よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

2020年今年のウォーキングライフ

2020-12-30 07:00:23 | ウォーキング

2020年今年も残り少なくなってきました。今年のウォーキングを振り返ってみます。

1月 指宿菜の花マーチ 

2月 沖縄うらそえツーデーマーチ

 

2月後半からコロナ感染防止対策として日本ウォーキング協会主催の大会が中止になる。

1月、2月は、JR九州ウォーク、ふくおかウォーキング協会の例会などに参加。

3月からは、JR九州ウォーク、ふくおかウォーキング協会の例会もすべて中止になり、仕方なく自宅近くを歩く毎日が続きます。

歩友から「オルレ」があることを聞き、試しに「宗像・大島コース」を歩く。

4月 「唐津コース」を歩く

 

6月 オルレ「平戸コース」「新宮コース」「八女コース」「武雄コース」を歩く。

  

 

7月よりふくおかウォーキング協会の例会が再開。12/16まで続く。

7月、8月 博多阪急イヤーラウンド15k、10k 佐賀早川スポーツイヤーラウンド10k歩く。

9月 オルレ「奥豊後コース」歩く

10月~11月までJR九州ウォーク再開。

11月 伊万里ウォーク

まとめてみますと、大会参加3回107km、ふくおかウォーキング協会例会44回参加421km、イヤーラウンド3回参加45km、オルレ7回参加82,5km、

JR九州ウォーク16回参加162km。 トータル817,5km(内IVV54回、573km)でした。

今年は年初にマーチングリーグ金メダル、スーパーマスターウォーカー達成、初の海外遠征として韓国・済州島、ロシア・ウラジオストクに参加予定でしたが、コロナ全世界拡大の為

中止になりました。また、街道歩きも奥州街道、京街道は資料は全部揃えていましたが、これもコロナ拡大の為中止せざるを得ませんでした。

来年こそコロナが収まってマスクなしで自由に歩けるようになってほしいですね。

 

 

 


志賀島プチウォーク(福岡市東区)

2020-12-23 18:39:25 | ウォーキング

12/20 協会のウォークも正月休みに入りましたので久しぶりに志賀島に行ってきました。

志賀島は、歴史の教科書に出てくる「漢委奴国王」の金印出土地として知られています。周囲12km、面積5,87k㎡の島で玄界灘と博多湾の境に位置します。

  

先ずは、勝馬の方から。ここからは、玄界島、小呂島、糸島半島などが見渡せます。玄界島の後方は、小呂島です。

  

金印公園

天明4年(1784)に発見された金印「漢委奴国王」は、弥生時代の紀元57年、奴国の国王に中国、後漢王朝が送ったとされます。

この金印は、縦、横2,3cm、重さ108g純金製で、つまみには、とぐろを巻いた蛇の形をしています。発見者は、百姓甚兵平の雇人秀治と喜平。

古記録によれば、田を耕して大石の下より金印掘り出すと書いてあります。詳しいことは、福岡市博物館HPをご覧ください。

 

金印は、大切な公文書や荷物の封印に使われていたそうです。荷物や文書を入れた箱を紐で縛りその結び目に付けた粘土に金印を押して封をし、文書の秘密を守る鍵のような役目を

果たしていました。

   

金印公園展望台です。眼下には博多湾、能古島、糸島半島が見えます。JR九州のビートルもここを通って釜山に行っていましたが、コロナの為現在運休しています。

  

志賀海神社  古代海人族安曇氏(あずみが祀る神社です。古事記には、阿(安)曇連は、その綿津見神の子、宇津志日金柝命の子孫なりと記されています。

  

志賀海神社の御祭神は、「綿津見三神」です。綿津見三神は、伊邪那岐命の禊の際にご出現された禊祓の神様です。

黄泉の国より戻られた伊邪那岐命は、日向橘の小門の阿波岐原で禊祓をしました。この時、海の底の方に潜った時に生まれたのが「底津綿津見神」、中ほどにいた時に生まれたのが

仲津綿津見神」、水の表面で生まれたのが「上(表)津綿津見神」。相殿は、左が神功皇后、中が玉依姫命、右が応神天皇です。

綿津見三神は、海の底、中、表を守り給う海の主宰神です。海上交通を始め、潮、魚介類といった海産物のお恵みをもたらす神と信仰され、また禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、

更に水と潮を支配し、潮の満千によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶を左右されるとされています。(志賀海神社HPより)

 

信州の安曇野(穂高神社がある)、愛知県の渥美半島など全国に足跡を残す阿(安)曇氏ですが、ルーツは、この志賀島にあります。彼らは高い航海術を持っており、安曇族の磯良は

神功皇后の三韓征伐には水先案内人を務めています。

筑紫の磐井の乱では、磐井の方に加担し、ヤマト政権と対立しました。磐井の敗北の後、志賀島を離れ、信州や渥美に逃れました。

   

志賀海神社には、神功皇后の伝説が残っています。

亀石 遥拝所 その昔、神功皇后が三韓へ出兵される際、正面対岸の打昇浜にある亀ヶ池・亀栖池の辺りにて無事凱旋出来るよう安曇磯良丸を通じ祈願され、七日七夜のお神楽を奏されました。

すると黄金雌雄の亀に乗った志賀明神と勝馬明神が御出現され皇后へ千珠満珠の玉を授け、船の舵と航路を守り導くと伝えられ、黄金雌雄の亀は亀ヶ池、魚住池に放たれましたが、

後に石となって現在の金印公園近くに現れ、寛文10年(1671)4月11日に社前に納められました。(案内文より)

  

安曇一族を祀っている「今宮神社」、案内板によれば、

御祭神   宇都志日金柝命 、 住吉三神 、天兒屋根命、 阿曇 磯良丸命をはじめとする神裔阿曇諸神
  御神徳   盗難除け、航海船舶の安全、出世開運、合格
御由緒
『古事記 』に「此の三柱の 綿津見神 は阿曇連等が祖神ともちいつく神なり。 かれ、阿曇連等は、その綿津見の神の子、宇都志日金拆命の子孫なり」記され、
綿津見三神を奉祭するのは、宇都志日金拆命の子孫である阿曇家となっている
当社は代々 阿曇家 が宮司を奉職しており、阿曇家の祖神である宇都志日金拆命は 綿津見三神に仕える者の祖神として奉祀されている
また、神功皇后三韓出兵 の際に出現された阿曇磯良丸命は、当地龍宮より 干珠満珠を借り賜って海上指揮に仕えたと伝えられる

宇都志日金柝命の子孫が安曇族の祖神になります。

 

山の神 箱根駅伝の山登りのランナーではありませんが、海と山は密接な関係があります。「山たて」と呼んで船は山を目標にして航行し、山が豊かであるほど栄養のある水が海に流れ込み、

そこに魚がたくさん寄ってきます。海に生活する人達にとっても山は貴重な存在でした。そのため、春秋2回(4/15、11/15)五穀豊穣豊漁を祈願する「山誉祭」が行われます。

その神事では、古老である社人が「あゝらよい山、繁った山」と誉め称え弓を引き釣りに行く様子が表現されます。この祠に不要の財布を納めると財運が開けるといわれています。

 

 

志賀海神社から港の方に行ってみました。ちょうど船が入ったところでお魚の仕分けをされていました。

   

志賀海神社の参道を歩いていくと、左側に干物屋さんがありました。この干物屋さんは、福岡のデパートにも卸されています。

お酒のアテに干物を何枚か買いました。

さて、最後に博多華丸さんがお薦めの中西食堂の「サザエ丼」です。開店が11時でしたので11時半ごろお店に入りました。

今日は日曜日ですので行列ができているのでは?と思いましたが、店の中に入るとすんなり通されました。(私たちが入った後から行列になりました)

店内には、有名人の色紙が貼られています。勿論華丸さんのもありました。

 

10分ほどでできました。これが「サザエ丼」です。サザエが2,5倍の分は、「曙丼」というそうで横綱曙が当店に来られた時に注文されこのネーミングになったそうです。

サザエ丼は、親子丼みたいに玉子でとじ、サザエ、エビ、玉ねぎが入っています。味は、少し甘めの味でしたが、おいしくいただきました。

  

《追記》

志賀島にも浦島伝説があります。この伝説は、浦島伝説とは、少し違います。

そのむかし、志賀島は島の表側を礎鹿(しか)と呼び、裏側にあたる勝馬地区を浦島(裏島)と呼んでいました。この浦島に太郎と呼ぶ十八歳の青年が年老いた母と一緒に住んでいました。

太郎はこの村でも一番の働き者で頭も良く、村の郷長(こおりのおさ)田ノ中豪右エ門(たのなかごうえもん)の一人娘「姫子」と、似合いの夫婦になるだろうとウワサされていました。

夏も終わりに近いある日のことです。太郎は島の突先にある大浦崎に魚釣りに出掛けました。格好の岩場を見つけ釣り糸をたらしていましたが、日頃の疲れが出たのか、

ついうとうと寝てしまいました。何時間たったのか、岩に砕ける波の激しさにふと眠りを覚ますと、激流に押し流されたのか、こけむした亀が傷だらけで打ちのめされていたのです。

太郎は以前母から教わった薬草のことを思い出し、付近の草むらをかきわけ餅草を見つけ石ですりつぶし、亀の傷口につけてやりました。ほっとして、亀を海に放してやったときです。

今まで激しかった荒波は、雷鳴とともに太郎に襲い掛かってきました。必死に岩にしがみついて波にさらわれないように苦闘するうちに、太郎はついに気力を失い、

その場に打ちのめされてしまいました。

一夜が明けました。村人たちは、昨夜から帰らぬ太郎の安否を気遣い、海岸一帯を探しまわり、岩場にうつぶせになった太郎を見つけ出しました。

まだ、かすかに息はありましたが、その姿は死人同様です。

この話を聞いた豪右エ門は、早速家伝の秘薬「赤実礼(せきれい)」(くこの実だったといわれる)を与え、村人とともに必死の看護をしたため、一命はやっととりとめることができました。

しかし太郎は生あるのみ、当時不治の病と怖れられていた振身能(ふれみの・今のノイローゼ)におかされ、空言のようにとてつもないことを口走るばかりです。

「助けた亀で竜宮城に行った……」「乙姫様と海底で遊んだ……」とか……。

母は太郎をたしなめなんとか治そうと神仏にお願いしますが、どうしても良くなりません。

豪右エ門もいったん婿にと心に決めた男、わが娘「姫子」への不憫さも手伝って、一大計画をたてました。太郎の空言を現実に作り出そうというものです。

志賀島の海岸線は、今でも美しい大小の岩が浮かび白い波にはえて、おとぎの国を思い出させる姿ですが、この岩を赤、青、白、黒と色とりどりにそめ、

豪右エ門の魚味所(うおみどころ・料理屋)を竜宮城にしたて、島の美女を集め、「姫子」のふんする乙姫様の侍女としました。

舞台装置も整い、ちょうど一年前太郎が遭難したその日です。漁船が遠く見守るなかを、大浦崎から亀に乗った太郎は一路竜宮城へと旅立ちました。

青い海と虹のように拡がる岩間をとおり、竜宮城を目の前に見た時、さすがの太郎も自分の目を疑いました。

とくに、脳裏を錯乱させた乙姫の姿を見た時は、強いショックでその場に倒れてしまいました。

つぎに、目を開いたとき、太郎の目は生き生きとし、顔には紅が増し、きりっとした姿になっていました。

そして……。「母者!!母者!!」の声……。遂に太郎はよみがえったのです。

しっかり抱き合う母と子、涙あふれる姫子と豪右エ門、村人たちに祝福されて太郎と姫子が結ばれたのは当然です。

この物語は、志賀島の伝説「野人、田ノ中豪右エ門物語」として、太郎と姫子のロマンスが語り継がれてきたもので、二人が愛を誓い合った二見岩、海の守護神志賀海神社境内に残る亀石、

竜宮城を思わせる赤、白、黒の岩と美しい海岸線など、この美しい愛情物語が、この地に行き続けてきたのは、その温床となるべき素材があったればこそといえましょう。

                                                                  (福岡県の郷土のものがたりより抜粋)

 


玄界灘の浜辺と千鳥ヶ池ウォーク(福岡県古賀市)

2020-12-19 11:01:13 | ウォーキング

12/16(水)ふくおかウォーキング協会の年内最後の楽しいウォークは、古賀市の「玄界灘の浜辺と千鳥ヶ池ウォーク」でした。

今日は、寒波が押し寄せ風が強く時々小雪が舞っています。寒いです。参加者の皆さんは、防寒着を着て寒さ対策をしています。

集合場所は、JR千鳥駅。受付をしていますが、寒くて震えそうです。それでも参加者は44人でした。

 

千鳥駅から海岸に向かって歩きます。

 

 

相島は、江戸時代鎖国政策をとる中で唯一国交を結んでいた朝鮮からの朝鮮通信使をこの島で接待し文化交流の舞台となった所です。

この場所は、夕日の名所として知られています。

 

花鶴川の上流は大根川です。

  

最初の休憩場所が「花鶴ヶ浜公園」です。公園内を見てみると、大きな鳥が・・・・・合鴨かな?

 

リ・スタートします。花鶴皇石公園の所に、「最澄」の像があります。

最澄は、遣唐船で延暦23年(804)に唐に渡り、天台宗の仏道をおさめて日本に帰りました。最澄の乗った船は肥前に向かって進みますが、途中、嵐に遭い、古賀の浜に着きました。

一夜明け一命をとりとめた最澄は葦が生えている浜に向かってほっと一息つきました。濡れた衣を乾かすため小高い所に登っていくと、昨日とは打って変わった静かな海が広がっています。

頭上では鶴が飛び交い始め空には何千という鶴が舞いやがてエサを求めて葦の生い茂る浜に降りてきました。美しい光景に見とれていた最澄は、はっと我に返って「快哉如花鶴」と叫びました。

それで大根川と青柳川の合流点から下流を花鶴川と呼ぶようになりました。

花鶴皇石公園は、街づくりの会によって造られたそうです。

 

 

2回目の休憩場所が、リーバスプラザ古賀です。

 

リーバスプラザ古賀では、昨年12月亡くなられた「中村 哲」さんのパネル展が行われていました。

中村哲さんは、小学校1年生から20代後半まで古賀町(現古賀市)で過ごされました。古賀市の名誉市民にも選ばれています。

 

 

10分ぐらい休憩し再スタート。

  

千鳥ヶ池公園を過ぎると、文教地区なのか、学校が立ち並んでいます。玄界高校、千鳥小学校、古賀北中学校、古賀特別支援学校・・・・

  

11:40 千鳥駅にゴール。

今日のGPSです。

来年は、1/6の楽しいウォークから始まります。

 

 

 

 


「長垂(ながたれ)公園と大塚古墳」(福岡市西区)

2020-12-17 17:25:22 | ウォーキング

12/12 ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、福岡市西区の「長垂(ながたれ)公園と大塚古墳」でした。

ふくおかウォーキング協会の毎月の日程は、毎週水曜日が「楽しいウォーク」、第一土曜日が「例会」、第二土曜日が「サタデーウォーク」、第一か第二木曜日が「やさしいウォーク」です。

以前は、この日程の他に20kmぐらいの「長距離ウォーク」も行われていましたが、会員さんの高齢化につき現在は中断しています。

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集合場所は、筑肥線JR今宿駅。参加者は、36人。9:30スタート。先ず海岸に向かいます。

 

昔は、このあたり長垂海水浴場でしたが、開発が進み、海の水が汚れ次第に寂れてきました。現在は長垂海浜公園としてよみがえっています。

夏は、この海岸で花火大会が行われます。(今年はコロナの影響で中止)

 

八雲神社です。祭神は、素戔嗚尊(天照大神の弟神)、櫛稲田姫命(素戔嗚尊の妻神)、大己貴命(大国主命の別名で素戔嗚尊のお子神)。

この神社では、五穀豊穣を願って行われる今宿青木獅子舞が元旦に境内で行われます。

  

七寺川は、昔、今宿、上ノ原にある鉢伏山金剛寺が持っていた7つの小院(寺)から名付けられました。二級河川です。

福岡県警射撃場グラウンドの下の田んぼでは、毎年9月「田んぼアート」が開催されます。

 

上ノ原公園で休憩。

 

栄昌寺です。お寺の由来が書かれていますが、長いのでまとめてみます。

戦国時代の天文11年、念誉行明上人は荒廃した人心の救済を願い、博多の町に浄土宗「榮昌庵」を創建されました。

 爾来、江戸・明治・大正・昭和と世が移る中、四世紀半余にわたり、寺社周辺や縁りに方々の魂と心の支えとして歩んでまいりました。

 平成14年4月までは、博多区片土居町(現・博多座前)に所在していましたが、昭和20年6月19日の福岡大空襲で、当寺は本堂をはじめ全て灰燼に帰し、境内地にあった墓石の大半も被災しました。

戦後焦土から仮堂を経て、法燈を継ぎ、平成14年5月に新しき仏縁を得て、今宿の清浄な台地で復興いたしました。

 福岡大空襲の数日前、当山二十五世玉見冏真(げいしん)住職は位牌堂の阿弥陀様と過去帳を空井戸に投じて難を免れましたが、
旧十五銀行福岡支店地下に退避された住職一家は60余名の方々と共に還らぬ人となりました。
地上に戻られた阿弥陀様は本堂に安置されました。

 このように戦火の大波を受けた当寺は、戦争の悲惨さと愚かさを繰り返さないためにも、戦災の記憶を風化させてはならないという使命感を持ち続けています。                                                             合掌

 

栄昌寺じゅうご地蔵尊・・・第二次世界大戦末期の昭和廿年(一九四五)六月十九日福博大空襲の際、かねて避難所に目されていた元十五銀行ビル(現博多リバレイン、博多座)の地下室に退避した地域の人達のうち、壁が高温化する危険を予感して無理にシャッターを揚げ屋外に逃れた人は助かったが、周囲総ての火災で電源が切断された後の地下室はシャッターの開閉できず、

外部の人は地下室の危急存亡に一人として気づくことなくただ必死に東公園目差して逃れつつあった。高温はじわじわ炎熱の地獄と化し閉じ込められた六十三名の人達から
滲み出た脂汗が、踝を没する深さの溜となる惨状を呈し全員そこで生命を落とされた。同30年6月18日戦災十周年に際し遺族の皆さんが発起人となり博多区上川端町栄昌寺境内に地蔵様を建立さた。「十五」ビルと「銃後」並びに「自由御」地蔵の三つの言葉を祈りの心として「じゅうご地蔵尊」と稱名された。焼夷弾で伽藍総てが灰儘に帰した同寺は半世紀ぶりに西区今宿町へ移転復興するに

伴いこの地蔵様も同寺内に移られたが歳月を重ねる間に尊像の傷みも増しつつあり、この度栄昌寺婦人会が浄財を拠出して堂宇を新築寄進しました。戦火により非憤の生涯を了えられた人達の

供養と、戦争の悲惨さ更に平和の尊さを、この地蔵様を体していつまでも後世に語り伝えたいと念ずるものです。
浄土宗 栄昌寺婦人会

 

大塚古墳・・・今宿古墳群の一つ「大塚古墳」は、高祖山の丘陵にある前方後円墳で、長さ64m、高さ6.5m、全部土を盛って造っています。墳丘の周囲には空掘と外堤があり、円筒埴輪、馬、

人物埴輪などが並んでいました。墳丘の形状がよく残っているため、遠くからでもその整った姿を見ることができます。福岡前原道路の側にあり、廻りは住宅街に囲まれており、

市民の憩いの場となっています。

 

 

大塚古墳からゴール地学研都市駅に向かいます。途中、保育園の園児から可愛い声援が送られてきます。

学研都市駅に近くには、福岡大学野球グラウンド、福岡大学付属大濠高校のグラウンドがあります。大濠高校は、秋の九州大会で準優勝しており、来年春の選抜大会の有力校です。

 

学研都市駅前の山の鼻古墳公園がゴールです。山の鼻古墳も今宿古墳群の一つです。墳丘長約44m、後円部径約27mの前方後円墳で、古墳時代前期(4世紀)に築造されたものです。

今宿古墳群のなかでも最も古い時期に築かれた古墳です。これまでに数回発掘調査を行い、墳丘の斜面には葺石(ふきいし ※古墳の墳丘の表面に敷きつめた石)があったことがわかっています。

墳丘周辺からは赤い顔料のついた板石(いたいし ※板状の石)などが見つかっており、埋葬施設は竪穴式石室であった可能性があります。山ノ鼻1号墳は現在整備が終了し、

2016(平成28)年度から公開をしています。

  

11:30ゴール。今日のGPSです。

 

 


歴史の伊都国散策(福岡県糸島市)

2020-12-13 11:58:43 | ウォーキング

12/9(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「歴史の伊都国散策」でした。魏志倭人伝に出てくる「伊都国」には、歴史的にも多くの遺跡が残っています。

今日は、その一部を見て回ります。集合場所は、JR周船寺駅。参加者44人。スタート前、家内が100回参加の表彰を受けました。

 

周船寺駅裏の畑には、10月ごろまで畑一面コスモスが咲いていました。現在は刈り取られています。

  

今宿古墳群とは、今宿平野に築かれた古墳群。4世紀中頃~6世紀に築かれた前方後円墳13基(うち現存は11基)と350基以上の群集墳が東西3km、南北1.5kmの範囲に分布しています。

このうち7基の前方後円墳が国指定史跡となっています。この中の一つ「飯氏二塚古墳」は、標高30~35mの低丘陵上に立地、全長約50mの前方後円墳。後円部径約25m・前方部幅約35m、

2段築成で葺石を備える。埴輪は見つかっていない。後円部中央に構築された横穴式石室は石材のほとんどが持ち出されてしまい、破壊が著しい。出土遺物は装身具や馬具、須恵器など。

6世紀初頭~前半頃の築造。国指定史跡(今宿古墳群)、2004(平成16)年指定。

飯氏二塚古墳を下りていくと、県立筑前高校があります。歌手山内惠介さんの母校です。

  

染井の井戸

日本書紀は仲哀天皇の皇后を神功皇后(息長足姫尊)といいます。九州地方に、クマソ一族が強い勢力を持っていたという時代。大和朝廷の威力を広げるため、奈良を出発した天皇の軍隊は、

クマソとの戦いで仲哀天皇が、敵の矢にあたり陣中で亡くなられます。クマソの勢力が強いのは、新羅(朝鮮半島東南部)の後押しがあるからだと判断され、玄界灘を渡り新羅へ

軍を進めようとされました。皇后の軍が、怡土の山麓に本陣を置いて、滞在されたときは、大和の国を出て、すでに二年余りが過ぎていました。仲哀天皇は亡くなられ、将兵は悲しみと、

戦いの旅に疲れ果てて、故郷恋しさの思いが、全軍の心を重たく包んでいたのです。皇后は、みずからも男装し、悲しみをのりこえる勇気をふるい立たせるため、将兵たちに一つの奇蹟を祈ろうと

思われました。ある朝、皇后は将兵をつれて近くの泉に行かれ、一つの白生地のヨロイを手に高くさし上げて見せられました。このヨロイは、九州の朝倉の戦いで亡くなられた夫、仲哀天皇の

まだ使われていないヨロイの一つです。「皆の者、われらは天皇の意思を継ぎ、今遠く海を渡り、新羅の国へ進もうとしている。昨夜、不思議な神霊のお告げが私に現れた。

もし、この泉でヨロイが赤く染まることがあれば、この戦いは必勝である。万一染まらないならば望みなし。早々に軍を引き返したがよいとのお告げ。みなの者、心を静めて見つめるがよい。」

ヨロイは全軍が見守る中、静かに泉の中に沈められます。一刻、二刻の後、再びゆっくりと引き上げられたヨロイに、奇蹟がおこりました。真清水の泉から現れた白生地のヨロイは、

色も鮮やかな真紅色に染まってキラキラと、したたり輝いているではありませんか。「勝ちいくさだ。」皇后も将兵も吾を忘れて朝空に叫びました。うち沈んでいた全軍の士気が、

ふるい立ったのは、もちろんです。ヨロイは、やがて近くの松の枝にかけて干されました。この松は古来より「ヨロイ掛けの松」と称し、見事な枝ぶりの巨樹となり、近くの染井神社の境内に

生存したことを「筑前国続風土記」に貝原益軒が書いています。
近年になり、この松は枯死し、その幹株が染井神社に保存されています。この後。皇后の軍は西(二丈町)へ向かって出発し、深江の子負が原海岸で必勝と海路安全と安産を祈り、

二つの玉石を懐中にして船出されます。軍が日本へ帰還の後、皇后が御出産されたのが応神天皇と神話は伝えます。安産祈願に懐中された石を祀ったのが、鎮懐石八幡宮です。

軍が深江へ向かう途路「飯原」で駐屯された時、雉の鳴く声が琴の音のようにひびいたという吉兆の場所に雉琴神社が現存しています。神功皇后に関する伝説神話は、瀬戸内海から北部九州沿岸の

いたる所に、鞍かけ石、馬つなぎ石、櫛置き石、船出浜など数多くの遺跡が点在します。染井神社は、神話を秘めた古式の雰囲気を今も山中にただよわせる社です。

福岡藩六代藩主、黒田継高はこの地に遊び神水を汲み、歌を献じています。

濁りなく音をうつす鏡とは けふぞ初て三染井の水     前原市  (案内文より)

井戸の中を覗くと草が生い茂り水を見ることができませんでした。

  

染井から国史跡「怡土(いと)城址」に向かいます。

  

怡土城は、糸島市と福岡市の境にある高祖山西斜面に築かれた奈良時代の山城です。「続日本紀」には、756年(天平勝宝8)6月から768年(神護景雲2)2月まで約12年を要して

完成されたと記されていて、築城の責任者には太宰大弐(太宰府の長官)であった吉備真備でした。

遺構には北西屋根線上に五か所、南西線上に一か所の望楼跡(物見櫓)があり、山裾には、南北約2kmにわたって土塁(防御用の堤防、復元高10m)が走っています。

これまでの調査では部分的ではあるものの土塁の前面にはテラス状の構造が確認され、土塁の外側には幅15mの濠があったともわかっています。

怡土城の特色の第一点は、正史に築城の担当者とその期間が明確に記載され、遺跡の所在地も確認されていることです。

第二点は、築城する際に中国式山城の築城法が採用されていることです。朝鮮式山城は土塁を山の等高線に沿って「はちまき」状に築きますが、怡土城は、高祖山の急斜面から平地部にかけて

「たすき」状に土塁を設けています。この背景には、遣唐使として二度にわたって中国に渡り、特に兵法に長じた吉備真備の存在があると考えられます。

第三点は築城の為「防人」までも動員していて(続日本紀)、急を要する事業であったことが伺えることです。

この築城の目的については8世紀ごろ新羅征討が論じられた際にその一環として築城されたと考える説と唐で755年(天平勝宝7)に勃発した「安禄山の乱」に備えるためと考える説があります。

更に海岸部と日向峠(ひなたとうげ)を見渡すことができ、「主船司(船を管理する役所、現周船寺)とも隣接したことからこれらを含めた軍事的構想の下で築城されたと理解することができます。

その後中世(戦国時代)の糸島を支配した原田種継氏はこの場所を再利用して「高祖城(たかすじょう)」を築き、1587年(天正15)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで拠点としました(案内文より)

※吉備真備と安禄山の乱は、クリックすると説明されます。

然し、8世紀ごろ、中国で起こった内乱がすぐ日本に伝わってその防御のために築城するなど、今でこそ携帯、PCがありますが、この時代の通信はどのようなものであったのでしょうか?

 

  

伊都国ファームパークで休憩。

 

細石神社(さざれいしじんじゃ)・・・木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)、磐長姫命(いわながひめのみこと)の姉妹二社を祀る神社。旧社名は、佐々禮石神社。

伊都国の中心部にあり、神田も多く大社でしたが、兵乱によって社殿を焼失してしまいました。さらに天正15(1587)年、豊臣秀吉の太閤検地によって神田が没収されて衰退。

祭日に行われていた儀式・流鏑馬(やぶさめ)も途絶えてしまいました。寛永(1624〜1644年)の末、庄屋小原金右衛門(おばらきんうえもん)という人物が、社前に81間の馳道を作って

流鏑馬を再興しましたが、現在は行われていません。

この神社の西側には、伊都国の王と后とみられる「三雲南小路遺跡」があります。

   

11:55 ゴールの伊都菜彩に到着しました。

伊都菜彩は、糸島の農家が心を込めて育てた生産物を、新鮮で安く消費者の皆様にお届けするために、平成19年4月に生まれたJA糸島直営の直売所です。

伊都菜彩で、家内の参加100回記念ということで「赤飯」を買い隣のいとうどん店でいただきました。

 

今日のGPSです。

 

 


歩いて古賀SAに立ち寄り玄界灘を遠望(福岡県古賀市~福津市)

2020-12-07 13:17:26 | ウォーキング

12/5(土) ふくおかウォーキング協会12月の例会は、「歩いて古賀SAに立ち寄り玄界灘を遠望」でした。

集合場所は、JR古賀駅。参加者52名。今回は、チビッ子会員の小学1年生の蒼汰君、蒼汰君の妹、3歳の葵ちゃんも参加しました。

9:30 スタート。

 

  

古賀竟成館(こがきょうせいかん)高校を通り、国道下の歩道用トンネルを通ります。

 

大根川沿いの筵内校区に入ります。筵内は、毎年3月に菜の花祭りが行われ、これに合わせ、JRウォークなどが行われていましたが、今年はコロナの影響で中止されました。

薬師如来像板碑は、昔、筵内に疫病が流行した際に大根川の岸に建てられていたのが洪水で流され、後にそれぞれが現在地に移されたと伝えられています。

  

弘法大師と大根川・・・平安時代、空海(弘法大師)諸国行脚の途中に筵内に寄った時に「南無阿弥陀仏」と唱えながら金剛杖をついた空海が大根川の上流に差し掛かり、

空腹になったので橋の上から水面を眺めていたら、1人の老婆が大根を洗っていたので、分けて欲しいと頼んだが老婆は空海が偉い僧侶と知らず、またみすぼらしい格好だったので、

怒って川の水を掛けた。空海は吃驚したが、もう1度頼んだ。しかし、老婆は顔を真っ赤にして石を投げ、その石が空海の顔に当たって血が流れた。空海は静かに「人面如夜叉」と唱え、

杖を3度地面についた。空海は見た目だけで相手を判断して応対する態度に激怒し、戒めのために大根川の水を干上がらせてた。この逸話から「大根川」という名前がついた。

それからの毎年大根を洗う季節になると筵内では老婆の戒めのために水が表面を流れなくなるという。(ウィキペディアより)

この話は、県内でもみやま市山川町、朝倉市などにもあります。特徴として、それぞれその川を大根川と呼んでいます。このことは、当時の人々がお大師様の偉大な力にすがりたいという

夢や願いが人としての正しい生き方を教える物語として忘れることのないよう語り継がれています。

 

須賀神社の大楠は、樹齢約400年、幹回り4,18m、高さ18m、枝の広がり20mです。

谿雲寺(けいうんじ)が最初の休憩です。

  

休憩の後、再スタート。県道503号線沿いに歩きます。ここから古賀SAまで緩やかな上りが続きます。

途中、入口に石灰を撒いている所がありました。養鶏場かな?鳥インフルの予防でしょうか? 先日も福岡県宗像市で鳥インフルが発生しました。

 

8年前、個人で唐津街道(若松~唐津)を歩きましたが、あのころは、歩道もなく大型トラックが行き交う道路で歩くのが怖かったですが、今は、道幅も歩道も広くなっています。

 

九州道古賀SAに到着。ここで2回目の休憩。SAで玄界灘を見ていると、相島の右奥に小さな島が見えます。てっきり、世界遺産の「沖ノ島?」かなと思いましたが、

沖ノ島は、宗像市大島から約50kmですのでこんなに近くには見えないと思います。というと、この島は、福岡市の最北端の小呂島ではないでしょうか?

 

 

11:05 古賀SAを再スタート。歩いていると左側に「旦ノ原井戸」と「伊東忠平の碑」がありました。

旦ノ原は、糟谷・宗像二郡の境で筵内、薦野(糟谷)、内殿、上西郷(宗像)の四村に跨る丘陵一帯のことをいいます。ここは、唐津街道といって参勤交代の要路でしたが、丘陵にあるため

水がなくて困っていました。この実情を当地に住んでいた「伊東忠平」が大庄屋の石松林平に訴えて井戸を掘ることをお願いした所、これが許され、伊東忠平の屋敷に文久2年(1862)の秋に

井戸を掘り始め、翌三年秋に出来上がりました。以来、住民にも旅客にも便利になり、この井戸の事を「二郡四ヶ村井戸の一つ」と呼ばれるようになりました。

往時は、唐津街道の峠の茶屋として旅人たちの休憩場所だったそうです。

旦ノ原井戸の先が、古賀市・福津市の市境です。飯盛山には、昔、山城があったそうです。

 

 

歩いていると左側に竹で通行止めにしている所がありました。ここが旧唐津街道の難所「ならの木峠」です。峠付近にはみかんが植えられていますので盗難防止の為通行止めになっているのでは?

旧唐津街道は、ここから内殿橋で合流します。

 

 

最後の休憩場所が福間生産者直売所です。

 

12:25 福間駅にゴール!

今日のGPSです。11kmのウォーキングでした。

 


福岡市内三庭園の紅葉を巡るウォーク(福岡市博多区、中央区、城南区)

2020-12-04 05:44:37 | ウォーキング

12月になってふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「晩秋の福岡市内紅葉の名所(三庭園)を訪ねる」でした。

12月と1月は、私たちのグループが担当します。

集合場所は、博多駅筑紫口。待っていると、市内の中学生の団体が入ってきました。聞くと、新幹線4両貸切って今日から2泊3日で京都、奈良に修学旅行だそうです。

コロナ禍で大変でしょうが、いい思い出を作ってほしいものです。(因みに僕らの時は、夜行列車で南九州でした。もう50年以上前の話です)

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今日の参加者は、51人。ストレッチの後、9:30スタート。

 

最初に立ち寄ったのが「楽水園」(らくすいえん)

楽水園は、明治39年に博多商人、下澤 善右衛門 親正(しもざわ ぜんえもん ちかまさ)が住吉別荘を建てた跡地。
親正は、父尚正(なおまさ)と親子二代にわたり、家業と並んで福博の発展に貢献した人物で、「楽水」とは、親正の雅号です。

戦後は、旅館「楽水荘」として使用され、平成7年に福岡市が池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の日本庭園として整備、開園しました。その際に、本園の名称もその由来を受け継ぎ

「楽水園」と名付けられました。下澤善右衛門については、資料がないのでわかりませんが、小間物商で国立17銀行の設立にかかわった方だそうです。

福岡市立の庭園では、コロナ対策の為、全員にアンケートの提出が義務付けられています。全員に書いてもらい提出しました。また、庭園では、65歳以上の市民は、入園料が無料です。

楽水園の紅葉は、ちょっと盛りを過ぎたかな?と思われましたが、まだ綺麗でした。

   

最初の休憩は、渡辺通り九州電力ビルです。こちらにも庭園があり、紅葉を見ることができました。

  

薬院駅から浄水通りを経て「松風園」へ。

 

松風園」とは、昭和20年代に建設された茶室と日本庭園を有する公園です。
かつて福岡を代表する百貨店として人気を博した「福岡玉屋」の創業者・田中丸善八翁の邸宅「松風荘」の跡地を新しく整備し、平成19年に「松風園」として開園。
田中丸家が愛用した茶室「松風庵」は、当時のままの状態で保存されています。

松風園のイロハモミジは、今が一番きれいなときでした。園内では、結婚式の前撮りが行われていました。

 

 

松風園のあと、2回目の休憩所が小笹中央公園です。

 

10分ぐらい休憩の後、最後の庭園「友泉亭公園」へ。ここまで約8km。皆さんに紅葉を楽しんでもらおうと、ここで仮ゴールにします。

友泉亭公園は、黒田家六代藩主継高公が宝暦4年(1754年=江戸時代中期)に別館(別荘)として設けた由緒ある「友泉亭」を、福岡市で初めての池泉回遊式日本庭園として整備したもの。
平成10年3月には福岡市指定名勝となり、奥ゆかしき日本の美を漂わせる歴史公園として今日親しまれています。
「友泉亭」とは久世三位源通夏卿が「世に堪へぬ 暑さも知らず 沸き出づる 泉を友とむすぶ庵は」と詠じた歌の意から名付けられたものです。。

  

公園内には、2700坪の敷地の中に約150本の楓が色づきます。福岡県内第5位の紅葉スポットです。

公園内を廻ってみます。このコース今月中旬ごろ下見に行きましたが、その時はまだ緑が多かったのですが、2週間でこんなに色づいています。

  

 

 

 

 

友泉亭を後に本当のゴール地下鉄六本松駅に向かいます。

六本松というと、先月、俳優の福岡出身グルメ通「松重豊さん」がテレビの取材で行かれた「大島ラーメンあずまや」に立ち寄ってみました。

大島ラーメンというのは、長崎県西海市のラーメンです。私がチャンポン、家内がラーメンを注文しました。

味は、塩豚骨スープです。そんなにこってりしてなく、おいしくいただきました。(塩味がちょっと濃いかったかな?水が欲しくなりました)

  

今日のGPSです。