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江戸幕府が、人情本など好色本の出版を禁止

2005-06-04 | 歴史
1842年の今日(6月4日)江戸幕府が、人情本など好色本の出版を禁止、翻訳書の出版を町奉行の許可制にした。
天保の飢饉・大塩平八郎の乱・日本近海に出現する外国船など,社会不安の高まるなかで老中水野忠邦(みずの ただくに)は,享保・寛政の改革にならって1841(天保12)年~1843(天保14)年に『天保の改革』を実施し、まず綱紀粛正・風俗匡正・倹約励行に力を入れた。1841年に「倹約令」、1842年には「人情本出版禁止令」。1843年には「奢侈(しゃし)禁止令」と次々と改革令を発し、奢侈の禁止を名目に菓子・料理・衣服など日常生活品にも監視の目を光らせた。そして、芝居については、江戸の三座を風紀を乱すという理由で郊外に移転させ、大衆娯楽の場所であった寄席を閉鎖し、江戸では、男が女師匠に入門することが禁じられ、市中遊客の弓射、婦女子の矢拾いを禁止し、矢場での矢追女を取り締まり、又、願い済み以外の葦簀張(よしずばり)水茶屋が、残らず撤去された。そして、ちょっと、派手な着物を着た女性がいるとその場で裸にしたりするなど、徹底した管理が行われ、ささやかにウサを晴らそうにも、出版物についても検閲を強化して絵草紙や人情本の発行を禁止するなど、風俗矯正に名を借りて市中取り締まりを強化し、男女の恋愛を描いた「人情本」や黄表紙の数冊分をとじた「合巻」などの代表的な作家、「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」の為永春水(ためながしゅんすい)、「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」の柳亭種彦(りゅうていたねひこ)などが、人情本出版禁止に照らし処罰されている。
当時、これらの弾圧をする側に立って活躍したのが、あの有名な「遠山の金さんこと、江戸(北町)町奉行・遠山左衛門尉(さえもんのじょう)景元である。「金さん」は、水野忠邦の株仲間解散令や庶民の娯楽抑圧政策に反対をして江戸の市政からはずされるなど、庶民の立場にたった奉行であったが、何故か、春水・種彦らの出版弾圧は強硬に推進し、町人出身の春水は卑猥な人情本を出版したということで50日の手鎖の刑に処されている。ただ、柳亭種彦はれっきとした旗本だったため、手鎖の刑とまではいかなかったようだ。
また、水野は、物価抑制の為に、あらゆる値段の引き下げを命じた為、庶民にとって、家賃等が下がったのはいいものの、肝心の給金等も下がってしまい、結局庶民の生活は益々窮乏化してしまったという。よく、ドラマなどに出てくる、田沼意次(たぬま おきつぐ)は、悪人の代名詞のように扱われ、水野忠邦は幕府の財政を立て直した正義の人のように扱われているが、それは、あくまで、幕府の側の立って見たときの話であり、庶民の側に立って見てみると、田沼時代は文化面においても経済面においても庶民にとっては豊かな良い時代であったのである。そのため、急激な改革に対するあらゆる階層の不満が爆発し、水野の天保の改革は、僅か2年で失敗している。
天保の改革の行われていた天保14年(1843年)に描かれた一勇斎国芳(豊国の弟子)の有名な妖怪図「源頼光公館土蜘作妖怪図」 (三枚続)がある。この画は、天保の改革を諷刺した絵といわれ、源頼光は徳川将軍家慶、四天王のうち卜部季武が老中水野忠邦を表わし、背後の闇にうごめく妖怪たちは、改革の犠牲者の怨念をあらわしているのだという。こんな風刺絵まで描かれているのだから、相当嫌われていたのは間違いないね~。
(画像は、一勇斎国芳画 「源頼光公館土蜘作妖怪図 三枚続」早稲田大学図書館 WEB展覧会 より)
天保の改革(てんぽうのかいかく)
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M240L100.HTM
キーワード三大改革
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/mado2.html
倉敷天城高校・地歴公民科ホームページ
江戸時代(3) 幕藩体制の動揺~化政文化 <日本史プリントの提供>
http://www.amaki.okayama-c.ed.jp/tirek_ka/nihonshi/print/H12-jh-11c.htm
早稲田大学図書館 WEB展覧会 異形のものたち - 妖怪とお化けの世界
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/yokai2/