よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

メジロ

2011-01-27 13:59:48 | 自然観察
福岡は、今年になってまだ一度も最高気温が10度を超えてない。
昨年の日記をみてみると、もうこの時期白梅が何輪か咲いているのに今年はまだまだ蕾。

メジロも花が咲いていないから我が家をいつも素通りしていく。
そのため、梅の木にミカンをつけてみた。
すると、メジロがやってきました。



おいしそうにミカンを吸っているメジロ。
だが、このあと鳥のギャング「ヒヨドリ」にミカンを横取りされてしまった。・・・・・・





長崎街道を歩いています。№4(永昌宿~大村宿)

2011-01-22 15:45:54 | 長崎街道歩き
昨日(1/9)は、永昌宿に到着後、予約していた島原温泉のホテルに行った。
足が凝っていたため温泉で足を揉み今日の街道歩きに備えた。
今日の予定は、永昌宿から行ければ嬉野まで歩きたいのだが、生憎の空模様。
家内の妹からのメールでは、福岡は雪で高速道も通行止め区間があるとのこと。
とにかく、行ける所までいってみよう。
ホテルを8時半出発。
島原のホテルを出た頃は、薄日が差していたのに諫早に近づくにつれ空模様が怪しくなってきた。
諫早駅に9:50着。車を置き、前日のゴール地点まで歩いていく。
10:00今日のスタートです。

岩茶屋を抜けると凄くりっぱな建物が見えてきます。
見ると「御館山小学校」と書いてある。その横には「鎮西学園」もっと先には、「ウエスレヤン大学」・・・・
このあたりは、文教地区になっています。

国道34号線を渡り、破籠井(わりごい)という地区に到着。
さあ、ここから鈴田峠だ。
この峠は、日野見岳の麓を経て大村市との市境に至るまで長さ1,5km、標高差120mを長崎街道の
一部、「大村街道」と呼んでいる。この区間は、文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれている。


落ち葉を踏みながら一歩一歩歩いていく。サクサクサク・・・・・
何にも手が付けられていないからまるで昔の人になったみたいに歩いている。
歩いているのは私たち夫婦だけ。誰も見ていないから手をつないで歩いていった。

しばらく歩くと大きな岩が見えてくる。これが「陰陽石」だろうか?
そういえば、地図ではこの先に「弁慶の足形石」というのがある。

大渡野番所跡に着いた。
右側に石碑が立っている。

更に進むと弁慶の足形石が見えてきた。
この辺りが、佐嘉領諫早と大村藩の境だろうか?
峠を登ってきたから私たちもここでちょっと休憩することにしよう。
空から、小さい雨が降り始めてきた。今日は、嬉野までは無理だな・・・・
足形石からは下りになっている。



街道の側面には、この近くの鈴田小学校の6年生が植えたのであろうか、松が植えられている。
植えた松には、それぞれ植えた生徒のメッセージが書いてある。
その一部を紹介すると、「桜さく、長崎街道歩こうよ」「旅立つ日思い出いっぱい鈴田小」
「松の木よ 大きく育てギネスのれ」「松の木を鈴田に植えてさらに自然豊かに」
「10年後松の木見ると思い出す6年間の想い出を」・・・・・・
ちょうど一年前の平成22年に植えたらしい。この子達も今年中学2年生になるんだ。
私も一時地域の町づくりの会に所属して21世紀記念として校区の小学生に桜を植えさせたことがあった。
あれから10年、彼らも20代になっていて桜を植えたこと覚えているかな?

坂道を下っていくと渡辺伝弥九の墓があります。
渡辺伝弥九は、キリシタン大名大村純忠とその子大村善前に仕えた。ここは渡辺伝弥九の亡くなった場所。
天草の志岐孫次郎が謀反を興した時、伝弥九は善前の命を受け志岐氏を諌めに行ったが聞き入られず
失意の内に帰路についたが、この地で深い雪に埋もれ家臣、馬とともに亡くなった。
子孫の渡辺清は、維新の立役者として活躍しました。

鈴田峠を降りて地図を広げ確認していると私たちと同年代のご夫婦が峠を降りてきた。
いかにも私たちと同じ長崎街道を歩いている。少しお話をすると諫早から来られたそうです。
このご夫婦と一緒に大神宮まで同行する。
この大神宮付近は長崎街道の休憩所があった場所で往来の人が足を休めた。現在大神宮が建っている場所には
江戸時代古松権現という神社があり、藩主大村純信に再興された。明治に入り他の神社とあわせて
大神宮となった。

大神宮を後に長崎自動車道をくぐり白鳥橋を渡る。
途中、広い道から右側の山道に入る。このあたりが岩松町。昔、岩松城があった所です。
ここから、大きな建物が見える。地図を開くと国立大村病院となっている。
ここから下り、又登り、また下る。アップダウンの連続だ。


国道であろうか、大きな道に出てくる。
時間をみると1時を過ぎている。どこかで昼飯でもと思うが、なかなか食堂が見つからない。
野田神社に着く。
私たちこの長崎街道歩きでは、神社には必ずお参りしていくことにしている。
この野田神社でもお参りをする。

野田神社からまた国道に出る。
長崎街道の表示もある。
歩いていると大きな橋がある。最近出来た橋みたいだ。
次は、松林飯山のお墓に行くんだが、その墓がなかなか見つからない。
地図を見てもこの新しい橋は載っていない。どうも道を間違えたようだ。
この私たちの街道歩き、よく道を間違える。
橋の中ほどに下に下りる階段があったのでそれを降りていく。団地の中を通り、自転車で通る人に
街道を聞いてみるが、あまりご存知ないみたいでそのまま歩く。
雨も相変わらず降り続けている。
大村護国神社という所に出てきた。その神社の前に配達中の車があったのでその方に聞いてみるが
この方もあまりご存知でない。すると家の奥からこの家のご主人が出てこられた。
そのご主人、我が家の家の前が長崎街道だとあたりの場所を詳しく教えてくれた。
このような親切は街道歩きをしている者にとって実にありがたい。丁重にお礼を言って街道を戻ってみる。

松林飯山の墓は、すぐ近くにあった。この辺りが武家屋敷のあった所だろうか?
松林飯山は、江戸の昌平黌でその才能を開花し後の大村藩勤皇派三十七士の首領となって大村藩を
勤皇派に転ずる働きをした。福岡市西区の生まれだそうです。
この近くには、天然痘の治療をした長与俊達の墓もある。

このお墓を超えると先ほど来た護国神社に出てくる。
この護国神社にある旧円融寺の庭園が有名ということで長い階段を登っていく。
この旧円融寺は、承応元年(1652)大村藩主大村純長が創建し、明治元年廃寺になった。
この庭園は、東西50m、高さ8mの斜面を利用した枯山水です。
400個の自然石を使い、三尊方式の石組みを基本とした立石が配置されている。
中央部及び左側には数段の水落石を用いておりいかにも自然の滝の水が落ちているようだ。
川の流れは、白い玉砂利で表している。規模の雄大さと傑出した石組みは江戸初期の庭園様式を
伝えるものとして国の名勝に指定されている。
この庭園には、戊辰戦争の時の戦没者の碑や幕末活躍した大村藩37士の碑もある。





旧円融寺を後に歩いていくと大村宿に入っていく。
アーケードの中に入っていくと商店の前に「大村宿」の看板。
本陣は、大村浜屋デパートの前にあった。




雨も小降りだが、一向に止みそうもない。
時間を見ると午後2時半。
もう少し歩きたかったが今日はここまでにしよう。

昼食を済ませ、大村線15:15分の電車で諫早まで帰る。


※今回の旅費:諫早~長崎 @450 、長崎駅~蛍茶屋路面電車@120
       大村~諫早 @270



長崎街道を歩いています№3(矢上宿~古賀~多良見~永昌宿)

2011-01-19 20:33:41 | 長崎街道歩き
(№2からの続きです。)

矢上番所を過ぎると「矢上の大楠」の看板がある。
どんなものか、大楠のある矢上八幡に行ってみる。
案内看板では、高さ10m、幹周り5,3mと書いてある。
解りにくいので自分で計ってみた。私の腕が1,7mです。どんなに大きいか想像がついたでしょうか?


その横が、矢上神社です。
矢上神社は、長崎県内で最も古い神社です。1281年(弘安4)元寇の国難にあたり、この地の守り神として
鎮祠したのが始まりです。本殿は宝暦3年(1753)創建。
本殿でお参りすると中に天井絵があるからということで本殿の中に入ってその天井絵を見せてもらうと
古い絵がたくさん掛けられている。若しなんでも鑑定団に出したらどのくらいの価値があるのだろうか?



矢上の商店街を曲がり八郎川に差し掛かると右側に大きな碑が建っている。
何だろうと思ってみてみると昭和57年の長崎大水害の碑だ。
碑文を見てみるとここ矢上でも34人の方が亡くなられたそうだ。

街道は「古賀」に向かう。
役の行者神社がある。
修行僧を祀った神社なんだろうか?
説明文を見てみると、「役の行者とは、役(えん)の小角(おづの)という奈良時代の人で奈良の葛城山で荒行を
積み吉野の金峰山で霊感も修行して呪力を身につけたといわれ、後の山岳信仰が盛んになると修験者祖師として
信仰されるようになった。」

この先に領境石がある。
ここから大村領古賀。
楠川の渡しがある。
街道はこの川の石を飛び石して向こう側に渡っていた。

それから少し歩くと「松井糀店」の看板がある。
車が何台か止まっている。
糀屋?と思って店の中をのぞくと「酒饅頭」が売ってあった。
丁度小腹もすいていたことだし、私と家内の分2個注文。(1個@90)
店の方にここで食べていいかと許しを得て頂く。
これって、私が子供のころ、結婚式とか何かで食べたお饅頭とそっくりな味。
何だか懐かしい味がした。

どうも道を間違ったらしい。地図では、札元殉教地があるのだが、見つからない。
仕方ないのでそのまま進むと福瑞寺に出てきた。
街道はここで合流していた。
この古賀地区は、キリスト教伝来以降信仰が盛んになり、ルイス・フロイス著「日本史」では、
文禄2年(1593)頃には、全住民がキリシタンであったとされています。
然し、慶長17年(1612)に出された幕府の禁教令によってキリシタンへの徹底した弾圧がなされ、
この地においてのキリスト教の信仰は歴史の表舞台から姿を消してしまった。
福瑞寺は、このキリシタン撲滅に努めた僧、正哲の功績を賞し、寛永3年(1626)に建立された寺です。
境内には花十字紋入りのかまぼこ型のキリシタン墓碑が残されています。

時計を見ると12時20分。
そろそろお腹もすいてきた。
この街道には、食堂もなく、コンビニもない。
仕方なく平行して走っている国道34号に出てみるとうどん屋さんが向かい同士にある。
方や讃岐うどん、方や地元のうどん屋さん。
どちらに入ろうか迷ったが、私たち4月に香川坂出で行われる「讃岐うどんつるつるウオーク」に出ようと
計画しています。また、一昨年香川丸亀に行った時、讃岐うどんを頂きました。
あの味を思い出し、讃岐うどん店の方に入りました。
ここのうどん屋さん、完全なるセルフ方式の店。
釜揚げが美味しいのだそうですが、肉うどんを注文。やはり讃岐うどん、麺が違いますね。
美味しくいただきました。4月のうどんつるつるウオークが楽しみです。

お腹も落ち着きまた国道を渡って旧街道に合流します。
この古賀地区、付近の家を見てみますとりっぱなお庭があります。それもきれいに樹が剪定されています。
それも1軒でなく、殆どの家が・・・
調べてみますと、「元禄年間(1688~1703)同地区の松原名(地名)の西山俵右衛門が各地の植木盆栽を
研究し、売り出したのが始まりで6代目得衛門の頃は、海外にも輸出した。」
今、中国の富裕層が日本の樹木を買っているときいたことがありますが、この古賀の植木も
輸出されているんでしょうか?

藤棚茶屋跡に着いた。
ここは、長崎から4里7町(16.3km)、諫早から3里18町(13.6km)の地点。
郷土人形として有名な古賀人形の小川家は中里町のこの地にあり、家の前には大きな藤棚がある。
昔は、長崎街道を通る武士や旅人達の休憩所となった茶屋です。
藤の花が咲く頃は、きれいな花で旅人の疲れを癒していたように思われます。

街道を歩いていると本田家の住宅という案内板が目に飛び込んできました。
国の指定重要文化財になっており、どんなものか確かめたくて歩いていった。
この本田家の家は、長崎県下でも最古の農家住宅で建築年代は、17世紀末から18世紀中頃とされています。
本屋根は茅葺でも下屋は瓦葺が普通ですが、これは下屋も茅葺のしころ葺です。

街道は多良見に入ってきます。
ここから井樋ノ尾峠になります。
「従是東佐嘉領」という領境石がある。
また、佐賀領に入ってきた。
この峠そんなに勾配がなく歩きやすい。
頂上に行くと街道は左に下りていく。
ここに峠の茶屋跡がある。
今でも石鉢が置いてある。
また、街道沿いには松が植えられている。松のプレートには「シュガーロード」とか「龍馬が通った道」などが
書かれている。



久山茶屋跡に着いた。
案内板を見ると龍馬のイラストが載っている。龍馬もこの茶屋で休憩したのだろうか?



長崎自動車道を抜け街道は広い道に入る。
次は、赤松坂と思い、広い道をどんどん歩くがそれらしきものがない。
久山という大きな交差点に差し掛かる。
また、間違えてしまった。地図をよく見ると地下道を通るようになっている。
今来た道を又戻ります。狸の絵の描かれた地下道を通り赤松坂へ。
この赤松坂は、坂を登りつめた所に赤松の巨木があったところからこの名がついたという。


街道は諫早の工場地帯に入っていきます。
Yショップまではわかったのだが、そのまま直進していたら街道がわからなくなった。
こんな場合、一人だったらわからないのだが、今回は家内が間違いを指摘してくれた。
時間もだいぶん経っているし、兎に角目印は・・・・おっ、変電所がある。
ここだったら鉄塔を頼りに行けばいいんだ・・・・
工場団地近くに行くと「長崎街道」のプレートが・・・・・
あった!また、街道に合流した。

お茶屋跡、お馬の水を通り、農業試験場の周りを抜けて佐代姫橋へ。
ここには、道祖元のさやんごぜん、伊東鼎之助(いとうていのすけ)の墓がある。
説明文によれば、
「さやんごぜんとは地元では道祖元とか塞御前(さやんごぜん)といわれています。
集落の入口に道祖神や塞の神を祭り外からの邪気を追い払いさらに路の安全を守るという道教の信仰に
基づくものです。日本では日本神話が加わり猿田彦を祭ったり庚申塔を建てたり陰陽神を祭ったり中には
巨大な陽石を立てた所もあります。」




「伊東鼎之助は、明治7年(1874)江藤新平の佐賀の乱の時、江藤の援軍募集の密偵として捕らえられた。
彼は、長崎へ護送される時に諫早の五人の若者とこの地で斬り合いになり命を落としました。
五人が伊東の首を長崎県庁に届けたことにより諫早は佐賀に味方しない証とされました。その後五人は
この首を最期の地であるここに丁重に葬りました。享年23歳でした。」

さやんごぜんから街道を進むと島原街道分かれに差し掛かります。
永昌宿までもうすぐ。
永昌町の信号の手前を左に行くと永昌問屋跡に着きました。
時計を見るともうすぐ5時。朝8時から歩き出したので9時間も歩いた。
今日はここまでにしよう。

















大村宿のカレー(長崎県大村市)

2011-01-18 17:46:14 | 食いしん坊
先日、長崎街道を歩いて大村までやってきた。
大村駅を降りて商店街の方に行くと、「大村宿カレー」の幟が立っている。

(JR大村駅)


大村は、日本最初のキリシタン大名「大村純忠」が派遣した「天正遺欧少年使節」が持ち帰ったとされる
カレーの香辛料に由来して大村中央商店街アーケードを中心とした17店舗でそれぞれ独自のカレーを
出している。


入ったカレー屋さんは、「あをば食堂」
ここのカレーは、白いご飯とドライカレーを組み合わせたカレーでドライカレーの方は中辛、
白いご飯の方は辛口。



サラダもついていてこれが700円。
久しぶりに美味しいカレーを頂いた。
機会があればまた行ってみたい。

長崎街道を歩いています。№2(日見峠~日見宿~矢上宿)

2011-01-14 19:06:49 | 長崎街道歩き
№1からの続きです。

日見峠を下ってくると「界」という町に入ってきた。
「界」どう読むんだろう?と同行の家内と話すが、わからない。
思い切って近くに女性がいらっしゃったので聞いてみた。
「さかい」と読むそうで、パソコンで「さかい」と書いて変換してみると「界」がある。
また一つ勉強になった。

街道歩きの楽しみは、その地区の遺跡や建物などを見るのもいいが、また、その地区の伝説にも
会えるので面白い。
今回の日見宿にはいろいろな伝説があった。

歯痛(はつつき)観音(岩這薬師堂)
この観音像は片手を頬にあてており、遠い永い未来に想いを馳せ、何かを待ちつつ瞑想に
ふけっている姿があたかも歯が痛いのを押さえているように見える。
この観音像に願いをかけると歯の痛みが治るといわれています。


街道は、日見宿に入ってきました。
日見宿は長崎街道にあった25の宿場の一つでしたが、長崎に近いため宿泊する旅人はめったにおらず、
継ぎ場と呼ばれる人馬の中継所で一息ついていました。
その継ぎ場の近くにあるのが
三国屋橋です。

その昔、この宿場に三国屋という酒屋さんがあり、三代に渡って五郎七の名を襲名し、酒屋の傍ら
状待ち(飛脚)を務める人がいました。二代目五郎七は、江戸からの書状を長崎奉行に届ける際、
降りしきる雨で川が氾濫していた為、意を決して裸になり書状を頭に巻いてこの濁流を泳ぎきり無事
代官所に届けました。これを知った代官は五郎七の行為を称え、褒美に切り石で組んだアーチ式の橋を
かけ五郎七の屋号をとって「三国屋橋」と命名したそうです。


腹切坂
熊本細川候の家臣「某」、長崎より熊本へ帰郷の際、つづれ組の高名を聞き、途中、一手の試合を
申し込んだ。その結果は意外にも武士は敗れ、その昔は武士なれど今は町人の作右衛門の棒術に
凱歌が揚がった。この武士は、如何にしても無念やる方なく宿を見下ろす場所で武士の面目上、
とうとう腹を切って果てた。
村人達は哀れに思いこの武士を丁重に葬った。
ここを「腹切坂」と呼ぶようになった。


腹切坂を進むと団地の中に入っていく。
ここに「領境石」がある。天領日見と別れ
ここから佐賀藩矢上(現在長崎市矢上)です。
ここには大きなマンションが建ち並んでいる。
遠くに長崎総合大学のキャンパスが見える。
マンションが建ち並ぶ中、街道を見失ってしまった。
大体の見当をつけ歩いているが、ちょっと不安。
向こうから来た女子高校生に聞いてみるが「わからない」とのこと。
仕方なくその道を進んでいくと左側のお宅にご婦人がいらっしゃったので聞いてみた。
そのご婦人、私たちが今歩いているのが長崎街道で、この先の矢上神社まで詳しく教えていただいた。
ありがたい。

その教えどおり歩いていると「東望入口」という信号になった。
何か公園になっているらしい。
その信号の所に濱之大王神社がある。

この神社は、この先の矢上神社の分社です。

更に進むと番所橋が見えてくる。
この辺りが佐賀藩矢上の番所があったところだ。
矢上番所は、長崎街道の要所で平屋瓦葺の建物と門があり弓矢、槍、鉄砲等を置くなど役人が往来者の
警備や取締りを行っていた。

番所橋は、慶応3年(1867)の洪水により流失したが、この石材を使って明治初期に建替えられた。
現在の橋は昭和61年10月に架設され由緒あるごとく、擬宝珠の親柱になっている。


この番所の裏に諫早領役屋敷跡があった。
いまでいう区役所みたいなものでしょうか?
敷地内には、武道場もあったとされる。



番所橋の先が矢上宿
本陣は向こう側の自動車学校になっており、この矢上小学校が「脇本陣」になっている。



                                   (続く)


長崎街道を歩いています。№1(蛍茶屋~日見峠)

2011-01-12 20:34:12 | 長崎街道歩き
昨年、「唐津街道」を踏破し、次は、「長崎街道」と思い、昨年6月にスタートした。
長崎~永昌宿(諫早)まで歩こうとしたのですが、途中大雨に会い、やむなく蛍茶屋で引き返しました。
その後、暑くなるのでしばらく休憩していましたが、今年から再スタートします。

1月9日、朝3時に福岡の自宅を車で出発。諫早に車を置き、電車で長崎へ、長崎駅から路面電車で蛍茶屋へ。
蛍茶屋に着いたのが8時5分前。
生憎、長崎は、霧雨が降っていました。(どうも私が長崎に行くと雨に会います。)
今日の行程は、蛍茶屋から諫早の永昌宿まで約35km。


国道の下のトンネルを通ると右側に「本河内宝篋(ほうきょう)印塔」が見えてきます。
これは、300年ほど前にこの地に病気が流行り沢山の方が亡くなられたのでそれを供養するために
建てられた塔です。


街道は、長崎の水瓶の「本河内貯水場」を通ります。
長崎街道は、主要なところに案内板を立ててあるので非常にわかりやすいです。
更に街道を進んでいくと「西の箱根」と言われた「日見峠」に差し掛かってきます。
      
このあたりは、長崎でも山間部に属するのでしょうか、今年のお正月に降った雪がまだ残っています。

幅員1mぐらいでしょうか、道が階段状しかも急勾配になっています。
長崎街道は、象も通ったと聞いていますが、このような細い道よく象のあの巨体が通ったなと感心します。
歩いているとお茶屋跡があります。
資料によれば日見峠は、西側中腹に2軒、東側中腹に1軒、頂上に1軒のお茶屋さんがあるそうです。

説明文では、「西の箱根といわれた日見峠は、旧長崎街道の中でも屈指の難所であり、旅人達は茶屋で休憩を
とりながら険しい山道を越えてきました。シーボルトは、「江戸参府紀行」の中で「モミの並木が麓まで続いて
それからシン(新)峠(日見峠)の山頂には1軒の茶屋があって我々はまもなくそこにたどり着いた。」と茶屋の
一つについて書いています。」

山道は、益々険しくなってきます。
あまりきついからか、もうゼイゼイ言ってます。
どうにかこうにか、山頂のお茶屋さんに到着しました。
      
私達もここで休憩することにしました。
今朝は朝早く出たため朝食はコンビニのおにぎり1個 そういえば小腹もすいてきました。
そういえば、昨日福岡の産直店でドーナツを買ったっけ?Dバックを探すと出てきました。
1個を半分にし、同行の家内と一緒に食べました。
どうやら呼吸も整ってきましたので再び歩き始めます。
   

街道を更に進むと「明治新道」という碑が見えてきました。
    

案内板によると
「明治時代になり、日見峠の道路改修が計画され、新たに設立された日見峠新道会社によって新道の建設が行われました。
約1年4ヶ月の工期を当時の金額で約4万7000円という莫大な工費をかけた。
新道の開設によって天下の難所といわれた日見峠を人力車や馬車などで通行できるようになりました。
中でも最大の工事が峠を33m切り下げた切通しで約1年掛けて明治15年(1882)開通した。会社は、工事費を
償還するため一人5厘、人力車2銭、馬車5銭の通行料をとることにしました。
これが我が国の有料道路の始まりといわれており、明治17年(1884)から明治22年(1889)まで徴収が行われました。」

峠の下にはトンネルが通っています。
これも説明文によると
「その後、交通の自動車化などに伴い大正13年(1924)着工、大正15年(1926)に完成した「日見トンネル」は、
全長642m、幅員7,4mの当時としては日本最大規模のトンネルです。」


今でこそ、建設機械を使えば掘削など容易で工期も短縮されますが、当時は機械も無く掘削も手堀りで大変だったでしょう。

峠を降りていくと街道沿いに松の苗木が植えられています。よく見ると「長崎街道松並木保存実行委員会」と
書いてあります。この長崎街道に松を植えようという試みです。
この松並木が街道歩きの後半に役にたちました。

更に峠を降りていきます。
   
峠の見通のいいところで眼下を見下ろしますと長崎自動車道が見えてきます。その奥には天気がいい日には
島原方面が見えるそうですが、今日は生憎曇り空、残念ながら見ることは出来ませんでした。

更に下ると「芒塚(すすきづか)句碑」があります。
   
これは、芭蕉の門下生だった向井去来の句が刻まれています。
説明文によると「向井去来は、儒医向井元升の二男として長崎・後興善町に1651年に生まれ、八歳の時に父と
ともに京都に移住。30歳半ばにして芭蕉の門人となり、蕉門十哲の一人と称されました。元禄2年に一時帰郷、
長崎に蕉門俳諧を伝えた。句碑は、去来が長崎を離れるに際し、この地で見送りの人たちに対して詠んだもので
「君が手もまじるなるべし花薄」と書かれています。

この句碑のすぐ近くにこの峠の最後のお茶屋「梨子お茶屋跡」があります。
    
峠を降りた所は、長崎道芒塚インターでした。  (続く)









間 寛平さんお帰りなさい。

2011-01-04 14:47:50 | その他
アースマラソンの間 寛平さんが、日本に帰ってこられました。
それも私の住む町「福岡」へ。
このアースマラソンは、ヨットで16000km、ランニングで20000km地球を一周廻るというもの。
寛平さんは、7:00~8:00ぐらいに西福岡マリーナに到着ということで私もこの偉業を一目見たくて
早起きし、到着場所のマリーナへ。

現地には6:00に着きましたが、もう既に100人ぐらいのファンの方が待っておられた。
今日福岡は朝から冷たい雨が降り続け傘をさして待っていました。
テレビカメラも入っており、私も映ったかな?



待つこと1時間40分
やっと寛平さんのヨットが着きました。
船上では、奥さん、お孫さん、吉本から山田花子さんなどが参加され歓迎セレモニーが開催されていました。

8時半、寛平さんが私達の前に姿を現しました。




寛平さんは、思ったより元気そうで即興で「パンプキン」のパフォーマンスも披露されました。

このあと寛平さんは、大阪までランニングされるそうです。ゴール予定は1/21です。

寛平さんもう少しでゴールです。
頑張ってください。

寛平さんが中国から乗ってこられたヨットです。




あけましておめでとうございます。

2011-01-01 11:43:26 | 日記
明けましておめでとうございます。
さて、九州地方年末からの寒波で今年の初日の出は、無理かな?と思って
諦めていたら、午前7時ごろ東の空の雲が切れてきました。
ひょっとして日の出が拝めるのではないかとパジャマに防寒着をひっかけ、
日の出スポットへ。
7時半、地平線には厚い雲がありましたが、初日の出を見ることができました。

7時半時点で、福岡の気温1.7度、風が6mと強く体感温度は氷点下でした。

見られないと思っていた日の出が見えたことなど何か今年はいいことがありそうな予感がします。

寒さで冷え切った体を温めるためお風呂を沸かしました。
2011年最初のお風呂です。
お風呂から上がった後は、おせちです。


天気予報では、昼から悪くなりそうですが、おせちを肴に一杯やろうと思ってます。
昨年は、ブログを開設してあまり更新しませんでしたが、今年はどんどん更新していきたいと思ってます。
今年も宜しくお願いします。