今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

林家三平 (落語家) 忌日

2007-09-20 | 人物
今日(9月20日)は、 3代目林家三平 (落語家)の1980(昭和55)年の忌日<54歳>
林家三平は、本名、海老名泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎〔えいざぶろう〕)。1925(大正14)年11月30日、東京都台東区根岸出身。7代目林家正蔵の実子で、長女海老名美どり(俳優峰竜太の妻)は、女優、美容研究家として、次女泰葉春風亭小朝の妻)は元シンガーソングライターそして、今はタレントとして、長男は2005(平成17)年3月9代目林家正蔵(前名・林家こぶ平)を襲名、次男林家いっ平も落語家として落語協会に、タレントとしてホリプロに所属し、活躍している。 妻は海老名香葉子で、今もエッセイスト、絵本作家として作家活動をしている。
1947(昭和22)年、林家甘蔵として入門。後に父の前座名柳家三平から三平を貰い林家三平となる。春風亭枝女好も三平(2代目柳家三平)を名乗っていたそうで、3代目と間違えられる事が多いようだが、正しくは三平の名を前座から大看板にのし上げ、「初代林家三平」とするのが正しいようだ。
1949(昭和24)年に父死去後は、かつて父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。
父の死の11ヶ月後の1950(昭和25)年、一門の人間ですらない5代目蝶花楼馬楽に「一代限り」という約束で名跡(林家正蔵〔8代目〕)を貸与しなければならない事件が起こったが、話が長くなるので、このことは、またの機会にでも書くことにしよう。
結果的に、三平は、正蔵を名乗る事は遂に叶わず、馬楽よりも先に死去してしまう事になるが、三平死去後、馬楽は正蔵の名跡を海老名家に返上し、林家彦六に改名した。そして、9代目正蔵は、三平の実子こぶ平が、2005(平成17)年3月21日襲名した。これで、目出度し、目出度しと言ったところか。
林家三平は、テレビ時代の申し子と言われ、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役であり、また昭和の爆笑王と呼ばれた。
しかし、その芸風は?・・・ナンセンスそのもの。「よし子さん」「どうもすいません」「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」などの数々のギャグと仕種で人気を博したが、十年一日のマンネリズムを絵に描いたような、明るいだけが取り柄のただ即物的ななだけの笑いをふりまいて高度経済成長真っ盛りの時代を駆け抜けていった感じである。
一部識者などからは「あんものは落語ではない」と顰蹙を買いながらも多くの寄席のファンを喜ばせたには、やはり、7代目林家正蔵の子という芸人の血がもたらした私を捨てた旺盛なサービス精神にあったのだろう。
売れる前は父である7代正蔵と同じく古典落語を演じていたらしいが、私は、そんな真面目な落語を語っているのは聞いたことが無い。何でも、絶句するわ、人物の名を忘れるわで、仲間内からも大変な下手な奴だと馬鹿にされていたそうだが、3代目三遊亭金馬だけは「あいつはいつか大化けする」とその素質を感じ、予言していたそうだ。小話を繋ぐ落語が多かった為、本格的な古典は苦手と受け取られがちだが、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っていた噺家(はなしか)であり、弟子入りした長男の泰孝(こぶ平=後の9代目林家正蔵)は、古典の稽古をつけてもらった際、出来ない度にゲンコツを喰らっていたという。
三平の芸風はナンセンスそのものであるが、下ネタを「外道の芸」「芸を腐らせる」として徹底的に嫌い、ネタには一切使わなかったといわれているが、そういえば、私も、聞いた覚えはない。
昭和の落語が著しく文学性に傾いていったとき、見事なくらい「物語」に背を向けつづけ、寄席という空間が、名人上手だけで支えられていたのではない事実を身をもって証して見せたというべきだろうか。いま、その寄席が、崩壊の道をたどっているのではないか。本来、落語はパーソナルな芸であり、落語家のキャラクターが何より重視されるといった今日の情況を暗示していたのかも知れない。関西でも、人気の高かった3代目桂米朝門下の2代目桂枝雀が 1999(平成11)年3月に自殺を図り、意識が回復する事なく(59歳で死去した。何か、私には、現実の世界では独特のキャラクターで人を笑わせることで人気を得ているが、古典的な落語、芸術としての落語の間で悩んでのものと思われたがそうではないのだろうか?。古典落語を踏襲しながらも人一倍の努力と類稀な天才的センスにより、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓し、関西の噺家で独演会を行いいつでも客を大入りにできるのは桂米朝と桂枝雀だけといわれていたが、その枝雀は亡くなり、米朝は年齢的にもう講座に上ることも無くなり、人を呼べる噺家がいなくなってしまったように思う。関西には、戦後寄席の常設小屋も亡くなってしまい落語家を育てる場もなかったが、昨・2006(平成18)年9月に「天満天神繁盛亭」が開館した。林家三平 や桂枝雀のような噺家が育ってくれるとよいのだが・・・。
5代目柳家小さんの率いる落語協会から、同協会顧問で落語会の大看板である6代目三遊亭圓生が、一門の弟子たちを引き連れて脱退、新しい会派「落語三友協会」を発足させたのが、1978(昭和53)年5月のことであった。
その理由は、「芸の至らないものを、年数が経ったからと言って誰でも真打昇進させていたのでは、落語の将来が危うい」と、「真打乱造反対」のためであった。このような落語会の分裂騒ぎは、春風亭柳橋(6代目)や故柳家金語楼 らとともに落語協会を抜けて日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を結成して以来のこと。圓生らの新しい会派「落語三友協会」は、既存の落語協会、落語芸術協会と並ぶ第三勢力の誕生を予期させたが、いろいろな思惑も絡み合い、圓生一門、志ん朝一門、圓蔵一門のみとなり行動を共にすると見られていた志ん朝の実兄馬生一門(小さんに慰留された事と年齢の為)、小さん一門の談志一門(狙っていた落語三遊協会次期会長の座を志ん朝に奪われた為)、圓蔵一門の林家三平一門(師匠圓蔵に誘われたが圓生とは仲が悪い)は落語協会側に留まってしまった。東京上野の本牧亭での開演と同時に満員札止めとなる賑わいであったようだが、その後、都内の寄席から締め出され、落語協会に復帰するものが相次ぎ、翌年9月圓生死後は、三遊亭圓楽だけが、第三の道を行くこととなった。三遊協会が当初の予定通りいっていればどうなっていたかは知らないが、今とは、少し違った情況になっていたのだろうか???。
(画像は、林家三平。鈴木演芸場で。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
林家三平 (3代目)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AE%B6%E4%B8%89%E5%B9%B3_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
Category:落語の名跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E8%90%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%B7%A1
東西落語家系図(キャッシュ)
http://72.14.235.104/search?q=cache:HvyMuEyfimUJ:www.cyborg.ne.jp/~akio01/rakugo/keizu/karaku.html+%E6%98%A5%E9%A2%A8%E4%BA%AD%E3%80%80%E6%9E%9D%E5%A5%B3%E5%A5%BD&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp
日本お笑い史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8A%E7%AC%91%E3%81%84%E5%8F%B2
桂枝雀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%9E%9D%E9%9B%80
寄席の人たち(SOBISHA.Inc)
http://sobisha.shueisha.co.jp/yomimono/yose/01_sekitei/
御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B9%B1%E5%BF%83_%E8%90%BD%E8%AA%9E%E5%8D%94%E4%BC%9A%E5%88%86%E8%A3%82%E3%81%A8%E3%80%81%E5%86%86%E7%94%9F%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%E3%81%9F%E3%81%A1