今日は、「北方領土の日」
政府は、北方領土返還運動を盛り上げる為に、1981(昭和56)年1月6日の閣議了解によりに毎年2月7日を「北方領土の日」とすることを決めた。
1855年2月7日(旧暦では安政元年12月21日)は、現在の静岡県下田市にて日魯通好条約が調印された日である。この条約は、日本とロシアの間に通商を開くとともに、平和的な話し合いによって両国の国境を択捉島とウルップ島の間と定めたもので、これによって、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島は日本の領土であることが、ロシアとの間で法的に確定している。
1875(明治8)年、日本はロシアと「樺太千島交換条約」を結び、千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、樺太全島を放棄した。この条約には、譲り受ける千島列島としてシュムシュ島からウルップ島までの18の島の名前をあげている。このことは歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島が、千島列島に入らないことを物語っている。1905(明治38)年、日本とロシアは「ポーツマス条約」を結び、南樺太が日本領となる。
その後、第2次世界大戦後の1951(昭和26)年「サン・フランシスコ平和条約」が締結され、日本は千島列島・南樺太の権利及び請求権を放棄したが、日本が放棄した千島列島とは、ウルップ島より北の島のことで、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島はその中に含まれていない。だが、この条約の署名をソ連が拒否したため、日本はソ連との間で個別に平和条約を結ぼうとして、交渉を始めた。そして、1956(昭和31)年、「日ソ共同宣言」が署名され、領土問題を含む平和条約の締結交渉が継続されることになり、まず国交の回復が図られた。しかし、その後、ソ連との間で交渉が続けられてきたが、未だに領土問題の進展が見られないままである。
日本の北方領土のことは、今から360年以上も昔の1604(慶長9)年に、松前藩が蝦夷地(北海道)を治めた時すでに、先住のアイヌの人達と交流があったと同藩初期の記録「新羅(しんら)の記録」等に記述されているそうである。
又、現存する地図のうち北方領土が表されたもっとも古いものでは、1644年(正保元年)に幕府が作成した「正保御国絵図(しょうほおくにえず)」があり、この中にすでに「くなしり」「えとろほ」などの島々の名前が書かれているという。このことからも、北方領土(四島)は、日本人によって開拓され、日本人が住みつづけた島々、つまり、我が国固有の領土であり、また、国際的諸取決めからみても、我が国に帰属すべき領土であることは疑う余地はないものと思う。
第二次世界大戦末期、わが国がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した8月15日から3日後の8月18日にソ連が千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島に上陸し、その後、島づたいに南下し、8月28日択捉島に上陸、次いで色丹島、国後島、歯舞群島と、9月5日までにこれら四島をすべて占領してしまったという。このような 不法占拠が未だに続いているのであるが、最近は、北方四島の問題は、余り、話題にもならない。「北方領土の日」があるなんて、知ってる人はどれだけいるのだろうか・・・?
国も国ならマスコミもマスコミ・・・、TVなどでは、毎日毎日、明けても暮れても、げすな番組ばかり放送し、このような国家問題を、放送しているのを最近は聴いたことがない。これで、マスコミの使命を果たしているといえるのだろうか?。ソ連からお茶を濁した二島返還問題などを提案され、妥協しようとする政治かもいるとか・・・
北朝鮮には、多くの人を誘拐され、ソ連には、領土を不法占拠され、中国には、原潜などで領土侵犯され・・・それでも、余り、国会やマスコミでも話題にもならず、又、国民がそれを怒ることもない。ただ、ブームのように、北朝鮮の拉致問題だけは、マスコミのネタに利用されているが・・・。2005年は「日露通好条約署名150年」にあたるというのだが・・・。なんと情けない国であろうか・・・。
(画像は日魯通好条約地図。北方領土問題対策協会より)
参考:
内閣府HP「北方領土問題」
http://www8.cao.go.jp/hoppo/index.html
北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/
政府は、北方領土返還運動を盛り上げる為に、1981(昭和56)年1月6日の閣議了解によりに毎年2月7日を「北方領土の日」とすることを決めた。
1855年2月7日(旧暦では安政元年12月21日)は、現在の静岡県下田市にて日魯通好条約が調印された日である。この条約は、日本とロシアの間に通商を開くとともに、平和的な話し合いによって両国の国境を択捉島とウルップ島の間と定めたもので、これによって、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島は日本の領土であることが、ロシアとの間で法的に確定している。
1875(明治8)年、日本はロシアと「樺太千島交換条約」を結び、千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、樺太全島を放棄した。この条約には、譲り受ける千島列島としてシュムシュ島からウルップ島までの18の島の名前をあげている。このことは歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島が、千島列島に入らないことを物語っている。1905(明治38)年、日本とロシアは「ポーツマス条約」を結び、南樺太が日本領となる。
その後、第2次世界大戦後の1951(昭和26)年「サン・フランシスコ平和条約」が締結され、日本は千島列島・南樺太の権利及び請求権を放棄したが、日本が放棄した千島列島とは、ウルップ島より北の島のことで、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島はその中に含まれていない。だが、この条約の署名をソ連が拒否したため、日本はソ連との間で個別に平和条約を結ぼうとして、交渉を始めた。そして、1956(昭和31)年、「日ソ共同宣言」が署名され、領土問題を含む平和条約の締結交渉が継続されることになり、まず国交の回復が図られた。しかし、その後、ソ連との間で交渉が続けられてきたが、未だに領土問題の進展が見られないままである。
日本の北方領土のことは、今から360年以上も昔の1604(慶長9)年に、松前藩が蝦夷地(北海道)を治めた時すでに、先住のアイヌの人達と交流があったと同藩初期の記録「新羅(しんら)の記録」等に記述されているそうである。
又、現存する地図のうち北方領土が表されたもっとも古いものでは、1644年(正保元年)に幕府が作成した「正保御国絵図(しょうほおくにえず)」があり、この中にすでに「くなしり」「えとろほ」などの島々の名前が書かれているという。このことからも、北方領土(四島)は、日本人によって開拓され、日本人が住みつづけた島々、つまり、我が国固有の領土であり、また、国際的諸取決めからみても、我が国に帰属すべき領土であることは疑う余地はないものと思う。
第二次世界大戦末期、わが国がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した8月15日から3日後の8月18日にソ連が千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島に上陸し、その後、島づたいに南下し、8月28日択捉島に上陸、次いで色丹島、国後島、歯舞群島と、9月5日までにこれら四島をすべて占領してしまったという。このような 不法占拠が未だに続いているのであるが、最近は、北方四島の問題は、余り、話題にもならない。「北方領土の日」があるなんて、知ってる人はどれだけいるのだろうか・・・?
国も国ならマスコミもマスコミ・・・、TVなどでは、毎日毎日、明けても暮れても、げすな番組ばかり放送し、このような国家問題を、放送しているのを最近は聴いたことがない。これで、マスコミの使命を果たしているといえるのだろうか?。ソ連からお茶を濁した二島返還問題などを提案され、妥協しようとする政治かもいるとか・・・
北朝鮮には、多くの人を誘拐され、ソ連には、領土を不法占拠され、中国には、原潜などで領土侵犯され・・・それでも、余り、国会やマスコミでも話題にもならず、又、国民がそれを怒ることもない。ただ、ブームのように、北朝鮮の拉致問題だけは、マスコミのネタに利用されているが・・・。2005年は「日露通好条約署名150年」にあたるというのだが・・・。なんと情けない国であろうか・・・。
(画像は日魯通好条約地図。北方領土問題対策協会より)
参考:
内閣府HP「北方領土問題」
http://www8.cao.go.jp/hoppo/index.html
北方領土問題対策協会
http://www.hoppou.go.jp/