阿波えらいやっちゃツーデーウオーク2日目 30km 「撫養街道とレンコン畑と梨畑が楽しめるみち」
天気予報では、昼過ぎから雨ということでしたが、もう朝からポツリポツリと雨が落ちています。レインコートをリュックに入れ会場に向かいます。
参加者は、昨日並みの120~30人ぐらいでしょうか、昨日に引き続き「阿波踊り体操」でスタートします。
コースは、国道28号線の淡路街道を歩きます。淡路街道は、徳島城鷺の門から商業港として栄えていた撫養(むや)岡崎渡しに至る4里(16km)に及ぶ街道で、岡崎からは、船で淡路国福良に到着しました。
斉田の信号の先から旧吉野川沿いに歩きます。ここは、撫養(むや)街道と呼ばれている街道です。律令時代、四国の玄関口は、徳島でした。江戸に入ると蜂須賀家政により、阿波五街道が整備されました。
その一つが撫養街道です。吉野川の北側を通るので川北街道とも呼ばれました。撫養町岡崎から吉野川の北岸を西走して池田町の州津渡しで伊予街道に変わるまでの約67kmです。
堤防には、地元の方がお花(芝桜?)を植えられていました。
撫養街道に入ると雨が降ってきました。民家の軒先をお借りしてレインコートを着ます。
歩いていると右側に「長谷寺(ちょうこくじ)」があります。寺の歴史は、文明12(1480)年、船戸左衛門尉が大和の長谷寺から本尊を勧請したことに始まりです。
慶長三年(1598)、徳島藩主蜂須賀家政により駅路寺の指定を受け、隆盛を迎えました。
1時間ぐらい歩いたところが20k、30kの分岐点です。20kは、いわし山の方へ、30kは霊山寺の方に向かいます。
分岐点を過ぎた頃から、ウオーカーの人数が減りました。皆さん20kの方へ行かれたのでしょうか?
右側に「大谷焼」の案内板が建っています。
江戸時代後期、安永9年(1780年)に、四国八十八カ所霊場の巡礼に来た豊後の国(大分県)の焼き物細工師・文右衛門が、ここ大谷村において、蟹ヶ谷の赤土で作ったのが大谷焼の起源と伝えられています。
そのころ徳島は、「藍」の一大産地でした。藍玉(藍の塊)を入れて、発酵を促し染液にするための巨大な甕(かめ)は、藍甕用として盛んに焼かれてきました。
水甕、睡蓮鉢など大物陶器の生産を開始したことが大谷焼の始まりだといわれています。
更に先へ進むと、歴史のあるお酒屋があります。「松浦酒造」。銘柄は、「鳴門鯛」。鳴門の鯛で地酒を飲む・・・・・酒飲みにはたまらないでしょうね。
この酒屋さんの隣には、これも歴史のあるお醤油屋さん「福寿醤油」があります。こちらも当主の方は、松浦さん。元寇の時に活躍した「松浦党」のルーツにあたるそうです。
「桃太郎醤油」というのもありましたが、調べてみましたがわかりませんでした。いずれにしろ、このあたりは、お水がおいしいのでしょうね。
「阿波神社」があります。承久の乱で承久3年(1221)、土佐の国に遷幸され、更に貞応2年(1223)再び遷幸。寛喜3年(1231)この地で崩御された「土御門天皇」をお祀りしています。
10:15 四国八十八箇所の一番霊場「霊山(りょうせん)寺」にやってきました。13日(金)に、お参りしましたので、ここは、スルーします。
金曜日は、参拝の方は、少なかったのですが、今日は、日曜日、観光バスから吐き出された参拝客で境内は、賑わいをみせています。
霊山寺の横を通り、「大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」に向かいます。大鳥居を潜ると、長い参道が続きます。
大麻比古神社の御祭神は、大麻比古大神、猿田彦大神です。阿波国の一之宮です。通称「大麻さん」。
大麻比古神は、天太玉命(あめのふとだまのみこと)のこととされています。天太玉命の子孫の天富命(あまのとみのみこと)が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻楮の種を播殖するなどして、
この地を開拓。祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが始まりとされています。後に古くから大麻山に祀られていた「猿田彦大神」が合祀されました。
狛犬の姿が独特です。「うん」の狛犬の下には、人間?でしょうか、それが描かれています。
大麻比古神社が折り返し地点です。境内の脇道を抜けると「ドイツ館」です。ここが第一チェックポイント。10:50着。
お腹も減ってきましたので、道の駅「第九の里」に入ります。私は、チラシずし、家内は、ドイツパンを購入しました。
この物産館の建物は、第一次世界大戦時に建てられ、国登録有形文化財に指定されている。旧板東俘虜収容所の兵舎の一部を移築したものです。
道の駅敷地近くには、「賀川豊彦記念館」があります。鳴門市で小、青年期を過ごした賀川豊彦は、大正デモクラシーの先頭に立ち日本の民主化に大きく貢献しました。
生涯に渡り「友愛・互助・平和」の精神を提唱し続け、ノーベル平和・文学賞の候補にもなりました。
記念館の先には、高速道路をまたぐ階段が待っています。この階段少し急。手すりを使いながら登って行きます。高速道の跨線橋を渡ると、下りがまた急な階段です。
何とか無事に渡ることができました。私の足のふくらはぎは、疲れからか、少し痛くなりました。あと半分。
池の前に第一次世界大戦で日本での捕虜生活で亡くなった方の慰霊碑が建っています。ここ坂東には、「板東俘虜(ふりょ)収容所」があったそうです。
第一次世界大戦中の1917年、鳴門市板東にあった「板東俘虜収容所」に中国青島で捕虜となったドイツ兵士約1000人が送られてきました。所長を務めていた「松江豊寿」はじめ、所員は、捕虜たちの
人権を尊重して人道的で寛容な心で接しました。板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、
彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々でした。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い
ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露しました。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。文化活動も盛んで、
同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所です。
このエピソードは「バルトの楽園」として2006年映画化されました。(wikipediaより)
松江はドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許しました。賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟に生まれた体験が、大きく彼の良心的な人格形成に影響したといわれています。
「第九」のふるさとである鳴門市では、6月1日を「第九」の日と定め、毎年6月の第一日曜日に演奏会を開催しているそうです。
また、このような人道的に対応したことから、赤十字ゆかりのモニュメントが2011年に設置されました。
※捕虜と俘虜・・・・・同じ意味ですが、第二次世界大戦以前は、「俘虜」と呼ばれていました。また、捕まった時点では、「捕虜」、収容されてからは、「俘虜」と呼ばれる場合もあります。
収容所跡をまっすぐ歩くと、第二番霊場「極楽寺」に着きます。一番霊場を廻った団体の巡礼の方が極楽寺を目指して歩かれています。
このお寺も巡礼の方が多いです。境内にある「長命杉」は、弘法大師お手植えの杉です。ここでも御朱印をいただきました。
極楽寺を出た後は、田園地帯を歩きます。雨は、小雨ですが、段々寒くなってきました。今日の予報は、15℃ぐらいまで上がるそうですが、体感として8°ぐらいかな?
ウオーカーの方は、どこに行ったのか、先の方を見ても誰もいません。コースが間違っているのかな?と思ったりしますが、「矢旗」の通りに歩いていますので、そんなはずはありません。
このころから、家内の体調が悪そうです。しばし立ち止まって様子をみますが、きつそうです。次のチェックポイントまであと2~3kmぐらい。私のふくらはぎも平坦な道はいいのですが、坂道、階段になると
痛さが増してきます。スローペースで歩き、ようやく第二のチェックポイント「福泉寺」にやってきました。ゴールまであと10kmぐらいです。
家内は、苦しそうですので、ここで家内に「棄権」を勧めます。係りの方に、その旨を伝えました。(30分ぐらいでお迎えの車が来たそうです)
私も、ここでふくらはぎにエアーサロンパスをスプレーし、レインコートのズボンを履きます。
これからは、私の一人旅です。
雨は時々強く降ったりします。前方を見ても本当に誰もいません。皆さんもうゴールされているのかな?
レンコン畑を通り、まっすぐな道を歩きます。道路の横には、不法投棄のゴミが散らかっています。鳴門市は、ごみの分別が厳しいと昨日聞きました。
「どうしてこんな不法投棄するのだろうか?」一人旅で話す相手もいなく、独り言のようにつぶやきます。
14:35 ようやくゴール 疲れました・・・・・・もう歩けません。
家内は、チェックポイントから車で会場まで送っていただいたそうです。
係りの皆さん有難うございました。今、家内は、超元気です。
3日間の徳島でしたが、阿波人形浄瑠璃などまだまだ行きたいところがあります。また、行ってみたいな~
これでオールジャパン四国4県完歩しました。あとは、東の方ばかりです。
本日のGPS
グーグルアース
※2日間の参加者は、約600人ぐらいだったそうです。