今日(8月20日)は、「小倉百人一首」の撰者と言われている鎌倉時代の歌人・藤原定家の1241(仁治2)年の忌日。(新暦では、年9月26日)
藤原 定家は、鎌倉初期の歌人藤原道長の玄孫、御子左家の出身。1162(応保2)年 、父は藤原俊成(当時は顕広),、母は美福門院加賀=藤原親忠の娘)の子として生れる。官位は正二位権中納言に昇った。九条家に近く、土御門通親らと政治的には激しく対立した。号は京極中納言。法名は明静(みょうじょう)。
11世紀後期からは上皇が、治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。後三条天皇の子白河天皇の院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であるが、院政期には、荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。
白河は、鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に没し、鳥羽が院政を布くこととなったが、崇徳は白河の実子であると言われており、鳥羽は崇徳を忌避し、第九皇子である近衛天皇(母、美福門院)へ皇位を継がせた(近衛没後はその兄の後白河天皇〔母、待賢門院〕が継いだ)。そして、保元元年(1156年)に鳥羽上皇が没すると、治天の君の座を巡って崇徳と後白河の間で政争が起こり、軍事衝突によって後白河が勝利し解決した(保元の乱)。
続いて、数年後に再び政争が軍事衝突によって終結し(平治の乱)、この両乱を通じて武士の政治的地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場することになる。仁安2年(1167年)2月平清盛が太政大臣になったのは、定家が6歳の時であった。
しかし、平氏政権の支配に対して、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があり、治承元年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀を嚆矢(こうし)として、反平氏の動きが活発化し貴族・寺社層から反発が出されるようになり、そうした不満を背景として治承4年(1180年)に後白河の皇子以仁王が反平氏の兵を挙げた。この挙兵はすぐに鎮圧されたが、平家支配に潜在的な不満を抱いていた各地の武士・豪族層が次々に挙兵し、平氏勢力や各地の勢力の間で5年に渡る内乱が繰り広げられたが、最終的に関東に本拠を置いた武家政権、すなわち鎌倉幕府の勝利によって内乱は終結した(治承・寿永の乱)。
建久3年(1192年)、後白河上皇がに死去すると、源頼朝は征夷大将軍への任官を果たし、この時をもって鎌倉幕府の形成がひとまず完了したといえるが、この時、定家31歳の時であった。
このように、平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生きてた。
鎌倉時代に入ると、政権を奪われた貴族たちは伝統文化を心のより所にしたため、和歌は盛んに詠まれた。鎌倉への対抗意識もあって和歌に非常な熱意を示した後鳥羽院の命で撰進(せんしん)されたのが『新古今和歌集』である。『古今和歌集』以後の8勅撰和歌集、いわゆる「八代集」の最後を飾る。現実の体験ではなく、頭の中で作り上げた世界を詠んだものがほとんどを占める。千載和歌集でみられた芸術至上主義がさらに進み、技巧は極致に達しているという。その一方で自然への愛や人生観を詠んだ西行(西行 千人万首参照)、万葉調の源実朝も尊ばれた(源実朝 千人万首参照)。貞永元年(1232年)、後堀河天皇の下命を受け『新勅撰和歌集』(十三代集の最初)も撰進している。この2つの勅撰集のほか、秀歌撰に『定家八代抄』(八代集秀歌選参照)、歌論書に『毎月抄』 (以下参考の和歌と歌論集の部屋/毎月抄参照)『近代秀歌』(近代秀歌 例歌 千人万首参照)『詠歌大概』(秀歌体大略 千人万首)などがある。歌集に『拾遺愚草』(以下参考に記載の国文学21Cプロジェクト「拾遺愚草・員外・員外之外」参照)がある。また、18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年、国宝に指定)を残した。明月記にはおうし座で超新星爆発が起こったこと(現在のかに星雲)に関する記述があり、天文学上、重要な資料となっているそうだ。以下参照。
藤原定家の明月記~M1かに星雲の超新星爆発の古記録~
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ktjpm1.htm
また、宇都宮頼綱に依頼され撰じた「小倉百人一首」が有名である。
「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ 」(「百人一首」に収められている定家自身の作)
中世から近世初期にかけては、『百人一首』は貴族の間で和歌秘伝の書として尊重され、数々の秘伝書、注釈書が生み出されていった。元禄の頃になると、次第に学問は一般民衆のものとなり、『百人一首』はもっぱら良家の子女の教養書や書道の手本として尊ばれるようになった。今、百人一首といえば、通常はこの「小倉百人一首」のことをさすが、この原型は定家が選んだ「百人秀歌」であると言われるが、彼の日記「明月記」によると、「京都の嵯峨にある宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)の山荘にある障子(ふすま)に貼るための色紙として、古来の歌人たちの歌を各一種選んだ」とある。百人一首に選ばれこの百人秀歌にに漏れているのは、後鳥羽院・順徳院の2人。反対に、百人秀歌のみに見られる歌人は一条院皇后宮(藤原定子)・源国信・藤原長方の3人。百人秀歌に後鳥羽院・順徳院の2人が洩れているのは、承久の乱で、この2人が島流しになったため、2人の歌を選ぶことは定家の時代の政治状況では難しかったからだ考えられている。しかし後に、定家の子息の代あたりになってから、この2人の歌が加えられ、若干の補訂がされて、現在の「小倉百人一首」の形になったとみられているようだ。以下参考。
百人秀歌 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100s.html
定家のこの歌集(百人一首)には、普通の歌集とはちがった、ある特殊な意図のもとに編纂されたものだという。そのことは前の5月27日「百人一首の日」に書いた。なかなか奥の深い謎めいたものがあり、面白いので、興味のある人は是非一度覗いて見てください。→「百人一首の日」
定家は、激動期の中で歌道の家としての地位を不動にした。子に藤原為家、孫に二条為氏・京極為教・冷泉為相らがいる。その直系子孫は絶えたが、分家の一つであった冷泉家は、現在も続いている。
なお、藤原 定家は、一般には”ふじわら の ていか”と有職読みされることが多いが、”ふじわら の さだいえ”が正式の読みである。
中世の和歌、ひいては芸道一般に広く影響を与えた歌人には定家のほか西行がいる。定家の撰進した新古今集に西行の歌は94首掲載されており、入撰数第1位である。西行は、平清盛と同じ年に生まれ、定家が29歳のとき73歳で世を去ったから、世代は全く違う。それでも西行は孫のような定家に信頼のこもった敬愛を寄せ、定家もまた、老西行に深い尊敬を払っていたという。何しろ西行は若い都の貴族たちにとって殆ど伝説に近い憧れの歌僧だった。定家の時代表面上は華やかであっても貴族階級の没落期であり、政治上の理想はけしとび、社会秩序も混乱して、めまぐるしく浮沈する派閥権力のもとで、立身出世もままならない時代、鮮やかに出家し、ひたすら仏法と、花・月にだけ心を遊ばせた捨て身の自由人西行の和歌が大いに貴族たちの賛美を浴びていたのである。自我を超越した私心の叙情、無限の虚無(きょむ)に優しく溶けいる私的感情の表現。そうした西行の生活と和歌のスタイルが、中世の僧衣をまとって現実を捨て草庵に住み諸国を吟遊する多くの自然詩人たちを生み出した。それに対して、定家は、徹底的に芸術家の道を歩んだ。彼は、和歌を芸術詩に高めた人である。定家は西行とは対極的な歌人として生きたわけであるが、両者に共通する現実否定と永遠への憧憬が中世芸術の相反する両様式を開いたといえるのだろう。
(画像は「小倉百人一首」 権中納言藤原定家の読み札。)
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藤原 定家は、鎌倉初期の歌人藤原道長の玄孫、御子左家の出身。1162(応保2)年 、父は藤原俊成(当時は顕広),、母は美福門院加賀=藤原親忠の娘)の子として生れる。官位は正二位権中納言に昇った。九条家に近く、土御門通親らと政治的には激しく対立した。号は京極中納言。法名は明静(みょうじょう)。
11世紀後期からは上皇が、治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。後三条天皇の子白河天皇の院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であるが、院政期には、荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。
白河は、鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に没し、鳥羽が院政を布くこととなったが、崇徳は白河の実子であると言われており、鳥羽は崇徳を忌避し、第九皇子である近衛天皇(母、美福門院)へ皇位を継がせた(近衛没後はその兄の後白河天皇〔母、待賢門院〕が継いだ)。そして、保元元年(1156年)に鳥羽上皇が没すると、治天の君の座を巡って崇徳と後白河の間で政争が起こり、軍事衝突によって後白河が勝利し解決した(保元の乱)。
続いて、数年後に再び政争が軍事衝突によって終結し(平治の乱)、この両乱を通じて武士の政治的地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場することになる。仁安2年(1167年)2月平清盛が太政大臣になったのは、定家が6歳の時であった。
しかし、平氏政権の支配に対して、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があり、治承元年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀を嚆矢(こうし)として、反平氏の動きが活発化し貴族・寺社層から反発が出されるようになり、そうした不満を背景として治承4年(1180年)に後白河の皇子以仁王が反平氏の兵を挙げた。この挙兵はすぐに鎮圧されたが、平家支配に潜在的な不満を抱いていた各地の武士・豪族層が次々に挙兵し、平氏勢力や各地の勢力の間で5年に渡る内乱が繰り広げられたが、最終的に関東に本拠を置いた武家政権、すなわち鎌倉幕府の勝利によって内乱は終結した(治承・寿永の乱)。
建久3年(1192年)、後白河上皇がに死去すると、源頼朝は征夷大将軍への任官を果たし、この時をもって鎌倉幕府の形成がひとまず完了したといえるが、この時、定家31歳の時であった。
このように、平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生きてた。
鎌倉時代に入ると、政権を奪われた貴族たちは伝統文化を心のより所にしたため、和歌は盛んに詠まれた。鎌倉への対抗意識もあって和歌に非常な熱意を示した後鳥羽院の命で撰進(せんしん)されたのが『新古今和歌集』である。『古今和歌集』以後の8勅撰和歌集、いわゆる「八代集」の最後を飾る。現実の体験ではなく、頭の中で作り上げた世界を詠んだものがほとんどを占める。千載和歌集でみられた芸術至上主義がさらに進み、技巧は極致に達しているという。その一方で自然への愛や人生観を詠んだ西行(西行 千人万首参照)、万葉調の源実朝も尊ばれた(源実朝 千人万首参照)。貞永元年(1232年)、後堀河天皇の下命を受け『新勅撰和歌集』(十三代集の最初)も撰進している。この2つの勅撰集のほか、秀歌撰に『定家八代抄』(八代集秀歌選参照)、歌論書に『毎月抄』 (以下参考の和歌と歌論集の部屋/毎月抄参照)『近代秀歌』(近代秀歌 例歌 千人万首参照)『詠歌大概』(秀歌体大略 千人万首)などがある。歌集に『拾遺愚草』(以下参考に記載の国文学21Cプロジェクト「拾遺愚草・員外・員外之外」参照)がある。また、18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年、国宝に指定)を残した。明月記にはおうし座で超新星爆発が起こったこと(現在のかに星雲)に関する記述があり、天文学上、重要な資料となっているそうだ。以下参照。
藤原定家の明月記~M1かに星雲の超新星爆発の古記録~
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ktjpm1.htm
また、宇都宮頼綱に依頼され撰じた「小倉百人一首」が有名である。
「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ 」(「百人一首」に収められている定家自身の作)
中世から近世初期にかけては、『百人一首』は貴族の間で和歌秘伝の書として尊重され、数々の秘伝書、注釈書が生み出されていった。元禄の頃になると、次第に学問は一般民衆のものとなり、『百人一首』はもっぱら良家の子女の教養書や書道の手本として尊ばれるようになった。今、百人一首といえば、通常はこの「小倉百人一首」のことをさすが、この原型は定家が選んだ「百人秀歌」であると言われるが、彼の日記「明月記」によると、「京都の嵯峨にある宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)の山荘にある障子(ふすま)に貼るための色紙として、古来の歌人たちの歌を各一種選んだ」とある。百人一首に選ばれこの百人秀歌にに漏れているのは、後鳥羽院・順徳院の2人。反対に、百人秀歌のみに見られる歌人は一条院皇后宮(藤原定子)・源国信・藤原長方の3人。百人秀歌に後鳥羽院・順徳院の2人が洩れているのは、承久の乱で、この2人が島流しになったため、2人の歌を選ぶことは定家の時代の政治状況では難しかったからだ考えられている。しかし後に、定家の子息の代あたりになってから、この2人の歌が加えられ、若干の補訂がされて、現在の「小倉百人一首」の形になったとみられているようだ。以下参考。
百人秀歌 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100s.html
定家のこの歌集(百人一首)には、普通の歌集とはちがった、ある特殊な意図のもとに編纂されたものだという。そのことは前の5月27日「百人一首の日」に書いた。なかなか奥の深い謎めいたものがあり、面白いので、興味のある人は是非一度覗いて見てください。→「百人一首の日」
定家は、激動期の中で歌道の家としての地位を不動にした。子に藤原為家、孫に二条為氏・京極為教・冷泉為相らがいる。その直系子孫は絶えたが、分家の一つであった冷泉家は、現在も続いている。
なお、藤原 定家は、一般には”ふじわら の ていか”と有職読みされることが多いが、”ふじわら の さだいえ”が正式の読みである。
中世の和歌、ひいては芸道一般に広く影響を与えた歌人には定家のほか西行がいる。定家の撰進した新古今集に西行の歌は94首掲載されており、入撰数第1位である。西行は、平清盛と同じ年に生まれ、定家が29歳のとき73歳で世を去ったから、世代は全く違う。それでも西行は孫のような定家に信頼のこもった敬愛を寄せ、定家もまた、老西行に深い尊敬を払っていたという。何しろ西行は若い都の貴族たちにとって殆ど伝説に近い憧れの歌僧だった。定家の時代表面上は華やかであっても貴族階級の没落期であり、政治上の理想はけしとび、社会秩序も混乱して、めまぐるしく浮沈する派閥権力のもとで、立身出世もままならない時代、鮮やかに出家し、ひたすら仏法と、花・月にだけ心を遊ばせた捨て身の自由人西行の和歌が大いに貴族たちの賛美を浴びていたのである。自我を超越した私心の叙情、無限の虚無(きょむ)に優しく溶けいる私的感情の表現。そうした西行の生活と和歌のスタイルが、中世の僧衣をまとって現実を捨て草庵に住み諸国を吟遊する多くの自然詩人たちを生み出した。それに対して、定家は、徹底的に芸術家の道を歩んだ。彼は、和歌を芸術詩に高めた人である。定家は西行とは対極的な歌人として生きたわけであるが、両者に共通する現実否定と永遠への憧憬が中世芸術の相反する両様式を開いたといえるのだろう。
(画像は「小倉百人一首」 権中納言藤原定家の読み札。)
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