今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

柄井川柳 (川柳の祖)の 忌日

2007-09-23 | 人物
今日(9月23日) は川柳の祖・柄井川柳 (からい せんりゅう)の寛政2年(1790年) の 忌日<数え73歳>
川柳は、俳句と違って、難しい制約がないので、誰にでも作れることから、今でも、よくつくられているよね。中でも、第一生命主催で行われている「サラリーマン川柳コンクール」が有名になっている。日常に起きる何気ない出来事をユーモアと風刺のセンスで表現した作品を、毎年全国で大募集しているが、この「サラリーマン川柳コンクール」は1987(昭和62)年に始まり、昨・2006(平成18)年で第20回を迎えている。応募作品総数は第1回から第20回までで、実に774683句にもなるという。「以下参考に記載の 第20回「私が選ぶサラ川ベスト10」
には100句が選ばれているが、その1位が「脳年齢 年金すでに もらえます」(満33歳)となっているが、これは面白いね~。でも、社会保険庁へ行ってよく調べておかないと、年齢的にもらえる時期になってももらえないかも知れないよ。そんなときになって「年とって もらえるはずが もらえない」じゃ~、笑い話にもならないよ。(^0^)
第20回第一生命「私が選ぶサラ川ベスト10」
http://event.dai-ichi-life.co.jp/senryu/2007_best100.html#TOP
親しんでいる『川柳』が、人の名前が元になっていたというのは知らない人も多いだろうね~。川柳の祖とされているのが柄井川柳(からい・せんりゅう)で、享保3年(1718年)10月、東京・浅草に生まれる。名は正道。幼名勇之助。通称は八右衛門。その俳名が『川柳』の由来 となった。柄井家は代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で、宝暦5年(1755年)家を継ぎ名主となったという。
家康が江戸に入府したのは天正18年(1590年)である。江戸は、それまで、関東の一小城下町であった。家康が入府以来、人工的に作られた一種の政治センター江戸は、それまでに見られなかったさまざまな文化現象が現れた。その第一は、武士の上層が半ば貴族化したことであった。もはや、戦を生業としなくなった武士たちの嗜みとして、武術が盛んに行われるようになり、また、古田織部小堀遠州らによる茶道や四座一流による能楽も教養の1つとして武士文化を形作った。第二は、その上流階級を中心に、全国から集まってきた人たちの一種の共通語としての江戸言葉が形成されてゆく。第三は、江戸には幕末に至るまで”地方”があった。つまり、江戸に常駐した家臣団とその家族は次第に都会化していったが、参勤交代などで、国許から藩主に従って江戸藩に詰める者、また、商家でも江戸店(えどだな)に勤める者は、主家のある地方からの出身者が多かったため、地方と都会の共存した江戸ではさまざまな生活や文化が混沌とし独特の生活文化が現れるが、18世紀の後半になると、このことから、昔から江戸に住んでいた町人の間に江戸根生い(ねおい)の江戸町人を顕在化させ、鮮明化させることになる。つまり、江戸っ子の誕生である。彼等は、蔵前の札差であり、魚河岸の旦那であり、木場の霊岸島(れいがんじま)の商人であり、日本橋、神田界隈の職人であり歌舞伎役者や町火消し仲間だった。彼等は大金を投じて初鰹を買い求めるなど宵越しの金を持たぬ気風を誇った。
一方で江戸の地方も主張をしていた。今と違って、江戸時代は小藩といえども独立国に近い主体性を持っており、それぞれの藩に、歌や踊りや楽器や音楽など地方色豊かな高度な文化があった。江戸は、各藩が寄り集まったインターナショナルな世界であり、地方色豊かなものこそが評価に耐え、万人に愛されたといえる。このように地方と都会が相互に補完し、共同で作り上げたのが元禄以降の浮世絵や俳諧、教本、洒落本などの江戸文化である。(週刊朝日百貨「日本の歴史)。
川柳は、同じ音数律を持つ俳句とともに俳諧すなわち俳諧連歌を源とする。「俳諧」の元の意味は「滑稽」「戯れ」といった意味がある。室町時代に、和歌連歌の表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が、「俳諧連歌」、もしくは「俳諧の連歌」と呼ばれ、俳諧連歌は江戸時代に入ると松永貞徳によって大成された。貞徳の一門による俳諧連歌は「貞門派」と呼ばれ一時代を築き、堅苦しい正統の連歌をしのぐ程の人気を誇っていたそうだ、やがて貞徳らによるそれまでの「古風」に対して新しい表現「新風」が現れそのの地位を奪った。新風は「談林派」と呼ばれ、連歌師でもあった西山宗因を筆頭に、浮世草子を成立させた井原西鶴らが参画していた。
「川柳」は付け句からあらかじめ用意された七七を省略し、五・七・五、十七文字として独立したもので、さまざまな人間模様を理知で鋭く突いた極度に洗練された都市文化である、はじめ柄井は、先に述べた談林派俳諧の点者であったといわれるが、宝暦7年8月25日(1757年10月7日)、前句付(まえくづけ)の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合(まんくあわせ)を興行している。選者が『前句』つまり同じ言葉を2回繰り返した題を出す。その『前句』に対して、この題に合う『付句(つけく)』の五・七・五の言葉を考えて句料(入花料)を添えて応募する。入選者には句料の何十倍という賞金が出たそうだ。
宗匠(和歌・連歌・俳諧など文芸・技芸の道の師匠)達が1年のうち夏から秋にかけて半年の間、十日ごとに投句を集めた万句合興業には、毎回1万から2万句が集まったというから膨大な愛好者いたことになる。
投句の大部分は町人であったが山の手では武士たちもかなり投句していたという。この川柳の名を高めたのは、句集『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる)で、世の中の様子から人情まで軽妙に諷する川柳風狂句を生み出した。「役人の子はにぎにぎを能(よく)覚え」などのように、自由で批判精神に満ちた発想から生まれた川柳、やがて、政治的圧力に封じられていく。しかし、昔も今もお役人のすることは変わらないんだね~・・・と、言うよりも、そんなことに生きがいを感じてる人がお役人になるということなのだろうか???
「川柳」も長い年月のうちに次第に下ネタ・言葉遊びと下品になり、「狂句」と呼ばれるようになっていった。今では、江戸時代の川柳は『古川柳』と呼び明治以降、現代の川柳とは区別している。「親孝行したい時分に親はなし」など、現代では諺のように扱われているが、これは江戸時代の川柳だったのだよね。
川柳と俳句との大きな違いは、季語(季節を表す語句)や切れ字(や、かな、けり)などの制約がまったくないことで、、誰でもが、何でも自由に詠む事ができること。今の政治家やお役人を見ていれば、いくらでも句ができそうだね~。
川柳の菩提寺(ぼだいじ)である台東区の天台宗龍宝寺にある句碑の辞世の句は、「木枯や跡で芽を吹け川柳(かわやなぎ)」だそうだが、本人の作ったものかどうかは定かではないという。
川柳のことについては以下参考に記載の「川柳博物館」が詳しい。
(画像は、柄井川柳 『柳多留』国立国会図書館蔵)
柄井川柳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%84%E4%BA%95%E5%B7%9D%E6%9F%B3
柄井川柳 からいせんりゅう
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/107720.htm
川柳博物館
http://www.doctor-senryu.com/01_museum/
PDF] 浅 草 橋
http://www.taitocity.com/kanko/asakusa_ueno/pdf/asakusabashi_j_f.pdf
第一生命保険HP、サラリーマン川柳
http://event.dai-ichi-life.co.jp/senryu/
Category:江戸時代の文化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96