元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ワン・モア・タイム あの日、あの時、あの私」

2023-06-30 06:08:08 | 映画の感想(わ行)
 (原題:ONE MORE TIME )2023年4月よりNetflixより配信されたタイムループ仕立てのスウェーデン製ラブコメ作品。他愛の無いシャシンなのだが、意外と楽しめた。脚本は少しばかり捻ってあるし、エクステリアはチャーミングだ。キャラクターもけっこう屹立している。何より上映時間が85分とコンパクトなのが良い。

 主人公のアメリアは40歳になった現在も配偶者はもちろん交際相手もおらず、仕事は退屈で捨て鉢な人生を送っていた。そんな彼女がふと思い出したのは、幼少の頃に町外れに埋めたタイムカプセルのことだ。18歳になった日に掘り起こして開封する予定だったのだが、今まで失念していたのだ。暇つぶしに様子を見に行こうとしたその時、トラックと接触事故を起こして気を失ってしまう。



 気が付くと、アメリアは18歳の誕生日にタイムスリップしていた。思わぬ形で若さを取り戻した彼女は当初は喜んでいたが、やがて同じ日を何度も繰り返すタイムループにハマったことに気付き愕然とする。何とかそこから脱出しようとするが、彼女の努力はことごとく水泡に帰す。

 この設定はハロルド・ライミス監督の「恋はデジャ・ブ」(93年)に似ていると思ったら、劇中でもその作品のDVDが小道具として登場するので笑ってしまった。ただ「恋はデジャ・ブ」と違うのは、過去の特定の時点に主人公が飛ばされた上で、その一日が延々と繰り返されることだ。アメリアはライミス作品を“参考”にして、何かこの時間軸でやり残したことがあったはずだと奮闘するが、なかなか上手くいかない。

 実はくだんのタイムカプセルに関係する人物が鍵を握っているのだが、それにどうアプローチするのか、その過程がちょっと面白い。ラストの扱いも意外性がある。ヨナタン・エツラーの演出は特段才気走ったところは無いが、観る者を退屈させないだけの堅実さは持ち合わせている。主演のヘッダ・スティールンステットが中年期も十代の頃も両方演じているが、あまり違和感を覚えないのは本人の演技力に加えてある種年齢不肖のルックスによるところが大きい。

 マクスウェル・カニンガムにエリノア・シルヴェスパレ、ミリアム・イングリッド、ペル・フリッツェルといった顔ぶれはもちろん馴染みは無いが、皆良い演技をしている。そして何より主人公たちが身に付ける衣装や、住居の佇まいがカラフルで目を奪われる。そして郊外の自然の風景は本当に美しい。あまり期待するのは禁物かもしれないが、観て損するような内容ではないと思う。
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「わたしは光をにぎっている」

2023-04-23 06:05:23 | 映画の感想(わ行)

 2019年作品。観ていて戸惑うしかない映画だ。言いたいことは大体分かる。しかし、それ自体は観ている側にとっては大したことではなく、語り口も手慣れているとは言い難い。そもそも、斯様なネタをこのように扱うシャシンが、どうして作られたのか理解できない。製作サイドでは本作に如何なる勝算を見込んだのだろうか。邦画界には不思議なことが横行しているようだ。

 二十歳になる宮川澪は、両親を早くに亡くして祖母と一緒に長野県の野尻湖畔の民宿を切り盛りしていたが、祖母が入院してしまい民宿の閉鎖が決まる。父の親友だった三沢京介を頼って上京した澪は、彼が経営する銭湯を手伝うようになる。しかし、東京での生活にも慣れきてた彼女に突きつけられたのは、銭湯が区画整理のため閉店しなければならないという、非情な現実だった。

 コミュニケーションが苦手な主人公が、それまで何とか暮らしていた場所から見ず知らずの土地に移らざるを得なくなり、藻掻きつつも周囲と折り合いを付けるまでを描いたドラマだ。正直こういうネタは珍しくはなく、あとは描き方次第で作品のクォリティが決まるのだが、本作は話にならない。そもそもヒロインの“成長度”はさほどアップせずに終わってしまうのだ。

 銭湯を切り回すことや、その常連客および周辺の者たちとの付き合い方は覚えるものの、主人公の世界はそこから広がらない。京介は銭湯が店じまいすることを数年前から知っていながら、何の準備もしないままタイムリミットを迎えて狼狽えるばかり。その他の連中も、再開発を機に新天地を求めるラーメン屋店主を除けば、皆諦観に浸るのみだ。

 つまりは、作者は主人公の生き方よりも、失われていく東京の下町情緒(?)に対する感傷を切々と綴りたいのだろう。ところが、私のようにノスタルジーなどさほど覚えない観客もいるわけで、昨今の北九州市の旦過市場の火事に代表されるように、古い商店街を放置したままでは防災上問題が出てくる。このような地域はとっとと再開発すべきだ。

 中川龍太郎の演出はテンポが良いとは言い難く、さらに固定カメラを引いたままの長回しという、昔の映画青年が喜んで使いそうな手法の多用には盛り下がるばかり。主演の松本穂香をはじめ、渡辺大知や徳永えり、吉村界人、忍成修吾、光石研、そして樫山文枝など顔ぶれは多彩ながら印象は薄い。だいたい、カメラを引いてばかりでは表情もロクに読み取れない。ただし、冒頭と終盤に映し出される野尻湖畔の風景だけはすこぶる美しく、そこは鑑賞する価値はあるだろう。
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「わたしは最悪。」

2022-08-13 06:10:38 | 映画の感想(わ行)
 (原題:VERDENS VERSTE MENNESKE )主人公にまったく感情移入できない。かといって、周りのキャラクターに共感できる者がいるわけでもない。要するに、観ている側にとっては“関係のない映画”である。とはいえ、主要アワードの候補になっており、本作に何らかの普遍性を見出す観客もいるのだろう。映画というのは、受け取る側によって評価が違ってくるものだ。

 ノルウェーのオスロに住む30歳のユリヤは、いまだに人生の方向性を定めることが出来ない。もとより学力はある方だったので医学部に進学してはみるものの、合わないことが分かって早々にドロップアウト。以後も職を転々とするが、今は書店の従業員として糊口を凌いでいる。年上の恋人アクセルはグラフィックノベル作家として成功し、彼女に結婚を打診してくるが、ユリアは踏み切れない。ある日、赤の他人のパーティに紛れ込んだ彼女は、そこで若く魅力的なアイヴィンに出会い、恋に落ちる。



 30歳になっても根無し草のような生活を送るヒロインを描いた映画としてまず思い出されるのはパトリシア・ロゼマ監督の快作「私は人魚の歌を聞いた」(87年)であるが、本作はそれに遠く及ばない。「私は人魚の~」の主人公は実生活こそ冴えないが、内面は宝石のように美しい。また、それを表現するだけの卓越した映像処理も完備していた。

 対してこの映画のユリヤは、単なる“だらしのない女”にしか見えない。行き当たりばったりに生き、同世代の女たちからは人生のスキルにおいて、おそらく大差を付けられている。それでいて“アタシはまだ本気出していないだけっ!”みたいな中二病的スタンスも匂わせ、観ていて苦笑するしかない。

 それでも大向こうを唸らせるような突出した映像表現があるのならば話は別だが、せいぜい“ユリヤの視点では時間が停止した”という底の浅いギミックが提示される程度で、あとは何もない。アクセルもアイヴィンも、そしてユリヤの母も、魅力ある人物として描かれていない。ヨアキム・トリアーの演出は平板で、作劇は盛り上がりに欠ける。

 主演のレナーテ・レインスベは頑張っているとは思うが、キャラクター設定が斯くの如しなので求心力は希薄。アンデルシュ・ダニエルセン・リーやハーバート・ノードラムといった他のキャストもパッとしない。ただひとつ良かったと思ったのは、オスロの街の風景だ。坂の多い港町で、歴史ある建物の間を市電が走る。一度は住んでみたいと思わせる風情がある。
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「私というパズル」

2021-05-08 06:12:39 | 映画の感想(わ行)
 (原題:PIECES OF A WOMAN )2021年1月よりNetflixより配信。主演のヴァネッサ・カービーが本作でアカデミー主演女優賞候補になったというので観てみたが、どうにもピンと来ない映画だ。いわば、無理筋の設定で登場人物に屈託を強いているようなシャシンであり、実に居心地が悪い。普通のシチュエーションならば、映画のネタにもならない話である。

 ボストンに住む主婦マーサは出産を控えており、夫のショーンは子供の誕生を楽しみにしていた。この夫婦は自宅出産することを選んでいたが、マーサが産気付いた夜、馴染みの助産婦は別の出産に立ち会っていたため来られない。急遽代わりの助産婦イヴが派遣され、マーサは苦しんだ末に女児を産むが、赤ん坊はすぐに死んでしまう。

 ショックに打ちひしがれた彼女は心を閉ざし、そのため復帰した職場では周囲は腫れ物に触るような対応しかしない。ショーンとの仲もギクシャクしてくる。加えて、母親と妹夫婦はイヴを訴えることに執着し、やがて夫は弁護士のスザンヌと浮気に走る。マーサは苦悩を抱えたまま刑事告訴されたイヴと、法廷で対峙する。

 要するに、マーサが病院で出産していれば、死産は避けられたかもしれないという話ではないのか。しかも、出産当日に担当助産婦が来られない可能性は予想できたはずで、その対処策も用意されていない。救急車を呼ぶのも遅すぎた。そもそも、2人が自宅出産に拘泥した理由は、最後まで明かされないのだ。

 自分たちでリスクを背負い、いざという時に対応できなかったから不幸を呼び込んだという、観ている側にとっては“関係の無い”ストーリーが展開されるだけ。また、冒頭から出産の顛末までに30分近くを要しているというのは、まったくもって無駄だ。長いだけでドラマ自体にほとんど関与していない。

 マーサの独り相撲的な懊悩や、母親らの独善的な態度も不快感しか覚えない。特に母親の出生の秘密が開示される場面は、盛り上がりそうな雰囲気がありながら少しも求心力が発揮されていない。終盤の法廷のシーンと、続くラストシーンにもカタルシスは皆無で、観終わってみれば残るのは徒労感だけだ。

 コーネル・ムンドルッツォの演出は冗長で、メリハリを欠く。主役のカービーは確かに熱演であり、ある意味“体当たり”とも言えるのだが、映画の内容がこのレベルなので割を食っている。ショーン役のシャイア・ラブーフはパッとせず、エレン・バースティンとサラ・スヌークというクセ者を脇に配していながらさほど機能させていない。なお、本作は主にカナダで撮られているらしいが、どうして舞台がボストンなのかよく分からない。チャールズ川の風景が申し訳程度に挿入されるのも、あまりいい感じはしない。
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「わたしの叔父さん」

2021-03-27 06:17:12 | 映画の感想(わ行)
 (原題:UNCLE )まったく面白くない。起伏がほとんどない作劇が延々と続き、上映中は眠たくて仕方がなかった。2時間に満たない尺ながら、途轍もなく長く感じられる。考えてみればストーリー設定自体に無理があり、キャラクターの造型も絵空事だ。聞けば2019年の東京国際映画祭コンペティション部門で大賞を獲得したらしいが、受賞実績はどうあれ、個人的にはダメなものはダメである。

 舞台はデンマークの農村地帯。27歳のクリスは幼い頃に両親を亡くし、体の不自由な叔父と2人で家業の酪農を切り回していた。特に変化のない毎日で、クリスは教会で出会った青年マイクからデートに誘われたりもするが、彼女は及び腰である。ある時、クリスは地区を担当している獣医からコペンハーゲンの大学で講義する際に同行して欲しいとの要望を受ける。2泊3日の行程で家を空けることになった彼女だが、その間に叔父が倒れてしまう。

 まず、邦題にある“叔父”というのは違和感を覚えてしまう。“叔父”というのは親の弟を意味するが、本作の叔父さんは老齢で、どう見ても20歳代の姪がいるとは思えない。ここは百歩譲って“伯父”か、あるいは祖父という設定が望ましい。

 ともあれ、この2人の関係性には疑問が付きまとう。いくら両親がいないとはいえ、クリスが叔父との生活に執着する意味が見い出せない。彼女はもともと獣医志望だったらしいが、それだけでは田舎の酪農農家を手伝う動機にはなり得ない。有り体に言えば彼女は気難しく、まったく共感できない。こんなのが画面をウロウロしているだけで気分を害する。

 しかも、朝起きてから夜寝るまで、2人は生活のパターンを変えようとはしない。何しろ、叔父の入院先でも自宅にいるときと同じ食事のメニューを用意するほどだ。監督のフラレ・ピーダセンは小津安二郎の信奉者らしいが、ひょっとしてクリスと叔父の関係は、小津の「晩春」(1949年)における原節子と笠智衆にインスパイアされたのかもしれない。しかしながら、本作は洗練の極みのような小津作品のレベルには達していない。どこか俗っぽく、そしてワザとらしいのだ。

 特に、叔父が自分でプロの介護士を呼んだことにクリスが腹を立て、“私がいるじゃない!”と言い放つあたりは不快感を覚えた。2人の恋愛感情じみたものを描こうとしたようだが、それまでに何もエモーショナルなモチーフを提示していないため、いたずらに唐突で生臭い。

 ピーダセンの演出はメリハリが皆無で、観ていて退屈だ。じっくりと淡々としたタッチで撮れば何か描けると思い込んでいる。そんなのはただの“スタイル”であり、確固としたドラマツルギーの裏付けのない表面的な小細工を見せられてもシラケるだけだ。主演のイェデ・スナゴーとペーダ・ハンセン・テューセンには魅力が皆無。オーレ・キャスパセンやトゥーエ・フリスク・ピーダセンといった脇の面子もパッとせず、とっとと忘れてしまいたい映画である。
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「藁にもすがる獣たち」

2021-03-07 06:57:12 | 映画の感想(わ行)
 (英題:BEASTS CLAWING AT STRAWS)これは面白い。屹立したキャラクターの大挙動員と、息をもつかせない展開。そして凝った作劇と、サスペンス映画に必要なポイントがすべて揃っている。まあ、中には無理筋のプロットも無いではないが、それも許してしまうほどにヴォルテージが高い。いつもながら、最近の韓国映画の出来の良さには感服してしまう。

 京畿道平沢市にあるサウナ併設のホテルでアルバイトとして働くジュンマンは、ある日客が引き取りに来なかったロッカーの中から大金が入ったバッグを見つける。もとより上司とソリが合わない彼は、仕事を放り出してバッグを家に持ち帰る。一方、失踪した恋人が残した多額の借金の取り立てに追われる入管職員のテヨンは、仲間と共謀して一攫千金を狙っていた。彼の元恋人のヨンヒはキャバレーの支配人となっていたが、そこのスタッフで夫の暴力に悩んでいるミランを何かと気に掛けていた。曽根圭介の同名小説を韓国で映画化したものだ。



 各エピソードは同時進行で描かれているようでいて、実は時制がバラバラであることはサスペンス映画好きならば察しが付くが、物語がどこに収斂されていくかは、なかなか予想出来ない。ただそれは原作の手柄であり映画の成果ではないという意見もあるかと思うが、スクリーンに観客の目を釘付けにする登場人物たちの“濃さ”とダークな雰囲気には、作り手の大いなる力量を感じずにはいられない。

 出てくる連中がすべて欲の皮を突っ張らせ、周りを出し抜こうとして僅かの見落としにより破滅してゆく。題名通り“藁にもすがりたい”と思っていても、現実は厳しく少しの希望をも踏みつぶす。その有様はまさにスペクタクルだ。脚色も担当したキム・ヨンフン監督の仕事ぶりは天晴れで、一点の淀みもなくパワフルに映画を進めていく。もっとも、同じ町で派手にビジネスを展開しているヨンヒを、テヨンが知らなかったというのは承服出来かねるが、この程度の瑕疵は許せる範囲だ。

 キャストの中ではヨンヒ役のチョン・ドヨンが圧倒的だ。殺しても死なないような毒婦を賑々しく演じきる。テヨンに扮するチョン・ウソン、ジュンマンを演じるペ・ソンウ、共に快調。ユン・ヨジョンにチョン・マンシク、チン・ギョン、シン・ヒョンビンなどの他の面子も気合いが入っている。キム・テソンによる撮影とカン・ネネの音楽も言うこと無しで、これは本年度のアジア映画の収穫だ。
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「ワンダーウーマン 1984」

2021-01-09 06:26:03 | 映画の感想(わ行)
 (原題:WW84)コロナ禍でハリウッド製の大作が軒並み公開延期(あるいは公開見送り)になっている昨今、久々に劇場で上映してくれたこと自体は嬉しかったが、いかんせん本作は出来が悪すぎる。快作だった前回(2017年)と比べても、大幅に落ちる。製作陣はどうしてこの企画(脚本や予算計画)にゴーサインを出したのか、まるで分からない。

 通常の人間よりはるかに長命であるアマゾン族の王女、ワンダーウーマンことダイアナ・プリンスは、1984年の時点では首都ワシントンにある博物館で学芸員として働いていた。ある時、遺跡から発掘された“願いを叶える石”が博物館に持ち込まれる。彼女は冗談半分で前作で死に別れた恋人のスティーヴの復活を願ったところ、彼は別人のハンサム野郎の身体を借りて生き返る。

 一方、ドジで冴えない同僚のバーバラは、ダイアナに憧れるあまり“ダイアナのようになりたい”と石に念じてしまう。すると人間離れしたパワーを得てしまう。そんな折、博物館に多額の寄付をした投資ファンドの経営者マックスは、この石の存在を知る。実は借金で首が回らなくなっていた彼は、あろうことか石と同化することを願い、強大な権力を持つようになる。ダイアナを妬ましく思っていたバーバラは怪人チーターに変身。マックスと共闘してダイアナの前に立ちはだかる。

 まず、ワンダーウーマンがあまり活躍していないのは不満だ。いくらスティーヴを蘇らせた代償として力が十分に発揮出来ないとはいえ、スカッとした働きを見せてくれないとヒーロー映画としては失格である。また、いつの間にかダイアナが空を飛べるようになるという筋書きは唐突に過ぎる。

 マックスもチーターも悪役としては小物感が付きまとい、終盤の扱いなど無茶なプロットが際限なく積み上がっていく。それに、予算が足りなかったのかと思うほど映像がショボい。これでは70年代の「スーパーマン」シリーズと同レベルだ。パティ・ジェンキンスの演出はパート1とは打って変わって精彩が無く、やたら上映時間を引き延ばしているだけ。

 主役のガル・ガドットは相変わらず美しく愛嬌もあるが、30歳代半ばであのコスチュームはそろそろ辛くなってきた。あと一作が限度だろう。クリス・パインにクリステン・ウィグ、ペドロ・パスカルといった脇の面子にも特筆するようなものは無し。ただし、ラストショットで“あの人”が登場したのには驚くと共に嬉しくなった。次回作ではガドットとの本格的な共演を期待したい。
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「私をくいとめて」

2021-01-04 06:33:01 | 映画の感想(わ行)
 明らかな失敗作だ。何より、このネタで上映時間が2時間13分もあるというのは、絶対に無理筋である。余計なシーンが山ほどあり、素人目で見ても30分は削れる。さらにメインプロットは陳腐だし、演出テンポは悪いし、キャスティングに至っては呆れるしかない。プロデューサーはいったい何をやっていたのかと、文句の一つも言いたくなる。

 都内の大手企業に勤める黒田みつ子は、何年も恋人がおらず、気が付けば31歳で独り暮らしだ。しかし彼女は今の生活に満足している。なぜなら、みつ子は脳内に“A”という相談役みたいな人格を作り出し、話し相手になると共に的確なアドバイスを捻りだしてくれるからだ。

 ある日、みつ子は取引先の若手営業マンである多田に恋心を抱く。しかも多田はみつ子の近所に住んでいるのだ。ところが彼女は恋愛に御無沙汰で、しかも相手は年下ときているから、なかなか一歩が踏み出せない。それでも“A”の励ましもあって、何とか前に進もうとする。綿矢りさの同名小説の、大九明子がメガホンを取っての映画化だ。

 とにかく、みつ子が悶々と悩んでいるシーンが長いのには閉口する。架空人格の“A”との会話はあるのだが、それでも芸の無い一人芝居を長時間見せられるのは辛い。みつ子に扮するのは“のん”こと能年玲奈だが、彼女の演技は一本調子でメリハリが皆無だ。

 承知の通り、能年は事務所関係のトラブルによって長い間演技の仕事が出来なかった。俳優にとって最も経験を積んでおかなければならなかった時期を、棒に振ってしまったわけだ。気が付くと同じ「あまちゃん」組でも松岡茉優や有村架純に大きく差をつけられている。特に同じ原作者で同じ監督の「勝手にふるえてろ」(2017年)での松岡の演技と比べると、その開きは明白だ。

 さらに言えば、彼女はとても役柄の30歳過ぎには見えないし、多田に扮する林遣都の方が能年より年上である。みつ子の同級の親友である皐月を演じる橋本愛に至っては、まだ20歳代前半だ。まったくもって、このいい加減な配役には呆れるばかり。

 皐月に会うためにみつ子がわざわざイタリアまで足を運ぶシークエンスや、東京タワーで先輩のノゾミが好意を寄せている男に告白するの何だのといったくだりは、明らかに不要であり無駄に上映時間を積み上げるだけ。終盤の、みつ子と多田のアヴァンチュール(?)の場面も極めて冗長だ。みつ子が飛行機恐怖症だというモチーフも、何ら有効に機能していない。

 大九監督の仕事ぶりには覇気が見られず、「勝手にふるえてろ」のような思い切った仕掛けも無い。臼田あさ美に若林拓也、前野朋哉、山田真歩、片桐はいりなどの脇の面子もパッとしない。わずかに良かったのは“A”の声を担当する中村倫也と、女芸人の吉住ぐらいだ。バックに流れる大滝詠一の「君は天然色」が空しく響く。
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「ワンダーウォール 劇場版」

2020-09-27 06:11:33 | 映画の感想(わ行)
 元ネタは2018年にNHK BSプレミアムで放映された“京都発地域ドラマ”で、未公開カットなどを追加して2020年に劇場公開されている。上映時間は68分と短いが、モチーフ自体は興味深く、面白く鑑賞出来た。とはいえ、観る側が昔の学生気質のようなものを少しは理解していないと受け付けないかもしれない。

 京都にある京宮大学の学生寄宿舎・近衛寮は、建てられてから百年以上が経過しているが、歴代の学生たちによって守り続けられてきた。寮は自治会によって運営され、時には学校当局とも対立することもある。折しも学校側は寮の老朽化による建て替えを提案してきたが、当然ながら自治会は反発する。両者の膠着状態は数年間続き、学生部長の判断により寮の解体は一応棚上げになった。しかし、突然部長は大学を辞め、後任の者は自治会との交渉過程を全て反故にして寮生に立ち退きを通告してくる。



 前半、狂言回し役の学生“キューピー”が近衛寮に入るためこの大学を受験したことが示されるが、ハッキリ言って今どきこういう寮生活にあこがれる学生というのはかなりの少数派だろう。劇中で“近衛寮は変人ばかり”と言われているが、たぶん実際の古い学生寮というのは変人しか入居したいとは思わない。

 しかしながら、近衛寮の内実を見ると雑然とした独特の魅力があることが分かる。ここにしか住めない変わり者の学生も、確実に存在する。だが、本作のテーマは古い寮の再発見みたいなノスタルジックなものではない。後半、どうして学校側が寮の建て替えを画策したのか、その理由が示される。



 早い話が、大学当局は学生のことなど考えておらず、すべては打算なのだ。背景には、教育にカネを出さない国と緊縮指向の世間の風潮がある。そういう目先の経済優先の空気が大学教育を蔑ろにしてゆく、その構図を本作は批判している。前田悠希の演出は丁寧だが、終盤に“合奏シーン”を2回も挿入するのは余計だった。1回に絞って、残った時間は別のエピソードでも入れて欲しかった。

 須藤蓮に岡山天音、三村和敬、中崎敏、若葉竜也などの若手、そして山村紅葉や二口大学、成海璃子など、キャストは万全。なお、近衛寮のモデルになっているのは京都大学の吉田寮である。学生側と大学側との対立は長期にわたっており、ついには裁判沙汰にまで発展した。穏便な解決を望みたいところだ。
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「わが青春のフロレンス」

2020-02-23 06:29:51 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Metello )70年イタリア作品。20世紀初頭のフィレンツェ(フロレンス)を舞台に、労働運動に身を投じた青年の、波乱万丈の日々を描いた社会派ドラマ。・・・・というのは表向きで、実相は苦労しながらも世の中を都合よく渡ってゆくプレイボーイ野郎の痛快一代記だ(笑)。当時はアイドル的な人気を集めていた歌手のマッシモ・ラニエリが主役で、彼の色男ぶりがとことん強調される作劇も微笑ましい。

 幼い頃に両親を亡くし、田舎に預けられて育ったメテロは17歳の時、養父母の元を離れて生まれ故郷のフィレンツェに戻ってきた。父の古い友人ベットの紹介で煉瓦工の仕事を始めるが、ベットは実はアナキストで、メテロは社会主義思想を彼から教え込まれる。メテロはやがて仕事上で知り合った未亡人のヴィオラと仲良くなる。彼は真剣に彼女と一緒になることを考え始めたものの、徴兵され3年あまり軍で過ごすことになる。



 兵役を終えてフィレンツェに帰った彼をヴィオラは迎えるが、彼女はすでにメテロの手の届かない立場に置かれていた。仕事に戻った彼の周囲では組合運動が激化し、会社側との間に衝突が繰り返されていた。事故で死んだベテラン社員の葬式に出席したメテロは、その娘エルシリアと出会い、心を奪われる。交際を経て彼女と結婚したメテロだが、やがてアパートの隣に住む人妻イディナと懇ろな中になる。

 20世紀はじめに芸術の都から工業都市へ変わりつつあるフィレンツェで、労働者として階級意識に目覚め、立ちはだかる資本家に戦いを挑む主人公の姿を“真面目に”追っていればそこそこ重量感のある歴史劇になったはずだが、どうにもメテロは下半身がだらしがない。ドラマはそんな彼の所業をネガティヴに扱うどころか、都合のいい時に都合のいい女が助けてくれるという、文字通り御都合主義の権化みたいな展開を大っぴらに提示する。

 ただし、それが全然欠点にはなっておらず、ヘタすると重苦しくなりがちな題材を、いい按配で“中和”してくれるという、怪我の功名みたいな様相を呈しており、けっこう楽しめる。マウロ・ボロニーニの演出は取り立てて上手いとは思えないが、主人公のキャラクターと丁寧な時代描写に助けられてボロを出さない。

 M・ラニエリは快演で、ヘヴィな境遇にあってもノンシャランにトラブルを回避してゆくメテロをうまく表現している。エルシリアに扮するオッタヴィア・ピッコロ、イディナ役のティナ・オーモン、ヴィオラを演じるルチア・ボゼーと女優陣はすべて美しく、この頃のイタリア女優の層の厚さを感じさせる。エンニオ・グァルニエリのカメラがとらえたフィレンツェの奥行きのある町並みは、作品に格調高さを与えている。そしてエンニオ・モリコーネによる映画音楽史上に残る名スコアが全編に渡って鳴り響き、鑑賞後の印象は決して悪いものではない。
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