よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

環境芸術の森の紅葉(佐賀県唐津市厳木町)

2021-11-29 18:06:51 | ウォーキング

11/15(月)佐賀県唐津市厳木(きゅうらぎ)町でも紅葉の素晴らしい所があると聞いて行ってきました。

作礼山の中腹に位置し30年近い歳月をかけて築き上げた紅葉の森です。今日は平日ですが、駐車場はもう満車状態です。

10分ぐらい待って園内に入りました。

昔の森を取り戻したい、昔の川を取り戻したい、昔の海を取り戻したい・・・・この思いを胸に風のふる里厳木に作礼山中腹をキャンパスとして、石・土・木を植付け紅葉の森が生まれました。

人が手を加えることで森の美しさを守りたいと願いを込め「環境芸術の森」と名付けられました。

 

 

 

風遊山荘に入ると、まるで京都の瑠璃光院みたいに磨かれた漆のテーブルに反射する紅葉が美しいです。

 

風遊山荘から外に出て園内を歩きます。

 

ここは、モミジの数は、約10000本で佐賀県№1だそうです。

何か、京都の紅葉を見ているようでした。大満足です。

 

 


楽しいウォーク「南区散策」(福岡市中央区~南区)

2021-11-28 07:18:26 | ウォーキング

11/24(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「南区散策」でした。

集合場所は、地下鉄六本松駅。参加者41名。

 

 

梅光園~長尾を通って寺塚へ。寺塚には、陸奥部屋の宿舎があります。向かいの幼稚園には、霧馬山関の幟が立っていました。

 

寺塚の「興宗寺」(こうしゅうじ)にやってきました。ここは、「穴観音」の名の方が皆さんに知られています。

曹洞宗の寺、穴観音(興宗寺)。正式名は興宗禅寺(こうそうぜんじ)で、福岡城築城の際、黒田長政が石垣に古墳の石を使ってしまったので、古墳の霊を供養するために拝殿を建てたのが

寺の始まり。拝殿の後ろにある石窟に観音像が刻まれることから穴観音と通称されています。

 

 

実は、興宗寺はもう一つ「赤穂浪士47義士」の墓があります。説明文を見ると、

赤穂四十七義士は東京高輪泉岳寺に祭られ供養されているが昭和十年(西暦一九三五年)篤志家木原善太郎氏(当時六本松在住)が私財を投じ、泉岳寺と同宗である興宗寺境内に赤穂義士の墳墓を

模して、配列はおろか地形から玉垣まで泉岳寺のものと同形式の墓を建立された。

12月14日の「義士祭」は、ここ興宗寺でも行われます。

 

興宗寺から野間大池公園に向かいます。

 

紅葉、黄葉がきれいですね。

 

昭和53年(1978)灌漑用水であった野間大池を改修し、集中豪雨の時は、洪水調整の働きをする広場公園として、野間財産区住民の協力により設置された公園です。

  

 

野間大池公園からゴールの大橋駅を目指します。

 

福岡県立筑紫丘高校は、進学校で「タモリさん」の母校です。筑紫丘高校は、現在校舎の工事中です。

  

西鉄大橋駅には、11時40分ゴールしました。

  

今日のGPSです。

 

 

 

 


日光の紅葉(栃木県日光市)

2021-11-27 06:12:55 | ウォーキング

11/10(水)歩き旅7日目(最終日)

前日の雨で日光街道を中止しましたので今日は、電車で日光の紅葉を見に行こうと計画しました。

JR宇都宮発7:40の電車で日光へ。日光8:25到着。今から東照宮迄歩いていきます。日光は、今日いい天気です。

 

東武日光駅には、昔、日光~馬返迄、日光軌道線という路面電車が走っていました。残念ながら昭和48年(1968)廃止になりました。その電車が日光駅に展示されています。

  

 

神橋近くに来ました。ここからきれいな紅葉が見られます。

 

神橋(しんきょう):世界遺産「日光の社寺」の入り口にかかる木造朱塗りの美しい橋。日本三大奇橋として知られ、深沙王が放った2匹の蛇の背中に山菅が生え、橋になったという伝説が

今も語り継がれています。

  

  

日光山輪王寺はお堂や塔、15の支院全体の総称で、「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。
1200年以上前、日光開山の祖である勝道上人が四本龍寺を建てたのが始まり。天台宗三本山のひとつに数えられ、日光山全体を統合していました。
日光三山の本地仏をまつるお堂「三仏堂」は日光山最大の規模を誇る木造建造物で、千手観音(男体山)・阿弥陀如来(女峰山)・馬頭観音(太郎山)三体の仏像がまつられています。

  

日光東照宮にやってきました。

  

拝観料を払い中に入りますが、今日は、平日なのに人がいっぱいです。小学生の修学旅行一行が何組も何組も見られます。

 

 

 

 

あまりにも「人」が多いので主要箇所だけを廻り次の所に行きます。

 

 

日光二荒山(ふたらさん)神社

昨日は、宇都宮の二荒山(ふたあらやま)神社に行きましたが、ここは、二荒山(ふたらさん)神社です。男体山をご神体としています。男体山の麓には、奥の院があります。

日光という地名の由来についてはいろいろな説があります。観音菩薩の浄土【かんのんぼさつのじょうど】を補陀洛山【ふだらくさん】といいますが、その補陀洛山からフタラ山(二荒山)の

名がついたという説、日光の山には熊笹【クマザサ】が多いので、アイヌ語のフトラ=熊笹がフタラになりフタラが二荒になったという説、男体山【なんたいさん】、女峰山【にょほうさん】に

男女の二神が現れたのでフタアラワレの山になったとか、いろは坂の入口付近に屏風岩【びょうぶいわ】があります。そこに大きな洞穴があり、「風穴」とか「雷神窟【らいじんくつ】」などと

呼ばれており、この穴に風の神と雷獣【らいじゅう】が住んでいて、カミナリをおこし豪雨を降らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒山という名ができたとか、

二荒が日光になったのは、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられております。
日光といえば東照宮が有名ですが、日光の歴史は1,200年以上まえの奈良時代にさかのぼり、766年(天平神護2年)に勝道上人【しょうどうしょうにん】によって、

四本竜寺【しほんりゅうじ】を建てられたのが「日光」の始まりです。(世界遺産日光の社寺より)

 

 

 

 

帰る途中の神橋付近。陽があたり紅葉がきれいです。

 

これで横浜から始まり、埼玉県東松山市、宇都宮、日光と7日間の歩き旅を終了しました。帰りは、ジパングクラブを利用し、宇都宮から博多まで新幹線で帰りました。

帰りの新幹線では、三島付近で富士山がきれいに見えました。

 

 

 

 


日光街道(奥州街道)№13「雀宮宿~宇都宮宿」(栃木県宇都宮市)

2021-11-25 20:35:28 | 奥州街道(日光街道)

11/9(火)歩き旅6日目

今日は、昨日日没で終了した宇都宮市SUBARUから宇都宮宿、できれば日光道中も歩きたいと思ってましたが、朝から雨です。

天気予報を見ても終日雨の予報です。従って予定を変更し雨の中SUBARUから宇都宮宿まで歩きます。ポンチョを着て傘をさしてのウォーキングです。

バスでSUBARUまで移動しウォーキング開始。

JR日光線の跨線橋を渡ります。

   

不動前交差点のほぼ中央に「不動堂」があります。宇都宮朝綱が造立した不動明王が安置されています。傍らの昭和3年(1928)建立の道標には、「正面東京に至る 右奥州街道及び

日光街道 左裁判所前に至る」と刻まれています。

江戸時代初めの頃、宇都宮城主本多正純は、日光街道と奥州街道を付け替えました。その時、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが不動明王を祀った不動堂です。

江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。不動堂は、初めこの場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後にここに移されました。

今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するものです。

 

東武宇都宮線のガードを潜ります。この辺りが宇都宮宿の江戸口(南口)で木戸、土塁、番所があり、明六つから暮六つ迄通行が許可されました。

東武宇都宮線を渡るとすぐ右側に「蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑」があります。勅旌碑には、「勅旌忠節蒲生君平里」と刻まれています。

明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物や行いが明治維新に大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して、庶民に知らせるように」と

勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。

蒲生君平は、明和5年~文化10年(1768-1813)名は秀実(ひでざね)通称は伊三郎  号は修静庵  字は君平・君臧

宇都宮の新石町(現・小幡1丁目)の燈油商に生まれました。父の名は福田正栄(又右衛門)父の死後、兄が家業を継ぎました。

6歳のとき、延命院で住職の良快和尚から読み書きを教わり、その後、鹿沼の儒学者鈴木石橋(せっきょう)や黒羽藩家老鈴木為蝶軒(いちょうけん)に師事しました。幼いころ、

祖母より先祖が会津城主蒲生氏郷(うじさと)であることを教えられ、成長してから自ら姓を蒲生と改めました。

足利学校が興廃していると聞き、寛政5年(1793)に当時の庠主・青郊を助けて、その復興にも尽力しました。

藤田幽谷、林子平、高山彦九郎と交友があり、享和元年(1801)に吉祥寺の近くに学塾「静修庵」を開き、文筆活動に励みました。

寛政8年(1796)から同9年と、寛政12年(1800)の2回、荒廃した天皇陵を調査して享和元年(1801)には『山陵志』を完成させ、文化5年(1808)にそれを出版しました。

その中で、はじめて「前方後円」墳という名称が使われたのです。

宇都宮藩の藩校・修道館の設立に参画していたとみられ、昌平坂学問所主宰・林述斎にも師事しています。

文化10年7月5日、江戸で没しました。46歳でした。谷中(現・東京都台東区)の臨江寺(りんこうじ)に葬られましたが、後に宇都宮の桂林寺に分葬されています。

著書に『不恤緯(ふじゅつい)』、『山陵志(さんりょうし)』、『職官志(しょっかんし)』、『今書(きんしょ)』、『皇和表忠録(こうわひょうちゅうろく)』があります。
蒲生君平、林子平、高山彦九郎の三人は「寛政の三奇人」と呼ばれています。(宇都宮の歴史と文化財より引用)

私たちが古墳を見て「前方後円墳」「円墳」などと区別していますが、蒲生君平は、二度にわたる近畿地方(きんきちほう)・四国地方(しこくちほう)への古墳調査を行い、

数多くの天皇陵を調査し、その調査結果を『山陵志(さんりょうし)』にまとめました。君平は、古墳を訪ね歩き、地元での聞き取り調査を丹念に行いました。
特に地名について念入りに調査した結果、「車塚(くるまづか)」の名が多いことがわかり、古墳は死者を運ぶ車をかたどったものと考えるようになりました。
そのため、前方部を車を引く取っ手の部分、後円部を柩(ひつぎ)を乗せる台座の部分、中間の左右にせり出した部分を車輪と想定し、「前方後円墳」とする考えに至ったそうです。

 

 

新町の大ケヤキ・・・樹齢八百年で県天然記念物でしたが、平成25年(2013)の台風で半倒壊し、伐採されました。九州では巨大な楠が多いのですが、関東はケヤキなんですね。

 

台陽寺:曹洞宗西原山。慶長10年(1605)の創建。墓所には戊辰戦役で戦死した宇都宮藩士の墓があります。参道の「子安地蔵尊」は宇都宮藩主戸田氏の守り地蔵尊でした。

   

熱木(ねぎ)不動尊:康平2年(1059)初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐の戦勝を祈願して掘った不動尊を祀っています。宇都宮城乾の守護仏でした。

 

歌橋町:昔、この辺りに住まいした者の歌が万葉集に載ったのが地名の由来です。ここには、宇都宮城の木戸口があり番所が置かれました。

一向寺:応永12年(1405)宇都宮十二代城主満綱が造立した銅造阿弥陀如来坐像は、「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、異変が起こる前に汗をかいたといわれています。

  

街道の途中には、旧町名の説明版が置かれています。

茂破町:この付近は、宇都宮城主本多正純が日光街道を開くまでは、竹藪や雑草の生い茂る原野であった所を「茂を破って」町づくりをしたことから「茂破町」と呼ばれるようになったそうです。

江戸時代には、二のつく日に市が立ち賑わいました。明治時代初めになって茂登町と改められました。

挽路町:元和5年(1619)宇都宮城主本多正純が日光街道の付け替えを行った時、付近の道を西側に引いて町をつくったので挽路町という名が付いたといわれています。

江戸時代には、二のつく日に市が立ち賑わいをみせていました。

材木町:この付近は、宇都宮城の北西に位置する町人町で、特に藩の御用材を商う材木問屋が軒を並べていたことが町名の起こりだといわれています。町の中ほどから東の城内へ通じる道には

不明門と呼ばれた木戸番所がありました。

   

街道は、宇都宮の中心部にやってきました。

 

宇都宮宿は、二荒山神社の門前町として栄え、地名は下野国「一の宮」や奥州攻めの源氏勢が戦勝祈願をした「討つの宮」を地名の由来としています。

その後、宇都宮藩の城下町として発展し、主要街道の要衝、そして鬼怒川の舟運によって江戸と結ばれ、日光道中一番の賑わいでした。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、

宇都宮宿の家数は、1219軒、うち、本陣2,脇本陣1,旅籠42軒で宿内人口は、6457人でした。

本陣は、上野本陣。建坪191坪余で門構え玄関付でした。問屋を兼ね、貫目改所が置かれていました。現在は、大イチョウだけが残っています。

もう一つの本陣の「石塚本陣」は、池上町のみずほ銀行あたりにあったといわれています。

本陣の少し先が日光街道、奥州街道の追分です。

  

日光街道を少し入った所に蔵造りの商家があります。㈱上野で油を扱い、副産物の油粕を肥料として農家に販売していました。上野本陣と同じ名前ですので何か関係があるのかな?

 

本来なら、ここから日光を目指す予定でしたが、この雨でもうシューズにも水が入りつつあります。

もう日光は、止めてここから奥州街道を歩こうと思います。

 

二荒山(ふたあらやま)神社:祭神は、豊城入彦命、相殿が大物主命、事代主命。

二荒山は県都宇都宮市のほぼ中央にあります。昔は小寺峰(現在社殿のある臼ヶ峰の南方・馬場町交番付近)と臼ヶ峰の二峰を持った小高い荒山でした。山姿からして瓢型の墳墓であったと言う

学者もいます。江戸時代に街の割替えが行われ、山は二分され真中に道路が設けられて、小寺峰は次第次第に削られ今日その原形を全く失い、標高約130mの臼ヶ峰のみが残っています。
二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代に遡ります。当社は何度も火災にあい、近世に入ってからも天正13 年、安永2 年、天保3 年、更に明治維新の戊辰の役と4度もあって

古い記録のほとんどが焼失しています。現在残っている社記には、第16 代仁徳天皇の御代に毛野国が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられます。

この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後承和5 年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられています。
延長5 年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には「下野國河内郡一座大 二荒山神社 名神大」と記載があります。栃木県内唯一の名神大社として「お明神さま」

「ふたあらさん」の名で広く親しまれ、篤く崇められてきました。平安から鎌倉時代には各々の国で最も格式が高いとされる神社を一之宮としました。二荒山神社もまた「下野国一之宮」と

よばれ、宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説があります。
宇都宮はこの二荒山神社を中心に、平安・鎌倉時代には神社の門前町として発展し、江戸時代には城下町として繁栄しました。 北関東の経済・文化の中心都市として発展した現在でも、

お正月や七五三など暮らしの節目にたくさんの市民が参拝に訪れます。
また、 宇都宮市の多くの祭りが二荒山神社に由来しており、 神輿が担がれる盛大なお祭りに地域は賑わい活気に満ちています。(宇都宮二荒山神社HPより)

 

日光にも「二荒山(ふたらさん)神社」があります。私は、同じ系統と思ってましたが、全然別の神社なんですね。

日光二荒山神社は、霊峰二荒山(ふたらさん・男体山)⇒標高2,486㍍を神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。

  

宝蔵寺:本尊の普賢菩薩坐像は、文和3年(1354)の造立。鐘楼門の「およりの鐘」は、宇都宮八代城主貞綱が寄進したものです。

  

篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営んでいました。嘉永4年(1851)築の石蔵や明治28年(1895)築の店蔵は国指定重要文化財です。

雨の中、どうにかJR宇都宮駅まで歩いてきました。

  

次回は、いつになるかわかりませんが、奥州街道としてとりあえず白河宿まで歩いてみたいと思ってます。

 

 


日光街道(奥州街道)№12「小金井宿~石橋宿~雀宮宿」(栃木県下野市~宇都宮市)

2021-11-24 18:42:32 | 奥州街道(日光街道)

№11からのつづき。

下野市役所から旧道を歩きます。

  

道中「パパイアの木」を見かけました。南国でもないのに栃木で見るとは、正直びっくりしました。

「下石橋の一里塚」は、標識は立っているのですが、どこにあったかは不明です。

右側のとんかつ屋さんの横に「長屋門」があります。これは下総関宿(せきやど)藩の門を移設したそうです。

  

丸大食品正門に大きな「慈母観音像」が立っています。理由はわかりません。

その先、夕顔橋の所には、10体の石仏が立っています。夕顔橋の石仏群というそうです。

  

本町の信号の先に愛宕神社がありましたのでここで休憩します。

 

愛宕神社には、「二十三夜塔」「勝善神(そうせんしん)」の石碑があります。

二十三塔とは、陰暦の23日の夜に人々が集まって神仏を祀り、飲食を共にしながら月の出を拝み、その信仰の深さを形に表す為に造立した塔です。

勝善神とは、蒼善神とも書き、馬の神を祀ったものです。主に関東、東北地方で信仰の対象でした。

 

石橋宿の本陣跡は、現在の伊沢茶舗にありました。脇本陣は、伊沢写真館でした。(写真撮り忘れました)

石橋の地名は、池上明神前の石橋に由来します。宿は、幕府領で代官北条雄之助が支配しました。天保14年(1843)の日光道中大概帳によると宿内家数は、79軒。

うち本陣1,脇本陣1,旅籠30軒、宿内人口は、414人(男192人、女222人)で干瓢、瓢箪細工が名物でした。

旧石橋町は、グリム兄弟の出身地のドイツ・ヘッセン州にある旧シュタインリュッケン(ドイツ語で石橋)と姉妹都市です。

石橋地区は、「グリムの里」として街づくりを行い、駅の北北西1,5kmには、グリムの森、グリムの館があります。

街の中には、メルヘンチックな街灯、駅には、時計台が立っています。

  

開雲寺は、将軍日光社参の際、「御殿所」となりました。慶長9年(1604)幕府から寺領7石を賜り、葵の紋の使用が許されました。

  

先を行きます。「石仏石塔群」があります。このうち「十九夜塔」は、女の人を助ける如意輪観音のことです。主に安産の神様として地元の人たちの進行を集めています。

毎月旧暦の19日の夜に地区の女の人が十九夜様のまわりに集まって灯篭や蝋燭、線香などを上げました。そして十九夜念仏を唱えてお産が軽く済むよう祈ったそうです。

この近くには、近くで採れる大谷石を使った蔵や家の壁が目につきます。

  

河内郡上三川町(かみのかわまち)に入りました。上三川町は、現在河内郡の中で唯一の自治体です。

 

鞘堂地蔵尊は、康暦2年(1380)小山宇都宮の戦い(茂原合戦)で小山義政が宇都宮基綱を破りました。村人が戦死者の鞘を拾い集め、ここに埋葬し堂を建て石造地蔵を安置しました。

八代将軍吉宗日光社参の際に休息所となりました。

 

星宮神社は、鞘堂新田村の鎮守です。人々の背負う星々(一生)を守護しています。

街道は、宇都宮市に入りました。

  

  

雀宮(すずめのみや)宿は、日光道中の整備に伴い、雀宮村が開かれ宿駅になりました。天保14年(1843)の日光道中大概帳によると雀宮宿の宿内家数は、72軒、うち本陣1,

脇本陣1,旅籠38軒で宿内人口は、268人(男138人、女130人)でした。

本陣は、小倉半右衛門が勤め、名主、年寄を兼ね、建坪は115坪でした。小倉家は宇都宮氏の家臣として二万石を領しましたが宇都宮氏が没落するとこの地に土着しました。

本陣は、現在ありませんが、酒屋さんの前に石碑が立っています。

脇本陣は、芦谷治左衛門が勤め、名主、年寄を兼ね、建坪は94坪余でした。明治14年(1858)明治天皇奥州巡幸の際、休息所となりました。

現在でも門構えや式台等を残しています。

  

仮本陣の先の方に雀宮の地名の由来になった「雀宮神社」があります。長徳3年(997)八幡太朗義家の創建されました。歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されています。

この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば遠乗りをしてお参りに来たそうです。皇族である御諸別王を

祭神としていることから、1713年(正徳三年)東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、諸大名は下馬して参拝したと

伝えられています。

雀宮由来】百人一首の歌人藤原実方が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫のもとに向かいましたが、この地で病死してしまいました。夫も任地で死亡しましたが、

霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て息絶えました。里人が憐み塚上に綾女神社を祀り供養しました。

また、このような民話も残されています。昔々、食っては寝てを繰り返すばかりで、仕事もせず怠けている男がいた。ある日、村人は男を少し懲らしめてやろうと、針の入った饅頭を男に与えた。

男が饅頭を食べると、針でお腹が痛くなった。しばらく苦しんでいると、雀がニラをついばんでいるのを見つけた。珍しがって見ていると、雀の糞から縫い針が出てきた。

男は雀を真似てニラをたくさん食べると、お腹から針を出すことに成功した。これ以来、男は改心して働き始め、雀に感謝してお宮を建てた。これが雀宮の由来なのだと。

 

雀宮神社の所が東京から100kmの地点です。私の日光街道は、旧道を廻ったり、寄り道をしたりしているので100km以上にはなっていると思います。

「一里」という信号の所に江曾島の一里塚があったそうですが、東北線施設のため取り壊されたそうです。 

  

時間は4時半を過ぎたばかりですが、だんだん暗くなってきました。まだ九州では明るい時間です。(1時間ぐらい違うのかな?)

先を急ぎます。国道4号線もこのあたりから「東京街道」という名称に変わりました。

 

SUBARUの所に来るとまだ5時前ですが、もう真っ暗です。暗い中歩くのは危険ですので今日はここで終わりにします。

  

ちょうどSUBARUの所にバス停がありましたのでここからバスで宇都宮駅に帰ります。

 

 


日光街道(奥州街道)№11「小山宿~新田宿~小金井宿」(栃木県小山市~下野市)

2021-11-22 09:03:45 | 奥州街道(日光街道)

11/7 日本スリーデーマーチが行われた埼玉県東松山市から宇都宮に移動してきました。台風の影響やコロナ禍で歩けなかった「日光街道」を2年半ぶりに再開します。

11/8(月)宇都宮から前回ゴール地の小山駅へ。小山駅は、学生さんの姿が多くみられます。駅の近くに白鳳大学があるからでしょうか?駅前には白鳳大学のスクールバスが止まっています。

駅前本町の交差点を右へ。これから宇都宮に向かって歩きます。

結城街道は、水戸城下と奥州街道の小山宿を結ぶ街道で、街道沿いには、笠間藩の藩庁が置かれた笠間城、下館藩の藩庁が置かれた下館城、結城藩の藩庁が置かれた結城城の城下町を結んだ

ことから参勤交代でも利用されて重要視されました。人や物資の往来も多く、各宿場町や城下町も繫栄しました。

  

興法寺は、嘉祥2年(849)創建の古刹で本尊は阿弥陀三尊。元は小山城内にあり、小山氏代々の祈願寺でした。境内の地蔵尊には、戊辰戦「小山の戦い」の碑弾痕があります。

   

蛸屋総本店は、元禄11年(1698)創業のお菓子屋さんです。まだ、開店前なのか、静かでした。先を行きます。両毛線の踏切を越えます。両毛線は、小山から新前橋まで結ぶJRの路線です。

 

日枝神社のケヤキは、樹齢400年以上です。

  

喜沢の交差点に来ました。昔は、ここに立場茶屋がありました。男體山の下に「右奥州、左日光」の文字が刻まれています。裏に行くと、馬頭観音、日清、日露、日支出征馬碑があります。

  

喜沢の信号から旧道に入ります。喜沢の一里塚は、ホテルの向かい側にあるとガイドブックに書いてますが、説明看板もなく、このあたりと推測してみました。

 

旧街道は、東北新幹線沿いに歩きますが、途中、工事中で4号線の方に迂回します。

新田(しんでん)宿」は、江戸日本橋から数えて13番目の宿場。日光街道の中でも最も小さな宿場でした。現在は栃木県小山市羽川に相当します。

天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)ありました。

宿内の家数は59軒、人口は244人(男127人、女117人)でした。

  

本陣は、青木本陣。本陣の近くの民家には、昔の屋号が付けられています。

 

  

下野(しもつけ)市に入りました。下野市は、2006年(平成18)河内郡西河内町、下都賀郡国分寺町、下都賀郡石橋町が合併して「下野市」が誕生しました。

 

小金井一里塚:江戸日本橋より22里目。保存状態が良く、日光街道で唯一、国指定史跡です。

  

領主陣屋跡:現橘屋菅井製菓。この地を領した下総佐倉藩の出張陣屋跡です。代官を務めた大槻氏の位牌を残しています。

その隣には、「俳諧の句碑」が立っています。この碑は、文化4年(1807)に小金井宿蔵田屋(大越家)の屋敷内に建てられた俳諧の句碑。

句碑の一面には、慈眼寺三十世住職である宣照による四季の発句と江戸談林俳諧の頂点にあった、谷素外の発句の下に小金井宿俳人12人の発句が刻まれています。

  

慈眼寺は、建久7年(1196)新田一族の祈願寺として創建された真言宗の古刹です。本尊は、勢至菩薩。境内には、御成御殿(御座所)がありました。

日光社参の将軍は、ここで昼食を摂りました。

  

慈眼寺の隣には、「金井神社」があります。小金井宿の鎮守です。

小金井という地名は、近くに小金井という湧水の池があり、旱魃(かんばつ)の時にも枯れることがありませんでした。池の中から黄金が出てきたという伝承に由来します。

この井から「金井村」という村名が生じ、のちに小金井村になりました。

小金井宿」は、延宝9年(1681)宿の西側にあった金井村を移住させて宿駅としました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、小金井宿の宿内家数は、165軒、

うち、本陣1,脇本陣1,旅籠43軒で宿内人口は、767人(男374人、女393人)でした。

本陣は、大越家が務め、本陣門を残しています。

 

 

蓮行寺は、元徳元年(1329)の創建、足利尊氏の古文書が所蔵されています。宇都宮藩主は、当寺に控え、日光社参の将軍を出迎えました。

薬師堂の本尊は、行基作「木造薬師如来立像」でしたが、今は、慈眼寺に保管されています。

 

歩いていると、桑の木があります。この地でも蚕を飼っていたのでしょうか?

  

先の方に下野市役所が見えてきました。ここで休憩します。

  

                                                               「石橋宿~雀宮宿~宇都宮宿」につづく

 

 

 

 


楽しいウォーク「東区海浜を歩く」(福岡市東区)

2021-11-20 05:11:16 | ウォーキング

11/17(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「東区海浜を歩く」でした。

集合場所は、JR福工大前駅。参加者50名。9:20スタート。

 

駅の近くには、福岡工業大学、福工大付属城東高校、立花高校などがあります。

  

空を見ると、和白病院のドクターヘリが飛んでいます。

 

  

 

 

香住ヶ丘公園で休憩。

 

香住ヶ丘公園から再スタート。途中、香椎花園の横を通ります。香椎花園は、1938年(昭和13)当時の博多湾鉄道汽船が「香椎チューリップ園」として開園し、1956年(昭和31)

香椎花園になりました。現在の香椎花園の中には、プロ野球西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)の二軍球場「香椎球場」もありました。

その香椎花園も今年12月30日で閉園が伝えられています。今月28日には、JR九州ウォークで「さよなら香椎花園」のイベントがあります。

 

あいたか橋を通り、人工島へ。

 

 

グルッピーの森へ。なんと、桜が咲いています。樹木の紅葉と桜のコラボもいいですね。

  

 

人工島から御島かたらい橋を通り、香椎潟へ。

 

御島神社は、香椎宮の末社の一つで、神功皇后が神事を行った所として日本書紀などに伝えられています。

 

 

香椎潟から香椎の町に入ります。11:40 JR香椎駅にゴールしました。

  

 

 


日本スリーデーマーチ3日目20kmコース(埼玉県東松山市他)

2021-11-19 08:30:41 | ウォーキング

歩き旅4日目【日本スリーデーマーチ3日目

日本スリーデー3日目。久しぶりに20kを2日間歩いたので足がパンパンに張っています。老体に鞭打って頑張って歩きます。

今日は終わった後、大宮~宇都宮に移動します。8:27スタート。

 

  

虎御石:1日目にアップしましたが、写真が間違っていました。

 

唐木中央公園へ。ここまで6km。公園をスルーしようかと思っていましたら、飯能のIさん、鶴岡のWさんが休憩中でした。しばし雑談し再スタート。

 

打木村治の作品「天の園」は、明治時代後半から大正時代、作者が小学校時代を過ごした唐子村を舞台に描かれた小説です。その唐子が散歩コースになっています。

 

都幾川(ときがわ)にやってきました。

 

ここには、沈下橋(冠水橋)稲荷橋があります。※稲荷を「とうか」と呼びます。近くに稲荷神社があるため付けられました。

沈下橋(冠水橋)は、欄干がありません。洪水で橋が水中に沈下することを想定し、水の抵抗を受けにくくし、欄干があることで流木が引っ掛かり、水の流れが悪くなることを防ぐのが目的です。

 

沈下橋を渡ると50k・40k、30k・20kの分岐点です。20k・30kコースは、高本山峠を通ります。マップには急坂と書いてあります。

若いころだったら、一気に登れたと思いますが、もう「歳」ですのでゆっくりゆっくり登っていきます。

 

 

坂を下り、岩殿観音に向かいます。参道を見ると、各家の所に旧屋号が付けられています。これは、旧街道の宿場町を歩いているとよく見れる光景です。

調べてみると、総門橋から岩殿観音正法寺の石段下迄やや登り気味に参道が一直線に伸びている。江戸時代に坂東三十三所観音霊場巡りが普及すると第十番札所として岩殿観音は、比企地方は

もとより関東各地にまで知られ、縁日には、多くの信者で賑わった。総門橋内の「院内」には、正学院をはじめ、かつての三十六坊には、僧がおり、修験者が訪れ、昭和の初めまで

多くの旅館や商店が軒を並べていたそうです。

     

旅館丁子屋は、江戸時代から昭和初期まで営業されていたそうです。玄関には、札が並べられています。

  

岩殿観音:社伝によれば、養老年間に沙門逸海が千手観音像を刻み開山し、正法庵と称し、鎌倉時代初期に源頼朝の命で、比企能員(ひきよしかず)が復興した。(クリックすれば比企能員の説明)

頼朝の妻北条政子の守り本尊だったと伝っている。天正2年(1574)栄僧が中興開山となる。天正19年(1591)家康から二十五石の朱印地を与えられる。

 

  

  

 

岩殿観音を下りると、20k、30kの分岐点。20kは、物見山に向かいます。

 

平和資料館へ向かいます。

  

物見山公園駐車場がチェックポイント。

 

 

例年ですと千年台公園で豚汁の接待があるのですが、今年はコロナの影響で中止。ですからコースが少し変わっています。

 

  

高坂に入りました。入ってすぐ目立つのが、「高坂彫刻プロムナード」。

高坂駅西口から約1キロメートルの野外彫刻ギャラリー。ここには、田口弘(元東松山市教育長)と親交のあった彫刻家高田博厚の作品32体が並んでいます。

彫刻には、作者の短文が添えられていて、作品を一層引き立たせています。

1986年、高坂駅西口の区画整理事業により市街地環境が整備されたことから、まちづくりの一つのシンボルとして設置されました。

   

コースは、高坂駅の構内を通り抜けます。

 

 

新東松山橋を渡ります。のもとさくらの里は、桜がきれいでしょうね。

 

 

東松山駅を通ります。ゴールまであとわずか。

 

12:55 ゴールしました。3日間完歩しましたので「日本スーパーマスターウォーカー」の称号をいただきました。

このスーパーマスターウォーカーとは、北は北海道南は沖縄の全国18のマーチングリーグすべて参加し完歩したものに与えられる称号です。

 

 

東松山市からは、古代鬼瓦の置物をいただきました。家内安全、、厄除けになるそうです。

 

3日目のGPS。

このあと、家内の知人に会うため大宮に向かいました。その後、大宮から新幹線で宇都宮に移動。

明日から、中断していた日光街道(奥州街道)を再開します。

 

 


日本スリーデー2日目20kmコース(埼玉県東松山市他)

2021-11-16 18:04:07 | ウォーキング

歩き旅3日目【日本スリーデー2日目20kmコース

スリーデー2日目は、三郷市の歩友Oさんといっしょに歩きます。Oさんとは、2019年5月以来の再会です。

今日も8時半にスタートします。昨日の足のコリはお風呂に入ったからか、今朝はこってません。

  

上沼公園、市野川を通り、岩室観音へ。岩室観音のあたりには、松山城跡もあります。

   

岩室観音は、弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4センチメートル)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持していたと

伝えられており、天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に松山城の落城に伴い建物の全てが焼失したといわれている。
現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に龍性院第三世堯音が近郷の信者の助力を得て再建したものと伝えられている。お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては

めずらしいものである。(吉見町HPより)

 

岩室観音の先には、「吉見百穴(ひゃくあな)」です。ここまで約4km。

  

吉見百穴は、古墳時代後期~終末期に造られた横穴墓群で、大正12年3月7日に国の史跡に指定されています。現在は219基の穴が確認されています。吉見町を代表する史跡であり、

各横穴は、玄室・羨道の2部分からなり玄室は広さが4~6平方m内外、8つの形式がとられ棺座をもつものが多い。その一部にヒカリゴケが自生しています。

戦時中、横穴群のある岩山に地下軍需工場の建設が行われ、数十基の横穴が壊されましたが、戦後吉見百穴保存会が結成され、積極的な保存管理が行われました。

 

 

ヒカリゴケというのは、初めて耳にしました。覗いてみましたが暗くてわかりませんでした。 

 

吉見百穴を出ると20k、30kの分岐点です。20kは、滑川の桜並木を歩きます。

 

 

歩道橋を渡り市民病院へ。東松山ボタン園がチェックポイント。東松山ぼたん園は、市の花「ぼたん」の普及活動の一環として平成2年3月に開園し、現在のぼたんの株数は約6500株と、

日本最大級のぼたん園です。

 

   

  

 

宗悟寺の前には、「鎌倉殿の13人」という幟が立っています。来年のNHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」だそうです。今年は「青天を衝け」が埼玉県深谷市、というと、来年も埼玉県が

大河ドラマの舞台になるのですね。

  

平安末期から鎌倉前期を舞台に、源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きと、その勝利者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公に描きます。

タイトルの「13人」とは、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「十三人の合議制」を構成した御家人たちを指しています。

源義朝の子頼朝は、平治の乱で負けて伊豆へ流罪となり、乳母であった比企の尼は、ここ比企に移り、比企を請所として20年もの間、伊豆の頼朝に物資を送り、母親のように精神的にも

支援しました。

 

       

宗悟寺から国営森林公園へ向かいます。

国営武蔵丘陵森林公園は、埼玉県比企郡滑川町と熊谷市(北口周辺のみ)にまたがる比企北丘陵にある国営公園。国の明治百年記念事業の一環として1974年(昭和49)開設されました。

   

今日、森林公園は無料開放日です。

 

 

 

  

  

 

南口から森林公園緑道を通ります。

 

 

 

 

13:45ゴールしました。

 

東松山市役所には、「楽しみながら歩けば風の色がみえてくる」の記念碑が立っています。

  

今日2日目のGPSです。

 


11月サタデーウォーク「御笠川を歩く」(福岡県大野城市)

2021-11-15 09:01:12 | ウォーキング

11月のふくおかウォーキング協会のサタデーウォークは、「御笠川を歩く」でした。

集合場所はJR水城駅。参加者は33人。

水城駅には、「水城跡」があります。663年の白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いに敗れた後、唐・新羅からの攻撃に備え築かれた防衛施設(人工の土塁)。国の特別史跡。

日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、

大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。

また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。

水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、

博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの

土塁があったのです。(大野城市HPより)

  

9:30スタート

  

西鉄大牟田線「春日原~下大利」間は、立体交差事業が行われており、完成は2023年になりそうです。

 

最初の休憩地は「大文字公園」。この辺りは、福岡空港が近いので飛行機が頻繁に飛んでいます。

 

 

大文字橋を渡り、御笠川沿いに歩きます。

 

JA産直店「ゆめ畑」で2回目の休憩。

 

休憩後再スタート。山田橋を渡り3号線に向かいます。雑餉隈恵比寿神社の横には、「那珂郡、御笠郡」の道標があります。

 

大野城市には、市のPRキャラクター「大野ジョー」君がいます。大野城跡の石垣をモチーフにしています。

  

西鉄白木原駅が仮ゴール。私は、車を大野城駅の近くに置いていましたから白木原駅から500m先の大野城駅でゴールしました。

 

今日のGPSです。