今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

裏切りの日

2005-06-02 | 記念日
今日(6月2日)は「裏切りの日」
1582(天正10)年6月2日、本能寺の変で、織田信長が明智光秀に裏切られて攻められ、本能寺で自害した。
1582(天正10)年6月2日、中国地方攻略中の羽柴秀吉からの救援依頼を受けた信長は、自ら出陣することを決め、側近の者と京都・本能寺に宿泊した。明智光秀も、出陣を命じられ、丹波亀山城を出発したが、反転して本能寺を襲撃した。襲撃を知った信長は「是非もなし」と一言語り、近侍の森蘭丸とともにみずから弓をとって戦ったが及ばず、自害して果てた。
当時、織田軍団の武将は各地でそれぞれの敵と交戦中であり、光秀はその隙を突いたのである。変を知った秀吉は、備中高松城を水攻めにしていたが、すばやく毛利氏と講和して、京都に引き返し、山崎の戦いで光秀を破った。光秀と信長の関係において、信長は、非常に光秀の能力を買っており、信長が最も有力視していたのは、徳川家康であるが、これは家来とはいえないので、信長の家来のなかでは、柴田勝家についで明智光秀であったという。古参の丹波長秀や佐久間信盛などよりもずっと高く買っていたという。又、光秀も、彼自身の自筆の「明智軍法」の末尾に自らの半生を回顧し、「自分は路傍の石ころのような身分から召しだされ、今日莫大な兵を預けられる身となった。」と信長に対する感謝の気持ちを記している。本能寺の変の起こる1年前のことである。
光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、光秀は、謀反の前々日に愛宕山の愛宕神社を参拝し、その時、おみくじを何度も引く、お坊さんに出だされた粽を葉っぱごと喰べる。又、本能寺の堀の深さはどのくらいかと言うようなことを言い出すなど不可解な言動をしていたといわれる。そして、その翌日の連歌の会で光秀が詠んだ発句、「ときはいま、あめがしたしるさつきかな」 は、「とき」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「あめがしたしる」は、「天(あめ)が下(した)治る(しる)」、すなわち天下を治めることを暗示していると解されており、この時点で謀反の決意を固めていたのだと思われる。
この光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていないが、光秀謀反の理由として以下のようなことが考えられている。
光秀の数ある武功の中で最も大きいものは丹波平定であったがこの勝利と引き換えに光秀は深い苦しみを味わっている。戦闘に先立ち、波田野兄弟に投稿を勧め、自分の母を人質に入れて兄弟を信長のもとに送ったが信長は彼等を殺してしまった。この報いとして、光秀の母は彼の目の前で八上城の松ノ木高く磔にされたのである。この事件は、戦国の過酷な慣いとはいえ余りにも自分を無視したやり方と考えたであろう。また、それから、相次いで、松永久秀と荒木村重などの謀反が続いている。光秀は、信長を合理主義的な人物でその能力そのものは高く認めてはいたが、その冷酷さについては、何時それが自分に回ってくるか知れないとの不安は、常にもっていたのではのではないか。これは、恐らく、光秀だけでなく、信長を取り巻く人たちのなかに何か信じられない、不安・危惧として働いていたのではないかと思う。光秀も、色々、迷った挙句に、ここをチャンスと、謀反を起こしたのではないか。
殺された方の信長側から見れば裏切りの日かもしれないが、光秀にとっては、これぞ「絶好のチャンスの日」だったのだろう。しかし、それが、秀吉の思いもよらない行動によって、たった3日の天下となってしまったのは、残念なことであったろう。
(画像は、明智光秀画像。日本史探訪、角川書店編より)
参考:
織田信長(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長