よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

放生会(ほうじょうや)ウオーク (福岡市筥崎宮)

2016-09-22 05:26:35 | JR九州ウオーキング

9/12~9/18まで 福岡の筥崎宮では、福岡の三大祭の一つ「放生会(ほうじょうや)」が行われています。※普通は、「ほうじょうえ」ですが、博多では「ほうじょうや」と呼んでいます。

放生会というのは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式です。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられました。

収穫祭・感謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や、宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡宮(八幡神社)で催されます。

9/17(土)JR九州ウオーキングで放生会ウオーキングが行われました。

スタートは、JR箱崎駅。先ず、筥崎宮に隣接する「花庭園」へ行きます。

  

花庭園は、正月の「冬牡丹」が有名ですが、この時期は、これといった花がないのでは?とも思いましたが、入ることにしました。

  

彼岸花も咲いていました。

   

この「玉簾」も彼岸花の仲間です。

    

赤と白の萩も咲いていました。

   

花庭園を見て廻り、筥崎宮へ。筥崎宮祭神は、応神天皇、神功皇后、玉依姫命です。

筥崎宮のHPを見てみると、筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた

応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、

平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、

延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。

鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。

後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。

江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、

近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。(筥崎宮HPより)

   

    

本殿の裏側に行くと、池坊の生け花、福岡に関わる有名人の「書」がありました。

  

    

放生会といえば、「おはじき」です。このおはじきは、私達が子供の頃遊んだ「おはじき」とは、ちょっと違います。

放生会のおはじきは「厄をはじく縁起物」とされ、土製の素焼きの物です。 博多人形の人形師さん達が、博多人形の技法でひとつひとつ手作りで作る物で、 毎年違ったテーマで製作されています。

販売価格は3000円の物と、額に入った10,000円の物とがあります。 放生会当日販売されますが、すぐ売り切れてしまいます。

毎年テーマがあって今年は、ユネスコ無形文化遺産「和食」で天ぷら、水炊き、握りずしなどがあります。

      

  

また、『ちゃんぽん』は、長崎で土産物に販売されている「ビードロ」と同じ物で、 全国的には「ぽぴん」や「ポッピン」とも呼ばれる様です。 ガラス製で、息を吹き込むと「ペコン」「ポコン」という音を出す玩具で、

放生会では、巫女さんたちがガラスに筆で絵付けをした綺麗なちゃんぽんが販売されます。 値段は3000円~9000円で、お守り授与所で販売されます。

  

 

梨も柿も放生会」という言葉があります。福岡では秋が近づく頃にはこの言葉をよく耳にします。放生会が実りの秋を迎え、作物の豊穣に感謝する祭りなので、このように呼ばれ親しまれています。

 

また、お祭では、約500もの数多くの露店が並ぶため、「放生会に行けば秋のものは何でも揃う」という意味だとも言われています

 

参道の露店を見ると、放生会名物「新生姜」が葉ごと売られていました。

戦前まで筥崎宮周辺には生姜畑があり、放生会で採れたての新生姜が販売され、 博多のごりょんさん(商家の奥さん)がお土産として買って帰ったのが始まりと言われています。

それを近所にお土産として配っていました。

  

約5kmのコースでしたが、放生会に秋を感じるウオーキングでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


レンタカーで「奥日光」へ

2016-09-14 17:35:29 | 旅行

折角日光に来ましたので9/5(月)は、レンタカーを借りて奥日光に行ってきました。

奥日光は、高校の修学以来ですので約半世紀ぶりです。今日(9/5)は、天気も良く男体山もきれいに見えています。

いろは坂を通り、戦場ヶ原へ。戦場ヶ原は、かつて湖であったものが湿原化したもので、400ヘクタールの広大な面積を誇ります。

戦場ヶ原の由来は、当時下野国(現在の栃木県)の二荒神(二荒山(男体山))と上野国(ほぼ現在の群馬県)の赤城神(赤城山)がそれぞれ大蛇(男体山)と大ムカデ(赤城山)に化けて

戦った戦場であるというもの。なお争いの原因は中禅寺湖を巡る領地争いで、この伝説で勝ったのは二荒神(男体山)であったとされる。

近くには、男体山、太郎山、山王帽子山、三岳などの日光連山が見えます。

  

そのあと、Uターンし、竜頭の滝に向かいます。

竜頭の滝は、華厳の滝、湯滝とともに奥日光三名瀑の一つに数えられています。長さ、210m、高低差約60m。滝の名称は、滝を正面から見た姿を竜の頭に見立てたとも、

二手の滝をヒゲに見立てたとも言われています。

紅葉シーズンには、周りが紅くなってきれいでしょうね。

 

  

龍頭の滝動画    https://youtu.be/fdy_DVGlwPs

 

龍頭の滝を下りてくると「中禅寺湖」です。この湖の向かい側には、「二荒山中宮祠」があります。

二荒山中宮祠  

中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、日光市の本社と男体山にある奥宮との「中間の祠」の意です。

勝道上人による782年(天応2年)の男体山登頂ののち、784年(延暦3年)に建立されたという。この時、同時に中禅寺も二荒山神社の神宮寺として創建された。

古くは「男体中宮」「男体権現」「中禅寺権現」とも称された。棟札の写しによれば、1096年(永長元年)、1155年(久寿2年)、1161年(永暦2年)の社殿造営が確認されています。

その後、現在の社殿が1699年(元禄12年)に造営されました。

当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置しています。(Wikipediaより)

  

 

男体山はこの神社から登ります。(入山料500円) お宮の方に聞きましたら標準の方で往復6時間かかるそうです。

社殿には、男体山の登山回数、また一日4、5往復された方の札が掛かっています。一日5往復というと凄いですね。この方たちは、往復3時間ぐらいで登られているのでしょうか?とにかく凄い!

回数のトップは、1223回というのがありました。

      

二荒山中宮祠から英国大使公園の方に行きます。

ここからは、中禅寺湖と男体山がきれいに見えます。まるで絵葉書みたいです。海抜1269mの地点です。

奥日光の入り口に位置する中禅寺湖。周囲約25km、最大水深163mで、およそ2万年前に男体山の噴火による溶岩で渓谷がせき止められ、原形ができたといわれています。

穏やかな気候のため、明治から昭和初期にかけては外国人の避暑地として賑わいました。男体山のふもとに広がるのどかな湖畔は四季折々の表情を楽しめますが、

特に初夏のツツジ、秋の紅葉が見事です。また、遊覧船に乗って水上からの景色を楽しむのもオススメ。紅葉シーズンには「紅葉廻り」コースも運行されます。(日光観光ナビより)

私、中禅寺湖というと、何か、お寺の名前ですが、このお寺がどこか知りませんでした。この写真を撮った所に「立木観音」があります。ここが「中禅寺」です。

中禅寺(ちゅうぜんじ)は、784年、日光開山「勝道上人」(しょうどうしょうにん)によって建立されましたお寺で、世界遺産「日光山輪王寺」(にっこうざんりんのうじ)の別院です。

御本尊「十一面千手観世音菩薩」(国重要文化財)は、勝道上人が中禅寺湖上に千手観音様をご覧になり、その姿を桂の立木に彫ったと伝えられています。観音様は、現在も地に根をはり、

訪れる人々を穏やかな表情で迎えます。 また、坂東三十三観音霊場の第十八番札所として多くの巡礼の方たちもご参拝になります。(中禅寺HPより)

  

今日は、夕方の羽田発の飛行機で帰る予定ですので余り時間がありません。最後は、「華厳の滝」です。

 華厳の滝は袋田の滝(茨城県・高さ120m)と那智の滝(和歌山県・高さ133m)と共に日本三大名瀑の1つに、裏見の滝、霧降の滝と共に日光三名瀑の一つに数えられています。

男体山の噴火により岩石が堆積し堰き止められた中禅寺湖の流出口にあり、高さ97mの落差で流れ落ち、岩壁からは伏流水が流れ出し12の小滝となって滝全体を包み込むような特異な景観を作り出しています。

華厳の滝は日光を開いた勝道上人が第一発見者とされ、名前の由来は天台宗の五時八教説の中の華厳経と呼ばれる仏教経典から名付けられたといわれています。

明治33年(1900)に滝壺に茶屋が開かれた以降に観光化が進み、昭和5年には華厳の滝エレベーターが設置されるとさらに多くの観光客が訪れるようになりました。

昭和6年に国指定名勝(「華厳瀑および中宮祠湖(中禅寺湖)湖畔」)に指定され平成19年に日本地質百選(「華厳の滝」)に選定されています。 (日光観光ナビより)

   

 華厳の滝動画  https://youtu.be/kn30z3oyFj0

 

日光から宇都宮までは、車で一時間少しかかります。今日は、宇都宮発13:33の電車で東京に戻る予定です。

12時半、レンタカーの宇都宮東口営業所に到着。駅前を見ると、餃子屋さんがあります。車も沢山停まっていますので有名店?

行列がたくさんできていたら帰ろうと思いましたが、ついてみると私達の前には5組のお客さん。これだったら何とか間に合うのでは?

15分ぐらい待ったら店内に案内されました。時間がないのでいつもの焼き餃子と水餃子を注文。

やはり行列ができる店だけあって美味しかった・・・・・・・・時間があればもう少し注文したかったのですが・・・・・・・(また、今度来たいな~)

どうにか、ギリギリで13:33の電車に間に合い、羽田空港には、16:00到着。飛行機にも間に合いました。

  

   

 

 

 


日光ツーデーウオーク (2016) 2日目 世界遺産「日光の社寺コース」20km

2016-09-10 18:36:55 | オールジャパンウオーキングカップ

)9月4日(日) 日光ツーデーマーチ2日目。この日は、「世界遺産 日光の社寺コース」20kmに参加しました。

台風の影響か、お天気はあまりよくなくいつ降ってくるか心配です。一応リュックには、傘とポンチョを用意しました。

このコース前半は、稲荷川砂防堰堤までが標高870mあり、かなりのハードなコースです。

午前9:00スタート。

 

 

歩道橋を渡り右折。このあたりから徐々に上り坂になってきます。

日光小学校前を通り、稲荷川橋へ。

 

稲荷川は、神橋付近でで大谷川と合流します。

  

4km地点の「開山堂」が最初のチェックポイント。昔は、このあたりが日光参拝の中心地だったそうです。いろいろな史跡があるそうで一つ一つ見て廻ります。

 

開山堂は、日光を開山した勝道上人を祀る霊廟で、享保5年(1720年)頃に造営されたもので、唐様の重層宝形造り、総弁柄朱漆塗りの建物で、江戸時代中期の建築様式を現しています。

地蔵菩薩像が安置され、毎年4月1日に開山会法要が行われます。

観音堂:別名「産の宮」と呼ばれ、。聖観世音菩薩が本尊 堂の正面に並んでいるのは将棋の駒。出産を控えた女性がこの駒を借りだし自宅の神棚に供えれば安産と言われ、無事出産したなら

新しい駒をつけて返納する。昔は香車だけであったので香車堂ともいわれた。石の鳥居があるのは神仏混合のなごり。

仏岩:開山堂の裏手にあります。頭上の岩壁に仏の姿をした岩が並んでいたのが、地震で岩が崩れて消失し、仏岩の名のみが残ったともいわれる。

岩壁基部のくぼみには、梵天、帝釈天と四天王のうちの三体、不動明王の石像六体がならんでいます。

  

尚も坂道が続きます。石畳の上を歩くとどうしても慎重になり、歩く速度もだんだん遅くなります。もう汗びっしょりになりました。昔の人もこんなきつい坂を登ったのでしょうか?

北野神社: 学問の神様菅原道真(天神様)を祀る。寛文元年(1661)、筑紫安楽寺の大鳥居信幽が勧請したものである。祭日は8月25日。鳥居や祠の奥の巨岩に天満宮の梅鉢紋がみられる。

神馬(しんめ)の碑: 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの折、徳川家康が乗った名馬の碑。家康が亡くなった後も元和3年(1617)から寛永7年(1630)に亙たる14年間東照宮の御神馬として奉仕した。

            延宝6年(1679)梶 定良の建立。由来の碑文が刻まれている。

   

白糸の滝:  天狗沢にかかる名瀑。落差約10メートル。弘法大師修行の場と伝えられる。

         文明18年(1486)京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に次の和歌が詠まれている。" 世々を経て 結ぶ契りの末なれやこの滝尾の たきの白糸 " 

別所跡: 東照宮の遷座以前、日光参拝の中心はこの滝尾周辺であった。日光責めで有名な輪王寺の「強飯式」(山伏が大盛りの飯を残さず食べろという儀式)もここが発祥である。

      明治になって別所は廃絶。永正6年(1509)日光に来た連歌師「宗長」の紀行文「東路のつと」には、「ここより谷々を見下ろせば、院々僧坊およそ500坊にも余りぬらん」とあり、

      盛時の様子が偲ばれる。

    

影向石: 影向とは、神仏が仮の姿をとってこの世に現れること。弘法大師(空海)が弘仁11年(820)この地に来て奥の大岩あたりで神霊の降下を祈願したところ

       美しい女神が現れたと伝えられている

運試しの鳥居: 元禄9年(1696)に三代将軍家光の忠臣、梶 定良が奉納したもので鳥居の頼束(中央の縦の部分)の丸い穴に小石を三つ投げ穴を通った数で運を試したという。

 

滝尾神社楼門: 重層入母屋造、総淡塗り。元禄10年(1697)に移転新築された。それ以前は、正面参道石段を登った付近にあり、おなじならいの門であった。

           江戸建築の重層な建物である。

滝尾神社:    伝えられるところによれば、弘仁11年(820)弘法大師が日光に入山し、滝尾において修行された際、女峰山の女神を感得して奉斎したことに始まるという。

           後に新宮(本社)、本宮(本宮神社)とを合わせて「日光三所権現」と称されるようになる。東照宮が日光に遷されるまでは、滝尾の周辺が日光山参詣の中心だったという。

   

滝尾稲荷神社: 弘仁11年(820)弘法大師が滝尾神社と共に稲荷神社も創建。祭神は、倉稲魂神(稲荷大明神)。昭和41年(1966)9月に台風で流出したため、昭和43年(1968)巴会により、再建された。

           3月25日が例祭。5月25日の講社大祭には多くの信者が集まる。昔、滝尾上人が朝のお供えを忘れると稲荷の神が化けて出ては催促したという伝説がある。

  

更に上って行くと10k、20kの分岐点があります。もうきついので10kmの方にコース変更しようかと思いましたが、折角来たのですから20kの方に歩きます。

 

稲荷川砂防堰堤に来ました。ここが標高870m地点です。

この稲荷川は、江戸時代の寛文2年(1662)の豪雨により土砂災害が発生しました。当時の記録によると、稲荷川水源の七滝あたりの崖が崩れて大量の土砂が300軒余りを押しつぶし、

被害は、死者140名を越えたと言われています。稲荷川では、古くから土砂災害が発生しているため大正7年(1918)から内務省(現国交省)が砂防事業を行っています。

 

 

今でこそ、土木工法も発展し間知ブロックなどがありますが、大正時代は、山から石を切り出し、ノミで削って人馬で運搬したそうです。

セメントもあったそうですが、馬などを使ってここまで運んできたのでしょう。大変な工事だったですね。

これらの「稲荷川砂防堰堤」は、2014年に「土木遺産」に認定されたそうです。

  

第3砂防堰堤の所が2回目のチェックポイントです。総合会館スタート地点では、集団の前の方でしたが、休憩したり写真を撮ったりしていたら集団の後方になってしまいました。

   

しばし休憩し稲荷川砂防を下りて行きます。上りに比べ下りは楽ですね。(笑)

下りていくと右側の山手から野生の鹿が現れました。あわててカメラを出し写しましたが、ちょっとぼけてしまいました。

大きな建物があります。東照宮美術館です。今歩いていたコースは、東照宮の裏手を歩いていたのですね。

  

輪王寺に着きました。輪王寺は、現在平成の大修理中ですが、今年は、この工事中の三仏殿がみられる「天空回廊」がコースに入っています。

工事用仮設階段を7階まで登ります。完成すれば工事用テントに描かれているような建物になるのでしょうね。

 

  

 

東照宮の参道に来ました。コースは、ここから「日光二荒山神社」に向かいます。

  

 

日光二荒山神社は、1200年以上前、勝道上人が開いた日光山。二荒山神社は日光山信仰の始まりとなった古社で、二荒山(男体山)をご神体としてまつり、古くから下野国の一の宮としてうやまわれ、

信仰を集めていました。二荒山神社の主祭神は招福や縁結びの神様、大己貴命(おおなむちのみこと)がまつられており、現在では縁結びのご利益でも人気の社です。

また、日光山内の入り口を飾る木造朱塗りの美しい橋「神橋」は、二荒山神社の建造物。世界遺産「日光の社寺」の玄関ともいえる橋になっています。

  

御朱印もいただきました。二荒山神社を出て日光ロマンチック街道に出ます。

  

日光奉行所跡: 元禄13年(1700)に日光山の守護として四十余年を日光廟に尽くした梶 定良の屋敷を役宅として日光奉行がおかれ、寛政3年(1791)役宅に接して役所が建てられた。

           日光奉行は、日光廟の警備、営繕、祭事一切を司る他、日光領の司政や裁判を行った。明治2年(1868)に日光県が置かれ、その庁舎にあてられたが、

           同4年(1870)廃県とともに建物も取り壊された。昭和35年(1960)8月日光市の文化財に指定された。

日光真光教会: 明治32年(1899)に建てられました。日光で初めての洋風建築で当初は木造でしたが、大正3年(1914)石造りに建て替えられました。重厚なゴシック式の石造り建物です。

金谷ホテル創業地: 1873年(明治6年)、東照宮の楽師をしていた金谷善一郎が、ヘボン式ローマ字綴りを考案したアメリカ人、J.C.ヘップバーン(ヘボン)博士の知遇を得て、

              自宅の一部を外国人の方の宿泊施設とした「金谷カッテージ・イン」を開業したと伝えられています。これが「金谷ホテル」の始まりです。

              当時の日本には長期のバケーションといった慣習も、リゾートという概念も、ましてや洋食(肉食)といったものすらない、そんな時代にホテルとして歩み始めました。(金谷ホテルHPより)

   

日光田母沢御用邸記念公園の所が給水所です。このあたりは、ほとんど平坦ですのでだいぶん歩く速度も速くなってきました。

日光田母沢御用邸記念公園: 日光田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部 分)を移築し、

                    その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、

                    大正7(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿となりました。昭和22年(1947)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、

                    三代にわたる天皇・皇太子がご利用になりました。

                    戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園として蘇りました。(田母沢記念公園HPより)

               

コースも終盤に差し掛かりました。あと5kmです。

清滝神社の所が3回目のチェックポイントです。

清滝神社: 当社は、弘仁11年(820)弘法大師が日光に来山し、岩壁より一条の滝が落ちいているのを見て、かつて、役小角と雲遍上人が中国の大鷲山の清滝というところで、奇跡に逢った時の話を思い出して、

ここが、その地形に似ていることから、この滝を清滝と名づけられ、祠を建てて、清瀧権現とし、大海津美神を祀った。配神には、高龗神・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命を祀った。

5月15日には、全国的にも珍しい「湯立神事」が行われる。大釜で塩湯を沸かし、それに笹の葉をひたして、塩湯の滴り落ちる熱湯を神職が頭上より受けるものである。

この笹の葉は、家内安全と無病息災のご利益があるとされている。(栃木県神社庁HPより)

    

しばし休憩後再びスタートします。この大谷川の水は、透明感があり、きれいな清流です。

  

左側に「やしおの湯」が見えてきました。昨日と今日の2日間は、日光ツーデーウオークに参加されている人には割引価格で入れるそうです。

コースは、大谷川沿いに歩きます。右側には、たくさんのお地蔵さまが立っています。これは「化地蔵」というそうです。

化地蔵: 日光山を再興した慈眼大師天海の門弟たちが彫ったと伝えられています。憾満ヶ淵の探索路沿いに並び、かつては100体ほどありましたが、明治の大洪水で何体か流失し、

      現在、約70体が残っています。百地蔵、並地蔵などとも呼ばれ、みんな似たような姿なので数えるたびに数が違うことから「化地蔵」と言われています。

  

憾満ヶ淵: 男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝です。古くから不動明王が現れる霊地といわれる。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句

       「カンマン」を取り「憾満ヶ淵」と名づけたという。晃海はこの地に慈霊寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立したもので、往時は参詣、行楽の人々で賑わった。

       元禄2年(1689)松尾芭蕉も奥の細道行脚の途中立ち寄っている。「合満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、命名の由来から考えると「カンマン」と澄んで読むのが正しい。

  

憾満ヶ淵から橋を渡ります。大谷川には、釣りをしている方を見かけます。何が釣れるのでしょうか?(ニジマス?、やまめ?・・・・・)

  

「石升の道」というのがあります。

石升の道:  この通りに並んでいる「石升」は、近くの湧水を水源とし、自然石をくりぬいた升を石菅でつないだ大正時代の水道です。

         ほとばしる豊かな水は夏でも冷たく、冬は暖かいので是非触れてみてください。(案内文より)

  

今日のコース、ゆっくりゆっくり歩きましたが、やっとゴールです。時間は14:10.

まだお振舞の「豚汁」はあり、おいしくいただきました。疲れましたが、20kmを選んでよかったです。

ゴール後、オールジャパン栃木県のスタンプを頂きました。達成まであと6県です。

  

今日「日光の社寺」20kmコースのGPSです。スタート当初GPSの調子が悪く日光小学校から記録されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日光ツーデーウオーク (2016)1日目 ギネスブック 「日光杉並木コース」20km

2016-09-08 16:29:00 | オールジャパンウオーキングカップ

9月3日(土) 「第17回日光ツーデーウオーク」に参加しました。今年は、日光開山1250年記念として、1日目は、ギネスブックにも登録されている「日光杉並木コース」20kmにエントリーしました。

日光杉並木は、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側に

スギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに渡り、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。

徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年の歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、

江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。

中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。

周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、

歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道 附 並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどう つけたり なみききしんひ)として、日本で唯一、国の特別史跡および特別天然記念物の

二重指定を受けている。また、日光杉並木街道は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」のひとつとして選定を受けているほか、読売新聞社選定の

「新・日本街路樹100景」(1994年)にも選定されている。現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、

毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、

これを打開すべく保護活動も盛んに行われている。(Wikipediaより)

 

会場は、JR日光駅からバスで約10分の日光総合会館。会場には、栃木・Kさん、埼玉・Iさん、福岡・Sさんなどの方がが参加されていました。

この大会参加者名簿が作られていませんでした。小栗日本ウオーキング協会名誉会長の挨拶の後、午前9時20kmコーススタート。

(日光仮面は、栃木県のゆるキャラです)

   

      

神橋(しんきょう)は、二荒山(男体山)をご神体としてまつる二荒山神社の建造物で、日光山内の入り口にかかる木造朱塗りの美しい橋。

奈良時代の末に勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて

橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれています。現在のような朱塗りの橋になったのは寛永13(1636)年の東照宮の大造替のとき。

明治35(1902)年にそのときの橋は洪水で流されてしまいましたが明治37(1904)年に再建され、日本三大奇橋の1つに数えられています。(日光旅ナビより)

   

   

神橋を渡って左側には、「天海大僧正」の銅像が建っています。案内板を見てみると、

天海は、比叡山で天台宗の奥義を極めた後、徳川家に仕え、日光玉の貫主となった。当時の日光は、秀吉に寺領を没収され荒廃の極めにあった。

家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し、東照宮創建に尽くした。日光山中興の恩人である。

天海は、寛永20年(1643)108歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家「倉沢 実」の作品である。

その銅像の横には、日本の美味しい水「磐裂霊水」が」あります。ここも案内板には、

1200余年前、日光開山の祖「勝道上人」がこの地に清水を発見し、以来修道者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は、男体山系湧水で日本で最も美味しい水として定評がある。

その迎え側には、国登録有形文化財である、日光金谷ホテル系列の「日光物産商会」があります。

 

スタートして2kmぐらいの地点が最初のチェックポイントです。

  

それから東武日光駅前信号から「日光杉並木」に入ります。七里大橋を渡った「日光だいや川公園」が2回目のチェックポイントです。

日光だいや川公園は、日光の自然と悠々・文化へのいざないを基本テーマに、広域レクリエーション活動の拠点として、オートキャンプ場やフィールドアスレチック、ニュースポーツ、緑の相談所等の

施設が充実している。大谷川のせせらぎ、湖畔の木々の木漏れ日、日光の大自然に囲まれた快適スポットです。

   

  

  

大谷だいや)橋の所から右折し、今市の町に入ります。東武日光線ガードの所が中間地点(10km)。時間は、11時丁度。いいペースで歩いています。

   

春日町の交差点を右折すると「二宮尊徳終焉の地」「今市宿」の看板があります。

二宮尊徳は、文政4年(1821)に下野国(現在の栃木県)に移り住みその後、半生を下野の復興に全精力を注ぎました。安政3年(1856)、今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じました。

今市宿は、日光街道20番目の宿場町で、もと今村と呼ばれていましたが、宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿になりました。

日光街道の他、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝でした。今市宿は、天保14年(1843)の記録によれば、本陣1、脇本陣1、旅籠21、家数は、236、人口1122人の規模でした。

今市宿の碑のすぐ先が「今市宿緑の広場」です。ここが3回目のチェックポイント。

  

瀧尾神社を過ぎ、再び「日光杉並木」に入ります。杉並木の側道には、水路が流れています。これも尊徳が造ったのでしょうか?

   

 

  

ウオーキングコースは、杉並木から再び「だいや川公園」に入ります。

  

  

県道248号線に出ました。この道も来るときに通った道です。大谷(だいや)川の所に「二宮掘・五ヶ村の歴史」の石碑がありました。

二宮掘」は、二宮尊徳(金次郎)設計の二宮堀の一つで、大谷川から取水して 千本木地区まで流れる灌漑用水路です。

和泉村、平ヶ崎、千本木の三ヶ村の懇望によって開かれ、 後に七里、野口の両村が加わって五ヶ村用水となり嘉永七年に竣工しました。

  

コースは、大谷川沿いを通り、途中からJR日光線の跨線橋を通ります。

  

東武日光駅の所から霧降大橋に向かいます。それから神橋近くを通り、東照宮と向かいます。

 

 

輪王寺です。輪王寺の創建は天平2年(766)、勝道上人が現在の四本龍寺附近で祈祷していたところ、急に紫色の雲が発生し男体山の方へたなびくのを見た事から、

この地を四神守護(青龍、朱雀、白虎、玄武)の霊地と悟り開創したのが始まりと伝えられています。さらに現在の本宮神社附近に男体山の神を勧請し、天応2年(782)には山頂に登り

二荒山神社奥宮を建立し、延暦3年(784)には中禅寺湖畔に男体山の遥拝所として二荒山神社中宮祠と中禅寺湖を開いています。嘉祥元年(848)には慈覚大師円仁が中興したとされ

三仏堂、常行堂、法華堂などの堂宇の建立や境内の整備を行いました。中世は歴代領主や権力者によって崇敬、帰依され寺運が隆盛し「日光三所権現」として山岳信仰も盛んになりますが戦国時代末期になると

輪王寺が北条氏領で関係が深かった事から豊臣秀吉により寺領を没収され一時衰退します。江戸時代に入ると天海僧上が再興し元和3年(1617)には江戸幕府の初代将軍徳川家康を祭る

日光東照宮が創建され、承応2年(1653)には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院が建立され、翌年の明暦元年(1655)には後水尾上皇から「輪王寺」の寺号を賜ります。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により古来から神仏混合だった日光山全体を日光東照宮、二荒山神社、輪王寺と「二社一寺」に分離され輪王寺も一時称号を没収され本坊が火災にあうなど憂いを

被りましたが明治15年(1883)に輪王寺の寺号が許され、堂宇も随時再建されました。現在でも古建築、寺宝など多くの文化財を所有し日光東照宮、二荒山神社と共に「日光山内」として国指定史跡に指定され、

「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。 (日光旅ナビより)

現在本堂が約50年ぶりの大修理が始まっています。工事用の仮囲いに本堂の写真がプリントされています。

「日光」の名前の由来ですが、「二荒(にこう)山」が「にっこう」となったそうです。

  

輪王寺護摩堂、輪王寺黒門の御朱印。

  

輪王寺の上を登って行くと、「日光東照宮」です。この鳥居は、我が福岡藩主黒田長政公の寄進によるものです。

今日は、土曜日のせいか、観光客の方がたくさん来られています。特に外人の方も多く見受けられます。

日光東照宮は、御存じのとおり徳川家康をお祀りしています。現在の社殿群は、そのほとんどが寛永13年3代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたもの。

境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が並び、その豪華絢爛な美しさは圧巻です。全国各地から集められた名工により、建物には漆や極彩色がほどこされ、

柱などには数多くの彫刻が飾られています。現在陽明門と三猿の工事が始まっています。

  

拝観料を払い中に入ろうとしましたが、現在時間は、13:20。ウオーキングのゴールの制限時間が16:00 

今から見て廻ると2時間以上はかかるし・・・・・と迷い、チケットを見ると日付が入っていません。「このチケットで明日入場していいかどうか」係りの人に聞きましたら、チケットの有効期限は本日までです。

との返事。仕方なく明日でも行こうとチケットの払い戻しをしました。

  

今、気づいたのですが、会場の日光総合会館は、東照宮のすぐ近くなんですね。坂を下り、地下道を潜ったら「ゴール」のゲートが立っていました。

13:35無事ゴール。

  

今日は、台風前で蒸し暑かったのか、もう全身汗でびしょびしょです。早くホテルに帰り、ホテルの温泉に入りたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


修学旅行以来の日光へ

2016-09-07 06:16:08 | 旅行

9月2日(金)

9月3日(土)から行われる「日光ツーデーウオーク」参加の為、福岡空港より飛行機で羽田へ。羽田から品川までは、京急。

品川から「青春18きっぷ」を使って日光へと向かいます。

この日は、ブロ友「あすかさん」とお会いする予定ですので京浜東北線で指定された駅に向かいます。

あすかさんとは、7年前、東京国際フェスタでお会いしましたので久しぶりの再会です。あすかさんは、明日(9/3)のくつの日ウオークに参加されるそうです。

お元気に東京近辺を歩かれています。

あすかさんと別れ、赤羽から「湘南新宿ライン」で宇都宮へ向かいます。そういえば、この湘南新宿ラインは、今年3月やはり青春18きっぷを使って三重県亀山から茨城・古河まで

行ったとき確か、箱根からこの電車に乗ったのではなかったかな?あの時は、亀山から9時間半かかって古河まで行きました。  

赤羽から宇都宮までは、約1時間半。宇都宮から日光線に乗って日光に向かうのですが、この電車、1時間に1本です。時間がありましたので宇都宮で途中下車し、

B級グルメの「宇都宮餃子」を食べることにしました。

  

  

宇都宮駅西口で降りると、餃子屋さんの看板がたくさん立っています。どこの餃子屋さんがおいしいか、調べて来ませんでしたので、兎に角、駅から近い店に入りました。

   

    

宇都宮餃子は、福岡の餃子よりも少し大きく、焼き加減も丁度良くおいしくいただきました。水餃子は、モチモチしています。これも美味しかった。

福岡では、ラーメンと餃子という注文の仕方がありますが、ここでは、餃子を単品で注文できるのですね。小腹がすいた時には丁度いいかもしれません。

宇都宮は、餃子屋さんがたくさんありますので、消費量も全国一かな?と思いましたら、静岡・浜松とトップ争いをしているそうです。

浜松というと、鰻しかイメージしませんが、今度東海道を歩いた時に浜松の餃子も食してみたいと思います。

 

ちょっとゆっくりしていたせいか、14:17発日光線の時刻が迫ってきています。お勘定を済ませ、駅まで猛スピードで走ってどうにか乗ることが出来ました。

日光線は、1890年(明治23年)開業し、列車外装に西洋風レトロ調エンブレムを施し、列車内の案内表示には英文・中文・ハングルなどを併記しているほか、駅設備も洋風レトロ調に合わせた装飾とし、

英文案内や案内スタッフの配置などにより乗り換え案内を充実させ、日本国外からの観光客を意識した設備が整えられています。

  

約40分ぐらいで日光駅に到着。日光は、高校の修学旅行以来で約半世紀ぶりです。

JR日光駅の駅舎は、1912年(大正元年)に造られた洋風建築の2階建てで一階には貴賓室もあったそうです。夜になるとシャンデリアに灯がともりロマンチックな光景が見られます。

  

駅前には、「日光ツーデーウオーク」の幟が立てられていました。

東武日光駅は、JR日光駅から徒歩5分ぐらいの所にあります。