1482(文明14)年のこの日(2月4日)に、足利義政が銀閣寺(慈照寺)の造営に着手したとされている。特別名勝、特別史跡の庭園は、西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政と善阿弥の指導によって作庭されたものであり、柿葺の屋根を持つ銀閣(観音殿)は質素・高貴な意匠である。また、諸芸道の達人を集め、芸術三昧の晩年を過ごしたとされている東求堂は、日本最古の書院造で四畳半茶室の原型と伝えられ、住宅建築遺構として国宝にも指定されている。銀閣寺は、1994(平成6)年、世界遺産条約に基づく世界文化遺産にも登録されている。室町時代の文化は、一般に、二つの山をもって語られ、室町前期の14世紀後半を北山文化、15世紀後半を東山文化と呼んでいる。
前者は、足利義満が将軍職を退いた後に建てた北山山荘金閣を、後者は、五代後の足利義政が、応仁・文明の乱後に造営した東山山荘の銀閣をその象徴としている。金閣の北山文化の華やかさに比べ、銀閣の東山文化は「わび・さび」の世界を漂わせており、この時代を、芸術的な高揚期と見られている。
義政は、応仁の乱(1467-1477)の後、将軍職を義尚に譲り、祖父である三代将軍足利義満の造営した北山殿金閣(鹿苑寺)にならって、隠居生活を過ごすために、かつて弟義視が住し、戦乱で焼けたままになっていた浄土寺跡地を山荘造営地とし、文明14年(1482)に東山山荘造営に着手した。義政が、この山荘に移住したのは1483(文明15)年6月のことであるが、山荘には、当時、日常の生活の場であった常の御所をはじめ、会所や泉殿、観音堂、西指庵(せいしあん)、持仏堂などの殿舎が作られた。このうちの、観音堂こと銀閣は1489(長享3)年2月に立柱上棟しているので、翌年(1490年)の正月7日に没した義政は、その完成を見ることはなかったと思われる。
ともかく、この観音堂と並ぶ草創期の建物が持仏堂の東求堂(とうぐうどう)であり、同仁斎(どうじんさい)はその一室である。この小書院座敷が、かっての隠者たちの入った山里の草庵の規模となっており、この四畳半という空間には、遁世脱俗の意味がこめられている。義政の営んだ四畳半が、同仁斎(韓愈『原人』の「聖人は一視同仁」を典拠とする)と命名されたのは義政の意図は別として興味深いものである。
義政の死後、彼の遺言により臨済宗相国寺派の寺に改められ慈照寺となったが、俗に、金閣寺(鹿苑寺)に対し銀閣寺(観音堂)と称せられている。
銀閣寺のことは別にして、この時代の人物としては、将軍の義政より、その正室、日野富子の専横の方が有名ではないか。1994(平成6)年放送のNHK大河ドラマ「花の乱」では三田佳子が日野富子役を好演していたが、彼女には子がなかったため、義政は、弟の義視に跡を継がせようとしたが、やがて富子に実子義尚が誕生。富子が山名持豊を頼り、自分の生んだ義尚を将軍に立てようとしたことが、山名持豊と対立していた細川勝元との争いに火をつけ、応仁の乱(1467~1477)の原因となり、この乱で京の町は廃墟と化してしまった。たしかに、義政には、文化面での功績はあったかもしれないが、政治を顧みず、雅風に興じ、応仁の乱を引き起こし、100年にもおよぶ戦争の時代へ導いた責任は大きく、これ以後、室町幕府は滅亡への道へと進んでいくこととなる。残念ながら、余り褒められるべき男とは言えないね~。
(画像は、銀閣寺)
参考:
応仁の乱(おうにんのらん)
http://db.gakken.co.jp/jiten/a/018960.htm
銀閣寺=東山慈照寺(とうざんじしょうじ)HP
http://www.shokoku-ji.or.jp/ginkakuji/index.html
前者は、足利義満が将軍職を退いた後に建てた北山山荘金閣を、後者は、五代後の足利義政が、応仁・文明の乱後に造営した東山山荘の銀閣をその象徴としている。金閣の北山文化の華やかさに比べ、銀閣の東山文化は「わび・さび」の世界を漂わせており、この時代を、芸術的な高揚期と見られている。
義政は、応仁の乱(1467-1477)の後、将軍職を義尚に譲り、祖父である三代将軍足利義満の造営した北山殿金閣(鹿苑寺)にならって、隠居生活を過ごすために、かつて弟義視が住し、戦乱で焼けたままになっていた浄土寺跡地を山荘造営地とし、文明14年(1482)に東山山荘造営に着手した。義政が、この山荘に移住したのは1483(文明15)年6月のことであるが、山荘には、当時、日常の生活の場であった常の御所をはじめ、会所や泉殿、観音堂、西指庵(せいしあん)、持仏堂などの殿舎が作られた。このうちの、観音堂こと銀閣は1489(長享3)年2月に立柱上棟しているので、翌年(1490年)の正月7日に没した義政は、その完成を見ることはなかったと思われる。
ともかく、この観音堂と並ぶ草創期の建物が持仏堂の東求堂(とうぐうどう)であり、同仁斎(どうじんさい)はその一室である。この小書院座敷が、かっての隠者たちの入った山里の草庵の規模となっており、この四畳半という空間には、遁世脱俗の意味がこめられている。義政の営んだ四畳半が、同仁斎(韓愈『原人』の「聖人は一視同仁」を典拠とする)と命名されたのは義政の意図は別として興味深いものである。
義政の死後、彼の遺言により臨済宗相国寺派の寺に改められ慈照寺となったが、俗に、金閣寺(鹿苑寺)に対し銀閣寺(観音堂)と称せられている。
銀閣寺のことは別にして、この時代の人物としては、将軍の義政より、その正室、日野富子の専横の方が有名ではないか。1994(平成6)年放送のNHK大河ドラマ「花の乱」では三田佳子が日野富子役を好演していたが、彼女には子がなかったため、義政は、弟の義視に跡を継がせようとしたが、やがて富子に実子義尚が誕生。富子が山名持豊を頼り、自分の生んだ義尚を将軍に立てようとしたことが、山名持豊と対立していた細川勝元との争いに火をつけ、応仁の乱(1467~1477)の原因となり、この乱で京の町は廃墟と化してしまった。たしかに、義政には、文化面での功績はあったかもしれないが、政治を顧みず、雅風に興じ、応仁の乱を引き起こし、100年にもおよぶ戦争の時代へ導いた責任は大きく、これ以後、室町幕府は滅亡への道へと進んでいくこととなる。残念ながら、余り褒められるべき男とは言えないね~。
(画像は、銀閣寺)
参考:
応仁の乱(おうにんのらん)
http://db.gakken.co.jp/jiten/a/018960.htm
銀閣寺=東山慈照寺(とうざんじしょうじ)HP
http://www.shokoku-ji.or.jp/ginkakuji/index.html