12/20 協会のウォークも正月休みに入りましたので久しぶりに志賀島に行ってきました。
志賀島は、歴史の教科書に出てくる「漢委奴国王」の金印出土地として知られています。周囲12km、面積5,87k㎡の島で玄界灘と博多湾の境に位置します。
先ずは、勝馬の方から。ここからは、玄界島、小呂島、糸島半島などが見渡せます。玄界島の後方は、小呂島です。
金印公園
天明4年(1784)に発見された金印「漢委奴国王」は、弥生時代の紀元57年、奴国の国王に中国、後漢王朝が送ったとされます。
この金印は、縦、横2,3cm、重さ108g純金製で、つまみには、とぐろを巻いた蛇の形をしています。発見者は、百姓甚兵平の雇人秀治と喜平。
古記録によれば、田を耕して大石の下より金印掘り出すと書いてあります。詳しいことは、福岡市博物館HPをご覧ください。
金印は、大切な公文書や荷物の封印に使われていたそうです。荷物や文書を入れた箱を紐で縛りその結び目に付けた粘土に金印を押して封をし、文書の秘密を守る鍵のような役目を
果たしていました。
金印公園展望台です。眼下には博多湾、能古島、糸島半島が見えます。JR九州のビートルもここを通って釜山に行っていましたが、コロナの為現在運休しています。
志賀海神社 古代海人族安曇氏(あずみ)が祀る神社です。古事記には、阿(安)曇連は、その綿津見神の子、宇津志日金柝命の子孫なりと記されています。
志賀海神社の御祭神は、「綿津見三神」です。綿津見三神は、伊邪那岐命の禊の際にご出現された禊祓の神様です。
黄泉の国より戻られた伊邪那岐命は、日向橘の小門の阿波岐原で禊祓をしました。この時、海の底の方に潜った時に生まれたのが「底津綿津見神」、中ほどにいた時に生まれたのが
「仲津綿津見神」、水の表面で生まれたのが「上(表)津綿津見神」。相殿は、左が神功皇后、中が玉依姫命、右が応神天皇です。
綿津見三神は、海の底、中、表を守り給う海の主宰神です。海上交通を始め、潮、魚介類といった海産物のお恵みをもたらす神と信仰され、また禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、
更に水と潮を支配し、潮の満千によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶を左右されるとされています。(志賀海神社HPより)
信州の安曇野(穂高神社がある)、愛知県の渥美半島など全国に足跡を残す阿(安)曇氏ですが、ルーツは、この志賀島にあります。彼らは高い航海術を持っており、安曇族の磯良は
神功皇后の三韓征伐には水先案内人を務めています。
筑紫の磐井の乱では、磐井の方に加担し、ヤマト政権と対立しました。磐井の敗北の後、志賀島を離れ、信州や渥美に逃れました。
志賀海神社には、神功皇后の伝説が残っています。
亀石 遥拝所 その昔、神功皇后が三韓へ出兵される際、正面対岸の打昇浜にある亀ヶ池・亀栖池の辺りにて無事凱旋出来るよう安曇磯良丸を通じ祈願され、七日七夜のお神楽を奏されました。
すると黄金雌雄の亀に乗った志賀明神と勝馬明神が御出現され皇后へ千珠満珠の玉を授け、船の舵と航路を守り導くと伝えられ、黄金雌雄の亀は亀ヶ池、魚住池に放たれましたが、
後に石となって現在の金印公園近くに現れ、寛文10年(1671)4月11日に社前に納められました。(案内文より)
安曇一族を祀っている「今宮神社」、案内板によれば、
御祭神 宇都志日金柝命 、 住吉三神 、天兒屋根命、 阿曇 磯良丸命をはじめとする神裔阿曇諸神
御神徳 盗難除け、航海船舶の安全、出世開運、合格
御由緒
『古事記 』に「此の三柱の 綿津見神 は阿曇連等が祖神ともちいつく神なり。 かれ、阿曇連等は、その綿津見の神の子、宇都志日金拆命の子孫なり」記され、
綿津見三神を奉祭するのは、宇都志日金拆命の子孫である阿曇家となっている
当社は代々 阿曇家 が宮司を奉職しており、阿曇家の祖神である宇都志日金拆命は 綿津見三神に仕える者の祖神として奉祀されている
また、神功皇后三韓出兵 の際に出現された阿曇磯良丸命は、当地龍宮より 干珠満珠を借り賜って海上指揮に仕えたと伝えられる
宇都志日金柝命の子孫が安曇族の祖神になります。
山の神 箱根駅伝の山登りのランナーではありませんが、海と山は密接な関係があります。「山たて」と呼んで船は山を目標にして航行し、山が豊かであるほど栄養のある水が海に流れ込み、
そこに魚がたくさん寄ってきます。海に生活する人達にとっても山は貴重な存在でした。そのため、春秋2回(4/15、11/15)五穀豊穣豊漁を祈願する「山誉祭」が行われます。
その神事では、古老である社人が「あゝらよい山、繁った山」と誉め称え弓を引き釣りに行く様子が表現されます。この祠に不要の財布を納めると財運が開けるといわれています。
志賀海神社から港の方に行ってみました。ちょうど船が入ったところでお魚の仕分けをされていました。
志賀海神社の参道を歩いていくと、左側に干物屋さんがありました。この干物屋さんは、福岡のデパートにも卸されています。
お酒のアテに干物を何枚か買いました。
さて、最後に博多華丸さんがお薦めの中西食堂の「サザエ丼」です。開店が11時でしたので11時半ごろお店に入りました。
今日は日曜日ですので行列ができているのでは?と思いましたが、店の中に入るとすんなり通されました。(私たちが入った後から行列になりました)
店内には、有名人の色紙が貼られています。勿論華丸さんのもありました。
10分ほどでできました。これが「サザエ丼」です。サザエが2,5倍の分は、「曙丼」というそうで横綱曙が当店に来られた時に注文されこのネーミングになったそうです。
サザエ丼は、親子丼みたいに玉子でとじ、サザエ、エビ、玉ねぎが入っています。味は、少し甘めの味でしたが、おいしくいただきました。
《追記》
志賀島にも浦島伝説があります。この伝説は、浦島伝説とは、少し違います。
そのむかし、志賀島は島の表側を礎鹿(しか)と呼び、裏側にあたる勝馬地区を浦島(裏島)と呼んでいました。この浦島に太郎と呼ぶ十八歳の青年が年老いた母と一緒に住んでいました。
太郎はこの村でも一番の働き者で頭も良く、村の郷長(こおりのおさ)田ノ中豪右エ門(たのなかごうえもん)の一人娘「姫子」と、似合いの夫婦になるだろうとウワサされていました。
夏も終わりに近いある日のことです。太郎は島の突先にある大浦崎に魚釣りに出掛けました。格好の岩場を見つけ釣り糸をたらしていましたが、日頃の疲れが出たのか、
ついうとうと寝てしまいました。何時間たったのか、岩に砕ける波の激しさにふと眠りを覚ますと、激流に押し流されたのか、こけむした亀が傷だらけで打ちのめされていたのです。
太郎は以前母から教わった薬草のことを思い出し、付近の草むらをかきわけ餅草を見つけ石ですりつぶし、亀の傷口につけてやりました。ほっとして、亀を海に放してやったときです。
今まで激しかった荒波は、雷鳴とともに太郎に襲い掛かってきました。必死に岩にしがみついて波にさらわれないように苦闘するうちに、太郎はついに気力を失い、
その場に打ちのめされてしまいました。
一夜が明けました。村人たちは、昨夜から帰らぬ太郎の安否を気遣い、海岸一帯を探しまわり、岩場にうつぶせになった太郎を見つけ出しました。
まだ、かすかに息はありましたが、その姿は死人同様です。
この話を聞いた豪右エ門は、早速家伝の秘薬「赤実礼(せきれい)」(くこの実だったといわれる)を与え、村人とともに必死の看護をしたため、一命はやっととりとめることができました。
しかし太郎は生あるのみ、当時不治の病と怖れられていた振身能(ふれみの・今のノイローゼ)におかされ、空言のようにとてつもないことを口走るばかりです。
「助けた亀で竜宮城に行った……」「乙姫様と海底で遊んだ……」とか……。
母は太郎をたしなめなんとか治そうと神仏にお願いしますが、どうしても良くなりません。
豪右エ門もいったん婿にと心に決めた男、わが娘「姫子」への不憫さも手伝って、一大計画をたてました。太郎の空言を現実に作り出そうというものです。
志賀島の海岸線は、今でも美しい大小の岩が浮かび白い波にはえて、おとぎの国を思い出させる姿ですが、この岩を赤、青、白、黒と色とりどりにそめ、
豪右エ門の魚味所(うおみどころ・料理屋)を竜宮城にしたて、島の美女を集め、「姫子」のふんする乙姫様の侍女としました。
舞台装置も整い、ちょうど一年前太郎が遭難したその日です。漁船が遠く見守るなかを、大浦崎から亀に乗った太郎は一路竜宮城へと旅立ちました。
青い海と虹のように拡がる岩間をとおり、竜宮城を目の前に見た時、さすがの太郎も自分の目を疑いました。
とくに、脳裏を錯乱させた乙姫の姿を見た時は、強いショックでその場に倒れてしまいました。
つぎに、目を開いたとき、太郎の目は生き生きとし、顔には紅が増し、きりっとした姿になっていました。
そして……。「母者!!母者!!」の声……。遂に太郎はよみがえったのです。
しっかり抱き合う母と子、涙あふれる姫子と豪右エ門、村人たちに祝福されて太郎と姫子が結ばれたのは当然です。
この物語は、志賀島の伝説「野人、田ノ中豪右エ門物語」として、太郎と姫子のロマンスが語り継がれてきたもので、二人が愛を誓い合った二見岩、海の守護神志賀海神社境内に残る亀石、
竜宮城を思わせる赤、白、黒の岩と美しい海岸線など、この美しい愛情物語が、この地に行き続けてきたのは、その温床となるべき素材があったればこそといえましょう。
(福岡県の郷土のものがたりより抜粋)