元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ダウン・バイ・ロー」

2022-01-31 06:24:25 | 映画の感想(た行)

 (原題:DOWN BY LAW )86年作品。ジム・ジャームッシュ監督の第三作である。同監督は何といっても「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84年)で大ブレイクしたことを思い出す映画ファンも多いと思うが、いつまでもあのストイックなタッチを堅持するわけにはいかず、本作では早くも変化の兆しが見える。その意味では興味深いし、内容も楽しめるものになっている。

 ニューオーリンズに住む無気力なラジオのDJは、あまりのだらしなさに恋人に逃げられる始末で、人生のどん底にいた。そんな彼に馴染みのワルが上手い話を持ちかけるが、うっかりそれに乗ったDJは犯罪に巻き込まれて逮捕されてしまう。一方、夢想家のポン引きはライバルの甘言に乗って女の品定めに出かけたところ、くだんの女は未成年者で、それが元でパクられる。かくして刑務所で同室になった2人だが、そこに英語もロクにしゃべれないイタリア野郎が放り込まれて、奇妙なトリオが結成される。意気投合した3人は脱獄し、南部のジャングルの中をさまよう。

 このトリオは仲が良いが、妙に沈んで達観したような空気が流れるのが面白い。DJもポン引き、ともに理不尽な状況で逮捕されたことをあまり悔やんでいないし、塀の中だろうと外だろうと、自分たちの不自由さは変わりがないことを知っている。沼地を越えて3人がたどり着いた小屋が、刑務所の内装とそっくりであることがそれを象徴している。

 これらはまさしく「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の劇中に漂っていた沈んだ空気と共通するものであるが、主人公たちを演じているのがトム・ウェイツとジョン・ルーリーであることが前作と雰囲気を異にしている。言うまでもなくこの2人はミュージシャンで、彼らがメロウなブルースを歌う際の、その絶妙のアンサンブルが楽しく感心してしまう。

 加えて、イタリアの著名なコメディアンであるロベルト・ベニーニが割って入るのだが、そのコラボレーションの妙に、優れた喜劇映画を見るようなエンタテインメント性が垣間見える。ニューオーリンズという舞台は、黒人文化に興味を持つ同監督に相応しく、ウェイツとルーリーの起用といい、改めてこの監督の音楽のセンスの良さには唸ってしまう。

 ロビー・ミュラーのカメラによるモノクロ映像が素晴らしく、地の果てのような南部の風景が登場人物たちの漂白ぶりをうまく表現している。エレン・バーキンにニコレッタ・ブラスキ、ビリー・ニール、ロケッツ・レッドグレアなど、脇の面子も良い。
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「F エフ」

2022-01-30 06:17:56 | 映画の感想(英数)
 98年作品。金子修介監督作品としては珍しいラブコメで、観る前は若干の危惧があったが(笑)、実際に接してみると良く出来たシャシンだと思った。設定は面白く、各キャラクターは適度に“立って”おり、何よりキャスティングが秀逸だ。そこに金子監督らしい超ライトな感覚が散りばめられている。昨今は乱造気味のラブコメものだが、本作ぐらいのレベルは確保してほしいものだ。

 OLの荻野ヒカルは、中学時代からの友人である久下章吾と惰性で付き合っていた。章吾は決して悪い人間ではないが、少しも胸がときめかない。まさに彼女の恋愛スキルはFランクだ。ある日、ヒカルは謎めいた男と出会う。愛想のよくない彼に、ヒカルは勝手に“F”というあだ名を付けてしまう。数日後、ヒカルが偶然聴いていたラジオ番組に、その男がディスクジョッキーとして出演していることに驚く。



 実はその男は英国ロイヤルバレエシアターで日本人としては初めてプリンシパルになった古瀬郁矢で、ケガで帰国して療養期間のみ“F”と名乗りラジオの仕事を引き受けていたのだった。そんなことを知らないヒカルは、ペンネームで彼の番組にハガキを送る。すると“F”はヒカルに愛の告白をしてしまい、番組は大反響を巻き起こす。鷺沢萠の小説「F 落第生」の映画化だ。

 ヒロインが偶然知り合った相手が著名なバレエダンサーだったというくだりは荒唐無稽のように思えるが、金子監督の“事実をマンガっぽく描く”という得意技が炸裂し、違和感が無い。ラジオを通じてのやりとりもセンスが良く、さらにはヒカルの偽物まで出現するようになって、コメディ的興趣は増すばかり。

 郁矢に扮するのは熊川哲也で、これが映画初出演。いかにも高慢で鼻持ちならないキャラクターながら、ラジオパーソナリティとしてのパフォーマンスは舌を巻くほど上手い。また内には純情な面も覗かせ、ヒカルが惹かれるのも無理はないと思わせる。割を食ったのが章吾で、彼のようなマジメで端から見れば申し分ない男でも、ロマンティックな要素が無ければ恋を成就させることは難しいという“絶対的真実”を体現させていて圧巻(?)である。

 演出はテンポが良く、最後まで弛緩することは無い。ヒカル役の羽田美智子と章吾を演じる野村宏伸も、いかにも当時のトレンディ俳優(苦笑)らしくライトでスマートな出で立ち。村上里佳子に戸田菜穂、阿部サダヲ、高田純次さらには久本雅美と、二の線と三の線とを巧みにブレンドした配役も光る。
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「ハウス・オブ・グッチ」

2022-01-29 06:55:51 | 映画の感想(は行)
 (原題:HOUSE OF GUCCI)正直言って、この映画を観るよりも98年に放映されたNHKスペシャル「家族の肖像 激動を生きぬく(第9回) グッチ家・失われたブランド」をチェックした方が数段面白いし、タメになる。実際の出来事がドラマティックであるならば、それを題材に劇映画に仕上げる際には、事実を凌駕するようなヴォルテージの高さが必要であるはずだが、本作にはそれが無い。ドキュメンタリー作品に後れを取るのは当然のことだ。

 95年3月、イタリアの代表的ブランド“GUCCI(グッチ)”の3代目社長マウリツィオ・グッチがミラノの街角で暗殺される。その事件の裏で暗躍していたのが、マウリツィオの妻パトリツィアだった。映画は2人の出会いの時期に遡り、グッチ家の複雑な事情と揺れ動くファッション業界を描く。

 マウリッツォの父親ロドルフォは昔気質の経営者だが、その兄アルドは積極路線で海外にも事業を広げていた。しかしアルドの息子パオロは出来損ないで、家業を傾ける可能性があった。そこに付け込んだのがパトリツィアで、彼女はアルド親子を追い落として夫を社長に据えると共に、グッチ内の実権を握ろうとする。サラ・ゲイ・フォーデンのノンフィクション小説の映像化だ。

 映画はパトリツィアを強欲な悪女として描こうとしているようで、実際に彼女はロクなものではなかったのだが、困ったことに確固とした行動規範が見られない。演じるレディー・ガガが俳優としてはキャリアが浅いことも関係していると思うが、とにかく“根っからの悪女”には見えず、単に行き当たりばったりに振る舞っているだけだ。これは脚本の不備だろう。

 そして致命的なことは、映画が事実をトレースしていないことだ。パオロは決して無能ではなく、60年代末にはデザイナーとして実績を残している。ただ、暴走してグッチを傾けたことは事実だが、無能ぶりといえばマウリツィオの方が甚だしい。手を出した事業が次々と失敗するのだが、映画ではセリフでサッと語られるだけで実相には迫っていかない。これでは、パトリツィアにおだてられたという筋書きが功を奏しない。

 また、パトリツィア自身がデザインした製品が売り出されたがほとんど評価されなかったことや、パオロの次男が別ブランドを立ち上げていることにも触れられていない。そもそも、グッチは創業者が皮革製品を手掛けたことから始まっているのだが、そのあたりの言及も希薄だ。

 リドリー・スコットの演出はピリッとせず、無駄に2時間40分にまで尺を伸ばしている。最も違和感を覚えたのは、全員がイタリアなまりの英語を話していることだ。これが実にワザとらしい。ハリウッド作品であるから“普通の英語”でも構わないし、R・スコットは製作総指揮に回ってイタリア人のキャストで映画化した方が遥かに良かった。

 ガガ以外にはアダム・ドライバーにジャレッド・レト、ジェレミー・アイアンズ、サルマ・ハエック、アル・パチーノ、カミーユ・コッタンなどが顔をそろえ、随分と豪華。しかし、それぞれの良さが出ていない。映像や音楽も特筆すべきものは無い。せっかくガガが出ているのだから、主題歌ぐらい担当させても良かったのではないか。
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「GUNDA グンダ」

2022-01-28 06:33:48 | 映画の感想(英数)
 (原題:GUNDA )何とも形容しがたい映画だ。巷では絶賛している向きが多いらしい。しかしながら、個人的には何ら感慨を覚えなかった。わずか93分の尺ながら、観ている間はとても長く思える。とはいえ、作者が主張したい(らしい)ことは分かる。だが、それはこちらには伝わってこない。つまりは“立場”の違う人間が作るものは受け付けないという、シンプルな結論があるだけだ。

 舞台はとある農場。母ブタが生まれたばかりの子ブタたち(約10匹)に乳をやっている。やがて子ブタたちは少し成長し、外で散歩するようになる。好奇心旺盛で絶えず動き回る子ブタたちの世話で、母ブタは疲れ果ててしまう。それでも、面倒を見ることを忘れない。だが、ラスト近くでは思わぬ運命が彼らを待ち受ける。全編モノクロのドキュメンタリーで、ナレーションも音楽も無い。監督はビクトル・コサコフスキーなる人物だ。



 ブタ小屋内の描写など、よくもまあ撮影できたと思われるほど凝ってはいるのだが、それ自体あまり訴求力は無い。ブタ以外の、ニワトリや牛の姿の捉え方も粘り強いのだが、観ていて面白くはない。肝心の終盤の処理はドラマティックではあるのだが、よく考えれば“しょせん家畜だし”という認識で終わってしまう。

 これがもし野生生物ならば盛り上がるところだが、人間に飼われているブタでは“想定の範囲内”の結末でしかない。つまりは単なる農場のスケッチだ。そもそも、ブタ以外の描写は余計であるように思う。対象を絞って1時間程度にまとめれば、もっとタイトな仕上がりになったはずだ。

 さて、製作総指揮にホアキン・フェニックスが名を連ねていることからも、本作の狙いが透けて見える。彼は筋金入りのベジタリアンなのだ。そういうイデオロギーからの視点では、なるほどこの映画の“筋書き”も納得できるものがあろう。作者は“ヴィーガンの立場から作ってはいない”と言っているらしいが、あまり説得力は感じられない。
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「キングスマン:ファースト・エージェント」

2022-01-24 06:31:22 | 映画の感想(か行)
 (原題:THE KING'S MAN)前作(2017年)があまりにも低調であったため期待はしていなかったが、実際観てみると意外や意外の面白さだ。少なくとも、作品のアイデンティティを喪失したような最近の007シリーズよりは、スパイ映画としてのレベルはずっと高い。また歴史的事実に準拠したネタをふんだんに取り入れているため、重厚感さえ湛えている。これは必見と言えよう。

 20世紀初頭。英国の名門貴族であるオーランド・オックスフォード公は、軍隊を退役後に慈善活動を行っていた。しかし裏では、執事のショーラやポリーと組み、国際秩序を乱す者たちを制圧するというエージェントチームを結成して各種スパイ工作に励んでいた。そんな折、オーランドは盟友のキッチナー将軍から世界を転覆させようとする秘密結社“闇の狂団”の存在を知らされる。彼らの目的は、いとこ同士であるイギリス国王のジョージ5世とドイツ皇帝のヴィルヘルム2世、そしてロシア皇帝のニコライ2世を反目させて大戦争を起こすことだ。



 やがてオーランドたちの努力もむなしくサラエボ事件が勃発し、第一次世界大戦が始まってしまう。息子のコンラッドも含めたオーランドのグループは、戦争を早期に終わらせるために“闇の狂団”に対して戦いを挑む。国家権力から独立した諜報機関“キングスマン”の誕生秘話だ。

 とにかく、歴史上の人物が次々と登場するのが嬉しい。英国王たちやアメリカのウィルソン大統領はもちろん、この“闇の狂団”のメンバーというのが怪僧ラスプーチンにマタ・ハリ、レーニン、エリック・ヤン・ハヌッセンといった濃い面々で、それぞれが史実に近い行動様式を示す。それらのヒストリカルな事実と並行して、フィクションであるオーランドたちのミッションが展開するという段取りには拍手を送りたくなった。“闇の狂団”の首魁の正体は途中で分かってしまうが、それが瑕疵にならないほど作劇に力がある。

 マシュー・ヴォーンの演出は、前作とは比べものにならないほど筋肉質だ。また、オーランドチームが収集する情報が世界中のVIPの執事からのものであったり、コンラッドが従軍するくだりが「西部戦線異状なし」(1930年)を想起させるなどのネタも巧みだ。主演のレイフ・ファインズは絶好調で、王道のスパイ・アクションを披露している。

 ハリス・ディキンソンにジェマ・アータートン、ジャイモン・フンスー、チャールズ・ダンスといった顔ぶれは万全。ラスプーチン役のリス・エヴァンスの大暴れには笑ったし、トム・ホランダーが3人の王をすべて演じているというのも興味深い。ラストは続編の製作を匂わせるが、このまま舞台設定が現代に戻らずに、シリーズが歴史スパイ活劇路線に移行するのも良いのではないだろうか。
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「明け方の若者たち」

2022-01-23 06:17:51 | 映画の感想(あ行)
 正直な話、映画としてはあまり上等ではない。筋書きはもちろん、登場人物たちの言動がどこか不自然だ。演出のリズムも万全とは言えない。しかしながら、嫌いにはなれないシャシンである。それは、今からはるか昔(笑)、私が本作の主人公たちと同じ年齢だった頃を思い出して、しみじみとした感慨を覚えたからだ。映画のクォリティは、必ずしも観る者の感銘度に強くリンクしているものではないことを痛感した。

 そこそこ有名な印刷会社への就職が決まった男子大学生の主人公は、明大前で開かれた退屈な飲み会に参加した際に、魅力的な女子と知り合い恋に落ちる。やがて彼は幾ばくかの期待を胸に入社してみたが、配属されたのは営業や商品開発の第一線ではなく総務部だった。一方で同期の者は次々と大きな仕事を任されている。



 彼は愉快ならざる気分になるが、それでも彼女との仲は続いていた。だが、ある時を境に彼女からは連絡が来なくなる。実は、彼女には重大な“秘密”があり、彼はそれを承知で交際していたのだが、今になってそのツケが一気に回ってきたのだった。カツセマサヒコによる長編小説の映画化だ。

 私が主人公と同じ年だった頃には、映画で描かれたような超危なっかしい色恋沙汰にウツツを抜かしたことは無い(というか、大半の者はそうだろう ^^;)。しかし、彼が抱く現状と将来に対する焦燥感は、よく理解できるのだ。特に、仕事の段取りが前近代的に見える部署で勤務しなければならなくなった屈託は、身につまされる。

 言っておくが、かつての私はこの主人公みたいに社会人としての夢や希望を抱いて就職したわけではなかった。景気が良かった頃だったし、ある程度安定していて名の知れた事業体に職を得れば、まあ何とかなるだろうというノリで過ごしていた。しかし、そんな脳天気な私でもこの主人公の心情はよく分かる。特に、不安に押しつぶされそうになりながらも、仲間との語らいに安らぎを覚える場面は、若者特有の楽天性と“この時しかない”という甘酸っぱさが横溢している。

 さて、彼女の“秘密”を含めてストーリーには無理がある。また、余計なエピソードも目立つ。監督の松本花奈はかなりの若手だが(98年生まれ)、ドラマ運びはスムーズとは言えない。それに経験が少ないのかもしれないが、ラブシーンはかなり下手だ。バスローブを着たままのベッドシーンなんか、みっともなくて見ていられない。ただし、キャラクターの造形には非凡なところもあるので、今後の精進を望みたいところだ。

 主演の北村匠海と黒島結菜は好調。井上祐貴や山中崇、濱田マリなどの他の面子も良い。ただし、佐津川愛美はロクに顔も映してもらえずに残念だった。
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「薔薇の名前」

2022-01-22 06:25:33 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE NAME OF THE ROSE)86年作品。公開当時はかなりの評判だったらしく、実際観ても面白い。歴史物としての佇まいと、本格ミステリーのテイストが絶妙にマッチし、独特の魅力をたたえている。また、原作者のウンベルト・エーコは記号論の大家でもあり、そのあたりを考慮して作品に対峙するのも面白いだろう。

 14世紀の北イタリア。イギリスの修道士ウィリアムとその弟子のアドソは、会議に参加するため山奥の修道院にやって来る。そこで彼らは、若い修道士が不審な死を遂げたことを知らされる。被害者は文書館で挿絵師として働いていたらしい。会議どころではなくなったウィリアムたちは事件の真相を探ろうとするが、何者かが彼らを妨害。やがて、さらなる殺人事件が起こる。老修道士は“これは黙示録の成就である!”と唱え、院内に動揺が走る。



 私は記号論に関してはまったくの門外漢だが(笑)、無理矢理に“それらしき解釈”をしてみると、本作の構図は各モチーフが見事に“記号化”していると言える。まず、主人公たち以外はマトモな人間が存在しない修道院内は、個人から隔絶された“世界”である。この“世界”というのは、映画の中の作品世界であると同時に、我々を取り巻く環境の暗喩だ。本当の“世界”は城壁に囲まれた修道院の外側にあり、ウィリアムたちはそこから遣わされた“超人”のような存在だろう。

 終盤に明かされる事件の真相は、まさしく“世界”の維持手段そのものが目的化してしまい、身動きが取れないリアルな状況を表現している。まあ、こう考えると一見複雑な本作の構成が、実は明確であることが分かる。加えて、ウィリアムとアドソの関係はシャーロック・ホームズとワトソンのそれと同等で、しかもウィリアムの出身地がバスカヴィルという設定には、主人公たちのヒーロー性がより強調される。

 ジャン=ジャック・アノーの演出は凝った舞台設定に足を引っ張られることなく、娯楽映画としてのルーティンを堅持している点が評価できる。主演のショーン・コネリーは“アクション抜きのジェームズ・ボンド”といった出で立ちで、存在感が屹立している。アドソ役のクリスチャン・スレーターも繊細な演技だ。

 他にF・マーリー・エイブラハムやロン・パールマン、フェオドール・シャリアピン・ジュニア、ヴォルカー・プレクテルといったクセの強い役者が顔を揃えているのは圧巻だ。そして何といっても、豪華なセットと“迷宮”のデザインの素晴らしさはこの映画のハイライトであろう。観る価値は十分にある。
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「ニンゲン合格」

2022-01-21 06:25:33 | 映画の感想(な行)
 99年作品。黒沢清監督作としては、いわゆる“ワケの分からない作風”が横溢していた時期のシャシンだ。当時観たときは面食らったものだが、今から考えると、これはひょっとしたら奥が深い映画ではないかと思ったりする。それは本作が撮られた時期が大いに関係しており、映画は時代を映す鏡だという定説を、改めて認識できる。

 14歳の時に交通事故に遭って昏睡状態が続いていた吉井豊は、10年ぶりに目を覚ます。ところが彼の目の前にいたのは家族ではなく、藤森という見知らぬ中年男だった。どうやら藤森は豊の父の友人らしく、バラバラになった豊の家族に代わって彼を見守ってきたのだ。藤森と一緒に元の家に帰った豊だが、10年間のブランクを埋めるため手始めにかつての友人たちと会う。しかし当然のことながら話がかみ合わず、気まずい思いをするばかりだった。



 そんなある日、一頭の馬が豊の家に迷い込んでくる。実は吉井家は昔ポニー牧場を経営していたのだ。その馬を引き取った豊は、牧場を再開すれば家族が戻るはずだと思い込む。そして妹の千鶴や母の幸子と再会するのだが、家族が元に戻ることはなかった。そんな中、父親の乗った船が沈没したというニュースを豊は知ることになる。

 製作された99年は、バブルの崩壊が完全に露わになり日本は本格的に低迷期に入る時分だ。その中で主人公は10年前の好景気の頃に意識を失い、目覚めれば世界は(悪い方向に)変わり果てていた。不景気のため、皆自分のことだけで精一杯。人間関係は希薄になり、長い間眠っていた豊のことなど、家族は今更顧みることも無い。それどころか、吉井家よりも酷い境遇に陥っていた件の交通事故の加害者である室田は、ヤケを起こして豊たちに八つ当たりする始末だ。

 脚本も担当した黒沢の演出は起伏が無く、いきなり馬が現れるなどの不自然なモチーフも目立つ。しかしながら、これは10年間眠っていた主人公がまだ現実を認識することができない朦朧とした状態を象徴していると考えれば、まあ納得する。またそれによって、豊を取り巻く者たちの退廃ぶりがリアルに映し出されているとも言える。

 豊に扮しているのは当時若手だった西島秀俊で、かなり繊細な演技をしており好印象だ。黒沢監督とよくコンビを組む役所広司も、さすがのトリックスターぶりを披露している。菅田俊やりりィ、麻生久美子、哀川翔、大杉漣、洞口依子、諏訪太朗といった脇の面子もなかなか濃い。
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「ラストナイト・イン・ソーホー」

2022-01-17 06:26:27 | 映画の感想(ら行)

 (原題:LAST NIGHT IN SOHO)スタイリッシュな怪異譚で、とても楽しめた。終盤の処理などには不満がないでもないが、最後まで観客を惹き付ける演出の力と、魅惑的なエクステリアが大いに場を盛り上げる。さらには、絵になるような面子を集めたキャスティングも効果的だ。

 60年代ファッションが大好きで、デザイナー志望のエロイーズはデザイン専門学校に入学するため田舎からロンドンに出てくる。だが、意地悪な同級生が多い寮生活になじめない彼女は、ソーホー地区にある古いアパートで一人暮らしを始める。新居で眠りに着くと、夢の中では彼女は60年代のソーホーにいて、歌手を夢見るサンディと身体も感覚もシンクロしてしまう。

 そういう夢を毎晩見るようになったエロイーズは所謂“見える子ちゃん”で、実家ではすでに世を去った母の亡霊と生活を共にしていた。そんな彼女にとってサンディの存在は実生活にもインスピレーションを与え、学校の実習でも好成績をあげ始める。ところがある日、夢の中でサンディが殺されるところを目撃してしまう。さらに現実でも、悪霊らしきものがエロイーズの周囲をうろつくようになり、次第に彼女は追い込まれてゆく。

 とにかく、エロイーズの夢の描写が出色だ。彼女は鏡の中やナイトクラブでのダンスシーンなどでサンディと入れ替わるのだが、そのタイミングとカメラワークには細心の配慮が成されており、文字通り夢幻的な世界に観る者を呼び込む。加えて時代を感じさせる美術や大道具・小道具がの配置が巧みで、必ずしも時代考証は正確ではないが、まさに“あり得たかもしれない別世界の60年代”を再現することに成功している。

 また、単にノスタルジック風味のホラー編に留まらず、女性が理不尽に虐げられていた60年代の残滓が今でも存在しているというジェンダー関連のネタが、無理なく織り込まれていることにも感心する。ラスト近くで明かされる“事件の真相”はけっこう無理筋で、こんなことが実際に起こっていて発覚しないわけがないのだが、そこは勢いで乗り切ってしまう。

 監督のエドガー・ライトは達者なストーリーテラーぶりを発揮。思わせぶりなネタを振りまきながら、実は別方向に物語を持って行くという、そのメリハリを付けた作劇はまさに職人技。そしてトーマシン・マッケンジーとアニャ・テイラー=ジョイのダブル・ヒロインが最高だ。「ジョジョ・ラビット」でも才能の片鱗を見せていたマッケンジーは、ここでは内面の動きにより外観が大胆に変化する卓越したパフォーマンスを見せる。元よりかなり可愛いし、ブレイク必至の逸材だ。

 テイラー=ジョイは初めて見る女優ながら、実にヤバそうなオーラをまとい、観る者を挑発する。テレンス・スタンプにダイアナ・リグ(この映画が遺作)、リタ・トゥシンハムといったベテランから、マイケル・アジャオにシノヴェ・カールセンらの若手まで、皆よく機能している。60年代サウンドを中心とした音楽も要チェックだ。
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オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

2022-01-16 06:16:56 | 読書感想文

 1930年に刊行された、スペインの哲学者による啓蒙書だが、驚くべきことに内容は現代でも十分通用する。それどころか、作者が危機感を抱いた社会的状況は、現在の方がより深刻化していると言える。まさに、今読むべき書物である。

 作者は、当時ヨーロッパ中に蔓延っていた“大衆”なるものを徹底的に批判する。彼の言う“大衆”とは、単なる民衆のことでもなければ国民のことでもない。いわば“大衆”とは、それ自体が何がしかの“権利”を当初から持っているものと錯覚し、その“権利”の真の価値や成立の過程などに無頓着な者たちのことだ。

 困ったことにそれらは“権利”ばかりを振りかざし、社会の中心へと躍り出て支配権を振るうようになってしまった。身も蓋もない“今だけ、金だけ、自分だけ”という本音を垂れ流し、自身が所属する共同体への帰属意識を限りなく希薄にさせる。さらには自分たちの価値観が“すべての人間に当てはまる”と過信し、“大衆”とは与しない少数派を冷遇する。

 1930年代のヨーロッパは、ナチスの台頭をはじめとする全体主義の萌芽が見え始めた時期だ。作者の地元スペインでも軍事独裁政権が続いていた。社会的リファレンスを持たない“大衆”は、ファシストの提唱する極論に何の疑問も持たずに共鳴し、暴走を始める。自分たちがやるべきことを忘れ、ひたすら“大衆”から外れた者たちを指弾して悦に入る。

 この憂うべき状況に対し、作者は何とか共同体を立て直すべくヨーロッパ連盟のような構想を示している。言うまでもなく、現在の欧州連合の思想の先取りだ。今のEUがすべて上手くいっているとは思わないし、この本が書かれた頃には多分に理想主義的(≒夢想的)とも言える主張だが、その志の高さは読む者を納得させるものがある。

 さて、現在の日本ではこの“大衆”が増殖し、手の付けられない状態になっている。知性も感情も衰え、自分たちの置かれた立場を深く考えもしない。オルテガが強調した、他者を尊重し権利を守ることの重要性に気付きもせず、くだらないルサンチマンにとらわれて社会の発展を阻害している。出口の見えない不況がそうさせたのか、あるいは元々そんな気質を持っていたところネットという媒体がそれを増幅させたのか分からないが、この“大衆の反逆”を押さえ込む方法論を見出さない限り、将来への展望は開けないのではないか。
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