天保3年の今日8月19日(1832年9月13日)は、盗賊・鼠小僧次郎吉 の忌日。<36歳くらい>
鼠(ねずみ)小僧は、江戸時代後期、化政時代(大御所時代)に出没し大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯である。本名は、次郎吉。人を傷つけない義賊として評判になり、鼠小僧と呼ばれている。また、名前と合わせて「鼠小僧次郎吉」とも称されている。本業は鳶職(とびしょく)であったと言われている。
義賊と言うのは、辞書にもあるように「金持ちから金品を奪い、困っている者に分け与える盗賊」と言うことになるのだが、事実、彼がつかまった後で役人による家宅捜索が行われたところ、盗まれた金銭は殆ど発見されなかったそうで、傍目から見ると、彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものである事から、盗んだ金の行方について噂になり、この様な伝説が生まれたものと考えられているようだが、現在の研究家の間では「盗んだ金の殆どは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しているそうだ。
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷(武家屋敷参照)を専門に徒党を組む事無く一人で盗みに入った事から、江戸時代における反権力の具現者として祭り上げられたようだ。
ただし鼠小僧自身にその様な意図があった訳では無く、当時は大名屋敷の警備が非常に手薄であった為、江戸に於いて最も大金を盗み易い種類の家であったと言うだけの理由であった(町人長屋に大金は無く、金のある商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた)。また、武家屋敷では被害にあっても届け出ればむしろ「盗賊に盗まれるなど不届き至極」と咎めを受ける可能性もあり、面子と体面を守る為には被害に遭っても公にし難く、殆ど届け出ることはない。その上、彼は鳶職であったので、身のこなしも軽く、ひとけのない所をうまく忍び込めたのだろう。
鼠小僧が捕らえられたのは、天保3年5月8日(1832年6月6日)上野国小幡藩主松平宮内小輔忠恵の浜町屋敷と言われている(諸説あるようだ)が、実は文政8年(1825年)にも忍び込んだところを一度捕まり入墨、中追放となっていた。以下参考に記載の「江戸時代の仕置き(刑罰)」にも有るように、幕府の庶民に対する基本法である「公事方御定書」では、盗人には「入墨」の刑が決まりであり、犯罪者を一定地域内で居住することを禁じた刑にも色々あるが、「中追放」は、武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曾路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河での居住を禁じ、田畑・家屋敷のみを没収と言うものであった。だから、この地域での犯罪であったろうと思うが、「公事方御定書」では10両を盗んだだけで「死罪」という厳しいものであったので、入墨、中追放と言うからには、大名家が被害届を出していなかったものと考えられている。
2度目に逮捕されるまでの盗んだ金銭の総額についても諸説が存在しており、はっきりと定まった金額は不明のようである。それは先にも述べたように、盗まれた大名屋敷からの届けが無い以上仕方がないだろう。
しかし、北町奉行・榊原忠之によって出された判決は市中引き回しの上での獄門(磔串刺)である。磔(はりつけ)とは、罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰のことである。江戸時代の磔刑は本来なら関所破りや親殺し、主人殺しなど凶悪犯(殺人や放火や)に適用される刑であり、処刑は鈴ヶ森刑場にて行われた。鈴ヶ森刑場跡には、今でも実際に使われていた磔台が残っている。以下参照。
私立PDD図書館:鈴ヶ森刑場跡
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/suzugamori/index.htm
鼠小僧の対する磔刑の判決は盗みに入られた大名達の面子を潰された恨みの産物という見方も出来るが、むしろ、このような盗賊が、江戸庶民から義賊として持て囃されることを封じることに狙いがあったのであろう。
鈴ヶ森刑場での最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安事件の首謀者のひとり丸橋忠弥であり、その後も、平井権八(浄瑠璃や歌舞伎の白井権八のモデル。ここ参照)や天一坊、八百屋お七、白木屋お駒といった人物がここで処刑されているのを見てもわかるように、鈴ヶ森での刑は、権力への反抗や火付けといった当時の江戸では絶対に許されない犯罪に対する見せしめのために行われている。
当時の処刑は連座制が適用されていたが、鼠小僧の次郎吉は堺町(現在の中央区日本橋芳町二丁目・人形町三丁目)中村座の木戸番(芝居・相撲・見世物小屋の木戸口の番人)定七の長男であったらしいが、盗みに入った頃には、勘当され親兄弟とも縁が切れており、数人いたといわれる妻にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していた為、天涯孤独の身として刑を受けたという。 この、自らの行いに対しあらゆる人間を巻き込まずに済ませた、という点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因の一つとなっているという。
お墓は両国の回向院
浄土宗 国豊山 無縁寺 回向院
http://kkubota.cool.ne.jp/ekouin.htm
鼠小僧の墓石を削り取ると、その業界の人やギャンブル好きの人だけでなく、受験生などには「するりと入れる」ご利益があるといわれているそうだ。しかし、江戸文化・風俗の研究家である三田村鳶魚 は大正年代に、受刑者の鼠小僧に墓は無いこと、後に立てられた墓石が欠き取られている理由を説明しているそうだ。
義賊であったかどうかは別として、「鼠小僧次郎吉」 の話は、講談や歌舞伎・映画・TVと現在でも庶民の味方として描かれている。
「天(あま)が下 古き例(ためし)は しら波の 身にぞ鼠と あらわれにけり」
これは、「ねずみ小僧」の辞世の句だというが、なんか聞いたような台詞だ。そういえば、同じ盗人の石川五右衛門の「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ 」と言うのがあるが、「問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越し、危ねえその身の境界も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門」という「歌舞伎・白波五人男」(青砥稿花紅彩画)の頭領・日本駄右衛門の台詞にあやかったようだ。日本駄右衛門のモデルとなった実在の日本左衛門は浜松付近で強盗を重ねていた盗賊、盗人の代表的な人物だ。これら河竹黙阿弥の書いた白波もの(盗賊ものの演目の総称)の台詞を意識して後に誰かにつくられたものだろうね~。
講談などでは、鼠小僧が白状したものだけでも、侵入すること400回、盗んだ総額一万二千両、単純計算(1両=十万円)でも十二億円以上の現金を盗んだ事になると言うのだが、今の時代なら、それだけの金を遊びのために使えれば、磔、獄門何のその・・と言う人が多いのじゃ~ないかな。この頃、一時の気休めに、金のためなら数十万円で人を殺したり、親や子供でさえも殺す人間がわんさといるみたいだが、そんな輩は、どこかに、鈴ヶ森のような公開処刑場を作って市中引き下回しのうえ、串刺しにし、晒し首にしてやりたいものだが、現実には、とんでもない異常犯罪者でさえも、死刑廃止論者が、殺人者は精神状態がおかしかったから罪を犯したのだなどと、何でも病気のせいにしているんだからね。一体全体人を殺すなどと言うことが、正常な精神状態で出来たらそれは恐ろしい。人が正常な精神で人を殺すならそれは悪魔のなせる業。人間の犯罪ではないということになる。そうなると、もう普通の裁判ではだめで、昔のような宗教裁判で悪魔裁きでももしなければならないんじゃ~ないか。
(画像は、尾上菊五郎が演じた鼠小僧の絵。Wikipediaより)
鼠小僧 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%A0%E5%B0%8F%E5%83%A7
図書カード:「鼠小僧次郎吉」著者名: 芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card108.html
一文と一両の価値
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/J029.htm
東京おもしろ雑学:盗賊・ねずみ小僧
http://www.juken-net.com/magajin/maga/110.htm
浄土宗 国豊山 無縁寺 回向院
http://kkubota.cool.ne.jp/ekouin.htm
私立PDD図書館:歴史関連の索引
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/history.htm
鈴ヶ森刑場跡
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/suzugamori/index.htm
鼠小僧次郎吉 辞世の句
http://www.marinenet.co.jp/jinpati/lastsong/nezumikozou.html
鼠小僧の墓
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/sumida/nezumi.htm
松平忠恵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%81%B5
江戸時代の仕置き(刑罰)HTMLバージョン
http://72.14.235.104/search?q=cache:kekZL6BVzDgJ:www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/edojidainoshioki.ppt+%E5%85%A5%E5%A2%A8+%E4%B8%AD%E8%BF%BD%E6%94%BE&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp
4月21日、大岡政談として有名な「天一坊事件」の首謀者天一坊のモデルとなった、修験者源氏坊改行が鈴ヶ森刑場で処刑された日。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/00a8c6e8a7f60efaea6db7693f399ec1
三田村鳶魚 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%B3%B6%E9%AD%9A
中村座 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%BA%A7
歌舞伎座メールマガジン」ライブラリー
http://www.kabuki-za.co.jp/info/magazine/library.html
歌舞伎事典
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_na/dic_na_06.html
歌舞伎口上散歩
http://www.tokyo-kurenaidan.com/kabuki1.htm
鼠(ねずみ)小僧は、江戸時代後期、化政時代(大御所時代)に出没し大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯である。本名は、次郎吉。人を傷つけない義賊として評判になり、鼠小僧と呼ばれている。また、名前と合わせて「鼠小僧次郎吉」とも称されている。本業は鳶職(とびしょく)であったと言われている。
義賊と言うのは、辞書にもあるように「金持ちから金品を奪い、困っている者に分け与える盗賊」と言うことになるのだが、事実、彼がつかまった後で役人による家宅捜索が行われたところ、盗まれた金銭は殆ど発見されなかったそうで、傍目から見ると、彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものである事から、盗んだ金の行方について噂になり、この様な伝説が生まれたものと考えられているようだが、現在の研究家の間では「盗んだ金の殆どは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しているそうだ。
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷(武家屋敷参照)を専門に徒党を組む事無く一人で盗みに入った事から、江戸時代における反権力の具現者として祭り上げられたようだ。
ただし鼠小僧自身にその様な意図があった訳では無く、当時は大名屋敷の警備が非常に手薄であった為、江戸に於いて最も大金を盗み易い種類の家であったと言うだけの理由であった(町人長屋に大金は無く、金のある商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた)。また、武家屋敷では被害にあっても届け出ればむしろ「盗賊に盗まれるなど不届き至極」と咎めを受ける可能性もあり、面子と体面を守る為には被害に遭っても公にし難く、殆ど届け出ることはない。その上、彼は鳶職であったので、身のこなしも軽く、ひとけのない所をうまく忍び込めたのだろう。
鼠小僧が捕らえられたのは、天保3年5月8日(1832年6月6日)上野国小幡藩主松平宮内小輔忠恵の浜町屋敷と言われている(諸説あるようだ)が、実は文政8年(1825年)にも忍び込んだところを一度捕まり入墨、中追放となっていた。以下参考に記載の「江戸時代の仕置き(刑罰)」にも有るように、幕府の庶民に対する基本法である「公事方御定書」では、盗人には「入墨」の刑が決まりであり、犯罪者を一定地域内で居住することを禁じた刑にも色々あるが、「中追放」は、武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曾路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河での居住を禁じ、田畑・家屋敷のみを没収と言うものであった。だから、この地域での犯罪であったろうと思うが、「公事方御定書」では10両を盗んだだけで「死罪」という厳しいものであったので、入墨、中追放と言うからには、大名家が被害届を出していなかったものと考えられている。
2度目に逮捕されるまでの盗んだ金銭の総額についても諸説が存在しており、はっきりと定まった金額は不明のようである。それは先にも述べたように、盗まれた大名屋敷からの届けが無い以上仕方がないだろう。
しかし、北町奉行・榊原忠之によって出された判決は市中引き回しの上での獄門(磔串刺)である。磔(はりつけ)とは、罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰のことである。江戸時代の磔刑は本来なら関所破りや親殺し、主人殺しなど凶悪犯(殺人や放火や)に適用される刑であり、処刑は鈴ヶ森刑場にて行われた。鈴ヶ森刑場跡には、今でも実際に使われていた磔台が残っている。以下参照。
私立PDD図書館:鈴ヶ森刑場跡
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/suzugamori/index.htm
鼠小僧の対する磔刑の判決は盗みに入られた大名達の面子を潰された恨みの産物という見方も出来るが、むしろ、このような盗賊が、江戸庶民から義賊として持て囃されることを封じることに狙いがあったのであろう。
鈴ヶ森刑場での最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安事件の首謀者のひとり丸橋忠弥であり、その後も、平井権八(浄瑠璃や歌舞伎の白井権八のモデル。ここ参照)や天一坊、八百屋お七、白木屋お駒といった人物がここで処刑されているのを見てもわかるように、鈴ヶ森での刑は、権力への反抗や火付けといった当時の江戸では絶対に許されない犯罪に対する見せしめのために行われている。
当時の処刑は連座制が適用されていたが、鼠小僧の次郎吉は堺町(現在の中央区日本橋芳町二丁目・人形町三丁目)中村座の木戸番(芝居・相撲・見世物小屋の木戸口の番人)定七の長男であったらしいが、盗みに入った頃には、勘当され親兄弟とも縁が切れており、数人いたといわれる妻にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していた為、天涯孤独の身として刑を受けたという。 この、自らの行いに対しあらゆる人間を巻き込まずに済ませた、という点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因の一つとなっているという。
お墓は両国の回向院
浄土宗 国豊山 無縁寺 回向院
http://kkubota.cool.ne.jp/ekouin.htm
鼠小僧の墓石を削り取ると、その業界の人やギャンブル好きの人だけでなく、受験生などには「するりと入れる」ご利益があるといわれているそうだ。しかし、江戸文化・風俗の研究家である三田村鳶魚 は大正年代に、受刑者の鼠小僧に墓は無いこと、後に立てられた墓石が欠き取られている理由を説明しているそうだ。
義賊であったかどうかは別として、「鼠小僧次郎吉」 の話は、講談や歌舞伎・映画・TVと現在でも庶民の味方として描かれている。
「天(あま)が下 古き例(ためし)は しら波の 身にぞ鼠と あらわれにけり」
これは、「ねずみ小僧」の辞世の句だというが、なんか聞いたような台詞だ。そういえば、同じ盗人の石川五右衛門の「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ 」と言うのがあるが、「問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越し、危ねえその身の境界も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門」という「歌舞伎・白波五人男」(青砥稿花紅彩画)の頭領・日本駄右衛門の台詞にあやかったようだ。日本駄右衛門のモデルとなった実在の日本左衛門は浜松付近で強盗を重ねていた盗賊、盗人の代表的な人物だ。これら河竹黙阿弥の書いた白波もの(盗賊ものの演目の総称)の台詞を意識して後に誰かにつくられたものだろうね~。
講談などでは、鼠小僧が白状したものだけでも、侵入すること400回、盗んだ総額一万二千両、単純計算(1両=十万円)でも十二億円以上の現金を盗んだ事になると言うのだが、今の時代なら、それだけの金を遊びのために使えれば、磔、獄門何のその・・と言う人が多いのじゃ~ないかな。この頃、一時の気休めに、金のためなら数十万円で人を殺したり、親や子供でさえも殺す人間がわんさといるみたいだが、そんな輩は、どこかに、鈴ヶ森のような公開処刑場を作って市中引き下回しのうえ、串刺しにし、晒し首にしてやりたいものだが、現実には、とんでもない異常犯罪者でさえも、死刑廃止論者が、殺人者は精神状態がおかしかったから罪を犯したのだなどと、何でも病気のせいにしているんだからね。一体全体人を殺すなどと言うことが、正常な精神状態で出来たらそれは恐ろしい。人が正常な精神で人を殺すならそれは悪魔のなせる業。人間の犯罪ではないということになる。そうなると、もう普通の裁判ではだめで、昔のような宗教裁判で悪魔裁きでももしなければならないんじゃ~ないか。
(画像は、尾上菊五郎が演じた鼠小僧の絵。Wikipediaより)
鼠小僧 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%A0%E5%B0%8F%E5%83%A7
図書カード:「鼠小僧次郎吉」著者名: 芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card108.html
一文と一両の価値
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/J029.htm
東京おもしろ雑学:盗賊・ねずみ小僧
http://www.juken-net.com/magajin/maga/110.htm
浄土宗 国豊山 無縁寺 回向院
http://kkubota.cool.ne.jp/ekouin.htm
私立PDD図書館:歴史関連の索引
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/history.htm
鈴ヶ森刑場跡
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/suzugamori/index.htm
鼠小僧次郎吉 辞世の句
http://www.marinenet.co.jp/jinpati/lastsong/nezumikozou.html
鼠小僧の墓
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/sumida/nezumi.htm
松平忠恵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%81%B5
江戸時代の仕置き(刑罰)HTMLバージョン
http://72.14.235.104/search?q=cache:kekZL6BVzDgJ:www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/edojidainoshioki.ppt+%E5%85%A5%E5%A2%A8+%E4%B8%AD%E8%BF%BD%E6%94%BE&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp
4月21日、大岡政談として有名な「天一坊事件」の首謀者天一坊のモデルとなった、修験者源氏坊改行が鈴ヶ森刑場で処刑された日。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/00a8c6e8a7f60efaea6db7693f399ec1
三田村鳶魚 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%B3%B6%E9%AD%9A
中村座 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%BA%A7
歌舞伎座メールマガジン」ライブラリー
http://www.kabuki-za.co.jp/info/magazine/library.html
歌舞伎事典
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_na/dic_na_06.html
歌舞伎口上散歩
http://www.tokyo-kurenaidan.com/kabuki1.htm