その3-1からの続きです。
朝倉という地名は、西暦661年、斉明天皇(女帝)は朝鮮半島の百済からの要請に応じて出兵を決定し、現在の朝倉地区に「橘 廣庭」と呼ばれる仮宮殿を設けました。
この折に斉明天皇が言った「朝(あさ)なお闇(くら)き」が朝倉の地名の由来といわれています。(諸説あります)
比良松の地名は、蒙古襲来で名をはせた少弐氏も末裔「古賀新左衛門重儀は大内氏の追手から逃れ隠れた山中から出て「須川」に移り住み、新たに一村を立て、枝を四方に広げた松を
植えて平松と名付けました。その場所は現在の舒翠館の場所であり、明治10年の火災で枯れる迄その姿を残していました。(旧日田街道比良松まちづくり世話人会より)
江戸時代、福岡と天領日田を結んだ日田街道が比良松旧道です。江戸中期以降日田代官所の公金を元手にした日田金と云われる経済力を背景に街道は賑わいました。
また、同時期、筑後川の治水、利水の発展による周辺の農業生産力向上もあって、比良松は農村部へ財、サービスを提供する在郷村としても発展していったと推定されます。
尚、現在街道筋に残る歴史的景観は、安政2年(1855)の大火の直後に再建された建物がその多くを占めています。
明治の末に完成した新県道(現国道386号)及びその上に敷設された朝倉軌道によって賑わいを次第に新道沿いの商店街に譲ることになります。結果、この時期に幹線道路から
外れたことでその後の急速な近代化の波に洗われることなく、往時の佇まいを今に残すことになりました。(旧日田街道比良松街づくり世話人会より引用)
舒翠館は、明治18年(1885)建造物で甘木・朝倉地方では、最も古い公会堂です。現在は、公民館として使われています。
厳島神社:斉明天皇6年(660)、朝鮮半島の百済が唐と新羅の連合軍に破れ、 日本朝廷に救援を求めてきたので、 翌7年(661)天皇は御西下し、 筑紫の国「朝倉橘広庭宮」に入られ、
遠征の軍備を進められた。 天皇遠征軍の海上安穏と武運長久の祈願のため、 中大兄皇子(後の天智天皇)に命じ、創建されたのが厳島神社である。 祭礼は10月26日に行われる。
境内には愛宕神社、屋須多神、恵比寿神社を祀り, 特に愛宕神社の4月4日の春祭(馬市)では、子供相撲の奉納などあり、 多くの人々で賑わっている。(説明文より)
比良松の旧道から大分自動車道の高架下を通り、朝倉東小学校の所から左に行きますが、妙見川が工事中の為、国道に引き返します。
古毛の信号を右折。
また、菱野西の信号で国道と合流します。菱野の産直店 三連水車の里あさくらで休憩します。
産直店あさくらの裏手に「鋼製の三連水車」があります。
三連水車は、旱ばつの被害を防止するため、筑後川の水を堀川用水に取水しました。しかし、一部では川面より高所のため、自動回転式の重連水車が設置されました。
三連水車は寛政元年(1789)に完成。日本最古の実働する水車として全国的にも有名な「朝倉の揚水車群」は、平成2年(1990)に「堀川用水」とともに国の史跡に指定されました。
現在、朝倉市には、菱野の「三連水車」、三島の「二連水車」、久重の「二連水車」の7基の水車があり、現役で農地を潤しています。
また、地元の職人によって水車は5年ごとに作り替えられ、その技術を継承しています。(あさくら路観光案内より)
実は、私、平成29年(2017年)8月にここを訪れています。7月の九州北部豪雨の被害が凄まじかったです。(その時の写真です)
恵蘇宿の信号から右に入ります。少し歩いた左側に大きな樟のある「隠家森」があります。この樟は、樹齢1500年以上の全国第8位の巨木です。地上3mの所より三叉に分かれ、
幹の部分からは樟に抱き込まれたような形で大きな椋木が生えており、根部は、8畳ほどの空洞があります。胸高幹周18m、樹高21m、根回り35,4m。
西暦661年、斉明天皇が百済救済の為、朝倉橘廣庭宮に行幸された際に、宮の警戒のためにこの辺りに「朝倉の関」が設けられました。ここを往来する人は、名乗りして通り、
名乗れない人は、夜になるまでこの森に隠れていたと言われています。この伝説から「隠家森」という名前が付けられました。
朝倉の関:天智天皇が母である斉明天皇の崩御により、木の丸殿で喪に服されていた頃設けられたもので、西の「刈萱の関」に対する東の「朝倉の関」で通行の人々を監視し、
朝倉橘廣庭宮の護衛にあたったと伝えられ、地元では、「名乗りの関」とも言われています。
朝倉の関から、「恵蘇八幡宮」に向かいます。
「恵蘇八幡宮」は、昔、郡中33ヶ村(上座郡)の総社として栄え、現在は、朝倉市の総社となっています。応神天皇、斉明天皇、天智天皇を祭神として祀り、毎年10月15日に
御神幸が行われています。
由緒によると、斉明天皇は、661年百済国救済の為、筑紫の朝倉橘廣庭宮(朝倉市須川)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は、国家安泰と戦勝祈願の為、宇佐神宮に
奉幣使を遣わせた。使の一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから天降八幡なり宮社が創建された。
その後、天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇、天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。現在の本殿は、安永元年(1772)秋9月の改築である。(説明文より)
恵蘇八幡宮の大樟は、胸高幹周9m、樹高32m、根回り22mです。
大樟の横には「漏刻」(ろうこく)(水時計)の模型があります。漏刻は中国伝来の水時計、器に水を貯え、その漏洩の水量を測定し時刻の推移を知るものです。1昼夜を48刻に分け4刻を
1時(とき 辰刻)にはかります。
日本では天智天皇が天智10年(671年)4月25日に始めて漏刻を大津宮の新台に置き鐘鼓を打ち時を告げたと伝えられています。太陽暦に直すと6月10日となり、大正9年、
この日を「時の記念日」に定めました。恵蘇八幡宮の漏刻は水の流入速度が一定になるよう4個の桶を段違いに並べ、夜天池、日天池、平壺、万水壺と云い、万水壺には矢が立てられ、
夜天池に水を注ぐと管を通って万水壺に流れ込み、水が溜まるにつれて矢が浮き上がり、矢に記された目盛りを読み取り時刻を知る仕組みです。
現在、恵蘇八幡宮では6月10日を記念して式典が催されています。(説明文より)
恵蘇八幡宮の横には「木の丸殿」があります。
中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘廣庭からこの地にお移しになり、その夕御陵山に仮りに葬られた。そして陵下の山腹に丸太の殿を作られ、
1日を1か月に代えて12日間母君の喪に服されたといわれている。この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。
「御陵山」斉明天皇は、661年7月24日、御歳68歳にて朝倉橘廣庭でお亡くなりになった。7日後の8月1日、御遺骸を朝倉山上に移し、一時葬ったと記されている。
現在、陵上には、石棚が巡らされ、中央の塔石には、斉明帝藁葬地と刻されている。(説明文より)
朝倉橘廣庭ってどこかな?と思い、3月24日丁度桜の花が満開の時に行ってきました。
朝倉市須川にある「長安寺廃寺跡」が朝倉橘廣庭宮跡ではないかということです。(諸説あります)
説明文を読むと、長安寺は、奈良~平安時代の古代寺院跡で古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年(昭和8年)の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。
また、「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から建物のそ礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。出土瓦は、老司式と鴻臚館式の
ものであり、8世紀前のものと推測されている。筑前続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という・・・」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったと
推測される。このことは、続日本書紀に天智天皇が斉明天皇の冥福を祈って、観世音寺と筑紫尼寺を創建したとあることから、長安寺とは、朝倉橘廣庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺の
ことではないかといわれている。(説明文より)
長安寺跡から裏手の高台に行ってみると、「橘廣庭宮之蹟」の石碑が建っています。
説明文によると、4世紀末朝鮮半島は、百済、高句麗、新羅の三国に分割され、7世紀に至る迄和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、
かつてからの親交関係にあった日本へ使者を遣わし、救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。
翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に、難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、
1月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)を経て、朝倉橘廣庭宮に遷られた。しかし、天皇は、滞在75日(7月24日)御歳68歳で病の為、崩御された。
現在、朝倉橘廣庭宮の所在は分かってないが、地元の伝承では「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したという「木の丸殿跡」や
斉明天皇の御遺骸を仮安置した」といわれる「御陵山」が存在する。
私見ではありますが、お宮を造られたのがどうして博多でなく、朝倉だったのでしょうか?筑後川を下って有明海から朝鮮にも行けますが、それよりも朝鮮だったら博多の方が近いと思います。
以前、作家の安本美典氏が邪馬台国朝倉説を発表されました。朝倉の地名と畿内大和地方との地名が同一のものが多い。夜須川(安川)があるし、三輪の地名もある。
邪馬台国は、朝倉から大和へ東遷したのではないか?ということでした。邪馬台国は、2世紀ぐらい、斉明天皇は、7世紀、そのころの朝倉は、天皇家にとって故郷ではなかったのはないでしょうか?
その朝倉には、弥生時代の遺跡「平塚川添遺跡」があります。これが「邪馬台国」でしょうか?
平塚川添遺跡は、工業団地造成工事に先立つ事前調査で発見され、1992年(平成4)から約1年半の調査のあと、平成5年(1993)遺跡保存が決まりました。
工業団地造成から見つかったということは、佐賀県吉野ヶ里遺跡と同じですね。
またまた、長文になりましたのでこのあとは、その3-3に続きます。