります。
これが、楽しみなんです。隠れた醤油コネクターかな?(笑)


※写真説明 左上、青柳宿入口 右上、青柳宿街並み
        左下、太宰府神社通路、右下、黒田藩宿板

宿場の西には、構口(かまえぐち)跡、青柳村役場跡、太宰府通路の石碑
などが残っていました。                          (続く)
(内殿橋から青柳宿まで約7,5km)

※「構口」・・・・街道の出入り口にあります。いわば、関所みたいな所です。






唐津街道を行く№2(芦屋~海老津)

2010-01-05 08:21:58 | 唐津街道
筑前福岡藩には、6筋あり、27宿の宿場が設けられ、
長崎街道に属するものが6宿、それ以外を21宿とよんでいた。
なかでもこの唐津街道には、10宿がありました。

【芦屋~海老津】

太閤水を通って高須中学校の方に行くと、坂道になった。
ここから芦屋町になる。
私は、遠賀川の向こう側が芦屋町と思っていたが、
明治時代芦屋村と山鹿村が合併して「芦屋町」になったそうだ。
このあたりは、昔の「山鹿」。

左側に石碑が見える。「安徳天皇行在所跡」と書いてある。
裏側に説明文が書かれているんだが、裏にはプラフェンスがあり、読めない。
帰ってからネットで調べてみた。

それによると
「寿永2年(1183)7月、平家一門は、安徳天皇を擁して九州太宰府へ都落ちしたが、
豊後の緒方三郎唯義の軍に追われ、悲惨な逃避行を続け、香椎、宗像を過ぎ、
山鹿兵藤次秀遠のお迎えを受け、山鹿で過ごされた。
のち、秀遠は、この地、大君の茶臼山に幼帝のために行在所を造営した。」
安徳天皇は、このあと四国の屋島に行き、最後は下関の壇ノ浦で命を絶たれた。
この造営所が今は「大君神社」となっている。
野球グラウンドの横にひっそりと建っている。

旧山鹿村役場跡を通り、遠賀川に出てきた。
芦屋橋は工事中で、横に仮橋が建っている。

橋を渡っていると、向こうから柴犬4頭を連れたご夫婦と出合った。
私も3年前まで柴犬を飼っていたから、柴犬を見ると可愛くて仕方がない。
頭をなでてやると、奥さんが、神社のパンフを持ってきて、
「うちのワンちゃん神社のパンフに載っているのよ。」と言ってパンフを見せてくれた。
七五三の時の写真だろうか、可愛い。胸には名札がついている。

芦屋町は、遠賀川河口港として発展し、「芦屋千軒、関千軒」と下関と
同じくらいの賑わいをみせていた.

地図を見ると橋を渡った左側に「芦屋釜鋳造跡」があるように書いてある。
探すけど解らない。100mぐらい行った所に人がいたから聞いてみた。
「あしや釜はどこでしょうか?」
その人向かい側を指差す。みると「銘菓あしや釜」となっている。
いや、お菓子じゃないんです。といってもう一度聞いてみるが、近くで犬が
吼えているのでその方の声が聞き取れない。
自分で探すことにした。
芦屋釜鋳造所跡は、橋のすぐ横の少し低くなっている所にあった。

茶道をされている方は、ご存知かもしれませんが、鎌倉時代から名声を博し、
室町時代に一世風靡した茶の湯釜の名器。
現在、国の重要文化財指定の茶の湯釜の9個のうち8個が芦屋釜だそうです。

橋を直進すると、右側に「福岡藩焚石(ふんせき)会所跡」があった。

裏の説明文を見るが、ブロックに挟まれ見ることができない。
先の芦屋釜もそうだったが、碑は建っているものの、すぐ横にブロックなどがあり、
読むことができない。まさしく「ブロックされた」という感じか。
「焚石」とは、石炭のことである。
遠賀川流域一帯で石炭の産出、販売が盛んになると、福岡藩は、これを
統制に乗り出した。1826年取引の認可と監視のため、会所を作った。
若松の「洲口番所跡」もこれと同じです。

会所跡を直進すると、大きな旧家が見えてきた。
一見、本陣跡かなと思われる建物だった。
見てみると、呉服屋さんだった。今でも営業されています。

福田屋薬局の所をまっすぐ行った所に「蘆屋警察跡」その先に「筑前蘆屋宿場構口跡」
「大国座跡」「遠賀郡役所跡」などがある。
このあたりが、芦屋の中心部だったのだろう。
然し、本陣跡などはなにもない。
この芦屋は、遠賀川の物流拠点として江戸末期には、石炭の積み出し港として栄えたのだろう

心配していた雨は、今にも降り出しそう。
地図では、まっすぐ行くと芦屋小学校があると書いてある。
学校は、突き当たりにあった。
松林に囲まれ、自然豊かな学校だった。

街道は、自衛隊芦屋基地の中を行くようになっている。
いくらなんでも基地の中を通ることはできない。
ここは、かっちゃんさんの通り、県道に出る。

雨がポツリポツリ降り出した
ここでアクシデント。
私の右足に「豆」が出来てしまった。
私の歩くスピードが鈍る。
それとは知らず、家内は、雨を気にしてか、急ぎ足。
家内との差は広がるばかり。
なんと言う薄情な家内なんだろう。
亭主が豆で苦労してるっていうのに・・・・
そして「早く行くよ。雨が降って来よろうが・・・」
仕方なく、家内に向かって、
「ちょっと待ってん。豆ができたけん、ちょっと休もうや」
こんな時、現代のお茶屋の「コンビニ」が見つからない。
芦屋競艇場近くにコンビニがあった。
私のDバックには、救急絆創膏、シップ薬、包帯、正露丸など
常に入っている。ここですぐ豆の手当て。

粟屋バス停に出てきた。
自衛隊芦屋基地から来た街道はここにつながっていた。
空は暗くなり、雨は本降りになってきた。
近くの工場の軒先を借り、ポンチョとスパッツを装備する。

岡垣町に入った。
海老津駅まではもう少し。
持ってきた地図もぬれてきた。
5時25分。今日のゴール地点「海老津駅」到着。
今日の歩行距離約33km。
途中、雨が降って岡垣町の見所はパスしたが、
何とか無事、「唐津街道」初日を終わることが出来た。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日の交通費
博多~戸畑  JR@1、250
戸畑~若松  船代@100
海老津~博多  JR@750    計2,100円

昼食代  店名  カレーハウス「たべった」
      家内 「石釜カレー、グリルチキン焼きカレー」
      私  「石焼カレー 、オムレツカレー」
              単価各@840

唐津街道を行く№1(若松~芦屋)

2010-01-05 07:03:31 | 唐津街道
【はじめに】
新しい年を迎え、私もウオーキング歴4年になりました。
各地のウオーキング大会にも参加し、このSNSでの歩行距離も1万kmを
超えました。

今年は、何か新しいものに挑戦してみたい。
家内と相談した結果、九州内の街道を歩いてみることにしました。
その一番目として「唐津街道」を選びました。
この唐津街道は、私の地元のコースでもあり、また、古くは朝鮮半島を経て、
中国文化が日本に最初についた地点でもあります。
中国の古書「魏志倭人伝」に出てくる「那国」「伊都国」は、この街道上にあります。
事前にコースを調べてみますと、いろんな面白いことに出会えそうです。
歩く前から、私の心はワクワクしています。
さあ、よっくんとカブちゃんの「街道記」どんなものになりますやら・・・・・・・・

尚、この街道を歩くにあたり、河島悦子氏「唐津街道」、HPからかっちゃんさんの
「唐津街道を歩く」を参考にさせていただきました。

【若松~太閤水】

※上の地図、若松から唐津までが「唐津街道」です。(オレンジの線です)
  下は、スタート地点の「洲口番所跡」

1月2日、晴れ。
今日からスタートです。天気は晴れてはいるものの、3時ぐらいから雨の予報。
博多発8:06の電車で戸畑へ。
戸畑駅から渡船場にある「戸畑恵比寿神社」で今回の街道歩きの安全を祈願。
9:25今回の出発点若松「洲口番所跡」に到着。
この洲口番所は、福岡藩が人や品物の出入りを監視・管理するために若松と芦屋に
設けられました。
若松というと今は北九州市ですが、昔は福岡藩の端城だったそうです。

地図に沿って歩いていると「善念寺」が見えてきた。
門の脇にある掲示板をみていると、ドイツの社会学者の格言「政治を軽蔑する国民は
軽蔑すべき政治しか持ち得ない」と書いてある。
お寺にドイツの社会学者の格言、余りにも奇妙な組み合わせに可笑しくて
笑ってしまった。

街道は、若戸大橋の袂へ。
この一体はJRのウオーキングで何度も訪れている。

地図は、JR若松駅の方に向かった。
「極楽寺」は、若松駅の向かい側にあった。
境内に入ってみると、意外と大きなお寺さん。幼稚園を併営されているのか、
子供さんの絵がいっぱい。

若松駅を過ぎると、街道は二手に分かれている。
かっちゃんさんは、駅の横から山手の方に歩いたと書いてある。
地図を見ると、古前小学校のところで合流している。
私達は国道の方から入っていくことにした。
地図に「御堂」というのがある。
探すが解らない。そこに人が来られたので聞いてみるが、知らないの一言。
それからも探すけどわからずじまい。

「白山神社」が見えてきた。
神社の由来を見てみると、加賀国石川郡白山権現を勧請してきたという。

神社を出て、街道を歩き出すと、商店が立ち並ぶ。
だが、道が狭い。ここが旧国道なのだろうか?



時計を見ると、10時半。もう1時間以上も歩いた。
持ってきたペットボトルの水も少なくなってきた。
コンビ二もあったので今日、最初の休憩をとった。
家内が買ってきた大福餅を食べながら、街道歩きの先輩、ランドセルさんに
今日スタートしたことをメールで報告する。
ランドセルさんからの返事はすぐ来た。
街道歩きの先輩から励ましのメールです。
ちょっと道がわからず、疲れ気味の私達に「元気」をいただいた。

日吉神社、JR二島駅を過ぎると大きなショッピングセンターが目に入ってきた。
見ると、車がいっぱい。
お腹も減ってきたけど、まだ今日の半分の行程もいっていない。
もう少し、もう少し・・・・・

地図を見ると、先を左折して払川沿いに歩くことになっている。
その通りにいくと、大規模な河川の護岸工事が行われている。
遊歩道は、バリケートがされ、通行止めになっている。
仕方なく、県道の方へ。
ショッピングセンターを過ぎた頃から車の通行が少なくなった。
お腹もだいぶん減ってきた。
然し、廻りは田園地帯。
食堂もコンビニもなにもない。
河島さんの地図には、大鳥居の所にコンビニのマークがされている。
とにかくそこまで歩こう。
払川沿いには桜が植樹されている。
桜の季節にここを歩いたらさぞかし気持ちがいいだろう。
廻りは、マックとか、レストランの看板。
私は、普段はマックなんか食べないのだが、マックの看板がいとしく見えてきた。

大鳥居の所のコンビニに着いた。
然し、このコンビニ閉まっている。どうやら廃業したらしい。
しばらく歩くと、左手に回転すし屋さん、右手にカレー屋さんが見えてきた。
回転すし屋さんは家族連れか、人が多い。入り口の外まで行列が出来ている。
昔、流行ったコマーシャルの「おせちもいいけどカレーもね」が頭にひらめき、
カレー屋さんへ。
このカレー屋さん、(カレー屋さんには、悪いが)全然期待してなかったのですが、
注文した「石焼カレー」実においしい。辛さも調整でき、今まで食べたカレー屋さんでも
5本の指に入るくらいだ。

時計を見ると2時。
確か、このあたりに「太閤水」があるはずなんだが・・・
近くに人がおられたので聞いてみる。
その方、昔はこのあたりは、海だった、川を浚渫すると牡蠣が出てきたなど
詳しく説明してくれた。太閤水はすぐわかった。
太閤水とは、文禄元年(1592)豊臣秀吉は朝鮮出兵の為、肥前名護屋に
出陣した。その時、大阪から肥前名護屋までの道々に太閤水や給水所を
設けるなど道路を整備した。
秀吉に因む水は殆どが「太閤水」と呼ばれている。

そういえば、我が家の近くにも「太閤水」があったなぁ。

朝はあんなに晴れていた空も雲が多くなり、天気が怪しくなってきた。
芦屋まではもうすぐ。                  (続く)



唐津街道を行く№3(海老津~赤間宿)

2010-01-05 05:23:51 | 唐津街道
1月17日快晴。唐津街道2日目。
博多発8:45の電車で前回ゴール地のJR海老津駅へ。
今日は、海老津から、赤間宿~原町宿~畦町宿(あぜまち)までの
約20kmのコースです。
前回は、終盤、マメが出来たり、雨が降ったりで散々でしたが、
今回は、天気もよく絶好のウオーキング日和になりそうです。

海老津駅から松田の信号を渡り、旧道へ。
地図を見ると旧道は、国道とほぼ平行に走っており、だいたいわかりやすい。
1時間ほど歩いたでしょうか、この街道の難所の「城山峠」に差し掛かりました。
地図では、武丸北の信号から右斜めに入るようになっています。
舗装道がきれ、ここからは土の道。
太平寺福岡分院を過ぎると唐津街道の標識が・・・・
この街道歩き始めて最初の標識です。
記念にここで写真を1枚。

竹藪の道を奥のほうに入る。足元を見るとなにやら猪の足跡が・・・・
「猪が出てきたら怖かね」と妻の声。
「なんば、いいようとっか、猪が出てきたら俺がこの棒で叩いちゃ」
と道端にあったちょっと太い棒をとって私が言った。
猪は出てきませんでしたが、若し出てきたら私が家内の後に隠れたかも
しれません。(笑)

※写真説明 左、城山峠山道、右、唐津街道の標識

城山峠を下りると福岡教育大学が見えてきました。
その先が、JR福岡教育大学前駅。
そこを左に曲がると、唐津街道・赤間宿の標識。海老津駅から約7km。
赤間は、その昔、赤馬と呼ばれていたそうで、これは、神武天皇を
赤い馬でお迎えにいったことからその名がついたと何かの本に書いてありました。
それがいつの間にか、赤馬が赤間になりました。

赤間宿を歩いていくと左側に「須賀神社」があります。
須賀神社の境内には、「節婦阿政之碑」が建っています。
それによると
「宗像三偉人の一人で孝女と言い伝えられているのが、節婦阿政こと
赤間のお政。政は約200年前に風流人として名を馳せた七兵衛の後妻の
娘として生まれたが、両親を早くに亡くした為、腹違いの姉夫婦に育てられた。
その姉夫婦から大庄屋の嫁にとの縁談が持ち込まれたが、
政には、亡父から言われた本家筋の許婚がいた。ところが、許婚の家は
貧しく、姉夫婦は裕福な大庄屋との婚姻を勧めたため、悩んだ政は、婚礼の夜に
「我身ひとつかくこを極め参らせ候」という遺書を残して自害してしまった。
享和元年(1801)政が18歳のことだった。政の貞節は頼山陽著の
「節婦阿政伝」に記され、婦女子の鏡と言われたと説明されています。」
節婦とは、節操の堅固な女性のことです。
お政のお墓は宿場町の終わりの方の小高い丘の上に建っています。

須賀神社の先の右側には「法然寺」があります。
寺の廻りを見てみますと、出光家の墓があります。
ここが、出光家の菩提寺なんでしょうか?
そういえば出光興産の創業者の方もここ赤間のご出身です。
寺の横には、幕末、三条実美ら5人の公卿が幕府から逃れるため、
長州から太宰府へ移る途中、この地を訪れ、約1ヶ月間滞在したという
「五卿西遷之碑」が建っています。
また、ここは木屋瀬からの道と交差し、交通の要所でした。

宿場町を歩いてきますと、江戸時代からの酒屋、鏝絵の民家などが
あります。                  (次回 原町宿へ続く)

※写真説明 左上、須賀神社、右上、法然寺
        左下、鏝絵の民家、右下、勝屋酒造