3/23 博多から新幹線、JR草津線を使い、前回ゴールのJR三雲駅へ。、三雲駅10:30到着。
先ず、街道を外れ、三雲側にある、横田常夜燈へ。
この常夜燈は、東海道十三の渡しの難所の一つに数えられ湖南市側に建っています。安永8年(1774)東講中によって、高さ4,85m、五段の石積みの上に建てられています。
草津線の踏切を渡り、しばらく歩くと、左側に「天保義民の碑」があります。
天保13年(1842年)、代官の不正な検地に抗議するため、旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の総勢約4万人の農民がいっせいに蜂起しました。
これが、歴史に有名な天保一揆です。検地を中止させ「十万日延期」の目的を達しました。ただし、一揆のリーダーの庄屋クラスの農民達の払った代償も大きく、
このときの一揆で犠牲になった祖先の魂をなぐさめ、その義挙を後世に伝えようと伝芳山(でんぽうざん)に明治31年(1898年)に慰霊碑が立てられました。
毎年10月15日には、遺徳を讃える慰霊祭が行われています。(滋賀・琵琶湖観光情報より)
子供の頃の歴史の教科書で「天保の大飢饉」というのを習ったことがあります。大阪の大塩平八郎の乱もちょうどこのころだったですね。
ここ、三雲でもこうした一揆が起こっていたのですね。
駅の方に戻り、旧東海道に入ります。
横田橋を渡り、朝国の交差点の歩道橋を渡ります。水口(みなくち)宿の大きな看板から甲賀(こうか)市水口(みなくち)です。
しばらく歩くと横田川沿いに大きな常夜燈が見えてきます。ここが「横田の渡し跡」。
鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。
伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。
江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。
そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。
これによると、三月から九月の間は四艘の船による舟渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。
野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。(案内板より)
常夜燈は、高さ10,5mと燈火を灯す火袋は大人も通れるほどで道中最大級のものでした。
横田橋の名は、寛正二年(1461)五月二十四日の室町幕府奉行仁文書(山中文書)に「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺(さいほうじ)によって橋賃が徴収されていた事が知られています。
江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管轄下に置かれ、渇水期には土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。
明治二十四年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。
この石垣は当時の橋台の一部です。その後、昭和4年には下流に橋が移され、同二十七年には、国道1号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。(案内板より)
泉地区に入ってきました。泉の一里塚、舞込橋を渡ると右側に松並木が見えてきます。昔は、この一帯ずっと松並木で旅人がここで休んで旅をしていたのでしょうね。
甲賀市は、2004年、水口、甲南、甲賀、土山、信楽の5町が合併して発足しました。
甲賀と言えば、忍者。飛び出し注意の看板にも忍者が描かれています。尚、同じく忍者の町三重県伊賀市は、南に隣接しています。
柏木公民館の前には、「火の見櫓」のモニュメントがあります。このモニュメントには、覗き穴があり、覗いてみると、干瓢を作っているご婦人方と
それをデッサンする広重が描かれています。広重の水口宿の浮世絵は、「干瓢」です。
水口城主の加藤氏が下野(栃木県)から移入してきた折に、干瓢作りを奨励し特産品にしたそうです。
広重・「水口宿」
縄手(畷)とは、田の中を通る長い直線道のこと。東海道の整備により曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し見通しのよい道路としたことに因みます。
江戸時代、東海道の両側は土手になり、松林がありました。街道は、近隣の村々に掃除場所が割り当てられ美しさが保たれていました。
現代では、ペットボトルや缶、燃えるごみ、不燃物など何種類も分別しなくてはいけないので大変ですが、江戸時代の人は、このようなゴミがあるとは想像もしなかったでしょう。
いずれにしてもゴミは捨てないようにしたいものです。
水口は、西側が城下町で道がカギ状になっています。マップを見ると水口城は街道にはいっていませんので、ここで寄り道して水口城の方に行きます。
「水口城」は、徳川三代将軍家光が寛永11年(1634)、京都上洛の際、宿館として築城されました。作事奉行には、建築や作庭などで著名な小堀遠州があたりました。
城は、小規模ながら将軍の宿に相応しい豪華なものでした。その後幕府の任命した城番が管理した番城となりましたが、天和2年(1682)には、加藤明友が入封し、
水口藩となり、水口城はその居城となり明治維新になりました。維新後は、廃城となり、建物や石垣は撤去されましたが、本丸敷地のみ保存され、平成3年(1991)
出丸の部分に矢倉が復元され、「水口城資料館」として開館しました。
お城と言えば、「桜」ですね。水口城の桜は、まだ蕾が少しピンク色の状態。あと1週間ぐらいで見ごろになるのでは?
時刻も1時を廻りましたのでここで休憩しました。
再び街道に戻ります。
「水口キリスト教会」は、W・Mヴォーリズの設計です。ヴォーリズは、他にも旧水口図書館も設計しています。
ヴォーリズは、NHK朝ドラ「あさがきた」の主人公広岡あさの娘婿の妹「一柳満喜子」と結婚し、日本に帰化しました。
街道の途中に「水口ひと・まち街道交流館」というのがありましたので寄り道しました。この交流館では、水口曳山祭りの曳山が展示されていました。
水口曳山祭りは、水口神社の春祭りで江戸時代の享保年間(1716~1735)に宿場町であり城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって
創り出された近江東南部を代表する都市型の祭礼。華やかな曳山巡行と江戸「神田ばやし」の流れをくむといわれる「水口ばやし」で知られています。
4月19日が宵宮、20日が例大祭・曳山巡行です。Youtubeで見ましたが、壮大なお祭りですね。
水口のマンホールには、曳山の車輪がデザインされています。
西のからくり人形前に着きました。ここで道は、三筋の通りと呼ばれ、道が3つに分かれています。(旧東海道は、真ん中)
からくり人形は、一日4回動くそうで次の3時までには、時間がありすぎますのでやむなくパスしました。
東側にもからくり人形がありました。
水口宿は、都から伊勢に通じる街道上の要地として早くから開け、室町時代には、伊勢参宮の将軍家や文人たちの通行が見られました。
その後、秀吉の命により大岡山に水口岡山城が築かれ、水口はその城下町として町並みを整えました、この城は関ヶ原の戦いで落城しましたが、
慶長6年(1601)には、東海道の宿駅に指定され、旧城下は宿場町として再出発。規模は近江の東海道五宿のうち大津に次ぐものでした。
水口宿は、東西2,4km、本陣1、脇本陣1、旅籠41、家数718、人口2692人の規模でした。
国道307号線と交差する手前には、水口宿東見附がありました。
このあと、土山宿に向かいます。(続く)