今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

大岡越前の日

2005-02-03 | 歴史
今日(2月3日)は「大岡越前の日」
1717(享保2)年2月3日「大岡越前守忠相が南町奉行に就任した。
大岡越前守忠相といえば、「大岡政談」に登場する江戸時代の名奉行として、よく知られているが、、この「大岡政談」に出てくる大岡忠相は、実在の忠相とはほとんど無関係である。
あの大岡裁きのひとつとして有名な「天一坊事件」。将軍吉宗の御落胤と称した天一坊事件は、実際にあった「源氏坊改行事件」に粉飾したもので、この一味は品川で関東郡代に逮捕され、評定所で吟味を受け、大目付立会いのもと、勘定奉行稲尾正武から享保14年4月に判決を受けたのが史実であり、このように、大岡政談は、大岡忠相とは関係のない事件をも彼一人に集めて作りかえられたものである。
実際の大岡忠相は、事件の裁きなどは数えるほどしかしておらず、八大将軍吉宗全盛時代の卓越した実務官僚として実力を発揮した人物なのである。
将軍となった吉宗の第一の課題は、元禄末の頃にほぼ行き詰まっていた幕府財政を立て直すことであり、これは、彼の信頼していた勝手掛老中水野忠行を中心とする者が行い、建て直しに成功した。これと関連して、吉宗は行政機構の整備にも力を入れそれまで一体化していた行政と司法の分離を図ることで、事務のスピード化をはかり、又、法の整備と判例の編集に力を入れた。次に行ったのが、主として江戸町奉行大岡忠相を使っての「都市政策」と呼ばれる一連の政策実施である。
当時、江戸は100万の巨大都市としての多くの問題を抱えていた。
その第一が物価問題である。これに対して、忠相は、大阪と江戸の物資流通の実態を調査し、証人達を取り扱い商品ごとに、問屋・仲間・小売の三段階にわけて仲間・組合を作らせ、それを通して、物価の抑制を行った。
又、江戸は火災の多い都市であり、従来の官制の消化制度のほかに町人たちの自衛消化制度であるいろは四十七組の町火消組を編成した。又、江戸の各地に火除地と呼ばれる多数の空地を作り、木などを植えて小公園にした。家屋も燃えやすいこけらぶきから、瓦葺に作りかえている。そして、江戸各所の悪所の整備にも力を入れている。
これら享保の改革は、徳川吉宗がいなければできなかったし、又、大岡忠相がいなければ、改革の遂行できなかっただろう。
大岡忠家は、1736(元文元)年町奉行から寺社奉行に役替えになった。寺社奉行への役替えは、栄転で表面上は何の問題もないのだが、客観的には、敬して遠ざけられたとされている。その第一は、幕府第一の実権者で彼を最も庇護していたと考えられる有馬氏倫の死で、彼はその翌年に寺社奉行という地位は高いが実権のないポストに祭り上げられた。
大岡が町奉行になって以来金銀相場のことで争っていた両替商で、大岡のいうことを聞かず不当に相場を操作した者たちを伝馬町の牢にぶち込むが、彼らは、大岡に代わって事件担当となった稲生正武によって、「これからこんなことのないように」との厳重注意をされただけで、すぐに釈放されている。
吉宗政権のとった政策を、江戸時代に、これほど多様な政策手段を用いて遂行した官僚は少ない。
今の世の中、行政改革・行政改革と口先の言葉ばかり立派などこかの政党の人気者、そして、反対ばかりで何もしない行政やどこかの頼りない政党を見るにつけ、本当に情けなくなるのは私だけではないだろう。徳川吉宗や大岡忠相の爪の垢でも、煎じて飲んで欲しいね~。過去、日本では、ものは言わぬが実行力のある人が、立派な人とされたにだけどね~。
(画像は、新歌舞伎座チラシ。加藤剛初出演。大岡忠相春秋録「晴朗の風」。左上、吉宗役の山口崇)
因みに遠山金さんの日は、3月2日である。
参考:
大岡越前守忠相の業績
>http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/newsection/sangyou/tadasukegyouseki.html