1884(明治17)年2月25日、侠客清水次郎長こと山本長五郎が賭博で静岡江尻警察署に逮捕された。ご存知清水次郎長(1820=文政3年生まれ)は、幕末~明治維新期の侠客で、本名は山本長五郎。実父・清水港の船持船頭の息子であったが、米問屋を営む叔父山本次郎八の養子となり、次郎長と称した。次郎長は次郎八の家の長五郎を略したもの。幼時から粗暴な性格で、やがてやくざの世界に入り、富士川や海上交通をめぐって、甲斐の黒駒勝蔵や尾張、伊勢の侠客と抗争をかさねているうちに名をあげ、東海道を名古屋周辺まで収めた。穴太徳との荒神山の抗争で盟友吉良仁吉が戦死し、その報復として次郎長は、千石船2隻に手勢480人、銃40丁、槍170幹、米90俵を乗せた戦略艦隊で伊勢に上陸し、穴太徳と、そのバックにいた丹波屋伝兵衛を屈服させたというが、まるで、やくざの抗争というより、戦争に近い感じだね~。
次郎長は、1893年(明治26)年6月12日風邪がもとで74歳で死去。彼の墓は地元・清水の「梅蔭寺」にあるが、その墓銘は榎本武揚の筆によるという。
数多い博徒の中でも、度重なる抗争をしていながら、天寿を全うした者というのは次郎長の他は居ないだろう。それは、彼が単なる渡世人では終わらなかったからだ。明治維新後は、山岡鉄舟や榎本武揚といった政府の高官と交際を深め、東海道総督府判事、伏谷如水から旧悪を許され、帯刀の特権を与えられて、街道取締りの任に当たっているほか、富士の裾野の開拓、清水港の整備や清水と横浜間の定期蒸気航路の開設、英語塾の運営などの公益事業なども行っている。
このような、次郎長の74年の生涯は、ほぼ三等分されており、前半生の悪がきの時代、25歳頃から49歳頃までの腕と度胸で活躍する渡世人の時代、明治維新後の後半生は世の為人の為に生きている。
黒駒勝蔵との度重なる決闘や彼と大政・小政・森の石松ら個性的な子分の物語は浪曲・講談・映画などでおなじみだが、とくに有名なのは伊勢・荒神山の決闘であろう。しかし、これら次郎長を有名にした渡世人時代の話は、フィクションである。
1884(明治17)年1月4日 、賭博犯処分規則が制定され、全国の博徒が逮捕された。次郎長も同(明治17)年2月25日に、賭博の罪で静岡江尻警察署に逮捕された。
そのとき、清水での「咸臨丸事件(※)」以来、次郎長にほれ込んだ山岡鉄舟により託され、次郎長の養子になっていた山本五郎(天田五郎)は、義父の助命嘆願のために、長五郎の功績を一冊の講談本にまとめた。題名は『東海遊侠伝~一名 次郎長物語』。ここで、次郎長は、暴漢としての博徒ではない、義侠心に富んだ立派な人物に仕立上げられた。この本は山岡鉄舟等多くの文人の後ろ盾のもとに出版・発売されたようである。
その後、五郎は次郎長の家を辞し上洛。明治20年には、天竜寺で仏門に入り愚庵と名乗った。そして、明治25年、京都清水産寧坂に庵を結び、仏教と文学の生活をはじめた。愚庵は一生を通じ性格は剛胆で、よく詩を作り、和歌をものにしたといい、後には、正岡子規も訪れ教えを受けたといわれている。
兎に角、この五郎(愚庵)の書いた講談本が講談化され、広沢虎造によって浪曲となった。さらに昭和初期に、二代目虎造の独特の寅蔵節「旅ゆけば~」や「くいね~くいねえ~寿司くいね~」などによって爆発的な人気を得るようになる。
どこからどこまでが本当なのかは知らないが、次郎長という人物、確かに興味は感じるね~。
※「咸臨丸事件」のことや次郎長の前半生などのことは以下参考のHPが詳しい。
(画像:映画ポスター・大河内傅次郎主演:清水次郎長)
参考:
清 水
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/shimizu.htm
幕末とうほく余話No7次郎長と愚庵(上)
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/04/bakumatu12.html
幕末とうほく余話No9次郎長と愚庵(下)
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/05/bakumatu02.html
雑学大作戦:知泉「清水の次郎長」
http://www.elrosa.com/tisen/90/90923.html
次郎長は、1893年(明治26)年6月12日風邪がもとで74歳で死去。彼の墓は地元・清水の「梅蔭寺」にあるが、その墓銘は榎本武揚の筆によるという。
数多い博徒の中でも、度重なる抗争をしていながら、天寿を全うした者というのは次郎長の他は居ないだろう。それは、彼が単なる渡世人では終わらなかったからだ。明治維新後は、山岡鉄舟や榎本武揚といった政府の高官と交際を深め、東海道総督府判事、伏谷如水から旧悪を許され、帯刀の特権を与えられて、街道取締りの任に当たっているほか、富士の裾野の開拓、清水港の整備や清水と横浜間の定期蒸気航路の開設、英語塾の運営などの公益事業なども行っている。
このような、次郎長の74年の生涯は、ほぼ三等分されており、前半生の悪がきの時代、25歳頃から49歳頃までの腕と度胸で活躍する渡世人の時代、明治維新後の後半生は世の為人の為に生きている。
黒駒勝蔵との度重なる決闘や彼と大政・小政・森の石松ら個性的な子分の物語は浪曲・講談・映画などでおなじみだが、とくに有名なのは伊勢・荒神山の決闘であろう。しかし、これら次郎長を有名にした渡世人時代の話は、フィクションである。
1884(明治17)年1月4日 、賭博犯処分規則が制定され、全国の博徒が逮捕された。次郎長も同(明治17)年2月25日に、賭博の罪で静岡江尻警察署に逮捕された。
そのとき、清水での「咸臨丸事件(※)」以来、次郎長にほれ込んだ山岡鉄舟により託され、次郎長の養子になっていた山本五郎(天田五郎)は、義父の助命嘆願のために、長五郎の功績を一冊の講談本にまとめた。題名は『東海遊侠伝~一名 次郎長物語』。ここで、次郎長は、暴漢としての博徒ではない、義侠心に富んだ立派な人物に仕立上げられた。この本は山岡鉄舟等多くの文人の後ろ盾のもとに出版・発売されたようである。
その後、五郎は次郎長の家を辞し上洛。明治20年には、天竜寺で仏門に入り愚庵と名乗った。そして、明治25年、京都清水産寧坂に庵を結び、仏教と文学の生活をはじめた。愚庵は一生を通じ性格は剛胆で、よく詩を作り、和歌をものにしたといい、後には、正岡子規も訪れ教えを受けたといわれている。
兎に角、この五郎(愚庵)の書いた講談本が講談化され、広沢虎造によって浪曲となった。さらに昭和初期に、二代目虎造の独特の寅蔵節「旅ゆけば~」や「くいね~くいねえ~寿司くいね~」などによって爆発的な人気を得るようになる。
どこからどこまでが本当なのかは知らないが、次郎長という人物、確かに興味は感じるね~。
※「咸臨丸事件」のことや次郎長の前半生などのことは以下参考のHPが詳しい。
(画像:映画ポスター・大河内傅次郎主演:清水次郎長)
参考:
清 水
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/shimizu.htm
幕末とうほく余話No7次郎長と愚庵(上)
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/04/bakumatu12.html
幕末とうほく余話No9次郎長と愚庵(下)
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/05/bakumatu02.html
雑学大作戦:知泉「清水の次郎長」
http://www.elrosa.com/tisen/90/90923.html