今年のNHK大河ドラマは、「おんな城主直虎」です。その直虎のゆかりの地浜松を訪ねました。
井伊直虎は、井伊谷城主22代直盛の一人娘として誕生。直盛には、男児がなく、従兄弟の亀之丞(23代直親)を娘の許嫁として家督を継がせる予定でしたが、直親の父親が今川義元に殺され、
命を狙われた直親も信州に身を隠します。幼き直虎は、直親が死んだと思い、自ら出家し次郎法師と名乗り、生涯未婚を通すこととなります。
その後、成人した直親が井伊谷に戻るものの、桶狭間の戦いで直盛が戦死、その後直親も殺害され、井伊家は、存続の危機に直面します。
次郎法師は、龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚の計らいで、井伊直虎と名乗り、5歳の虎松(24代直政)の後見人として井伊家を支えました。
1575年、15歳に成長した直政は、浜松城主の徳川家康に出仕し、見事に井伊家の再興を果たします。
先ずは、「浜松城」。
家康が、武田信玄の侵攻に備え、1570年(当時29歳)に築城したのが「浜松城」です。家康は、29歳から45歳までこの地で過ごしています。
城内には、直虎の幟も立っています。家康公のイラストの袴は、ピアノ、直虎が持っているのは、うなぎ。それぞれ浜松の特産が描かれています。
「三方ヶ原古戦場跡」
元亀3年(1572年)、武田信玄と徳川軍が浜松市郊外の三方ヶ原で激突した戦い。家康の生涯で最大の敗戦といわれ、兵の数でも軍術でも劣る徳川軍は総崩れとなりました。
現在、三方ヶ原古戦場跡は、霊園になっています。
「龍潭寺」(りょうたんじ)
龍潭寺に着くと、駐車場は、満杯。また貸切バスが何台も停まっています。やはり大河ドラマの影響でしょうか?
ドラマでは、龍潭寺の南渓和尚を 小林馨さんが演じています。
龍潭寺は、井伊直虎が過ごした所とされています。井伊家歴代の菩提寺。小堀遠州作といわれる国指定名勝庭園や左甚五郎の龍の彫刻等文化財を多く有しています。
井伊家の始まりは約千年前。平安時代の西暦1010年に、龍潭寺門前の井戸から誕生したといわれる共保(ともやす)公を初代とします。
古来より水の湧き出る所は神聖視され、井伊家千年(遠江600年、近江400年)の歴史がここに始まります。鎌倉時代には、日本を代表する武家八介の一人として井伊介(いいのすけ)の名があり、
遠江地方の国人領主として栄えました。
南北朝時代には、南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子、宗良(むねなが)親王をお迎えし、一大勢力を誇りました。
戦国時代になると、今川氏からの圧力が強まり、支配下におかれることとなりました。 やがて永禄三年、二十二代直盛が桶狭間で戦死すると、井伊家は受難の時代を迎えます。
直盛には嫡男がなく、従弟の直親を二十三代当主として迎えるも、今川氏によって殺害され、井伊家の男子は、直親の遺児、幼い虎松(のちの直政)ただ一人となってしまいました。
やむなく、出家していた直盛の一人娘は、幼少の虎松の後見人となり『井伊直虎(次郎法師)』を名乗り、女領主として井伊家の舵取りをしました。しかし今川氏との徳政令(とくせいれい)を巡る攻防や、
家臣の謀反でお家断絶の危機を迎えます。
この時、徳川・武田の遠江侵攻が始まり、幼い虎松は戦乱を避けて、三河・鳳来寺へ預けます。やがて15歳になった虎松を徳川家康公に仕えさせ、直政となって活躍し井伊家再興を果たしました。
家康公に仕えた直政は幾たびの戦いで功績をあげて「徳川四天王」と称され、徳川幕府の基礎づくりに大きな貢献をしました。関ヶ原の戦いで勝利した家康公は「天下を争う大戦度々先鋒として
勝利を得ること誠に国の元勲なり」と直政の活躍を称えました。その後井伊家は直弼を含め5人が大老職を勤めるなど、江戸時代を通して徳川幕府を支えました。
幾多の苦難を乗り越えて繋がれた井伊家の歴史は千余年にわたり、龍潭寺はその菩提寺にあたります。(龍潭寺HPより)
龍潭寺の庭園は、江戸初期の築造で池泉鑑賞式庭園。国指定名勝庭園です。庭園には、ツツジが植えられあと1か月後には庭園一杯に咲くことでしょう。
境内の奥の方には、井伊家歴代の墓所があります。次郎法師(直虎)の墓は、下右の写真の右から2番目です。
龍潭寺の横には、「井伊谷宮」があります。
井伊谷宮は、御祭神「宗良親王」は、後醍醐天皇第四王子(宮内庁調べ)であらせられ、今より約650余年、動乱の南北朝時代に一品中務卿(いっぽんなかつかさきょう)征東将軍として、
この地を本拠に50余年の間、吉野朝方のためにご活躍になられました。
その間、遠江・駿河・三河・甲斐・信濃・越後・上野・美濃等を転戦し、信濃宮・上野宮・越中宮と尊称されました。
親王は、御幼少の折から御出家せられ、やがて京都比叡山天台座主となられましたが、時代の波は親王にも及び、還俗して宗良親王となり、戦陣の中へ身を置かなくてはならなくなったのです。
また、親王は、御幼少の頃より和歌に秀で、終生和歌の道の聖と仰がれました。唯その御生涯は、誠に悲惨な人生であり困苦辛難に満ちたものでしたが、どんな苦しい流浪の中にあっても和歌を離さず、
準勅撰「新葉和歌集」(吉野朝の歌人だけを集めた)の編纂を始め、親王の歌集である「李花集」など当時の歴史資料としても貴重な和歌を多く遣されました。
晩年再びこの地を訪ねられ、元中2年8月10日御歳73才を以ってこの地で薨去されたと伝えられています。(井伊谷宮HPより)
このあと、井伊家の居城「井伊谷城址」に行きました。坂道を上りながらやっとのことで着きました。
この城址は、高台にあるのでさすがに観光客の方は来られていません。
井伊谷城は、この地の領地である井伊谷氏が築いた山城です。標高115mの山頂に単郭式の曲輪が築かれています。山頂の北半分は自然の地形を残し、南半分が平らに均されています。
曲輪の廻りには土塁がめぐり、南側と西側に出入口を持ちます。南側の出入口は、大手に、西側の出入口は、搦め手に相当し、大手口の西側には、土塁が高く築かれており、防御を固めています。
井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその麓にある城館に加え、最終的な詰め城である「三岳城」で構成されていた。
江戸時代の記録によると井伊谷城は、「御所の丸」と呼ばれていました。南北朝の動乱期(1336~1392)に南朝方の拠点として宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁いた場所と関連付けられたことがうかがえます。
展望台からの眺め
井伊家のルーツを訪ねる旅でした。