私がいつも参考にさせてもらっっている「今日は何の日~毎日が記念日~」を見ると、今日(8月22日)は、松の門三艸子 (歌人,芸者「千人信心」)の 1914年の忌日だとされている。 享年82歳。[1832年3月3日生] とあった。
松の門三艸子 がどんな人物か良く知らないのだが、「千人信心」と言う言葉が面白いのでいろいろ調べてみることにした。以下参考に記載の「全国名前辞典」によると、”松の門 三艸子(まつのと みさこ)、歌人。江戸下谷の商家に生れ一三歳で嫁し、一七歳で未亡人となり、明治維新により没落し「小三」という深川芸者になる。 "とあり、死亡日は、1914(大正 3)年.8月23日死亡となっており、死亡日が1日異なるが、浪曲師の玉川奈々福(本名:長嶋美穂子)のブログ、以下参考に記載「ななふく日記: 三艸子忌。」(2006年08月22日)でも、”今日は八月二十二日。私がいま演じている、「悲願千人斬の女」の主人公、松の門三艸子の命日。いまから九十二年前の今日、彼女は脳溢血のために、厩橋病院で亡くなった。”書いているので、こちらを正しいものとしておくことにした。以下参考に記載の「高砂屋浦舟著『江戸の夕栄』」の深川芸者之部に「小三」という芸者がいたことが書かれているので実在したことは確かだろう。そうすると当時としては82歳の長寿を全うしたことになる。
「悲願千人斬の女」・・・て何?と思ったが、どうも、以下参考に記載の小沢 信男 著 「悲願千人斬の女 」(筑摩書房 )のことらしい。同書の案内文には、”芸者と歌人という二つの顔をもって江戸から明治の時代を生きた女傑・松の門三艸子、大名や元勲、志士から文人墨客まで、二十年間に「千人斬」を果したと言われる彼女の数奇な生涯を描かれている”とある。
「千人斬り」と言う言葉があるが、辞書には、”腕だめしや心願のために千人の人を斬り殺すこと。”と書かれているが、好き者の男性の間などでは、”男性が千人の女性を征服すること”を言っている。それに対して、女性が千人の男性を征服することは「千人信心」というそうだ。根拠は良くわからないが、好き者の男などの場合は、単に腕だめしで征服する女性の数だけを誇りたいのだろうが、女性の場合、そこには何かの心願があり、そのためことが成就した暁には、生ける観音、神仙の域にでも辿り着くと言うのだろうか??。
人を震撼させるような犯罪行為、おのれの欲望と快楽を満足させるためには、いかなる手段もいとわない、知略と行動力にたけ、妖艶な姿態、性的魅力に恵まれた女<毒婦>。明治の文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことである。以下参考に記載の[ニュースという物語]にもあるが、”富や力あるいは異性など、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じであるが、異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、そのような、<毒婦の物語>とは、<処罰の物語>でもあった。
小新聞と呼ばれる大衆紙には、明治に入って、創刊まもない時期から三面記事的事件を潤色し数日にわたって報道する記事が登場し、長期の連載記事となり、ほとんど同時に草双紙として出版され、さらには演劇や歌謡などの世界へも広がっていった。「毒婦物」は、これらのうち女性によって現実に引き起こされた事件を核にして、虚実の境界線上を行き来しながら、「実」を燃料に「虚」へと向かって推進していった。
そのような毒婦物の代表的なものに。「夜嵐お絹」(新聞記事参照)、「高橋お伝」(新聞記事①・②・③参照)、「酔月のお梅(花井阿梅)」(新聞記事①・②・③参照) 、「裏見富士女西行(毒婦お吉)」(新聞記事などがある。
しかし、また現実の事件に取材した物語が語られなかったわけでもない。「土手のお六」や「妲妃のお百(小三)」、「鬼神のお松」といった女をヒロインとする歌舞伎の「悪婆物」は「毒婦物」の前身というべきものである。それはまた、心中、仇討ちなど数々の事件がかわら版から始まって、講談や浄瑠璃あるいは写本によって人々の間に広まってもいる時代であった。
折口信夫の役者の一生(青空文庫)の中に、”明治十二年七月の夏芝居に二十を越したばかりの沢村源之助が一番目に妲妃のお百(だっきのおひゃく)という大役をしているという。この芝居の殺し場は、女一人で男を殺すなど、役にも変化があり、最後まで悪人のはびこる芝居である。この妲妃のお百を演じてからだんだん大きな役者の女房役をするようになり、菊五郎・団十郎、先代の左団次の女房として長い間勤めた”とある。松の門 三艸子が深川芸者「小三」を名乗る前は「お百」と言う名であったらしい。
妲妃のお百とは辞書によると、”講談・読み物などで希代の毒婦と喧伝された江戸中期の女性。中国の妲己にちなんでの称。河竹黙阿弥「善悪両面児手柏(ぜんあくりようめんこのてがしわ)」、二代目桃川如燕の講談などに登場する。・・とある。
伝統歌舞伎保存会 「葉月会」では河竹黙阿弥作、復活劇「御伽草紙百物語-妲妃のお百」 を公演しているが、この作品は、そんな悪女の物語として描かれている。内容は以下参照。
伽草紙百物語-妲妃のお百
http://www.kabuki.or.jp/densyou/hazukikai/syousai13.html
また、講談「妲妃のお百(実録・増補秋田蕗)」のあらすじは、以下参考に記載の「【講談のあらすじ】妲妃のお百(実録・増補秋田蕗・1)」に詳しく書かれている。(1~10まである)
お百は東京に来て芸者小三となるが、以下参考の「萩博ブログ高杉晋作と久坂玄瑞」は、山口県萩市にある萩博物館の情報を伝えることを目的としたブログのようだが、その中で、”新橋浜の家女将の回顧録であり、この記事の初出は「東京二六新聞」明治四十一年九月十五日号で、ちょうど明治座で左団次が晋作に扮する狂言が上演されていたときのもののようだが、記者から高杉晋作との関係を尋ねられた女将は即座に否定し、「高杉さんには其頃別に大変に惚れた芸者衆があったのです」と、ある芸妓の存在を語り始める。「ソレは矢張り、妾と一所に出ておった小三といって、さよう妾より二つ三つ年上でしたが、却々別嬪でしてね、その芸者衆が高杉さんに熱くなって、また高杉さんも大層可愛がっていらしッたのですが、その後、高杉さんはお国へお帰りになってしまい、小三さんもそれを苦にして病気になった位でした…」”・・・と話しており、1862年(文久2年)高杉が24歳ごろ江戸にいたとき芸者の小三と恋仲であったことをうかがわせている。 しかし”その年の12月12日、品川御殿山に建設中だった英国公使館を同志と共に焼き払った晋作は、翌1862年(文久3年)3月、京都に赴き、二度と江戸の土を踏むことは無く、小三と再び会う機会も無かったらしい。その後、芸妓を廃業した小三は歌道に専念し、一家を成し、たくさんの門人を得た。その中には、紀州侯の令嬢もいた"という。そして、ある古書肆に、”小三は幼少より和歌を好み、風雅の心があったが、故あって芸妓になった。一見識ある女で客を選び、風雅の心がなければ、たとえ高貴の人であっても、相手にしなかった。つねに三味線の傍らに筆硯を置き、客が望むと席上で揮毫したという。水戸藩士武田耕雲斎らは1864(元治元)年に筑波山に挙兵した際、同志を墨田川に誘い出し、強引に連れて行ってしまった。そこで小三は、「懐母の歌」を詠み、武田のもとに届けた。武田はこれに感じ、彼らを解き放したという。その後、芸妓を廃業した小三は歌道に専念し、一家を成し、たくさんの門人を得た。その中には、紀州侯の令嬢もいたという。"とある。
また、”新橋浜の家の女将は、小三のその後の消息につき、次のように語り残す。「それから種々世の中が変りまして、その小三さんはずッと後、大学病院前の歯医者の何とやらさんに落籍されて、その人の本妻に成りまして、三四年前迄は達者でおりましたが、今はどうしましたかしら」・・・”と。これらの史料を見ると、晋作が贔屓にした芸妓小三はかなりの教養があり、プライドも高い女性だったようだ。
そのような、芸者時代の小三について、以下参考に記載の「ニュースの誕生>[新聞錦絵の情報社会]の郵便報知新聞 第四百八十一号には、「「深川の唄妓小三ハ井上文雄翁の弟子にて歌も達吟手迹も美事なり」とあり、(老人に恥をかかせぬ風流芸者)ご隠居が惚れて贈った和歌にしゃれた返答で応じた深川芸者の話」が掲載されている。以下参照。
ニュースの誕生>[新聞錦絵の情報社会]
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/03/301/30103.html
和歌を詠み一見識ある小三は客を選び、風雅の心がなければ、たとえ高貴の人であっても、相手にしなかったというのに、どうしたことか歌舞伎や講談の世界では、いつのまにか悪女に仕立て上げられている。彼女は美人で客あしらいが上手だったようなので、そんな彼女は、男性にとって非常に魅力的だし、彼女も情の濃い女性であったかも知れない。だから多くの男性遍歴はあったことも事実なのであろうが、先にも述べたように、男が女に対するのと異なり、同じことを女性が男にすると、悪女扱いされてしまうのだろうね~。
(画像は「外題: 善悪両面児手柏 」 配役:妃己お百 4代市村家橘 。絵師: 国周。上演年月日: 1867(慶応3)年5月5日。上演場所: 江戸・ 市村座 。国立国会図書館浮世絵閲覧システムより)
参考
今日は何の日~毎日が記念日~8月22日
http://www.nnh.to/08/22.html
ニュースの誕生>[ニュースという物語]>“毒婦”の誕生・平田由美
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/04/405/0405.html
ニュースの誕生>[新聞錦絵の情報社会]
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/03/301/30103.html
筑摩書房 悲願千人斬の女 / 小沢 信男 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480818249/
全国名前辞典/松の門 三艸子
http://fine-vn.com/cat_45/ent_45.html
高砂屋浦舟著『江戸の夕栄』大正十一年四月十八日発行
http://csx.jp/~amizako/edonoyuubae.txt
「伝統歌舞伎保存会」 葉月会の記録
http://www.kabuki.or.jp/densyou/hazukikai.html
折口信夫『役者の一生』(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/card46385.html
講談のあらすじ】妲妃のお百(実録・増補秋田蕗・1)1~10まである
http://wageiidiom.cocolog-nifty.com/takmat/2007/06/1_8c0e.html
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル/「絵本増補秋田蕗」(エホン ゾウホ アキタブキ)
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A41005386-00000&cc=09_01_03&keyword=&and_or=AND
asahi.com:筋楽しんで 桂文我、演じ手なき噺を再生
http://www.asahi.com/culture/stage/rakugo/OSK200605090043.html
萩博ブログ高杉晋作と久坂玄瑞」
http://hagihaku.exblog.jp/i13/
春風文庫(しゅんぷうぶんこ) - 研究室 -晋作を支えた女性たち
http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/kenkyuu/kenkyuu_009.html
演劇博物館浮世絵閲覧システム (全項目に検索語を入れてください。例えば、土手のお六、小三〔妲妃のお百〕、鬼神のお松など)
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/search.php
於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)
http://www.koalanet.ne.jp/~jawa/kabuki/enmoku/osomehisamatu.html
高杉晋作 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C
武田耕雲斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E8%80%95%E9%9B%B2%E6%96%8E
http://www.koalanet.ne.jp/~jawa/kabuki/enmoku/osomehisamatu.html
鬼神のお松
http://home4.highway.ne.jp/deadsoul/ka/omatsu.html
松の門三艸子 がどんな人物か良く知らないのだが、「千人信心」と言う言葉が面白いのでいろいろ調べてみることにした。以下参考に記載の「全国名前辞典」によると、”松の門 三艸子(まつのと みさこ)、歌人。江戸下谷の商家に生れ一三歳で嫁し、一七歳で未亡人となり、明治維新により没落し「小三」という深川芸者になる。 "とあり、死亡日は、1914(大正 3)年.8月23日死亡となっており、死亡日が1日異なるが、浪曲師の玉川奈々福(本名:長嶋美穂子)のブログ、以下参考に記載「ななふく日記: 三艸子忌。」(2006年08月22日)でも、”今日は八月二十二日。私がいま演じている、「悲願千人斬の女」の主人公、松の門三艸子の命日。いまから九十二年前の今日、彼女は脳溢血のために、厩橋病院で亡くなった。”書いているので、こちらを正しいものとしておくことにした。以下参考に記載の「高砂屋浦舟著『江戸の夕栄』」の深川芸者之部に「小三」という芸者がいたことが書かれているので実在したことは確かだろう。そうすると当時としては82歳の長寿を全うしたことになる。
「悲願千人斬の女」・・・て何?と思ったが、どうも、以下参考に記載の小沢 信男 著 「悲願千人斬の女 」(筑摩書房 )のことらしい。同書の案内文には、”芸者と歌人という二つの顔をもって江戸から明治の時代を生きた女傑・松の門三艸子、大名や元勲、志士から文人墨客まで、二十年間に「千人斬」を果したと言われる彼女の数奇な生涯を描かれている”とある。
「千人斬り」と言う言葉があるが、辞書には、”腕だめしや心願のために千人の人を斬り殺すこと。”と書かれているが、好き者の男性の間などでは、”男性が千人の女性を征服すること”を言っている。それに対して、女性が千人の男性を征服することは「千人信心」というそうだ。根拠は良くわからないが、好き者の男などの場合は、単に腕だめしで征服する女性の数だけを誇りたいのだろうが、女性の場合、そこには何かの心願があり、そのためことが成就した暁には、生ける観音、神仙の域にでも辿り着くと言うのだろうか??。
人を震撼させるような犯罪行為、おのれの欲望と快楽を満足させるためには、いかなる手段もいとわない、知略と行動力にたけ、妖艶な姿態、性的魅力に恵まれた女<毒婦>。明治の文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことである。以下参考に記載の[ニュースという物語]にもあるが、”富や力あるいは異性など、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じであるが、異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、そのような、<毒婦の物語>とは、<処罰の物語>でもあった。
小新聞と呼ばれる大衆紙には、明治に入って、創刊まもない時期から三面記事的事件を潤色し数日にわたって報道する記事が登場し、長期の連載記事となり、ほとんど同時に草双紙として出版され、さらには演劇や歌謡などの世界へも広がっていった。「毒婦物」は、これらのうち女性によって現実に引き起こされた事件を核にして、虚実の境界線上を行き来しながら、「実」を燃料に「虚」へと向かって推進していった。
そのような毒婦物の代表的なものに。「夜嵐お絹」(新聞記事参照)、「高橋お伝」(新聞記事①・②・③参照)、「酔月のお梅(花井阿梅)」(新聞記事①・②・③参照) 、「裏見富士女西行(毒婦お吉)」(新聞記事などがある。
しかし、また現実の事件に取材した物語が語られなかったわけでもない。「土手のお六」や「妲妃のお百(小三)」、「鬼神のお松」といった女をヒロインとする歌舞伎の「悪婆物」は「毒婦物」の前身というべきものである。それはまた、心中、仇討ちなど数々の事件がかわら版から始まって、講談や浄瑠璃あるいは写本によって人々の間に広まってもいる時代であった。
折口信夫の役者の一生(青空文庫)の中に、”明治十二年七月の夏芝居に二十を越したばかりの沢村源之助が一番目に妲妃のお百(だっきのおひゃく)という大役をしているという。この芝居の殺し場は、女一人で男を殺すなど、役にも変化があり、最後まで悪人のはびこる芝居である。この妲妃のお百を演じてからだんだん大きな役者の女房役をするようになり、菊五郎・団十郎、先代の左団次の女房として長い間勤めた”とある。松の門 三艸子が深川芸者「小三」を名乗る前は「お百」と言う名であったらしい。
妲妃のお百とは辞書によると、”講談・読み物などで希代の毒婦と喧伝された江戸中期の女性。中国の妲己にちなんでの称。河竹黙阿弥「善悪両面児手柏(ぜんあくりようめんこのてがしわ)」、二代目桃川如燕の講談などに登場する。・・とある。
伝統歌舞伎保存会 「葉月会」では河竹黙阿弥作、復活劇「御伽草紙百物語-妲妃のお百」 を公演しているが、この作品は、そんな悪女の物語として描かれている。内容は以下参照。
伽草紙百物語-妲妃のお百
http://www.kabuki.or.jp/densyou/hazukikai/syousai13.html
また、講談「妲妃のお百(実録・増補秋田蕗)」のあらすじは、以下参考に記載の「【講談のあらすじ】妲妃のお百(実録・増補秋田蕗・1)」に詳しく書かれている。(1~10まである)
お百は東京に来て芸者小三となるが、以下参考の「萩博ブログ高杉晋作と久坂玄瑞」は、山口県萩市にある萩博物館の情報を伝えることを目的としたブログのようだが、その中で、”新橋浜の家女将の回顧録であり、この記事の初出は「東京二六新聞」明治四十一年九月十五日号で、ちょうど明治座で左団次が晋作に扮する狂言が上演されていたときのもののようだが、記者から高杉晋作との関係を尋ねられた女将は即座に否定し、「高杉さんには其頃別に大変に惚れた芸者衆があったのです」と、ある芸妓の存在を語り始める。「ソレは矢張り、妾と一所に出ておった小三といって、さよう妾より二つ三つ年上でしたが、却々別嬪でしてね、その芸者衆が高杉さんに熱くなって、また高杉さんも大層可愛がっていらしッたのですが、その後、高杉さんはお国へお帰りになってしまい、小三さんもそれを苦にして病気になった位でした…」”・・・と話しており、1862年(文久2年)高杉が24歳ごろ江戸にいたとき芸者の小三と恋仲であったことをうかがわせている。 しかし”その年の12月12日、品川御殿山に建設中だった英国公使館を同志と共に焼き払った晋作は、翌1862年(文久3年)3月、京都に赴き、二度と江戸の土を踏むことは無く、小三と再び会う機会も無かったらしい。その後、芸妓を廃業した小三は歌道に専念し、一家を成し、たくさんの門人を得た。その中には、紀州侯の令嬢もいた"という。そして、ある古書肆に、”小三は幼少より和歌を好み、風雅の心があったが、故あって芸妓になった。一見識ある女で客を選び、風雅の心がなければ、たとえ高貴の人であっても、相手にしなかった。つねに三味線の傍らに筆硯を置き、客が望むと席上で揮毫したという。水戸藩士武田耕雲斎らは1864(元治元)年に筑波山に挙兵した際、同志を墨田川に誘い出し、強引に連れて行ってしまった。そこで小三は、「懐母の歌」を詠み、武田のもとに届けた。武田はこれに感じ、彼らを解き放したという。その後、芸妓を廃業した小三は歌道に専念し、一家を成し、たくさんの門人を得た。その中には、紀州侯の令嬢もいたという。"とある。
また、”新橋浜の家の女将は、小三のその後の消息につき、次のように語り残す。「それから種々世の中が変りまして、その小三さんはずッと後、大学病院前の歯医者の何とやらさんに落籍されて、その人の本妻に成りまして、三四年前迄は達者でおりましたが、今はどうしましたかしら」・・・”と。これらの史料を見ると、晋作が贔屓にした芸妓小三はかなりの教養があり、プライドも高い女性だったようだ。
そのような、芸者時代の小三について、以下参考に記載の「ニュースの誕生>[新聞錦絵の情報社会]の郵便報知新聞 第四百八十一号には、「「深川の唄妓小三ハ井上文雄翁の弟子にて歌も達吟手迹も美事なり」とあり、(老人に恥をかかせぬ風流芸者)ご隠居が惚れて贈った和歌にしゃれた返答で応じた深川芸者の話」が掲載されている。以下参照。
ニュースの誕生>[新聞錦絵の情報社会]
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/03/301/30103.html
和歌を詠み一見識ある小三は客を選び、風雅の心がなければ、たとえ高貴の人であっても、相手にしなかったというのに、どうしたことか歌舞伎や講談の世界では、いつのまにか悪女に仕立て上げられている。彼女は美人で客あしらいが上手だったようなので、そんな彼女は、男性にとって非常に魅力的だし、彼女も情の濃い女性であったかも知れない。だから多くの男性遍歴はあったことも事実なのであろうが、先にも述べたように、男が女に対するのと異なり、同じことを女性が男にすると、悪女扱いされてしまうのだろうね~。
(画像は「外題: 善悪両面児手柏 」 配役:妃己お百 4代市村家橘 。絵師: 国周。上演年月日: 1867(慶応3)年5月5日。上演場所: 江戸・ 市村座 。国立国会図書館浮世絵閲覧システムより)
参考
今日は何の日~毎日が記念日~8月22日
http://www.nnh.to/08/22.html
ニュースの誕生>[ニュースという物語]>“毒婦”の誕生・平田由美
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/04/405/0405.html
ニュースの誕生>[新聞錦絵の情報社会]
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/03/301/30103.html
筑摩書房 悲願千人斬の女 / 小沢 信男 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480818249/
全国名前辞典/松の門 三艸子
http://fine-vn.com/cat_45/ent_45.html
高砂屋浦舟著『江戸の夕栄』大正十一年四月十八日発行
http://csx.jp/~amizako/edonoyuubae.txt
「伝統歌舞伎保存会」 葉月会の記録
http://www.kabuki.or.jp/densyou/hazukikai.html
折口信夫『役者の一生』(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/card46385.html
講談のあらすじ】妲妃のお百(実録・増補秋田蕗・1)1~10まである
http://wageiidiom.cocolog-nifty.com/takmat/2007/06/1_8c0e.html
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル/「絵本増補秋田蕗」(エホン ゾウホ アキタブキ)
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A41005386-00000&cc=09_01_03&keyword=&and_or=AND
asahi.com:筋楽しんで 桂文我、演じ手なき噺を再生
http://www.asahi.com/culture/stage/rakugo/OSK200605090043.html
萩博ブログ高杉晋作と久坂玄瑞」
http://hagihaku.exblog.jp/i13/
春風文庫(しゅんぷうぶんこ) - 研究室 -晋作を支えた女性たち
http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/kenkyuu/kenkyuu_009.html
演劇博物館浮世絵閲覧システム (全項目に検索語を入れてください。例えば、土手のお六、小三〔妲妃のお百〕、鬼神のお松など)
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/search.php
於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)
http://www.koalanet.ne.jp/~jawa/kabuki/enmoku/osomehisamatu.html
高杉晋作 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C
武田耕雲斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E8%80%95%E9%9B%B2%E6%96%8E
http://www.koalanet.ne.jp/~jawa/kabuki/enmoku/osomehisamatu.html
鬼神のお松
http://home4.highway.ne.jp/deadsoul/ka/omatsu.html