よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

大河ドラマ「おんな城主直虎」ゆかりの地を訪ねて(静岡県浜松市)

2017-03-14 14:34:37 | 歴史

 今年のNHK大河ドラマは、「おんな城主直虎」です。その直虎のゆかりの地浜松を訪ねました。

井伊直虎は、井伊谷城主22代直盛の一人娘として誕生。直盛には、男児がなく、従兄弟の亀之丞(23代直親)を娘の許嫁として家督を継がせる予定でしたが、直親の父親が今川義元に殺され、

命を狙われた直親も信州に身を隠します。幼き直虎は、直親が死んだと思い、自ら出家し次郎法師と名乗り、生涯未婚を通すこととなります。

 その後、成人した直親が井伊谷に戻るものの、桶狭間の戦いで直盛が戦死、その後直親も殺害され、井伊家は、存続の危機に直面します。

次郎法師は、龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚の計らいで、井伊直虎と名乗り、5歳の虎松(24代直政)の後見人として井伊家を支えました。

1575年、15歳に成長した直政は、浜松城主の徳川家康に出仕し、見事に井伊家の再興を果たします。

先ずは、「浜松城」。

家康が、武田信玄の侵攻に備え、1570年(当時29歳)に築城したのが「浜松城」です。家康は、29歳から45歳までこの地で過ごしています。

    

城内には、直虎の幟も立っています。家康公のイラストの袴は、ピアノ、直虎が持っているのは、うなぎ。それぞれ浜松の特産が描かれています。

   

  

 「三方ヶ原古戦場跡」

元亀3年(1572年)、武田信玄と徳川軍が浜松市郊外の三方ヶ原で激突した戦い。家康の生涯で最大の敗戦といわれ、兵の数でも軍術でも劣る徳川軍は総崩れとなりました。

  

現在、三方ヶ原古戦場跡は、霊園になっています。

「龍潭寺」(りょうたんじ)

龍潭寺に着くと、駐車場は、満杯。また貸切バスが何台も停まっています。やはり大河ドラマの影響でしょうか?

ドラマでは、龍潭寺の南渓和尚を 小林馨さんが演じています。

龍潭寺は、井伊直虎が過ごした所とされています。井伊家歴代の菩提寺。小堀遠州作といわれる国指定名勝庭園や左甚五郎の龍の彫刻等文化財を多く有しています。

    

井伊家の始まりは約千年前。平安時代の西暦1010年に、龍潭寺門前の井戸から誕生したといわれる共保(ともやす)公を初代とします。

古来より水の湧き出る所は神聖視され、井伊家千年(遠江600年、近江400年)の歴史がここに始まります。鎌倉時代には、日本を代表する武家八介の一人として井伊介(いいのすけ)の名があり、

遠江地方の国人領主として栄えました。

南北朝時代には、南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子、宗良(むねなが)親王をお迎えし、一大勢力を誇りました。

戦国時代になると、今川氏からの圧力が強まり、支配下におかれることとなりました。 やがて永禄三年、二十二代直盛が桶狭間で戦死すると、井伊家は受難の時代を迎えます。

直盛には嫡男がなく、従弟の直親を二十三代当主として迎えるも、今川氏によって殺害され、井伊家の男子は、直親の遺児、幼い虎松(のちの直政)ただ一人となってしまいました。

やむなく、出家していた直盛の一人娘は、幼少の虎松の後見人となり『井伊直虎(次郎法師)』を名乗り、女領主として井伊家の舵取りをしました。しかし今川氏との徳政令(とくせいれい)を巡る攻防や、

家臣の謀反でお家断絶の危機を迎えます。

この時、徳川・武田の遠江侵攻が始まり、幼い虎松は戦乱を避けて、三河・鳳来寺へ預けます。やがて15歳になった虎松を徳川家康公に仕えさせ、直政となって活躍し井伊家再興を果たしました。

 家康公に仕えた直政は幾たびの戦いで功績をあげて「徳川四天王」と称され、徳川幕府の基礎づくりに大きな貢献をしました。関ヶ原の戦いで勝利した家康公は「天下を争う大戦度々先鋒として

勝利を得ること誠に国の元勲なり」と直政の活躍を称えました。その後井伊家は直弼を含め5人が大老職を勤めるなど、江戸時代を通して徳川幕府を支えました。

幾多の苦難を乗り越えて繋がれた井伊家の歴史は千余年にわたり、龍潭寺はその菩提寺にあたります。(龍潭寺HPより)

   

  

  

  

  

龍潭寺の庭園は、江戸初期の築造で池泉鑑賞式庭園。国指定名勝庭園です。庭園には、ツツジが植えられあと1か月後には庭園一杯に咲くことでしょう。

   

境内の奥の方には、井伊家歴代の墓所があります。次郎法師(直虎)の墓は、下右の写真の右から2番目です。

   

龍潭寺の横には、「井伊谷宮」があります。

井伊谷宮は、御祭神「宗良親王」は、後醍醐天皇第四王子(宮内庁調べ)であらせられ、今より約650余年、動乱の南北朝時代に一品中務卿(いっぽんなかつかさきょう)征東将軍として、

この地を本拠に50余年の間、吉野朝方のためにご活躍になられました。

 その間、遠江・駿河・三河・甲斐・信濃・越後・上野・美濃等を転戦し、信濃宮・上野宮・越中宮と尊称されました。 

親王は、御幼少の折から御出家せられ、やがて京都比叡山天台座主となられましたが、時代の波は親王にも及び、還俗して宗良親王となり、戦陣の中へ身を置かなくてはならなくなったのです。 

また、親王は、御幼少の頃より和歌に秀で、終生和歌の道の聖と仰がれました。唯その御生涯は、誠に悲惨な人生であり困苦辛難に満ちたものでしたが、どんな苦しい流浪の中にあっても和歌を離さず、

準勅撰「新葉和歌集」(吉野朝の歌人だけを集めた)の編纂を始め、親王の歌集である「李花集」など当時の歴史資料としても貴重な和歌を多く遣されました。

晩年再びこの地を訪ねられ、元中2年8月10日御歳73才を以ってこの地で薨去されたと伝えられています。(井伊谷宮HPより)

    

  

このあと、井伊家の居城「井伊谷城址」に行きました。坂道を上りながらやっとのことで着きました。

この城址は、高台にあるのでさすがに観光客の方は来られていません。

 井伊谷城は、この地の領地である井伊谷氏が築いた山城です。標高115mの山頂に単郭式の曲輪が築かれています。山頂の北半分は自然の地形を残し、南半分が平らに均されています。

曲輪の廻りには土塁がめぐり、南側と西側に出入口を持ちます。南側の出入口は、大手に、西側の出入口は、搦め手に相当し、大手口の西側には、土塁が高く築かれており、防御を固めています。

井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその麓にある城館に加え、最終的な詰め城である「三岳城」で構成されていた。

江戸時代の記録によると井伊谷城は、「御所の丸」と呼ばれていました。南北朝の動乱期(1336~1392)に南朝方の拠点として宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁いた場所と関連付けられたことがうかがえます。

  

展望台からの眺め

 

井伊家のルーツを訪ねる旅でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鞠智城(くくちじょう)跡に行ってきました(熊本県山鹿市菊鹿町)

2015-05-12 10:23:42 | 歴史

山鹿市菊鹿町にある「鞠智(くくち)城跡」に行ってきました。※熊本では、「きくちじょう」と呼んでいます。

7世紀の東アジアでは、朝鮮半島で唐の高句麗遠征などをきっかけに、高句麗・百済は、唐と敵対するようになります。その一方、新羅は、唐の制度を積極的に導入し、唐と親密になって行きます。

同じころ、日本では、中大兄皇子を中心とした「大化の改新」の最中で国内の政治体制を整備し始めたばかりでした。然しながら、日本は、百済と友好関係にあったため、まだ国内が十分に整わないうちに

この動乱に巻き込まれていきます。660年、百済が唐・新羅に滅ぼされると、日本は積極的にこの動きにかかわっていきます。663年、中大兄皇子は、百済遺臣の求めに応じ、百済復興のための軍勢を派遣します。

この日本軍と唐軍が、今の韓国忠清南道の錦江河口に遭った「白村江(はくすきのえ)」で激戦を繰り広げ、日本は、大敗を喫し、百済復興の道は閉ざされます。※「白村江の戦い

この時、日本は、国家史上初めて、外敵からの脅威にさらされることになります。

そこで大和朝廷は、西日本を中心に防衛体制を形成します。対馬には、最前線基地として金田城を築城、太宰府の防衛には、大野城、基肄(きい)城、水城が築かれます。

その背後にあったのが、この「鞠智城」でした。九州南部に位置し、防衛施設であったと同時に、食料や武器を前線に供給する為の、兵站基地であると考えられます。

然し、唐・新羅による日本侵攻はありませんでした。鞠智城は、その後役所的な役割を持つ施設や食料を貯蔵する施設などに変化し、10世紀半ばまで存続しました。(鞠智城跡パンフより抜粋)

平成6年(1994)「歴史公園鞠智城 温故創生館」として整備が開始され、米蔵や兵舎が平成9年(1997年)に、八角形鼓楼が平成11年(1999年)に復元公開されています。

平成16年(2004)に国の史跡に指定されています。その規模は、東西1,6k、南北1,3k、外郭線の総延長5,3k、総面積120haです。

  

  

「鼓楼」 八角形という特別な形であることと、柱が多く配置されていることから、三層目に置かれた太鼓で合図したり、時を知らせたり、見張りをしたりするためのものでした。

     韓国の二聖(イーソン)山城でも同じ建物跡が見つかっています。

「米蔵」 校倉造りの高床式の建物で米などの穀物を保管した所です。

「兵舎」 土間の床で大きな建物であったことから鞠智城の守りについた防人たちが暮らすための「兵舎」として復元しました。1棟あたり50人の防人たちが寝泊まりしていました。

「板蔵」 兵舎の近くにあったことから、武器や武具を置くための「武器庫」です。

5月5日までは、鼓楼の一般見学が行われていましたが、今日は、中に入ることができませんでした。

  

温故創生之碑は、中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に城づくりを指導したといわれる百済の貴族「憶礼福留」、東側に八方ヶ岳に祈りをささげる巫女、北側には伝説上の鳥「鳳凰」1対が立っています。

碑には、防人の歌が刻まれています。

父母が 頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぜ 忘れがねつる

  意味 父母が頭を撫でながら達者でいなさいと言った言葉が忘れられない。

わが妻も畫にかきとらむ 暇もが旅行く吾は 見つつしのはむ

  意味 私の妻を絵に描く暇があったらなあ 旅に出ていく私は、それを持って行っても思い慕うものを

防人に行くは誰が夫と問う人を見るが 羨しさ物見もせず

  意味 防人に行くのは誰の夫ですかと聞いている人を見ると、羨ましくなりますよ 何の心配もしていないのだから

防人は、諸国から「難波津」に集められ、船で太宰府に送られ、防人司の統率下に置かれました。そして各地に配され、軍務に従事しつつ空き地を開墾し食料を自給していました。

一般に3年で交代されましたが、年限を過ぎても帰郷できない人もいたと言われます。(帰りの旅費などは、自腹だったそうです)

  

上の表を見ると、大和朝廷の古代山城は、九州北部から瀬戸内にかけて分布していることがわかります。これは、当時の都であった「難波津」や「「近江大津宮」に至るルートです。

大和朝廷が唐・新羅の連合軍による侵攻を想定し、防衛を固めようとしました。

7~8世紀頃に築城された西日本の山城を総称して「古代山城」といいます。尚、古代山城の中でも日本書紀や続日本紀などの歴史書に記載のある城を「朝鮮式山城」、記載のない城を「神籠石式山城」と呼びます。

日本書紀の中で日本に亡命してきた百済の達率である「憶礼福留」と「四比福夫」を派遣して築かせたとの記述があります。朝鮮式山城は、朝鮮半島の最新の土木技術が使用されていました。

     

短時間では、ありましたが、「鞠智城」の概略がだいたいわかりました。

今から、約1300年前のことです。唐・新羅の連合軍による日本侵攻はありませんでしたが、若し、攻めてきていれば日本はどうなったのでしょうね。

鞠智城跡がある山鹿市では、「鞠智城跡」を国営公園にしようという運動があります。国営公園になればいいですね。

尚、南北朝時代に活躍した、菊池一族の「菊池城」は、菊池市隈府(わいふ)にあり、この「鞠智城」とは、関係ありません。

 


福岡県の県名「福岡」のルーツ「瀬戸内市長船町福岡」を散策

2014-01-05 20:15:35 | 歴史

今日(1/5)からNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」が始まりましたね。

関ヶ原の戦いの功績で官兵衛は、筑前52万石を拝領しました。

お城は、最初名島城でしたが、福崎(今の大手門から舞鶴)に新しいお城を築きました。

そのお城の名前を、黒田家の再興の地、岡山県瀬戸内市長船福岡庄からとって「福岡城」と名付けました。

官兵衛の曽祖父「高政」は、近江国伊香郡黒田村(現長浜市木之本町)出身。京極氏に仕えていましたが、

将軍足利義稙と前将軍足利義澄の船岡山の戦いで軍令に違反したとされ、義稙の怒りに触れお家断絶だけは免れましたが、

近江の国にいられなくなり親族を頼って、邑久(おく)郡備前福岡(現瀬戸内市長船福岡)に移りました。

その後、高政は、福岡で没し、その子重隆は播磨の豪族赤松氏に仕えていましたが失望して福岡に戻り小作人同様の生活をしていました。

然し広峰神社の御使と組んで黒田家家伝の目薬、「玲珠膏」を売り出した所、これが大ヒットして有力豪族の仲間入りしました。

それから、重隆は嫡男「職隆」に家臣団を与え、共に豪族「香山重道」を襲わせその首を御着城主小寺にその首を差出し重用され、その後職隆は姫路城の城代となりました。

職隆の嫡男「官兵衛」は天文15年(1546)11月この姫路城で生まれています。

私感ですが、官兵衛は、黒田家にとって備前福岡時代は一番失望したときであり、これから運があがってきたのでそこからこの「福岡」を新しいお城の名前にしたのではないでしょうか?

福岡には「博多」という商業都市があり、城下町「福岡」とは那珂川を挟んで分かれていました。

明治22年市制を施行と 市名をどうするか議員の間で投票になり「博多市」「福岡市」は同数。議長の決済で「福岡市」になりました。

プロローグはここまでにし、早速この「備前福岡」を紹介します。

備前福岡は

福岡の地は鎌倉時代吉井川の水運に支えられて大いに栄えた。山陽道周辺に市場が発展、福岡市(ふくおかのいち)と呼ばれ、西国一の賑わいであったといわれている。この市は長く繁栄し、江戸時代まで続いたという。

弘安元年(1278)に一遍が布教に訪れて280名もの住民が出家したと伝えられている。その様子は一遍死後に描かれた『一遍上人絵図』に描かれている。なお、これには福岡市の様子も描かれており、その繁栄ぶりが全国的に有名となった。

また、この地に住み着いた刀工はと呼ばれる名刀を生み出し、福岡一文字や備前長船などといった有名な刀工派閥が誕生、備前刀として伝統工芸となり今に残る。さらにはこの地は備前焼の集積地としても知られていた。

室町時代から南北朝時代になると最勝光院領を経て、後醍醐天皇の命により東寺領とされた。また、この頃、吉井川の中州に福岡城が築城され、北朝の赤松氏の支配下に置かれており、観応元年(正平5年/1350)には足利尊氏が、応安4年(建徳2年1371)には今川了俊も陣地を構えている。 (ウィキベディアより)

     

   

妙興寺には、官兵衛の曽祖父のお墓があります。

      

吉井川近くには、「福岡市 跡」の碑が建っています。また「一遍上人」の布教の絵図もあります。

   

町には、バス停みたいな小路の案内板があります。

    

    

駆け足で町の中を廻りましたが、静かなとても落ち着きのあるいい町でした。

また長船町の中には「備前長船刀剣博物館」もあります。

 

 

 


備中高松城址に行ってきました(岡山市北区)

2013-12-26 05:58:58 | 歴史

来年のNHK大河ドラマは「軍師 官兵衛」です。秀吉の参謀として活躍しました。

この備中高松では、官兵衛の策による 高松城水攻め が行われました。

山陽道歩きの途中ではありますが、この高松城址に行ってきました。

JR備中高松駅で降り高松城址まで800mです。日没時間も迫っており、急ぎ足で現地に向かいます。

   

                     

高松城は備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城)沿いの要衝のちにあり、天正10年(1582)の中国役の主戦場となった城跡として有名です。(備中松山城は高梁にあり雲海で有名です)

城は沼沢地に臨む平城(温城)で石垣を築かず土壇だけで築かれた「土城」です。城の周辺には東沼、沼田などの地名に象徴されるように沼沢が天然の外濠をなしていたのが窺われます。

縄張りは方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして掘りを隔てて同規模の二の丸が面に並び、更に三の丸と家中屋敷とがコの字状に背後を囲む単純な形態です。

途中「舟橋」というのが史跡でありました。

         

舟橋とは

高松城は平城で三方を濠で囲まれていたがこの南手口には具足の武士がようやくすれ違う程の細い道があったが、開戦直前に八反掘を掘り外濠とした。

そこへ舟を並べて舟橋(長さ64m)となし、城内より進攻の際はこれを利用して又退くときは舟を撤去できる仕組みで、城の西北の押出式の橋と共に大きく防御の役を果たしました。

    

     

中国役とは

全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境月七城(高松城、宮地山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城)を築き備えた。

織田家の先鋒羽柴秀吉は天正4年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し境目の城を次々攻略した。

最後に攻めあぐねていた高松城周囲に約2,6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。

籠城1か月を経て城兵が飢餓に陥った頃本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ高松城主「清水宗治」の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。

清水宗治は6月4日 兄 月清入道、軍監 末近信賀、家臣 難波伝兵衛、介錯 国府市介、荒木三河 とともに舟に乗り石井山秀吉陣所前に漕ぎ出て秀吉からおくられた酒肴をうけ

誓願寺をうたい、舞いおさめた。そして「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の名を 高松の苔に残して」と辞世を詠じ46歳で自刃した。

6日午後毛利軍が撤退したのを確認した秀吉は高松城を後にしてここから主君信長の弔い合戦のため山崎まで約200kmを5日間で駆け抜け光秀を討った。(中国大返し

       

 時間も5時近くなりあたりが暗くなり始めた。

短時間ではありましたが、黒田官兵衛の活躍の場を垣間見ることができました。

駅の近くではお正月に日本三大稲荷の一つ 最上(さいじょう)稲荷への参拝の為の準備が行われていました。

 

 

 

 

 

 


筑前五ヶ浦廻船(福岡市西区)

2012-07-25 05:00:00 | 歴史

先日能古島に行ったときフェリーの中で能古島の歴史が書かれていました。
それを見ていると「筑前五ヶ浦廻船」のことが書いてありました。

江戸時代、高田嘉兵衛などの「北前船」が有名ですが、ここ福岡でも「筑前五ヶ浦廻船」といって千石船で
福岡藩の年貢米を瀬戸内海を経て大坂、江戸などに運ぶほか日本各地の産物を日本海や太平洋岸の
長距離輸送に活躍しました。遠くは津軽ぐらいまで運んでいたそうです。
江戸中期には50隻の廻船があったといわれています。

この筑前五ヶ浦廻船の基地になったのが「残島(能古島)」「今津」「浜崎」「唐泊(からとまり)」「宮浦」
でした。
五ヶ浦廻船が栄えたのは正保から享保、天明年間(1644~1647)にかけての頃でした。
この千石船は長さ45尺(約80m)、幅25,3尺(45,5m)、深さ8,8尺(15,8m)で帆の
長さは約40mありました。
殆どが千石船ですが残島には2千石を超える船があったそうです。
船には船頭、摂取、水主(かこ)、炊事など15~20人乗り組んでいました。










【遭難】
五ヶ浦廻船も繁栄を迎える頃になると遭難事故も多くなってきました。
遭難地点を見てみると紀伊半島沖、鹿島灘、三陸沖、能登沖などがあります。
また国外に漂流したのもありました。







宝暦2年(1752)12/8 浜崎の廻船「福聚丸」(15人乗り組み)は青森八戸から塩魚、大豆、小豆を
積み込んで江戸に向け出帆しましたが、いわき灘で遭難し国外へ漂流しました。
宝暦5年(1775)5/25長崎港へ入港した唐船が伊豆白浜出身の三之助を送り届けてきました。
長崎奉行の取調べに対し三之助はいわき灘で漂流し翌年1/29台湾の内海山にて救助され乍浦から
沈綸渓船にて送還されたと述べた。
漂流中10人が死亡、2人が病死他の1人も死亡して自分だけが生き残ったと証言している。

ところが翌年2/4乍浦出航の唐船が長崎に入港して4人の標民を渡した。
奉行所で調べてみると三之助と同じ福聚丸の乗組水主で2人は筑前1人は南部1人は長崎の出身だった。
漂流についてはいわき浦で大風に遭い数十日洋中に漂い翌2月ごろ2人病死、4/23破船し
船頭をはじめ9人が病死した。残る4人は海南島にて助けられ中国各地に送られたあと
長崎に送還されてきたということであった。
三之助の証言とは漂着した場所も異なっておりどちらかの証言に偽りがあることがわかる。

更に同年3/4唐船がまた4人の標民を長崎に送還してきた。これもまた福聚丸の乗組水主であった。
またまた死んだはずの乗組員が送還されたわけで長崎奉行の厳しい取調べによってようやく
真相がはっきりした。

実は呂栄島(ルソン島)近くで破船したこと、乗組員は全員生きていること、別々に帰国した
9人以外の6人は呂栄島に留まることを希望したというのが事件の真相だった。

では、なぜ漂着場所を偽って報告したのか、帰国出来た者がなぜ自分達以外は死亡したと証言したのか、
船頭の善右衛門他6人が帰国を断念しなぜ呂栄島に留まることになったのか・・・・・

周知の通り江戸時代は鎖国令が敷かれキリスト教は禁止されていた。
ひとたび国外へ漂流漂着した者は日本人とは認めないということになり帰国を断念するか、
死罪を覚悟の上帰国するしかないと考えられていた。
漂着の場所を偽証したのは自分にキリシタンの疑いがかかるのを恐れキリスト教布教国であった
呂栄島より中国の方が情状酌量の余地があると考えられたからである。
帰国した乗組員は厳重な取調べの上、偽証は不埒であるがその他怪しいことはないと
それぞれの国に引き取られた。死罪は免れたものの国外不出の居住制限をうけることになった。
それぞれの国以外に出てはならないということは再び船に乗組むことは許されないことを意味している。

宮浦・津上家の「御役頭廻船目録」によるとこの事件の顛末は
「そのうち一人亥年帰り候、また子年春四人帰り候、キリシタンの類に候、それ故、惣蔵をはじめ
親類50人、今宿の牢屋に取り込みなし、大庄屋召上げられ・・・・・」
つまり死罪は免れたもののキリシタンの疑いは晴れなかったわけで下浦大庄屋を務めていた今津浦の
間宗蔵は大庄屋を召上げられ浜崎浦の親類50人が牢につながれることになった。

これによって今津浦、浜崎浦の廻船業は振るわなくなってしまった。
                           (今津小百周年記念誌より引用)

このブログを書くにあたって今の五ヶ浦の写真を撮りにいきましたが
今でも漁港として賑わっている港もありましたが、中にはレジャーボートの係留になったり
博多港の外港として外国との交易の中心であった港は港そのものの形がなくなっていました。



堅苦しい話で申し訳ございません。










にあんちゃんの里(佐賀県唐津市)

2011-06-18 13:58:29 | 歴史
先日長門裕之さんが亡くなられました。
長門裕之さんというと私が小学生の頃の映画「にあんちゃん」に長男役で
出演されていました。
「にあんちゃん」は、てっきり筑豊の炭鉱を描いている作品だと思っていましたが、
佐賀県の肥前町「杵島炭鉱・大鶴鉱業所」だったんですね。

「にあんちゃん」は、両親を亡くした子どもが兄達と懸命に生きる姿を描いており、
子供の頃、読んでいて涙がこぼれたことを思い出します。


その大鶴炭鉱に「にあんちゃんの里の碑」が建っている
ということで行ってきました。

唐津中心部から車で約30分、近くには豊臣秀吉が朝鮮に出兵した時の陣、
名護屋城跡があります。

(現在の大鶴地区)
炭鉱最盛期には、4000人ぐらいの人が暮らしていて映画館や病院なども
あったそうだ。

今はその面影もない。人口も50人ほど。
田んぼの中にひっそり「大鶴鉱業所坑口跡」や、石炭の積み出しに使った
桟橋などがあるぐらいです。



当時の石炭積み出し桟橋

現在の桟橋
その炭鉱跡に2001年秋、作者の安本末子さんの同級生達が資金を出し合い
「にあんちゃんの里」の碑を建てました。

その「にあんちゃん」の作者の安本末子さんも還暦祝いに2003年この地を
42年ぶりに訪れています。

官幣神社「香椎宮」を歩く(福岡市東区香椎)

2009-11-05 19:19:27 | 歴史

官幣神社「香椎宮」を歩く(福岡市東区香椎)

11/3は天気もよく、香椎宮にウオーキングに出かけた。
JR香椎駅を降り、線路沿いの道路を香椎宮へ。
この道路を歩くのは何年ぶりだろう。昔はよく歩いたものだが・・・
相変わらず、道路が狭く、歩道もないので非常に歩きにくい。

西鉄香椎宮前の踏切を渡ると両側に大きな楠がたくさん植えられている。
これは、貞明皇后(大正天皇)が来られたときに植えられたものだ。
参道の両側には、おいしそうなケーキ屋さんが並んでいる。
スイーツファンの方には、気になるところであろうか。
駐車場には、車でいっぱい。

香椎宮は、今、NHKBSで放送されている「街道てくてく旅・春編」で
原田早穂さんが訪れた所だ。

香椎宮は、200年ごろ、仲哀(ちゅうあい)天皇が、熊襲征伐の途中、
橿日宮(かしひのみや)で急逝されたため、神功皇后がその地に
祠を建てて天皇の御霊を祀ったのが起源です。


※香椎宮楼門

楼門をくぐると、大きな杉の木が見える。
これは、このお宮の御神木の「綾杉」です。
写真に修めようとするが、高くて修められない。



資料によると、
神功皇后が三韓征伐から帰国した際、三種の宝を埋め
「永遠に本朝を鎮凛すべし」と誓いをたて、兜の袖の杉枝をその上に
刺したものが現在の大木となったとされる。普通の杉と葉の形状が
異なり、綾状になっていることから「綾杉」と名がついた。

福岡の地酒に「綾杉」というのがありますが、この杉の名から命名したそうです。

本殿に入ると、結婚式でしょうか、新郎新婦が見える。
ちょうど誓いの言葉を言われていた。
そういう私も何十年前にこうやって誓いの言葉を言ったのですが、
さて?守られているだろうか?あのとき、とちったもので内容を
詳しく覚えていない。このことを家内に話せば、たちまち鉄砲玉みたいに
反撃が返ってくる。ここは黙っているほうが無難だ。

ブルースカイの空の下、家内と二人の香椎宮ウオーク。
私たちもこの新婚カップルのように誓いを新たにしたウオーキングでした。