今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

芹澤鴨 (水戸藩浪士,新選組局長)の忌日

2007-09-18 | 人物
今日(9月18日)は、芹澤鴨 (水戸藩浪士,新選組局長) の1863年 の忌日。近藤方により粛清される。 <数え37歳>
新選組(新撰組と表記される)は、江戸時代後期の幕末期に、主に京都の治安維持を目的に活動したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った組織である。当時の京都守護職であった会津藩主の松平容保の配下に置かれ、池田屋事件などで、京都に潜伏する過激派尊皇攘夷論者の取り締まりにあたった。
新選組をテーマにした数々の映画やドラマなどが製作されいるが、近藤勇土方歳三を中心に描かれていることが多く、芹沢鴨(せりざわ かも)については、それと対比させるかのように多くは粗暴な悪役で、大柄な人相の悪い俳優が演じており、暗殺事件で殺されるシーンが序盤でごく短く扱われる程度であることが多い。確かに新選組を最終的に束ねるのは近藤であるが、新選組結成当初において芹沢鴨はなくてはならない重要な人物であり、2004(平成16)年に放送されたNHKの43作目の大河ドラマ新選組!」では、芹沢鴨は佐藤浩市が演じ、悪人というよりは・・・ピカレスク(picaresque)的な悪人(ピカレスク小説参照)といった性格付けであり、剣の腕前に加えて人望と学問も備えた一廉の人物として描かれている。主人公の近藤勇(香取慎吾)が越えなければならない壁とされ、ドラマの前半を支える重要な役柄となっている。「大河ドラマ史上最高の悪役」を狙ったという作・脚本を担当した三谷幸喜は、佐藤の好演を評価して芹沢の出番を数話伸ばしているそうだ。暗殺場面ではすべてを察して土方、沖田、山南、原田を待ち構え、4人を相手に大立ち回りを演じる。その他の水戸派の面々も、ただの悪人ではない個性的な人物像で丁寧に描かれた珍しいドラマであった。
芹沢家は、常陸国芹沢村(現茨城県にあった玉造町)の芹沢城主の流れを汲む名門で、幕臣を経て、のちに水戸藩郷士となった芹沢家の当主、芹沢外記貞幹の三男・玄太として生まれたそうだ。以下参考に記載の「新選組を創った男(玉造町観光協会HP)」によると、父外記貞幹は、勤皇の志が厚く、当時の水戸藩主、徳川斉昭公に忠誠を誓い、天保15年(1844年)、水戸藩の洋式調練に、彼が豪族時代に従えた家臣団とともに参加し、その功を労われ、斉昭公は自らの烏帽子を渡され、酒を酌まれたと伝わているそうだ。そのエリートの血筋として生まれた玄太も、自然と斉昭公の尊王攘夷思想に触発され、幼少の項、すでに剣術や学問の基本を修めていたという。玄太はその後、元服すると、今の北茨城市の神官、下村祐斉義次の娘と結婚し、名を「下村継次」と改めた。継次は神官時代に尊皇攘夷の精神を学び、剣も当時、水戸の剣術師範であった神道無念流剣術戸ケ崎熊太郎から学び、免許皆伝を受け師範代を務めていたそうだ。
その継次の交友と知識を深めた影には、近在に住む親友、野口哲太郎正安がいただろうという。この野口は、水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者藤田東湖や、長州藩士の吉田松陰などとも交流があったそうだ。
尊王攘夷の運動は水戸藩から始まった。その具体的な行動が桜田門外の変であり、水戸藩を一躍天下に轟かせた。水戸藩の尊皇攘夷運動の指導者は、徳川斉昭。具体的な推進者は、藤田東湖や戸田銀次郎らを中心とする斉昭の軽輩出身の側近たちであった。藤田一派は反対派から天狗派とよばれていた。彼等は斉昭に学識と実力を買われて下級武士から抜擢された者が殆どであり、中には農民出身も含まれていた。成り上がり者が権力を握り鼻を高くしているので天狗になったというのである。
安政5年(1858年)、幕府では井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約の締結、紀伊藩の徳川慶福(徳川家茂)を将軍後継に決定して将軍継嗣問題の解決を図るなど朝廷の意向を無視した強硬政治を行い、公武合体を求める孝明天皇は水戸藩はじめ御三家などに対して、戊午の密勅を下す。(幕府への勅書は水戸藩の2日後)。これに対して井伊は密勅が倒幕を画策するものであると捉え、水戸藩に対して勅書の幕府への引渡しを命じる。
先の「新選組を創った男(玉造町観光協会HP)によると、それを承伏できぬと、水戸藩の下級武士、郷士、神官等、約300名が長岡に屯集し、返還阻止行動を起こす。その際、継次の直接参加の記録はないが、近在の野口正安がその事件に関与しており、継次も家族に何も言わずに突然出て行ってしまった時期がこの頃とされており参加していたのだろうという。また、この参加した同志の中には、のちの壬生浪士組の初期メンバーである粕谷新五郎や、のちに近藤勇を千葉県流山で捕らえた香川敬三(旧名、鯉沼 伊織)がいた。
安政の大獄」を行い一橋(一橋慶喜)派や尊皇攘夷派の弾圧を行っていた井伊が、翌・安政7年(1860年)3月、水戸藩の浪士により、江戸城桜田門で暗殺された(桜田門外の変)ことにより、本懐を遂げたとして、彼らは水戸領内各所に散らばっていたが、その年の夏、盟主・斉昭公の急死を契機に、攘夷実行の方法論で彼らは二派に別れたそうだ。その結果、粕谷新五郎等、37名は攘夷の実行を促すため、薩摩藩邸に駆け込み、野口正安らの派閥「玉造勢」は横浜で攘夷を実行するため、玉造郷校(現玉造町)に集まり、挙兵の資金を集めることとなり、仲間とともに潮来、佐原辺の豪商を巡り、金策を行なう。その中に下村継次もメンバーとして入っていたそうで、香取神宮の太鼓を破ったと伝えられ、また、佐原の豪商の態度に立腹して鉄扇で暴れたとする記録が残されているという。このメンバーが玉造組結党へと発展し、継次は幹部になっていたそうだが、そのころになると素行の悪い者も増え、偽者も横行し、勝手に金策する者も出、その暴虐行為が幕府の耳にも逐一入るようになり、継次もそのため、部下を三人を斬ったと伝えられているという。この間、水戸藩の政権は天狗派から諸生派に変り、一連の騒動を収拾すべく、玉造党の弾圧を開始。継次も、芹沢家に隠れているところを捕縛され細谷獄に送られた。しかし、その後、幕府も弱体化し、代わりに長州、薩摩、土佐の勤皇党の勢力が朝廷内に強まると、水戸藩内でも再度、人事異動が行われ、武田耕雲斉(のちの天狗党幹部)等の謹慎が解かれ、藩家老に復職し、諸生派を一掃。武田らの奔走により、細谷獄に囚われていた政治犯はすべて釈放され、継次も引廻しの上、斬罪の所、大赦によって釈放されたのだそうだ。
その後、下村継次は、何も告げずに去った養家下村家には帰らず、芹沢家に戻ると、名を「芹沢鴨光幹」と改め、その際妻を貰ったようだ。身を落ち着けさせようとする芹沢家の考えであったようだが、彼の気持ちは尊皇攘夷に燃えており、獄中で聞いた、幕府が有為な浪士を集め、「浪士組」(、清河八郎が発案)を結成し、将軍徳川家茂の供として警護をさせるという話に心動かされていた。
そして、結局、年明けの文久3年(1863年)、芹沢家に鴨と一緒に行動するよう命令された 平間重助 とともに江戸に向かったという。そして、浪士組に平間重助を伴い参加六番組小頭に任命された。のちに江戸の剣術道場試衛館の近藤勇、土方歳三らも加わって、将軍上洛に先がけ、京都まで行動をともにする。(浪士取締役には鵜殿鳩翁清河八郎山岡鉄太郎など)
京に到着後、芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士八木源之丞の屋敷に分宿した。
そのころ将軍の警固のため上洛した幕府の浪士組を、我が物とした清河はこれを尊王攘夷の先鋒とするため、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることを画策。新徳寺に同志を集め攘夷決行のため江戸帰還を宣言するが、これに、最初に異議を唱えたのは芹沢であったという。そして、浪士取締役協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。しかし、芹沢・新見錦ら水戸派と、近藤、土方を中心とする試衛館派は、あくまでも将軍警護の為の京都残留を主張し浪士組を脱退。この時に京への残留を決めたのは芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だけだった。これに殿内義雄根岸友山らも合流する。そして、同年3月10日、芹沢、近藤ら17人(24人とも)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは八木家を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)、このとき、後の新選組の前身ともなる「壬生浪士組」を結成した。その際、内部抗争が起き、殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士組は芹沢派と近藤派が牛耳ることになる。のちに芹沢、近藤、新見が局長となり、その内で芹沢が筆頭となった。ただ、会津藩御預かりとはなっていたが、給金の提供がなかったため、芹沢、近藤らが大坂に下って商家から資金の提供を受けたことから、会津藩の体面上、のちに藩より手当が支給されるようになったという。この「壬生浪士組」の誕生は、単なる田舎剣客にすぎない近藤勇たちだけが京都守護職会津藩主松平容保に嘆願しても出来るものではなく、芹沢の尊王攘夷浪士としての実績と顔、そして、教養があったからこそできたものだろう。
当ブログの字数制限上この続きは別のページに書きました。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。
クリック→続・芹澤鴨 の忌日

続・芹澤鴨 の忌日

2007-09-18 | 人物
同・文久3年(1863年)年8月18日、「八月十八日の政変」に際して御所の警備のために芹沢は、近藤、新見とともに隊士を率いて出動するが、この時の芹沢の剛胆さに人々は驚いたという。この出動を機に会津藩は壬生浪士組に「新選組」の隊名を与えた。
この後、9月13日、近藤らは芹沢派の新見錦に乱暴狼藉の罪を問い詰めて切腹させた。また、9月16日夜、水戸藩川瀬家文書によると(『新選組遺聞』によると18日)、新選組は島原角屋で芸妓総揚の宴会を開いた。芹沢は平山五郎平間重助、土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと同衾(どうきん)して寝た。大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に切りつけた。驚いた芹沢が飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに切りつけ、芹沢を殺すと刺客たちは立ち去ったという。平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。
『新選組遺聞』では、八木為三郎の母おまさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを目撃しており、刺客には沖田総司原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記しているという。他にもこの芹沢を襲った事件については諸説あるが、この事件に近藤や土方が関係していたかいなかったかの確たることはよく判らないものの、その後の「新撰組」の転回などを見ていると、彼等が関わっていたものと考えるのが自然だろう。近藤たちも思想的には芹沢たちと同じ尊王攘夷であったはずであるが、芹沢らが粛正された理由として、通説では商家を相手に強請りまがいの強引な金策や島原での乱行(角屋での暴挙参照)が理由であったといわれており、たまりかねた会津藩が近藤一派に芹沢を取り除くように指令したといわれている。
確かに、芹沢は酒癖が悪く粗暴なところもあったようだが、実際のところは、乱暴狼藉は表向きの理由で、水戸学、天狗党(天狗党の乱参照)の強烈な尊王攘夷思想の流れをくむ芹沢を危険視したという説もあり、私などは、こちらの方が真実に近いのではないかと思われる。
芹沢は上洛後、北野天満宮に参拝し、以下の句を記した額を献じている。
「雪霜に 色よく花の魁(さきが)て 散りても後に 匂う 梅が香」
尊皇攘夷の念の強くかった当時の芹沢の気持ちを伝えている句である。
しかし、上京後、朝廷や幕府の政情は次第に佐幕化していった。特に「新撰組」の土方らが、そうであり、次第に近藤一派の勢力が強まっていく。隊内でも尊王攘夷思想が強く、過激派とも親交のあった芹沢の心は、きっと、佐幕と開国の間で揺れ動いていたのではないだろうか。それを察し、大河ドラマ「新選組!」の中で、三谷は芹沢暗殺の晩、それを知らせようとする近藤に、芹沢には.「近藤さんよ、鬼になれよ。鬼になって俺を食っちまえ。」・・と言わしめている。この台詞1つで、いつも悪役扱いされている芹澤鴨 の顔は十分に立ったのではないだろうか・・・。
芹沢の墓所は京都市中京区の壬生寺にある。
(画像は、「新撰組局長首座 芹沢鴨」 〔集英社文庫)〕 峰 隆一郎著)
参考:
Wikipedia - 芹沢鴨
http://ja.wikipedia.org/wiki/芹沢鴨
新選組を創った男(玉造町観光協会HP)
http://www.tamatsukuri.or.jp/shinsen-hp/index.htm
新撰組(都っくす)
http://www.kyotox.com/sinsengumi/sinsengumi.htm
新選組!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84!
なるほど!幕末
http://bakumatu.727.net/top.htm
新選組 水戸志士
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/4774/index.html
壬生寺
http://www.kyotox.com/sinsengumi/mibu/mibudera.htm
北野天満宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
壬生界隈
http://www.bbweb-arena.com/users/mnaokun/%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E9%81%93_002.htm