今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

富士山の日

2005-02-23 | 記念日
今日(2月23日)は「富士山の日」
パソコン通信「NiftyServe」内のフォーラム「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」が制定。これとは別に、山梨県河口湖町が2001(平成13)年12月に制定。「ふ(2)じ(2)さん(3)」(富士山)の語呂合せと、この時期、富士山がよく望めることからとか。
「山の展望と地図のフォーラム」は地図好きな人達によって出来たもの。
会員が、ネット上に「富士山の広場」「展望の広場」自然の広場」地図の広場」「メディアの広場」「ソフトの広場」「地理の広場」などの「電子広場」を設け、山頂や町からの展望、登山、地図などについてパソコン通信上で議論したり、交流会を開いてる。
「富士山」は日本を象徴する山で、世界でもこれだけ美しい姿の山は少ないだろう。私も一度は、登ってみたいとは思うが、登る自信がない。しかし、天気の良い日など時々、ここにもリストアップされているライブカメラなどを通じて観察したり、ライブカメラの写真を利用させてもらったりしている。早く、この富士山が、世界遺産に登録されるようになると良いですね~。
今日は、これ以上何も書くまい。皆さんにこんなフォーラムがあることだけ案内しておこう。
富士山の好きな人は、今日の富士山をいろいろな場所に設置されているライブカメラから覗いてみては・・・・。以下は、その中の一つ富士吉田からのもの。他の色々な角度からの富士山も楽しんでください。
(画像は富士市ライブかめらより見たある日の富士山)
富士山ライブカメラ(富士吉田)
山の展望と地図のフォーラム
http://forum.nifty.com/fyamap/
この中の富士山ライブカメラ一覧です。
富士河口湖町公式ホームページ
http://www.town.fujikawaguchiko.yamanashi.jp/fk/town/category_data_list.asp?ca_id=14&emp_id=1

食器洗い乾燥機の日・・だんらん?

2005-02-22 | 記念日
今日(2月22日)は「食器洗い乾燥機の日」日本電機工業会が制定。
食器洗い乾燥機によって食後のゆとりができ、夫婦だんらんの時間ができるということから、「ふう(2)ふ(2)にっ(2)こり」の語呂合せとか。平成10年2月22日よりこの日を記念日に制定したそうだ。近年、生活家電製品が随分充実してきているが、その中で、食器洗い乾燥機は、今、最も主婦が欲しい家電商品として話題を呼び、ここ数年需要が急激に拡大しているらしい。夫婦共働きの家庭などは、夕食後の家事労働を少しでも軽減したいだろうし、この1台で少しでも時間と心のゆとりを得られるののであればそれは、いいことですね。ただ、今日は、食器荒い乾燥機の話をするつもりはなく、「だんらん=団欒」について考えてみたい。
皆さんは、夫婦の団欒や家族の団欒、といった言葉から、どのようなことを、イメージされますか。
私は、最近夫婦や家族の「団欒」といった言葉を余り耳にしなくなったような気がする。何故かを思い起こしていると、テレビ番組を思い出しました。私が、結婚した当時は、仕事から家に帰り、家族と一緒に食事をしながら見ていたTV番組には、ホームドラマが多く、そこには、自分達と、同じような家族が、自分たちと同じように、家族揃って楽しそうに食事をしている一家団欒の場面が映し出されていた。
家族の関係を見ると、概ね、外に出て働く仕事熱心な夫と、家庭で家事と育児に勤しんでいる妻、それに纏わる子供たちやおじいさん、おばあさんといった生活パターンである。
ドラマは、家族のために粉骨砕身働くが、仕事熱心の余り家のことは余り省みない、ちょっと我がままで、頑固ではあるが、根は家族思いのお父さんを中心に、家庭の中にあって、家族のために忍耐強く献身的に働く、日本の伝統的なお母さんが織り成す、当時何処ででも見られた中産階級の一般家庭を描いたほのぼのとした明るいドラマであった。そこには、まだ、家長であるおとうさんを中心に爺さん婆さんといった年寄りとともに、しっかりもののお母さんと子供たちといった家族の関係、言い直せば、戦前からの「家」を中心とした家族関係と「団欒」の場があった。
しかし、高度経済成長とともに、夫の単身赴任、妻である女性の社会への進出又、核家族化といった社会現象が広がり、このようなことから、テレビのホームドラマの内容も1970年代の後半頃からは、少し変化し始めたように感じられる。
同じように家庭を描いたホームドラマでも、その中には、単身所帯の悲哀や親子の断絶、夫婦間のコミュニケーション不足、嫁と姑の軋轢といった暗いそして冷たい部分がドラマの中に織り込まれ、家族の「団欒」の場が少なくなり「家」や「家族の絆」の崩壊といったことがテーマーに描かれるようになっていたように思う。
そして、最近は、こんな家庭を描いたホームドラマさえ殆ど見られなくなったように思う。我々自身が、もう、ホームドラマそのものに関心を持たなくなったせいかもしれないが、むしろ、テレビドラマを作成する側にとっても、家族関係の崩壊が常識化してしまった昨今では、ホームドラマで提案すべきテーマーがなくなってしまったからではないだろうか。
食器洗い乾燥機一台くらいで、時間と心のゆとりが出来て、夫婦や家族の「団欒」の場が出来るのなら、こんな安い買い物はない・・・。家族が円満にゆくためには「団欒」の場を持つことが大切なことは間違いない。そのためのゆとり時間は、大切な要素ではある。しかし、私には、もっと大切なことがあるように思う。それは、自我を抑え相手のことを思いやる気持ちではないだろうか?戦後、物欲と自己中心主義が蔓延し、相手の人や立場を思いやる気持ちが薄らいでしまっているように感じられる。
(画像はJRの「団欒」列車・雷鳥のチラシ)

漱石の日

2005-02-21 | 記念日
今日(2月21日)「漱石の日」
文部省が作家・夏目漱石に文学博士の称号を贈ると伝えたのに対し、漱石は「自分には肩書きは必要ない」として、1911(明治44)年の2月21日に博士号を辞退する旨を書いた手紙を時の文部省専門学務局長の福原鐐二郎氏に送ったことに由来するらしい。
夏目漱石(本名、夏目金之助)は、1867(慶応3)年、東京に生まれ、東京帝国大学卒業後、松山中学校、熊本第五高等学校などで英語を教える。1900(明治33)年から英国へ留学。1903(明治36)年に帰国後、一高講師兼東大講師となる。1905(明治38)年、「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を連載、名声が上がり続いて『坊ちゃん』『草枕』を発表。1907(明治40)年には教職を辞し朝日新聞社に入社し文筆活動に専念する。以後、朝日新聞に『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こゝろ』、『道草』、『明暗」などを連載する。明治43年持病の胃潰瘍による大吐血、危篤に陥った。これを気に人生観、死生観など大きな変化が見られるという。1916(大正5)年12月9日、胃潰瘍のため死去。 俳号は、愚陀仏。森鴎外と並び日本を代表する文豪の一人である。漱石の名は、『世説新語』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いことの例えだそうである。尚、漱石の「夏目」は当初、親友の正岡子規の数多いペンネームのうちの一つであったものを、正岡から譲り受けたものという。
漱石が朝日新聞社の専属作家になってからの二作目の『三四郎』は、東京と大阪の朝日新聞に1908(明治41)年9月1日から同年12月29日まで117回にわたって連載され、翌1909(明治42)年5月に単行本として出たもので、『それから』『門』とともに初期三部作といわれる作品であるが、この連載に先立って、作者は同紙上に次のような「新作小説予告」を寄せ、「田舎の高等学校を卒業して、東京の大学に這入った三四郎が、新しい空気に触れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触していろいろに動いて来る、手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である。」・・・と言っているように、熊本から上京した大学生が、新鮮な驚きをもって学問の世界や異色な人物に触れながら、次第に自己に目覚めていく姿を描いたいわゆる青春もの小説といわれている。しかし、筋書だけをとり出せば「三四郎」は一見何の変哲もない青春小説と見えるが、卓越した小説の戦略家漱石の一筋縄では行かぬ小説的企みが実はたっぷりと仕掛けられているともいわれる。
日露戦争後に書かれたこの『三四郎」の中で、三四郎が熊本の高校を卒業し新しい世界に期待を抱いて上京するがその車中で相席の男(広田先生)は、漱石の思想を代弁しているかのように三四郎に対して、「いくら日露戦争に勝って一等国になっても駄目ですね」と言わせ、それに対して、三四郎が「しかし、これからは日本も段々発展するでしょう」と反論すると、広田先生は「亡びるね」と冷たく断言する。このような言葉を口に出すと国賊扱いにされそうなこの時代に、漱石は何をもって「亡びる」と見たのだろうか。
この時代、農村では地主制の支配が進み日露戦争を経過する中でその疲弊化が進が顕著となり、貧農としか言いようのない生活状況が全国を覆っていた。貧農、小作農は口減らしとして子女を繊維産業へ出稼ぎさせたが、そこには低賃金での劣悪な労働条件が待ち受けていた。俗に言う「女工哀史」であり、女工は粗末な食事、監視つきの寄宿舎で生活させられ、牛馬のように扱われ、長時間労働でこき使われた。産業革命によって、資本主義化が進み都市に労働人口が集中するが、すぐに工業労働者として吸収されるものではな貧民があふれていた。重工業の発展により財閥系は肥え太っていたが、富国強兵を唱える国の実態は貧国強兵であったのだ。戦争による莫大な犠牲に比べて得るところのなかった日露講和条約への不満が爆発し、東京日比谷焼討ち事件なども発生していた。
1905(明治38)年9月、多大な犠牲をはらって、勝利した日本。しかし、勝利の陰には悲惨な現実があった。博士号を辞退した1911(明治44)年の8月、夏目漱石は「戦争以降一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかな気楽な見方をすれば出来るものだ」とある講演会で述べたという。この時代の閉塞感の中から、かっては、日露戦争を支持した漱石も、前年頃から、徳富蘆花などと同様に、国家を敵とする見方が芽生え始めていたようだ。それを決定的にしたのは、前年1月24日「大逆事件」の幸徳秋水等が無実の罪(冤罪)のまま処刑されたことからであったろう。
昔の人には気骨のある人が多かったね~。
(画像は、三四郎 岩波文庫夏目 漱石著)

参考:
インターネットの電子図書館、「青空文庫」
http://www.aozora.gr.jp/index.html

漱石俳句カルタ - 旧熊本市立高校の生徒等が作成。漱石句紹介。
http://soseki-web.hp.infoseek.co.jp/
日曜スケッチ散歩- 森鴎外、夏目漱石等の小説の舞台を描いた作品
http://homepage1.nifty.com/266/
漱石・三四郎の見た東京
http://homepage1.nifty.com/266/sansiro-html/frame-sansiro.html
夏目漱石と「永遠の女性」
http://www.ina.janis.or.jp/~myuzawa/souseki/sousekitoeiennnojoseinewpage4.htm
名言サイトの決定版! 【一千人の言葉集】NO.131 夏目漱石
http://www.honokasha.com/e-komo/131-140.html
安曇野を歩く「啄木と大逆事件 」
http://www.shimintimes.co.jp/aruku/79.html

旅券の日

2005-02-20 | 記念日
今日(2月20日は「旅券の日」外務省が1998(平成10)年に制定。
明治11年2月20日「海外旅券規則」が制定され,「旅券」という言葉が初めて法令上で使われた。「旅券の日」は、それを記念して生まれた。それまでは、「御印章」「海外行免状」と呼んでいた。
パスポートは日本政府が、海外で日本人であることと氏名・年齢などの身元を証明する大切な国際的身分証明書である。
外務省のHPによると、現在有効な日本のパスポートは約3,300万冊にも上り、国民の約4人に1人が所持していることになるが、紛失、盗難されたパスポートの数も年間に国内で約3万6,000冊、海外で約1万冊にも上っているという。盗まれたパスポートは、闇ルートを通って国際的な犯罪組織等の手に入り、不法な出入国に使われたりするケースもあり、管理は、きっちりする必要があるね。
「米国政府は、同国のテロ対策包括法に基づき、2004年10月26日から「機械読み取り式でない旅券」を所持している外国人が米国へ入国(通過を含む)する場合には、入国前に査証(ビザ)を取得することを求めています。これまでは、「機械読み取り式旅券」であるか否にかかわらず査証免除プログラム対象国である日本旅券所持者の短期滞在目的の入国に当たっては査証(ビザ)を免除してきたが、米国政府は、その方針を変更した。」とあった。要するに、米国への短期滞在目的の入国について従来は免除されていた査証(ビザ)が新たに必要とされることになったのですよね。
それに、ビザ申請者は、申請書類提出時に、在日米国公館の領事担当官により、本人確認や米国渡航目的等に関する面接を受け、併せて、その際、申請者は、両手の人差し指の指紋をスキャナーで電子的に読み取られることになるそうだ。
2001年9月11日の同時多発テロ以降、アメリカは出入国者の管理をますます厳格にしているが、こんなことをしていたら、当然、観光客も減るだろう。先日のスマトラ沖の地震では、今までアメリカへ観光に行っていたヨーロッパの観光客がインドネシア方面へ観光にいっていて多くの犠牲者を出したと報道されていた。私も、2度ほどアメリカには行ってるが、その当時日本人の場合はビザはいらなかった。こんなに面接を受けたり指紋を採られたりしてまでは、観光に行きたくないよね~。



参考:
パスポートA to Z:2月20日は「旅券の日」外務省HP
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/0220/ryoken_1.html

、「プロレスの日」

2005-02-19 | 記念日
今日(2月19)日は、「プロレスの日」
相撲界からプロレスラーに転向した力道山(本名:金信洛。朝鮮)がアメリカから帰国、1953(昭和28)年日本プロレス協会を設立。
翌、1954(昭和29)年、蔵前国技館で、日本で初めてプロレスの本格的な国際試合が開催された。柔道出身の木村政彦と組んでのシャープ兄弟とのNWA世界タッグ戦である。日本テレビ、NHKが二元中継を行った。しかし、前年の1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビ局が放送を開始し、続いて8月28日、NTV(日本テレビ)が放送を開始したばかりである。この頃は未だ、テレビが普及しておらず「街頭テレビ」と呼ばれるものが駅広場などに設置されていた。人々は高校野球の実況中継やプロ野球のナイター中継などを観ていた。
又、商店街にある喫茶店では、映画館のようにテレビを見せるためにテーブル席をテレビの方向に向けて設置しているところがあった。そして、相撲や野球の実況放送を見せたりしていた。家でテレビを見れない庶民はこのようなところでテレビを見ていた。
この放送で、外人レスラーを空手チョップで倒す力道山に人気が集まった。
外人レスラーが何度も反則をするのに、力道山は反則をせず、正々堂々と闘い外人レスラーを空手チョップで倒す・・・こういう演出効果は、戦後のアメリカンコンプレックスの強い日本人を奮い立たせ、熱狂させた。力道山は、以後、鉄人ルー・テーズとの試合などを通して、国民的英雄扱いを受けるようになった。
その後、1963(昭和38)年5月24日の日本テレビで放送された「WWA世界選手権 ザ・デストロイヤー対力道山」の試合は64.0%もの高視聴率(ビデオ・リサーチ社)をとり、いまだに歴代5位の視聴率を保っているという。ちなみに歴代1位は同年12月31日の第14回紅白歌合戦(司会江利チエミ&宮田輝)でその視聴率は81.4%だったそうだ。
おしくも、力道山は、同年12月、東京・赤坂のナイトクラブで暴力団員に登山ナイフで腹を刺され、1週間後の同15日に死亡した。(死亡年齢は39歳とも41歳とも)
私なんかは、家にテレビがなかったので、長い間、相撲や野球、プロレスの試合などは、商店街の喫茶店へテレビを見に行っていたよ。当時、喫茶店ではテレビを見せるだけでなく、そのスポーツの勝敗で、堂々と賭けをしていた。というよりも、喫茶店の目的は、テレビを見せることより、トトカルチョにあったように思う。私はまだ、子供だったので、一人では行かず、家の職人に連れて行ってもらってたので、その辺のことはよく分からないが、テーブルに着くと必ず賭けの用紙が配られていた。大人達はその用紙に自分の予想を書き店のものに提出し、熱くなって試合を見ていた。
そう言えば、私が社会人になったときも、職場内では、相撲や野球のトトカルチョが流行っていたな~。娯楽の少ない当時、トトカルチョはみんなの楽しみだったんだね~。賭けといっても大きな金額ではなく可愛い額の賭けだったよ。
去年暮れは、初めて紅白歌合戦を見ずにK1を見たが、思ったより、面白かったな~。昔のプロレスなどは、なんかやらせ的な面が強く感じられたが、K-1は、スポーツのイメージが強いね~。
(画像は:s32年、ルー・テーズ対戦日刊スポーツ)