今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

黒澤映画『羅生門』が封切られた日

2007-08-26 | 歴史
1950(昭和25)年の今日(8月26日)公開された映画『羅生門』は、黒澤明が監督し、大映で撮影したモノクロ映画の代表的作品である。
原作は、芥川龍之介の短編小説『藪の中』だが、この作品は、『今昔物語集』巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛られること)」の説話が題材となっている。ここでは、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話で、語り部は妻の気丈さと若い盗人の男気を褒め称えて、話を締め括っている。
この情けない男を殺し、殺人事件に仕立てたのが小説『藪の中』である。本作は、藪の中で起こった殺人事件を七人の証言者が証言、告白するという形式でなりたっている。(青空文庫:芥川 竜之介小説「藪の中」)
映画『羅生門』では、平安時代のとある薮の中。盗賊、多襄丸(三船敏郎)が昼寝をしていると、侍夫婦が通りかかった。侍の妻(京マチ子)に目を付けた多襄丸は、夫である侍(森雅之)をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はなかった・・・。
物語の進展は、雨が激しく降りしきる荒廃した羅生門の下で雨宿りをしている杣売(志村喬)と旅法師(千秋実)がボーっとうつむいている。「わかんねえ・・・さっぱり、わかんねえ・・・」と杣売。そこに雨宿りのため駆け込んできたもう一人の下人(上田吉二郎)が近づいてきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている杣売から話を聞く。旅法師「今日のような恐ろしい話は初めてだ・・・」 杣売と旅法師は「こんな不思議な話は聞いた事が無い」と下人に話し始めた。杣売の話は都に程近い山中で一人の侍の遺骸を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…。
そして、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売と旅法師、捕らえられた盗賊と侍の妻、それに巫女により呼び出された、死んだ侍の霊の奇妙な証言が始まる。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのか誰が犯人だったのかは全て有耶無耶〔うやむや〕=物事がはっきりしない)のままになっている。・・・のは、原作「藪の中」と同じだ。
映画はほぼ原作にどうり忠実に描いているが、原作の「藪の中」では存在の薄かった木樵(映画では〔そま〕売り)の証言が、重要な役割を担っている。黒澤好みの志村喬が重要な役割を果たすが、大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性(京マチ子)が重要な役割を果たす。(羅生門 -goo映画
死体の発見者杣売は、自分だけが真実を知っていると言い、盗賊は女を犯すと、女は悪魔の形相になり、夫と決闘させ、その間に女は逃げたと証言するが、女は、「あの人を殺して」と叫ぶ。さすがの盗賊(三船敏郎)もたじろぐ台詞、その何とかして生き抜こうとする京マチ子演ずる女の背徳のにおいのする姿態と凄まじい演技は今でも印象的に残っている。また、そんな女の姿には、戦争によって働き手を失った女たちが戦後を必死に生きる姿とダブル思いもしたものである。
芥川の映画と同名の短編小説『羅生門』も、『今昔物語集』の巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」を題材にしており、羅城門の楼閣で、死人から髪を抜く老婆から、さらに強奪を重ねる下人の話は、生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描き出した作品としてさらに著名となった。
この「羅城(らじょう)門」とは、かって平安京(現在の京都市中心部)の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門である。平安京の規模は東西千五百八丈(約4・5キロメートル)、南北千七百五十三丈(約5.2キロメートル)であり、その周囲は幅十二丈の南極大路、十丈の北極・東極・西極大路の四本の道によって囲まれていた。南極大路がほかより二丈広いのは都の正面に当たること、また、羅城(高さ約2メートルほどの築垣。都城の城壁のこと)が築かれていたからである。京の表玄関にあたる正面七間、重層の巨大な楼門である羅城門を通り抜けると前方に幅二十八丈(約八十四メートル)の朱雀大路が、遥か北の朱雀門まで通じていた。(以下参考に記載の官制大観・平安京の平安京条坊図参照)
平安京造営から時代が下ると、816(弘仁7)年大風で倒壊。再建されたが、980(天元3)年暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していき、国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、洛南の羅城門周辺は夜ともなれば誰も近付かぬ荒れた一画となっていた。
映画『羅生門』はこの小説『羅生門』からも舞台背景、着物をはぎ取るエピソード、(映画では赤ん坊から)を借りており、テーマ的には小説『羅生門』へのアンサーソングともなっている。(青空文庫:芥川 竜之介小説「羅生門」)
なお、『今昔物語集』の巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語」及び巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」の説話は、以下参考に記載の国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) 「今昔物語集 」で読むことができる。短い文章なので、興味のある方は後で読まれるとよい。
映画『羅生門』は公開の翌年・1951((昭和26)年9月10日、ヴェネツィア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞し、西洋に黒澤明の名や日本映画の芸術性の高さを初めて世界に知らしめた。また、三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。
しかし、この受賞には、以下のような話がある。
黒澤は、自分の作品がヴェネツィア国際映画祭に出品されていたことを事前に知らされていなかったため大変驚いたという。また、製作した大映側も同じで、永田雅一社長ら首脳陣もグランプリ受賞の意味もまるで解さず、困惑顔だったという。それは、公開が前年の8月26日の事で1年も時が経っていたし、公開当時余りにも難解な内容に、映画が完成時には永田自身「この映画はわけがわからん」と批判し、事実封切り後の評判も芳しいものではなかったので製作関係者を左遷させたいわくつきの作品であった。
だから、グランプリ発表の2週間ほど前に映画際主催者から受賞の可能性を伝える電報が大映に届いていたというが、大映は無視し、おかげで、このグランプリ授賞式には日本の関係者の姿はなく、急遽、現地の日本人に似たベトナム人の手に金獅子賞が手渡されたという。その後、賞の価値を知り、ヴェネチアに出品されてグランプリをとった後の永田は豹変し、どこへ行っても『羅生門』を褒め上げ、黒澤を呆れさせたという。後年、黒澤が自らの半生を回想した自伝「蝦蟇(がま)の油」の中で、まるで「羅生門」の映画そのものだと書いているそうだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
黒澤は、現在の東京都品川区出身で、1928(昭和3)年、京華中学校卒業後、画家を志し、日本プロレタリア美術家同盟(以下参考に記載の6nhpr001〔日本プロレタリア美術家同盟 〕参照)に参加し、洋画家の岡本唐貴に絵を教わったという。1936(昭和11)年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。主として山本嘉次郎の助監督を務める。1943(昭和18)年、『姿三四郎』で監督デビュー。
彼は画家出身らしく、映画の一つ一つの場面のイ メージを眼に見える様にかため、ふくらませ、 しっかり掴んで、それから映画の撮影に臨むのだといわれており、映画の場面を自ら描いた絵コンテなどが多く残されている。
以下参考に記載の「龍谷アカデミックラウンジ」では、黒澤プロダクションと共同で黒澤明監督の資料のデジタル化を進めており、そこには、映画化された全作品のシナリオ、写真資料、絵コンテ、自筆メモのほか、映画化されなかった作品の資料まで、あらゆるものが記録されているそうだ。
映画の『羅生門』。時代は世情も人心も荒廃しきった平安朝末期。半分朽ち、今にも壊れそうな羅生門が時代を象徴している。映画の冒頭シーンに登場するその羅生門が組み立てられていく様子が数枚の写真で記録され残っているそうだ。セットもすばらしいが、黒澤監督もこの羅生門づくりにこだわって、「延暦十七年」という年号を刻ませた瓦を4千枚焼いて、羅生門の屋根に使用したというエピソードがあるらしい。
黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは疑問の余地がない。しかし、黒澤作品は『姿三四郎』から『まあだだよ』まで全部で30作品( 監督作品 参照)があるが、後年に作成された、『影武者』『乱』『夢』『八月の狂詩曲』など「耄碌(もうろく)を絵に描いたような失敗作」、『影武者』『乱』など人間を描けなくなった観念だけの作品になっていると指摘する人もいるというが、確かに黒澤の作品は1965(昭和40)年の作品『赤ひげ』以降の作品には余り見るべきものはないように思われる。
(画像は、コレクションの黒澤明の世界・記念絵葉書(ポスター画)30枚組から「羅生門」。沖縄郵政管理事務所発行。)
黒澤明の世界
http://www.asahi-net.or.jp/~zc2t-ogw/MKHome/AKHome/AKHome.htm
羅生門(映画) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%94%9F%E9%96%80_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
羅生門 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD28700/index.html
作家別作品リスト:No.879作家名: 芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html
6nhpr001〔日本プロレタリア美術家同盟 〕
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/mokuji/6nhpr001.html
今昔物語集
http://hysmt.hp.infoseek.co.jp/konjyaku/konjyaku.html
検非違使 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E9%9D%9E%E9%81%95%E4%BD%BF
今昔物語集巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」より
http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/translation/konzyaku29_18.htm
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) 「今昔物語集 」
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A41004329-00008&cc=09_01_03&keyword=&and_or=AND
平城京 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC
官制大観・平安京
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_miyaheian.html
龍谷アカデミックラウンジ/世界のクロサワ・バックナンバー
http://www.asahi.com/ad/clients/ryukoku/back_c2_list.html




作曲家・ピアニスト・高木東六の忌日

2007-08-25 | 人物
今日(8月25日)は、作曲家・ピアニストの高木東六の2006(平成18)年の忌日である。亡くなられた時、102歳であっった。
2004(平成16)年7月7日には、「100歳の誕生日を祝う記念コンサート」が開かれた2年後の大往生であった。
高木 東六(たかぎ とうろく)は、1904(明治40)年7月7日、鳥取県米子市生まれ。1924(大正13)年に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)ピアノ科に入学するが、1928(昭和 3)年中退し、フランスに留学、パリ国立音楽院に入学、パリ音楽院教授アルマン・フェルテにピアノを師事した後、スコラ・カントルムヴァンサン・ダンディに作曲を学び、1932(昭和 7)年に卒業して帰国。フランス滞在中に知り合った山田耕筰の勧めで作曲家に転向したのだという。管弦楽曲「朝鮮風舞踊組曲」が1940(昭和15)年に、新京音楽院賞に1位入選、1942(昭和17)年には文部大臣賞を受賞。戦前、戦後を通じてオペラピアノ曲などのクラシック音楽に留まらず、シャンソンポピュラー曲など多岐に渡る作曲家として活躍したそうだが、正直言って、終戦後には、まだ小学校へ入学したばかりの年代の私にはよく知らない人であった。
私が知るようになったのは、1963(昭和38)年からのNHKの「あなたのメロディー」(1985年まで)や1966(昭和41)年からのTBSの「家族そろって歌合戦」のテレビ番組で長きに渡り、審査員として出演しているのを見るようになってからだ。あなたのメロディーは視聴者参加型の音楽番組で、視聴者からオリジナル曲(基本は作詞・作曲)を譜面にて公募し、応募曲の中で優れたものを、毎週5曲程プロの歌手による歌唱で発表し、その中から1曲、アンコール曲(週間の優秀曲)を決定し、更にアンコール曲を6曲集めて月間大会を行う。この月間大会で6曲からさらに1又は2曲に絞られたものが、年1回NHKホールで開催される栄えある年間コンテストに進み、そこで年間優秀作品が決定されるというものであった。 この番組から北島三郎の代表作である「与作」(1978年)や、トワ・エ・モアの「空よ」(1970年) などの名曲が誕生している。
また、家族そろって歌合戦は、「NHKのど自慢」のように、全国各地をめぐる一般参加の歌合戦だった。リスさんチーム、キツネさんチームなど、動物の名を冠した家族単位のグループで出場。収録は全国各地の市民会館などで行われた。
いずれの番組も、持ち前のユーモアと辛口さを織り交ぜたコメントでお茶の間でしられるようになった。特に、全国を巡回しての公開視聴者参加型番組であった「家族そろって歌合戦」では、審査員紹介の際に毎週、会場となった土地にちなむ俳句?(芭蕉の「松島や、ああ松島や~」に倣って、大阪や~とか変えるだけのもの)を披露することで有名であった。ベレー帽に黒縁メガネがトレードマーク。おしゃれで、明るくユーモア溢れる辛口のおっさんと言う感じであった。
彼は、演歌歌謡曲など、四・七抜き調の歌に関しては、「喜びや笑い、ユーモアがない」「メロディーが暗くて絶望的。歌詞も星、涙、港と百年一日である」と公言するほど批判的な意見で有名だった。しかし、そんな彼が戦後間なしに作った唯一の歌謡曲「水色のワルツ」などの大ヒットにより、収入の多くが歌謡曲であったらしいと言うのは皮肉だよね~。
君に逢ううれしさの  胸に深く
  水色のハンカチを  ひそめる習慣(ならわし)が
  いつの間にか 身に沁みたのよ
  涙のあとを そっと隠したいのよ
「水色のワルツ」(藤浦洸:作詞、作曲:高木東六 )
二木紘三のうた物語「水色のワルツ」
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_b807.html
1950(昭和25)年二葉あき子の歌でレコード発売され、大ヒットした時、私はまだ小学生だったので、この様な難しい歌よりも美空ひばりの歌謡曲などに夢中であったが、後に、ゆっくり聞いてみると、なるほど、クラシック系の作曲家が歌謡曲を作ると、こういう流麗な曲になるのかと感心させられたものである。今、私が暇な時に楽しんでいるハーモニカでの演奏曲目の一つになっている。
そして、もう1曲、印象的な曲がある。それは、戦前の軍国主義の時代、彼が、パリから帰国したときに依頼されて作った軍歌空の神兵」(作詞:梅木三郎) である。
彼がパリから帰国後、第二次大戦で徴用され、旧満州(現中国東北部)、朝鮮香港などに音楽慰問として派遣され、多くの軍歌を作曲した中の1曲である。
空の神兵とは大日本帝国海軍、並びに大日本帝国陸軍 落下傘部隊(空挺部隊)に対する愛称である。1942(昭和17)年1月11日海軍陸戦隊落下傘部隊がセレベス島メナドに、同年2月14日、陸軍挺進連隊(落下傘部隊)がスマトラ島パレンバンに対し、奇襲降下を敢行し、ほぼ無傷の油田施設や敵飛行場を制圧した。同年、その空挺作戦を記録した国策映画「空の神兵」が作られ、その主題歌として作られたものが大ヒットしたものである。
日本の軍歌には普通勇ましいか、暗いかのどちらかのものが多いが、この曲は明るく軽快な旋律である。作曲者の高木は軍歌に反発して「なるべく軍歌らしくない旋律をつけよう」として作曲したといわれており、戦後も軍歌であるこの曲を嫌っていたらしいが、その後、陸上自衛隊の空挺部隊がこの曲を流しながら降下訓練するのを見て感激し、認識を改めたという。i以外に単純な人なんだ。
先ずはその歌を聴いて、みるとよい。
空の神兵
http://www.geocities.jp/aikokukyousi/soranoshinpei.html
この「空の神兵」は、インドネシア国歌「インドネシアラヤの歌」と非常によく似ている。先ずは、以下で聞いてみるとよい。
インドネシア国歌インドネシアラヤの歌
http://f1.aaa.livedoor.jp/~iserlohn/merdeka.htm
もともとは1928(昭和 3)年に発表された国民の間で人気のあった作曲家のW.R.スプラトマンが作った愛国歌だそうで、当時オランダの支配下であったインドネシアで人々の支持を得て「インドネシア・ラヤ」は独立の象徴となり、1945(昭和20)年の独立後は国歌となったのだという。
2001(平成13)年に藤由紀夫監督による映画『ムルデカ 17805』が作成されている。「ムルデカ」というのはインドネシア語で独立を意味しているそうだ。
インドネシアは、大東亜戦争で日本軍が侵攻(侵略ではないか?)したが、現地民にとっては、それまでの長い間オランダの植民地だったが日本軍がきて、長い間植民地として搾取してきたヨーロッパの大国と戦い、圧政から開放しようとしたことで、感謝の念を持っていたというのである。以下参考に記載の「ムルデカ (インドネシヤ独立運動)」参照。
以下参考に記載の「『ムルデカ 17805』 - 北 の 狼 」によると、”大東亜戦争終了後、日本の敗北を受けてオランダ軍とイギリス軍が再び攻め込んできた。この時、約1000人の旧日本軍将兵がインドネシア独立軍に身を投じて戦った。「17805」とは、皇紀2605年(西暦1945年)8月17日という意味で、日本軍が降伏した1945(昭和20)年8月15日の2日後に、後に初代正副大統領となる独立運動指導者のスカルノハッタが、この日付(皇紀)を書き込み独立宣言文を発した”というのである。
映画『ムルデカ 17805』を私は見ていないが、敗戦後インドネシアに留まり独立戦争に参加した日本人将校の姿を、事実に基づいて描いたドラマが、この映画だと言うのであるが、この映画がアジア侵略を美化する映画だとの批難も出ているようだ(以下参考に記載の「アジア侵略を美化する映画」参照)。
事実がどうであったかを私は知らないが、たとえ、そのようなことが事実としてあったかもしれないが、戦争で侵略した国の独立を支援したとするような映画は、なかなか受け入れられにくいだろうね~・・・。
(画像は、高木東六 百歳記念 名曲アルバムジャケット)
このブログの字数制限上、参考は別のページに書きました。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。
クリック→ 高木東六の忌日:参考

高木東六忌日:参考

2007-08-25 | 人物
参考:
高木東六 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%9D%B1%E5%85%AD
二木紘三のうた物語「水色のワルツ」
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_b807.html
思い出の軍歌Ⅱ.昭和の軍歌
http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/showa.html
日本・コリア(韓国・朝鮮)音楽祭2000,高木東六・作曲 オペラ「春香」より/「水色のワルツ」
http://www.wolson.com/event/200005chun/chunhyan-J.htm
軍歌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%AD%8C
自衛隊ルポ 藍より蒼きおおぞらに
http://www.bk.dfma.or.jp/~sec/1999/11/ashikawa.htm
ムルデカ (インドネシヤ独立運動)
http://www.kanda-zatsugaku.com/040827/0827.htm
[ムルデカ 17805]
http://www.nipponkaigi-tokyo.com/merdeka/home.html
ムルデカ  MERDEKA 17805(2001)・goo映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD32419/index.html
アジア侵略を美化する映画
http://www.ei-en.net/frenet/17805.htm
インドネシア国歌インドネシアラヤの歌
http://f1.aaa.livedoor.jp/~iserlohn/merdeka.htm
『ムルデカ 17805』 - 北 の 狼
http://plaza.rakuten.co.jp/kitanoookami/diary/?act=reswrite&res_title=%A1%D8%A5%E0%A5%EB%A5%C7%A5%AB%A1%A117805%A1%D9&d_date=2005-05-25&theme_id=42693&d_seq=0

ラグビーの日

2007-08-24 | 記念日
今日(8月24日)は、「ラグビーの日」
ラグビー (Rugby) は、フットボールの一種であり、正式にはラグビー・フットボール (Rugby football) と呼ばれる。1823(文政6)年の今日(8月24日)、イングランドパブリックスクール・ラグビー校 (Rugby School) で開かれたフットボールの試合中に、興奮した生徒・ウィリアム・エリスがルールを無視してボールを抱えて相手チームのゴールへ突進した。これがラグビーの発祥であるとされていることから、この日を「ラグビーの日」としていたようだ。
しかし、今では、このラグビーの起源説は、日本では「フットボールの試合中」というところを「サッカーの試合中」と誤訳したことからきたものだと言われている。当時、英国では一般的に「フットボール」(football)という言葉はサッカーを表すので、英語の文献で“Football”となっているところを、翻訳者が「サッカー」と誤訳したのだろう。因みに、辞書を見ても、英語の「Football Association 」は 「(the ~) サッカー協会 (略FA)」、「Football League」は「サッカー連盟」となっている。
当時はまだサッカーとラグビーは未分化であったので、正確には「サッカー」ではなく「フットボール」か「原始フットボール」となるべきものであった。この「原始フットボール」とは中世イングランドに起源をさかのぼる。数千人の大人数が手と足を使って町と町の対抗戦として原始的な「フットボール」を行っていた。
この原始的な「フットボール」がどんなものであったかは、以下参考に記載の「教えて!goo フットボールの起源」を参照されるとよい。
エリス少年自体は実在の人物で、オックスフォード大学を卒業して神父となり、フランスで没したことが確認されており、ラグビーの発明者として扱われている。
だが、フットボールでは手を使うこと自体はそれ以前でも許されていたものであり、当時のルールではボールを持って後ろに走るか、ボールをプレースする(味方に蹴ってもらう)かしても前に走ることは禁じられていることが多かったようだ。兎に角、当時のフットボールには明文化された公式のルールというものはなく、それぞれの学校や主催団体ごとにある程度独自にルールを定めることが通例化していたようであり、エリス少年が、フットボールの試合中にボールを手で持って走り出したという話が「ランニングイン」だとしたら、ルールに反したことになるようだが、そのような事実であったとしても、それは、エリス少年の所属していたラグビー校が独自に定めたルールに基づいてプレーしていたものかもしれない?ので、あながち、ルール違反ともいえないのかもしれないよね~。この当時フットボールは学校毎にルールが異なり、他校との試合の際はその都度ルール調整をしなければならなかった。そのため、しばしばルール統一を目指した協議が行われていた。こうして1850年代までにはイートン・カレッジを中心とする「手を使うことを禁止するルール」と、ラグビー・スクールを中心とする「手を使うことを許可するルール」との二大勢力に収束していったが、両者の間には依然として大きな隔たりがあった。1863(文久2)年、長きにわたる対立を解消しようと、ロンドンで最終的なルール統一を目指した協議が開催されたが、この協議も物別れに終わり、遂に2つの競技(サッカーとラグビー)の決別が図られた。そして、同年に、「手を使う事を禁止する」ルールを主張していたパブリックスクールの代表者らによって、フットボール・アソシエーション( Football Association =FA)が設立された。
また、1871(明治 4)年、サッカーのFAに対抗して、ロンドンでラグビー協会(RFU:ラグビー・フットボール・ユニオン)が設立された。
日本で「ラグビー」といわれるものはラグビーユニオンであり、1899(明治32)、慶応義塾大学の英語教師として新任したイギリス人、E.B.クラーク(Edward Bramwell Clarke)がケンブリッジ大学で自ら体験したラグビーを、同じく同大学で学んだ田中銀之助の協力のもとに塾生に伝えたのが最初だと言われている。以来日本のラグビーは同志社大学、早稲田大学、明治大学など大学ラグビーの伝統校によって発展してきた。他の球技スポーツと異なる最大の特徴は、守る側は自分の体をぶつけて相手の進行を防ぎ、体当たりをして相手を引き倒すこともできる点にある。
日本へのサッカーの伝来は、1872(明治 5)神戸市外国人居留地で行われた試合が最初とされる。この後も神戸、横浜を中心とした外国との交易港のある街ではイギリス人を中心とする外国人によるサッカークラブが創設され、サッカーが行われていた。1870年代末になってようやく富国強兵の一環として国民の健康な身体の維持、軍事教練の一環として「体育」、「体操」という概念で見られるようになった。この時、体育伝習所の坪井玄道は1885(明治28)年に著した『戸外遊戯法』の中でアソシエーション式フットボールを「フートボール」として紹介している。
最初の日本人のチームは、1889(明治22)年、神戸市の兵庫県尋常師範学校(後の御影師範学校、現在の神戸大学)にサッカーチームが創設された。日本で最初の日本人だけのチームである。 関東地方では、1896(明治29)年には高等師範学校(1902年東京高等師範学校に改称、現在の筑波大学、以下東京高師とする)に「フートボール部」が創設された。
ラグビーが1899(明治32)年、慶応義塾大学に紹介されて依頼、伝統のスポーツとして広まった割りには、それよりも早くサッカーが日本の学校に伝えられながら、なぜラグビーほどに広く伝わらなかったのだろうか。そこには、ラグビーが最初からスポーツとして伝えられたのに対して、サッカーは「フートボール」として紹介され、漢字としては「蹴球」などが当てられている。これは、蹴鞠からヒントを得ているが、実際サッカーが日本にもたらされた当初は、このスポーツは西洋人が行う蹴鞠の一種であるとみなされていたようだ。(以下参考に記載の「日本サッカー・ブックガイド - 明治・大正・昭和戦前期、、また、中島敦「斗南先生」〔青空文庫 〕参照)サッカーという呼び方は、新しく、文献上では1930(昭和 5)年代ごろからやっと確認できるようになるという。このことからやっとスポーツとしての認識が出てくるのではないだろうか。
日本では野球と共にラグビーの盛んな時代が続いたが、プロフェッショナルリーグとしてJリーグ誕生以来、最もスポーツらしいスポーツと言えるかもしれないラグビーの人気に翳りが出始めたのは残念なことだ。
(画像は、ラグビーの試合中、スクラムを組んでいるところ。Wikipediaより)
ラグビー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%93%E3%83%BC
日本ラグビーフットボール協会
http://www.rugby-japan.jp/
Oval Aerie Rugby!
http://members2.jcom.home.ne.jp/ovalaerie/rug_top.html
[PDF] ウィリアム・ウェッブ・エリス神話と『ラグビー・フットボールの起源 ...
http://www.taiiku.tsukuba.ac.jp/inst-hss/bulletin_pdf/30/003.pdf
教えて!goo フットボールの起源
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3025495.html
RugbyEye 日本ラグビー年表
http://rugby.m78.com/data/history.html
日本のサッカー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC
「日本サッカー・ブックガイド - 明治・大正・昭和戦前期
http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/book1.htm
中島敦「斗南先生」(青空文庫 )
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1741_17364.html

NHKテレビがプロ野球ナイターを初めて実況中継した日

2007-08-23 | 歴史
1953(昭和28)年の今日(8月23日)は、NHKテレビがプロ野球ナイターを初めて実況中継した日。
日本のプロ野球中継の基点は1936(昭和11)年7月に開かれた「日本職業野球連盟結成記念大会」のラジオ中継だった。東京中央放送局(現・NHK)が大会期間中の全試合を生中継した。 民間放送の第1回は1951(昭和26)年に新日本放送(現・毎日放送)が行った。
NHKは、1948 ( 昭和23 ) 年6月に、戦後初めてのテレビの公開実験を行っているが、日本のテレビ放送は、当初からNHKと民放の併存体制で進んでいた。正力松太郎は、民放のトップを切って1951(昭和26)年に 日本テレビ放送網の計画を発表、日本に民間テレビ放送網を設立するという大規模な構想を発表した。この構想は、アメリカからも資金援助を受け、技術・施設ともにアメリカの最新式のものを導入する計画であった。1952(昭和27)年より相次いで民放もテレビ局の免許申請をした。1953( 昭和28)年2月1日NHK東京テレビジョン開局。日本初のテレビの本放送を開始し、「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声とともに、映像が流れ、開局祝賀式、舞台中継、ニュース、映画などが放映された。NHKには、専用のテレビスタジオはまだ1つしかなかったが、使用した機器は、カメラを除き、すべて国産品であった。一方、民放の本放送開始は、1953(昭和28)年8月28日午前11時20分 、日本テレビ放送網(日本初の民間放送によるテレビ局)がテレビ本放送を開始した。(この日が開局記念日)。 日本初のテレビ局としての開局を目指していたが、多くの機器を輸入に頼っていたため納入が間に合わず、NHKに先行されたかたとなった。 そして、その翌日の8月29日、日本テレビの製作により後楽園球場で開かれた巨人軍大阪タイガース(現・阪神タイガース)のナイターを民放としてテレビ初中継している。 当時、如何にテレビ放送が野球の放送に力を入れていたかがわかる。
しかし、この6日前の8月23日には、既に、NHKテレビが西宮球場で行われた阪急・毎日戦のプロ野球のナイターを実況中継しているのである。これが、日本初のテレビでのプロ野球初のナイター中継と言うことになり、このことは、朝日クロニクル「週刊20世紀」及び毎日ムック「戦後50年」の年表には共に記載されているのだが、それ以上の詳しいことがいくら調べてもわからない。・・・記念すべきナイターの野球中継なのに、不思議に思うのだが・・・。放送されたものが西宮球場で行われた阪急・毎日戦だったからであろうか?。テレビ中継は主として巨人軍の試合を全国中継しているが、1964年頃まではそれ以外の試合も全国中継で頻繁に放送されていたのだが・・。
西宮球場は、かつて兵庫県西宮市にあった、阪急電鉄が経営していた野球場(正式名称は阪急西宮球場)であった。阪急電鉄(現阪急阪神ホールディングス)が所有していたプロ野球チーム『阪急ブレーブス』の本拠地としてブレーブスの主催試合が開催されていた。1936(昭和11)年発足した阪急ブレーブスは、阪急の小林一三社長が、阪神電鉄の球団大阪タイガース(現・阪神タイガース)に対抗し結成したものである。
この阪急軍の設立された1936(昭和11)年は、以前からプロ野球チームとして活動していた東京巨人軍、大阪タイガースの2チームに阪急軍他、名古屋軍東京セネタース大東京軍名古屋金鯱軍が設立・参加し、この7チームで日本職業野球連盟が設立され、4月に第1回のリーグ戦が開催された年であり、日本の団体競技で全国規模の社会人リーグ戦はこれが初めてだった。
その後、後楽園イーグルス南海軍、が参加、1941(昭和16)年に翼軍と名古屋金鯱軍が合併し大洋軍となり8チームに。 1943(昭和18)年に西鉄軍と大和軍が解散し、6チームとなり、終戦を迎えた。終戦後の1946(昭和21)年に、既存6チームに加え、セネタースゴールドスターを加えた8チームによる株式会社形式で連盟が再結成された。1949(昭和24)年まで1リーグ8球団の形態が続いたが、正力の構想する2大リーグ戦の計画を聞きつけて、加盟希望企業が殺到。1953(昭和28)年の今日(8月23日)阪急と対戦した毎日(毎日オリオンズ)もその1つである。
連盟は「当初は10球団1リーグ、その後は12球団2リーグ」という正力構想のタイムテーブルに沿って2球団の加盟を認めたが、1949(昭和24)年末、正力の意を受けて加盟を申請した毎日新聞(毎日オリオンズの親会社)を巡って紛糾。ライバル社であった読売新聞社(読売ジャイアンツ親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズ親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、電鉄系を中心とした毎日加盟賛成派の球団による太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)が結成され、「2リーグ分立騒動」に発展した。 (1949年プロ野球再編問題参照)。
この騒動の中、大阪タイガースから毎日に別当薫呉昌征本堂保次土井垣武らの選手が移籍した。これは、加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻したタイガースに対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれている。
こうして、毎日は、1950(昭和25)年のパ・リーグ公式戦開始より参戦。本拠地は後楽園球場。湯浅禎夫を総監督、前タイガース監督の若林忠志を監督とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握)、別当ら阪神からの移籍組に加え、前年の都市対抗野球を制した別府星野組のエース・荒巻淳や野村武史ら投手が活躍。
創設1年目にしてリーグ優勝、日本シリーズでも松竹ロビンスを圧倒し、初代プロ野球日本一の座を射止めるろいう輝かしい成果をあげていた。
一方の阪急は、1937(昭和12)年、西宮球場完成に伴い本拠地暫定的な宝塚球場においていたものを 西宮に移転。 戦前は優勝に届かなかったが、戦中にあってもチーム体勢を大きく崩すことなく終戦を迎え、1946(昭和21)年のリーグ戦再開にも参加。
1949(昭和24)年オフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟した時に、捕手の日比野武・・永利勇吉を全員他球団に奪われ、苦難の道を歩むことになる。
1952年、西宮球場にナイター照明設備を完成。当時のユニフォームが黒地に白のペンストライプというデザインだった上にナイトゲームに強かったことから「夜の勇者」という異名をとった。このころより、梶本隆夫米田哲也といった名投手2人を擁するもののチームは低迷し「灰色カラー(灰色の時代)」と言われた。
そして、そのナイターに強い阪急と毎日のナイターゲームが日本で初めてテレビで放映されたのだが・・成績はどうだったのだろうか?1953年度はリーグ2位に終わっている。
パシフィック・リーグ 1952年成績表(年度別に見れる)
http://bis.npb.or.jp/yearly/pacificleague_1952.html
1963〔昭和38)年には球団史上初となる最下位に転落するが、1967(昭和42)年、西本幸雄監督の下で、リーグ初優勝。1971(昭和41)年~1972(昭和42)年と5度優勝するがV9に突き進む読売ジャイアンツを倒すことができなかった。 その後も成績は良いものの不思議と観客の動員することが出来ず、結果的には、1988(平成10)年、阪急電鉄がオリエント・リースへの球団譲渡。オリックス・ブレーブスに改称。1994(平成 6)年、仰木彬が監督に就任。この年イチローも入団。1995(平成 7)年、阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸でのゲーム開催が危ぶまれたが、「がんばろうKOBE」を合言葉にチームが団結。球団譲渡後初のリーグ制覇を果たし、翌・1996(平成 8)年にリーグ2連覇も達成、日本シリーズでは長嶋巨人を4勝1敗で倒し、地元神戸で悲願の日本一に輝いた。観客動員数ともにこの年が「ブルーウェーブ」のピークとなり、以降観衆も地元の復興とともに徐々に減少。2000(平成12)年オフ、イチローがアメリカメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。 2001(平成13)年、仰木も勇退。 2004(平成16)年、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併、球団名もオリックス・バファローズと変更し今日に至っている。なんでも、2007(平成19)年2月20日、一部のスポーツ新聞で近鉄の球団経営への出資が成績に関係なく今季で終了する方針であることと、それに伴い球団がバファローズに変わる新愛称名の検討に入ったと報じられていたようっだが・・・。 毎日オリオンズの方は、その後、1957(昭和32)年に低迷していた大映ユニオンズを吸収合併し大毎オリオンズと改称。1969(昭和44)年1月ロッテと業務提携を結び、チーム名をロッテオリオンズに改称。1998(昭和63)年にはプロ野球記録となる18連敗を喫し話題となるが、その後、2004(平成16)年の第2次バレンタイン</n>監督時代になって、2005(平成17)年、「マリンガン打線」の活躍によって、8月28日の対オリックス・バファローズ戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスが確定。プレーオフ第1ステージでは西武、第2ステージで 福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした。そして、日本シリーズでは阪神タイガースを4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝いている。この優勝によって「優勝から最も遠ざかっていたチーム」の汚名を返上、今期(2007年)も今日8月23日現在2位と頑張っている。
かってのパリーグの覇者阪急は、野球を単なる宣伝材料ぐらいにしか考えていないオリックスなどに営業譲渡をしたおかげで今は、消滅の一歩手前となっている。一方の毎日は、後発ながら着々と戦力を向上させ、今はパリーグの雄となっている。結局、球団の野球に対する考え方の相違が今の結果を生んでいるというものだろ。球団の設立が、新聞社を中心とする巨人他のセリーグは、マスコミを抑えており、その点、電鉄関係を中心とするパリーグには、ハンディーがあった。そのため、人気の点で大きな差が出来、それが、球団経営を悪化させている。しかし、最近は、巨人の人気にも翳りが出てきて、パリーグが頑張っており、次第に人気も出始めている。パリーグ頑張れと応援をしたいが、地元神戸を捨てたオリックスだけは応援をする気がしない。
(画像は後楽園ナイトゲーム。)
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