元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ダンガル きっと、つよくなる」

2018-04-30 06:27:03 | 映画の感想(た行)

 (原題:DANGAL)正統派のスポ根映画。あまりにストレートで捻りがほとんど無いのは欠点にも思われるが、これがインド映画というフィルターを通すと、違和感を覚えずに楽しめる。しかも、彼の地における社会的因習に対するプロテストも適度に取り入れられ、鑑賞後の満足度は高い。インド映画史上、興収1位になったのも頷ける出来映えだ。

 マハヴィルはレスリングの国内チャンピオン。80年代末に現役を引退した彼は、今度は世界王者になる夢を自分の子供に託そうとする。ところが、生まれてきたのは4人とも女の子ばかり。落ち込むマハヴィルだったが、ケンカで男の子をボコボコにした長女と次女を見て、娘たちを女子レスリングの選手として国際大会に出場させることを思い付く。

 指導方法は徹底したスパルタ式で、娘たちは幾度となく反発や“逃走”を試みるが、そのたびに父親に押し切られる。月日は経ち、長女のギータと次女のバビータは遠方にある体育大学に進むが、現代的な指導をおこなう大学側と、昔ながらの父親の教えとの間で彼女たちは揺れ動く。やがてギータはいくつかの国際大会に出るが、結果が出ない。見かねたマハヴィルは一計を案じて勝手に試合会場のバックヤードに乗り込み、娘を指導する。実話の映画化だ。

 前半は少女たちの成長物語のスタイルを取るが、見逃せないのは今も残る彼の地の封建的な空気がクローズアップされていることだ。女の子はスポーツどころか学校にもロクに行かせてもらえず、ちょっと大きくなると直ちに縁談が周囲からセッティングされ、一回も会ったことが無い男の元に嫁がねばならない。本作の上映後も関係者は宗教団体から“リベラルに過ぎる”と批判を受けたらしい。しかし、ドラマツルギーとしては“障害が多いほど盛り上がる”というのは自明の理であり、本作も序盤から終盤までヴォルテージは右肩上がりである。

 レスリングの場面は素晴らしい。カメラが選手に寄っているので、プレーヤーの俊敏な動きや技の掛け合いが鮮明に映し出され、観ていて引き込まれる。選手を演じる役者たちの身体能力はあきれるほど高く、特にギータに扮するファーティマー・サナー・シャイクは美しさと力強さを兼ね備えた逸材で、出てくるだけでワクワクした。

 マハヴィル役のアーミル・カーンはさすがの貫禄。今回は役作りのために27キロ太って撮影後に27キロ戻すという、かつてのロバート・デ・ニーロを思わせる離れ業もやってのけ、それだけに画面全体から気合いが感じられるようだ。ニテーシュ・ティワーリーの演出もソツがない。

 それにしても、映画のクライマックスがオリンピックでもアジア大会でもなく、コモンウェルスゲームズと呼ばれる英連邦競技大会だというのは興味深い(恥ずかしながら、この大会の存在を今回初めて知った)。4年に1回開かれるらしく、イギリス連邦に属する国の住民にとっては特別な意味があるのだろう。
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「僕らはみんな生きている」

2018-04-29 06:10:56 | 映画の感想(は行)
 93年松竹作品。公開当時のこの映画の新聞広告が面白かった。第一面の“××新聞”のタイトルの下に大きく“僕”という字が印刷され、中段にいきなり“らは”のこれも大文字、そして下段に“みんな生きている”とあって、映画の内容うんぬんの説明がある、という風変わりなもので、これは映画会社の意気込みなのか、売りにくい題材をなんとかしようとする苦肉の策なのかよくわからないが、目立ったことは確かである(まあ、それはさておき・・・・)。

 大規模な市街戦のシーン。「ディア・ハンター」とロケ地が同じだというジャングルの場面。生々しい描写に、これはひょっとして「アンダー・ファイア」とか「サルバドル/遥かなる日々」みたいな、ハリウッド製発展途上国内乱巻き込まれ映画(なんじゃそりゃ?)のパターンかと一瞬思わせるが、まぎれもない日本映画である。

 しかもよくある“ちょっと気分を変えて海外ロケしたんだけど、中身は旧態依然の日本製田舎芝居”(意味不明)のたぐいとも完全に違う。この舞台、このスタッフ、この配役でしか表現できない、屹立したオリジナリティを獲得している作品でもある。



 東南アジアの架空の国、タルキスタンに出張を命じられた大手ゼネコンの営業マン。ところが商談がまとまりかけた時、突如クーデターが勃発。砲声や機関銃の音が鳴り響く内戦状態になった市街地から何とか逃げ出した4人の日本のサラリーマンは、飛行場目指してジャングルを突破するハメになる。

 まず、スーツ姿にアタッシェケースを提げたまま、ジャングルをさ迷うという設定がいい。そして主人公たちを、ジャーナリストとか政治関係のエージェントにするような、ありがちな設定ではなく、フツーのサラリーマンにした点が新鮮だ。

 一見、ポリシーもアイデンティティもなく、商売のためなら世界のどこへでも行くエコノミックアニマル(死語)。銃弾飛び交う街を“我々は日本のサラリーマンです”と叫び、名刺をばらまきながらヘコヘコと歩き、逃亡用のジープを札束で張り倒して強引に買い取り、極限状態の中でもライバル企業同士の意地の張り合いを続ける主人公たち(ジャングルの中で領収書を切る場面には笑った)。

 ラジオから流れるさだまさしの“関白宣言”にしんみりとなり、海外勤務が延びたことでノイローゼになる。地元のことなど知っちゃいない。単に外国で仕事をしているだけで、近ごろハヤリの“国際人”とはほど遠い存在である。ところが作者はそんな彼らを糾弾しようとはしない。ナマの日本人像として、愛すべき存在として肯定している。ファミコンの残骸から無線傍受装置を作り、捕らえられた仲間を救うべく、ゲリラの前で“商売”をするくだりは、この映画のクライマックスだ。

 “メイド・イン・ジャパンだぞっ。故障なんかするわけないだろ”“オレたちはなぁ、オマエらがコレラ菌のウヨウヨしている川で遊んでいる時、半導体に埋もれていたんだぞ”“オレの親父は大企業に勤務していた。毎年、年賀状は数百枚もらってたんだ。それがどうだ。退職したらたったの数枚に減ったんだぞ。この虚しさがオマエらにわかってたまるか!”次々にタンカを切る彼らの姿に、笑いながらも感動してしまう。

 ネガティヴに描こうとすれば簡単だったろう。でも、底の浅い作品となる恐れも多分にある。そこを“日本人でどこが悪い!”という無謀とも言える(いい意味での)開き直りで押し切った作者の力量に感心すると共に、日本人であることの本質の一端を見せられた思いである。

 監督は滝田洋二郎。ピンク映画から一般映画に転身してからの、「コミック雑誌なんかいらない!」(86年)「おくりびと」(2008年)と並ぶ彼の代表作だ。自称“ヤンエグくん”の真田広之、妻子に見捨てられても懸命に仕事に打ち込む山崎努、ライバル企業の御曹司で口がうまく商売上手の岸部一徳、その部下で時々意味をとり違える通訳の嶋田久作、それぞれ味のある好演が物語を盛り上げる。会話の面白さは、滝田監督作品ではおなじみの一色伸幸の脚本の功績である。ヘレン・メリルによる「手のひらを太陽に」の主題歌もいい。
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「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」

2018-04-28 06:15:18 | 映画の感想(あ行)

 (原題:DARKEST HOUR)楽しめた。第一の勝因は、時間にしてチャーチルが首相に選出されてから1か月ほど、および案件をダンケルクにおける撤退作戦に絞ったことだ。これがもし長きにわたってチャーチルの政治活動を追うような展開にしたら、毀誉褒貶相半ばする人物だけに、まとまりのない出来になったはずである。

 第二の勝因は、身近にいた新人秘書の目を通して描いているパートが多いこと。これによって、主人公の私生活や個人的なポリシーなど、公にはならないエピソードを丹念に掬い上げることに成功した。

 1940年5月。ナチスドイツによる侵攻でフランスが陥落寸前になり、連合軍は北フランスの港町ダンケルクの浜辺に追い詰められていた。就任したばかりの英国首相ウィンストン・チャーチルは、ヒトラーとの和平交渉に応じるか、あるいは徹底抗戦に踏み切るか、決断を迫られることになる。前任者のチェンバレンと閣僚のハリファックス子爵はドイツとの交渉を主張し、チャーチルも一時はそれに同意しかけるが、世論の趨勢は別であった。チャーチルと軍当局、そして英国王ジョージ6世の思惑も加わり、事態は逼迫する。

 とにかく、チャーチルを演じるゲイリー・オールドマンのパフォーマンスが最高だ。辻一弘らによる超ハイ・クォリティな特殊メイクによりでっぷりと太ったチャーチルに変貌した外観もさることながら、頑固で傲慢な性格だが実は家族思いの人間味あふれる人物であることを見事に表現している。これは前述の通り新人秘書のエリザベスとの関係の中で示されることで、いかつい政治ドラマで押し切ってしまえば挿入するのが難しかったテイストであることは言うまでもない。ここは脚本の巧みさが光る。

 敵は目前に迫り、自軍はダンケルクに足止めされている。しかしここで“引いて”しまえば横暴なヒトラーを調子付かせるだけだ。いくら平和が尊いものであっても、すでに戦いの火蓋は切って落とされている。チャーチルが地下鉄で国民の声を聞くシークエンスは史実では無いだろうが、戦時内閣における腹の探り合いをやっている間に、国民は危機感を肌で感じていたというプロットは上手い。

 監督のジョー・ライトは映像派の面目躍如で、薄暗い中で異様なエネルギーが横溢する議会の場面や、ソフトなタッチで仕上げた王宮のシーン、市井の人々を捉えた即物的な映像処理など、手を変え品を変え構図を組み立ててくる。エリザベスに扮するリリー・ジェームズをはじめ、クリスティン・スコット・トーマス、ベン・メンデルソーン、スティーブン・ディレインといった脇の仕事ぶりも手堅い。ブリュノ・デルボネルのカメラによる陰影の深い画面や、ダリオ・マリアネッリの音楽も印象深い。

 今、英国は(EUとの確執などで)原題通りの“暗い時間”に直面するのかもしれないが、本作はその状況を反映しているといっても過言ではないだろう。見応えのある映画だ。
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「君は裸足の神を見たか」

2018-04-27 06:37:10 | 映画の感想(か行)
 86年ATG作品。横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)で今村昌平に師事した金秀吉の監督第一作。かなり真面目で正攻法な作りであり、公開当時は高く評価された。しかしながら、ウェルメイドに徹してはいるものの作者の才気というものは殊更感じられない。金監督は今では一線を退いているのも、それと無関係ではないだろう。

 東北の小さな町。高校3年生の茂と真二は幼い頃からいつも一緒だった。茂は絵を描くことが好きで、密かに美大に進学したいと考えていた。真二には父はおらず、家業の自転車屋の手伝いや新聞配達などで母親のハツ子を助けしていたが、実は詩作が趣味で、たびたび新聞にも投稿していた。

 ある日、茂は真二から中学時代に同級生だった瞳が好きだったと打ち明けられる。そこで茂は瞳を呼び出して真二と仲良くするように頼み込むが、本当は瞳が好きなのは茂の方だった。取りあえず真二と付き合いだす瞳だったが、やがて茂と懇ろな関係になる。そのことは真二の知るところになり、茂との友情は終わりを告げる。



 設定だけならばラブコメにもよくあるパターンだが、これが過疎の地方都市と経済的に恵まれない登場人物たち、そして垢抜けない風貌の主要キャストといった御膳立てになると、話は重苦しいリアリズム方面に振られるしかない。

 金秀吉の演出は堅実で、一本気な少年期のこだわりが悲劇につながる過程を真っ直ぐに描く。しかし、映画として面白いかと問われれば、そうではないと答えざるを得ない。とにかくドラマツルギーが直線的で、余裕がないのだ。

 これがたとえば、茂の描く絵が何かのメタファーになっているとか、絵のモデルになる女子生徒を加えての四角関係に発展するとか、あるいは主人公たちの親に何かとてもイレギュラーなことが降りかかるとか、そういう興趣を喚起しそうな仕掛けは一切ない。この剛直なスタンスは役者の動かし方やカメラワークにも共通しており、教科書的で手堅いのだが観ていてあまり楽しくない。

 主演の石橋保と児玉玄、洞口依子は好演。深水三章や萩尾みどりなどの脇を固めるベテランも悪くない。だが、演出側の頑なな姿勢は、それらをスポイルしているように思う。ただ興味深かったのが、真二たちの同級生に扮する出川哲朗。今の彼からは信じられないほどの抑えた演技だ。そういえば出川も金監督と同じ映画学校の出身。基本は出来ているのだから、再び映画の仕事をオファーしても面白いかもしれない。
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「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」

2018-04-23 06:23:52 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE POST)スピルバーグの映画にしてはかなり硬派で、かつ見応えがある。彼がこういうハードなタッチを打ち出したのは、2005年製作の「ミュンヘン」以来だと思われる。聞けばトランプ大統領就任の45日後にスピルバーグ自身から製作が発表され、比較的短期間で撮られたらしいが、それだけ作者としては切迫した製作動機があったということだろう。

 71年、長らく続いていたベトナム戦争は終わる気配がなく、アメリカ国民の間には厭戦気分が漂っていた。同年6月、米国防総省がベトナム戦争に関する経過や分析を記録した機密文書、通称“ペンタゴン・ペーパーズ”の存在をニューヨークタイムスがスクープする。だが、政府は圧力をかけ、同紙による続報は差し止められてしまう。

 一方、ワシントン・ポストの社主キャサリン・グラハムはアメリカ初の女性新聞発行人として知られていたが、取引銀行と出資者はいい顔をしなかった。そんな中、ポスト紙のスタッフの中に“ペンタゴン・ペーパーズ”をマスコミにリークした者の知り合いがいて、同紙はこの文書の全貌を掴むことに成功する。キャサリンは編集主幹のベン・ブラッドリーらと共に、真実を明らかにすべく奔走するが、政府からのプレッシャーはますます強くなり、ついには国家機密文書の情報漏洩の嫌疑で告発されそうになる。

 ヤヌス・カミンスキーのカメラによる寒色系の画面の中で、先の全く見えない戦いに身を投じる記者たちの立ち振る舞いは、実にハードボイルドだ。ラスト近くを除けば、希望的観測を匂わせる素振りは微塵もない。

 だが、観客は、ワシントン・ポスト紙がこのピンチを切り抜け、さらにこの後に起こったウォーターゲート事件では“主役”の一角を担ったことを知っている。映画はそんな既存の筋書きにさらなる興趣を付与するべく、社主のキャサリンの奮闘も強調される。本来は今は亡き夫が担っていた仕事であり、女性であることで世間から“軽く”見られていた。そこを持ち前のソフトな社交術で周囲の追及を巧みにかわしつつ、最後に重大な決断を下すという、天晴な“女のドラマ”を展開させているのだ。

 演じるメリル・ストリープは本作で21回目のアカデミー賞候補になったが、数多い彼女のフィルモグラフィの中でも屈指のパフォーマンスだと思う。ベンに扮するトム・ハンクスを除けば、サラ・ポールソンやボブ・オデンカーク、トレイシー・レッツといった派手さはないが渋い演技派をズラリと並べているのもポイントが高い。

 さて、最近観た「ザ・シークレットマン」も含め、彼の国では政治を扱う実録ドラマが作られ、かつそれが評価を得ているという状況に比べ、日本の映画界は随分と見劣りがする。別に“時事ネタを取り上げないのはダメだ”と言うつもりはないが、勝手な“忖度”やら“思い込み”やらで、テーマの多様性を自ら狭めてしまっては、ジリ貧になるばかりだ。
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「ミフネ」

2018-04-22 06:25:23 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Mifunes Sidste Sang )98年デンマーク作品。別にどうということもない映画だ。しかし、それが別に悪いということでもない。平板な映画には時として“これ見よがしの展開が無いから安心できる”といった楽しみ方もあるのだと思う。

 コペンハーゲンに住む、向上心の強い男クレステンは、努力の末に勤務先の社長令嬢クレアとの結婚に漕ぎ着ける。だが直後に、絶縁していた父親が急逝したという知らせを受けた。とりあえず新妻を残して田舎の農村に帰郷した彼は、知的障害を抱えた兄ルードと再会した。兄弟は子供の頃、よく黒澤明の「七人の侍」の三船敏郎の真似をして遊んでいたが、今ではクレステンにとって、それはどうでもいいことに過ぎない。

 クレステンは兄を預ける施設を探すまでメイドのリーバを雇う。傍目には堅気に映るリーバだが、実は高級娼婦で、ストーカーに悩まされていたために都会から逃げてきたのだ。兄弟は間もなく彼女と仲良くなるが、そこに彼女の弟である不良少年のビアーケが転がり込んてくる。こうして成り行きで4人は疑似家族みたいな関係になるが、コペンハーゲンで一人留守番を強いられていたクレアが怒って押しかけてくる。

 本作は、ロケーション撮影オンリーで映像効果も配するという“ドグマ95”のストイックな様式を踏襲している。ならばスノッブで取っ付きにくい映画なのかというと、それは違う。ここでは“ドグマ95”の手法は、より自然なタッチで物語を綴る手段として機能しており、メソッド自体が表に出て来ることはない。それはまた日常生活を大きく逸脱する事物が出てこないという、手堅さにも通じている。

 ソーレン・クラウ・ヤコブセンの演出は外連味は皆無だが、その分登場人物たちが心を通わせていく過程を地道に追っていて好感が持てる。特筆すべきは映像の美しさで(撮影:アンソニー・ダット・マンテル)、夜がほとんどない北欧の夏の描写には目覚ましいものがある。クレステン役のアナス・ベアデルセンをはじめイーベン・ヤイレ、イエスバー・アスホルトといった顔触れには馴染みがないが、皆いい演技をしている。

 また、ルードに扮したアスホルトの“三船敏郎の真似”はなかなか達者だ(笑)。いずれにしろ、邦画の代表作が(真面目に)ネタとして使われているのは嬉しい。
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「第15回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2018-04-21 06:32:11 | プア・オーディオへの招待
 今回強く印象付けられるのは、大半のブースで使用されていた音源がネットワークプレーヤー等に格納されたデジタル音楽信号あるいはアナログレコードであったという点だ。つまり、CDは完全に“蚊帳の外”に置かれてしまったのである。

 確かに、時代の流れで簡便性に富んだダウンロード等の音源と、趣味性に振られたアナログレコードとの二極化は当然かもしれない。しかしながら、ショップに並んでいるのはまだまだCDが大半だ。おそらくCDは最後のパッケージ・メディアになると思われるが、それだけにもう少し大事にされても良いのではないかと思った次第だ(笑)。



 また、巷間言われている通り、アナログレコードは復権が目覚ましい。もちろんプレス数はCD登場前の水準には遠く及ばないが、右肩上がりで出荷数を伸ばしている。それ自体は喜ばしいことなのだが、レコードには“大きな保管スペースを必要とする”という特徴があり、ブームに乗って新たにレコードのリスナーになった者は早晩この課題に直面することになる。まあ、数十枚程度ならば大した問題にはならないが、これが100枚を超えてくると、持て余す向きも少なくないだろう。

 かくいう私も、昔はレコードの保管場所に困って相当数を処分したものだ。その中には今では聴けない音源も含まれていて、惜しいことをしたと思っている。いずれにしても、オーディオや音楽鑑賞という“趣味”も、結局は居住環境に左右されるというのは何とも悩ましい。

 フェア会場ではけっこうな数の機器を試聴出来たのだが、それらのインプレッションを逐一書いていくとキリがないので、対象をスピーカーに絞っていくつか言及したい。米MAGICO社のA3は、定価は130万円ながら超高額商品ばかりの同社のラインナップの中にあっては、驚くほどリーズナブルなプライスである。音もこのブランドらしい明るさと機能美(?)をしっかりと踏襲しており、このクラスを買えるユーザーならば有力候補になり得るだろう。

 仏FOCAL社のKANTA N2は120万円と決して安くはない値付けだが、世界的なヒット商品らしい。サウンドはFOCAL特有の濃厚なホワイトソースみたいな色気を伴ってはいるが、全域のバランスが取れていて聴きやすい展開だ。そして何より豊富なカラーリングは見ていて楽しいものがある。



 伊Franco Serblin社のフロア型スピーカーLIGNEAは、奇矯なデザインながらこのメーカーらしい仕上げの良さと、明るく輝かしい音色が堪能出来る優れものである。値段はこのブランドにしては安い74万円で、私も金回りがもう少し良ければ衝動買いしそうになるほどだ(苦笑)。同じく“衝動買い対象製品”になりそうだったのがスイスのPIEGA社のPremium 701(定価は78万円)。同社の清涼な音は以前から好きだが、これは適度な温度感もあり、幅広い層にアピール出来る。

 国産ではKiso AcousticのHB-G1が印象深かった。同ブランドが発足してからその上質な音には感心していたが、この製品は響きの良さに磨きがかかり、音色・音場ともに的確で得がたいサウンド空間を演出できる。相当に高額だが、存在価値は大いにある。ECLIPSEは以前は富士通の資本による製品展開が成されていたが、最近デンソーがそれに取って代わり、株式会社デンソーテンのモデルとして市場に流通している。聴いたのは中堅機種のTD510ZMK2だが、相変わらず押しつけがましさの無いアキュレートな音出しには好感が持てる。また、この卵形のフォルムは大いに“インスタ映え”することだろう(笑)。

 会場には例年よりも年若い入場者が散見されたが、まだまだ平均年齢は高い。アナログレコードの試聴イベントでは“レコードの魅力が若年層にも認知されつつある”というコメントがあったが、ならばなおのこと、若者にアピールするような仕掛けが必要だろう。毎回若い衆を動員しているポータブル・オーディオ・フェスティバル(ポタフェス)とは一味違う、ピュア・オーディオの提供元としての若い層に対する提案が望まれるところだ。

(この項おわり)
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「第15回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2018-04-20 06:26:16 | プア・オーディオへの招待
 去る4月13日から15日にかけて、福岡市博多区石城にある福岡国際会議場で開催された「九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきた。今回は前回のように期日が多忙な年度末ではなかったこともあり、比較的ゆっくりと見ることが出来た。

 展示物の中でまず目を引いたのは、KORGのアンプである。同社は電子楽器類を手掛ける国内の有名メーカーだが、ポータブル型のアンプは以前からリリースしていた。今回は(おそらくは試作品と思われる)フルサイズのオーディオ用アンプの出品。とにかく、採用されている部材が斬新だ。ノリタケ伊勢電子との共同開発によるNutubeと呼ばれる素子は、蛍光表示技術を応用した真空管である。しかも、従来からの管球式アンプに使われている真空管とは似ても似つかない形状で、びっくりするほど小型だ。



 展示されていたアンプはセパレート型だが、プリアンプ部に相当するフォノ・イコライザーを搭載したユニットには、電源ケーブルが付いていない。スタッフに話を聞くと、何と市販の電池で動作するのだという。よく見れば、筐体内に電池が並んでいるのが確認出来る。これは省電力化を達成したNutubeだからこそ可能な仕様であることは間違いなく、当然のことながらコンセントからの電源ノイズからは完全に無縁だ。

 肝心の音だが・・・・正直言って、周囲がうるさくてよく分からなかった(笑)。だが、この構造は実に興味深い。場合によっては、オーディオ用アンプの現状に一石を投じるような製品に結実するかもしれない。将来的には期待が持てる。

 さて、2015年の同イベントでも招かれていた地元ラジオのDJであるTOGGY(トギー)と、フェアの主宰元であるマックスオーディオの社長とのアナログレコードに関する対談がおこなわれた。このイベントでの個人的に大きな収穫は、蓄音機の音を初めて聴けたことだ。確かにレンジの狭い古い音だが、ヴォーカルは鮮明に再生されている。そして全域に渡って独特の生々しさが感じられる。それもそのはずで、蓄音機の音は電気的プロセスを経ていない。ダイレクトな音の出方は、今でもこれにハマってしまう人がいるらしいという事実も頷ける。



 もちろん最新のアナログプレーヤーも実装されていたが、目玉はTechnicsのSL-1000Rだろう。160万円というハイ・プライスな商品だが、かなりの物量が投入され、質感は高い。また、数百万円という海外製のプレーヤーが多数展示されている中にあっては、ある意味コストパフォーマンスは高いとも言えるのだ。

 同ブランドが2015年に“復活”した時点ではアナログプレーヤーのラインナップが無くて不満だったが、それから数年のうちにプレーヤーを揃えてきているのは、やっぱり頼もしい。今後はカートリッジ類のリリースも望みたいところだ。

(この項つづく)
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「BPM ビート・パー・ミニット」

2018-04-16 06:44:33 | 映画の感想(英数)

 (原題:120 BATTEMENTS PAR MINUTE )切迫感が横溢し、スクリーンから目が離せない。かなりセンセーショナルな場面もあり、確実に観る者を選ぶ映画ながら、その強力な社会的メッセージ性には圧倒される思いがする。それでいて甘酸っぱい青春映画のテイストも併せ持っている。本年度のヨーロッパ映画を代表する力作だ。

 90年代初頭のパリ。過激な抗議活動を繰り返していた“ACT UP PARIS”は、AIDS罹患者のメンバーを中心とした直接行動組織である。ターゲットは差別を放置する政府や自治体、そして真摯な態度を見せない製薬会社などだ。新たに参加したナタンは、HIV陰性ながら、会の趣旨に賛同して積極的に活動に加わるようになる。

 “ACT UP PARIS”が高校でゲリラ的なデモを敢行していた際に、彼らは学校当局者から差別的な言葉を投げかけられるが、その腹いせに相手の面前でナタンと若いメンバーのショーンはキスをする。それを契機に2人は恋仲になるが、ショーンはHIV感染者であり、余命幾ばくもない。相変わらず製薬会社の対応は遅く、有効な治療薬は市場に出ない。そして2人に別れの時がやってくる。監督・脚本担当のロバン・カンピヨは、かつて実際に“ACT UP PARIS”のメンバーであり、自身の体験を元に本作のシナリオを書き上げている。

 まず、前半のドキュメンタリー・タッチの作劇に目を奪われる。緊迫感あふれるディスカッションの場面、さらに“ACT UP PARIS”の過激なパフォーマンスをカメラは粘り強く追う。製薬会社のオフィスや専門家のレクチャー会場に乱入し、人工の血糊を投げつける。そして許可なく学校に侵入し、コンドームを配る。

 まさにやりたい放題だが、嫌悪感は覚えない。なぜなら当時は、AIDSの感染は広がるばかりで、効果的な対策どころか正しい知識を持つ者も少なかったのだ。残りの人生が短くなる中、追い詰められた彼らの言動は、それが常軌を逸したものであるほど悲壮感がみなぎっている。一方、街中でのパレードやクラブでのダンスは逆境に追い込まれても何とか生きる楽しみを見出そうとする、開き直った明るさが全面展開されていて圧巻だ。

 後半は打って変わってナタンとショーンとの関係がじっくりと描かれるが、これは観る者の紅涙を絞り出すほどの普遍的な“悲恋”として扱われている。この構成も申し分ない。カンピヨの演出は赤裸々なゲイ・セックス場面も織り込みつつ、一点のぶれも迷いもなく、テーマを追求する。また“引き”の場面を抑えてクローズアップを多用しているのも、作者の覚悟を感じさせる。

 ナウエル・ペレーズ・ビスカヤートやアーノード・バロワ、アデル・エネルといったキャストは馴染みがないが、皆いい演技だ。HIVキャリアに対する偏見が小さくなった現代、だがこの“虐げられるマイノリティVS無理解な世間”という図式は、世界のあちこちに存在し続けている。
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「ザ・ファーム 法律事務所」

2018-04-15 06:35:57 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE FIRM)93年作品。かつての私の知り合いの女にトム・クルーズを毛嫌いするのがいたが、これは単に“外見が嫌い”というレベルだから無視するとして(まー彼女によると、顔がデカいだのゼイ肉が目立つだの足が短いだのと言いたい放題で、女性ファンの容赦のなさを目の当たりにする思いであった ^^;)、俳優としてのクルーズは私は感心しない。

 断っておくが、何も彼をルックスだけの“でくの棒”だとは思わない。「タップス」(81年)とか「卒業白書」(83年)など、デビュー当時はけっこう野心的な役をやっていたし、「7月4日に生まれて」(89年)での演技は素晴らしかった。しかし、「デイズ・オブ・サンダー」(90年)以降の主演作はどれも同じである。

 はっきり言うと、彼が出てきただけで映画のストーリーや雰囲気が画一化してしまう。“能天気な白人のハンサム”の範囲を一歩も出ない演技、演出、役柄。本人も“トム・クルーズというブランド”に安住しているフシがあるのではないかと思ってしまうほどだ。

 さて、この作品もそんなクルーズのキャラクターに100%合わせた映画である。ハーバードを出た若い優秀な弁護士が、属しているメンフィスの法律事務所の舞台裏を知ったために陰謀に巻き込まれるサスペンス(クルーズに弁護士の役が務まるかという議論はさておいて)。やりようによってはインパクトの強い社会派作品になったところだが、プロットはわかりにくい上に御都合主義、悪役はマヌケで迫力無し、ラストは見事な予定調和でシラけさせてくれる。

 それでも観ている間まあまあ退屈しないですむのは、人気作家ジョン・グリシャムの原作が持つ語り口のうまさと、脇を固めるジーン・ハックマンやホリー・ハンター、エド・ハリスなどの力量によるものだろう。ジョン・シールによる撮影やデイヴ・グルーシンの音楽も効果を上げている。

 シドニー・ポラックの演出は、このネタで2時間以上引っ張るのに汲々として、とりたてて評価するところはない。それにしても、この程度の映画が公開当時はスピルバーグの「ジュラシック・パーク」(93年)を抜いてアメリカ興収ベストテンの堂々シーズン一位になったというのだから、驚き呆れるばかりである。
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