1869年の今日(2月5日)、明治政府が大阪に造幣局を設置。
香港の造幣局からイギリス製機械を購入し、イギリス人技師の指導を受けながら、2年3カ月の月日をかけ、明治4年(1871年)に完成。
この建物の設計を担当したのは、この造幣局で使う機械の輸入ブローカーであったイギリス人商人T.グラバー(長崎県の観光地「グラバー邸」は彼の邸宅)が仲介したアイルランド出身のイギリス人技師 T.Jウォートルス。
開業式は、右大臣三条実美、参議大隈重信などの政府高官多数と、イギリス公使パ-クス他各国の公使が参加して盛大に行われたそうだ。
造幣局応接所は翌年「泉布観」と命名されたが、今は北隣りの桜宮公会堂に移されており、大阪に現存する最古の洋式建築として、元造幣局鋳造所玄関の公会堂玄関とともに国の重要文化財に指定されている。又、造幣局は、桜の通り抜けで有名だが、造幣局の桜は開業時に近くにあった藤堂藩の蔵屋敷から移植されたものだという。
ところで、皆さん、お金は財務省(旧大蔵省)造幣局で作っていると思っている方が多いと思うが、正確には硬貨(貨幣)は財務省造幣局で作っているが、紙幣は財務省印刷局が製造しているんだよね。また貨幣は国が発行しているが、紙幣は日本銀行(法人)が発行している。現在では貨幣は補助通貨として使用され、メインは紙幣となっているが、元々は金や銀でできた貨幣がメインだったのである。
1871(明治4)年、太政官が制定した「新貨条例」により、日本の通貨単位は「円」となった。
当時は金本位制であったため、初期の通貨には実際に金が含有されていた(例えば1 円貨は純金0.4 匁つまり1.5gを含有)。そして、この時から、100銭を1円と定める10進法が導入(従来は1両=4分=16朱の4進法)された。この貨幣の10進法への切り替えが、その後の、日本人の数学能力を飛躍させたのではないだろうか・・・。
又、これらの貨幣を造るには、地金の分析、サビ落とし、洗浄など金属の製錬に硫酸が必要であったが、当時の日本では硫酸を大量生産出来ず、ドイツから輸入していたので、日本初の硫酸工場が造幣局に造られたというである。そして、造幣局で作られた硫酸が市販もされたそうだが、日本ではまだ消費量が延びず、中国などへも輸出したのだとか・・・。
明治に大阪の地に創業以来、我が国経済の根幹をなす貨幣の円滑な供給などを行ってきた造幣局は、財務省造幣局として登録された事業者名を、2004(平成15)年4月1日、から「独立行政法人造幣局」として新たな出発をしている。造幣局は、大阪市に本局、東京都及び広島市に支局をもつている。余談になるが、 新政府が1868(慶応4=明治元)年5月、主に戊辰戦争の資金調達のため発行した日本最初の全国通用紙幣(太政官札)は、「通用十三年限」としていたが、大量の偽造紙幣が各地で発行され、札の信用を失墜したという。その為、通用期限の短縮等をし、その後の1872(明治)5年2月発行の「明治通宝札」には、ドイツの印刷技術が使われ「ゲルマン紙幣」と呼ばれた。
去年、日本の最新技術を持って作られた新紙幣の偽札がもう出回っているが、何時の時代も、偽札には頭を悩まされているんだね~。
最初は、Blogで造幣局やお金の話など面白くもないかと、思っていたのだが、いろいろ調べてみるとこんな面白いテーマーはないね~。
大阪の春の風物詩ともなっている造幣局の“桜の通り抜け”の一角に美しいレンガ造りの建物「造幣局博物館」がある。桜見物もいいが、一度、暇なときなど博物館を訪れるのもいいね~。
(画像は、造幣博物館前に野外展示されているフランス製の貨幣刻印機。)
参考:
独立行政法人造幣局HP
http://www.mint.go.jp/menu/index.html
造幣局旧正門・旧造幣寮鋳造所正面玄関・泉布観
いにしえの造幣局
http://tsukacci.ld.infoseek.co.jp/zouheikyoku.htm
「円」が作った化学工業
http://www.tanken.com/zoheikyoku.html
近現代・日本のお金
http://chigasakioows.cool.ne.jp/index.shtml
エッセイ2-8:新紙幣(明治通宝札)
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_gra2-8.htm
明治維新の交換レート値
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/J030.htm
香港の造幣局からイギリス製機械を購入し、イギリス人技師の指導を受けながら、2年3カ月の月日をかけ、明治4年(1871年)に完成。
この建物の設計を担当したのは、この造幣局で使う機械の輸入ブローカーであったイギリス人商人T.グラバー(長崎県の観光地「グラバー邸」は彼の邸宅)が仲介したアイルランド出身のイギリス人技師 T.Jウォートルス。
開業式は、右大臣三条実美、参議大隈重信などの政府高官多数と、イギリス公使パ-クス他各国の公使が参加して盛大に行われたそうだ。
造幣局応接所は翌年「泉布観」と命名されたが、今は北隣りの桜宮公会堂に移されており、大阪に現存する最古の洋式建築として、元造幣局鋳造所玄関の公会堂玄関とともに国の重要文化財に指定されている。又、造幣局は、桜の通り抜けで有名だが、造幣局の桜は開業時に近くにあった藤堂藩の蔵屋敷から移植されたものだという。
ところで、皆さん、お金は財務省(旧大蔵省)造幣局で作っていると思っている方が多いと思うが、正確には硬貨(貨幣)は財務省造幣局で作っているが、紙幣は財務省印刷局が製造しているんだよね。また貨幣は国が発行しているが、紙幣は日本銀行(法人)が発行している。現在では貨幣は補助通貨として使用され、メインは紙幣となっているが、元々は金や銀でできた貨幣がメインだったのである。
1871(明治4)年、太政官が制定した「新貨条例」により、日本の通貨単位は「円」となった。
当時は金本位制であったため、初期の通貨には実際に金が含有されていた(例えば1 円貨は純金0.4 匁つまり1.5gを含有)。そして、この時から、100銭を1円と定める10進法が導入(従来は1両=4分=16朱の4進法)された。この貨幣の10進法への切り替えが、その後の、日本人の数学能力を飛躍させたのではないだろうか・・・。
又、これらの貨幣を造るには、地金の分析、サビ落とし、洗浄など金属の製錬に硫酸が必要であったが、当時の日本では硫酸を大量生産出来ず、ドイツから輸入していたので、日本初の硫酸工場が造幣局に造られたというである。そして、造幣局で作られた硫酸が市販もされたそうだが、日本ではまだ消費量が延びず、中国などへも輸出したのだとか・・・。
明治に大阪の地に創業以来、我が国経済の根幹をなす貨幣の円滑な供給などを行ってきた造幣局は、財務省造幣局として登録された事業者名を、2004(平成15)年4月1日、から「独立行政法人造幣局」として新たな出発をしている。造幣局は、大阪市に本局、東京都及び広島市に支局をもつている。余談になるが、 新政府が1868(慶応4=明治元)年5月、主に戊辰戦争の資金調達のため発行した日本最初の全国通用紙幣(太政官札)は、「通用十三年限」としていたが、大量の偽造紙幣が各地で発行され、札の信用を失墜したという。その為、通用期限の短縮等をし、その後の1872(明治)5年2月発行の「明治通宝札」には、ドイツの印刷技術が使われ「ゲルマン紙幣」と呼ばれた。
去年、日本の最新技術を持って作られた新紙幣の偽札がもう出回っているが、何時の時代も、偽札には頭を悩まされているんだね~。
最初は、Blogで造幣局やお金の話など面白くもないかと、思っていたのだが、いろいろ調べてみるとこんな面白いテーマーはないね~。
大阪の春の風物詩ともなっている造幣局の“桜の通り抜け”の一角に美しいレンガ造りの建物「造幣局博物館」がある。桜見物もいいが、一度、暇なときなど博物館を訪れるのもいいね~。
(画像は、造幣博物館前に野外展示されているフランス製の貨幣刻印機。)
参考:
独立行政法人造幣局HP
http://www.mint.go.jp/menu/index.html
造幣局旧正門・旧造幣寮鋳造所正面玄関・泉布観
いにしえの造幣局
http://tsukacci.ld.infoseek.co.jp/zouheikyoku.htm
「円」が作った化学工業
http://www.tanken.com/zoheikyoku.html
近現代・日本のお金
http://chigasakioows.cool.ne.jp/index.shtml
エッセイ2-8:新紙幣(明治通宝札)
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_gra2-8.htm
明治維新の交換レート値
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/J030.htm