今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

五山送り火

2007-08-16 | 行事
今日(8月16日)は「五山送り火」の日(京都市) 
五山送り火は、毎年8月16日、京都盆地の周囲の山、東山如意ケ嶽の「大文字」(左京区)、東山(大黒天山)の 「妙・法」(左京区) 、西賀茂船山の「舟形」(北区)、金閣寺大北山(大文字山)の 「左大文字」(北区) 、嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」(右京区) などで行われるかがり火のことである。同夜午後8時から、相前後して点火される。東山如意ヶ嶽の「大文字」がもっともよく知られているので、送り火の代名詞になっており、「大文字の送り火」(略称「大文字」)とも呼ばれている。位置関係は以下を参照。
大文字見どころマップ-京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/midokoro_map/daimonji_map.html
前にも、8月16日は「盆送り火」(月遅れ)の日の中で、簡単に触れたが、精霊送りの意味を持つ行事の一形態で、京都三大祭(葵祭祇園祭時代祭)にこの大文字五山送り火を加え、京都四大行事と称する。
大文字に代表される送り火の始まったのは、平安時代とも江戸時代とも言われているが、その起源についてそれぞれ俗説はあるものの公式な記録に一切残っておらず、不思議と確実なことはわかっていないらしい。
その起源については、以下参考の京都新聞/五山送り火やe京都ねっと 「大文字みどころ情報」 などによれば、概ね以下の3つの説が伝わっているようだ。
例えば、1)、「都名所図絵」等によると、かつて大文字山麓にあった浄土寺が大火に見舞われた際に、本尊・阿弥陀佛が山上に飛翔して光明を放った。その光明を真似て実施していた火を用いる儀式を、弘法大師空海弘法大師が人体を表す大の字形に改めたというもの。 2)、室町時代中期、大文字山の麓、銀閣寺にゆかりのある将軍・足利義政が近江の合戦(六角征伐参照)で死亡した実子・足利義尚の冥福を祈って焚かせたというもの。この説では右大文字の文字は、相国寺の僧・横川景三の筆跡により、義政の臣・芳賀掃部が設計したという。(『明霞遺稿』・『山州名跡志』) 3)、江戸初期、1662(寛文2 )年に刊行された「案内者」に「松ヶ崎には妙法の2 字を火にともす。山に妙法といふ筆画に杭を打ち、松明を結びつけて火を灯したるものなり。北山には帆掛け舟、浄土寺には大文字皆かくの如し。大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にてきり石をたてたりといふ」との記述があるそうだ。近衛信尹は、本阿弥光悦松花堂昭乗と共に寛永の三筆といわれた能書家である。
1)の空海が始めたとする説は、他に大文字が登場しないため、俗説のようだという。
この中では、2)の足利説が有力だという声が挙がっているようだ。旧室町幕府跡(花の御所、現在の上京区烏丸今出川北西一帯の地域)に送り火の正面が向いている。そして、大文字は、仏教が一般社会にも広まった室町時代以降に始まったのではないかというのが一般的な説のようであり、また、近年、銀閣寺から送り火に関する古文書や大文字山が銀閣寺の領地であったという資料が発見され、前述の3つの中では、やはりこの説が信憑性が高そうだ。以下参考に記載の「[PDF] 浄土寺・東山殿から銀閣寺へ」参照)
そういえば、五山はおおむね京都の町の北方に位置しており、御所の天皇から見えやすい位置の山を選んで送り火がされた節があるり、送り火が綺麗に見える場所としては、すでに中世から鴨川で見物したと文献に残っているようでもあり、現在でも丸太町通り以北の鴨川、賀茂川、高野川にかかる橋の上から見るのが一番とされているようだ。中でも主役の大文字を見るには、今出川通りの鴨川三角州にかかる今出川大橋からの眺めが最高だとされている。
ところで五山送り火の五山とは直接関係はないので、話が少しそれるが、京都五山と言うものがあるよね~。京都五山とは、五山の制のうち京都の禅宗(臨済宗)の寺格、官寺制度である。五山の制度は印度の5精舎、10塔所の故事に倣って、中国南宋の末期に寧宗が、宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来する。 鎌倉幕府が開かれる前年の1191(建久2)年に南宋から帰国した僧侶らによって伝えられた禅宗はその後隆盛を極め、鎌倉時代の後期、幕府は次々と大 寺院を建立。北条氏は南宋にならい五山制度を導入し鎌倉五山)を選定した。しかし、この時の制度は明確なものではなかったようであり、それが、定着したのは鎌倉幕府滅亡後の室町幕府の第三代将軍足利義満の頃である。
鎌倉時代後期に後醍醐天皇が討幕運動を起し、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐による建武の新政が開始されると五山も京都本位に改められた。足利尊氏が建武政権から離れて南北朝時代となると、尊氏や弟の足利直義などは禅宗を信仰したため、五山も足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに制定された。数回の選定変更があったが、室町時代の1386年(至徳3)には3代将軍の足利義満が相国寺を創建した後に南禅寺-別格 、天龍寺-第一位※ 、相国寺-第二位※ 、建仁寺-第三位 、東福寺-第四位、万寿寺-第五位 のように改め、僧録司制なども定めて住職の任命権などを掌握し、寺社の統制を行い幕府権威に宗教的側面を付加させた。これが京都五山の制度であり、我が国ではじめて五山の官寺制度が定着したことになる。なお、足利義満の意向により、1401(応永8)年3月5日に相国寺を第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われたが、義満没後の1410(応永17)年2月28日に元に戻された。
春屋妙葩義堂周信らの五山僧は中国文化に通じ、また義満が日明貿易(勘合貿易)を行う際には外交顧問的役割も果たした。このように、京都五山では、幕府の外交文書を起草するという必要性も伴い、四六文を用いた法語や漢詩を作る才が重視されたことも関係して、五山文学が栄えることとなった。
五山送り火の五山は、ここでの五山制度とは直接関係はないようだが、2)の足利説の中で、「右大文字の文字は、相国寺の僧・横川景三の筆跡により」と有るが、この横川景三も後期五山文学の代表的人物であり、8代将軍足利義政の側近として、外交・文芸顧問を担った人であり、東山文化を支えた足利義政のサロンの重要な構成員であった。彼のイメージとしてはこの五山の制度の五山があったかもしれないかな・・・?
いずれにしても、この五山送り火が、盂蘭盆会の行事として盛んに行われるようになったのは、天文期(1532年~1554年)から永禄期(1558年~1569年)にかけてだそうである。
(画像は、京都大文送り火)
参考:
五山送り火 - Wikipedia
8月16日は「盆送り火」(月遅れ)の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%B8%DE%BB%B3%C1%F7%A4%EA%B2%D0
京都新聞/五山送り火
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/index.html
e京都ねっと 「大文字みどころ情報」
http://www.e-kyoto.net/topics/daimonji/
五山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B1%B1
浄土寺
http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/ShinSaigoku/Joudoji.html
[PDF] 浄土寺・東山殿から銀閣寺へ
http://kyoto-arc.or.jp/179.pdf