三連休の3日目(7/15)、前日ゴール地 瀬野駅に8時15分到着。
瀬野駅には、みどり口側にスカイレールがあります。
これは住宅団地「スカイレールみどり坂」の住民のために開発された新交通システムです。
総人口1万人を見込んで1998年8月に開業しました。
また瀬野駅には「瀬野機関区跡」も設置されています。
瀬野駅と次の八本松駅間10.6kmは勾配が22.6パーテル(1000m進む間に22.6m上がる)という難所。
従って貨物列車は重くてこの峠を登れないので後ろから別の機関車が押して登っていきます。
鉄道ファンでは「セノハチ」という名称で有名です。今日も私たちの目の前を機関車に後押しされた貨物列車がと通り過ぎていきました。
この峠が「大山峠」今日歩いて登る予定です。
駅前の2号線を渡ると旧山陽道があります。
先ずは榎山川に立つ『落合の一里塚』それと「道標」道標には、右 四日市(西条)、左 志和と書いてあります。
また、瀬野の町には、鏝絵の家やなめこ壁の旧家が残っています。
街道は山陽本線と並行しています。途中で踏切を渡り「一貫田宿」に着きます。
一貫田宿は、海田と西条四日市の間の宿として栄えました。
町を通っていると民家の前に「山頭火」の句があります。調べてみますと種田山頭火は昭和8年(1933)9/19~20まで一貫田に滞在し、俳句16句と日記を書いているそうです。
一貫田のバス停の近くに交差点があります。ここに道標が建っています。右:熊野跡、呉 左:八本松・西條。
熊野というとナデシコジャパンが国民栄誉賞をもらった時に副賞で贈られた「熊野筆」の産地です。
JR「とくとく広島きっぷ」を買うと熊野のリップ筆がいただけます。帰りにでも広島駅でもらってみよう。
町並みを抜けると街道沿いに松が植えられています。標識を見ると山陽道三本松になっています。下には二代目となっていますので植え替えられたのでしょう。
古い橋を超え、鉄橋を近くで見ながら段々峠に近づいてきます。ここでちょっと休憩し藪蚊、ハチ対策に蚊取り線香、マムシ対策にポールを準備します。
※前方の高架橋は、海田からのバイパス工事を行っています。
さて、山陽道(西国街道)の中でも難所の『大山峠』に入ってきます。
この街道を歩かれた先輩たちのブログなどを見ているとこの峠は八本松からの方が登りやすいと書かれていますが、私たちはあえて瀬野の方から
登ることにしました。
大山峠は、日本書紀崇神天皇(3世紀前半)の条に、西道(にしのみち)のことがあり、これは後の山陽道のことだと云われ、
若しそうであればこの峠も弥生時代すでにあったことになります。その後、山陽道は京と筑紫大宰府を結ぶ官道となり
当時の道路区分では大道でこの付近は延喜式にいう大山駅が置かれていました。
この道は、明治17年(1884)2号国道が新設されるまで国の幹線道路としての役目を果たしました。その間九州へ派遣される防人もこの峠に
立ってでしょうし元寇の急変を知らせる早馬も駆けすぎて行ったでしょう。また明治維新の志士吉田松陰や高杉晋作らもここを通っていることを
考えるときその時代時代の見てきた峠です。
それに多くの人々が詩歌や紀行文を残している峠でもあります。万葉の詠み人知らずの歌もあれば、応安4年(1371)4月九州へ下向の
今川了俊も軍の先頭に立ちながらものにしを「道ゆきふり」の中の大山峠を越える一文のようなものもある。
西から上がってくる坂を「代官おろし」と呼ぶが、これは如何なる格式のある人でも駕籠から降りたという難所であったことを意味し
峠より西10mの大山清水は旅人の喉を潤した名高い清水であった。
この位置は江戸時代憩亭のあった所であるが平素は村人が旅人に草鞋やいり豆を売っていたという。
昭和58年東広島郷土史研究会案内板より
※米なら1石、1石五斗 馬に背負わせて運んだという。この馬は「きんつき」(去勢していない)でよく跳ね扱いが難しかったそうです。
頂上まで1.1km。約15分かな?お代官さんもここで籠から下りたそうです。
博多刀工の流れを汲む大山刀鍛冶初代守安の屋敷とお墓があったそうです。
標高340mの大山峠に到着。大山清水では、水が飲めるよう柄杓が用意されています。
下りは道幅も広く、下りやすかった。
八本松側の大山峠案内板。
大山峠を下りてくると急ににわか雨が降ってきました。
あわてて民家のガレージの軒先をお借りして雨宿りします。これが峠の途中でなくよかったです。
時刻も12時近くなり、雨も小降りになりましたので近くに食堂を探しました。ここでお昼にします。
雨も上がりお腹もいっぱいになりましたので再びスタート。
『八本松八十八石仏』
明治末期北海道開拓で富を得、八本松駅近くに帰ってきた堀岡熊次郎が中心となって一連の石仏群を建立した。
かつては参勤交代の西国大名も通った旧山陽道も通じていた八本松だが大正末期には人家もまばらな田舎であった。
人の集まるものを作りたいと四国八十八霊所になぞられて四国の各霊場の本尊と同じ如来、菩薩などの石仏を刻み
1番~88番までその順に設置したものである。大正15年に完成した。(八本松八十八石仏の会HPより抜粋)
『妙福寺』
『清水川神社』 『須久茂池跡』
街道を進みます。
前方にシャープの工場が見えてきました。シャープの運動場の先には大きな池があります。
地図には「池」という目印をしていました。ところがいくら進んでも次の溜池が出てこない。
携帯のナビを使って現在地を調べてみますと、本来左折すべき所を左折せずまっすぐ来ていた。戻ってみようか?と考えますが、もう5kmぐらい進んでいます。
ここには飢坂峠、一里塚などがあったのですが、戻ると帰りの新幹線の時間にも影響しますので、これから西条駅を目指して進んでいきます。
然し通行の方、あるいはご近所の方に聞こうと思っても誰とも会いません。確か西条駅は市街地の中だから大型の小売店があるはずだと思い
大型の小売店の看板の方に向かって歩き出しました。しばらく歩いていると寺家の交差点に出てきました。この奥が山陽道です。
西条といえば酒処ですね。
駅前の通りには「酒蔵通り」といって8軒の酒蔵があります。今や伏見、灘と並び日本三大銘醸酒に数えられます。(福岡の酒は4番目かな?)
その歴史は1650年ごろと言われています。西条は250m~300mの盆地にあり、仕込みの時の気温が4~5度、また龍王山からの伏流水が美酒の要因になっています。
また、各酒蔵には仕込み水の試飲もできます。
もう少し酒蔵を廻ってみたかったのですが、帰りの新幹線の時間もあり今回はここでゴールとします。
15時15分JR西条駅ゴール。
※西条駅は工事中でした。
次回は9月の連休を予定しています。今度は頑張って尾道まで行きたいですね。
7/15のGPSです。
7/13~7/153日間の歩いたコース
瀬野駅には、みどり口側にスカイレールがあります。
これは住宅団地「スカイレールみどり坂」の住民のために開発された新交通システムです。
総人口1万人を見込んで1998年8月に開業しました。
また瀬野駅には「瀬野機関区跡」も設置されています。
瀬野駅と次の八本松駅間10.6kmは勾配が22.6パーテル(1000m進む間に22.6m上がる)という難所。
従って貨物列車は重くてこの峠を登れないので後ろから別の機関車が押して登っていきます。
鉄道ファンでは「セノハチ」という名称で有名です。今日も私たちの目の前を機関車に後押しされた貨物列車がと通り過ぎていきました。
この峠が「大山峠」今日歩いて登る予定です。
駅前の2号線を渡ると旧山陽道があります。
先ずは榎山川に立つ『落合の一里塚』それと「道標」道標には、右 四日市(西条)、左 志和と書いてあります。
また、瀬野の町には、鏝絵の家やなめこ壁の旧家が残っています。
街道は山陽本線と並行しています。途中で踏切を渡り「一貫田宿」に着きます。
一貫田宿は、海田と西条四日市の間の宿として栄えました。
町を通っていると民家の前に「山頭火」の句があります。調べてみますと種田山頭火は昭和8年(1933)9/19~20まで一貫田に滞在し、俳句16句と日記を書いているそうです。
一貫田のバス停の近くに交差点があります。ここに道標が建っています。右:熊野跡、呉 左:八本松・西條。
熊野というとナデシコジャパンが国民栄誉賞をもらった時に副賞で贈られた「熊野筆」の産地です。
JR「とくとく広島きっぷ」を買うと熊野のリップ筆がいただけます。帰りにでも広島駅でもらってみよう。
町並みを抜けると街道沿いに松が植えられています。標識を見ると山陽道三本松になっています。下には二代目となっていますので植え替えられたのでしょう。
古い橋を超え、鉄橋を近くで見ながら段々峠に近づいてきます。ここでちょっと休憩し藪蚊、ハチ対策に蚊取り線香、マムシ対策にポールを準備します。
※前方の高架橋は、海田からのバイパス工事を行っています。
さて、山陽道(西国街道)の中でも難所の『大山峠』に入ってきます。
この街道を歩かれた先輩たちのブログなどを見ているとこの峠は八本松からの方が登りやすいと書かれていますが、私たちはあえて瀬野の方から
登ることにしました。
大山峠は、日本書紀崇神天皇(3世紀前半)の条に、西道(にしのみち)のことがあり、これは後の山陽道のことだと云われ、
若しそうであればこの峠も弥生時代すでにあったことになります。その後、山陽道は京と筑紫大宰府を結ぶ官道となり
当時の道路区分では大道でこの付近は延喜式にいう大山駅が置かれていました。
この道は、明治17年(1884)2号国道が新設されるまで国の幹線道路としての役目を果たしました。その間九州へ派遣される防人もこの峠に
立ってでしょうし元寇の急変を知らせる早馬も駆けすぎて行ったでしょう。また明治維新の志士吉田松陰や高杉晋作らもここを通っていることを
考えるときその時代時代の見てきた峠です。
それに多くの人々が詩歌や紀行文を残している峠でもあります。万葉の詠み人知らずの歌もあれば、応安4年(1371)4月九州へ下向の
今川了俊も軍の先頭に立ちながらものにしを「道ゆきふり」の中の大山峠を越える一文のようなものもある。
西から上がってくる坂を「代官おろし」と呼ぶが、これは如何なる格式のある人でも駕籠から降りたという難所であったことを意味し
峠より西10mの大山清水は旅人の喉を潤した名高い清水であった。
この位置は江戸時代憩亭のあった所であるが平素は村人が旅人に草鞋やいり豆を売っていたという。
昭和58年東広島郷土史研究会案内板より
※米なら1石、1石五斗 馬に背負わせて運んだという。この馬は「きんつき」(去勢していない)でよく跳ね扱いが難しかったそうです。
頂上まで1.1km。約15分かな?お代官さんもここで籠から下りたそうです。
博多刀工の流れを汲む大山刀鍛冶初代守安の屋敷とお墓があったそうです。
標高340mの大山峠に到着。大山清水では、水が飲めるよう柄杓が用意されています。
下りは道幅も広く、下りやすかった。
八本松側の大山峠案内板。
大山峠を下りてくると急ににわか雨が降ってきました。
あわてて民家のガレージの軒先をお借りして雨宿りします。これが峠の途中でなくよかったです。
時刻も12時近くなり、雨も小降りになりましたので近くに食堂を探しました。ここでお昼にします。
雨も上がりお腹もいっぱいになりましたので再びスタート。
『八本松八十八石仏』
明治末期北海道開拓で富を得、八本松駅近くに帰ってきた堀岡熊次郎が中心となって一連の石仏群を建立した。
かつては参勤交代の西国大名も通った旧山陽道も通じていた八本松だが大正末期には人家もまばらな田舎であった。
人の集まるものを作りたいと四国八十八霊所になぞられて四国の各霊場の本尊と同じ如来、菩薩などの石仏を刻み
1番~88番までその順に設置したものである。大正15年に完成した。(八本松八十八石仏の会HPより抜粋)
『妙福寺』
『清水川神社』 『須久茂池跡』
街道を進みます。
前方にシャープの工場が見えてきました。シャープの運動場の先には大きな池があります。
地図には「池」という目印をしていました。ところがいくら進んでも次の溜池が出てこない。
携帯のナビを使って現在地を調べてみますと、本来左折すべき所を左折せずまっすぐ来ていた。戻ってみようか?と考えますが、もう5kmぐらい進んでいます。
ここには飢坂峠、一里塚などがあったのですが、戻ると帰りの新幹線の時間にも影響しますので、これから西条駅を目指して進んでいきます。
然し通行の方、あるいはご近所の方に聞こうと思っても誰とも会いません。確か西条駅は市街地の中だから大型の小売店があるはずだと思い
大型の小売店の看板の方に向かって歩き出しました。しばらく歩いていると寺家の交差点に出てきました。この奥が山陽道です。
西条といえば酒処ですね。
駅前の通りには「酒蔵通り」といって8軒の酒蔵があります。今や伏見、灘と並び日本三大銘醸酒に数えられます。(福岡の酒は4番目かな?)
その歴史は1650年ごろと言われています。西条は250m~300mの盆地にあり、仕込みの時の気温が4~5度、また龍王山からの伏流水が美酒の要因になっています。
また、各酒蔵には仕込み水の試飲もできます。
もう少し酒蔵を廻ってみたかったのですが、帰りの新幹線の時間もあり今回はここでゴールとします。
15時15分JR西条駅ゴール。
※西条駅は工事中でした。
次回は9月の連休を予定しています。今度は頑張って尾道まで行きたいですね。
7/15のGPSです。
7/13~7/153日間の歩いたコース