1939(昭和14)年の今日(9月5日) NHKラジオで徳川夢声の『宮本武蔵』の朗読が始まった日。
ラジオ放送の歴史を見ると、1925(大正14)年に東京・大阪・名古屋の三社団法人が開局する前後数年間、数多くの実験が試みられていたが、日本初のラジオ放送は関東大震災(1923年=大正12年)から2年たった1925年(大正14)3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(JOAK:現在のNHK東京放送局:略称AK)が東京・芝浦の東京高等工芸学校(千葉大学工学部の前身)内に設けた仮送信所から発した京田武男アナウンサーによる第一声「アーアーアー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します」・・であった。NHKはこの日を記念して「放送記念日」としている。この日のことは、前に、書いたのでそこで見てください。→今日(3月22日)は、「放送記念日」
この仮放送(仮施設からの正式な放送という意味)を開始し後、愛宕山からの本放送が開始されたのは7月12日のことである。この日を記念したものが「ラジオ本放送の日」である。このことも前に書いたので、そこで見てください。→今日(7月12日)は、「ラジオ本放送の日」
社団法人東京・大阪・名古屋放送局の三局は翌・1926(大正15)年8月6日に「社団法人日本放送協会((NHK))」(実質的には政府機関的な性格をもっていた)として統合された。
翌1927(昭和 2)年8月13日、甲子園から第13回全国中等野球大会を放送(初のスポーツ実況)、翌・1928(昭和3)1月12日、大相撲中継開始、同年11月1日から 「ラジオ体操」放送開始。1932(昭和7)年には、ラジオ聴取契約者が、100万を超え、1937(昭和12)年には、が300万を突破するなど、ラジオ受信機の普及が進み、ラジオが娯楽の主役となったが、戦局の進行とともにプロパガンダ的な番組が多くなったといわれる。1936(昭和11)年8月ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎのラジオ放送での河西三省アナウンサーの「「前畑頑張れ」という実況は今も語り草となっている。
この』2年後の1939(昭和14)年の今日(9月5日) NHKラジオで徳川夢声(とくがわ むせい)による『宮本武蔵』の朗読が始まり、一世を風靡したという。
徳川夢声は、大正から昭和中期にかけて、ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。一高(現在の東京大学教養学部)の入学に失敗後、憧れの落語家になるため三遊亭圓子の元に入門を決意するが、親に反対され、1913(大正2)年に活動写真(無声映画)の弁士となる。芸名は無声映画の「無声」から「夢声」と付けたといわれている。昭和の時代になって、音声の出るトーキーが登場すると弁士の必要はなくなり、漫談や演劇に転じた。
宮本武蔵は江戸時代初期の兵法者であり、その名を知らない人はいないだろうが、巌流島の戦いなど、武蔵に関わる物語は江戸時代から脚色されて歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材にされたが、吉川英治が1933(昭和 8)年8月23日から朝日新聞に『宮本武蔵』の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939(昭和14)年7月21日まで続いた。当初200回ぐらいの予定で始めたという連載は、いつしか日本中の反響を呼び、ついには1000回を越える長編時代小説として完成した。
この吉川英治の「宮本武蔵」は当初朝日新聞社内では歓迎されなかったらしい。それは、それ以前の講談本や、大衆向け時代小説では、主人公は単純な英雄豪傑の超人的武蔵か、そうでなければ艱難辛苦して親の仇を討つ義人だったそうだ。これに対して、吉川版「武蔵」は、佐々木小次郎との巌流島の決闘までを描く長編であり、それまで講談の主人公であった宮本武蔵に書生的な求道者との解釈を加え、登場人物は幼馴染の又八や武蔵を慕うお通、沢庵、お甲・朱実母子など。宝蔵院や柳生石舟斎、本阿弥光悦などとの出会いを通しての武蔵の人間的成長を主軸に、吉岡一門や佐々木小次郎、対決に介入する柳生一門などとの対決を描くものとなっており、人生に苦悩し剣の道を探究する「求道的人物」として描くことで、先行する講談本風武蔵像をまったく塗り変えた斬新なものだったからだそうである。しかし、実際には、連載は好評を博し、本として刊行されるやたちまちベストセラーとなり、吉川英治は「国民的作家」となった。さらにこの小説は、戦前の新しいメディアとなっていたNHKラジオで、徳川夢声による吉川英治『宮本武蔵』の朗読がはじまり、夢声の話芸とともに、「武蔵」は国民的ヒーローとなった。
吉川英治『宮本武蔵』は先にも書いたものすごい長編であるため、この時の徳川夢声よる『宮本武蔵』の朗読の内容がどの程度の内容のものであったのか、どのくらいの期間なされたものなのかは、残念ながら良くわからなかったが、この時に、武蔵のイメージが定着したのは間違いないだろう。
その後、吉川英治の「宮本武蔵」を徳川夢声が一人で朗読したものが、1961(昭和36)年から1年10ヵ月間、ラジオ関東(RFラジオ日本の旧社名)で放送された。さらに1971(昭和46)年にはラジオ関東開局15周年を記念し、この朗読が100枚組のレコードとして発売されたことがある。そのCDが新潮社から発売されているようだ。興味のある人は、以下を覗いてみるとよい。懐かしい徳川夢声の朗読を視聴できるよ。
宮本武蔵 試聴できます→https://ssweb.ne.jp/musashi/musashi.html
(画像は、1961年映画ポスター「宮本武蔵」。主演:萬屋錦之介)
通信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E4%BF%A1
第13回全国中等学校優勝野球大会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC13%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E4%B8%AD%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%84%AA%E5%8B%9D%E9%87%8E%E7%90%83%E5%A4%A7%E4%BC%9A
ベルリンオリンピック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF
新潮CD「宮本武蔵」全20巻
http://www.nichigai.co.jp/yomikata/musashi.html
宮本武蔵(1961) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20299/index.html
ラジオ放送の歴史を見ると、1925(大正14)年に東京・大阪・名古屋の三社団法人が開局する前後数年間、数多くの実験が試みられていたが、日本初のラジオ放送は関東大震災(1923年=大正12年)から2年たった1925年(大正14)3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(JOAK:現在のNHK東京放送局:略称AK)が東京・芝浦の東京高等工芸学校(千葉大学工学部の前身)内に設けた仮送信所から発した京田武男アナウンサーによる第一声「アーアーアー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します」・・であった。NHKはこの日を記念して「放送記念日」としている。この日のことは、前に、書いたのでそこで見てください。→今日(3月22日)は、「放送記念日」
この仮放送(仮施設からの正式な放送という意味)を開始し後、愛宕山からの本放送が開始されたのは7月12日のことである。この日を記念したものが「ラジオ本放送の日」である。このことも前に書いたので、そこで見てください。→今日(7月12日)は、「ラジオ本放送の日」
社団法人東京・大阪・名古屋放送局の三局は翌・1926(大正15)年8月6日に「社団法人日本放送協会((NHK))」(実質的には政府機関的な性格をもっていた)として統合された。
翌1927(昭和 2)年8月13日、甲子園から第13回全国中等野球大会を放送(初のスポーツ実況)、翌・1928(昭和3)1月12日、大相撲中継開始、同年11月1日から 「ラジオ体操」放送開始。1932(昭和7)年には、ラジオ聴取契約者が、100万を超え、1937(昭和12)年には、が300万を突破するなど、ラジオ受信機の普及が進み、ラジオが娯楽の主役となったが、戦局の進行とともにプロパガンダ的な番組が多くなったといわれる。1936(昭和11)年8月ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎのラジオ放送での河西三省アナウンサーの「「前畑頑張れ」という実況は今も語り草となっている。
この』2年後の1939(昭和14)年の今日(9月5日) NHKラジオで徳川夢声(とくがわ むせい)による『宮本武蔵』の朗読が始まり、一世を風靡したという。
徳川夢声は、大正から昭和中期にかけて、ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。一高(現在の東京大学教養学部)の入学に失敗後、憧れの落語家になるため三遊亭圓子の元に入門を決意するが、親に反対され、1913(大正2)年に活動写真(無声映画)の弁士となる。芸名は無声映画の「無声」から「夢声」と付けたといわれている。昭和の時代になって、音声の出るトーキーが登場すると弁士の必要はなくなり、漫談や演劇に転じた。
宮本武蔵は江戸時代初期の兵法者であり、その名を知らない人はいないだろうが、巌流島の戦いなど、武蔵に関わる物語は江戸時代から脚色されて歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材にされたが、吉川英治が1933(昭和 8)年8月23日から朝日新聞に『宮本武蔵』の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939(昭和14)年7月21日まで続いた。当初200回ぐらいの予定で始めたという連載は、いつしか日本中の反響を呼び、ついには1000回を越える長編時代小説として完成した。
この吉川英治の「宮本武蔵」は当初朝日新聞社内では歓迎されなかったらしい。それは、それ以前の講談本や、大衆向け時代小説では、主人公は単純な英雄豪傑の超人的武蔵か、そうでなければ艱難辛苦して親の仇を討つ義人だったそうだ。これに対して、吉川版「武蔵」は、佐々木小次郎との巌流島の決闘までを描く長編であり、それまで講談の主人公であった宮本武蔵に書生的な求道者との解釈を加え、登場人物は幼馴染の又八や武蔵を慕うお通、沢庵、お甲・朱実母子など。宝蔵院や柳生石舟斎、本阿弥光悦などとの出会いを通しての武蔵の人間的成長を主軸に、吉岡一門や佐々木小次郎、対決に介入する柳生一門などとの対決を描くものとなっており、人生に苦悩し剣の道を探究する「求道的人物」として描くことで、先行する講談本風武蔵像をまったく塗り変えた斬新なものだったからだそうである。しかし、実際には、連載は好評を博し、本として刊行されるやたちまちベストセラーとなり、吉川英治は「国民的作家」となった。さらにこの小説は、戦前の新しいメディアとなっていたNHKラジオで、徳川夢声による吉川英治『宮本武蔵』の朗読がはじまり、夢声の話芸とともに、「武蔵」は国民的ヒーローとなった。
吉川英治『宮本武蔵』は先にも書いたものすごい長編であるため、この時の徳川夢声よる『宮本武蔵』の朗読の内容がどの程度の内容のものであったのか、どのくらいの期間なされたものなのかは、残念ながら良くわからなかったが、この時に、武蔵のイメージが定着したのは間違いないだろう。
その後、吉川英治の「宮本武蔵」を徳川夢声が一人で朗読したものが、1961(昭和36)年から1年10ヵ月間、ラジオ関東(RFラジオ日本の旧社名)で放送された。さらに1971(昭和46)年にはラジオ関東開局15周年を記念し、この朗読が100枚組のレコードとして発売されたことがある。そのCDが新潮社から発売されているようだ。興味のある人は、以下を覗いてみるとよい。懐かしい徳川夢声の朗読を視聴できるよ。
宮本武蔵 試聴できます→https://ssweb.ne.jp/musashi/musashi.html
(画像は、1961年映画ポスター「宮本武蔵」。主演:萬屋錦之介)
通信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E4%BF%A1
第13回全国中等学校優勝野球大会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC13%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E4%B8%AD%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%84%AA%E5%8B%9D%E9%87%8E%E7%90%83%E5%A4%A7%E4%BC%9A
ベルリンオリンピック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF
新潮CD「宮本武蔵」全20巻
http://www.nichigai.co.jp/yomikata/musashi.html
宮本武蔵(1961) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20299/index.html