よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京街道「守口宿~大阪・高麗橋へゴール!」前編(大阪府守口市~大阪市中央区)

2022-11-29 19:03:25 | 京街道(東海道57次)

11/24(金)8:45 ホテル近くの京阪中之島駅から前日ゴールの守口市駅に向かいます。

守口市駅の前には、「文禄堤の碑」が建っています。

「文禄堤」は、大阪城から伏見城までを繋ぐ最短ルートとして、文禄5年(1596)に豊臣秀吉が毛利輝元、小早川隆景、吉川広家の三家に命じて淀川左岸の堤防を改修・整備したものです。

のちに「守口宿」の一部が築かれました。堤の長さは、約27kmあったといわれていますが、度重なる淀川の改修工事で、そのほとんどは姿を消しており、現在では、この守口市本町の

一部のみが江戸時代の宿場町の面影をしのぶことができます。(京街道ウォーキングマップより)

  

駅前にある「本町橋」、ここが文禄堤です。橋の横に階段がありますので登っていきます。

 

文禄堤の所が、京街道です。ここから昨日、雨と雷で行けなかった守口宿出入口(一里塚)まで行きます。

  

守口の一里塚にやってきました。ここが守口宿の出入口になっています。

 

 

幻の大坂遷都

盛泉寺(じょうせんじ)に来ました。盛泉寺は、教如(きょうにょ)上人を開基として、慶長11年(1606)に創建された東本願寺の末寺で、「東の御堂さん」、「東御坊さん」と呼ばれて

います。本堂は、近くにある「西御坊」の難宗寺と同様、元和元年(1615)の兵火により焼失した後、幾度も風水害を受けてきましたが、天保6年(1835)に再建されて現在に至っています。

次に出てくる「難宗寺」が西御坊と呼ばれるのに対し、盛泉寺は、東御坊と呼ばれています。

 

慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は大政奉還を申し出ました。12月9日には、王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とする新政府が樹立されました。

新政府は、摂政・関白・幕府を廃止し、天皇のもとに、総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職(さんしょく)を置きました。新政府の最高官職であり政務を統括する

総裁には、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が就任しました。

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦争で旧幕府軍が敗れた直後の正月17日、新政府の参与大久保利通(おおくぼとしみち)は、総裁有栖川宮熾仁親王に、大坂遷都を建言しました。

大久保は、「未曾有の大変革にあたり、天皇のいらっしゃる所を『雲上(うんじょう)』、公卿を『雲上人(うんじょうびと)』と呼んでいるように、ごく一部の公卿以外は天皇と接する

こともできずに『上下隔絶(じょうげかくぜつ)』している弊習を打開しなければならない。天皇は、西欧の君主のように、国中を視察し、民を大切に育て、広く民に敬愛される君主と

なられることが重要である。そのためには、遷都が必要であり、遷都の地としては、他国との外交、富国強兵、軍備増強等において、地形的に『浪華(なにわ)』、つまり、

大坂が適当である。」と主張しました。

このとき、大坂遷都論は採用されませんでしたが、同年3月には天皇の大坂行幸が実現します。この行幸の際、密かに三種の神器の天照大神の御霊代八咫鏡(やたのかがみ)を連なって

慶応4年(1869)3月22日(九月明治と改元)明治天皇大阪行幸された折、盛泉寺本堂前に賢所を奉安されました。(四月十一日江戸城無血開城が実現し大阪遷都論は、

まぼろしと化し、江戸遷都となりました)

盛泉寺本堂前には、「内侍所奉安所址」の碑が建っています。

 

 

  

盛泉寺から「難宗寺」に向かいます。

 

難宗寺は、文明7年(1475)に越前の吉崎を退出した浄土真宗の僧・蓮如上人が、文明9年(1477)に創立した守口御坊がはじまりと伝えられ、慶長16年(1611)には本願寺掛所に昇格し、「西御坊」と呼ばれるようになっています。その後、元和元年(1615)の兵火などを経て、文化7年(1810)に再建されたのが現在の本堂です。

 

 

難宗寺のイチョウは、大阪府天然記念物に指定されており、樹高約25m、枝張は、南へ約15m、北へ約13mで樹齢約500年と言われています。

  

大塩平八郎ゆかりの書院跡(白井家屋敷跡)

白井家の隠居所で、江戸時代の陽明学者で大坂東町奉行所の与力大塩平八郎が、守口近郷の農民に陽明学を講義したところです。

 当主の白井孝右衛門は、大塩の私塾洗心洞の有力門人として経済的な支援を行い、大塩平八郎の乱【大坂騒動、天保8年(1837年)2月19日】に参加しましたが、わずか1日で鎮圧され、

後に一家には処罰が下されました。 参考 大塩平八郎の乱 - Wikipedia

 

大塩平八郎ゆかりの書院(白井家屋敷跡)周辺が守口宿の本陣でした。

東海道57番目の宿場町「守口宿」の町並みは、南北約1,3km、そのうち約720mが文禄堤の上にあり、今も残る文禄堤の町筋に守口宿の面影を見ることができます。

人口764人(男370人、女394人)、家数177軒、本陣1,旅籠27軒、問屋場1。(天保14年(1843)東海道宿村大概帳)

守口の地名の謂れは、森口周辺から生駒山地へ広がっていたげんせいりんの入口の意から生じた「森口」が石山本願寺/大阪城との関係で軍事的意味の「守口」に変化したそうです。

 

 

 

街道沿いには、古民家や近代的なマンションと新旧の建物が混在しています。

 

虫籠窓(むしこまど)・・・武士を上から見下ろすことは禁じられており、本格的な二階は、建築されず、高さを抑えた中二階が主に物置部屋などとして利用されました。

通りに面した所には、採光と風通しの為、虫籠窓が設けられました。大名行列などには、この虫籠窓の格子から見学していたようです。

 

本町橋まで戻ってきました。

 

                                                                     (後編につづく)

 

 


京街道「枚方光善寺~守口宿」(大阪府枚方市~守口市)

2022-11-27 21:44:45 | 京街道(東海道57次)

11/23~25 旅行会社の格安ツアーがあり、このツアーで途中になっていた京街道「光善寺~高麗橋」を歩きました。

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11/23(水)博多発7:54の「のぞみ」で大阪へ。ホテルに荷物を預け京阪電車で前回ゴールの枚方光善寺駅へ。

12:00 光善寺駅から前回ゴールした府道13号線に向かいます。空を見るといつ雨が降り出すかもしれません。(一応ポンチョと傘を用意しています)

  

淀川の河川道に来ました。ここから寝屋川迄河川道を歩きます。

 

茨田堤の碑

『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが次のように記載されています。

この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をどうしてもつなぐことができません。天皇はたいへん心配していたところ、ある日夢の中に神が現れて「武蔵人強頸(こわくび)と

河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。

さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。
しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら

偽りの神だから、私は人柱になることはできない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに浮き上がり、

下流へ流れて行ってしまいました。

衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。

仁徳天皇13年(『日本書紀』)には茨田屯倉(まんだのみやけ)が設けられ、この地域一帯が朝廷によって管理・運営されたことが記されています。

『古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。秦人とは渡来人のことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、

完成することができたのでしょう。

淀川のそばに「太間」と書いて「たいま」と読む地名があります。これは「絶間」がなまってこのようによばれるようになったといわれています。当地では、この難工事の物語が伝説として

語り継がれています。昭和49年(1974年)に「淀川百年記念」事業に関連して淀川堤防上に碑が建てられました。淀川の方を向いた表面に「茨田堤」と彫られ、その脇には

「まむたのつつみ」と添え書きされています。(寝屋川市HPより)

 

 

淀川新橋を越えると左側に大きな銀杏の木があります。27日の日曜日には、茨田イチョウ祭りがあるそうです。

そういえば、国道沿いにもイチョウ並木があります。

  

大イチョウの所には、「茨田(まった)樋之碑」があります。

 

明治38年(1905)に完成した茨田(まった)樋は、幹線水路が運用され始める昭和5年(1930)まで利用されました。この碑は、茨田樋を記念して跡地に建てられました。

現在は、遺構が整備され、茨田樋遺跡水辺公園として憩いの場所になっています。

尚、この辺りの地名は「点野(しめの)」といい、難解地名ですね。

  

   

鳥飼仁和寺大橋のガード下を通り国道1号線仁和寺交差点に出ます。

仁和寺というと京都の仁和寺(にんなじ)を思い起こしますが、ここ寝屋川市の仁和寺(にわじ)は、京都仁和寺(にんなじ)の所領であったことに由来すると考えられます。

鎌倉時代初期に後鳥羽・後高倉院の生母であった七条院が京都仁和寺殿を管領(寺務を司る権利を所有)したことによって、仁和寺庄も七条院領となり、のち地頭職は室町院(暉子内親王)へ

寄進され、持明院統の所領になりました。

この時の『室町院御領目録』を見ると、仁和寺庄は上仁和寺庄・下仁和寺庄の二つに分かれており、以後上下ニ庄として史料にあらわれます。

南北朝時代に入って、持明院統の花園上皇は暦応5年(1342年)に妙心寺を再興したとき、上仁和寺庄と下仁和寺庄の地頭職を妙心寺に寄進しました。しかし、応永6年(1399年)大内義弘が

将軍足利義満に謀反(むほん)を起こし(応永の乱)、敗死した大内義弘と妙心寺の拙堂(せつどう)が親しかったために妙心寺領は室町幕府に没収され、事実上の幕府御料所となり、

いわゆる「河内十七カ所」の一部となっていきました。(寝屋川市HPより)

 

 

佐太天満宮あたりが、寝屋川市と守口市の境界です。

佐太天満宮の祭神は菅原道真です。「佐太天神宮記」によると、現在当社がある場所は菅原道真の領地であり、道真が昌泰4年(901)の昌泰の変で失脚して大宰府に左遷されることに

なった際にこの地に立ち寄り、しばらく舟をつないで滞在していたが、出立に際して自身の木像と自画像を残したとされている。また、一説によると道真が当地に滞在したのは宇多上皇の

計らいにより無実の証明が為されることを期待して、都からの沙汰を待っていたためとされており、この「沙汰」が転訛して地名が佐太になったとされる。道真没後50年後の天歴年間に、

道真を慕う里人によって道真が残した木像をご神体として祠を建てたのが当社の始まりであるとする。(wikipediaより)

また、佐太は間宿(あいのしゅく)でもありました。江戸時代枚方宿と守口宿の間の休憩所としての「間宿・佐太」が幕府に認められ、宿泊は禁じられていましたが旅人の憩いの地として

賑わいました。

  

来迎寺(らいこうじ)は、融通念仏宗中興法明上人の弟子・実尊上人によって、正平2年(1347)佐太派の本山として守口市来迎町に建立されました。

本尊は天筆如来(阿弥陀・観音・勢至の三尊のみ影)です。同寺の独特の相続法により、300年余の中で住職が変わるたびに26回も所在地を移していましたが、

延宝6年(1678)に現在の佐太中町に移転し、現在に至ります。来迎寺に伝わる「絹本著色八幡曼荼羅図」は国指定重要文化財で、他に境内裏の「石造十三重塔」は大阪府指定有形文化財

です。また、寛保3年(1743)に寺に現れた女性の幽霊の足跡がついた座具もあり、お寺の法要に合わせて公開されています。後村上天皇の勅願所であり、今なお大方丈に「玉座」が

残されています。

※幽霊の足跡の詳細はこちら→ 江戸の幽霊、大阪まで歩いた? 守口の寺、功徳伝える足跡: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 

來迎寺の横には、「佐太陣屋跡」があります。築城年代は定かではないが貞享年間(1684年〜1688年)に永井伊賀守直敬によって築かれたと云われる。摂津・河内における一万二千石の

所領を管理するための出張陣屋で、枚方の渚から佐太へ移し、明治に至るまで存続した。

永井直敬の家系は最終的に美濃国加納藩となった永井家で、直敬の父尚庸が二万石を分与され諸候に列したことに始まる。尚庸は奏者番、若年寄などを務め、寛文10年(1670年)には

三万石に加増された。

延宝5年(1677年)二代永井直敬が家督を継ぐと度重なる転封となる。貞享4年(1687年)下野国へ三万石で転封、元禄15年(1702年)には三千石を加増され播磨国赤穂へ三万三千石で転封、

宝永3年(1706年)信濃国飯山へ転封、宝永8年(1711年)武蔵国岩槻へ転封となる。宝暦6年(1756年)永井直陳のとき美濃国加納に転封となり、以後明治まで続いた。

 

15:30ごろ佐太陣屋を出た所から急に雷が鳴り始め、どこか避難する所を探します。ちょうど高架橋の下がありましたのでここに避難します。

雷は,何回も近くでゴロゴロ鳴っています。雨も降り始めました。

30分ぐらい待ち、雷も遠くなりましたのでポンチョと傘をさしてリスタートします。

 

鳥飼大橋には、一般道路と大坂モノレールが走っています。大阪モノレールは、門真市から大阪空港(伊丹)間21,2kmを結んでいます。

 

 

まだ16時過ぎなのに辺りが暗くなってきました。初めての地ですので暗くなったらわからなくなりますので帰路につきます。

 

17:00ちょうどに京阪守口市駅に到着しました。

スタート時にセットしていたGPSは、扱い方が悪かったのか、記録していませんでした。

  

※守口市のマンホールは、市のマスコット「もり吉」とサツキ、守口大根が描かれています。

 

 


筑紫野もみじ祭散策ウォーク(福岡県筑紫野市)

2022-11-22 05:47:34 | JR九州ウオーキング

11/19(土)は、久しぶりにJR九州ウォーク「筑紫野もみじ祭散策ウォーク」に行ってきました。

スタートは、JR二日市駅。天気は小雨が時々降っていますが、傘を差さなくても大丈夫です。

 

温泉街を通り、武蔵寺(ぶぞうじ)へ

 

武蔵寺に行く前に天拝山歴史自然公園へ。

 

ここの紅葉もきれいです。

 

 

 

 

猫も紅葉狩りに来ているのかな?

 

天拝山歴史自然公園から武蔵寺(ぶぞうじ)へ

武蔵寺は、創建年については、飛鳥時代とも奈良時代ともいわれ定かではないが、境内から発見された瓦や経塚から11世紀頃までには寺が建立されていたことは確認されており、

九州最古の仏蹟である。天智天皇の3年、釈祚蓮勅命により西海(九州)に一宇を建立しようと筑紫に下った天皇に協力して、土地の豪族で藤原鎌足の子孫、藤原虎麿(虎丸・虎麻呂・

登羅麻呂)が七堂伽藍を建立、椿の木で薬師如来像を刻んで安置したのが始まりという。なお、虎麿は初代の大宰師蘇我日向臣無邪(耶)志(だざいのそち・そがのひむかのおみ・むさし)と同一人物ではないかともいわれている。寺名については、武蔵国池上より日蓮宗の僧が来て、武蔵寺となったという。686年(朱鳥1年)藤原虎麿が亡くなった後、その命日に

「地蔵会」が行われ、現在も続いているという。(Wikipediaより)

武蔵寺は、藤の花でも有名です。

 

 

 

  

武蔵寺から二日市八幡宮に向かいます。

 

二日市八幡宮は、御鎮座以来凡そ千四百余年、社殿は藩主黒田忠之公の建立で宇佐八幡宮の分霊を祀る。
文明五年(1473年)の古文書に二日市の宇佐八幡と称し神木の銀杏樹は御神霊の御加護によって天上の兵禍を免れたので厄除の銀杏といい伝えられている
古来より縁結び・安産・家内安全・開運の神として尊崇されご神供の銀杏は災難消除の霊験がある。(二日市八幡宮HPより)

祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫命です。大きな銀杏の木は御神木です。

 

 

 

二日市八幡宮からゴールの二日市駅へ向かいます。

 

11:25 二日市駅にゴールしました。ウォーカーの皆さんの何人かは、このあと大牟田の「光の航路ウォーク」に参加されるそうです。

 

 

 


楽しいウォーク「那珂川河畔から高宮界隈を散策」(福岡市博多区~中央区)

2022-11-18 13:58:13 | ふくおかウォーキング協会

11/16(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「那珂川河畔から高宮界隈を散策」でした。

集合場所は、JR笹原駅近くの井尻1号公園。参加者は39人。

コースは、井尻1号公園~ららぽーと福岡~JR竹下駅~那珂川河畔~百年橋~清川地区~高宮銀杏並木~宇賀神社~西鉄平尾駅ゴールの約10km。

 

 

最初の休憩は、諸岡池。この諸岡池は、周囲650mの遊歩道があります。

 

諸岡四角から筑紫通りに入ります。しばらく歩くと左手に「ららぽーと福岡」があります。

ららぽーとと言えばガンダム像です。ちょうど10時を廻ったころでしたのでガンダムが動いていました。

  

ららぽーとの先には、タケシタベーカリーです。学校給食用のパンを製造していますが、隣の喫茶部では、定食、ちゃんぽんなどのメニューもあります。

 

2回目の休憩は、中中央公園です。

 

ここには、峯重燃料工業が、「煉炭」を製造していた所です。

 

「ミネシゲの着火煉炭」という名前でした。昭和30年代前半でしたか、煉炭火鉢なんかありましたね。あと豆炭。小学校の時すぐ怒る先生のあだ名を「豆炭」と名付けたことがあります。

今、峯重燃料工業は、ゴルフ場の経営をしています。

  

コースはJR竹下駅からリボン橋へ。

 

那珂川沿いを歩きます。

 

那珂川河川から百年橋へ。

 

ここから清川の方に歩きます。

清川ロータリーから日赤通りへ。

  

高宮のイチョウ並木です。

 

最後の休憩地は、高宮公民館です。

 

このあと、県知事公舎を通りゴールの西鉄平尾駅へ。11:55 ゴール!

 

 

 

 

 


九州の紅葉「環境芸術の森」の紅葉(佐賀県唐津市厳木町)

2022-11-16 16:06:03 | ウォーキング

11/14(月) 今年は九州でも紅葉が早くなっているそうです。

それではということで昨年行って感動した佐賀県唐津市の「環境芸術の森」の紅葉見学に行ってきました。

  

入場料と駐車代を払って園内へ。

 

先ずは、風遊山荘に入ります。

ここでは、磨き上げたテーブルに映る紅葉が楽しめます。

園内マップを片手に芸術の森を散策します。

 

  

約1時間の紅葉見学でした。

 

 


サタデーウォーク「市内中央区の公園めぐり」(福岡市中央区)

2022-11-15 15:20:16 | ふくおかウォーキング協会

11/12(土)今日は私の誕生日。○○歳になりました。歳をとると1年があっという間に過ぎていきます。

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今日のふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「市内中央区の公園めぐり」です。

集合場所は、警固公園、参加者34名。

コースは、警固公園~薬院大通り~城南線~護国神社~大濠公園日本庭園~西公園~カモメ広場~鮮魚市場会館~地下鉄赤坂駅ゴールの約10km。

 

9:30 スタート

 

薬院から城南線を通り六本松へ。

 

10:25 護国神社に到着。ここで休憩。

 

休憩後再スタート。NHK福岡放送局の信号から大濠公園に向かいます。

大濠公園では、「The  Fst in  Fukoka 2022」といってマラソンランナー大迫 傑選手が発案した「世界との差を縮めるためにアスリートファーストの大会」です。

5kmのロード、5kmブラインドロード、1マイルロードがあり、田中希実選手(豊田自動織機)、遠藤日向選手(住友電工)などの選手が参加しています。

公園内は、ランナーが走るコースには、柵が設けられています。私たちがここを通った時は、すでに1マイルロードは終わっていて、ブラインドロードが行われていました。

記録ですが、5kmロードは公認コースで女子の部、田中希実選手は、5kロード日本新で2位、タイム15:34。

男子の部5kmロードは、遠藤日向選手が5kロード日本新で7位、タイム13:50でした。

 

  

大濠公園日本庭園に入ります。日本庭園は、65歳以上は、無料です。

この地はかつて、博多湾の入り江で、慶長年間に黒田長政が福岡城を築城した際、入り江の北側を埋め立て、城の外濠としました。昭和2年にこの地で開催された東亜勧業博覧会を機に

公園造成工事を行い、昭和4年に大濠公園として開園しました。
この日本庭園は、大濠公園開園50周年を記念して築庭し、昭和59年に開園した築山林泉廻遊式の庭園です。敷地面積は約1.2ヘクタールで、白壁の築地塀と樹林に囲まれた園内には、

大池と築山の大池泉庭、曲水の流れ、枯山水庭、数寄屋造りの茶室と露地庭などが配置され、これらをつなぐ園路によって廻遊するようになっています。
築山は厚い植栽で都市の騒音を遮蔽し、その中央に大滝を配し、築山の狭間に渓流の滝、東築山に布落ちの滝を設け、深山幽谷の景を呈しています。この滝口の地割・石組の手法は

日本庭園が技術的、芸術的に最も優れた時代である中世の作庭技法を用いています。また、大池に続く、下流の流れと小池及び枯山水庭は静寂で明るくのびやかな近世中頃の

作庭手法によっています。(案内板より)

 

今日は天気が良くて庭園内では、結婚式の前撮りが行われていました。

 

 

日本庭園からロードレースの隙間で観月橋の方に移動します。

 

 

大濠公園から西公園に向かいます。

 

光雲(てるも)神社は、戦国時代きっての知将として知られる黒田官兵衛孝高(如水)公と、その息子で初代福岡藩主の黒田長政公の御魂をお祀りしております。
両公は、全国的に有名な民謡「黒田武士」の育ての親であり、福岡の名付け親でもあります。社名は両公の法名から一字ずつを取って「光雲神社(てるもじんじゃ)」と命名されました。

 

光雲神社からの眺めです。

 

西公園を下りていくと「黒瀬神社」があります。享保17年(1732年)「享保の大飢饉」が西日本を襲い、農作物はできず、漁業も不漁続き、加えて疫病が発生し、食べるものはなく、

筑前の国では、当時の人口の三分の一が飢餓で亡くなりました。黒瀬神社は、この大飢饉から人々を救うために建てられた神社で伊勢神宮外宮から「宇迦之魂神(五穀の神)をお迎えして

祭神とし、元々ここにあった竈神社を合祀したものです。

 

 

カモメ広場から博多漁港へ。

 

12:05 鮮魚市場に到着。本来ならここから地下鉄赤坂駅に行くのですが、鮮魚市場には、おいしい食堂がありますのでここで仮ゴールとなりました。

 

私の誕生日のランチは、鮮魚市場の「おきよ」でカキフライ定食でした。家内におごってもらいました。  

 

 

 

 


「油山市民の森の紅葉」(福岡市城南区)

2022-11-12 05:54:34 | ウォーキング

11/10(木)テレビで油山の紅葉が見ごろと言っていたので早速見に行ってきました。

市民の森の紅葉スポットは、つり橋から見る紅葉ですが、つり橋の周辺にスズメバチの巣があるとそうでつり橋は通行止めになっていました。

 

管理事務所から紅葉谷の方に歩いていきます。

市民の森紅葉谷です。

銀杏の黄葉もきれいでした。

九州でもこんなきれいな紅葉を見ることができました。

来週は、佐賀県唐津市の紅葉を見に行こうと思っています。

 

 


楽しいウォーク「旧唐津街道畔町(畦町)宿散策」(福岡県福津市)

2022-11-11 19:01:27 | ふくおかウォーキング協会

11/9(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「旧唐津街道畔町宿散策」でした。

福津市の畔町宿の案内を見ると、

畦町宿は、昔(藩政時代)筑前黒田藩が指定した27宿駅の一つであった。慶長5年(1600)、関が原合戦後、黒田長政が筑前の国主として入国するまでは、まだ人家も少なかったが、

寛永19年(1642)、唐津街道の整備に際し、青柳(古賀市)と赤間宿(宗像市)との間、約4里(16km)が遠すぎるということで、当時の鳥ノ巣村と本木村の
一部を街道沿いに集め、宿駅として新たに成立したのが、畦町村である。当時100余軒の戸数があり、480余人が住んでいた。
街道を行き交う人も多く、商家が圧倒的に多かった。南北に通じる町並みの入口の両端には、関所のようにして、「構口(かまえぐち)」があり、御制札所や役人詰所があった。
宿場町として栄えた畦町村も明治年代以降は宿場廃止や鉄道、国道開通など交通路線の変革とともに宿場の機能を失った。
今では、この宿場通りも古い家は建て替えられ、昔の家並みは少なくなったが、「杉ぼて」や「卯建(うだつ)」など江戸時代のたたずまいが残っている所もあり宿場町の名残が感じられる。

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集合場所は、JR福間駅。参加者34名。

コースは、福間駅~なまず神社~上西郷交流センター~畔町宿~西郷川沿い~ふれあい広場~福間駅ゴールの約10km。

9:30スタート

 

 

大森宮に到着

福津市と縁の深い生物といえば、なまず。「なまずの郷」など公園名としても親しまれている「なまず」を祭っている神社が、ここ大森宮です。
 その昔、西郷出身の社職兼務の武将、興光(おきみつ)が、大内氏の命により京都で合戦の際、深手を負って、倒れてしまい、死のふちに着こうとしたとき、突然巨大ななまずが現れて、

興光の命を救った。という伝説から来ています。命拾いをした興光は、西郷の氏神、大森の神様に違いないと感謝し、以来、西郷ではなまずを神の使いとして大森宮に祭ったのです。

また「なまず禁食令」を出して、大切にしたといわれています。境内には、こま犬ならぬ、石造りのなまず像も見ることができます。

 

平成13年(2001年)には、なまずを生涯の研究とされている「秋篠宮殿下」が来られています。

  

 

大森宮から田園地帯を歩いていくと「旧弾薬庫線路プラットホーム跡」があります。

小倉・山田弾薬庫と三井郡・大刀洗飛行場との中継地としての役割でした。

1943年(昭和18年)8月、突然陸軍から上西郷村に弾薬庫をつくりたいので協力してほしいと頼まれ、土地100町歩(約100万㎡)を軍に提供しました。

直ちに弾薬庫・作業舎・兵舎などが建設され、1944年(昭和19年)には、当時の国鉄福間駅からこの弾薬庫入口まで鉄道の引込線が敷かれました。

旧制宗像中学(現宗像高校)と宗像高女の生徒に学徒動員で弾薬の運搬や弾みがきなどの作業にあたりました。

この弾薬庫が一番使われたのは、沖縄戦の頃だそうですが、一般の人には何も知らされず1945年(昭和20年)の終戦と同時に閉鎖されました。翌年には、鉄道の引込線が取去られ、

今は、跡形がありません。ただ、3棟残った弾薬庫跡は、現在農家の資材置き場として使われています。

 

プラットホーム跡から旧唐津街道「畔町宿」に向かいます。途中上西郷郷つくり交流センターで休憩。

 

休憩後再スタート。畔町宿に入ります。

 

 

 

 

今回のウォーキングでは、通りませんでしたが、畔町宿には、国民健康保険制度の原型を作った「高村直嗣医院跡」があります。

国民健康保険が現代社会で果たしている役割の大きさは言うまでもありません。この制度の下敷きになったのは、宗像地区に古くから根付いていた、医者と庶民を強く結びつけていた

「定礼(じょうれい)」制度でした。この定礼が存在しなければ、我が国の健康保険制度はもっと遅れていたと言われ、制度の立案・作成の貴重な踏み台となりました。

   昭和10年(1935年)当時の一般庶民は医療とは縁遠く医者にかかることは大きな経済的負担を伴い、特に農村の不況は貧困に加えて疾病との悪循環となっていたので、

こうした状況の改善は火急だと内務省保険局で検討されるも困難視されていました。その中で九州からの報告に接した官僚は目を見張り、かつ驚き、宗像・(現)福津地域の定礼の仕組みを

詳細に調査し多くの知見を得て制度設計に臨み昭和13年(1938年)4月1日に国民健康保険法案が成立しました。

  畦町村・八並村、久末村、本木村・内殿村・上西郷村(福津市)、野坂村大穂(宗像市)の定礼医として、すぐれた医術と高邁な人格で48年の間昼夜、医業に精進された最後の定礼医で

あった高村直嗣医師(1884~1958)は、医師の鏡として、郷土の恩人として死後半世紀以上経った現在もなお地域で慕われています。『診たては優れ、患者に対する態度は実に親切丁寧で

昼夜を問わず、風雨寒暑をいとわず、一切を投げ打って患者のために尽くされる人だった。険しい山道も馬に乗り駆けつけた。』とされます。近年、記念碑の土地が売却されるに際し、

没後半世紀以上経過し故人に接したことのない方々が大半にもかかわらず伝え聞く世代の異なる近隣・有志の皆様が”後世までその遺徳を称えん”と自然発生的に資金を拠出し合って記念碑を

移転し現在も大切に護られています。

畔町宿からゴールの福間駅に向かいます。

 

12:25 JR福間駅にゴール!

  

距離は、10,5kmでした。

 

 

 

 


11月例会「“健康まちづくり”久山町を応援」(福岡県粕屋郡久山町)

2022-11-08 10:47:12 | ふくおかウォーキング協会

11/5(土) ふくおかウォーキング協会11月例会は、「“健康まちづくり”久山町を応援」でした。

タイトルが凄いので少し説明します。

久山町のHPを見ると、

久山町は、現在、そして未来に生きる誰もが健やかに暮らせる町を目指し、健康のまちづくりに取り組んできました。

昭和36年(1961年)、九州大学と町内開業医、町の連携により始まった、「生活習慣病予防健診」を核とする町ぐるみの健康管理は「ひさやま方式」として医学の発展に大きく寄与し、

世界に広く知られています。

これもひとえに、自身の健康だけでなく、子や孫、さらには未来に生きる全ての人の幸せ願った、町民の皆さまお一人おひとりのお力添えのおかげです。

世界に貢献する健康のまち「久山町」

久山町生活習慣病予防健診60周年を記念し作成されたパンフレットです。健診事業の歴史やその歴史をつむいできた人々の思いなどを紹介しています。

◎久山町は九州大学第二内科(現病態機能内科学)と町ぐるみで健康診断の実施、追跡調査、病理解剖による原因究明という研究事業を実施しています。

◎自らが健康づくりに取り組む意識を促し、生活習慣病の予防と健康の保持・増進を図ることを目的に健康管理アプリ「kencom」を活用した健康づくり事業を開始しました。 

また、九州大学久山町研究グループのHPでは、

当教室では、1961年から、福岡市に隣接した糟屋郡久山町(人口約9,000人)の住民を対象に脳卒中、心血管疾患などの疫学調査を行っている。久山町住民は全国平均とほぼ同じ年齢・

職業分布を持っており、偏りのほとんどない平均的な日本人集団である。研究の発端は、日本の死亡統計の信憑性に疑問が投げかけられたことにある。当時、脳卒中はわが国の死因の

第1位を占めていた。なかでも、脳出血による死亡率が脳梗塞の12.4倍と欧米に比べて著しく高く、欧米の研究者からは「誤診ではないか」との声が上がった。

しかし、それを検証するための科学的なデータがなかった。そこで日本人の脳卒中の実態解明を目的として始まったのが久山町研究だった。

 1961年から追跡を開始した第1集団(剖検率80%)の初期のデータでは、脳出血による死亡率は脳梗塞のわずか1.1倍。死亡診断書に病型診断の誤りが数多く含まれていたであろうことを、

剖検という科学的な手法で証明した。

 久山町研究の最大の特徴は、この剖検率の高さにある。正確な死因を知るという点において、剖検以上に正確な診断方法はない。追跡調査の精度も高い。これまでに行方不明となった

対象者は数例に過ぎず、追跡率は99%以上。また、久山町研究では40歳以上の住民を5年ごとに集団に新しく加えているため、生活習慣の移り変わりの影響や、危険因子の変遷をも

うかがい知ることができる。

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私自身、新聞などで久山町の検診の受診率が高いということは知っていましたが、こういう「ひさやま方式」というのがあったのですね。

さて、本文に戻ります。集合場所は、JR篠栗駅、参加人数は29名。今日はいろいろイベントが重なり参加者が少ないです。

コースは、篠栗駅~レスポアール久山~山の神~猪野公園~天照皇大神宮~猪野~赤坂緑道~トリアス久山ゴールの約10km。

 

9:30スタート。

 

篠栗の九大演習林を通り久山町へ。

久山町は、1956年(昭和31年)久原村と山田村が合併してできた町です。両方の村の頭をとり久山町になりました。

 

 

  

 

レスポアール久山で休憩。レスポアール久山は、町民文化交流センターと町立図書館がある複合施設です。レスポアールとは、フランス語で「希望」という意味です。

 

休憩後再スタート

 

歩いていると「山の神」というバス停があります。その先には山の神の交差点が・・・・

よく箱根駅伝の5区の山登りを制したランナーが「山の神」と呼ばれますが、これとは違います。

久山町のHPを見ると、拝殿は大正9年、本殿は昭和2年の建立です。それ以前、は白山山頂付近の花ノ木原にありました。山頂付近には延享4(1747)年銘の石製の祠があり、現在も

「上の白山さま」として信仰が続いています。 白山は「首羅山」とも呼ばれ、伝承では天平年間の開山とされます。

『筑前国続風土記』によると、むかしは大社で350もの坊がありましたが、天正年間にすべて焼亡したと記載されています。現在も山内には坊跡や堂宇の跡が随所に残り、当時の繁栄の跡を

よく残しています。 毎年11月には大祭が行われ、大晦日から元旦には獅子舞が奉納されます。

  

先へ進みます。猪野から右折すると伊野天照皇大神宮の大鳥居が見えてきます。

 

ここでは、近くに宿舎を置く「湊部屋」の力士が幟を立てていました。大相撲九州場所は、13日の日曜日から始まります。

湊部屋は、師匠が現役時代「湊富士」というしこ名でした。現在幕内力士は、7月場所で優勝した「逸ノ城」(前頭2枚目)です。

 

伊野天照皇大神宮に向かう参道の水路には、錦鯉など鯉が泳いでいます。側溝の蓋には、鯉が描かれています。

伊野天照皇大神宮は、「九州の伊勢」と呼ばれています。

 

参道前の川は、伊勢神宮と同じ「五十鈴橋」その下を流れる川が「五十鈴川(正式は猪野川)」です。

  

 

伊野八幡宮は、

仲哀天皇9年(200年)、熊襲征伐の途中、仲哀天皇は「われを祭れば、戦をせずとも財宝の国を得ることができる」という神の託宣を疑ったために、その祟りをうけ香椎宮で崩御したと

いわれる。そのことを知った神功皇后は、小山田の村に斎宮(いつきのみや)を建て、自ら神主となり、天照大神を祀ったとされる。

(この「小山田の村」は、現在も大字として山田の地名が残る、福岡県粕屋郡久山町大字山田に比定される。)

『三代実録』巻卅二に、元慶元年(877年)12月15日辛巳(原作壬午)授筑前国従五位下織幡神正五位下。正六位下天照神従五位下。とある。

室町時代の末期には、都で大神の祭祀を司っていた豊丹生有時が、座列争いの罪で豊前国英彦山の麓に流されたとき、大神の御神体も豊前に移した。有時の子・兵庫大夫は神のお告げを

うけて、御神体を伊野(猪野)に移し、宮居を建てた。天正14年(1586年)、立花城を攻めた島津氏は伊野にも侵入すると、兵庫大夫は御神体を守ろうと竈門山にかくしたが、島津兵は

これを奪って薩摩国に持ち去ろうとした。しかし途中で神の祟りを恐れて豊前国柞原(ゆすはら)八幡宮に納めた。その後、柞原の宮司に「伊野の里に帰すべし」との大神の託宣があり、

柞原の宮司はその旨を伊野に知らせたので、兵庫大夫は御神体を再び伊野に迎え、以前のとおりお祀りすることができるようになったと伝えられている。

立花城主戸次道雪、名島城主小早川隆景、筑前藩主黒田長政など大名も崇敬した。筑前藩第3代藩主黒田光之は、延宝(1677年)に別所に社殿を造営し、大神宮を遷移し、造営に際して

宮司豊丹生信重と工匠工藤太夫清重を伊勢神宮に派遣して、本殿から鳥居に至るまで伊勢神宮に模して造らせた。

天照皇大神宮では20年毎の式年遷宮も行われている。前回は平成19年(2007年)4月8日に挙行された。(wikipediaより)

尚、伊野八幡宮は、猪野という場所にありますが、明治以前は、「伊野」と呼ばれており、その後「猪野」となりました。

  

猪野観音堂・・・・糟屋郡中札所三十三ヶ所中第九番札所

 

 

町立山田小学校の所に「斎宮(いつきのみや)」があります。神功皇后が新羅(しらぎ)征伐の際に自ら神主となり、国内の平安と戦勝を祈願したといわれる神社です。

ここでは、伊野皇天照大神社が伊勢神宮の「内宮」ならば、「外宮」の役割をしています。

 

    

コースは、赤坂緑地に入ります。赤坂緑地は、山田小学校からトリアス久山までの猪野川沿いを整備し、桜のビュースポットとして親しまれています。

 

 

12:10 トリアス久山(現トリアス)にゴールしました。

トリアスは、1999年(平成11年)にオープンした大型ショッピングセンターです。

コストコ、ユナイテッドシネマ、ホームセンターナフコなどが入店しています。

 

 

 

 


楽しいウォーク「リバーウォークin金屑川」(福岡市早良区)

2022-11-06 19:01:02 | ふくおかウォーキング協会

11/2(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「リバーウォークin金屑川」でした。

金屑川は、油山を源流とする室見川水系の二級河川。旧称は「屑川」。田隈小学校辺りで「川」になり、田隈、賀茂、有田、原、小田部を通り室見で油山川と合流し、藤崎では、室見川と

合流し博多湾に流れていきます。

川の名称の由来は、「葛が生い茂る川」あるいは、上流の方で砂鉄が採れたことからなどあり、定かではありません。

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集合場所は、地下鉄梅林駅。参加者35名。

  

コースは、梅林駅~野芥(のけ)~ヤマダ電機~賀茂神社~金屑川~あすなろ公園~紅葉八幡宮~地下鉄藤崎駅ゴールの約10km。

9:30梅林駅スタート

 

 

金屑川は、田隈小学校の所から川幅が広くなります。ここから川に沿って歩きます。

 

ヤマダ電機で休憩。

 

休憩後再スタート。

賀茂神社に立ち寄ります。

 

賀茂神社は、京都賀茂神社の分霊社として創建され、その建立年は定かではありませんが、境内より平安時代の瓦が出土したことにより、それ以前の建立と認めることができます。

昔から、身体に白い斑点の「ナマズ」平癒祈願の神様として遠近よりの参拝者が多く、「ナマズの神様」という名で有名です。

祭神は、別雷神・玉依姫命・天児屋根命です。

 

賀茂神社境内には、「免の里」の石碑があります。

案内板を要約すると明治22年の町村制施行の時は、早良郡田隈村大字免と改められました。明治年間から昭和初期にかけては、養蚕業が盛んに行われ蚕室や母屋を飼育場とした農村風景が

多くみられた。昭和29年福岡市と合併、当時の戸数は84戸。昭和49年市立賀茂小学校が開校され、昭和57年11月町界町名改正により「賀茂」になりました。

賀茂神社があることによってこの周囲に「免田」があったそうで、この免田という意味は、領主に対する年貢・公事を免除された田畑のことです。

ここから「免」という地名が生まれたのではないでしょうか?

 

賀茂神社から更に金屑川を進みます。

大きな鯉が泳いでいます。この日は見れなかったけどナマズもいるそうです。

 

有田橋の所が早良街道。

 

岸添橋の所が国道202号線(今宿新道)。

 

小田部から原団地へ

 

 

金屑川は、室見小学校の所で油山川、汐入川と合流します。

 

合流の後、涼橋の先で室見川と合流し博多湾に流れていきます。

 

涼橋を右折し、弥生町から紅葉八幡宮に向かいます。

 

紅葉八幡宮は、その名の通り紅葉で有名ですが、境内のモミジはまだまだでした。

 

 

紅葉八幡宮からゴールの藤崎駅へ。

 

高取商店街

 

11:50 地下鉄藤崎駅にゴール!

 

この日のGPS