日田街道完歩しました!
4/23(金)日田街道最終日。朝6時半に車で福岡の自宅を出発し、ゴール付近の日田市月隈公園に車を置き、高速バスで前回ゴール地、杷木まで移動します。
高速バスは早いです。15分で杷木に着きました。バス代@630。日田の学友に待ち合わせ場所、時間を連絡しました。
8:30ウォーキング開始。
杷木小学校の手前から旧道に入ります。このあたりに宝珠山追分があるのですが見つけられませんでした。
赤谷川にかかる頼母橋を渡ります。赤谷川も工事中です。
杷木神籠石があります。神籠石(こうごいし)または、神籠石式山城は、九州地方から瀬戸内地方にある、石垣で区画した列石遺跡の総称。一般には、日本書紀や続日本紀に記載が
なく、遺構のみ存在が確認される山城をさします。
向かい側の神籠石公園に詳しい説明があるということで行ってみました。
ここにも山城があったそうです。
神籠石から先に進みます。
旧道から国道に戻ります。「阿蘇山」というバス停があります。
ここには、阿蘇神社があります。祭神は、健磐龍命(タケイワタツノミコト)、中山祇命(ナカヤマツミノミコト)、高龗神(タカオカミノカミ)。
阿蘇神社は、江戸初期(1692年)頃、穂坂地区の産神として熊本県の阿蘇大明神を勧請した神社です。
この神社には、例祭で「泥打祭」というのがあります。神主の祝詞が終わると客座に集まった氏子一同に五ッ組、二升入りの大盃がまわされて、ひとまわり終わった所で「おみくじ」で
その年の代宮司が決まる。純白の神衣に着替えた代宮司が泥で作った「神の座」につくと氏子十二名(小学校高学年男子)が一斉に泥を代宮司に塗り付ける。
大盃で酒を飲み、酔いのまわった代宮司は、牡獅子、牝獅子の先導のもとに約500m離れた村はずれの道祖伸までの御神幸が始まる。この間、3~4m毎に用意してある泥土をとって、
十二名の子供たちがよろめく代宮司をめがけて投げつける。代宮司の体に泥が多くつくほどその年は豊作であるといわれています。(説明文より)
阿蘇神社の国境石もあります。表には、従是西北筑紫領、裏には谷川半境と書いてます。
堺谷川の所が大分県・福岡県の県境です。草が生えて読みにくいですが、県境標には、「大分縣日田郡夜明村字関」「福岡縣朝倉郡杷木村大字穂坂」と書いてます。
このあたりから歩道が無くなり、国道の脇を歩きますが、大型トラックが絶え間なく通り、ちょっと怖いです。国道も狭いです。
国道トンネルの手前から左折します。
しばらく歩くと、左側に「行徳(ぎょうとく)家住宅」があります。ただ、現在行徳家住宅は、工事中で中に入れません。
行徳家は久留米藩の御典医を経て、現在まで代々続く医者の旧家。現代ではなかなか見られない意匠を凝らした貴重な民家。天保時代の鍵屋式住宅で、当時の医療資料を展示しています。
国指定重要文化財。工事の案内には、「天保13年(1842)の建築とされ、大分県西部に残る茅葺屋根を持つ住宅のうち、特に大型の例であり、江戸時代の建物を現代に伝える貴重な建物です。
今回、屋根の経年劣化が進んだため、令和3年~4年度にかけて屋根替え工事、耐震補強工事を行っています。」と書かれています。
向かい側にある「行徳家資料館」も工事の為閉館していました。
行徳家住宅から先の方を右折します。しばらく歩くと右側に「有王社」があります。祭神は、瀬織津姫、古事記や日本書紀には記されていない神です。水神、祓神、龍神、川神とされています。
有王社を下りてくると国道です。すぐトンネルに入ります。トンネルを出ると右側が「夜明ダム」です。
旧街道は、杷木山から左折。ここから上り坂になります。横には大分道が並行して走っています。
この道アップダウンがありかなりきついです。やっとのことで下りてきました。
上村バス停から右折。
突き当たると大肥川の茶屋ノ瀬橋なんですが、大肥川が工事中で迂回します。
茶屋ノ瀬新橋を渡り旧道に戻ります。小月橋を渡ります。この小月橋案内文によると、「この橋は小月橋である。嘉永二年(1849)豆田の手島氏が施主になり、肥後の石工岩永大蔵によって
造られた。この下流約百米の大肥川には、かつてこれと兄弟の眼鏡橋があって、歌詠橋といった。
歌詠橋は、豆田の広瀬氏、千原氏、関の行徳氏が施主になり、長さが三十米あったという。広瀬淡窓は、嘉永二年四月十二日青邨等と訪れて真に、偉観なり、と日記に書いている。
また碑文を書き、誌にも詠んで、空を横ぎる橋の美しさを、長虹とも新月ともたとえている。 しかしこの橋はわずか一年ほどで、洪水に流失した。(淡窓会)」
橋のそばには、桐の花が咲いていました。
またここから上りです。
萩尾公園に着きました。ここで休憩します。萩尾公園には、もう何年前になるかな、桜の季節にJR九州ウォーキングで来たことがあります。池の周りに約700本の吉野桜が咲いていました。
秋には、11000本の萩の花が咲くそうです。
萩尾公園の横には、「萩尾稲荷神社」があります。看板には、「九州三大稲荷」と書かれています。九州三大稲荷というと、1番目は文句なしに佐賀・鹿島の祐徳稲荷、2番目は、どこだろう?
ネットで調べると、大分・竹田の扇森稲荷、熊本市高橋稲荷、福岡・大宰府石穴神社、そしてここの萩尾神社。もう九州五大稲荷にすればいいのに・・・・
萩尾公園を過ぎてもまだ上りが続きます。この日田街道平坦なコースで歩きやすかったのですが、最終日アップダウンで鍛えられます。
日田中央木材市場から下りになりました。もう日田市街地はすぐそこです。
二串川を渡り突き当りの久大本線沿いに歩きます。
大内田公民館の所に梵字岩があるそうですが、探しても見つけられませんでした。
学友との待ち合わせ時間がまだありますのでここでちょっと寄り道。甥のお嫁さんの母校に立ち寄ってきます。
寄り道の後、再び街道に戻ります。
岳林寺は、豊後日田郡司大蔵氏の第10代当主大蔵永貞が1299年から1342年に建立、後醍醐天皇の綸旨、足利尊氏の支援によって創建された勅願寺である。現在の寺院は江戸時代の
1635年(寛永12年)に玉翁和尚らによる再興によるもので、現存する建物はそれ以降のものである。現在は南北朝時代の1343年(興国4年(南朝)・康永2年(北朝))に造られた
釈迦三尊像や明極楚俊坐像のほか、明極楚俊の頂相画、涅槃図、安土桃山時代から江戸時代の古文書、絵図などの史料や宝物を所蔵する。境内にある岳林寺郷土資料館兼文化財収蔵庫では、
岳林寺文書や岳林寺絵図などを収蔵し、一般公開している。
また、現在の境内外であるが、北友田2丁目にある片山磨崖仏、吹上台地の東にある吹上神社の観世音菩薩像(吹上観音)も岳林寺のものとされる。
岳林寺が収蔵する「岳林寺絵図」によると法堂を中心に、南には「瑞雲閣」と書かれた額の山門、続いて1対の蓮池を脇に配置した惣門のほか東西には「正寿院」「延命院」「小吹上観音堂」
「三重塔跡」、などの礎石と建物が描かれている。日田で亡くなった郡代達の殆どは岳林寺墓地に葬られています。
吹上町の信号に差し掛かりました。この先の吹上橋を渡れば、ゴールの永山布政所はすぐです。
「進撃の巨人」の作者、諌山創氏は、日田の出身です。町のいたるところにこの幟が立てられています。
御幸橋から左折します。永山布政所跡にゴールしました。
永山布政所は、文禄2年(1593)、文禄の役における行動を理由とした大友氏の豊後徐国を機に日田郡は太閤歳入地となり、代官宮木長次郎により、日隈城が築かれ、城下町として
隈町が形成されました。宮木氏の後に隈城主となっていた毛利高政は、慶長6年(1601)に佐伯に転封され、新たに入部した代官小川光氏により、月隈山上に丸山城が築かれ、
政治の中心が丸山に移りました。豆田町は、この丸山城下の町地として形成された「丸山町」が始まりといわれています。元和4年(1618)に日田藩主石川忠総が城下を拡大整備した後、
「丸山城」は、「永山城」、丸山町は永山町と呼ばれるようになり、幕府直轄地となって代官所(日田御役所)が置かれた寛永16年(1639)から「豆田町」と呼ばれるようになりました。
代官の邸宅も兼ねた代官所である日田陣屋(通称永山布政所)は寛永16年に入部した小川藤左衛門正長、小川九左衛門氏行両代官の時に設けられますが、陣屋の前身である永山城は、
正行4年(1647)の正保絵図では、既に廃城となっていました。豊前・豊後では、日田の他にも大分郡の高松(現大分市)に、万治元年(1698)には、主として宇佐・下毛郡方面の幕府領を
管轄する四日市陣屋(現宇佐市)が設置されました。高松陣屋の成立後、寛文6年(1666)以降、代官は日田と高松両方の陣屋を行き来することが続きますが、享保9年(1724)からは、
日田に在陣しました。明和4年(1767)に支配石高の増加に伴い、日田代官が西国筋郡代」に昇格すると、永山布政所は、九州における幕府領支配の拠点として、益々重要な場所となり
幕末まで存続しました。(説明文より)
月隈公園が、永山城があった場所です。
日田の学友とは、約束の時間に会うことができました。コロナ禍で毎月の飲み会が行われず、彼とは、1年半ぶりの再会でした。
彼は、週のうち月~金は、親の介護の為日田に留まり、週末家族がいる福岡に帰っているそうです。
この日のGPSです。
コロナ禍の折、全国にも感染者が拡大してきました。わが福岡県も5/1にまん延防止措置法を国に申請しました。
所属しているふくおかウォーキング協会の例会もコロナが落ち着くまで自粛することになりました。
今後は、感染予防をしながら、また違う街道を挑戦したいと思っています。