1950(昭和25)年の今日(8月26日)公開された映画『羅生門』は、黒澤明が監督し、大映で撮影したモノクロ映画の代表的作品である。
原作は、芥川龍之介の短編小説『藪の中』だが、この作品は、『今昔物語集』巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛られること)」の説話が題材となっている。ここでは、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話で、語り部は妻の気丈さと若い盗人の男気を褒め称えて、話を締め括っている。
この情けない男を殺し、殺人事件に仕立てたのが小説『藪の中』である。本作は、藪の中で起こった殺人事件を七人の証言者が証言、告白するという形式でなりたっている。(青空文庫:芥川 竜之介小説「藪の中」)
映画『羅生門』では、平安時代のとある薮の中。盗賊、多襄丸(三船敏郎)が昼寝をしていると、侍夫婦が通りかかった。侍の妻(京マチ子)に目を付けた多襄丸は、夫である侍(森雅之)をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はなかった・・・。
物語の進展は、雨が激しく降りしきる荒廃した羅生門の下で雨宿りをしている杣売(志村喬)と旅法師(千秋実)がボーっとうつむいている。「わかんねえ・・・さっぱり、わかんねえ・・・」と杣売。そこに雨宿りのため駆け込んできたもう一人の下人(上田吉二郎)が近づいてきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている杣売から話を聞く。旅法師「今日のような恐ろしい話は初めてだ・・・」 杣売と旅法師は「こんな不思議な話は聞いた事が無い」と下人に話し始めた。杣売の話は都に程近い山中で一人の侍の遺骸を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…。
そして、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売と旅法師、捕らえられた盗賊と侍の妻、それに巫女により呼び出された、死んだ侍の霊の奇妙な証言が始まる。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのか誰が犯人だったのかは全て有耶無耶〔うやむや〕=物事がはっきりしない)のままになっている。・・・のは、原作「藪の中」と同じだ。
映画はほぼ原作にどうり忠実に描いているが、原作の「藪の中」では存在の薄かった木樵(映画では杣〔そま〕売り)の証言が、重要な役割を担っている。黒澤好みの志村喬が重要な役割を果たすが、大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性(京マチ子)が重要な役割を果たす。(羅生門 -goo映画)
死体の発見者杣売は、自分だけが真実を知っていると言い、盗賊は女を犯すと、女は悪魔の形相になり、夫と決闘させ、その間に女は逃げたと証言するが、女は、「あの人を殺して」と叫ぶ。さすがの盗賊(三船敏郎)もたじろぐ台詞、その何とかして生き抜こうとする京マチ子演ずる女の背徳のにおいのする姿態と凄まじい演技は今でも印象的に残っている。また、そんな女の姿には、戦争によって働き手を失った女たちが戦後を必死に生きる姿とダブル思いもしたものである。
芥川の映画と同名の短編小説『羅生門』も、『今昔物語集』の巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」を題材にしており、羅城門の楼閣で、死人から髪を抜く老婆から、さらに強奪を重ねる下人の話は、生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描き出した作品としてさらに著名となった。
この「羅城(らじょう)門」とは、かって平安京(現在の京都市中心部)の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門である。平安京の規模は東西千五百八丈(約4・5キロメートル)、南北千七百五十三丈(約5.2キロメートル)であり、その周囲は幅十二丈の南極大路、十丈の北極・東極・西極大路の四本の道によって囲まれていた。南極大路がほかより二丈広いのは都の正面に当たること、また、羅城(高さ約2メートルほどの築垣。都城の城壁のこと)が築かれていたからである。京の表玄関にあたる正面七間、重層の巨大な楼門である羅城門を通り抜けると前方に幅二十八丈(約八十四メートル)の朱雀大路が、遥か北の朱雀門まで通じていた。(以下参考に記載の官制大観・平安京の平安京条坊図参照)
平安京造営から時代が下ると、816(弘仁7)年大風で倒壊。再建されたが、980(天元3)年暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していき、国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、洛南の羅城門周辺は夜ともなれば誰も近付かぬ荒れた一画となっていた。
映画『羅生門』はこの小説『羅生門』からも舞台背景、着物をはぎ取るエピソード、(映画では赤ん坊から)を借りており、テーマ的には小説『羅生門』へのアンサーソングともなっている。(青空文庫:芥川 竜之介小説「羅生門」)
なお、『今昔物語集』の巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語」及び巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」の説話は、以下参考に記載の国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) 「今昔物語集 」で読むことができる。短い文章なので、興味のある方は後で読まれるとよい。
映画『羅生門』は公開の翌年・1951((昭和26)年9月10日、ヴェネツィア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞し、西洋に黒澤明の名や日本映画の芸術性の高さを初めて世界に知らしめた。また、三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。
しかし、この受賞には、以下のような話がある。
黒澤は、自分の作品がヴェネツィア国際映画祭に出品されていたことを事前に知らされていなかったため大変驚いたという。また、製作した大映側も同じで、永田雅一社長ら首脳陣もグランプリ受賞の意味もまるで解さず、困惑顔だったという。それは、公開が前年の8月26日の事で1年も時が経っていたし、公開当時余りにも難解な内容に、映画が完成時には永田自身「この映画はわけがわからん」と批判し、事実封切り後の評判も芳しいものではなかったので製作関係者を左遷させたいわくつきの作品であった。
だから、グランプリ発表の2週間ほど前に映画際主催者から受賞の可能性を伝える電報が大映に届いていたというが、大映は無視し、おかげで、このグランプリ授賞式には日本の関係者の姿はなく、急遽、現地の日本人に似たベトナム人の手に金獅子賞が手渡されたという。その後、賞の価値を知り、ヴェネチアに出品されてグランプリをとった後の永田は豹変し、どこへ行っても『羅生門』を褒め上げ、黒澤を呆れさせたという。後年、黒澤が自らの半生を回想した自伝「蝦蟇(がま)の油」の中で、まるで「羅生門」の映画そのものだと書いているそうだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
黒澤は、現在の東京都品川区出身で、1928(昭和3)年、京華中学校卒業後、画家を志し、日本プロレタリア美術家同盟(以下参考に記載の6nhpr001〔日本プロレタリア美術家同盟 〕参照)に参加し、洋画家の岡本唐貴に絵を教わったという。1936(昭和11)年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。主として山本嘉次郎の助監督を務める。1943(昭和18)年、『姿三四郎』で監督デビュー。
彼は画家出身らしく、映画の一つ一つの場面のイ メージを眼に見える様にかため、ふくらませ、 しっかり掴んで、それから映画の撮影に臨むのだといわれており、映画の場面を自ら描いた絵コンテなどが多く残されている。
以下参考に記載の「龍谷アカデミックラウンジ」では、黒澤プロダクションと共同で黒澤明監督の資料のデジタル化を進めており、そこには、映画化された全作品のシナリオ、写真資料、絵コンテ、自筆メモのほか、映画化されなかった作品の資料まで、あらゆるものが記録されているそうだ。
映画の『羅生門』。時代は世情も人心も荒廃しきった平安朝末期。半分朽ち、今にも壊れそうな羅生門が時代を象徴している。映画の冒頭シーンに登場するその羅生門が組み立てられていく様子が数枚の写真で記録され残っているそうだ。セットもすばらしいが、黒澤監督もこの羅生門づくりにこだわって、「延暦十七年」という年号を刻ませた瓦を4千枚焼いて、羅生門の屋根に使用したというエピソードがあるらしい。
黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは疑問の余地がない。しかし、黒澤作品は『姿三四郎』から『まあだだよ』まで全部で30作品( 監督作品 参照)があるが、後年に作成された、『影武者』『乱』『夢』『八月の狂詩曲』など「耄碌(もうろく)を絵に描いたような失敗作」、『影武者』『乱』など人間を描けなくなった観念だけの作品になっていると指摘する人もいるというが、確かに黒澤の作品は1965(昭和40)年の作品『赤ひげ』以降の作品には余り見るべきものはないように思われる。
(画像は、コレクションの黒澤明の世界・記念絵葉書(ポスター画)30枚組から「羅生門」。沖縄郵政管理事務所発行。)
黒澤明の世界
http://www.asahi-net.or.jp/~zc2t-ogw/MKHome/AKHome/AKHome.htm
羅生門(映画) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%94%9F%E9%96%80_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
羅生門 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD28700/index.html
作家別作品リスト:No.879作家名: 芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html
6nhpr001〔日本プロレタリア美術家同盟 〕
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/mokuji/6nhpr001.html
今昔物語集
http://hysmt.hp.infoseek.co.jp/konjyaku/konjyaku.html
検非違使 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E9%9D%9E%E9%81%95%E4%BD%BF
今昔物語集巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」より
http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/translation/konzyaku29_18.htm
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) 「今昔物語集 」
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A41004329-00008&cc=09_01_03&keyword=&and_or=AND
平城京 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC
官制大観・平安京
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_miyaheian.html
龍谷アカデミックラウンジ/世界のクロサワ・バックナンバー
http://www.asahi.com/ad/clients/ryukoku/back_c2_list.html
原作は、芥川龍之介の短編小説『藪の中』だが、この作品は、『今昔物語集』巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛られること)」の説話が題材となっている。ここでは、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話で、語り部は妻の気丈さと若い盗人の男気を褒め称えて、話を締め括っている。
この情けない男を殺し、殺人事件に仕立てたのが小説『藪の中』である。本作は、藪の中で起こった殺人事件を七人の証言者が証言、告白するという形式でなりたっている。(青空文庫:芥川 竜之介小説「藪の中」)
映画『羅生門』では、平安時代のとある薮の中。盗賊、多襄丸(三船敏郎)が昼寝をしていると、侍夫婦が通りかかった。侍の妻(京マチ子)に目を付けた多襄丸は、夫である侍(森雅之)をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はなかった・・・。
物語の進展は、雨が激しく降りしきる荒廃した羅生門の下で雨宿りをしている杣売(志村喬)と旅法師(千秋実)がボーっとうつむいている。「わかんねえ・・・さっぱり、わかんねえ・・・」と杣売。そこに雨宿りのため駆け込んできたもう一人の下人(上田吉二郎)が近づいてきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている杣売から話を聞く。旅法師「今日のような恐ろしい話は初めてだ・・・」 杣売と旅法師は「こんな不思議な話は聞いた事が無い」と下人に話し始めた。杣売の話は都に程近い山中で一人の侍の遺骸を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…。
そして、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売と旅法師、捕らえられた盗賊と侍の妻、それに巫女により呼び出された、死んだ侍の霊の奇妙な証言が始まる。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのか誰が犯人だったのかは全て有耶無耶〔うやむや〕=物事がはっきりしない)のままになっている。・・・のは、原作「藪の中」と同じだ。
映画はほぼ原作にどうり忠実に描いているが、原作の「藪の中」では存在の薄かった木樵(映画では杣〔そま〕売り)の証言が、重要な役割を担っている。黒澤好みの志村喬が重要な役割を果たすが、大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性(京マチ子)が重要な役割を果たす。(羅生門 -goo映画)
死体の発見者杣売は、自分だけが真実を知っていると言い、盗賊は女を犯すと、女は悪魔の形相になり、夫と決闘させ、その間に女は逃げたと証言するが、女は、「あの人を殺して」と叫ぶ。さすがの盗賊(三船敏郎)もたじろぐ台詞、その何とかして生き抜こうとする京マチ子演ずる女の背徳のにおいのする姿態と凄まじい演技は今でも印象的に残っている。また、そんな女の姿には、戦争によって働き手を失った女たちが戦後を必死に生きる姿とダブル思いもしたものである。
芥川の映画と同名の短編小説『羅生門』も、『今昔物語集』の巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」を題材にしており、羅城門の楼閣で、死人から髪を抜く老婆から、さらに強奪を重ねる下人の話は、生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描き出した作品としてさらに著名となった。
この「羅城(らじょう)門」とは、かって平安京(現在の京都市中心部)の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門である。平安京の規模は東西千五百八丈(約4・5キロメートル)、南北千七百五十三丈(約5.2キロメートル)であり、その周囲は幅十二丈の南極大路、十丈の北極・東極・西極大路の四本の道によって囲まれていた。南極大路がほかより二丈広いのは都の正面に当たること、また、羅城(高さ約2メートルほどの築垣。都城の城壁のこと)が築かれていたからである。京の表玄関にあたる正面七間、重層の巨大な楼門である羅城門を通り抜けると前方に幅二十八丈(約八十四メートル)の朱雀大路が、遥か北の朱雀門まで通じていた。(以下参考に記載の官制大観・平安京の平安京条坊図参照)
平安京造営から時代が下ると、816(弘仁7)年大風で倒壊。再建されたが、980(天元3)年暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していき、国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、洛南の羅城門周辺は夜ともなれば誰も近付かぬ荒れた一画となっていた。
映画『羅生門』はこの小説『羅生門』からも舞台背景、着物をはぎ取るエピソード、(映画では赤ん坊から)を借りており、テーマ的には小説『羅生門』へのアンサーソングともなっている。(青空文庫:芥川 竜之介小説「羅生門」)
なお、『今昔物語集』の巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語」及び巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」の説話は、以下参考に記載の国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) 「今昔物語集 」で読むことができる。短い文章なので、興味のある方は後で読まれるとよい。
映画『羅生門』は公開の翌年・1951((昭和26)年9月10日、ヴェネツィア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞し、西洋に黒澤明の名や日本映画の芸術性の高さを初めて世界に知らしめた。また、三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。
しかし、この受賞には、以下のような話がある。
黒澤は、自分の作品がヴェネツィア国際映画祭に出品されていたことを事前に知らされていなかったため大変驚いたという。また、製作した大映側も同じで、永田雅一社長ら首脳陣もグランプリ受賞の意味もまるで解さず、困惑顔だったという。それは、公開が前年の8月26日の事で1年も時が経っていたし、公開当時余りにも難解な内容に、映画が完成時には永田自身「この映画はわけがわからん」と批判し、事実封切り後の評判も芳しいものではなかったので製作関係者を左遷させたいわくつきの作品であった。
だから、グランプリ発表の2週間ほど前に映画際主催者から受賞の可能性を伝える電報が大映に届いていたというが、大映は無視し、おかげで、このグランプリ授賞式には日本の関係者の姿はなく、急遽、現地の日本人に似たベトナム人の手に金獅子賞が手渡されたという。その後、賞の価値を知り、ヴェネチアに出品されてグランプリをとった後の永田は豹変し、どこへ行っても『羅生門』を褒め上げ、黒澤を呆れさせたという。後年、黒澤が自らの半生を回想した自伝「蝦蟇(がま)の油」の中で、まるで「羅生門」の映画そのものだと書いているそうだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
黒澤は、現在の東京都品川区出身で、1928(昭和3)年、京華中学校卒業後、画家を志し、日本プロレタリア美術家同盟(以下参考に記載の6nhpr001〔日本プロレタリア美術家同盟 〕参照)に参加し、洋画家の岡本唐貴に絵を教わったという。1936(昭和11)年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。主として山本嘉次郎の助監督を務める。1943(昭和18)年、『姿三四郎』で監督デビュー。
彼は画家出身らしく、映画の一つ一つの場面のイ メージを眼に見える様にかため、ふくらませ、 しっかり掴んで、それから映画の撮影に臨むのだといわれており、映画の場面を自ら描いた絵コンテなどが多く残されている。
以下参考に記載の「龍谷アカデミックラウンジ」では、黒澤プロダクションと共同で黒澤明監督の資料のデジタル化を進めており、そこには、映画化された全作品のシナリオ、写真資料、絵コンテ、自筆メモのほか、映画化されなかった作品の資料まで、あらゆるものが記録されているそうだ。
映画の『羅生門』。時代は世情も人心も荒廃しきった平安朝末期。半分朽ち、今にも壊れそうな羅生門が時代を象徴している。映画の冒頭シーンに登場するその羅生門が組み立てられていく様子が数枚の写真で記録され残っているそうだ。セットもすばらしいが、黒澤監督もこの羅生門づくりにこだわって、「延暦十七年」という年号を刻ませた瓦を4千枚焼いて、羅生門の屋根に使用したというエピソードがあるらしい。
黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは疑問の余地がない。しかし、黒澤作品は『姿三四郎』から『まあだだよ』まで全部で30作品( 監督作品 参照)があるが、後年に作成された、『影武者』『乱』『夢』『八月の狂詩曲』など「耄碌(もうろく)を絵に描いたような失敗作」、『影武者』『乱』など人間を描けなくなった観念だけの作品になっていると指摘する人もいるというが、確かに黒澤の作品は1965(昭和40)年の作品『赤ひげ』以降の作品には余り見るべきものはないように思われる。
(画像は、コレクションの黒澤明の世界・記念絵葉書(ポスター画)30枚組から「羅生門」。沖縄郵政管理事務所発行。)
黒澤明の世界
http://www.asahi-net.or.jp/~zc2t-ogw/MKHome/AKHome/AKHome.htm
羅生門(映画) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%94%9F%E9%96%80_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
羅生門 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD28700/index.html
作家別作品リスト:No.879作家名: 芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html
6nhpr001〔日本プロレタリア美術家同盟 〕
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/mokuji/6nhpr001.html
今昔物語集
http://hysmt.hp.infoseek.co.jp/konjyaku/konjyaku.html
検非違使 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E9%9D%9E%E9%81%95%E4%BD%BF
今昔物語集巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」より
http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/translation/konzyaku29_18.htm
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) 「今昔物語集 」
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A41004329-00008&cc=09_01_03&keyword=&and_or=AND
平城京 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC
官制大観・平安京
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_miyaheian.html
龍谷アカデミックラウンジ/世界のクロサワ・バックナンバー
http://www.asahi.com/ad/clients/ryukoku/back_c2_list.html