よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(加古川~西明石)

2014-03-31 17:52:34 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/22 JR神戸線 姫路発7:55新快速で昨日ゴール地の加古川駅へ。加古川には8:05到着。やはり新快速は早いですね。

電車の本数も頻繁にありますので、本当に便利です。(一年前は、1時間に1本の岩徳線に乗っていたっけ・・・・・)

加古川駅前には、加古川のグルメ「カツメシ」のオブジェがありました。

戦後間もないころ加古川駅前商店街にあった「いろは食堂」で考案された 洋皿にご飯を盛り、牛カツをのせ、独特のタレをかけ、箸で食べるスタイルは気軽に食べれる洋食として

親しまれました。今では加古川周辺で100店舗以上で食べられます。

  

さて、今日は街道歩きをする前に「鶴林寺(かくりんじ)」に行ってみようと思います。駅構内の案内所で鶴林寺のパンフを探しますが見当たりません。

また、駅前のバスの時間を見ますが、始発は、10時頃のバスしかありません。仕方なく歩いていくことにします。歩くこと約20分、鶴林寺に到着。

「鶴林寺」は聖徳太子が16歳の時(589年)秦河勝に命じて建てた。仏教を広めるための道場が「四天王寺聖霊院」と称されたのがこの寺の始まりです。

国宝、重要文化財が数多くあり寺宝200余点を蔵し、播磨の法隆寺と言われています。

    

    

   

鶴林寺周辺は、公園になっており、桜の名所でもあります。見ごろは、4月初旬~中旬でしょうか?

鶴林寺から歩いて昨日のゴール地加古川駅に帰ってきました。時間は10:00になっています。

加古川駅の歩道橋は、面白い形をしています。真ん中のタワーは何を意味しているのでしょうか?

商店街を抜け、街道に入ります。町並みを見ると結納屋さんが目につきます。確か、商店街でもありましたし、やはり高砂市に近いからでしょうか?

  

左側に「胴切り地蔵」があります。

参勤交代の行列を横切った人が侍に斬られたが、不思議なことに本人は無事で、この地蔵の胴が切られ、この像が身代わりになってくれたと思い、それ以後

信心するようになったという伝承があります。

龍泉寺五輪塔

境内の西南隅に立っており、水輪は花崗岩製、他は竜山製。本来この塔は、現在地より約西100mの山陽道沿いにあり、昭和10年ごろ、拡幅工事の為現在地に移された。

康永3年(南北朝)の銘が記されている。

    

 先に行くと、野口町に入ります。「おりいの清水」があります。

昔、瀬戸内海を行く船がここで水を汲んだことが記されている。この井戸は、折井の水、織井水、細田の清水とも言われその前の坂を「おりい坂」と呼ばれています。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印塔とは、宝篋印阿羅尼を納める塔、後に供養塔、墓碑塔として建てられました。ここの宝篋印塔は、昔から和泉式部の墓と伝えられいます。

和泉式部は、平安時代の女流歌人で各地に伝承が伝わっています。

  

野口村道路元標の先には「教信寺」があります。

平安時代前期の僧 沙弥教信がこの野口に庵を造りました。念仏を唱えながら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、草鞋を作って貧しい人に与えたり、旅をする年寄りの荷物を運んだり、

大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれました。庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てたのが「教信寺」です。

本堂の前には、大きな桜の木がありました。満開になれば綺麗でしょうね。また、入り口の前に、「西国街道」の石碑が建っていました。

野口神社」は、慶安4年(1651)社殿が、寛文6年(1666)鳥居が建てられました。山王五社宮(五社大明神、五社神宮寺)として約250年、社僧12代により栄えました。

明治になり政府は「神仏判然令」を出して神と仏を厳然と区別しました。

その結果神宮寺は撤去され、社名も五社宮から野口神社に改称されました。

  

    

大型マンション、大型ショッピングセンター、などを過ぎ、「東加古川駅」を通過します。

西谷八幡神社」 御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、つまり第15代応神天皇です。

かつて広い野であった西谷を高畑村と新在家村が開発をめぐって争っていました。奉行に委ねても折り合いがつかず、加古新町の長老である澤 才兵衛に意見を求めた所、

「新在家なら『東谷』であろう。高畑から見て西にあるので『西谷』は高畑の土地に相違なし」と釈明しました。

延宝7年(1679)高畑村が開発してできた村が西谷新町となり、澤 才兵衛が自らの村から勧請したのが西谷八幡神社です。

  

先へ進みます。高畑の信号の所に「長松寺(ちょうしょうじ)」があります。ここには道元禅師が若いころ宋にて修行したときの「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」の

石像があります。仏教体の言葉で書かれていますので内容がわかりません。

  

 五社大神、土山薬師を過ぎ、平岡東小学校を過ぎると「明石市」に入ってきました。明石市のマンホールは子午線が描かれています。

    

清水新田の宝篋印塔」があります。

江戸時代、この辺りは、西国街道があり、往来する人が数多く、旅の途中で命を落とすことも珍しくなく、行き倒れとなった人を供養し、地域に災いが生じないように清水新田の人々が

此の地に宝篋印塔を建立した。以前は現在の位置から約30m東北東にあり、幾方と場所や形を変えてきたようですが、老朽化が進み、倒壊寸前の状態だったので現在の財産区墓地に移された。

   

瀬戸川を渡ると、右側に明石市給水塔が見えてきます。

    

清水神社には、県指定文化財の「清水のオクワハン」があります。毎年田植え後の日曜日、伊勢講の講親4人が桑の木で作った小さな鍬「オクワハン」と御幣を持って水田を歩き、

今後の稲作の無事を祈るそうです。

  

魚住の町には、たくさんの「溜池」があります。

調べてみると、明石、高砂、加古川、播磨、神戸西区の一部に溜池があります。

瀬戸内海沿岸で一年間を通じて降水量が少ない地域でもあります。一昨日でも私は太子町で雨に遭いましたが、明石にお住いのブログ友達 Kちゃんの所は全然降らなかったそうです。

また、山からの湧水は、冷たいので冷たい水は稲作には適さず、一旦溜池でためることにより水温を上げることも考えられます。

そういえば、播磨地方は、山田錦の本場ですね。

  

明石市にはコミュニティバス「TACOバス」があります。明石というと「タコ」だからTACOバスなんでしょうか?

「大山寺道」の道標を行くと、「金ヶ崎神社」です。金ヶ崎神社は元は黒石神社と呼ばれていたそうです。

     

大池東の交差点で2号線と合流。左側にはコカコーラ、富士通の工場が立ち並んでいます。どういう種類の桜かわかりませんが、満開の桜がありました。

兵庫県はまだソメイヨシノの開花宣言はされていませんが・・・・・・・(3/28開花宣言されました)

大久保西の信号を右折。街道は2号線と並行して走っています。左側には「大久保駅」があります。

   

 時間も14:00を過ぎました。お昼はまだでしたので大久保駅前の喫茶店に入りました。喫茶店のママさんは「博多から歩いている・・・・」のプラカードを見てびっくりされていました。(笑)

30分ぐらい休憩し再びスタート。右側に「明治天皇大久保御小休止建物」と書かれた洋館が建っています。

昔は、大変モダンな建物だったでしょうが、今は誰も住んでないみたいです。ここが「安藤家」です。

安藤家は、大久保宿の本陣でした。今でも街道沿いに大きな建物が建っています。

   

  

15:40今日のゴール「西明石駅」到着。

明石というと「明石焼き」ですね。西明石駅の方に聞きますと、明石焼きのお店は、隣の「明石駅」に沢山あるとのこと。

電車に乗り明石駅へ。入ったお店は、ガードの下にありました。

初めて食べる「明石焼き」はタレを付けて頂きます。一口食べてみますと何か卵焼き感覚。中からは大きなタコが出てきました。美味です!!くせになりそうです。

    

次回は、桜の姫路城も訪ねてみたいです。

今日のGPSですが、途中GPSが間違った方向を示していました。

3/21~23のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く「播磨高岡~加古川」

2014-03-28 22:44:17 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/22 姫路の朝は寒いです。スマートフォンの温度を見ると1℃。

昨晩食事に姫路駅周辺に行きましたが、町の大河ドラマ「軍師 官兵衛」のキャンペーンは凄いです。いたるところに官兵衛の幟旗が立っています。官兵衛の「あんまん」もあります。

姫路は官兵衛の生まれた町ですね。

      

今日は昨日廻れなかった人丸神社、稲岡神社などを廻り加古川に向かおうと思っています。

姫路駅発8:02の姫新線で播磨高岡駅へ。

姫路駅ではICカードでタッチして構内に入ったのですが、ここ姫新線ではICカードが使えないのですね。

高岡駅からバスで「青山出屋敷」へ。今日はここから歩きます。

初めに行ったのが柿本人麻呂を祀った「人丸神社」。

   

歌碑には「あおやまや あさかげ沼の こがくれに  あはんとすれど あふよしもなし」と書かれています。

柿本人麻呂が播磨守だったころこの地に遊行して数か月過ごした。離れて暮らす妻を愛でみて懐かしんで詠んだとされています。

人丸神社を降りると「稲岡神社」があります。

永禄12年(1569)西播磨守護代赤松政秀と姫路・黒田官兵衛の戦い「青山の戦い」の舞台になった所です。

この戦で亡くなった方をこの神社で祀っているそうです。

   

先に進みますと「播磨仙人了空翁生誕地」の石碑がある「教専寺」があります。

夢前川(ゆめさき)の手前には、五角形の道標が立っています。安政2年の作で「左 備前、九州、金毘羅、宮嶋」 「すぐ 姫路、大坂、京、江戸往来」と書かれています。

  

夢前川に差し掛かります。夢前川って何かロマンチックなネーミングですね。昔はこの川も戦場だったのでしょうね。

今では大きな橋ができていますが、江戸時代ここも渡しがあったのでしょうか?対岸には、常夜燈がありました。

  

橋を渡ると「下手野」に入ります。下手野の公民館の前には「西国街道」の石碑が建っています。兵庫県に入ると「山陽道」がいつの間にか「西国道」になっています。

空は真っ青です。民家の山茱萸の黄色と空の青がとてもマッチしています。

    

街道から少し入り込みますが、「船越神社」があります。ここは黒田官兵衛の「土器山(かわらけやま)の戦い」の場所でもありました。

大河ドラマの影響でしょうか、案内板も地元の自治会の方で新調されています。また、陣地跡の地図は手書きです。

    

説明文によれば

 永禄12年(1569)黒田官兵衛孝高は播州姫路城を攻略せんとする龍野藩主赤松下野守政秀を迎え撃つために此処土器山に布陣した。

時に官兵衛は24歳、正室幸圓(こうえん)は17歳のときのことである。

龍野城を出た赤松軍勢は龍野街道(旧山陽道)一路に青山桜峠にさしかかり、はるか東に望む姫路城を手中に治めんと意気を挙げ菅生川を渡りたむろした。

官兵衛は元来御着城小寺政職(まさもと)の家臣にあらずといえども旗下に属せしかば、其職を勤めんと官兵衛の父「職隆(もとたか)」の立場や義理、恩義をわきまえ、赤松政秀をむかえ打った。

官兵衛の胸中では何より姫路城中で生まれ育った郷愁の念が深く刻み込まれていった。それ故に何が何でも姫路城を指一本も他人にふれさせたくなかった。

此処土器山東方一里足らずに姫路城を控えての防戦。敵方より味方の不意を窺って襲来(おそいきた)り、急に囲い込むという戦法が功じて勝利する。

姫路城をこよなく愛した官兵衛の功績を賛美して史蹟とする。(下手野自治会)

官兵衛はこの戦いで家臣母里武兵衛などを失っています。

街道は、下手野東信号で2号線と合流し、今宿西から左折し旧道に入っていきます。

    

車橋の碑」があります。説明文によれば

池田輝政が姫路城築城の際、石材や木材を車で運んだことから車橋や車門の付いたといわれる。碑が川から離れた所に建立された訳は謎。

一方、付近の水路にかかる橋の欄干が車輪に似ていたことから碑が建立された説もある。

  

地内(じない)という町に来ました。右側に大きなお寺があります。「本徳寺」です。

元和4年(1618)城主本多忠政が東本願寺(大谷派)の実如の要請により姫路に東本願寺の中心になる寺を造るため、もと池田家の組屋敷百間四方を寄進して建てました。

播磨における真宗大谷派の拠点となる寺です。

 

 

左側に姫路城の石垣が見えてきました。姫路城はすぐそこです。

船場川を渡ると「船場八景」の看板が見えてきます。江戸時代庶民が作った和歌から選出したものだそうです。

この中の「みどり橋」を通りました。

  

みどり橋を渡ると飲食街です。更に先に進むと「西二階商店街」に差し掛かります。ここが姫路で一番の繁華街。江戸時代には、本陣もありました。

商店街は、「軍師 官兵衛」の幟や垂れ幕などがたくさん掲げられています。私の地元「福岡」より凄いです。デパートには「官兵衛グッツ」売り場が特設されています。

  

    

商店街には、姫路ゆかりの人物や場所等の案内板が付けられています。

    

  

商店街でタイ焼きやさんを見つけましたので一つ買ってみました。タイ焼きに羽根までついて美味しかったです。

 

大手前通りを左折すると、国宝「姫路城」が見えてきます。姫路城は現在平成の大改装中。来年の今頃には、リニューアルされた姫路城がお目見えします。

   

   

姫路城の桜は、まだまだ蕾の段階でした。ネットで調べてみると28~29日ごろ開花予定だそうです。

姫路城に隣接する「護国神社」では、結婚式が行われるのでしょうか、鳥居に赤いじゅうたんが敷かれていました。

東光中学校の「外京口門跡」を通り、市川で2号線と合流します。

  

市川を渡るとすぐ右折、山脇を過ぎ、西御着には、「山陽道一里塚」があります。この一里塚、兵庫県に入り初めて見ます。

市街化の影響で昔の一里塚も無くなってきたのでしょうか?説明文には「次の一里塚は東が高砂市豆崎、西が姫路市下手崎」となっています。

新幹線、山陽本線のガードを潜ると「御着」に入ります。

    

  

御着城は、天川城ともいい、東西約227m、南北約214mの地域に此処を流れる天川の水面より約5mの丘地を城域としその本丸、二の丸は何れも約109m四方にあったので

御着茶臼山城とも呼ぶ。

初代城主加賀守小寺藤兵門尉政隆は村上天皇の第7子具平親王を祖とする赤松族宇野家末葉小寺豊職の子で永正16年御着に築城して之に移ったが、享禄3年浦上村宗に攻められ討死した。

政隆の子則職は政隆の歿後御着城に移り住み、その後は則職の子政職(まさもと)が之を守った。

その頃羽柴秀吉に攻められ政職一族の精兵は秀吉軍勢と一時辰巳の谷に退陣させ奮戦したが衆寡敵せず、遂に天正6年7月落城した。小寺城主は此地に三代に亘り64年間居城した。

政職の子久兵衛政則は城域御着を流れる天川の辺に住んだのでその名をとって小寺の姓を改め、天川久兵衛と名乗り大庄屋を勤めた。

天川久兵衛の子孫は代々此地に家系を継ぎ天川藤三に及びその一女みをは、龍野藩主脇坂家より眞雄を迎え、藤三の次代を継ぐ。眞雄の子、保を経てその長男、誠は太平洋戦争に戦歿し、

道子長男天川洋介は家計を継いで現在に至る。  昭和41年4月  (案内板より)

今でも、御着の町には、「天川」姓の住居多くが見られます。

町では「みくにの官兵衛まつり」が行われていました。小学生のボランティアガイドがそれぞれ御着の史跡を紹介するというものです。

今日はその模様を地元のテレビ局が取材していました。

 

  

  

  

この時代、御着城の方が姫路城よりも規模が大きかったそうです。

私、この日もDバックに「博多から~」のプラカードをぶら下げていましたので御着の方が丁寧に説明していただきました。

姫路市東出張所は、御着城を模して造られたそうです。

  

御着の町並みは、昔のままのたたずまいが残っています。

    

御着を出ると別所町に入ります。池にはレンコン畑でしょうか、ハスの枯れた茎が見えてきます。左側には「弁慶地蔵」があります。

弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで山廼井といい、父は熊野神社別当であるという。書写山に預けられた弁慶が京からの途中、福居村庄屋の娘玉苗と一夜を共にしたのが

この地蔵堂であると伝えられている。

六騎塚」は、「太平記」巻十六によれば延元元年(1336)足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ最後に主従6騎となり、

阿弥陀宿の辻堂で自害したという。

 

   

高砂市に入ってきました。高砂市のマンホールは、松が描かれています。豆橋の歩道橋を渡り山陽線のガードに差し掛かります。

曽根駅高架の下には4基の道標があります。

   

街道は、2号線魚橋西を交差し再び旧道に出ます。左側に「正蓮寺」があります。正蓮寺は工事中で中に入れませんが、ここは、「月の沙漠」「お山の杉の子」を作曲した「佐々木 英(すぐる)」の生誕地です。

明治25年に阿弥陀町魚橋に生まれ、阿弥陀尋常小学校、姫路師範学校を卒業。しばらく郷里の小学校で教鞭をとった後、援助を得て東京音楽学校(現東京芸大)に入学。卒業後、

浜松師範学校の教諭になったが、大正11年に作曲家を志して上京、翌年「月の砂漠」を作曲して童謡作曲家としての地位を確立した。作曲のほか、青い鳥児童合唱団を主宰するなど、

一生を音楽活動に捧げ、その功績には特筆するものがあります。入口の碑は森繁久弥さんの筆です。

  

正蓮寺の先には、登録有形文化財になっている「土田家住宅旧魚橋郵便局舎」があります。

土田邸を改造して明治7年12月6日業務開始した。開設された当時兵庫県印南郡阿弥陀村と呼ばれていた。

印南郡の中央部に位置しており、印南郡役所が所在し、旧山陽道が村の中央を東西に貫通していた。

街道は、魚川橋を通り、2号線のガードを潜っていきます。

  

ガードを通りしばらく行くと山片蟠桃(ばんとう)が幼年期を過ごした家や結婚記念に寄進した生田神社の常夜灯があります。

山片蟠桃は、幼時から大坂の両替商である升屋に仕え、若くして番頭となり手腕をふるい傾いていた経営を軌道に乗せた。また財政破たんした仙台藩に建議した。

  

JR宝殿駅より加古川市に入ります。

宝殿駅には、結婚式で謡われる謡曲の「高砂」のモニュメント「尉(じょう)と姥(うば)」があります。

     

平津の交差点で2号線に合流、加古川を渡ります。渡ってすぐ左折、そのまま直進します。

加古川の寺家(じげ)商店街が見えてきました。このあたりが「加古川宿」です。寺院がこのあたり莫大な領地を所有していたことからこの名がついたそうです。

ここ加古川でも「官兵衛」ゆかりの地です。官兵衛の正室「光(てる)」が加古川・志方城主櫛橋家の出です。

本陣跡には、新しい家が建っていました。

  

   

   

17:00今日のゴール加古川駅に到着しました。駅周辺を見てみるとブログ友達ちゅうさんお薦めの「えきそば」があり食べてみることにしました。

中華めんに和風だしのミスマッチですが、なかなか美味しかったです。

帰りは、宿泊ホテルの姫路まで新快速で帰りましたが、たった10分で姫路に着きました。朝から何時間もかけて加古川まで歩いてきましたが、やはり電車は早いですね・・・・・・・・

 今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山陽道(西国街道)を歩く(有年~播磨高岡)兵庫県

2014-03-26 08:22:33 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/21博多発始発(6:05)の新幹線で岡山(7:48)へ。岡山から山陽本線で前回ゴール地の有年駅へ。有年駅9:15着。今回もDバックに「博多から・・・・」のプラカードを付けています。

有年駅は、工事中でホームから改札口まで少し距離がありました。

有年駅は、1890年に山陽線開通の面影を残してる駅舎でしたが、近代的な駅舎に変わろうとしています。

       

駅前から旧道沿ってに歩きます。角に「有年村道路元標」が建っています。横には「兵庫県」の文字が・・・・

旧道を歩くと2号線に合流します。ただこの国道、歩道がなく道路の端を歩きますが、休日というのに大型トラックが激しく往来しています。トラックに巻き込まれそうで怖いです。

     

「相生市若狭野」に入ってきました。相生市は、ペーロンの街です。相生市のペーロンは大正11年(1922)長崎出身の造船所作業員が紹介したのが始まりです。

今では5月の末ごろに相生港まつりとしてペーロン祭りが行われています。

    

 若狭野町からは、2号線を離れ旧道に入ります。

若狭野天満神社、円立寺を過ぎ、入野の信号で再び2号線に合流。

  

   

山陽線、新幹線のガードを抜け、神姫バス車庫裏を通ると「JR相生駅」に出てきます。

相生市は、人口約3万人、駅前は駐車場やホテルがありますが、市の中心は駅から約2kmの港の方にあります。

時間も11時半になりました。今日は朝が早かったのでお腹もすいてきました。休憩を兼ねここでお昼にします。

駅の南口に「狐塚古墳群」「陸(くが)天神社お旅所」の石碑が建っています。その横の公園には、西国道の道標(是より左あかほ城下道、是より右さいこくみち)があります。

  

 鮎帰川を渡ると大きな「ミモザ」の花が咲いています。その近くにはモニュメントが・・・・・

これは、生命の循環といって植物の種から発芽、成長し花を咲かせ実をつけていく・・・・永遠に続いていく生命の循環を市の花「椿」で表現しています。

   

街道は、たつの市揖保川町原に入ります。この辺りが「片島宿」です。片島宿は、隣の正條宿との間宿で元禄時代は「原八軒」と呼ばれていましたが、徐々に発展し「原八丁」と呼ばれるようになりました。

今でも国道から離れているせいか、旧家が立ち並んでいます。

    

 

竜野駅の向え側に大きな神社が建っています。興味津々で神社に入ってみると、ここは「神戸(かんべ)神社」です。

御祭神は、大己貴命、少彦名命。

秋例祭が菜しわずの祭といわれるのは、弘法大師が全国行脚の途次に菜を所望されたのを地元の方が固辞したため以後秋祭りの碑に菜を食べたものは、腹痛をおこすという伝承との習合によるもので

当神社を「なくわずの宮」ともいう。神社には他に石神さんもありました。

  

再び街道に戻ります。JR竜野駅前には、「ジェニオ広場」という円形の噴水がありました。

    

 片島宿から約1kmぐらいの所に「正條宿」があります。本陣は「井口家」。明治18年(1885年)明治天皇がご巡行されたときこの井口家で休憩されています。

その時の石碑が建っています。 揖斐川郵便局の横路には「道標」があります。(右、ひ免ぢ かうべ、左、た津の 山さき)

  

先に進むと「揖斐川」です。昔はここに「正條の渡し」がありました。近世の山陽道はたつの市揖保町から揖保川を渡り, 揖保川町原を通って 相生市那波野に抜ける道で,現在も町道としてつかわれています。

この山陽道で揖保川を渡る時には渡し船が使われていました。

「地水(ふだんの水の量)二文、中水八文、備水(大水のとき)十六文」という渡し賃を記した川札があったといいます。

ここでは数隻の高瀬舟が待機していたそうですが、大名行列にもなると舟が足りず、対岸の揖保村や真砂村から借りたといわれています。室津道と山陽道とが交わるこの地は,

交通の要所となり,かなりのにぎわいであったと想像できます。明治初期まで高瀬舟はあり乗客を待っていたそうです。(たつの市教育委員会社会科副読本編集委員会より)

  

 童謡「夕焼け小焼け」の作詞家「三木露風」は、今は、たつの市になっていますが、旧龍野町揖保の出身です。

マンホールや歩道のコンクリート蓋には「赤とんぼ」が描かれています。

三木露風は、5歳の時両親が離婚しその後、祖父によって養育されました。幼い露風には、子守奉公の姐やが彼を負ぶって子守しました。

♪おわれていたのは いつの日か♪ この歌詞、私は追われていたのは・・・・・と思っていましたら、背中に負われていたのは・・・・・なんですね。

揖保郵便局の近くには、「揖保村」の元標があります。時代と共に埋もれていき現在はようやく「揖保村」と読めるぐらいです。

 

      

庄屋弥右衛門賞彰功碑を通り、林田川を渡ります。渡ったらすぐ右折。太子町「鵤宿(いかるが)に入ってきます。

太子町は、聖徳太子と大変かかわりのある町、歓迎看板の下に聖徳太子のイラストが描いてあります。

空を見るとなんだか怪しくなり、雨がポツリポツリしてきました。急遽コンビニへ雨宿りします。

  

   

太子町を歩いていると、左側と右側に大きな工場が見えてきます。ここが「神戸燐寸(マッチ)」です。すぐ近くには大きなお醤油屋さんもあります。

斑鳩寺(いかるが)の門前に成立した鵤宿は、本陣があるだけで人馬の継立てはしない宿場でした。

  

斑鳩寺は、常夜灯の所から約400mぐらい行った所にあります。同じ「いかるが」でも宿場は「鵤」、お寺は「斑鳩」・・・・何か使い分けが難しそうです。 

伝承によれば、606年(推古天皇14年)、聖徳太子がが推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、伽藍を建立した、とされ、これを斑鳩寺の始まりと伝える。

606年、聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国の水田を賜ったことは史実と認められ、その縁で当地に斑鳩寺が建てられたものと思われる。

長らく大寺院であったが、室町時代後期の1541年(天文10年)、守護大名である赤松氏・山名氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に、播磨を地盤とする赤松氏等が発願し、

徐々に復興していったとされる。また復興を機に、従来法隆寺支院であったのを天台宗へ改めた。

聖徳太子の生誕地奈良県明日香村の橘あ寺と、墓所の大阪府太子町の叡福寺を結んだライン延長上に、この兵庫県太子町の斑鳩寺が位置する。(ウキペディアより)

  

  

鵤宿の本陣は、太子町役場付近にあったそうです。

再び街道に戻ります。東南口のバス停から国道179号線と合流します。又空模様が怪しくなってきました。

どこか雨宿りする所はないかな?と探していると前方に大型家電店があります。とりあえずそこへ入ります。大型家電店は消費税増税前だからでしょうか、お客様が多いです。

15分ぐらい雨宿りをして再び出発。

太田小学校の所に「鵤荘傍示石」があります。

案内板によれば

当地は聖徳太子が推古天皇から賜ったという法隆寺領播国鵤荘の故地である。鵤荘では、その境界を明示するために傍示石を置いていたが、法隆寺にある嘉歴4年(1329)の

鵤荘絵図には12か所に傍示石が描かれている。現在傍示石と考えられる石は、県指定文化財4ヶ所、参考地5ヶ所が知られ、これらは荘園の傍示というだけでなく

条里制との関連の上でも重要視されている。

これらの石は、聖徳太子の投げ石8大使が自分の領地の境界を決めるために檀特山の上から投げた石)と言い伝えられている。

  

時間はもう5時になろうとしています。今日の予定はこれから「山田峠」を越え播磨高岡までですが、関西は九州よりも日の入りが30分ぐらい早いので少し急ぎます。

行基菩薩作の「太田地蔵尊」があります。

行基は、奈良東大寺の大仏を建立したことで知られています。また各地に道や端、池などを造り人のために働きました。

黒岡神社」は秋に五穀豊穣と郷土の繁栄を願って江戸時代末期から伝えられた沼田獅子舞が奉納され田中地区の屋台が練り出します。

   

「題目碑」を通り再び国道と合流します。

「山田」の信号より「山田峠」に入ります。新幹線のガードの所で道に迷ってしまいました。散々迷った挙句、近くに農作業をされている方がおられましたので道を聞きました。

私達は少し行きすぎていたみたいです。

山田峠は思ったほどきつくなく、ただ頂上付近はちょっと肌寒さを感じました。

  

  

山田峠を越えると姫路市に入ります。

時間も5時半近くになっています。これから人丸神社、稲岡神社などを廻る予定ですが、日が暮れますのでここは明日廻ろうと思い、播磨高岡駅を目指して歩きます。

急ぎ足で歩いたせいか、播磨高岡駅には、6時12分に到着。6時17分の姫新線で今夜の宿の姫路駅に向かいました。

  

 

今日のGPS

 

 

 

 

 

 

 


第18回龍馬ハネムーンウオークin霧島「花はきりしま菜の花コース」10km

2014-03-18 18:40:00 | ウォーキング

3/15 昨日、「高千穂峰」登山で痛めた膝をホテルの温泉でじっくりマッサージしましたのでだいぶんよくなりました。

朝、起きて霧島連山を見るときれいに晴れ渡っています。いつ見ても最高のロケーションです。

今日は、龍馬ハネムーンウオークin霧島で「花はきりしま菜の花コース」に参加します。

今年から集合場所とコースの一部が変更されています。

    

 今日は天気がいいせいでしょうか、参加者も多いですね。目勘定で600~700名ぐらいでしょうか?

慶応2年(1866年)に龍馬が新婚旅行で霧島を訪れていますので「ハネムーンウオークin霧島」とネーミングされています。

出発式では、一年以内に結婚された「新婚さん」のカップルが紹介されました。今年は他の会場を含め15組の新婚さんの参加されたそうです。

 

                

10:00逆鉾ジュニア太鼓の演奏でスタート。菜の花とミニ動物園では、AKB48の歌で霧島市のプロモーションビデオを撮影するそうで踊ってくれる方を募集していました。

面白そうでしたが、もうこの歳ではAKBの歌に合わせて踊ることは不可能です。(笑) 

    

 第一回目のチェックポイントは、「神話の里公園」の中にある「道の駅霧島」。坂道を登ってきましたのでお水をいただきました。この水、「関平鉱泉」の水で美味しかったです。ぜんざいも振る舞われました。

神話の里公園には、桜の木がありますが、蕾もだいぶん大きくなり来週には花が開くのではないでしょうか。

 

   

神話の里公園を下り国道223号に合流。しばらく国道を歩くと左斜めの道に入ります。

ここでもお接待がありました。自家製のお漬物などですが、とてもおいしいです。おにぎりがあれば言うことはないのですが・・・・・

田んぼには、菜の花とイワツツジのコラボが素晴らしいです。

   

途中、ワサビ菜の無料配布が行われていました。近くだったら持って帰るのですが福岡までは持って帰れませんね。

「鹿、猪飛出し注意」の看板があります。少し先に行くと馬酔木(あせび)の木があります。

馬酔木は、毒草ですので猪や鹿除けに植えられたのでしょうか?その先の長~い階段を上ると「霧島神宮」に出てきます。

昨日、せっかく登山「高千穂峰」で霧島神宮の古宮址を見てきました。

     

     

チェックポイントの霧島観光案内所から交番の所の信号が8kmと10kmの分岐点です。

8kmコースはそのまま真っ直ぐ国道を進みます。10kmコースは、観光案内所の下の階段を下りそれから山道みたいな細い道を登っていきます。

ここが今年からコースの一部に組み込まれた「霧島神水峡」です。

 霧島川の上流を行くと川の流れが耳に入ってきます。オゾンもいっぱいです。まるで高千穂峡のミニ版みたいです。

山道の左側には、防空壕でしょうか、いくつも穴があります。ただ残念なことは、この穴にテレビなどの家電の「不法投棄」が多く見られます。

このコース素晴らしいので今後観光地としてアピールするなら不法投棄をさせないようしてもらいたいです。

   

       

しばらく歩くと国道です。ここで8kコースの方と再び合流します。

12:30  10kmコース ゴール 

ゴール後のおもてなしは「豚汁」です。

    

会場からシャトルバスで駐車場へ。

汗もかきましたので、途中、宮崎・えびの高原でお風呂に入って帰ろうと思ってます。

ナビでえびの高原にセットし走り出しますが、「チェーン規制」の看板が・・・・・・・・

気温は20度近いのですが、行ける所まで行ってみようとゆっくりゆっくり走ります。何とか無事にえびの高原に到着しました。

韓国岳(1700m)が目の前に見えてきます。この韓国岳2つの山に見えますが、一つの山です。山と山の間が火口になっています。

  

お風呂は、ちょっとぬるめですがじっと入っているとぽかぽかしてきます。いいお湯です。疲れも一遍で飛んでいきそうです。

次回は、ミヤマキリシマが咲いているときに行きたいですね。秋の紅葉もいいかもしれませんね。

 

 

 


龍馬せっかく登山「高千穂峰登山」(鹿児島県霧島市)

2014-03-17 08:39:47 | 山登り

3/14 第18回「龍馬ハネムーンウオークin霧島」のせっかく登山で高千穂峰(1574m)に登りました。

 

京都の寺田屋事件で負傷した龍馬は、慶応2年(1866年)妻お龍と一緒に傷の手当ても兼ねて霧島に来ました。これが日本で最初の「新婚旅行」と言われています。

霧島では、龍馬は温泉に入ったり、霧島神宮に参拝したり、高千穂峰登山を楽しんだりしました。

このウオーキングは、龍馬が霧島で滞在した所を歩いて楽しむというもの。

私、6~7年前この大会に初参加しそれから霧島の魅力にとりつかれ今年で5回目の参加となりました。

また、平成23年に新燃岳噴火で中止になっていた「高千穂峰」登山も今年霧島が国立公園指定80周年記念プランとして特別にコースに盛り込まれました。

 先月、宮崎・小林絶景ウオークで小林側から霧島連山を見ていつかはあの山のどれかに登りたいという衝動にかられました。

今回、その願いが叶えられました。然し私、ウオーキングは40kでも歩けますが、登山はあまりしたことがなく少々不安です。

   

集合場所は高千穂河原第3駐車場。

参加人数は、45人。スタッフも含め約60名のパーティです。前田霧島市長も特別に参加されました。

古宮址天孫降臨神籬(ひもろぎ)斎場で霧島神宮の宮司から登山安全祈願をしてもらいました。

霧島神宮はもともと背門丘(せとお)(高千穂峰と御鉢の間)にあったとされていますが、噴火により焼失し、文暦元年(1234年)までここ高千穂河原に建てられていました。

13世紀の御鉢噴火でここの社殿も被害を受け、現在の田口の場所に移されたといわれています。高千穂河原は現在も神籬斎場として祭祀が継続されており特に11月10日には天孫降臨御神火祭が

峰の頂上と斎場で斎行されています。

 

    

 出発式の後参加者を4つのグループに分け、午前10時登山開始です。私達のグループには、前田霧島市長も入られました。(グループリーダー後藤さん)

           

リーダーの後藤さんの話だと市長は龍馬の話をすると2時間はかかるということで登山中、龍馬の話をたっぷり聞かされました。(笑)

慶応2年、3月29日(新暦5月13日)龍馬は、お龍と一緒に高千穂峰の天の逆鉾見学に出発。龍馬というと革靴のイメージですがこの登山には草鞋を履いていたそうです。

途中馬の背越えではお龍の手を引き、キリシマツツジの美しさに感動し、頂上の天の逆鉾を笑いそれを引き抜いたそうです。

【天孫降臨神話】

はるか昔、神々がこの世を治めていたという神話の時代がありました。神々が天上界 の天の浮橋の上から下の世界をのぞくと、霧に煙る海の中に島のように見えるものがあります。

神々は一本の鉾を取り出しその島に印を付けました。それが霧島山の名の由来だといわれています。その時神々が逆さに落とした鉾は見事に山の絶頂に突き刺さりました。

今も高千穂の山頂に残る天の逆鉾はその時の逆鉾だといわれています。

 ある時天照大神の神勅を受けて、孫神のニギニギノミコトが三種の神器を手に七人の神様と共に高天原に降り立ちます。

天上界から神が地上に降り立ったといわれる「天孫降臨」の第一歩をしるしたこの高千穂峰から日本の建国神話とその歴史が始まったと伝えられています(国立公園霧島指定80周年記念誌より)

   

    

階段の所を抜けると登山道が火山灰に覆われ、まるで砂浜を歩いているようです。

   

難所の岩場に差し掛かります。登山口で取材していた地元の放送局のクルーが先回りしてここで私達を待っていました。

登り口では、私達夫婦もインタビューを受けました。

そろりそろり足場を固めながら登っていきます。時にはカメラに視線を向け、「キツくないよ」という顔をしながらテレビ用の笑顔です。実はここで滑ったりしたら恥ずかしいな・・・と思ってました。

  

スタートして約1時間で御鉢(おはち)火口に到着しました。高い山ということでヒートテックなどで厚着をしましたが、汗びっしょりです。

振り返ると霧島連山の「中岳」「新燃岳」その後ろにぼんやり「韓国岳」が見えます。

 【御鉢(おはち)火口】

 高千穂峰の西側で約1500年前から活動を始めた成層火山で山頂には直径約500m、深さ約200mの火口を持ちます、山麓部には数枚の溶岩が見られますが、火口壁には溶結または非溶結の

降下火砕物のみで構成されており、大火口を有する火砕丘のように見えます。

最大規模の活動は1285年の噴火で御鉢は一気に100m以上高くなったと考えられています。この時の噴出物が高原(たかはる)スコリアと呼ばれ、高原町狭野神社付近では1m程度の厚さで

たまっています。霧島神宮から高千穂河原に来る時の道沿いで観察できる溶岩の一部もこの時のものです。

御鉢火山は、明治・大正期(188年代末~1900年代初め)に噴火を繰り返し、たくさんの死傷者を出しています。  (案内板より)

   

高千穂峰にはこの御鉢火口周辺部を歩きますが、御鉢火口を見るとまだ煙が上がっている所がありますが、足がすくみ怖いです。

   

   

     

12時ごろ「霧島神宮元宮」に到着。霧島神宮の発祥の地です。

お天気も怪しくなってきましたのでここで昼食にします。食べ終わったら高千穂峰頂上をめざしすぐ出発します。雪も交じってきましたので先ほど暑くて一枚脱いでいたジャンバーを再び着ます。

  

手には手袋をしていますが寒くて手の感覚がなくなりカメラのシャッターを押すにも難儀します。頂上の気温はー3℃と誰かの声  -3℃なんかここ数年経験したことがありません。

   

岩にはツララがさがり、ミヤマキリシマには霧氷が付いています。

  

13:00ようやく高千穂峰頂上(1574m)に到着。あの「天の逆鉾」もありました。

   

山の天気は、すぐ変わります。私達が無事頂上に着いたから神様のご褒美でしょうか、雲が切れて視界がよくなりました。

    

龍馬が高千穂峰を登山したのが旧暦の3月29日。新暦では5月13日ですので高千穂峰は、ミヤマキリシマがたくさん咲いていたでしょうね。

龍馬もこの美しさに感動したことでしょう。然し今日、ミヤマキリシマをみるとまだ蕾もありません。

また天気が変わるかもしれませんので早めに下山します。

   

登りでは、慎重に登っていましたからそんなに滑ることはありませんでしたが、下りはまるでソチオリンピックの滑降みたいによく滑ります。

何か自分がオリンピックの選手みたいになったようです。前を行く人が何人か滑って尻もちをついていましたが、自分は大丈夫と思っていましたら

途中で私も滑って尻もちをついてしまいました。幸い頭は打ちませんでしたが、左手首と膝を打ってしまいました。

すぐ立ち上がり何事もなかったように下っていきます。

    

下山途中天候が悪くなりかけていましたが、14:25無事下山しました。

下山して高千穂峰の方を見ると雲の中に入っていました。多分頂上は雪かな?

    

ホテルには、15:00ごろ到着。まだ高千穂は雪みたいです。

17:30ごろ高千穂の方に虹がかかり、雪化粧をした高千穂峰が顔を出しました。

   

ホテルのお風呂で転んだ膝を見ると少し切っていました。骨折はしていないみたいです。

ずっと前から登りたいと思っていた「高千穂峰」。今回登れて本当に幸せです。

私達を無事下山させてくれた霧島市長他スタッフの皆様に厚くお礼申し上げます。 今度はミヤマキリシマが咲いているときに行きたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


熊本・川尻の酒蔵開き

2014-03-11 17:28:32 | JR九州ウオーキング

3/09は青春18きっぷを使って熊本・川尻の酒蔵開きに行ってきました。

博多発6:23の快速で一路大牟田へ。大牟田7:40発八代行で川尻へ。川尻着8:52。2時間半の旅でした。

川尻の受付にはもう長い列ができていました。

先ず、河尻神社へ。

鎌倉時代1197年(建久9)に河尻荘の領主である河尻三郎源実明が、鶴岡八幡大神の分霊を河尻荘小岩瀬(現在の熊本市南区富合町小岩瀬)に勧請したのが起こりといわれている。

鶴岡八幡大神を主祭神とし、天照皇大神、春日大社、住吉大神、阿蘇大神の4柱を配祀するので、古くより若宮五社大明神と称し、河尻荘1町87村の総氏神として社領33町を有していた。

室町時代、河尻氏の没落により衰微したが、加藤清正公の尊崇を受け、1587年天正15年)現在地に遷宮・再興し、続く細川家代々の藩主も同様に篤く崇敬した。

明治維新後郷社とされ、1898年明治31年)には県社に列した。(ウィキベディアより)

この神社には数百年の樹齢をもつ「ヒイラギ」があります。

神社からのサービスとしておみくじが配られましたが、なぜだか「吉」が多いです。

      

         

次に行ったのは、延寿寺

延寿寺は西南の役の時、西郷隆盛が軍隊を率いてこの地に入りこの寺に本営を置きました。

2/21薩軍は西郷を交えた軍議を開き熊本城強襲を決議。

後にこの寺は薩軍の兵站(へいたん)基地となり野戦病院となりました。

お寺の一角には、「西南役薩軍戦没者墓碑」が建てられています。

    

この延寿寺は、今、木蓮の花が咲きだしています。

       

    

そのあと「大慈禅寺」に行きました。

大慈禅寺は、曹洞宗の九州総本山です。弘安元年(1278)に創建。

 

     

   

仏殿の内部には、主尊:釈迦牟尼、脇待(左):釈薬、脇待(右):阿難。天井には龍の絵があります。

大慈禅寺を後に川尻の町に戻ってきます。

加勢川に差し掛かります。

この加勢川には、九州新幹線と鹿児島本線の鉄橋が並行しています。

新幹線と在来線のコラボを待っていたのですが、なかなかうまい具合にいきません。ちょっと写真を合成しました。在来線は「A列車」です。

加勢川を過ぎ川尻の町中に入っていきます。

「川尻公会堂」があります。この公会堂は、川尻の酒蔵「瑞鷹」が寄付したそうです。公会堂の前には、頌徳碑が建てられています。

ちょうど管理人の方がいらっしゃいましたので公会堂の中を見学させていただきました。

    

   

 川尻には、西南の役で薩軍の本営だった所が残っています。隣は有名なうなぎ屋さんです。

  

熊本のマンホールには、「肥後六花」が描かれています。

    

  

あと肥後花ショウブですが、この分は見つけられませんでした。

さて、今日のメインイベントの「川尻酒蔵まつり」ですが、11時オープンですが、もうすでに長蛇の列ができています。

    

ここは家内に列に並ばせ、私はゴールの印をもらいに川尻駅へ。戻ってくると酒蔵開きが始まっていました。

   

JRウオーキング友達のBさんが前もって場所を確保され、そこへみんなで集合しました。

その席に、今日は欠席された八代のMちゃんさんからたくさんの差し入れをいただきました。Mちゃんさん本当にありがとうございました。

      

約2時間ぐらいみんなでワイワイガヤガヤ。次回のミーティングの日程もいつの間にか決まってしまいました。

帰りは千鳥足ウオークの方もおられ皆さんご機嫌さんで川尻駅へ。

帰りの電車の中ではもう爆睡状態でした。

 


牛尾梅林「梅まつり」(佐賀県小城市)

2014-03-04 18:25:28 | JR九州ウオーキング
3月1日はJR九州ウオーキング春・初夏編の第一弾として佐賀県小城市にある「牛尾梅林」に行ってきました。
9:30JR牛津駅スタート。

のどかな田園地帯を通り牛津川沿いを歩きます。
川沿いには菜の花や土筆などが顔を出していました。もう本格的な春ですね。

歩いていると右側に牛尾山が見えてきました。今日は天候があまりよくなく山々が少し霞んでいます。


牛尾梅林は、13000本の梅の木があります。
 
 
 

その13000本の梅の花が今、満開です。「ふくいくとした梅の香りがたちこめる」というのがキャッチフレーズですが、残念なことに私この時期「花粉症」に悩まされ
匂いを感じることができません。



  



梅まつり会場では、数々の出店などがありました。舞台では子供たちの踊りや山本譲二いや山本譲一さんのステージが行われています。
 

然し素晴らしいこの光景ですね。
 

何という鳥か知りませんが、梅の花の香りに誘われてやってきたのかな?

 

11:20牛津駅にゴール。佐賀海苔のプレゼントがありました。
駅では今からJR九州の豪華列車「ななつ星」が通過するというアナウンスがあり、すぐにホームへ。
手を振りましたがななつ星のお客さんわかってくれたかな???



駅では津の里温泉・アイルの割引券をいただいていましたので汗を流しに行ってきました。
ゆっくり湯船に入っていると疲れが飛んでいきますね。お風呂から出た後は、ここの日替わり定食をいただきました。
500円でしたが佐賀産の食材で作られていました。ご飯が美味しかったです。
  


NHK福岡公開放送を観覧

2014-03-03 14:15:23 | 日記

2/28日の金曜日はNHK福岡放送局に「きんすた」の観覧に行ってきました。

7時半にNHK集合。観覧者は私達を含め20~25人ぐらいです。

 

 

  

今日は、郷土料理研究家の「藤 清光先生」の料理一本勝負と題して「こんにゃく」の料理のあれこれを紹介するもの。

今回は、料理の脇役である「こんにゃく」を主役に抜擢するという料理です。

紹介された「こんにゃく料理」は、「こんにゃくの空揚げ」のほかに、鳥栖市のお寺の精進料理、こんにゃくを使った「精進カレー」

雲仙市の「こんにゃくいなり」(油揚げの代わりにこんにゃくをつかったもの)

日田市のこんにゃく博士による、カルビ、ホルモン、イカなどバーベキューで使う肉類をこんにゃくで作ったもの。

他には「こんにゃくごはん」などが紹介されました。

藤 清光先生の博多弁を使った話しぶりで、あっと言う間の45分間でした。

番組終了後大濠公園を通って帰りましたが、この時間(午後9時ごろ)でも公園内でジョギング、ウオーキングなどをされている方がいらっしゃいました。

そういえば、今年の11月「福岡・糸島市民マラソン」が開催されるのですね。コースには我が家の前を通るようになっています。

旗を持って応援に行こうかな・・・・・・・・