よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩摩街道(豊前街道)6日目(その1)「山鹿市内を歩く」

2021-06-29 11:58:32 | 薩摩街道(豊前街道)

6/26(土)薩摩街道(豊前街道)6日目。

朝起きると、小雨が降っています。すぐ熊本県山鹿市の天気予報を見ると、午前8時頃には止むとのこと。すぐ出発の準備をして車で山鹿に出かけます。

今日は、土曜日なので高速のETC割引があると思っていましたが、まん延防止の為、7/11までは、割引がありませんでした。

8時半、まだ小雨が降っていますが、山鹿市の豊前街道駐車場に車を止めて薩摩街道(豊前街道)6日目スタート。今日は山鹿から味取(熊本市北区植木)まで予定します。

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山鹿」という地名は、保元の乱(1156)で京都から敗走した宇野(源)親治が山狩りの途中で、鹿が湯に浸かり、傷を癒しているのを見たことにより、名付けられたという伝説があります。

山鹿は、菊池川沿いに「方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき) | 熊本県山鹿市 (city.yamaga.kumamoto.jp)」など古代からの遺跡が点在しております。また、

装飾古墳で有名な「チブサン古墳 | 熊本県山鹿市 (city.yamaga.kumamoto.jp)」など古墳時代の古墳が多い所です。

中世には、菊池川を利用した物資輸送の拠点だった地です。近世では、温泉街や豊前街道によって賑わいを見せていました。

先ず、街道を歩く前に、装飾古墳で有名な「チブサン古墳」へ。

チブサン古墳は、古墳時代後期(6世紀)に造られたお墓です。古墳は前方後円墳で、その後円部の内部に割り石を積み上げて作られた部屋(石室-せきしつ)が造られています。

その石室の奥に石の棺おけ(石棺-せっかん)が置かれてあります。石棺の壁には赤、白、黒の三色で、丸や三角、菱形などの図が描かれていています。正面の二つ並んだ円が女性の乳房に

見えることから「チブサン」という名がついたと言われています。

装飾古墳は、福岡県、熊本県に多く、他には福岡県の王塚古墳、熊本県江田船山古墳などが有名です。

 

  

チブサン古墳から山鹿市街地に戻ってきました。ここから豊前街道を歩きます。

  

  

 

国重要文化財の八千代座です。

八千代座は、明治43年に建築の江戸時代の伝統的な芝居小屋の様式を今に伝える芝居小屋です。山鹿の商工会が劇場組合を作り、1株30円の株を募って建てたものです。

八千代座を設計し、工事監督をしたのは、回船問屋の主人で灯籠師でもあった木村亀太郎です。建築には素人でしたが、研究熱心で東京の歌舞伎座や各地を見学、さらには上海に渡り洋式工法の

長所も取り入れました。

昭和40年代になると庶民の娯楽が多様化し、八千代座は時の流れの中に取り残されていきます。閉鎖状態が続き老朽化が進む芝居小屋。朽ちかけていく八千代座に一番心を痛めたのは、

華やかだった頃を知るお年寄りでした。老人会は、「瓦一枚運動」で募金を募り、屋根瓦を修復。この運動に刺激を受けた若者も、復興へ向けての様々な活動を始めました。

その後昭和63年国重要文化財に指定されました。

平成2年から市民の手づくりで行われた「坂東玉三郎舞踊公演」では、明治の芝居小屋:八千代座が創り出す空間のなかで、華麗に舞う玉三郎丈の舞台のすばらしさに観客は魅せられ、

この公演が復興への大きな追い風となり、八千代座の名前を全国に広めることになりました。平成8年より平成の大修復・復原が始まり平成13年完了。

 

現在、コロナで館内は、立ち入り禁止になっています。

  

  

護國山金剛乗寺は、天長年間(824~834)に空海によって開かれ、かつては建物が大きく西の高野山と云われました。一時は途絶えましたが後鳥羽天皇の勅願で再建され、

宝徳年間(1449~1452)に宥明法印住職によって復興されました。

宥明法印住職は、文明5年(1473)3月温泉が突然枯れてしまったとき、薬師堂を建て祈願をして温泉を復活させた山鹿温泉の大恩人と云われています。その後、宥明法印が遷化したとき、

紙細工の名人・山口兵衛が数百の紙灯籠を作り、霊前に供えたのが山鹿灯籠の起こりとも言われています。
ご本尊は薬師如来。本堂には大日如来、宥明法印像、聖天・不動明王が祀られています。また、境内には修復された如意輪観音堂があり、見事な仏像を見ることができます。

石門は、文化元年(1804)に石工・甚吉によって造られたもので、凝灰岩の切石を使った円形の門です。昭和50年2月、市の別文化財に指定されました。異国を思わせるようなデザインは

町の人々に親しまれています。(山鹿探訪ナビより)

   

山鹿灯籠民芸館の建物は、旧安田銀行山鹿支店(現みずほ銀行)でした。山鹿における洋館建ての第1号として大正4年(1925)建設されました。

木や金具を使わず、和紙と少量ののりだけで作られる伝統工芸品「山鹿灯籠」の歴史は古く室町時代の金灯籠に始まり、大宮神社への奉納のために作られ受け継がれてきました。

その後長い歴史の中で神殿造り・座敷造り・城造りなどと多様化してきました。 その山鹿灯籠が館内に展示され、多彩な灯籠師たちの匠の技を見ることができます。

山鹿灯籠祭りは、毎年8月15日~16日に大宮神社で行われます。(今年2021年はコロナで中止)

その起源は、深い霧に行く手を阻まれた第12代景行天皇のご巡幸を、山鹿の里人たちが松明を掲げ無事にお迎えしたことに由来します。

以来、里人たちは行在所跡(現在の大宮神社)に天皇を祀り、毎年灯火を献上するようになったのが始まりとされています。室町時代になると紙製の金灯籠に姿を変え、その後、

金灯籠を頭に掲げた女性が「よへほ節」で舞い踊る「山鹿灯籠踊り」が誕生し、祭りの代名詞ともいえる千人灯籠踊りが生まれました。(山鹿探訪ナビより)

※「よへほ」とは、「あなたも酔ってね」という意味です。

山鹿灯籠踊りスペシャルムービーSITE (yamaga-tanbou.jp)

  

山鹿千軒たらいなし・・と唄われるほど豊富な湯量をたたえる山鹿温泉は、今からおよそ800年ほど昔、手負いの鹿が沼で傷を癒しているのを見て温泉の存在が知られたといわれていますが、

実際の歴史はもっと古く、平安時代に書かれた和名妙の中にも肥後の国山鹿郡の温泉郷として出ており、千年以上の歴史があります。泉質は、アルカリ性単純泉、ラジウムを含み無色透明・

無味無臭であり、まろやかで柔らかい肌触りは、乙女の肌に例えられるほどです。(説明文より)

 

山鹿温泉の中心的な「さくら湯」は、江戸時代肥後細川藩初代藩主細川忠利公が山鹿に建設した御茶屋に始まります。加藤家の改易後、豊前小倉藩から肥後藩へお国替えとなった細川忠利公は、

豊前街道から熊本入りし山鹿で一泊しています。山鹿の温泉を大変気に入った忠利公は、寛永17年(1640)山鹿に御茶屋を新築しました。明治になり参勤交代が無くなると、御茶屋は、

あまり使われることがなくなりました。明治3年(1870)幕末の思想家「横井小楠」に学んだ山鹿の先覚者、江上津直と井上甚十郎の両氏は、湯屋が狭く老朽化していることに心を痛め、

私財を投じて山鹿温泉の大改修工事に乗り出しました。藩知事の細川護久公は、私有地から木材や石材の切り出しを許可し、御茶屋などの敷地も無償で与えました。

明治31年(1898)には、四国の道後温泉を造った棟梁「坂本又八郎」氏を招いて大改修が行われました。坂本氏を招いたことで、さくら湯は、どっしりとした唐破風玄関を構えることになり、

新たに「松の湯」が造られ、松の湯(一等)、紅葉湯(二等)、桜湯(三等)とされました。また、同時期には、山鹿町内外の有力者などが会議室や宴会場として利用された「松風館(後の

洗心閣)も造られました。

昭和4年(1929)の改築では、南側にも唐破風の玄関が付けられ、昭和33年(1958)には、浴槽が改修されました。しかし、昭和46年(1971)8月に発生した大火による中心市街地の

再開発により、昭和48年(1973)、さくら湯は惜しまれながらも解体され、昭和50年4月、新しく建設された温泉プラザ山鹿の一角に移りました。そして入口に付けられた唐破風の玄関だけが

往時の雰囲気を残しました。その後、八千代座の復興や豊前街道の整備に繋がった山鹿の歴史や文化を大切にしようという市民の声の高まりによって、山鹿温泉の元湯であり、市民温泉として

愛されたさくら湯を元あった場所に、昔の構造、佇まいで再建することになりました。そして平成24年(2012)11月幾多の変遷を辿ったさくら湯は「湯の町山鹿の歴史と文化を代表する顔」

として甦りました。(館内案内板より)

前回は、峠越えで疲れてしまったのでこのさくら湯には入れませんでしたが、今日の帰りにでも入ろうかと思っています。

 

さくら湯の入り口には、「孝子孫次郎の碑」が建っています。

孫次郎は、湯町上町に住み、鍛冶を業とし、家は貧困であったが、非常に親孝行で母を背負って毎日母の好きなお湯に入浴させた。

寛文6年(1666)藩主細川候から孝子として褒賞せられ、熊本に召し出されて国の鍛冶の総取締を命ぜられた。

 

さくら湯の敷地の中には、「薬師堂」があります。千年以上の歴史がある山鹿温泉が突然枯れてしまったのは、文明5年(1478年)3月のこと。当時の湯主、左近郷近宗がいろいろと手を打って

みましたが効果がありません。そこで、菊池重朝公の祈祷寺だった湯町・九日町の金剛乗寺・第八世宥明法印に、温泉復活の祈祷をお願いしました。
法印は薬師堂を建立し、毎日丑の下刻(午前3時)に起床、身を浄め祈祷に励みました。不眠不休の祈祷により、満願になると湯が以前に勝る勢いで湧き出しました。(山鹿ガイドより)

  

山鹿の市内は、見る所が多く、なかなか先へ進めません。山鹿の町並みは「日本遺産」に認定されているそうです。重い腰を上げ再びスタート。

山鹿市のマンホールは、八千代座、灯籠娘が描かれています。マンホールカードがあるかな?と調べましたが、配布していないそうです。

  

火除け地蔵尊

 

光専寺」楼門は熊本城築城の際、余った材木で作られたもの。 境内には江戸時代、米問屋で豪商の宗方屋が寄進した一切経を納めた経蔵がある。

この寺は西南戦争開戦当初は薩軍の兵站基地であったが、 後に野戦病院に使用された

 

菊池川の手前の所には、「千代の園酒造」があります。明治29年(1896)創業。江戸時代メーンストリートだった豊前街道と穀倉地帯における水運を担っていた菊池川が交わるこの地で

元々は、米問屋を営んでいました。千代の園の由来は、古来より皇室を表すとされる「竹の園」、皇室ひいては日本が千代に八千代に栄えることを祈り「千代の園」と名付けられました。

(千代の園酒造HPより)

  

千代の園の先は、菊池川です。ここ山鹿の玄関口には、「惣門」の番所があり、治安維持の為、夜間は通行が禁止されていました。

 

山鹿大橋には、灯籠や灯籠娘のオブジェが建てられています。

 

  

(その2)に続く

 

 


ふくおかウォーキング協会楽しいウォーク「春日市散策」(福岡県春日市)

2021-06-24 15:51:52 | ウォーキング

6/23(水) 福岡県も20日に緊急事態宣言が解除され、ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークも約2か月ぶりに再開しました。

今日は、「春日市散策」コースで、集合場所は西鉄井尻駅。参加者は、36名。やはり皆さんの元気な顔を見ると嬉しくなってきますね。

今月と7月、8月は、私たちのグループの担当です。このコースも6/21に下見を済ませました。

 

このコース、本来は、春日神社を通り、大野城駅をゴールにしていましたが、久しぶりの例会で、また、今日も気温が30度近く上がる予報ですので、ゴールを春日駅に変更しました。

ミーティングの後、9:37スタート。

 

最初の休憩は、スーパー。ここで水分を補給します。

  

国指定史跡である須玖岡本遺跡の一角につくられた「奴国の丘歴史公園」には、弥生時代の甕棺墓などを発掘調査時の状態で展示しているドーム(覆屋)があります。

魏志倭人伝に出てくる「奴国(なこく)」。「明治32年(1899)、須玖(すぐ)岡本遺跡の一角で偶然発見された甕棺墓には、約2100年前に中国で造られた30前後の中国鏡、銅剣や銅矛などの

青銅武器、ガラス製の璧や勾玉など多数の副葬品が納められていた。この甕棺墓は、集団墓から離れて単独で存在することや、副葬品の質・量などから奴国王の墓と考えられている。

中国の皇帝から「漢委奴国王」の金印を授かったのは、この被葬者より数世紀後の王である。

王墓の北側一帯には、青銅器やガラス製品を生産していた工房跡が集中して発見されている。当時の先端技術が結集したこの地は、弥生時代のテクノポリス(高度技術集積都市)と呼ぶに

相応しい。

須玖岡本遺跡の周辺からは、銅剣、銅矛、銅戈、銅鏡、小銅鐸、銅鏃(どうぞく)などの鋳型や、坩堝(るつぼ)や銅滓(どうさい)などの青銅器生産関係の遺物が大量に出土しており、

鉄器生産を示す遺跡も見つかっている。」(奴国の丘歴史公園パンフより)

然し、2100年前にもう中国と交易があったなんてびっくりしますね。

 

 

 

 

 

奴国の丘で休憩のあと、再スタート。

 

 

春日ふれあい文化センターで最後の休憩。暑くなってきたので水分が欠かせません。

 

紅葉ヶ丘交差点から光町に向かいます。

 

11:40 JR春日駅にゴールしました。

 

今日のGPSです。

 

 


薩摩街道(豊前街道)5日目(その2)「南関(熊本県玉名郡)~山鹿(熊本県山鹿市)」

2021-06-20 13:11:06 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

光行寺、官軍墓地から先を進むと、また坂道です。ここが豊前街道屈指の難所「腹切坂」です。何か物騒な名前ですね。

資料によると、永ノ原台地(西南の役古戦場)へ向かう約200mのこの坂を腹切坂という。道幅3mの右側は深い浸蝕谷となり、左側は急崖となっている。

腹切坂の名は、すでに慶安4年(1651)の「御帳之扣(ひかえ)」に見える。「小倉路」にも参勤交代の道中、屈指の難所とされた所である。

この坂道も戦後迂回道路の新設(昭和45年)に伴い、地域住民の生活としての使命を終えた。

どうしてこの名になったかは、

【腹切り坂の話】◆その1

 約800年前、源氏と平氏とが天下を分けて戦ったが、平氏は壇ノ浦で敗れて、大方は討ち死にし、残った者は落ち武者となって、散り散りに九州の各地を逃げ惑っていた。

しかし、源氏の追討は厳しく、草の根を分けてでも平氏の落ち武者狩りを断行したため、平氏の多くは各地を逃げまどう途中で討たれたり、あるいは病に倒れたりした。  ある日、野を越え、

山を越えて逃げ延びた落ち武者の一団が、この険しい坂道に差しかかった際、風にそよぐ木の葉の音にも、すわ源氏の追討かと驚き恐れ、心身共に疲れきって、重い足を引きずりながら

登っていく。  一行の中に、矢傷を負い家来の肩を借りながらここまで歩いてきた武将がいた。坂の途中で一同を止め、「もうこれにて余が武運は尽きた。一足先に今度の戦いで散った

一族のいる黄泉(よみ)とやらに行かせてもらう。皆は達者にて生き延びてくれ。」と言い、遥か壇ノ浦とおぼしき方角を伏し拝み、西方浄土への来迎にあずからんと、西に向かって念仏を唱え、

見事腹を切って果てたという。  この痛ましい武将の名は残念ながら残っていないが、村人たちはここを「腹切り坂」と呼ぶようになった。

【腹切り坂の話】◆その2

昔、ある飛脚は、その日のうちに熊本の細川家に届けなければならない江戸からの大事な書状を預かっていた。彼は南の関で食べた物が悪かったのか、腹が痛くなり、何回も道端で

用を足しながら、きりきり痛む腹を押さえ、岩村から永ノ原に登る坂道にようやく差しかかった時は、足はふらふらで脂汗を垂らしながら、意識は朦朧(もうろう)としており、

這うようにして坂の途中までたどり着いたが、性も根も尽き果て地面に倒れ込んでしまった。  そこへ野良帰りの農夫が通りかかったので、飛脚は、「ここから頂上まではどのくらいあろうか。」

と尋ねたところ、農夫は、そこがちょうど坂の中間付近であったので、「貴方がこれまで来た道程はありましょう。」と答えた。飛脚は江戸から300里の道を駆けて来たことをそのまま

受け止めたために、勘違いして大変なショックを受けた。  そのとき、岩村の光行寺で打ち鳴らす入僧の鐘がいんいんと聞こえてきて、もはや今日中にこの書状を熊本まで届けることが

絶望となったことを悟った飛脚は、農夫から鎌を借りるやいなや自分の腹を切って死んだという。

【地質の話】◆その3

広い台地(原)の端(切り)にあたることから「腹切坂」と呼ぶようになった。

果たして真相はどちらでしょう?

 

この坂、本当に急です。少し歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりそれを何回も繰り返して何とか、この坂を越えることができました。

  

  

永ノ原付近は、田原坂の戦いと同じく、明治10年3月の西南の役時、薩摩郡と政府軍が死力を尽くした「山鹿口の戦い」でした。多くの官軍墓地がある中で、ここには、唯一戦死した薩軍の

兵士を森の周辺に埋葬した場所があります。西南戦争 - Wikipedia

説明文によれば、明治10年(1877)に起こった西南の役において田原坂と並ぶ激戦が繰り広げられたのが、山鹿市と和水町にまたがるここ永ノ原台地である。

2月14日別府晋介率いる薩軍先発隊が鹿児島を出陣し、翌日から約1万3千の大軍がこれに続いた。これに対し政府軍は、熊本鎮台小倉分営の他、東京・大阪・広島鎮台などから兵を派遣し、

24日には、山鹿市津留の正円寺に本陣を構えた。翌25日には、薩軍の桐野利秋四番隊長・熊本協同隊・宮崎飫肥隊が山鹿に進み本陣を設けた。

戦いはひと月近く続いた。途中、田原坂敗退の誤報により、薩軍は、一旦山鹿迄引き上げたものの薩軍有利のうちに進んでいった。然し、3月10日に三浦悟楼少将が三固隊を率いて、

岩村に入ると、兵力は薩軍を上回るようになった。その後も一進一退で戦いは続いたが、3月20日に田原坂が陥落すると、官軍の勢いは増し、翌21日の官軍総攻撃により薩軍は敗れ、

山鹿より後退していった。

  

ハゼ並木は、ロウソクの原料となるハゼの実を生産するため、肥後細川藩がハゼ栽培に乗り出した18世紀半ば頃に植えられたものです。樹齢250年のものもあります。

 

ハゼ並木を進むと、山鹿郡と玉名郡との「郡境碑」が建っています。ちょっとわかりにくいですが、「従是西北玉名郡」と書いてます。

    

ここから梅迫バス停までは、昔、「車返しの坂」(車坂)と呼んでいたそうです。荷車が戻るほどの急な坂道でした。現在では、改良されたのか、そんなに急ではありませんでした。

  

梅迫バス停で国道443号線と合流します。

  

七里木跡を過ぎ、山鹿市サイクリングターミナルに着きました。サイクリングセンターの前には、「追分石」があります。

右「南関道」、左「国道兼松」。兼松というのは、現在の福岡県八女市立花町兼松です。

  

山鹿市や菊池市を始め菊池川流域には、5世紀~6世紀にかけての古墳遺跡が多く残っています。この「石人」は、山鹿市にある「チブサン古墳」にある石人です。古墳を守っています。

いつか、この古墳を見にいってみたいですね。 

  

 

鍋田横穴群は、古墳時代後期(6世紀)、熊本県北部を流れる菊池川の支流の岩野川に沿った崖面に作られた群集墓です。その崖面には阿蘇大噴火の火砕流でできた岩(阿蘇凝結熔解岩)が

露頭した場所があり、古墳時代の人々はここに横方向の穴を掘って、お墓としました。鍋田第27号横穴墓の左外壁には、人物、弓、盾、馬、靫(ゆぎ;矢の入れ物)などが浮き彫りされています。
山鹿市内では、このほか長岩横穴群や城横穴群など多数の横穴群が点在していますが、鍋田横穴群はわが国の装飾横穴の代表格と言えます。

  

 

 

15:50 山鹿市中心部にやってきました。ちょっと空模様がおかしくなってきましたので山鹿市内の観光は、また次回にしたいと思います。

 

今日は、GPSを忘れてきましたので携帯のヤマップを使いましたが、充電切れで使えませんでした。別の携帯のアプリです。

 

 

 


薩摩街道(豊前街道)5日目(その1)「南関(熊本県玉名郡)~山鹿(熊本県山鹿市)」

2021-06-18 14:07:41 | 薩摩街道(豊前街道)

6/16(水)昨晩から雨が降っていたが、天気予報によれば、8時ぐらいから雨が止むそうで、6時15分福岡の自宅を車で出発。

途中の高速では、大雨に遭い、このまま引き返そうかと思いましたが、雨が止むということを前提に山鹿に向かいました。山鹿着7:40。

山鹿から産交バスで前回ゴール地南関に向かいます。このバス途中の乗降客はなく、始発から私たち夫婦の貸し切り状態です。

産交バス南関バスターミナルには、9:02到着。山鹿から約40分です。この距離を今日歩きます。

南関でも雨が降っています。バックからポンチョを出して被り、傘をさしてのウォーキングです。豊前街道の南関~植木は、坂の多いコースです。上り坂が苦手は私には少し気が重いです。

雨が少し小降りになりましたのでウォーキング開始します。

 

南関町関下の信号から旧道に進みます。

  

途中「八塚」があります。説明文を見ると「文禄の役(文禄元年1592年)の際、南関城代の加藤清兵衛は、息子の大助と家人石九里吉内を八人の家来によって救われた。八人の霊を祭るため

築かれた塚である」

姫塚」 「城を逃れていた城主の娘が小原城が焼け落ちるのを見て、自害した場所といわれる。」塚は、この案内板の上10mの所にあるそうです。

  

追分石」ここ南関町の追分は、豊前街道と高瀬往還(玉名市)の分岐点にあたり、街道を南に下る旅人の為に道標が建てられました。石柱に「ひだりやまか道」「右たかせ道」と

彫りこまれています。

  

熊本城内と城下町を結ぶ接点であった新一丁目御門の前には、肥後(熊本)藩の種々の政令を掲示する「札辻」(ふだつじ)と呼ばれる広場がありました。
この「札の辻」が里程元標にあたり、ここを起点として、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、薩摩(さつま)、日向街道(ひゅうがかいどう)の里数が測られました。その際に、一里、二里、

三里・・・と進むごとに、街道の両側に榎(えのき)を植えてこれを里数木と称していました。

ここは、「十里木」熊本城から約40kmの地点です。私たちが歩いている豊後街道も熊本城ゴールまであと約40kmです。

 

坂を下りると大きな道に合流しました。九州道のガードを潜ります。雨も止んできたみたいです。ポンチョを着ていると暑くて暑くて・・・交流センターバス停でポンチョを脱ぎます。

少しホッとしました。

 

南関町小原の信号から旧道に向かいます。信号の近くが「小原茶屋跡」です。茶屋跡には豊後街道の案内板が建っていました。それによると、旧豊前街道は、熊本・細川藩のみでなく、

人吉藩相良家、薩摩藩島津家なども参勤交代のたびたびに利用し、宿泊や昼休みで南関お茶屋を使っていることが知られていますが、一般の旅人もこの道を大いに行き来しました。

著名な人物としては、長州藩吉田松陰、越後長岡藩河井継之助、それから島津斉彬の養女でのちに十三代将軍家定の正室となる篤姫などもいました。

 

第三小学校の所で国道443号に合流します。相谷バス停より右折し、肥猪(こえい)町に向かいます。

 

八幡宮の横には、西南の役の際、薩軍と交戦して死亡した政府軍の将兵180柱を埋葬した「官軍墓地」があります。この墓地には、明治10年(1877)3月12~13日鍋田、平山(山鹿市)の戦闘で

戦死した、熊本、広島、大阪、名古屋の各鎮台及び近衛所属の将兵が埋葬されています。

  

官軍墓地を過ぎたあたりから「肥猪町北構口」です。

肥猪(こえい)宿」は、山鹿と南関の中間に位置し、間(あい)の宿と呼ばれていました。「肥前国誌」には、肥猪宿の北の構口から南の構口までの長さは、二町二十七間、カマド(家)数は、

四十軒程で、二枚掛けの御高札場があったと書かれています。一直線の町筋の両側には、テン屋(食堂)、くり屋(木製のお盆やお椀を作る)、木賃宿、麹屋、鬢付屋、造酒屋などが

軒を連ね行き交う旅人で大いに賑わっていました。「玉名郡誌」によれば、細川の大殿様には、御茶を、若殿様には、蕎麦を御馳走したと伝えられています。

 

明治8年には、郵便局もあり、賑やかな町でしたが、現在では、国道が別な場所を通っていますので静かな町になっています。

 

 

  

  

九里木跡の道標に書いてある「左山鹿、熊本」の通り左折する。然しどうもおかしい、マイマップでは、国道443号線に合流しないのですが、国道に合流してしまった。

マイマップの間違いかな?と思ってそのまま歩きますが、和水(なごみ)町(菊水町と三加和町が合併して和水町になった)に入ってしまいました。

 

誰かに聞こうと思いますが、このあたりは、人通りも少なく行き交うのは車だけ。そのまま歩くと三加和温泉街に入ってしまいました。

近くで農作業をされている方に聞くと、全然違う方向を歩いていました。豊前街道に戻るには、スカイドームの先を2kmぐらい直進すればいいと教えてもらいました。

 

スカイドームを目指して歩きます。スカイドームは、現在コロナの集団接種会場です。

 

やっと、窪園の豊前街道説明板まで来ました。ここから間違ったところまで戻ればいいのですが、あまりにも距離がありますので、「白坂口」まで行ってみます。

 

「肥後隈本軍記」によると、戦国末期の天正15年(1587)肥後で起こった国衆一揆の際、山鹿の城村城において隈部氏と戦いを繰り広げていた佐々軍に対し、食料物資を届けた立花宗成軍の

帰路を和仁(わに)、辺春(へばる)、大津山軍がここ白坂で襲ったという。この襲撃をきっかけに和仁、辺春氏も一気に加担し、田中城(三加和町)に立て籠もるようになったと伝えられています。

 

池田右京邸跡は、薩摩藩主島津家久公が宿泊した所です。平野橋の上流には、眼鏡橋が架かっていたそうですが、昭和57年7月の洪水で流出したそうです。

 

窪園に戻ってきました。この窪園には、数件の旅人宿があったそうですが、平成2年をもって姿を消しました。残った1軒は、西南戦争の時、繃帯所(ほうたいしょ)とされ、戦傷者の

手当を行ったことから「赤十字社発祥の地」の一つといわれています。

再び山道に入ります。

 

坂を下った所には、「ヒジ曲がり」という急な下りがあります。雨で路面が濡れていますので滑らないようゆっくり下りていきます。

下りた所が「八里木跡」です。熊本城迄あと約32kmです。

  

八里木跡から広い道を歩くと「歴史の道」の看板が立っています。遠くには「光行寺」が見えます。

 

光行寺」は、参勤交代の際、肥後藩主細川家のお茶所で、門の軒瓦には、細川家の家紋「九曜紋」が残っています。本堂には、肥後初代藩主細川忠利、二代光尚親子の位牌が置かれています。

明治10年の西南の役には、一時、官軍の本営が置かれ、三浦軍司令官や旅団参謀の軍議宿泊の場所になっていました。

光行寺の横には、「下岩官軍墓地」があります。

 

 

 

今日は、ここまで全然休憩していなかったのでここで休憩します。

 

このあとは、(その2)に続きます。

 


薩摩街道(豊前街道)4日目(その2)「瀬高(福岡県みやま市)~南関(熊本県玉名郡)」

2021-06-12 13:07:21 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

要川公園から国道443号線を下っていきます。北関下バス停の手前の所に「カサ地蔵」があります。これは、江戸時代後期の建立で後光がカサを被っている姿に見えることから

カサ地蔵と呼ばれています。カサ地蔵の横には、田尻因幡守種貞供養塔があります。

  

 

 

国道の右側には、「松風の関」の案内板があります。近くで農作業をされていた方に聞くと、松風の関は、この旧道を登ったところにあるそうです。

そこから今度行く「はなたれ小僧」には行けるかどうか聞くと、場所が違うから戻ってきた方がいいといわれ、とりあえずその松風の関に行くことにしました。

 

 

松風の関は古代からの築後の国と肥後の国を結ぶ街道が通り、その中で背戸坂と呼ばれた、最も峻険であり要害の地でありました。  平家物語に「寿永二年・・・菊池次郎高直は都より

平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後の国にうちこえて、・・・。」とあり、ここに出ている大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。 

 寿永二年(1183)当時既に関所として菊池氏によってまもられていたこと、七世紀に作られた古代官道に関所を置いたものであろうと言うことがわかってきています。  

その後戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしましたが、戦国時代の終わりに田中吉政が筑後国三二万五千石の領主として柳河城に入ると慶長六年(1601)、

ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っております。

 

松風の関から戻って再び国道443号線を歩きます。

はなたれ小僧は、国道の左側にあります。ふと看板を見ると、「真弓廣有公墓所」と書いてます。

「真弓」というと、地元太平洋クラブライオンズに入り、その後阪神タイガースに移り、最後は阪神の監督を務められた「真弓明信さん」を思い出します。

調べてみると、弓の名手隠岐次郎左衛門廣有は、怪鳥を弓で落としたということで真に弓を射るものとして「真弓」の名をいただきました。その後後醍醐天皇の息子「懐良親王」のお供で

九州へ下り、親王が亡くなると自分の任務も終わったと山里に入り、1369年その地で一生を終えました。その山里が「山川町真弓」です。

真弓選手も生まれは、熊本県南関町、育ちが大牟田市です。先祖は弓の名手でしたが、真弓選手は、バットの名手だったのですね。

 

はなたれ小僧さま」は、テレビの日本昔話にも登場しました。説明文を見ると、

真弓に正直者の老夫婦がいて、山で刈った柴を南関の町に売りに行ったのですが、全然売れなかったので水神様へお詫びして、柴を川に流したところ、川から水神様が出てきて

「柴のお礼としてこの小僧様をあげよう。この小僧様は、エビナマスしか召し上がらぬ、願い事はなんでも聞いてくださる」というと、消えてしまいました。

気が付くと目の前に可愛い小僧さんがいましたが、鼻の下に汚いふたすじの鼻汁を垂らしていました。その小僧様に祈ると、欲しいものが何でも出てきて老夫婦は、大金持ちに

なりましたが、エビナマスをとることと、鼻汁が嫌になって、この小僧様を水神様に戻すことにしました。すると、今まで建っていた屋敷も蔵一杯の米も消えてしまって、もとのような

貧乏暮らしになったといいます。

この話に登場します水神様が出てきた底なし淵は、この看板の後ろ、水神様の祠は、真弓の釈迦院内にあります。また、おじいさんが建てた屋敷が地名(屋敷谷)として残っています。

それから小僧様の石像が造られたのを契機として「民話の里まつり」が大谷区で開催されています。(説明文より)

  

ここで少し休憩します。

 

休憩後再スタート。国道443号線から少し離れて九州道の方に向かいます。

 

九州道のガードをくぐると大牟田市に入ります。

 

大牟田市四箇湯谷と南関町関外目の県境には、「湯谷柳河領境石」が二つ立っています。古い方は江戸初期に建てられたものでそれが折れたため、江戸末期に建てられました。

  

ここを過ぎると、熊本県玉名郡南関町です。ここからまた「豊前街道」の標識が出てきました。

南関町は、筑後国と肥後国の国境という交通の要地に位置した街道の警備の拠点であり、現在の南関町の中心部近くには、関所と南関番所が置かれた(関所は、大津山の関、

松風(まつかぜ)の関とも呼ばれていたが、関所がおかれた正確な場所は、いくつかの説があり現在もはっきりしていない。福岡県山川町と南関町の県境付近に置かれていたという説や、

北の関と南の関の二つがおかれていたという説がある)。(ウィキペディアより)

  

大津山城  応永2年(1395)室町幕府4代将軍・足利義持からこの地を与えられた日野資基が京より下向して、大津山城を築き、大津山氏を名乗りました。約200年にわたって大津山氏が

支配しました。「木屋塚」とは、何かわかりません。

北原白秋生誕地(石井家住宅) 石井家は、北原白秋の母「しけ」の実家です。現在の柳川市に嫁いだ「しけ」は、実家に里帰りして、1885年1月25日北原白秋を産みました。

後にこの実家を訪れた白秋は、「春霞 関の外目は玉蘭(はくれん)の 花さかりかも 母の玉名は」と詠んでいます。この石井家は、2019年国文化財に指定されています。

現在、保存整備中ですので中には入れませんでした。

  

さて、ここから街道が高速道建設によってわからなくなっています。地元の方に聞くと、この先は山道になっていて、高速道の上を通った方が無難といわれ、高速の方に向かいます。

  

国道を歩いていると右側に産直店「いきいき村」があります。ここで休憩します。店内には、南関あげや南関素麺など南関の特産物が売られていました。

「南関素麺」は、250年の歴史を持ち、肥後藩主細川氏は、参勤交代の折、お土産として徳川家にこの素麺を献上していました。「南関あげ」は、大きいものは、30cmぐらいで日本一多きな

油揚げです。天草の乱の後、人口が減り四国松山から移住された人々から伝わったそうです。

「大津山公園」は、山頂に中世の山城(大津山城)跡があります。

 

南関町関東の信号を右折。

 

 

左側には、南関第一小学校が見えます。この学校の校歌は、北原白秋が作詞しました。

南関番所跡は、筑後国との国境として肥後藩に出入りする人々の検閲や取り締まりを行いました。

南関御番所跡の所から旧道を歩きます。

  

南関町御茶屋跡 南関御茶屋(御客屋)は、嘉永3年(1850)8月に起工して、嘉永5年(1852)正月頃に完成したもので、藩主が参勤交代する時や領内巡視の際に休憩、宿泊していたものです。

古文書によると、それまでの御客屋(南関町公民館付近)が古く狭い上に間取りが悪く、藩主休泊の時に混雑するという理由でこの地に建て替えが行われました。

財源の一部には富講の売上金が充てられました。
建物は、南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配されており、屋根には細川家の九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれております。通常御茶屋と御客屋は別々に

存在しておりますが、南関の場合はひとつの建物を御茶屋とも御客屋とも呼んでいたようです。
大政奉還後、国の所有となった御茶屋のほとんどは、小学校や役場などの公的施設として利用されていきますが、その反面、用途に応じた増改築等で御茶屋本来の姿を消していくことになります。

南関御茶屋の場合は、明治25年(1892)に個人の所有となり、「御茶屋跡」として大事にあつかわれ、建物は民家や料亭として利用されました。昭和3年(1928)7月18日には南関町にゆかりの

ある北原白秋の歓迎会がこの御茶屋で開催されております。
平成15年8月27日に国の史跡として指定され、同年より保存修理工事に着工し、平成16年度末、往時の姿を取り戻すこととなりました。(南関町HPより)

 

 

また、御茶屋跡の近くには、官軍墓地や鷹ノ原城跡があります。今回は時間の関係上パスしました。

 

  

中町の恵比須さんは、説明文を見ると、町屋敷にあり、中町の人たちが十月二十日夷講を行い、守ってきた。木像は恵比須像、豊玉姫像、石祠は寛政7年(1795)再建。

 

正勝寺は、室町時代1506年の創立で由緒あるお寺です。明治10年西南戦争の際、征討総督有栖川宮殿下が大本営を置かれた場所です。

 

北原白秋の素麺の歌碑 「手うち素麺 戸ごと掛け並め 日ざかりや 関のおもては静けかりにし

南関の素麺作りの最盛期明治中期には、200を超える製麺業者があり、すだれのように長く伸ばした素麺干しの光景が数多く見られました。現在は、9軒の製麺業者が昔と変わらぬ

伝統の味と製法を守り続けています。

 

  

時計を見ると14時前。南関から瀬高には、直接行く交通機関がなく、一旦バスで大牟田に出てそれからJRもしくは西鉄で瀬高や福岡に行きます。

南関~大牟田間のバスは、土日用で1時間に1本です。調べると14:03に発車するようです。急いで西鉄バス南関営業所に行き、14:03の大牟田行のバスに間に合いました。

南関から大牟田駅までは約50分かかりました。

 

本日のGPS

次回は南関~山鹿を歩く予定です。山鹿に車を置いてバスで南関に行こうかと思っています。

 

 


薩摩街道(豊前街道)4日目(その1)「瀬高(福岡県みやま市)~南関(熊本県玉名郡)」

2021-06-10 11:29:20 | 薩摩街道(豊前街道)

6/6(日)自宅から車で来て、瀬高駅に駐車後、薩摩街道(豊前街道)を歩きます。今日は熊本県玉名郡南関まで予定しています。

7:50 瀬高駅スタート。

上小川の信号辺りに「二里石」があるそうですが、見つけられませんでした。二里石は、柳河城から二里(約8km)の地点ということです。

 

満福寺より旧道に向かいます。民家の庭先には、山法師と煙の木が綺麗に咲いていました。

どこからともなく、鶏の声が聞こえてきます。見ると、大きなこれは、シャモでしょうか、見事な色をした鶏が鳴いていました。

  

先を歩くと、このあたりに「松延城址」があると書いてます。近くの人に聞くと竹林あたりが松延城址だと教えてくれました。

松延城址は、築城は天正7(1579)年、山下(八女郡立花町)城主・蒲池志摩守鑑広に属した樺島式部によると云われている。肥前(現、佐賀県・長崎県)の龍造寺家に対する備えとしての

役目を担い、天正15(1587)年に立花宗茂が柳河城(柳川市)に入ると、重臣・立花三郎右衛門が城代となった。

慶長6(1601)年、関ヶ原の合戦に際し、立花家は西軍に与したため改易となり、代わって田中吉政が筑後一円の領主として入封した。この時、当城には家老・松野主馬が1万2千石を賜って

入城したが、元和元(1615)年、徳川幕府の一国一城令により廃城となった。

近くには、樺島という表札の家があります、樺島式部の末裔の方でしょうか?

 

九州新幹線のガード下を潜ります。

 

大根川橋の手前を左折。

 

面ノ坂です。両側は竹林や小高い山に囲まれています。江戸初期柳川田中藩主の時、肥後の赤腹村の立花宗茂の正室・闇千代姫に米や金品を隠れて送った罪で松延村の大庄屋樺島式部と

嫡男彦左衛門などを磔の刑に処した所です。坂を下ると祖霊廟やお墓が立っています。

  

国道との合流地点に三里石があるそうですが、また見つけることが出来ませんでした。

歩いていると御座敷梅林の看板が飛び込んできます。2年ほど前の2月に御座敷梅林を訪ねたことがあります。御座敷一面に梅の花がありそれは壮観でした。

  

このあたりが「野町赤坂」です。ここには、「野町追分石」がありました。また、地元の人に聞くと、この地「赤坂」は、源平合戦の時、流れた赤い血の坂が「赤坂」となったそうです。

  

歩いていると通りに鳥居が2本並んだ神社があります。一つは「天満宮」もう一つは「祇園宮」です。多分祇園宮の鳥居があとで建てられたと思いますが、二つの鳥居が並んでいるのは

珍しいです。

お牧山案内図」という看板があります。お牧山というのは、みやま市最高峰(標高405m)。天和3(1683)年、柳河藩3代藩主立花鑑虎が、母の郷里仙台から種馬を取り寄せ、軍馬、農馬を

育成する牧場を開いたことから御牧山といわれています。市内を一望できる山頂からの展望は抜群で、阿蘇山や筑紫平野、佐賀平野、背振連峰、有明海、雲仙普賢岳と360度のパノラマが

楽しめます。山頂にある「お牧山公園」では夏になるとキャンプが楽しめるほか、正月は初日の出スポットとして多くの人が訪れます。(みやま市観光案内より)

立ち寄ってみようかと思いましたが、ここからでは結構な距離がありますのでパスしました。尚、ここから高速道山川PAバス停に行けます。

 

JAみなみ筑後の所には、大きな「山川みかん」のオブジェがあります。山川みかんは、みやま市山川の特産品です。皮が薄く甘くておいしいとの評判です。

ちょうど、この時間JAみなみ筑後内で朝市が行われていました。総菜コーナー、甘夏、肥後グリーン(メロン)などが売ってます。見ると肥後グリーンが1個@400です。

リュックが重くなるのはわかっていてもついつい買ってしましました。店主からは、山川みかんをいただきました。  

  

山川みかんのオブジェの横に「平家の塔」があります。「要川の合戦」に敗れて亡くなった平家方の人々を弔うために、里人が建立した塔です。

  

 

みやま市役所山川支所から少し歩いたところに「日当川地蔵」があります。案内板を見ると、「戦国時代(1579)肥後領内で一つの領地を巡り隣接する隈府(わいふ)城主赤星氏と隈部氏の間で

争いが起り、肥前の龍造寺氏と結んだ隈部氏が勝利した為、赤星統家(むねいえ)は、長男新太郎を龍造寺氏のもとへ人質に出し和睦した。その後、赤星に対して肥前の龍造寺氏のもとに

伺候するよう再三呼び出すがそれに全く従わない赤星に対し最後の使者を隈府に出す。然し生憎城主統家は、留守であった為、使者は、そこに居合わせた長女の安姫を城主の代理として

肥前に連れ去った。そして龍造寺氏の意にあくまで叛く赤星に対し、これでは示しがつかないと日当川の河原で人質の新太郎14歳、安姫8歳それにお供の者12名の計14名をたく殺(はりつけ)

という残虐極まりない処刑を見せしめの為下知したのである。その折、新太郎は次の辞世の歌を詠んでいる。

「わが面て 西にな向いそ 赤星の 親に後ろを 見せじと思へば」そのことがあってこの地の里人達は、他国の地で無念の死を遂げた幼い二人の霊を供養するためここに地蔵尊を祀った。」

桜舞館小学校は、平成28年(2016)山川東部、山川南部、飯江、竹海の4小学校が統合してできた小学校です。ネーミングがいいですね。

  

郡境石 隈府(わいふ)とは、現在の熊本県菊池市。以前は隈部と呼ばれていましたが、隈部の府ということで略して「隈府」となりました。

原町お茶屋跡 原町には、お茶屋と宿駅(馬継所)が置かれていました。現在の原町郵便局あたりがお茶屋でした。

 

郵便局の隣には、「原町の観音さん」(大悲山甲山寺多福院)があります。ちょっと読みにくいが、説明文を見ると、

元禄7年(1693)清水寺(みやま市瀬高町)の隆尚法印によって建立され本尊は千手観音と馬頭観音を祀る。

原町は薩摩街道の宿場町として栄え、今の原町郵便局あたりに、お茶の接待をした「お茶屋」があり多くの人が往来していた。

毎年旧暦8月17日18日の2日間は、観音様の縁日で賑わった。 町の両側は色々な出店や催し物が並んだ。 中でも遠目がねと言う珍しい時代ばやしの歌入りもので男女二人が掛け合いに

竹ムチに手拍子を合わせ今の紙芝居のような事が催され、それが非常に面白く見物人が多かった。

「買うてくれんの十七夜」という珍しい風習があった。 土地の娘子は参詣に来た男達に「買うてくれんの」と言って腕にすがる。 男達はその十七夜のために働き貯蓄をし、

観音様を参詣したといわれる。 娘達は縁日が終わる頃、お互いに、買ってもらった品々を見せあい自慢するという娘子達にとって一年中で一番の楽しみであった。

誠に奇な風習であって他郷に類例のないということである。肥後・肥前からも参詣が多く大変賑わったということである。

西楽寺」は、江戸後期の文化9年(1812)街道の測量の為この地を訪れていた「伊能忠敬一行」が宿泊したお寺です。

  

要川(かなめがわ)古戦場跡 (源平最後の古戦場跡) 要川は、飯江川と待居川の合流地点です。

要川は源平最後の激戦地としての伝承がある。文治元(1185)年3月、平家栄華の夢破れて壇の浦で敗れ生き残って九州に落ちのびてきた平家一門は、やっと太宰府に逃れる。

だが源氏の追討の手ににあい南へ南へと遁れ、久留米の竹井城主草野永経(ながつね)を頼ったが相手にされず筑後の山門本吉山にある清水寺に加勢を求めた。船小屋の北方尾島においても

源氏の大群と戦ったが敗れ去った。九郎原から中山上庄下庄吉井の里から清水、そして野原庄へと逃れた。小桜威の鎧(よろい)も無惨に引き裂かれ、弓弦は切れ矢はすでに尽き果てて、

ついに狩道(かりじ)の駅(山川町尾野)に着いた。
そして天台宗である
清水寺の僧兵数千人と近郊の法師土豪の力添えを得た平家軍は、ここ山川の地を最後の戦いの場と決め、要川周辺に背水の陣を敷き源氏軍の追撃を持った。

しかし、琴平山の見張台、大物見から源氏の軍兵を待ち受ける平家武将が見つめていたものは、時の運に見放された平家一門の歩んできた道ではなかったか。 
そして、平家は押し寄せる源氏の大群の前に勝つ術もなく、
中原の戦いで決定的な敗北を喫した。斬殺された者の血で草も木も朱に染まり、川面も血の色に濁り流れたというところから、

血波川とも名がつけられた要川である。
 清水寺など平家に味方した寺社は源氏軍の豊後の武将緒方三郎に建物を焼き払われた。矢つき、刀折れ、生き残ったものもわずか。ある者は山や谷に逃れ、ある者は南を指して逃れ行き、

散々に落ちていったと言われている。平家の姫君たちは、もはや逃げることも叶わず四方を断崖に囲まれた中原の奥深くの森に分け入り、今を限りと瀧に身を投じた。

また捕らえられた平家の武将たちは、各地で首をはねられた。松風ノ関平家台中原平家の塔湯谷平家墓小萩平家墓現人神さては中原七霊宮等激戦の様相を残している

                                                               (みやま市山川町歴史散歩より抜粋)

尚、近辺には、「坂梨」の名字が多く、一説には平家一門の末裔がその“平”を隠すため、坂梨(坂がない)としたとも伝えられています。

現在、要川は、公園として整備されています。

 

物見塚は、要川最後の決戦の時、平家軍の物見の指揮所跡です。ここからは要川を眼下に遠く野町、飯江方面を一望できます。

  

山川町では、毎年3月ごろ「平家祭り」が行われています。                                  

 

(その2)に続く

 


ワクチン接種

2021-06-04 05:06:38 | 日記

6/3(木)は、かかりつけのお医者さんでコロナのワクチン接種をしました。

接種券が届いたのが、5/6。予約の方法はネット、電話、かかりつけ医へ直接予約というのがありましたが、小生は、家内と一緒にかかりつけ医に行って予約しました。

このお医者さんの所は、午前と午後それぞれ12人分の接種を行うそうです。

まだもう一回接種が残っていますが、少し安心しました。次回は、3週間後の6/24 。

接種したあとの感想ですが、打った所の腕が痛いです。