よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

九州オルレ筑豊・香春(かわら)コース(福岡県田川郡香春町)

2022-03-01 07:15:01 | 九州オルレ

2/26(土)車をJR香春駅に置き、香春駅からJRで九州オルレ筑豊・香春コースのスタートの「採銅所駅」に移動します。

採銅所駅には、桜の木が植えられています。桜の頃はきれいでしょうね。

この採銅所駅には、私、2015年(平成27)JR九州ウォーク採銅所開業100周年ウォークで一度訪れています。

  

採銅所」という地名は、周辺の香春岳で銅の採掘をしていたことに起因します。この鉱山の銅は、東大寺大仏の建立や宇佐八幡宮の神鏡にも用いられました。

8世紀ごろから採掘されていたのではないでしょうか?駅舎は、大正4年(1915)に建築された建物です。(今年で107年)

 

九州オルレ筑豊・香春コーススタートです。

  

 

だんだん山道に入ってきます。

  

倒木の所には「青春の門」と書いてます。青春の門というと、作家五木寛之さんが書かれた小説なんですが・・・・どういう意味だろう?などと考えていると

この倒木が青春の門なんですね。勿論、私の青春を思い出し無事潜れました。  この看板、見方によっては、「香春の門」とも読めますね。

  

山道が竹林から杉林に変わっていきました。

スタートから約45分で1,8km地点の「矢山の丘304m)」に到着しました。頂上には、「幸せの鐘」があります。

  

  

休憩後再スタート。2,4km地点が御長生(おちょうず)金山跡です。

然し、山の中の鉱山で掘った鉱物をどうやって運んでいたのでしょうか?この時代だと人力かな??

 

御長生の滝

  

やっと山を下りてきました。

 

神間歩(かみまぶ)公園に着きました。

  

 

説明文によると、香春町採銅所は、金、銅、鉛鉱などの採掘や製錬地で、官営の機関「採銅使」が置かれた所である。

奈良時代、清祀殿(せいしでん)と「神間歩(蟹間覆ともいう)」は、銅を精錬し宇佐八幡宮へ御神鏡鋳造、奉納した所縁の地であると「古宮八幡宮御鎮座伝記」などに記されている。

それらによると、清祀殿での御神鏡鋳造に先立ち、香春岳を御神体とした「お山開き」の祭事が行われ、古宮八幡宮の神官が、山ノ神に御神酒を供え、幣帛、祝詞を捧げ、

次に摩覆の口に注連を曳き、御幣八本を立て、散米、榊葉を供え、禊を修めてそれから金銅を掘っていたということである。

「神間歩」は、その深さ、鉱壁、位置、掘り出された坑口、石塊、付近の構造等合わせて考える時、神事を行った場所と推察される。

奥壁には、祭壇らしきものがあり、千二百数十年を経た今日でも「神」をとって「神間歩」と呼称されている。

尚、神間歩の上部にも銅を掘った間歩(坑口)が数か所ある。更に三の岳周辺には、古宮、横鶴、水晶、床屋、宗丹、ズリネなど金、銅鉱山跡が多く点在している。

香春岳・三ノ岳に位置する「清祀殿跡」。
平安時代後期の天慶2年(939年)に、「小宮八幡宮」(田川郡・採銅所)が「宇佐神宮」に神鏡を奉納したという記録が残っているが、その神鏡を実際に鋳造した場所がこの「清祀殿跡」だ

と考えられている。付近には銅を採掘した坑道「間歩(まぶ)」があり、宇佐神宮にゆかりが深いこの場所は「神間歩(かんまぶ)」と呼ばれている。
拝殿風の建物(写真)の屋根は板葺で、九尺間を一間とする三間四方。土間の中央には鍛冶床があった。この建物の後ろには祠と花崗岩の石柱が3基あり、この石柱に完成した神鏡を

安置していたと思われる。1956年に福岡県の文化財(史跡)に指定された。

 

先に進みます。この公園にも桜が植えられていて花見で賑わうのではないでしょうか?

日田彦山線のトンネルを潜り、甘木橋に向かいます。

  

 

金辺川あたりが宮原コスモス畑です。秋には一面コスモスが咲きだします。

金辺川沿いに歩くと前方が側溝工事中です。コースでは、ここから左折するようになっているのですが・・・・

仮の橋を通り、見晴らし展望台に向かいます。

 

先へ進みます。山道を歩いていると前方の竹林がふさがっています。イノシシ除けでしょうか?

自動ドアではないので自分で開けて入ります。

 

 

六十尺鉄橋」(正式名:第2金辺川橋梁)があります。

現在の日田彦山線、「小倉~添田」は、大部分の区間が私鉄の小倉鉄道が大正4年(1915年)に開業しました。この区間の最大の難所が金辺峠を貫く1,4kmの金辺トンネルと

金辺川を跨ぐ第2金辺川橋梁です。この鉄橋は、高さ、更には中央の橋脚の両端である空間が約18mの為、地元では通称「60尺の鉄橋」で親しまれています。

アーチ橋の曲線に対し、第2金辺川橋梁は、直線美とともに中世ヨーロッパの城壁を思わせる石積み構造が鉄道建築物として高く評価されています。

  

 

道の駅わぎえの里香春に到着しました。「わぎえ」とは、我が家のこと。

国道201号線横の「道の駅わぎえの里香春」は、「古代官道」が通り、馬家(うまや)と呼ばれる宿駅があって、食べ物や宿泊所、馬が置かれました。

太宰府から豊前国府(福岡県みやこ町)に行く「田河道」(田川)は、草野津(行橋市)から瀬戸内海を経て都に至る最短距離の道でした。役人の往来、軍隊の移動、租税や産物の都への

運搬を行い万葉歌人も訪れました。

時計を見るともう13時です。今日は朝が早かった為、お腹もすいてきました。道の駅に入り、お弁当を買って道の駅裏の万葉公園でお弁当をいただきます。

 

 

万葉公園は、平成24年(2012)5月に開催された「第63回福岡県植樹祭」にて、萩や山吹などが植樹されました。四季折々の万葉集に詠われた植物をみることができます。

 

 

お腹もいっぱいになり、再スタートをしようかとマップを見ますが、ここから先はまた坂道が続きます。

満腹状態ではとても坂道を上ることができません。道の駅から直接香春駅に向かいます。(ショートカット)

 

14:07 香春駅に到着しました。香春駅には。映画「青春の門」の看板がありました。これは、1975年製作の田中健さん、大竹しのぶさんの作品です。

 

今日のGPS 道の駅からショートカットしました。

 

 

 


宗像・大島のオルレと鎮国寺の熱海桜(福岡県宗像市大島~宗像市吉田)

2022-02-04 10:26:28 | 九州オルレ

ふくおかウォーキング協会がコロナのまん延防止重点措置で休止していますので自主トレを兼ねて、九州オルレ宗像・大島コースを歩いてきました。

このコース2年前の3月に歩きましたので今回で2回目です。

大島は、神湊(こうのみなと)港からフェリーで約25分。周囲約15km、人口約700人の島で小高い山林や原野が島の大半をしめており、宅地は海辺の南側に集まっています。

四方を海に囲まれているため、無霜地帯という特殊な地勢です。近海は、豊富な魚介類を育む筑前海域有数の漁場となっており、漁業が島の基幹産業です。近年では、恵まれた自然環境を活かした

観光・レジャースポットとしても注目を集めています。(宗像観光ガイドより)

9:25のフェリーに乗り大島へ。大島港渡船ターミナルよりスタートします。

  

渡船場から宗像大社中津宮に向かいます。

中津宮は、宗像三女神(辺津宮:市杵島姫神いちきしまひめのかみ、中津宮:湍津姫神たぎつひめのかみ、沖津宮:田心姫神たごりひめのかみ)のうち、湍津姫神を祀っています。

 

  

中津宮から御嶽山登山道に向かいます。

  

御嶽山登山口から急坂を登っていきます。この大島コースで一番の難所です。一気に224mの御嶽山頂上まで登ります。

  

休み休み登って約40分で御嶽山展望台に着きました。

 

2年前歩いたときはここから「沖ノ島」が見えたのですが、PM2.5の影響で霞んでいます。

 

 

御嶽宮は、中津宮の奥宮で沖ノ島と同様、8~9世紀にかけてここでも露店祭祀が行われたそうです。

 

御嶽山を下りていきます。

  

案内看板には「イノシシ注意」の文字が・・・・イノシシ除けに持ってきたラジオのボリュームを上げて歩きます。

  

 

風車展望台が見えてきました。

 

視界は、相変わらずPM2.5で霞んでいます。天気が良ければここで休憩する予定でしたが、今日は風も強く少し休むと寒くなってきます。先へ進みます。

 

 

砲台跡は、昭和11年(1936年)北部九州の沿岸防衛強化のため造られました。

日本海海戦戦死者慰霊碑は、日露戦争の時、玄界灘で戦死したロシア側4830人、日本側117人の犠牲者の慰霊碑です。

 

ここから下っていきます。2年前に歩いたときは、「馬」はいなかったのですが、今日は10頭ぐらいでしょうか、お馬さんがいます。

 

オルレのコースは、ここから沖津宮遥拝所に行くのですが、視界が悪いのでショートカットします。

 

 

宗像市立大島学園は、小中一貫教育で1年生から9年生まで通っています。

 

海岸に出てきました。

  

夢の小夜島は、室町時代に連歌師・飯尾宗祇の「筑紫道中記」で「浜千鳥 声うちそへて おほしまの 波の間もなく 誰を恋らん」と歌われています。

小夜島までは約20m。潮が引くと渡ることができます。

  

海の道は(写真左)、潮が引いたときにだけ現れる道です。カップルで歩くと二人の仲をさらに深めるという恋愛スポットです。

 

 

大島港に戻ってきました。14:40のフェリーにまだ時間がありましたので港近くの産直店に立ち寄り「魚ロッケ」をいただきました。

大島港渡船ターミナルでは、オルレのバッチをいただきました。

  

 

神湊港到着後、次の目的地宗像大社近くの「鎮国寺」に向かいます。

先月、ウォーキング協会で訪れましたが、熱海桜などはまだ蕾でしたが、もう7分咲きになっていました。

 

  

 


九州オルレ「指宿・開聞コース」(鹿児島県指宿市)

2022-01-24 05:00:24 | 九州オルレ

1/21(金) 「九州オルレ指宿・開聞コース」を歩いてきました。

このコース、今年(2022年)1月末で廃止されるそうで、菜の花マーチ(中止になりました)参加のついでに歩いてみようと計画しました。

朝、5時に車で福岡を出発し、オルレスタート地点の「西大山駅」に着いたのが、10時15分。車を西大山駅に置きオルレスタートです。

   

10:30 西大山駅をスタート。開聞岳を間近に見てのウォーキングです。

  

畑には、広いのどかな畑道です。何が植えられているのか見てみると、キャベツ、サニーレタス、それとスナップエンドウなどです。

ハウスの中では、キンギョソウも植えられていました。

 

3kmぐらい歩くと松林に入ります。ここの海岸線も絶景です。

 

 

 

「レジャーセンターかいもん」です。玄関の所には、明日行われる菜の花マーチの矢旗がありました。

 

レジャーセンターから再び海岸線に出ます。

「上原覚市氏」の銅像があります。上原氏は、川尻尋常高等小学校首席訓導として郷土教育に全力を尽くした・・・と書かれています。

ここまでが、5,6km。

 

 

川尻漁港を折り返します。このオルレコースは、あまり高低差がありませんが、ここからは少し上り坂です。

 

ゴルフ場から開聞山麓香料園を通過します。

  

 

東開聞駅の踏切を渡ります。東開聞駅の所にもオルレの石像が置いてます。

  

 

鏡池:広さ8haの丸い鏡のような形をした火口湖。条件がよければ、逆さ富士と称賛される湖面に映った開聞岳を見ることができます。

この日は、頂上の方だけが映っていました。

  

 

枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、860年従四位に位された大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)ほか8柱を祀っています。古くから交通・航海の安全や、漁業守護の神として人々の厚い信仰を

集めてきました。薩摩一の宮といわれるように島津藩主の崇敬も厚く、本殿は県の重要文化財にも指定されています。優雅なたたずまいの朱塗りの社殿は、周囲の木々の緑に映えて見事です。

玉手筥あるいはあけずの箱と呼ばれる「松梅蒔絵櫛笥」も収蔵されています。

 

枚聞神社にお詣りし、先を進みます。もうゴールまであと少しです。

 

指宿市役所開聞庁舎で休憩します。庁舎内では、開聞岳の説明版が飾られています。開聞岳は標高924メートルで、コニーデの上にトロイデをのせた二重式火山で活火山です。整った山頂と

なだらかな稜線が美しく、秀麗「薩摩富士」の異名をとり、「日本百名山」にも数えられています。全山樹木で開聞さつきも咲きます。周囲に山がないため、南薩のほとんどの地域から

その円錐形の姿を見ることができ、まさにこの地のシンボルです。
頂上から望む大パノラマは圧巻で、北の霧島、桜島、池田湖、南の屋久島、三島と、鹿児島の観光名所を一度に味わうことができます。片道が約5キロの道のりを3時間程度で麓から頂上まで登れ、

年中を問わず登山客でにぎわっています。(鹿児島県観光ガイドより)

 

  

  

13:40 開聞駅にゴールしました。時刻表を見てみると、14:04発の臨時電車があります(線路工事のため臨時列車)。これに乗り遅れると2時間半待たなければいけません。

  

ベンチでパンをかじりながら待っていると、列車が入ってきました。2両編成ですが、乗っているのは我々2人きりです。貸し切り状態です。

 

約10分で西大山駅に到着。ホームには、観光客の方でいっぱいでした。(乗る人はいなく、皆さん写真を撮っていました)

 

この日のGPSです。

今まで九州オルレを歩いた中で高低差もあまりなく、歩きやすいコースでした。この指宿・開聞コースは1月末で廃止になりますが、3月末には、霧島コースも廃止になるそうです。

オルレは、韓国済州島発祥ですが、コロナで韓国の方が来れないから廃止の理由の一つでもあるのではないでしょうか?

私も2年前、済州島のオルレを歩こうと計画しましたが、コロナで断念しました。早く収まってほしいです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ホテルに戻る途中、菜の花マーチの会場でもあった「なのはな館」前の菜の花です。きれいに咲いていました。

 

 

 

 


九州オルレ「久留米・高良山コース」(福岡県久留米市)

2021-01-07 12:57:57 | 九州オルレ

1月4日、2021年の初歩きで九州オルレ「久留米・高良山コース」を歩きました。

福岡の自宅を8時に出発し、スタート地のJR久留米大学前に着いたのが9時。世間では今日から仕事始めで車が渋滞しているのでは?と思いましたが、そんなに渋滞してなくスムーズに走れました。

久留米大学駅前のパーキングに車を置いて9:18オルレスタート。

 

    

南筑高校(歌手藤井フミヤさんの母校)を通り、高良大社の大鳥居へ。(国指定有形文化財。久留米二代藩主有馬忠頼公寄進)

 

大鳥居のある御井地区は、昔の防津(薩摩)街道府中宿でした。近くには、古民家などが立ち並んでいました。本陣跡は、現在の御井小学校です。

  

鳥居を潜り先へ進みます。

  

高良大社の登り口です。これから長い階段を登っていきます。

耳納連山の最西端、標高312メートルの高良山に鎮座するのが、旧国幣大社で筑後国一の宮である高良大社です。祭神は高良玉垂命。
 この高良玉垂宮の創建は、履中天皇元年(400)と伝えられ、寛平九年(897)には正一位を授けられ、また延喜式内の名神大社として高い地位にありました。

中世にはその勢力は国司と拮抗するまでになり、南北朝のころは征西将軍懐良親王の祈願をうけ、山下に征西府がおかれる由緒ある社です。 現在の本殿、幣殿、拝殿は、

久留米藩主有馬頼利(三代)の建立で、いずれも重要文化財です。 また、社宝に「紙本墨書平家物語」(重要文化財)、「絹本著色高良大社縁起」(県文化財)などがあり、

山中の孟宗金明竹(国の天然記念物)や高良山神眥石(国指定文化財。史跡)なども貴重なものとして保存されています。(久留米観光ガイドより抜粋)

 

中学の朝練でしょうか、野球部の生徒が階段を走って登っています。私は気持ちは若いのですが、体力的には中学生にはかないません。なのでゆっくり登っていきます。

階段の途中に「夫婦榊・愛のさざんか」という看板があり、そちらに向かいます。夫婦榊迄は、ハート形の置石があります。

  

夫婦榊は、二本の榊の木が枝でつながり、手を取り合う夫婦のように見えるから夫婦榊というそうです。

  

高良大社本坊跡

  

孟宗金明竹林(もうそうきんめいちくりん)(国天然記念物)

案内板によると、竹はイネ科に属し、金明竹はその変種です。高良山の孟宗金明竹は、昭和9年(1934)頃突然発生したもので現在では約300本あります。

一般に竹類の表皮は外層・中層・内層の3つに分かれています。孟宗金明竹は、外層の緑色の遺伝子が黄色に突然変異したもので黄色の中に緑色の小さな幅の縦縞が節と節の間に左右交互にあり、

これは外層組織の芽溝部で内部の緑色が淡い黄色の組織を透かして見えるためです。

真竹の金明竹は、全国各地にありますが、孟宗金明竹は、福岡県遠賀郡岡垣町、宮崎県延岡市、高知県高岡郡日高村のほか発生例も少なく貴重なものです。

 

 

高良山参道入口に着きましたが、オルレではこれから「奥宮」の方に向かいます。

  

恋実る展望台   ハート形の木立の向こうには遠く雲仙普賢岳が望め、写真映えするコース2か所目の「愛のパワースポット」です。

今日は少し薄い雲があり、普賢岳は薄く見えていました。

 

高良山奥宮(奥の院)霊水が湧く聖地で、高良大社の奥宮です。諸願成就の神として民間の信仰が極めて驚く、現在も「寅」の日には、多数の参拝があります。(オルレガイドブックより)

 

 

奥宮の横を通り菖蒲池に向かいます。

菖蒲池というから池と思いましたが、水もなくただ菖蒲があるくらいでした。

 

このあと久留米つつじ公園に向かいます。このあたりは、久留米つつじマーチのコースに入っており見慣れた光景です。つつじのシーズンにはたくさんのつつじが迎えてくれるのですが、

ツツジはまだ蕾も小さかった。昨年、つつじマーチはコロナの影響で中止になりましたが、今年はどうなるかな?コロナが収まって開催してほしいです。

 

久留米森林つつじ公園   久留米つつじマーチでは、チェックポイントです。黒棒が振舞われます。ここには、久留米つつじ約100種61,000株が植えられています。

     

ここから見る筑後平野です。

  

つつじマーチでは、公園から下りて行って山川町に向かうのですが、オルレは公園の裏手を通ります。

毘沙門嶽城跡は、南北朝時代の正平14年(1359)筑後川合戦の時、懐良親王の本城だったと伝えられます。

  

飛雲台という見晴らしのいい所に来ました。ここには夏目漱石の句碑があります。(※クリックすると説明文が出ます)  菜の花の 遥かに黄なり 筑後川

漱石は、明治30年(1837)3月久留米に友人を訪ね、その足で高良山に詣り、耳納連山を越えて山を下り草野町の発心の桜を見学しています。

  

 

下りてくると奥宮の鳥居があります。ここからも奥宮に行けるのですね。

杉城址は、別名住厭(すみあき)城ともいい、南北朝時代に菊池氏によって築城されました。ここからの眺めも素晴らしいです。

  

急こう配のアップダウンを過ぎて高良大社にやってきました。今日は平日ですがまだお正月休みの所があり、少し混雑しています。

 

お詣りして先へ進みます。カンセの通り進みますが、どうも下りる所を間違ったみたいです。大楠の所から下りなくてはいけなかったのですが、大きな道の方にでてしまいました。

そこからヘアピンカーブを登り、高良大社の参道の鳥居に出てきました。

 

望郷亭で名物「ところてん」をいただこうかと思いましたが、店の中が混んでいましたのでここはパス。

 

オルレは、望郷亭の横から下りていきます。

  

妙見神社   祭神は、妙見菩薩(高皇産霊尊 たかむすびのみこと) 

 

歩いていると、コース上に崩落の為通行止めの表示があります。ここは、迂回していきます。

王子池は、95本の桜があり桜の名所です。

   

   

山川の町に入ってきました。ここにも漱石の句碑がありました。明治32年(1899)1月7日 漱石は豊前耶馬渓への旅からの帰り道、吉井を出てここ山川追分を通りかかった所、

車屋さんから「親方」と呼びかけまれました。 「親方と 呼びかけられし 毛布哉」  ※クリックすると説明文が出てきます。

  

 

熊野神社を通り、山川町のため池を通ります。ここから御井駅までは、久留米つつじマーチのコースです。

13:23 無事ゴールしました。本来は、8,6kmのコースでしたが、途中でコースを間違え9kmになってしまいました。

  

このコース、春先に歩くと桜やツツジの花が楽しめそうです。次回は春に歩きたいと思ってます。この日のGPSです。

 

 

 

 

 


九州オルレ奥豊後コース(大分県豊後大野市~大分県竹田市)

2020-09-29 12:27:46 | 九州オルレ

9/27(日)は、九州オルレ奥豊後コースに挑戦しました。

自宅から奥豊後コースのスタート地JR朝地駅まで車で約3時間。9時現地到着を目標に自宅を午前6時に出発しました。

大分道湯布院ICを下り、ここから約50km一般道を走ります。朝早かったせいか朝地駅には、8時50分に到着。

観光案内所でスタンプをもらい、9:10奥豊後コーススタート。

 

  

 

踏切を渡ると坂道が待っています。

  

2kmぐらい歩くと人の塊でしょうか?私たちを出迎えてくれています。よく見ると「案山子」でした。

  

歩いていると彼岸花が・・・・

 

朝地町には、水を田んぼに供給するため道路の上に水路を設けています。

    

用作(ゆうじゃく)公園にやってきました。用作公園は、江戸時代に岡藩主が家老の中川平右衛門長伸に賜った別荘地で、明治13年には吉良家に譲り受けられ、

現在では朝地町が管理しています。岡藩の参勤交代の経路に位置するこの地には、藩主中川氏が参勤交代の途上などにたびたび立ち寄るとともに、田能村竹田や頼山陽といった文人墨客も多く

来訪し、岡藩の玄関、接客所としての役割を果たしました。心字池を中心に、500本を越えるモミジやカエデなどの紅葉樹が植えられ、11月の紅葉期間中の週末や祝日にはライトアップが行われ、

多くの見物客で賑わいます。(大分県観光情報公式サイトより)

※ 用作公園の紅葉写真

 

丹字池を見ると少し紅くなっています。見ごろは、11月中旬だそうです。次回このオルレを歩くときは、紅葉のシーズンがいいかな?

  

  

用作公園を後に里山に戻ります。この風景いいですね。のどかで時間が経つのを忘れそうです。

  

普光寺の近くまでやってきました。ここまでスタートして1時間10分。約4kmです。

  

普光寺に着きました。普光寺は、高さ11,3mと全国でも最大級の摩崖仏は、約12万年前の阿蘇火山大噴火でできた「阿蘇溶結疑灰岩」の岩壁に彫られたものです。

初夏にはあたり一面に咲くアジサイが美しいことでも有名です。(奥豊後オルレパンフより)

「豊後国志」によると、6世紀九州出身で百済の王に仕えた「日羅」によって創建。日羅は豊後国内に7か所の寺院を創建し、それぞれに磨崖仏を彫ったといい、普光寺磨崖仏は

その一つとされています。

本殿の前には、「撫で仏」があります。真言「オンカカカビザンマエイソワカ」を唱えながら体の悪い処と同じ部分をさすると治るといわれています。また、知恵を授かるともいわれています。

私も頭と、ひざ、腕などをさすってみました。

  

お寺の境内から磨崖仏の方に行ってみます。

  

窟の中にも石仏があります。

   

 

普光寺で少し休憩し再スタート。遠くに傾山、祖母山が見えています。

  

このあたりが豊後大野市と竹田市の市境かな?コースは、万里が坂に差し掛かります。この舗装した道路の下には、昔の石畳があります。お殿様もこの道を通ったのでしょうね。

     

歩いていると、川の音が聞こえてきます。十川の柱状節理ももうすぐです。濁淵川にかかる狭田橋を渡ります。

  

   

旧城下町の十川(そうかわ)地区は鎌倉時代・室町時代(志賀氏)に竹田の城下町があった場所です。1594年(文禄3年)に岡城に入封した岡藩初代藩主・中川秀成(なかがわひでしげ)が現在の

竹田市大字竹田町に城下町を移転させました。現在では数軒の民家があるだけの静かな集落となっています

  

十川(そうがわ)の柱状節理です。柱状節理は、火山の噴火の際に起こる火砕流が冷えて固まる際にできる縦方向のひび割れの事。十川の河岸に見られる柱状節理は、

約9万年前の阿蘇火山大噴火の際にできたもので、太古の地球のダイナミズムを今に伝えています。(オルレ案内文より)

  

コースは、発電所の横を通り旧岡城址に向かいます。

  

右の小高い丘を走っていくものがあります。イノシシです。そういえば途中、猪が掘った穴などがありました。こちらに来たらどうしようか?と考えましたが、

イノシシは私たちには目もくれず走り去っていきました。この日、リュックにクマよけの鈴をつけていましたがこれが効果を発揮したのかな?

  

岡城址は、奥豊後の山深く、稲葉川と白滝川に挟まれた断崖絶壁の地に、天高く聳え立つ高石垣。広大な敷地に広がる山城「岡城」は、総石垣のまさに「難攻不落の堅城」です。

岡城は、兄である源頼朝に追われた源義経を迎えるため、文治元年(1185)に緒方三郎惟栄が築城したという伝説にはじまります。

時は流れ、やがて岡城は豊後国守護大友氏の一族である志賀氏の居城となります。天正14年(1586)、薩摩の島津義弘率いる大軍が、志賀親次の守る岡城を3度にわたり攻撃します。

島津軍は、険峻な要害である岡城を落とすことができずに撤退し、岡城は「難攻不落の城」として世に広く知られることになりました。その後豊臣秀吉の朝鮮出兵で主家の大友氏が失脚すると

志賀氏はこの地を去ることになりました。代わって播磨国三木城から中川秀成氏が岡城の城主となり、総勢4千人余で入部、明治4年(1871)の廃藩置県により城を去るまでの277年間、

岡城は中川氏の居城となりました。中川氏の時代に岡城の大改修が行われ、要害堅固な地形を土台とした総石垣の広大な近世城郭へと変貌していきました。

明治になり、廃城令の施行に伴い、役目を終えた岡城の構造物は、明治7年(1874)に競売にかけられ、石垣のみが残る城跡になりました。少年時代を竹田で過ごした作曲家「滝廉太郎」は、

岡城をモデルにして名曲「荒城の月」を作曲したと云われています。阿蘇くじゅうの山々や祖母山を遠方に望む岡城址では、雄大なスケールの石垣と、四季折々に変化する自然が唯一無二の

景色を楽しむことができます。(岡城址パンフより)

  

  

遠くには、くじゅう連山が見えます。

  

岡城址の駐車場で入城料金300円を払い、岡城址を後にします。ゴールまであと2km。竹田市には、大きな岩があります。これも火山の副産物でしょうか?

  

トンネルを抜けると右側に広瀬神社があります。日露戦争の旅順戦で戦死した軍人広瀬武夫は、幕末岡藩勤王の志士 広瀬重武の次男として竹田茶屋の辻で誕生。

彼を顕彰するために昭和10(1935)年に広瀬神社が建立されました。境内には広瀬武夫記念館があり遺品などを展示。鳥居の前に広瀬武夫胸像があり、神社の境内には伊豆坂から丘越えで

弥五兵衛坂を通って武家地の鷹匠町と城下町の上町通りを結ぶ江戸時代の城下道も残されています。(おんせん県大分観光より)

 

  

コースは終盤に差し掛かりました。豊後竹田駅が見えてきます。ゴールは駅の横の竹田温泉花水木です。

 

花水木には、足湯がありました。

 

スタートしてから3時間50分(13:00)にゴールしました。ここからスタート地点の朝地駅まで戻ります。発車時間まで(13:52大分行)時間があるので駅周辺をブラブラします。

 

今日のGPSです。

このコース、カンセやリボン、矢印が整備され間違わずに歩くことができました。次回は紅葉のシーズンに歩きたいと思っています。

 

 


九州オルレ武雄コース(佐賀県武雄市)

2020-06-27 10:36:16 | 九州オルレ

6/24(水)梅雨の中休みの今日、九州オルレ武雄コースを歩きました。このコース日本で最初にオルレコースとして認定されたそうです。

車を武雄温泉駅の駐車場に置き、オルレスタートします。

9:50 武雄温泉駅スタート。もう気温も30度を超えているのか暑いです。

 

最初のカンセは、白岩運動公園です。ここから緩やかな上りになります。

矢ノ浦古墳は、武雄地方で最初に確認された前方後円墳で、白岩運動公園トリムコース内、白岩山の東尾根(標高45m)上に築かれています。墳丘は全長37m、後円部径17m、前方部の幅15m、

長さ20m、高さ2.7mで、前方部が低いやや古式の形態をしています。葺石や埴輪・周溝等の外部施設は確認されていません。遺体を納める内部主体は、後円部中央に2基と後円部南西斜面に

小児用の石蓋盤棺墓1基が確認されています。墳項部の2基は、ともに床面や側壁に粘土を張りめぐらして人頭大の石で覆う粘土槨状の土壙墓です。平面形は隅丸方形で、北側の主体部は長さ4m、

幅0.9mの大きさです。南側の主体部は長さ2.6m、幅0.9mで、床面から変形獣帯鏡と呼ばれる製の青銅鏡が出土しました。
本古墳の築造年代は、5世紀初頭から前半にかけてのものと考えられ、杵島地域の古墳文化の先駆をなすものであり、県下の古墳文化を考えるうえで重要な存在です。(武雄市HPより)

  

 

白岩運動公園展望所から下りてくると貴明寺があります。この寺の開基、後藤貴明は、天文3年(1534)大村純明の二男として大村に生まれ12歳の頃、武雄後藤氏の養子となり、

のちに第19代の家督を継いだ人物。この貴明寺には、後藤貴明の木像が安置されています。

  

貴明寺前の池には、蓮の花が咲き始めていました。

 

池ノ内湖にやってきました。池ノ内湖は、1625年(寛永2年)に武雄領内の耕地3.1haの灌漑用水として築造された小池であり、また鍋島藩武雄領主の猟場でもあった。

1808年(文化5年)新田開発に伴って堤の嵩上げ工事が行われ、また、戦後も食糧増産や旱魃(かんばつ)による用水確保のために数度の嵩上げや改修が行われ、武雄地域で最大の貯水量を

持つため池で、一級河川六角川の農地156haの水田・畑の灌漑を担っている。(WIKIPEDIAより)

  

池ノ内湖の周りには、リゾートホテルやペンションなどの宿泊施設、緑の芝生の広がる公園、散策ができるプロムナード、宇宙が学べる宇宙科学館などがあり、一帯が保養村になっています。

また、ホタルの名所としても知られています。

  

ここで最初の休憩をします。

 

休憩の後、再スタートします。この池ノ内湖の周りは、散策道になっており、小川には、アジサイが咲いており、歩いていて非常に気持ちがいいです。

  

このあたりから山岳遊歩道に入ります。杖が置いてあるのでこれを借りての歩行です。

 

浮橋があります。このところコロナ太りで体重がオーバー気味ですが、渡っても沈みませんでした。川面には浮き草があります。ハート形は、8月ごろ咲く「羊草」かな?

  

二つ目の浮き橋を渡り、山の中に入っていきます。

  

先ほどの遊歩道とは違い、急こう配の階段を上っていきます。私が若かったらこんな坂など一気に上れたと思いますが、あれからもう半世紀経っています。ここは、マイペースでゆっくりゆっくり

上ります。山頂近くで「見晴らしコース」「森林浴コース」の分岐点があります。終盤合流するのですが、ここは見晴らしコースを選択しました。

   

 

やっとのことで山頂付近に到達しましたが、ここから下りです。下を見ると急勾配で岩がゴロゴロしています。幸いに横にロープが張ってありそれを伝って下ります。

  

悪戦苦闘の末、やっと下りて広い道に出ました。側道には、野ばら(野茨)が咲いています。この野ばらを見るとすぐ浮かんでくるのが、当時の市川染五郎(現松本白鳳)さんが唄った歌、

「野ばら咲いてる路」です。♬野ばら咲いてる山道を二人で歩いたね~♬ ほかに誰もいませんので大きな声で歌いました(笑)この歌1967年(昭和42)の曲だそうですね。

 

 

武雄市街地に入りました。武雄文化会館の所には、鍋島茂義公の銅像が建っています。

武雄の代28代領主鍋島茂義は、23歳の若さで佐賀藩の請役(筆頭家老)に異例の抜擢をされたほどの人物でした。
茂義は、天保年間の初め(1830年頃)、長崎警備を担当した際、オランダ船を見学、西洋の進んだ科学力に深い感銘を受け、蘭学の積極的な導入を開始したとされます。天保3年には、

当時の西洋砲術の第一人者高島秋帆に家臣を入門させ、その後、西洋砲術や戦術の習得、大砲鋳造、種痘の実施、ガラスの製作、写真術の導入、蒸気船製造など様々な分野の事業に

取り組んでいます。

茂義は佐賀藩主鍋島直正の義兄であることから、直正に大きな影響を与え、武雄領の功績は、佐賀本藩の高度な軍事技術・機械技術の先駆けとなったと言えます。(武雄市観光協会HPより)

 

武雄神社は、『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽

(船の艫)に鎮座し創祀されました。而して天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、

幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、

武雄心命を合祀し北麓に奉遷し武雄宮が創建されたと記されています。(武雄神社HPより)

武雄神社の裏手には、「武雄の大楠」があります。

  

武雄の大楠は、全国巨木第7位にランクし、樹齢3000年以上で、市の天然記念物に指定されています。樹高30m、幹回り20m、枝張りは東西30m・南北33m。武雄市内最古の神社、

武雄神社の神木となっています。象の足を思わせる根元がごつごつした樹皮に覆われ、その中央が地表近くで口を開けています。広さおよそ12畳の内部には、天神が祀られています。

  

武雄神社を折り返し、再び武雄文化会館の方に向かいます。文化会館から少し登ったところには、「塚崎の大楠」があります。

武雄の大楠に比べ少し小さいですが、県内第3位の巨木で、樹齢は2000年とも3000年とも言われ、市の天然記念物に指定されています。樹高18m(南側の史枝)、幹回り13.6m、枝張りは東西18m、南北15m。昭和38年に落雷に遭い、残念ながら本幹の9m以上が失われましたが、根回りは38mに及び、かつては壮大な姿を誇っていたと想像されます。

 

塚崎の大楠から天神崎の信号を左折します。前方に武雄市役所が見えてきます。ここで11,3kmです。

JRの高架橋の下を通りゴールの武雄温泉楼門に向かいます。この辺りは、昔、長崎街道を歩いた時通りました。

 

14:30 ゴールしました。ゴール後はもちろん武雄温泉に直行です。

  

温泉で汗を流し、スタート時、武雄温泉駅カイロ邸で予約していた佐賀牛の駅弁を取りに行きます。この駅弁JR九州駅弁コンテストで3年連続グランプリを受賞しました。

駅の観光協会では、今年2/29に行われる予定でしたスイーツオルレ(コロナで中止)の缶バッチをいただきました。

  

今日(6/24)のGPSです。

 

 


九州オルレ八女コース(福岡県八女市)

2020-06-20 15:00:14 | 九州オルレ

6/17(水)曇り。九州オルレ八女コースに挑戦しました。

八女(やめ)という地名は、日本書紀にある「この地方に女神あり、その名を八女津媛といい常に山中にある」の一節が八女という地名の由来と伝えられています。

このコース、パンフには、「茶のくにを感じながら、八女丘陵の古代文化に触れる」がキャッチコピーです。

八女には、何回かウォーキングで来ていますが、それも皆、八女市街地周辺です。子のオルレは、大茶園や歴史で習った「筑紫君磐井の乱」の磐井の墳墓がある「岩戸山古墳」を巡るコース

ですので楽しみです。車をゴールの岩戸山古墳に置き、西鉄バス、堀川バスを乗り継ぎスタートの上山内「山の井公園」に移動します。

  

山の井公園には、「中島内蔵助満幹翁之碑」があります。彼は吉田庄の庄屋の職にあり、洪水で悩まされていた住民を救おうと1651年(慶安4)山の井堰建設にあたり尽力されたそうです。

その横には水の神様「水天宮」があります。また、この地は山の井川と星野川の中州にあり、変則中学中州校がありました。

  

 

9:40 山の井公園スタート。まず童男山(とうなさん)古墳に向かいます。

  

童男山古墳は、直径約48メートルの大型円墳です。昭和31年に県の指定を受けました。主体部は複室の横穴式石室です。玄室には凝灰岩製の巨大な石屋形があり、中にはくり抜きの石棺が

納められています。6世紀後半〜末頃のものと思われます。地元では古来から、中国から渡来した徐福の墓という伝承により旅の安全祈願の対象になっています。

また一方で、童男山(とうなさん)という名称から耳の神様として祀られてきました。(八女市HPより)

  

童男山古墳から先へ進むと茶畑が見えてきます。これが八女大茶園かな?とマップを見ると大茶園はまだ先でした。

 

犬尾城址は、河崎城、犬尾篠山城、生駒城ともいわれました。鎌倉時代初期黒木助能の嫡男河崎三郎定宗が築いたといわれています。黒木氏は大友、龍造寺と主を替えるも

天正12年(1584)大友氏により黒木氏が滅ぼされるが、河崎氏は、島津と手を結び犬尾城に居城しました。天正15年(1587)秀吉の九州征伐で城主河崎鎮則は、秀吉に抵抗したため

改易となり犬尾城は廃城となりました。

 

犬尾城址から下りてきます。

  

  

スタートしてから約1時間後「八女中央大茶園」に到着しました。70haの敷地の中に一面の茶畑が広がります。

1969年(昭和44年)~1973年(昭和48年)県営パイロット事業として103haの山林を開発して作られた茶畑です。

 

新緑の頃来ると一面グリーンで覆われることでしょう。

展望台では、「五社神」があります。

 

展望台からの眺望です。天気が良ければ長崎県島原、諫早の方が見渡せるそうです。

東海道を歩いた時、日坂峠でも一面茶畑がありました。この時も感動しましたが、八女の大茶園も感動ものです。

   

途中、オルレ逆コースを歩いている方にお会いしました。八女コースを往復するそうです。お歳を伺うと75歳と78歳でした。久留米の方です。凄いですね。

 

中央大茶園を下りていきます。RP4の所に「地滑りの為迂回願います」との看板が・・・・本来は、ここから右折するのですが、迂回の為直進します。

  

歩いているとこの八女茶が飲みたくて少しコースアウトになりますが、中央茶園の直売所に立ち寄ります。ここでは、冷茶用の八女茶を買いました。

試飲用に出してくれたお茶が美味しかったです。

  

一念寺:寺の裏山に赤穂浪士の一人「寺坂吉右衛門」の墓と伝えられる碑があるそうです。寺坂吉右衛門がどうして八女に???という疑問が浮かんできます。

寺坂吉右衛門について調べると、江戸中期,赤穂事件四十七士のひとり。名は信行,通称が吉右衛門。身分は赤穂藩の足軽(3両2分2人扶持)。加東郡奉行兼足軽頭で,大石良雄の相談相手の吉田忠左衛門に属した。実直・誠実な性格で重宝がられ,事件発生後は連絡係を務めることが多かった。元禄15年12月14日(1703.1.30)の「吉良邸討入り」に参加するが,泉岳寺の前あたりで消えた。諸所へ連絡のためといわれ,あるいは逃亡したかともいわれ,良雄,忠左衛門らの「かろき者の儀」という発言もあり,四十七士・四十六士説の分かれるところである。のち江戸に帰り,自首。御構いなしとされる。延享4年,江戸麻布曹渓寺の寺男として83歳で死去。その翌年「仮名手本忠臣蔵」が作られ,上演された。 (コトバンクより)

 

  

マップを見ると江崎食品に昔懐かしいラムネがあるそうで、立ち寄ってみました。ちょうどのどが渇いていましたのでホント清涼飲料水になりました。

 

丸山塚古墳にやってきました。

直径約33m・高さ約5.3mを測る大型の円墳で、本来は墳丘を取り巻く周濠・周堤が存在したと思われる。北側200mの所には、善蔵塚古墳と茶臼塚古墳(共に国の史跡)がある

埋葬施設は両袖型横穴式石室で、全長8mを測り南に開口する。乗場古墳と同様、前室と後室に分かれた複室構造で、腰石に大きな石材を用い、上部には扁平の石材を用い割石積みをし、ドーム状に積み上げている。また、奥壁や玄室・前室の袖石には赤・黄・緑の三色により三角文・円文・蕨手文が描かれている。石室は保存のため調査後に埋め戻され、現在入ることは出来ない

丸山塚古墳が造営された時期は、石室が複室構造であることなどから広川町の弘化谷古墳よりやや後出するものと考えられ、6世紀後半頃と推定されている。(説明文より)

  

マップには、ここから見える飛形山と八女市内の眺めが楽しめると書いてますが、飛形山ってどこだろう?

歩いていると茶畑に寒冷紗を付けているのがありました。これは、玉露を作っているのかな??

 

 

コースも終盤になりました。

 

福岡県立福島高校の少し先には「乗場古墳」があります。

岩戸山古墳から東方約300mに位置する2段築成の前方後円墳で、墳丘長約70m、後円部径約30m、高さ約5m、前方部幅約35mで前方部の方がやや低い。江戸時代の久留米藩の学者である

矢野一貞が著した「筑後将士軍談」の中に「吉田村奈良山」の名で登場し、石人残欠が存在していたこと、岩戸山古墳同様に周濠・周堤があったことが記されている。

主体部は複室構造の横穴式で、後円部南側のくびれ部寄りに開口部がある。大型石材を用いた奥壁や側壁、玄室の両袖石には赤・黄・青の三色により連続三角文・同心円文・蕨手文が

描かれている。保存のため公開はされていない。岩戸山古墳近くにあることから筑紫君磐井の子「葛子」の墓といわれています。(ウィキペディアより)

   

国道3号線に来ました。ゴールの岩戸山古墳は、もうすぐそこです。

 

  

岩戸山古墳は、八女丘陵は、東西 10数kmに及ぶ丘陵である。この丘陵上には、11基の前方後円墳を含む約300基の古墳が造られ、八女古墳群と呼ばれている。

古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は、九州最大の前方後円墳で東西方向に墳丘長約135m、東側の後円墳径約60m、高さ18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり

周濠、周堤を含めると約170mになる。墳丘は二段構造で内部主体は未発掘の為不明。古墳の東北隅には、周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在していた。

岩戸山古墳は、日本書紀 継体天皇(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓で、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。

古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰石で作られた多量の石製品が埴輪と共に出土している。種類も人物(武装石人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪)器材(靭(ゆぎ)、盾・刀

坩(つぼ)・蓋(きぬがさ)・翳)があり、円筒埴輪などと共に古墳に立てられていた。石製品は埴輪、埴製(土)を石製に代え、更に実物大を基本とした所に特徴がある。(説明文より)

 

 

 

筑紫君磐井の乱:日本書紀によると、527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した

(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を

はばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、

継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、

このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と

記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)と

しており、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。

『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。(ウィキペディアより)

  

13:53 八女コースゴールしました。ゴール横の岩戸山歴史文化交流館が無料開放されていますので立ち寄ってきました。この交流館には、岩戸山古墳、筑紫君磐井を中心とした資料や

墳丘や別区から出土した石製品や埴輪が展示されています。下記の写真は岩戸山古墳から出土した石製品です。※クリックしたら拡大します。

           

八女コースGPS

 

 

 

 


九州オルレ福岡・新宮コース(福岡県粕屋郡新宮町)

2020-06-12 14:34:28 | 九州オルレ

6/9(火)は、九州オルレ福岡・新宮コースに行ってきました。梅雨入りが今週中という予報ですので雨が降らないうちに歩こうと思い計画しました。

九州オルレ新宮コースは、昨年(2019年)3月に認定され比較的新しいコースです。コースの終盤新宮海岸を通るのですが、現在松林の中は通行止めになっており、迂回するようになっています。

 

コミュニティバスでオルレスタート地「佐屋」バス停に行きます。このバスどこに行っても100円均一です。

佐屋バス停から高速道のガードを潜り、しばらくは九州道に沿って歩きます。

途中「六部様」という碑があります。六部というのは六十六部の略で室町時代に始まった書き写した法華経を全国六十六か所の霊場に一部ずつ納めることを目的として廻回巡礼する行脚僧の

ことを指しています。江戸時代には僧でない人も死後の冥福を祈るため鉦をたたき、鈴を振り、或いは仏像を納めた厨子を背負い行っていました。

その六部の者が佐屋地区を通りがかった時、自分の死期が近いことを悟りました。そして宿泊していた家で「自分が死んだら当地に埋葬してくれ、そうすればこの地区に流行り病が

絶対に入り込まないよう祈願する」と言い残して亡くなり、遺言通り埋葬したと語り継がれています。その後この地において流行り病で亡くなった方は一人もいないため、

地区の人々の信仰を集め春と秋には六部様のお通夜が必ず催されています。(案内文より)

  

約1kmぐらい歩いたところから山の中に入ります。

 

最初のカンセは、三本松山です。ここからは、立花山が見えます。立花山は、7つの峰からなる山群でそのうち3つの峰が「白岳」「松尾山」「井楼山」。

鎌倉時代末の1330年に豊後大友氏の大友貞戴(立花貞載)によって立花山山群に立花山城(立花城)が築かれて以来、立花山は南北朝・戦国時代を通じ、交易拠点であった博多を

見下ろす軍事的に重要な要塞であった。 勇猛な武将として知られた戸次鑑連は1569年の多々良浜野戦いで毛利軍と戦ったのち、立花道雪として立花山城城督となり、今は立花口の梅岳寺に眠る。

また道雪の家督を継いだ立花統虎(立花宗茂)は1586年に島津軍の大軍の侵攻に対して、立花山城に篭城し激戦の上これを撃退した。 1601年に福岡城が築城された際に石垣が移築され廃城と

なったため現在は一部に石垣と古井戸が残るのみである。 石垣は井楼山から松尾山へ至るルートの途中などに点在する。 (WIKIPEDIAより)

尚、立花宗茂は、後の柳川藩主になりました。

 

再び山道に入る

 

  

コースでは、日曜市に行くようになっていますが、今日は火曜日、日曜市は行われていませんので短縮コースに入ります。

  

 

コースは、立花口地区に入ります。このエリアは戦場の名残として鍵型に曲がった道や城下町の雰囲気が漂っています。

  

梅岳寺は、立花城主立花道雪とその母の墓所です。立花山登山口は、このあたりです。

 

六所神社に着きました。ここにもカンセがあります。六所神社は、以前JRウォーキングやウォーキング協会の例会で何回か来ています。

六所神社は、立花道雪が戦勝祈願をしたと伝えられている神社です。境内の裏手には、大きな「カゴノキ」があります。九州で3番目の大きさだそうです。

 

  

独鈷寺は、天台宗の祖、最澄が唐からの修業ののち805年、日本で最初に建立したといわれているお寺です。

 

コースは、再び山道へ。

 

次のカンセは、しんぐう愛の丘です。ここからは相島(通称猫の島)が見えます。

 

太閤水:天正15年(1587年)九州を平定した豊臣秀吉が、大阪への帰路ここで馬を休め自ら清水を汲んで飲んだ所です。当時九州の大部分に勢力を伸ばしていた島津義久に対抗し、

孤軍奮闘していた立花宗茂(立花道雪の養子)を助けるため、秀吉は20万の大軍を自ら率いて九州へ乗り込んできました。この秀吉を追って九州入りした堺の茶人『津田宗及(千宗易“利休”)』は

三代の里で水を求めましたが、あまり良い水ではなかったので自ら井戸を掘り湧き水を得ました。秀吉はこの水を飲んでたいそう喜び、掘った者の名を聞き即座に『宗及水』と名付けました。

その後、京都大徳寺の江月和尚(宗及の子)が立ち寄った際に『飯銅水』と改められましたが、後世に石畳の井戸場が造られ太閤秀吉にちなんで『太閤水』と呼ぶようになったそうです。

 

今日は非常に暑く、33度ぐらいあるのでしょうか、それでも日陰に入れば涼しい風が吹いてきます。

そろそろ12時近くなってきましたのでどこかでお握りを食べようかと思いますが、昼食をとる場所が見当たりません。もう少し歩いてみます。

次のカンセは、夫婦子守大明神です。

  

ここから下りになります。

 

ホームセンターの横の公園の所を曲がるとJR新宮中央駅が見えてきました。駅の中に観光案内所があるのでそこに立ち寄りスタンプを押します。

  

駅の階段を下り、西口へ。正面に新宮町役場、そしてその先に新宮高校があります。

 

本来のコースでは、新宮高校の先から松林に入るようになっていますが、松林の中は、立ち入り禁止になっています。この松林はビューポイントなんですが・・・・

仕方なくそこからゴールの西鉄新宮駅に向かいます。

13:53 西鉄新宮駅にゴールしました。

  

所要時間3時間55分。距離数10,4kmでした。

昨年このコースが設定されましたが、松林の中が歩けないし、あまり見どころの少ないコースでした。

 


九州オルレ平戸コース(長崎県平戸市)

2020-06-04 20:23:49 | 九州オルレ

6/2は、2か月ぶりに他県へ移動し「九州オルレ平戸コース」に行ってきました。

7時に自宅を出発し9時10分にオルレスタート地平戸港交流広場に到着しました。昨年平戸ツーデーマーチが中止になりましたので2年ぶりの平戸です。

 

平戸港交流広場スタート →  最教寺奥之院(1.2km) →  川内峠インフォメーションセンター(4.7km) →  川内峠デイキャンプ場(6.8km) → 平戸市総合運動公園(9.2km) → 赤坂野球場(9.7km) → シーライフ平戸(10.1km) →  平戸ザビエル記念教会(11.2km) →  正宗寺【宗陽公の墓】(11.3km)  → 寺院と教会の見える風景(11.4km) →  平戸オランダ商館(12.5km) → 平戸温泉うで湯・あし湯(13km)ゴール

9:25 オルレスタート。

  

交流広場の突き当りには、「じゃがたら娘像」があります。

1639年(寛永16)幕府は、平戸のオランダ商館長に対して、長崎平戸に居住するオランダ人子女を調査し、その氏名と両親の氏名を書き出すように命じ、蘭英両国人に嫁がして子女を産んだ

日本婦人とその子女はひとり残らず、この年出帆のオランダ船でバタビア(今のジャカルタ)に送り届けるよう申し渡された。 長崎平戸の婦女子40人余がこの年追放された。

これら追放された婦女子は、帰国は許されなかったが、切支丹信仰に関係ない手紙・進物等の文通は許された。ジャガタラ文は、ジャガタラ(バタビア)に追放された婦女子から

故郷に送られてきた手紙で、貴重な資料である。(ほっこり平戸より)

昭和14年(1939)に作られた歌謡曲「長崎物語」は、じゃがたらお春をモデルにしました。♬赤い花なら曼殊沙華・・・・三番には、♬平戸はなれて幾百里 つづる文さえつくものを・・・・・♬という歌詞があります。銅像の下には、「日本恋しや、行かしや、見たや、見たや見たや」と書かれています。

  

鄭成功(てい・せいこう)は、中国,明末~清初の人。明朝復興運動の中心人物。父は鄭芝龍,母は平戸の田川七左衛門の娘。幼名,福松。7歳のとき父に招かれて明に渡り,南安県学の員生となり

南京の大学に学んだ。父とともに福州で明朝復興運動に参加,大将軍となり,隆武帝 (→唐王朱聿鍵 ) から朱姓を賜わり,国姓爺 (こくせんや) と呼ばれた。

隆武2 (1646) 年父が清朝にくだったのちもこれに従わず,父の握っていた海上権を受継ぎ,金門,アモイ両島を根拠地に広東の明政府と連絡し,連年大陸沿岸を攻略した。

永暦 15 (61) 年台湾を占領,引続き清朝に抵抗し,清朝の中国統一を悩ませ,明朝復興と大陸反攻の強化をはかったが,翌年急死した。日本では,日中の混血児であることと,

明室への忠節のゆえに「和唐内」と愛称された。近松門左衛門の浄瑠璃『国姓爺合戦』はこれを素材としたもの。 (コトバンクより)

台湾・台南の赤崁楼(せきかんろう)には、鄭成功の像が建っています。

 

コースは「最教寺」に向かいます。最教寺は、806年空海が唐より帰国した際に、この地に立ち寄ったことから開かれた寺院。赤ん坊の泣き声が災いを退けるという

「子泣き相撲」が毎年節分に行われます。最教寺の横から山道に入ります。

  

途中何か所か山道の中へ入ります。

  

  

10:50川内峠に到着。ここまで4,7km。

川内峠には、始めてきましたが、素晴らしい光景です。標高200mの緩やかな峠に広がる30haの草原で、頂上は、360度のパノラマです。天気のいい日には、九十九島や対馬まで一望

できるそうですが、今日は天気はいいのですが、遠くが霞んでいるので見えませんでした。今日はコロナ感染防止でマスクを着けて歩きましたが、ここには他には誰もいません。

マスクを外してこの空気を独り占めします。(といっても家内も一緒ですが・・・)

  

生月島との間に小さな島「中江ノ島」があります。ここは、隠れキリシタンの島ということで世界遺産に指定されています。

詩人「吉井勇」の歌碑もありました。「山さよく 海うるわしとたたえつつ旅人われや 平戸よくみむ昭和32年(1957)7月5日建立されました。

塩上げ石」は、今から650年ほど前、大渡長者という商人がいた。もとは貧しい商人であったが、川内峠を通るときに石に塩を供え「願わくばたくさんの船を持つ大商人にしてください」と

祈願しつづけた。その甲斐あって後に大商人となったという。石の上に塩もしくはお賽銭を置くと願いが叶うということでしょうか、石の上にはお賽銭が置かれていました。

  

頂上の方に行きます。ここからは、360度の光景です。お昼も近づいてきましたのでここで家から持ってきたお握りをいただきます。おかずは、この景色です。

 

 

  

昼食の後、再びスタートします。こんもりとした丘の所が折り返し場所。

 

軽いアップダウンを繰り返し歩きます。

 

歩いていると平戸ツツジの父「熊沢三郎氏」の銅像がありました。銅像のある所から下りていくと一面平戸ツツジ園が広がっています。

今は、6月、きっと4月のつつじの花が満開の時にはきれいでしょうね。

 

ライフカントリー(平戸総合運動公園)が9,2km地点。

赤坂野球場、シーライフひらどの所が10km地点

 

このあたりから平戸市街地に入ります。

平戸ザビエル記念教会:海外交易と同時に、フランシスコ・ザビエルが平戸を訪れ、カトリック教が日本に広がります。1931年に建てられ、韓国からも信者らが多く訪れます。

宗陽公の墓:第26代平戸藩主、松浦隆信(宗陽公)の墓所。オランダ、イギリスとの交易に積極的で平戸が「西の都」と言われた時代の藩主です。

  

寺院と教会の見える道へ。平戸ザビエル記念教会を下り、振り返れば寺院の門からゴシック様式の教会の先端が見える平戸を代表する景観です。

 

瑞雲寺の中を通り、浦の町「大ソテツ」へ。樹齢400年の巨大なソテツは、この場所にあった貿易商の庭に植えられていたもの。このあたりは、江戸時代初期富裕な貿易商が

多く立ち並んでいました。

  

オルレコースも終盤に差し掛かりました。

  

平戸オランダ商館:長崎出島に貿易拠点が移るまでは、平戸が海外交易の窓口でした。1639年に実在したオランダ商館倉庫を2011年復元し、当時の資料などを展示しています。

 

 

詩人「藤浦洸」さんは、平戸市出身。多くの歌の作詞も手がけました。私たちの世代では、NHK「私の秘密」での解答者としてのイメージが強いです。

ゴールの平戸温泉うで湯あし湯の前には、藤浦洸さん生誕百周年で「平戸のうた」の歌碑が建てられています。

 紅のつつじは「きりしま」「ひらど」 昔懐かしカビタン様の国へたよりの押し花が 海の向こうのジャガタラ国の土にこぼれて咲いたげな ほんと咲いたげな

 

14:26 ゴールの平戸温泉うで湯あし湯に到着しました。約5時間のウォーキングでした。

 

 

 


九州オルレ唐津コース(佐賀県唐津市)

2020-04-06 14:14:22 | 九州オルレ

4/4(土)九州オルレ3回目。今回は唐津コースを歩きました。

車をゴール地の波戸岬に置き、バスでスタート地点の道の駅「桃山天下市」まで移動します。

このコース、秀吉が文禄・慶長の役で朝鮮へ出兵した時に築かれた「名護屋城址」、周辺に全国の各大名が造った陣地を廻るもので当時は130もの陣屋があり、

そのうち23の陣跡が国の特別史跡に指定されています。城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄しました。 歴史好きの方にはたまらないと思います。

9:30スタート。

 

森を抜け、最初に着いたのが「前田利家陣跡」。豊臣五大老の一人。8000人の兵を率いて参陣しました。名護屋城大手門から陣迄500mという位置からも秀吉と親密な関係が伺えます。

 

古田織部陣跡。利休七哲の一人として茶の湯を究め、侘茶を武家風に発展させた大茶人。

長宗我部元親は、土佐国浦戸城主。子の盛親とともに渡海して戦っています。石田三成(近江国佐和山城主)文禄の役では、船奉行として渡海し戦うが、明軍との和平交渉を進めました。

慶長3年増岡長盛らとともに五奉行となり、秀吉の死去に伴い慶長の役の処理にあたりました。

 

歩いていると昨年の大会での写真が飾られていました。写真をよく見ると歩友さんが映っていました。

稲葉重通陣跡(美濃国清水城主):美濃三人衆と呼ばれた稲葉良通の長子。弟貞通と共に文禄の役に参陣。弟は渡海し戦ったが、重通は、名護屋に駐屯し秀吉の話相手を務める御伽衆として

仕えました。長谷川守知陣跡(美濃長谷川藩主):初めは織田信長の家臣でしたが、本能寺の変以降秀吉の家臣となり、文禄・慶長の役では、軍役270人で参陣しました。

陣跡は、最も高い場所に長方形状の主郭があり、北面には、石垣が築かれその他は土塁で囲まれていました。

    

堀秀治陣跡(越前国北庄次いで越前国春日山城主):祖父秀重・父秀政は織田信長、秀吉の重臣として活躍しました。そのあとを16歳で継いだ秀治は、文禄の役では、6000人の兵を率いて

名護屋に駐屯、構えた陣屋は、10haを超す広大なもの、初めて陣地全域を対象とした発掘調査を行い、御殿、能舞台、茶室など重要な遺構を発見、大名陣屋の内部構造を示す好例として

保存公開しています。

 

   

先へ進むと「串道」という表示があります。名護屋から串浦に至る道で2つあり、昭和の時代まで使われていました。

  

木村重隆陣跡:文禄の役では軍役3500人で朝鮮半島に渡海し、晋州攻めに参加しました。

片桐且元陣跡:文禄・慶長の役では軍役200人で名護屋に在陣し、渡海の記録はありません。

 

名護屋城址が近くなってきました。

   

道中見つけたお花。

  

茶苑海月は、呈茶体験ができますが、今回はパスしました。

 

海月を過ぎると池の向かい側に名護屋城址が見えてきます。ちょうど桜が満開でビュースポットです。

  

名護屋城址:文禄・慶長の役(1592~98)の基地として豊臣秀吉の命により黒田官兵衛が設計した城で、当時は大阪城に次ぐ規模を誇ったといわれています。日本百名城の一つ。

  

天守近くには、正岡子規門の青木月斗が読んだ句碑があります。「太閤が 睨みし海の 霞かな

  

 

天守台を下りてきます。麦原集落にやってきました。通りは殆どが農家で車の通行も少ないので歩きやすいです。この集落に「炎向(ひなた)窯」があります。岸岳八窯を始源窯とされ、

古くより親しまれている唐津焼。秀吉が朝鮮出兵した際、連れてこられた陶工達により発展したとされています。(パンフより)

炎向窯では、イカの箸置きが作られていました。

  

波戸岬少年自然の家に来ました。ここから見る海の景色もビューポイントです。お昼を過ぎましたので道の駅で買ってきたお握りをいただきます。この景色がおかずになります。

  

休憩後再び出発。真田昌幸陣跡:軍役500人、16番衆として家康の他、奥羽諸大名の中に編成されました。

秋田実季陣跡:脇本城主安東愛季の次男、文禄の役では、安宅船の建造などのため、秋田杉を伐採、提供するなど大きく貢献しました。

上杉景勝陣跡:軍役3000人。一年余り名護屋に在陣のあと、文禄2年6月軍勢を率いて渡海。任務は朝鮮半島南岸の熊川(現在の韓国慶尚南道鎮海市)における城郭構築でした。

  

波戸岬キャンプ場です。ここから見える玄界灘の光景もビュースポットです。

遠くに玄海原子力発電所が見えます。

 

波戸岬遊歩道の途中に島津義弘陣跡があります。文禄の役では、義弘も渡海しており軍役人数はおよそ1万人とされている。渡海時には、国元からの船が到着せず賃船で釜山に渡ったといわれ、家臣の川上忠智に「日本一の大遅陣」と報じている。到着した島津軍は、釜山から北上し江原道で転戦、戦況の転換や講和交渉の開始とともに朝鮮半島南岸部に撤退している。慶長の役も再び朝鮮半島へ渡り、全羅道や慶尚道を転戦している。慶長三年(1598)の泗川城の戦いでは、義弘が守りを固める泗川城に攻め寄せた明国提督の董一元らの大軍を破り、続く露梁海戦では、朝鮮水軍の将李舜臣を破るなど戦果をあげた。現在の陣跡には、石垣や石塁、曲輪、虎口等が残っており、近年の発掘調査によって、主郭部北側や東側の虎口の様子も明らかになってきている。(名護屋城博物館HPより)

  

波戸岬遊歩道には、柱状節理の絶壁、玄界灘が一望できるポイントがあります。

  

 

海水浴場には、済州島のトルハルバン(石製のお爺さん)があります。2014年唐津市と済州市姉妹都市締結20周年を記念して済州市から寄贈されたそうです。

 

  

14:06 ゴールのサザエつぼ焼き屋台にゴール。所要時間は4時間30分でした。

完歩のご褒美にサザエのつぼ焼きをいただきました。

 

追伸:慶長3年(1598年)8月秀吉は62歳の生涯を閉じました。それにより日本軍の士気が衰え朝鮮半島からの撤退を余儀なくされました。

朝鮮撤退後、この地は寺沢広高の治めるところとなりました。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602)、広高は唐津城の築城を開始しました。この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用しました。

これ以降に、二度と城が利用できないように、要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われました。これで約400年前に突如姿を現した巨大都市名護屋は、消えていくことになりました。