よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日田街道(宰府往還・朝倉街道)その4(福岡県朝倉市杷木~日田市丸山永山布政所ゴール)

2021-05-04 17:30:01 | 日田街道(宰府道・朝倉街道)

日田街道完歩しました!

4/23(金)日田街道最終日。朝6時半に車で福岡の自宅を出発し、ゴール付近の日田市月隈公園に車を置き、高速バスで前回ゴール地、杷木まで移動します。

高速バスは早いです。15分で杷木に着きました。バス代@630。日田の学友に待ち合わせ場所、時間を連絡しました。

8:30ウォーキング開始。

 

 

杷木小学校の手前から旧道に入ります。このあたりに宝珠山追分があるのですが見つけられませんでした。

赤谷川にかかる頼母橋を渡ります。赤谷川も工事中です。

  

杷木神籠石があります。神籠石(こうごいし)または、神籠石式山城は、九州地方から瀬戸内地方にある、石垣で区画した列石遺跡の総称。一般には、日本書紀や続日本紀に記載が

なく、遺構のみ存在が確認される山城をさします。

 

向かい側の神籠石公園に詳しい説明があるということで行ってみました。

 

ここにも山城があったそうです。

 

神籠石から先に進みます。

 

旧道から国道に戻ります。「阿蘇山」というバス停があります。

 

ここには、阿蘇神社があります。祭神は、健磐龍命(タケイワタツノミコト)、中山祇命(ナカヤマツミノミコト)、高龗神(タカオカミノカミ)。

阿蘇神社は、江戸初期(1692年)頃、穂坂地区の産神として熊本県の阿蘇大明神を勧請した神社です。

 

この神社には、例祭で「泥打祭」というのがあります。神主の祝詞が終わると客座に集まった氏子一同に五ッ組、二升入りの大盃がまわされて、ひとまわり終わった所で「おみくじ」で

その年の代宮司が決まる。純白の神衣に着替えた代宮司が泥で作った「神の座」につくと氏子十二名(小学校高学年男子)が一斉に泥を代宮司に塗り付ける。

大盃で酒を飲み、酔いのまわった代宮司は、牡獅子、牝獅子の先導のもとに約500m離れた村はずれの道祖伸までの御神幸が始まる。この間、3~4m毎に用意してある泥土をとって、

十二名の子供たちがよろめく代宮司をめがけて投げつける。代宮司の体に泥が多くつくほどその年は豊作であるといわれています。(説明文より)

阿蘇神社の国境石もあります。表には、従是西北筑紫領、裏には谷川半境と書いてます。

  

堺谷川の所が大分県・福岡県の県境です。草が生えて読みにくいですが、県境標には、「大分縣日田郡夜明村字関」「福岡縣朝倉郡杷木村大字穂坂」と書いてます。

  

  

このあたりから歩道が無くなり、国道の脇を歩きますが、大型トラックが絶え間なく通り、ちょっと怖いです。国道も狭いです。

 

国道トンネルの手前から左折します。

 

しばらく歩くと、左側に「行徳(ぎょうとく)家住宅」があります。ただ、現在行徳家住宅は、工事中で中に入れません。

行徳家は久留米藩の御典医を経て、現在まで代々続く医者の旧家。現代ではなかなか見られない意匠を凝らした貴重な民家。天保時代の鍵屋式住宅で、当時の医療資料を展示しています。

国指定重要文化財。工事の案内には、「天保13年(1842)の建築とされ、大分県西部に残る茅葺屋根を持つ住宅のうち、特に大型の例であり、江戸時代の建物を現代に伝える貴重な建物です。

今回、屋根の経年劣化が進んだため、令和3年~4年度にかけて屋根替え工事、耐震補強工事を行っています。」と書かれています。

 

向かい側にある「行徳家資料館」も工事の為閉館していました。

  

行徳家住宅から先の方を右折します。しばらく歩くと右側に「有王社」があります。祭神は、瀬織津姫、古事記や日本書紀には記されていない神です。水神、祓神、龍神、川神とされています。

 

有王社を下りてくると国道です。すぐトンネルに入ります。トンネルを出ると右側が「夜明ダム」です。

 

旧街道は、杷木山から左折。ここから上り坂になります。横には大分道が並行して走っています。

 

この道アップダウンがありかなりきついです。やっとのことで下りてきました。

 

上村バス停から右折。

 

突き当たると大肥川の茶屋ノ瀬橋なんですが、大肥川が工事中で迂回します。

 

茶屋ノ瀬新橋を渡り旧道に戻ります。小月橋を渡ります。この小月橋案内文によると、「この橋は小月橋である。嘉永二年(1849)豆田の手島氏が施主になり、肥後の石工岩永大蔵によって

造られた。この下流約百米の大肥川には、かつてこれと兄弟の眼鏡橋があって、歌詠橋といった。

歌詠橋は、豆田の広瀬氏、千原氏、関の行徳氏が施主になり、長さが三十米あったという。広瀬淡窓は、嘉永二年四月十二日青邨等と訪れて真に、偉観なり、と日記に書いている。

また碑文を書き、誌にも詠んで、空を横ぎる橋の美しさを、長虹とも新月ともたとえている。  しかしこの橋はわずか一年ほどで、洪水に流失した。(淡窓会)」

橋のそばには、桐の花が咲いていました。

  

またここから上りです。

 

萩尾公園に着きました。ここで休憩します。萩尾公園には、もう何年前になるかな、桜の季節にJR九州ウォーキングで来たことがあります。池の周りに約700本の吉野桜が咲いていました。

秋には、11000本の萩の花が咲くそうです。

  

萩尾公園の横には、「萩尾稲荷神社」があります。看板には、「九州三大稲荷」と書かれています。九州三大稲荷というと、1番目は文句なしに佐賀・鹿島の祐徳稲荷、2番目は、どこだろう?

ネットで調べると、大分・竹田の扇森稲荷、熊本市高橋稲荷、福岡・大宰府石穴神社、そしてここの萩尾神社。もう九州五大稲荷にすればいいのに・・・・

 

萩尾公園を過ぎてもまだ上りが続きます。この日田街道平坦なコースで歩きやすかったのですが、最終日アップダウンで鍛えられます。

 

日田中央木材市場から下りになりました。もう日田市街地はすぐそこです。

 

二串川を渡り突き当りの久大本線沿いに歩きます。

 

大内田公民館の所に梵字岩があるそうですが、探しても見つけられませんでした。

学友との待ち合わせ時間がまだありますのでここでちょっと寄り道。甥のお嫁さんの母校に立ち寄ってきます。

 

寄り道の後、再び街道に戻ります。

岳林寺は、豊後日田郡司大蔵氏の第10代当主大蔵永貞が1299年から1342年に建立、後醍醐天皇の綸旨、足利尊氏の支援によって創建された勅願寺である。現在の寺院は江戸時代の

1635年(寛永12年)に玉翁和尚らによる再興によるもので、現存する建物はそれ以降のものである。現在は南北朝時代の1343年(興国4年(南朝)・康永2年(北朝))に造られた

釈迦三尊像や明極楚俊坐像のほか、明極楚俊の頂相画、涅槃図、安土桃山時代から江戸時代の古文書、絵図などの史料や宝物を所蔵する。境内にある岳林寺郷土資料館兼文化財収蔵庫では、

岳林寺文書や岳林寺絵図などを収蔵し、一般公開している。

また、現在の境内外であるが、北友田2丁目にある片山磨崖仏、吹上台地の東にある吹上神社の観世音菩薩像(吹上観音)も岳林寺のものとされる。

岳林寺が収蔵する「岳林寺絵図」によると法堂を中心に、南には「瑞雲閣」と書かれた額の山門、続いて1対の蓮池を脇に配置した惣門のほか東西には「正寿院」「延命院」「小吹上観音堂」

「三重塔跡」、などの礎石と建物が描かれている。日田で亡くなった郡代達の殆どは岳林寺墓地に葬られています。

  

 

吹上町の信号に差し掛かりました。この先の吹上橋を渡れば、ゴールの永山布政所はすぐです。

 

 

「進撃の巨人」の作者、諌山創氏は、日田の出身です。町のいたるところにこの幟が立てられています。

  

御幸橋から左折します。永山布政所跡にゴールしました

 

 

永山布政所は、文禄2年(1593)、文禄の役における行動を理由とした大友氏の豊後徐国を機に日田郡は太閤歳入地となり、代官宮木長次郎により、日隈城が築かれ、城下町として

隈町が形成されました。宮木氏の後に隈城主となっていた毛利高政は、慶長6年(1601)に佐伯に転封され、新たに入部した代官小川光氏により、月隈山上に丸山城が築かれ、

政治の中心が丸山に移りました。豆田町は、この丸山城下の町地として形成された「丸山町」が始まりといわれています。元和4年(1618)に日田藩主石川忠総が城下を拡大整備した後、

「丸山城」は、「永山城」、丸山町は永山町と呼ばれるようになり、幕府直轄地となって代官所(日田御役所)が置かれた寛永16年(1639)から「豆田町」と呼ばれるようになりました。

代官の邸宅も兼ねた代官所である日田陣屋(通称永山布政所)は寛永16年に入部した小川藤左衛門正長、小川九左衛門氏行両代官の時に設けられますが、陣屋の前身である永山城は、

正行4年(1647)の正保絵図では、既に廃城となっていました。豊前・豊後では、日田の他にも大分郡の高松(現大分市)に、万治元年(1698)には、主として宇佐・下毛郡方面の幕府領を

管轄する四日市陣屋(現宇佐市)が設置されました。高松陣屋の成立後、寛文6年(1666)以降、代官は日田と高松両方の陣屋を行き来することが続きますが、享保9年(1724)からは、

日田に在陣しました。明和4年(1767)に支配石高の増加に伴い、日田代官が西国筋郡代」に昇格すると、永山布政所は、九州における幕府領支配の拠点として、益々重要な場所となり

幕末まで存続しました。(説明文より)

月隈公園が、永山城があった場所です。 

 

日田の学友とは、約束の時間に会うことができました。コロナ禍で毎月の飲み会が行われず、彼とは、1年半ぶりの再会でした。

彼は、週のうち月~金は、親の介護の為日田に留まり、週末家族がいる福岡に帰っているそうです。

 

この日のGPSです。

コロナ禍の折、全国にも感染者が拡大してきました。わが福岡県も5/1にまん延防止措置法を国に申請しました。

所属しているふくおかウォーキング協会の例会もコロナが落ち着くまで自粛することになりました。

今後は、感染予防をしながら、また違う街道を挑戦したいと思っています。

 

 


日田街道(宰府往還・朝倉街道)その3-3朝倉市比良松~朝倉市杷木

2021-04-29 18:47:52 | 日田街道(宰府道・朝倉街道)

その3-2からの続き

恵蘇八幡宮の階段を下りてくると、向かい側に「水神社」があります。その神社の中に古賀百工(こがひゃっこう)の頌徳碑があります。

※古賀百工についての説明⇒ ふるさと人物誌3  堀川の恩人 「古賀 百工」(こが ひゃっこう) | 朝倉市 (asakura.lg.jp)

筑後川の中流域に位置する朝倉

1662~3年(寛文2~3年)に大干ばつが起こり、これを契機として筑後川から水を引くための用水工事が行われ、翌年には150町歩余りの水田を潤す「堀川用水」が完成しました。

それ以降も、改良改造が加えられましたが、水田面積の増加にともない、堀川用水のかんがい能力は限界に達して、堀川用水の恩恵をあずからないところでは、常に干ばつに悩まされることとなり、

年貢米も納められない厳しい状況となっていました。

下大庭村(現在の朝倉町)庄屋古賀百工は、解決策として、堀川用水の拡張を藩に願い出ます。事前に提灯やタライを使った高低差等の測畳を行い、綿密に練った計画をもって願い出たことから、

藩もこれを認め、5年後には「新堀川用水」は完成しました。

百工70才の時、根本的に水害、干害から住民・土地を守るためには、筑後川取入ロの全面改修が必要であるとの思いから、筑後川本流山田堰の大改修の計画を立てます。

しかし、これにも難題がありました。湿害を被るとして、工事に反対の農民もいたのです。百工は、日夜全力を挙げて説得にあたりました。

まさに命をかけてこの事業を実現しようとする百工の思いは藩に届き、ついに1790年(寛政2年)完全な山田堰は完成することとなりました。

百工は山田堰の完成後8年経った1798年(寛政10年)81才で亡くなりますが、その生涯は、かんがい工事に全てを尽くしたものでした。(農林水産省HPより)

 

  

 

 

この山田堰をアフガニスタンで応用したのが、「ペシャワール会」の中村哲医師です。

2019年12月に亡くなった中村哲医師は2010年に山田堰をモデルとした取水堰をアフガニスタンに築造しました。現在では1万6500haの荒野を農地に変え、アフガニスタンの復興支援の

灌漑用水モデルとして活用されています。

山田堰は、水流に対して石を斜めに敷き詰めた、現存する全国唯一の「傾斜堰床式石張堰」。全国の堰を訪れ山田堰にたどり着いた中村医師は、何度も山田堰を視察し研究を重ね、

2010年に7年の歳月をかけて全長25.5kmのマルワリード用水路を完成させました。さらに、2019年にも山田堰を徹底的に模倣した堰を完成させています。

中村医師は、世界各地で「山田堰」について発信し、堰の保全や知名度アップに貢献されました。今後も、中村医師の功績とともに、山田堰の技術は世界の人々に希望を与え続けます。(朝倉市HP)

水公園から100mぐらいの所に今年3月に「中村哲医師の記念碑」が完成しました。

 

 

 

山田堰から再び国道に戻ります。大分自動車道の高架下を通り、本陣橋の信号から左折します。ここから志波に入ります。本陣橋というと、昔、志波は宿場町だったのでしょうね。

福岡県は日本一甘柿(富有柿)の産地です。なかでもここ志波で作られた「志波柿」は、トップクラスです。柿畑が南斜面にあり昼と夜の寒暖差が激しいことから富有柿の栽培に適しています。

 

歩いていると柿畑が見えてきます。秋には、美味しい柿が店頭に並ぶでしょう。

 

杷木町志波の町並みです。

 

志波の町では、各町内を紹介するパネルが付けられています。

  

光宗寺が小石原道との追分です。日田街道はここから右に進みます。

 

原鶴温泉入口で国道に再合流。

 

平成ビューホテルの看板を左折。左折すると「大膳楠」があります。

「黒田騒動」の主人公 栗山大膳

黒田52万石を救ったとして知られる栗山大膳にまつわる言い伝えがあります。

栗山大膳は、関ヶ原の戦いで活躍した黒田長政が筑前の国に入ったおり、筑前六端城の一つ左右城(麻低良)の城代となった栗山備後利安の嫡男。

昔、この楠木の側に大きな池があり「大亀が住んでいました」

村人から「大亀が住みついて旅人を襲うので退治してほしい」、一方の村人からは「村の守り神だから殺さないで」と頼まれます。

ある日現場に出向いた大膳は、池の中央で甲羅を干している大亀が長い首を出し睨みつけるのを見て、鉄砲で撃ち殺してしまいました。

とたんに黒雲が一面を覆い、激しい雨が降り出し地面が揺れて高山の半分が崩れ落ちてしまいました。

そのがけ崩れで池も付近の民家も埋もれてしまったけれど、楠木は無事に残りました。

地元の人はこの楠木を「大膳楠」と呼び、がけ崩れを「大膳崩れ」と呼んだそうです。

現在の楠木は、その後に火災で焼失した木の根元から生えた木が大きくなったものとのことです。「杷木町史から」

  

旧道から国道を見ると道の駅原鶴の所にたくさんの鯉幟が泳いでいます。

 

街道は、久喜宮(くぐみや)に入ります。久喜宮も昔は宿場町だったとか?

 

愛宕神社を過ぎると、旧道沿いにお寺が密集しています。

 

 

 

歩いていると、左側に旧久喜宮小学校があります。2017年の集中豪雨の際は、ここに松末小、志波小、久喜宮小、旧杷木小が仮校舎になっていました。

この4つの小学校は、2018年統合して「杷木小学校」になり、杷木中学のそばに移転しました。

この旧久喜宮小学校跡地には、朝倉市の防災拠点施設に生まれ変わりました。校庭だったところは、集中豪雨で家を失った方の住宅になるそうです。

 

浜川の信号で国道と合流します。そしてガソリンスタンドの所から右の旧道を歩きます。

 

 

昭和橋の信号を直進して杷木神社に向かいます。杷木神社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉冊尊、大己貴命、武甕槌命。

由緒を見てみると、第26代継体天皇の御代の筑紫の豪族磐井が反乱を起こしたときに朝廷では鹿鹿火大連(あらかいのおおむらじ)に討伐を命じたが、磐井があまりにも強力なため

苦戦に陥った時、この神社の前に幣帛を捧げ、祈願されてからは、草木の風になびくが如く平定することが出来たといわれている。

珍しい行事としては、春秋2回行われる鎮祭があります。日本の神々は、10月に出雲大社に神集いがあり、それに行きますが、杷木神社の祭神は、それには参加せず、一年中氏子の

安全と方策を守って働き続けているので年2回はゆっくりと休まれることになっています。これが鎮祭で大きな声を出すことは勿論、歌舞音曲を停止、下肥のにおいをさせず、

生の木や竹を切ることも禁じられています。(杷木神社由緒)

この神社には、狛犬ならぬ狛ウサギがあります。大己尊命(別名:大国主命)が助けた兎(因幡の白兎)が眷属(けんぞく)として仕えた事から、兎が祀られているとのこと。

 

今回は、この杷木神社までとします。朝、杷木からバスで30分かけて甘木迄行きましたが、甘木から杷木迄は歩いて5時間少々かかりました。

 

 


日田街道(宰府往還・朝倉街道)その3-2(朝倉市甘木~朝倉市杷木)

2021-04-27 14:33:16 | 日田街道(宰府道・朝倉街道)

その3-1からの続きです。

朝倉という地名は、西暦661年、斉明天皇(女帝)は朝鮮半島の百済からの要請に応じて出兵を決定し、現在の朝倉地区に「橘 廣庭」と呼ばれる仮宮殿を設けました。

この折に斉明天皇が言った「朝(あさ)なお闇(くら)き」が朝倉の地名の由来といわれています。(諸説あります)

比良松の地名は、蒙古襲来で名をはせた少弐氏も末裔「古賀新左衛門重儀は大内氏の追手から逃れ隠れた山中から出て「須川」に移り住み、新たに一村を立て、枝を四方に広げた松を

植えて平松と名付けました。その場所は現在の舒翠館の場所であり、明治10年の火災で枯れる迄その姿を残していました。(旧日田街道比良松まちづくり世話人会より)

 

江戸時代、福岡と天領日田を結んだ日田街道が比良松旧道です。江戸中期以降日田代官所の公金を元手にした日田金と云われる経済力を背景に街道は賑わいました。

また、同時期、筑後川の治水、利水の発展による周辺の農業生産力向上もあって、比良松は農村部へ財、サービスを提供する在郷村としても発展していったと推定されます。

尚、現在街道筋に残る歴史的景観は、安政2年(1855)の大火の直後に再建された建物がその多くを占めています。

明治の末に完成した新県道(現国道386号)及びその上に敷設された朝倉軌道によって賑わいを次第に新道沿いの商店街に譲ることになります。結果、この時期に幹線道路から

外れたことでその後の急速な近代化の波に洗われることなく、往時の佇まいを今に残すことになりました。(旧日田街道比良松街づくり世話人会より引用)

 

舒翠館は、明治18年(1885)建造物で甘木・朝倉地方では、最も古い公会堂です。現在は、公民館として使われています。

 

厳島神社:斉明天皇6年(660)、朝鮮半島の百済が唐と新羅の連合軍に破れ、 日本朝廷に救援を求めてきたので、 翌7年(661)天皇は御西下し、 筑紫の国「朝倉橘広庭宮」に入られ、

遠征の軍備を進められた。 天皇遠征軍の海上安穏と武運長久の祈願のため、 中大兄皇子(後の天智天皇)に命じ、創建されたのが厳島神社である。 祭礼は10月26日に行われる。

境内には愛宕神社、屋須多神、恵比寿神社を祀り, 特に愛宕神社の4月4日の春祭(馬市)では、子供相撲の奉納などあり、 多くの人々で賑わっている。(説明文より)

 

比良松の旧道から大分自動車道の高架下を通り、朝倉東小学校の所から左に行きますが、妙見川が工事中の為、国道に引き返します。

 

古毛の信号を右折。

 

また、菱野西の信号で国道と合流します。菱野の産直店 三連水車の里あさくらで休憩します。

 

 

産直店あさくらの裏手に「鋼製の三連水車」があります。

三連水車は、旱ばつの被害を防止するため、筑後川の水を堀川用水に取水しました。しかし、一部では川面より高所のため、自動回転式の重連水車が設置されました。
三連水車は寛政元年(1789)に完成。日本最古の実働する水車として全国的にも有名な「朝倉の揚水車群」は、平成2年(1990)に「堀川用水」とともに国の史跡に指定されました。
現在、朝倉市には、菱野の「三連水車」、三島の「二連水車」、久重の「二連水車」の7基の水車があり、現役で農地を潤しています。
また、地元の職人によって水車は5年ごとに作り替えられ、その技術を継承しています。(あさくら路観光案内より)

  

実は、私、平成29年(2017年)8月にここを訪れています。7月の九州北部豪雨の被害が凄まじかったです。(その時の写真です)

 

恵蘇宿の信号から右に入ります。少し歩いた左側に大きな樟のある「隠家森」があります。この樟は、樹齢1500年以上の全国第8位の巨木です。地上3mの所より三叉に分かれ、

幹の部分からは樟に抱き込まれたような形で大きな椋木が生えており、根部は、8畳ほどの空洞があります。胸高幹周18m、樹高21m、根回り35,4m。

西暦661年、斉明天皇が百済救済の為、朝倉橘廣庭宮に行幸された際に、宮の警戒のためにこの辺りに「朝倉の関」が設けられました。ここを往来する人は、名乗りして通り、

名乗れない人は、夜になるまでこの森に隠れていたと言われています。この伝説から「隠家森」という名前が付けられました。

   

 

朝倉の関:天智天皇が母である斉明天皇の崩御により、木の丸殿で喪に服されていた頃設けられたもので、西の「刈萱の関」に対する東の「朝倉の関」で通行の人々を監視し、

朝倉橘廣庭宮の護衛にあたったと伝えられ、地元では、「名乗りの関」とも言われています。

朝倉の関から、「恵蘇八幡宮」に向かいます。

恵蘇八幡宮」は、昔、郡中33ヶ村(上座郡)の総社として栄え、現在は、朝倉市の総社となっています。応神天皇、斉明天皇、天智天皇を祭神として祀り、毎年10月15日に

御神幸が行われています。

由緒によると、斉明天皇は、661年百済国救済の為、筑紫の朝倉橘廣庭宮(朝倉市須川)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は、国家安泰と戦勝祈願の為、宇佐神宮に

奉幣使を遣わせた。使の一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから天降八幡なり宮社が創建された。

その後、天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇、天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。現在の本殿は、安永元年(1772)秋9月の改築である。(説明文より)

 

 

恵蘇八幡宮の大樟は、胸高幹周9m、樹高32m、根回り22mです。

大樟の横には「漏刻」(ろうこく)(水時計)の模型があります。漏刻は中国伝来の水時計、器に水を貯え、その漏洩の水量を測定し時刻の推移を知るものです。1昼夜を48刻に分け4刻を

1時(とき 辰刻)にはかります。

 日本では天智天皇が天智10年(671年)4月25日に始めて漏刻を大津宮の新台に置き鐘鼓を打ち時を告げたと伝えられています。太陽暦に直すと6月10日となり、大正9年、

この日を「時の記念日」に定めました。恵蘇八幡宮の漏刻は水の流入速度が一定になるよう4個の桶を段違いに並べ、夜天池、日天池、平壺、万水壺と云い、万水壺には矢が立てられ、

夜天池に水を注ぐと管を通って万水壺に流れ込み、水が溜まるにつれて矢が浮き上がり、矢に記された目盛りを読み取り時刻を知る仕組みです。
 現在、恵蘇八幡宮では6月10日を記念して式典が催されています。(説明文より)

  

恵蘇八幡宮の横には「木の丸殿」があります。

中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘廣庭からこの地にお移しになり、その夕御陵山に仮りに葬られた。そして陵下の山腹に丸太の殿を作られ、

1日を1か月に代えて12日間母君の喪に服されたといわれている。この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。

御陵山」斉明天皇は、661年7月24日、御歳68歳にて朝倉橘廣庭でお亡くなりになった。7日後の8月1日、御遺骸を朝倉山上に移し、一時葬ったと記されている。

現在、陵上には、石棚が巡らされ、中央の塔石には、斉明帝藁葬地と刻されている。(説明文より)

  

朝倉橘廣庭ってどこかな?と思い、3月24日丁度桜の花が満開の時に行ってきました。

朝倉市須川にある「長安寺廃寺跡」が朝倉橘廣庭宮跡ではないかということです。(諸説あります)

説明文を読むと、長安寺は、奈良~平安時代の古代寺院跡で古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年(昭和8年)の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。

また、「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から建物のそ礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。出土瓦は、老司式と鴻臚館式の

ものであり、8世紀前のものと推測されている。筑前続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という・・・」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったと

推測される。このことは、続日本書紀に天智天皇が斉明天皇の冥福を祈って、観世音寺と筑紫尼寺を創建したとあることから、長安寺とは、朝倉橘廣庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺の

ことではないかといわれている。(説明文より)

 

 

長安寺跡から裏手の高台に行ってみると、「橘廣庭宮之蹟」の石碑が建っています。

説明文によると、4世紀末朝鮮半島は、百済、高句麗、新羅の三国に分割され、7世紀に至る迄和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、

かつてからの親交関係にあった日本へ使者を遣わし、救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。

翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に、難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、

1月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)を経て、朝倉橘廣庭宮に遷られた。しかし、天皇は、滞在75日(7月24日)御歳68歳で病の為、崩御された。

現在、朝倉橘廣庭宮の所在は分かってないが、地元の伝承では「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したという「木の丸殿跡」や

斉明天皇の御遺骸を仮安置した」といわれる「御陵山」が存在する。

  

私見ではありますが、お宮を造られたのがどうして博多でなく、朝倉だったのでしょうか?筑後川を下って有明海から朝鮮にも行けますが、それよりも朝鮮だったら博多の方が近いと思います。

以前、作家の安本美典氏が邪馬台国朝倉説を発表されました。朝倉の地名と畿内大和地方との地名が同一のものが多い。夜須川(安川)があるし、三輪の地名もある。

邪馬台国は、朝倉から大和へ東遷したのではないか?ということでした。邪馬台国は、2世紀ぐらい、斉明天皇は、7世紀、そのころの朝倉は、天皇家にとって故郷ではなかったのはないでしょうか?

その朝倉には、弥生時代の遺跡「平塚川添遺跡」があります。これが「邪馬台国」でしょうか?

平塚川添遺跡は、工業団地造成工事に先立つ事前調査で発見され、1992年(平成4)から約1年半の調査のあと、平成5年(1993)遺跡保存が決まりました。

工業団地造成から見つかったということは、佐賀県吉野ヶ里遺跡と同じですね。

  

 

 

またまた、長文になりましたのでこのあとは、その3-3に続きます。

 


日田街道(宰府往還・朝倉街道)その3ー1(朝倉市甘木~朝倉市杷木)

2021-04-25 06:06:30 | 日田街道(宰府道・朝倉街道)

4/18(日)日田街道3日目。自宅から車で杷木町まで行き、杷木に車を置き、バスで前回ゴール地甘木宿まで行きました。バスで35分ですが、歩くとなるとさてどのくらいかかるのでしょうか?

9:00 前回ゴール地二日町よりスタート。

 

歩いていると商店街のお菓子屋さんのポスターに「為朝饅頭」があります。よく見てみると、「為朝伝承の地・朝倉」と書いてあります。

朝倉高校の史学部の生徒さんが、古文書を頼りに朝倉市上秋月で為朝の墓、朝倉郡東峰村で母の墓を見つけたとか・・・・

詳細はこちら⇒ 「源為朝の墓!?見~つけた!!」 朝倉高の史学部員 探索の様子を動画配信|【西日本新聞ニュース】 (nishinippon.co.jp)

  

実は、今日日田街道を歩くに先立って以前この街道を歩いた方のブログを読みました。それによると、甘木商店街にアーケードがあると書いてました。

然し、探してもアーケードは見当たりません。近くの人に聞いてみると、アーケードは撤去され、車も通れる道になったそうです。

商店街の名前も「甘木アーケード商店街」⇒「甘木本通り」になったそうです。

 

須賀神社の鳥居から右折します。左側には、「甘木発祥の地 安長寺」があります。

 

安長寺】朝倉市の中心・甘木町は安長寺の門前町として発展しました。 甘木という地名も、甘木遠江守安長(あまぎやすなが)が建立した甘木山安長寺(かんぼくざんあんちょうじ)から由来すると言われています。 毎年1月4日、5日に開かれる初市(バタバタ市)が有名で、名物の豆太鼓(バタバタ)を求める参詣者で

賑わいます。「バタバタ」とは幼児の顔が描かれた縁起物の豆太鼓の事で、柄の先に平たい太鼓のついた郷土玩具です。柄を持って太鼓を回すと、

両脇にぶら下がった豆が太鼓を叩き「バタバタ」と音がします。これを買うと疱瘡にならず、 子供を守り好運をもたらすと言われています。 

安長寺のご本尊である「延命地蔵菩薩」の申し子と言われています。

また、安長寺には、樹高31,5m、胸高周囲11,4m、樹齢1100年の大樟(女樟)があります。須賀神社の大樟(男樟)と共に夫婦樟と呼ばれています。

  

五軒屋交差点から県道に合流します。頓田の信号の所には、立石神社があります。ここには、芭蕉の句碑が。説明文もなくどんな句かわかりませんでした。

  

民家には、もうなんじゃもんじゃ(ひとつばだこ)が咲いています。月末ぐらいに咲くのですが、今年はお花はみんな早いですね。

古賀茶屋にやってきました。昔は、ここにお茶屋さんがあったのでしょうか?調べてもわかりませんでした。

この日田街道は、猿田彦の石碑が多いですね。先ほどの立石神社でもありました。

  

朝倉市には、中小の河川が多く存在しています。平成29年(2017)の北部九州豪雨では、このような河川が氾濫しました。

  

佐田川を過ぎ相窪の信号の所には、「幸神」(さえのかみ)があります。道祖伸の一つだと思いますが、夫婦和合、子宝の神の意味があるそうです。

一里塚の信号があります。このあたりに一里塚があるのかな?と思い付近を捜しますが、見つかりません。名前だけが残っているのでしょうね。

  

 

歩いていると、左側に銀杏並木があります。ここは、朝倉農業高校跡です。現在は、杷木の朝倉光陽高校に統合されています。

 

十文字醤油は、大正5年(1916)創業。

 

【三所神社】

 

三所神社を過ぎ、久保鳥という所から旧道に入ります。入るとすぐ右側に「豊竹若葉太夫」という記念碑が建っています。横を見ると「大坂二代目豊竹若太夫門人、上座郡大庭邨丸山善平」と書いてます。多分大坂浄瑠璃の義太夫の方でしょう。上座郡というのは朝倉郡のことです。朝倉郡が発足したのが明治29年ですのでその前の方だろうと思います。

 

旧道を歩くと荷原川(いないばるがわ)に来ます。確か地図ではここに橋がかかっているのですが・・・・・北部九州豪雨で流されたのかな?

 

国道の方の方に迂回し再び旧道に戻ります。

歩いていると民家の入り口に「道祖神」がありました。道祖神というのは、悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために村境、峠、辻などに祀られる神です。

  

新立川も工事中。

  

【幸神】は夫婦和合、子宝の神。

  

浄福寺を過ぎると桂川も橋梁工事中です。

   

比良松の交差点の所に「はとまめ屋」さんがあります。ここで最初の休憩をします。

 

比良松交差点の向こう側には、比良松中学校です。九州北部豪雨では、技術室が川にえぐられて傾きました。

 

※九州北部豪雨の詳細は、こちらから 平成29年7月九州北部豪雨 - Wikipedia

長文になってしまいましたので、(その3-2)に続きます。

 


日田街道(宰府往還・朝倉街道)を歩いています(その2)太宰府市都府楼跡~朝倉市甘木

2021-04-19 17:58:41 | 日田街道(宰府道・朝倉街道)

4/11(日)日田街道2日目。9:30前回ゴール西鉄都府楼前駅からスタート。

 

西鉄の踏切を越えると「東蓮寺公園」です。東蓮寺は神武天皇に仕えたという伝説を持つ田中熊別の霊を祀るために建てられた寺と伝えられています。現在寺に関する遺構は見つかっていません。

  

【王城神社】主祭神は、大国主命の子で恵比寿様としてあがめ親しまれている事代主命をお祀りしています。王城神社の名称は、王城山(四王子山)の神として王城大明神と崇め奉られて

いたことによります。

 

白川(鷺田川)は、18世紀に二日市と福岡を結ぶ水運にも利用されていました。

 

筑紫野市に入ってきました。迎田橋の信号を渡ると二日市宿東構口です。東構口といっても遺構は残っていません。

  

江戸時代、筑紫野市には、江戸と長崎を結ぶ長崎街道(本宿通)には、山家宿と原田宿ができ、福岡と日田を結ぶ日田街道(内宿通)には、二日市宿ができました。

二日市は昔から市と湯の町二日市(二日市温泉)として歴史的にも古く、二日市という地名の由来は鎌倉時代から毎月「二」の付く日に開かれた三斎市にあるといわれています。

正行寺は、戦国時代に創建された浄土真宗東本願寺派の寺院です。ゑびす醤油、大賀酒造は、JR九州ウォーキングで何回も来ています。

  

二日市商店街をJR二日市駅に向け進みます。栄町信号手前より左折します。左折した所辺りに西搆口があったそうですが、ここにも遺構はありません。

  

六地蔵】昔、六地蔵の御尊体は木造であったが天正年間(1580年頃)四王子山岩屋城の大友氏と島津氏との合戦で兵火の為堂字と共に焼失、その後元禄十年(1697)に至り

石像に切りたてられたそうです。

  

正面に二日市東小学校が見えてきました。本来ならば、日田街道は、この小学校の中を通って行くのですが、小学校が建ったため右側に迂回していきます。

正門には、案内板が立っていました。

 

小学校の正門から右折します。国道から離れているせいか、古い家が立ち並んでいます。然し、旧道であるため道が狭いし、おまけに今日は福岡県知事選挙の日。

石崎には、松尾神社があります。御祭神は、大山咋神。境内の入り口には、庚申様がありました。

  

踏切を渡ると「針摺」という校区に入ります。

 

前から「針摺(はりすり)」という地名が気になっていましたが、それが解けました。

案内板によると、「その昔、太宰権師として左遷されていた菅原道真公が、天拝山頂で身の潔白を訴えられた帰り、この地をお通りになりました。

そして老人が斧を石に当てて一心に摺っているところを目にされました。「何をするのだ」と問うと、老人は「針にするのです」と答えたそうです。その言葉に菅公は、強く心をうたれ、

何事も不断の努力がなければ成就しないものと、再び天拝山に引き返し、天に向かって訴えを続けられたと伝えられています。」

筑前国続風土記」(1703年)によると、この石は、もとは山の麓にありましたが、近年、この場所に移されたとあります。

 

日田街道は、本来、この道を真っすぐに走っているのですが、ショッピングセンターや道路の新設などにより、失われています。

ですから、突き当りを右折し県道31号線のショッピングセンターの方に出ていきます。この道、道路が新しいせいか、歩道が広く取られ大変歩きやすいです。

 

永岡の信号から斜め左に進みます。

  

幹線道路から離れているせいか、長閑で鳥の声を聴きながらのウォーキングです。

 

宝満川に架かる橋が工事中の為、県道の方に迂回します。宝満橋を渡りまた旧道に戻ります。この辺りは天山(あまやま)校区になります。

天山地区は、商家が並び、油屋、饅頭屋、飴屋などの呼び名が近年まで残っていたそうです。

  

 

しばらく歩くと、「郡境石(二境界石)」があります。案内板によれば、江戸時代山家下宿(しもしゅく)として賑わった夜須郡(現在の筑前町)二(ふた)と御笠郡(現在の筑紫野市)天山との

間に立てられた境石です。この境石のすぐ先の右側が長崎街道です。

   

敬止義塾跡】 福岡藩士であっ杉山灌園が明治10年(1877)頃に自宅の離れで塾を開いていました。近隣から30人ほどの塾生があり、寄宿しているの者もいました。

明治23年(1890)灌園が死去したため閉塾されました。

  

筑紫野市、夜須町には、ホントゑびす像が多いです。佐賀市内も多いのですが、ここも多いですね。いつか、このゑびす像のウォーキングを計画してもいいかもしれません。

山家宿追分石・山家宿番所跡】200号線と交わる間片交差点には、長崎街道・日田街道(薩摩街道)との追分です。日田街道は、ここから石櫃まで薩摩街道を同じコースを辿ります。

  

筑豊本線(原田線)の踏切を越え、山家川にかかる間片橋を渡ります。民家の庭先にも猿田彦、えびす様の石像があります。

日田街道を今まで歩いてきて案内板らしいものはあまりありませんが、この猿田彦の石像で道が間違っているかどうか判断しています。

  

古市彦太夫の墓】案内板によれば

中牟田は朝日村から分かれた村で、 村の形成と発展は用水確保の歴史でもありました。 室町時代の応永11年(1401)、この地にやって来た税田小四郎さいたこしろうは上流の御笠郡山家村に

若宮井手わかみやいでを築き、山家川から水を引いたと云います。 その後、天正年間(1573~1592)「井手」は改修されています。 また、豊臣秀吉は朝鮮出兵のため、この村に「御蔵屋敷みくらやしき」を建て、

兵糧米の備蓄をさせています。江戸時代になって、村は福岡の黒田藩に属し、 宮崎藤右衛門(織部)という人が治めていました。 寛永18年(1641)、秋月藩でお家騒動が起こり、

福岡の黒田藩から藤右衛門を家老として迎え入れました。 その時藤右衛門の領地を動かさずに入国させたため、 中牟田村は秋月藩に編入(内証換え)されることになりました。

この宮崎家に古市彦太夫という家臣がいました。 彦太夫は村人たちが農業用水に苦労していることを知り、「若宮井手わかみやいで」をかさ上げして水量を増やし、下流の中牟田の下原しもばるまで水が届くよう

大改修を計画しました。 彦太夫は「島原の乱」(1637~1638)で足を負傷していましたが、 輿こしに乗って工事を指揮し、無事完成させました。

万治2年(1659)、彦太夫は亡くなり、 水の配分をめぐってたびたび争いが繰り返されました。 そこで、水は「明六ツ(朝6時)から暮六ツ(夕方6時)までは山家村」、 「暮六ツ(夕方6時)から明六ツ(朝6時)までは中牟田村」が取水することを文書で改めて取り交わしました。(以下略)

 

石櫃(いしびつ)の追分石】江戸時代の初め頃の道標で、「右 肥後 薩摩道」(天下道)、「左 豊後 秋月 日田 甘木道」としるされています。
石櫃は、当時山家宿の下宿として賑わい、道標は山家宿の問屋、武作が世話人となって建てました。

  

隣を走る国道は、交通量も多いですが、一本脇にそれると長閑な風景です。然し、コンビニもなければ公衆トイレもありません。

 

篠隈川を渡ると右側に筑前町役場とコスモスプラザが見えてきました。ここで休憩します。

 

梨子木遺跡】砥上岳山麓から南西方向へ伸びた台地に立地する古墳時代後期(6世紀)を中心とした大規模な集落跡です。竪穴住居跡189軒、掘立柱建物跡189軒、土坑98基、溝59条などの

遺跡が発見されました。また、縄文時代に猪や鹿を捕獲するために掘られたという「落とし穴」が40基出土しています。

大木遺跡】曾根田川の左岸段丘上に分布し、縄文時代(約12000年前)~古墳時代(1300年前)の集落跡と弥生時代中期の甕棺墓の遺跡です。竪穴住居跡11軒、掘立柱建物跡3棟、溝跡17条などが

発見されています。

  

松延池は、筑前八大大堤の一つにあげられています。

長者町大神宮は、主神が天照大神、大行事、猿田彦、えびす観音などが併設されています。

 

熊野神社(当所宮)へ行こうと思いましたが、入口にチェーンがかかっており、見ることができませんでした。

当所村は秋月より2里、甘木より1里半。街道に面した絶好の休憩の場でありました。 村内には鍛冶屋・桶屋・笠屋・飴屋・うどん屋・豆腐屋などがあり、 集落全体で一つの経済圏を確立した

活気に満ちた村であったそうです。 また、当神社は「宝くじ祈願」の神社としても良く知られています。

  

多田家住宅】歩いていると、左側に大きな家が見えます。これが「多田家住宅」です。

江戸末期から昭和初期の旧家。母屋の他、隠居部屋、納屋、弓道場、石塀などが2012年(平成24)国の文化財に指定されました。

なんでも山を持たれていたから林業をされていたのかな?

  

  

  

 

三輪の町に別れを告げ甘木宿にやってきました。以前は、甘木市でしたが、2012年(平成24)3月朝倉町、杷木町と合併し「朝倉市」になりました。

小石原川の自歩道用橋を渡ります。渡るとすぐ先に道祖伸があります。

  

3:40 朝倉市甘木二日町にゴール。今日は、ここまでとします。 ゴール後西鉄甘木線で帰宅しました。

歩いていて感じたのですが、日田街道は九州では主要道ではないので、案内板も少なく、自宅に帰ってきていろいろ調べなければいけません。

まあ、それも楽しみかもしれませんが・・・・(笑)

 

この日のGPS. 20,7kmでした。

この日の交通費  西鉄福岡~都府楼前 @360 西鉄甘木~西鉄福岡 @800

 

 


日田の学友を訪ねて「日田街道(宰府往還、朝倉街道)」を歩いています。その1(博多~関屋)

2021-04-13 06:08:00 | 日田街道(宰府道・朝倉街道)

コロナ前までは、毎月一回学友と集まって一杯やっていましたが、コロナで中止してからもう一年以上経ちます。

このうちの一人が日田出身で現在親の介護をするため日田に帰っています。

久しぶりに会ってみようと博多~日田(約80km)まで歩いてみようと思っています。博多~日田間は、高速を使えば1時間半ぐらいでいけますが、歩いてとなると4日間ぐらいかかるのでは

ないかと思っています。

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日田街道とは、江戸時代に博多・久留米・中津・熊本・別府の各地から日田に通じる街道の総称ですが、筑前を通る街道の中で日田街道は、長崎街道や薩摩街道と共に九州では目立って

往来が多い街道でした。

江戸幕府は、天領(幕府直接の支配地)であった日田を支配するために西国郡代を配置していました。当時は郡代をはじめ、長崎奉行など地方に派遣されていた幕府の役人は一年で

交替することになっていました。また、各地の領主である大名は、 1年おきに在府・在国する三勤交替の制度が設けられ、それに相まって全国の街道や宿場が整備されてきました。

筑前の日田街道は、博多から宰府・二日市・甘木などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていました。また、福岡城から雑餉隈に向かう街道もあったようです。

今回、旧博多駅の辻の口門から歩いてみたいと思います。

9:50出来町公園スタート

 

水道局を通り、御笠川沿いに歩きます。県道112号線から少し離れていますが、道幅が狭く、車が来ると避けながら歩きます。

マップを見ると、大野城市までは、歴史的なものがありません。

 

約4km地点の那珂公園で休憩。那珂公園では、もう藤の花が咲いていました。

  

途中民家のお花を見ながら歩きます。

  

都市高速との合流点に来ました。ふと、右を見ると、幼馴染の後輩君が勤務している会社です。もう20年ぐらい会っていませんので、仕事中とはいえ無礼を承知で会社の中に入りました。

20年ぶりの後輩君、若いころは、髪も多く、前髪を庇みたいに伸ばしていましたが、今はその面影もどこかにいってしまったみたいです。

 

板付に来ました。このあたりは、車屋さんが多い所です。

 

筑紫通りとの合流点を過ぎると、大野城市に入ります。

  

山田交差点の近くには、県有形文化財の「木造聖観音立像」があります。その先には、「雑餉隈(ざっしょのくま)恵比寿神社」です。

雑餉隈地区は、中世以降博多宿と二日市宿の中間に位置し、間の宿として旅籠や茶店、日用雑貨の商店が軒を並べて繁栄していた宿場町であった為、商売繁盛の神である恵比寿様と

防火の神であり、疫病の侵入を防ぐ塞神でもある愛宕様を宿場の鎮護の神として勧請しました。

  

郡境界標】 西、那珂郡、東、御笠郡。南面、筒井村(現大野城市)抱、北面、井相田(いそうだ)抱(現福岡市)。実物は、保存の為大野城市歴史資料展示室に展示されているそうです。

那珂郡は、春日市全域、大野城市一部、那珂川市全域、博多区・南区・東区一部。御笠郡は、筑紫野市・太宰府市全域、大野城市大部分。

近くの民家では、もう芍薬が咲いていました。

    

錦町の信号から新川緑地に入ります。ここに「日田街道」の案内板がありました。

 

新川緑地は、黒田藩の年貢米を運ぶために二日市(現筑紫野市)から博多・川端まで運河を開いて舟運の便を図ろうと寛延2年(1749)工事を行い、寛延4年(1751)に竣工させ

浅舟を浮かべて運航を開始しましたが、水量が乏しく十数年で廃止されました。新川は、昭和の終わりごろには用水路になっていたのを埋め立てし遊歩道になりました。

 

春日原停留所運動場道】案内板によると、この石碑は雑餉隈在住の草壁氏が現在の場所から春日原駅までの幅6m、延長300mの道路敷地と工事費を寄付し「春日原停留所道」が大正13年(1924)

5月に開通したことを記念して建てられたものです。かつて春日原駅西側には、野球場や陸上競技場などがあり、プロ野球「西鉄クリッパーズ」(西鉄ライオンズの前身⇒西武ライオンズ)が

試合に使っていました。

  

 

新川緑地から大野城まどかぴあ人信号から県道112号線に出ます。瓦田橋を渡り瓦田3丁目の信号を斜め右に渡ります。

赤煉瓦の格納庫】大正末期に白木原に建てられた赤煉瓦(れんが)造りの第二部消防ポンプ格納庫が、平成10年7月に街路拡張に伴って現地へ移設されました。貴重な近代建築ということで、

市民の手によって解体され、当時の赤レンガを一部使用して建てられたものです。

この通りは、主要道路から少し離れているせいか、旧家が立ち並んでいます。

 

下大利橋を過ぎ、下大利小学校を通ります。小学校の先が太宰府市との境界です。太宰府市に入ると「日田街道」のプレートが道路に埋め込まれていました。

永田権平氏は、明治20年代から40年代まで旧水城村の村長を務められていました。

  

水城址東門】 660年に唐・新羅に滅ぼされた百済国の復興救援のため、日本は派兵しますが、663年朝鮮半島西岸の白村江の戦いで唐・新羅に大敗しました。
この翌年、664年に築かれたのが「水城」です。歴史書『日本書紀』には、「筑紫に大堤を築いて水を貯えさせた。名づけて水城という」と記されます。
中国の「万里の長城」のような施設で、幅約60mの外濠と、長さ約1.2km・幅約80m・高さ約9mの二段に築かれた土塁(城壁)で構成されます。これが周辺地形と一体化し、

北東側は「大野城」と、南東側は「小水城」と呼ばれる数カ所の遮断施設とつながることで、内陸への侵入を防ぎました。その後、大宰府が整備され、水城はその外郭の守りとなります。

ここに設けられた東西2つの門は、大宰府へ出入りする人びとの出会いの場、別れの場となり、数々の物語が生まれました。(日本遺産大宰府より抜粋)

   

 

私が今、歩いているのが東門ルートです。

 

太宰師「大伴旅人」の歌碑。

大宰帥(だざいのそち)大伴旅人が、大納言に任じられて帰京する際、遊行女婦(うかれめ)児島と詠み交わした歌です。遊行女婦とは、酒宴の席で歌や舞を披露して接待する女性を指します。

都から大宰府へ赴任してきた旅人は滞在中に愛妻を亡くし、悲しみにくれます。望郷の念や、亡くした妻への思慕を多く詠み残した旅人にとって、児島の存在はどれほどの支えであったでしょうか。

【銘文】
凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも    娘子児島
(普通の身分の方であったなら袖を振ってお別れするものを、恐れ多いので、振りたい袖を我慢しています。)

ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ    大納言大伴卿
(涙など流さないと思っていた私が、水城のほとりで涙を拭うことになるのだろうか。)

   二人の別れの場面で詠まれたこの歌は、旅人の出立が公的なものであり、周囲に官人がいるなかで、旅人と児島の間にある身分の隔たりが浮き彫りとなっている様子をうかがわせます。再びは逢えないかもしれないという、両者の悲しみが色濃く感じられるこの歌は『万葉集』巻6に収められています。(太宰府市ふれあい館HPより)

 

水城跡から旧道に進みます。

姿見井昌泰4(901)年1月25日、右大臣であった菅原道真は、太宰権師に任命され、、太宰府に来ることになりました。道真は水城の東門から大宰府に入り、この付近で着替えたと

伝えられています。その時、自分の姿を映した井戸(池)がこの井戸と伝えられ、のちに姿見井(姿見池)や鏡池と呼ばれるようになりました。

この付近の小字を衣掛といい、周辺には、衣掛天神や衣掛石など菅原道真にまつわる伝説が多く残されています。

 

衣掛天満宮

 

刈萱の関跡】大宰府の警固のために置かれた関所の跡。室町時代の末まで残っていたが、戦国時代になって廃止された。今は裏通りとなっているが、この道筋は博多から九州各地へ、九州各地から博多へ通う大路だった。室町時代に大宰府を訪れた連歌師飯尾宗祗は「筑紫道記」の中で1410年にこの関所を通過した際、「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて我が行く末をあやしげに見るもおそろし」と書き記している。「苅萱道心と石童丸」伝説のゆかりの地としても有名。現在の地名、関屋にかつての名残を見る。(クロスロードふくおかより)

浄瑠璃や歌舞伎の題目で有名な「刈萱道心と石堂丸」のあらすじは、こちらです。萬盛堂歳時記vol.52 (ishimura.co.jp)

 

蜂子地蔵尊

  

太宰府天満宮一の鳥居に来ました。鳥居を真っすぐ進むと天満宮です。日田街道は、ここから右折し、関屋橋を渡ります。

鳥居の所には、常夜灯や道標などの石碑が建っています。

 

   

鳥居の手前から右折します。すぐ先には、西鉄都府楼前駅です。本当は、朝倉街道まで歩きたかったのですが、今日は16時から私用がありますので今回はここまでとします。

 

電車代:西鉄都府楼前駅~西鉄福岡駅 @360