元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ニュー・シネマ・パラダイス」

2007-11-30 06:54:19 | 映画の感想(な行)
 (原題:Nuovo Cinema Paradiso )89年作品。臭いっ!たまらなくクサイ映画である。ということを書くと、この映画を観て感動の涙を流した多くの観客(封切り当時に劇場で観た際、私を除いたほとんどの観客が泣いていた)から石が飛んできそうだが、私はそう思ったんだからしょうがない。

 で、どういう映画かというと(まあ、有名な作品なので説明するまでもないとは思うが)、戦後間もないシチリアの小さな村が舞台で、唯一の娯楽場である映画館「パラダイス座」をめぐって展開する人間ドラマなんですね。フィリップ・ノワレ扮する初老の映写技師アルフレードと、映画が大好きなトト少年のふれ合いが描かれる。

 最初は煙たがっていた映写技師も、トト少年の熱意に負けて、映写助手として採用するようになる。司祭によってキス・シーンがカットされたりする時代から、やがてカラーの時代へと変遷し、フィルムがちょっとした熱で燃えてしまい、その火事のためにアルフレードは失明し、「パラダイス座」が燃えた時代から宝くじで大当りしたナポリ人によって再建された映画館の時代、火をつけても燃えないフィルムの時代へと変わる。トト少年も成長して映画製作者として成功したが、テレビやビデオが映画にとって代わり、映画館も閉館の浮き目にあう時代(つまり現代)まで、この映画は描いている。それをいろどるのが「搖れる大地」とか「駅馬車」「にがい米」「素直な悪女」「青春群像」といった往年の名画の名場面だ。

 だいたい私は昔の名画のシーンがいっぱい挿入された映画ってのが嫌いである。それに頼りきっちゃって、肝心の本編がお粗末なものが多いからだ。この映画はどうかというと、たしかにお祖末・・・・ではない。よくできている。しかし、クサイのだ。こうやれば映画ファンが随喜の涙を流すはずだ、という意図がミエミエ。冒頭の気取った構図から、中盤の映画館の画面が壁をつたわり屋外の建物へと移動するシーン、それと「毛糸のシーン」(映画を観てない人にはなんのことかわからないけど、ま、いいか)、画面といっしょになって笑ったり泣いたりする観客、トト少年を演じる子役のいやらしいほどのうまさ、うーん、実にあざとい。

 監督が当時29歳の若手というのもいやらしい。「年期の入った映画好きからお涙ちょうだいするなんてチョロイもんだぜ」などと言ってる監督の顔を思い浮かべたのは果たして私だけだろうか(え? やっぱり私だけ?)。どうせダマすんならウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」ぐらいうまくやってほしい。

 「パラダイス座」がとりこわされるシーンが終盤にあるけど、これはイヤだね。こういう映画への挽歌っていう感じのノリはキライだ。映画は死なないよ。断じてね。
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「モーテル」

2007-11-29 07:14:13 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Vacancy )前に「ディスタービア」を“三流ホラー”として片付けたが、これは“三流”ですらない、最低のホラーだ。本作を楽しく観られるようにするには、穴だらけのプロットを一つ一つチェックし、一大“突っ込み大会”でも開いて笑い飛ばすしかないだろう。

 車が故障したために田舎町の寂れたモーテルに宿を取った離婚寸前の夫婦。しかしそこは宿泊客を惨殺してその映像をビデオ収録し、闇に流しているという“殺人モーテル”だった。さあ大変・・・・という筋書きだが、主人公達を脅かして楽しむためか、過去の“殺人ビデオ”を無造作に部屋に置くのはいいとして、その映像によって簡単に侵入ルートや逃げ道が分かってしまうという間抜けぶりを露呈するのを皮切りに、脱力するような場面のオンパレード。ニムロッド・アーントルとかいう監督の腕前は相当にヘボい。

 何より良くないのは、犯人どもが全然ビョーキっぽくないこと。そこらへんのオッサンやアンチャンが、何も切迫したものがなく、快楽殺人でもなく、単に“仕事を済ませる”といった感じで凶行を繰り返しているだけ。そいつらの面構えもフツーそのもので、当然“こういう普通の人間がヒドいことをやっている。そのギャップが恐ろしい”なんていう殊勝なロジックに持って行く気配もない。映画が進んでもただのっぺりとした時間が流れるだけだ。もちろん全然怖くない。同じような設定ならばケヴィン・コナー監督の「地獄のモーテル」(80年)の方がゲテモノに徹してアッパレだった(笑)。

 主演はルーク・ウィルソンとケイト・ベッキンセールという、まあ名の通った俳優が起用されているが、本人達もキャリアから抹消したいと思っているんじゃなかろうか(爆)。

 唯一の見所が、硬質なタッチで迫る冒頭のタイトルバック。まるでヒッチコック映画のようなカッコ良さである。そういえば「ディスタービア」が「裏窓」の低劣な二番煎じ(のようなもの)であるのに対し、この映画は「サイコ」の変形パターンと、言えなくもない。芸もないのにあまり過去の巨匠の“遺産”から勝手にネタを拝借しないで欲しいと思ったりする。
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「全身小説家」

2007-11-28 06:32:40 | 映画の感想(さ行)

 94年作品。「地の群れ」「明日」などで知られる作家・井上光晴の晩年の姿を追うドキュメンタリー映画で、監督は傑作「ゆきゆきて、神軍」(87年)などの原一男。

 で、観た印象だが、期待は半分満たされ、半分は裏切られた、というのが正直なところだ。期待通りだったのは、何といっても観ていて実に面白い点である。別にこれは題材にふさわしく“学術的に面白い”のでも“教養を深める意味で面白い”のでもない。純粋に娯楽映画として面白おかしく観ていられるのだ。

 オープニングはなんと井上光晴が女装してのストリップ! あっけにとられているうちに、映画は彼の友人や弟子たちのインタビューを通じて、井上の人物像を明らかにしようとする。ここでわかってくるのが彼は相当なプレイボーイだったということ。彼が設立した小説指導の場“文学伝習所”に集う女性たちを中心にインタビューは進むが、彼女たちはそろって井上の男性的魅力を誉めたたえる。全員いいトシで旦那も子供もいるだろうに、全員目を潤ませてノロケまくるのだ。中には井上よりはるか年上のおばあさんもいるが、彼女でさえ“私のチャームポイントの耳の形の美しさを井上さんは認めてくれた”と感激して語る(隣に座っている旦那のリアクションが爆笑もの)。“伝習所”とは名ばかりで、実は井上のファンクラブであったことがわかる。

 さらに映画は、井上の小説家としての言動のウサン臭さにも鋭く迫る。何と、彼の経歴、人間関係、生活信条etc.作品の中や公式の場での発言はほとんどがウソっぱちであることがわかってくる。少年時代、霊感商法でひと儲けしたことや、朝鮮人の女の子との悲しい初恋、父親には放浪癖があって大陸で消息を断ったこと、若い頃は共産党の闘士だったことなど、そのすべてがウソ八百である(自伝に書いているにもかかわらずである)。そして彼の祖父の代より前の氏素性までもデッチ上げている。

 映画が進むにつれ、ウソとホントの場面展開が早くなり、井上の“悪党”ぶりを強調していくが、それがバレたからといって、小説家としての評価が変わるわけではない。むしろ、大ボラ吹きながら世の中を飄々と渡っていく井上の“痛快無責任男”としてのヒーロー像が娯楽映画の主人公と同じように画面を闊歩する、それが楽しいのだ。そして映画は彼の友人であり、たぶん彼以上の“ウソつき作家”であろう埴谷雄高や瀬戸内寂聴も登場させる。彼らの会話シーンはまさにキツネとタヌキの化かし合いで、映画的興趣ここに極まれりといったとこだ。

 さて、次に“期待を裏切られた部分”について書こう。井上は公開当時すでにガンでこの世を去っている。しかし、原一男が井上の取材を始めたころはまだガンにかかっておらず、撮影を続けているうちに主人公が勝手にガンに冒されて死んだということになる。もちろんそれは10年かけて小説家の“虚構と現実”をじっくり描こうとした原の予定表にはなかったことだ。いきおい、映画は別のアプローチを迫られることになった。過去の作品で難病患者やお産のシーンを容赦なく撮った原だから、ガンの描写にも手加減はしないだろう。ここでも肝臓摘出手術の場面をリアルに見せている。ところが、シビアーな病状の過程はそれ以上カメラでは追えなくなる。

 考えてみれば当然で、闘病中に執筆した作品にも自身の病状については少しも触れず、まっとうな(?)作家活動を続けていた井上が、カメラに自分が苦しむ姿を撮らせるはずがない。結果として、撮影は井上の体調のいい時に限られてくる。しかも、井上は決して自分から事を起こす人ではなかったのだ。“僕は(「ゆきゆきて、神軍」の)奥崎謙三じゃないよ”と井上が自ら語るように、単にカメラで追っても彼自身が特別なアクションを起こす可能性は薄い。

 さて、どうするか。原は思わぬ手段に訴えた。ドキュメンタリーとしては掟破りの、ドラマ製作にふみきったのである。井上の青春時代を描くその部分は、けっこう幻想的なシーンがあり、モノクロの映像、出演者の好演などもあって、それ自体の出来はかなりいい。でもそれがドキュメンタリー映画の中に挿入されることの是非は、意見が分かれるところであろう。私としては違和感を持った。

 もちろんこれは“虚構と現実”というテーマをドラマティックに演出するための方法だが、別の意味では状況が変わったことによる苦肉の策である。さらに言うと、過去の作品でそれ自体十分アクティヴな題材を追っていた原一男が、今回初めて“静的”な題材を扱おうとしたその“挑戦”が思わぬ形で打ち切られてしまった居心地の悪さが出ていると思う。

 それにしても、作家というのはどうしてこうも平然とウソ八百並べられるのであろう。考えてみると、我々も日々少なからずウソをまき散らしている(と思う)。バレるかバレないかは、そしてバレて困るか困らないかは、その人物の大きさにかかわってくる。ウソが自身のアイデンティティになる場合だってある。ウソで自分を追い込んで発奮する人間だっている。井上光晴はそういう人間だった。
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「ヴィーナス」

2007-11-27 06:32:21 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Venus )いわゆる“老いらくの恋”を成就させるためのノウハウが網羅された、なかなか含蓄に富んだ映画である(笑)。

 まず、ジジイになってから“若いねーちゃんと仲良くなろう”と思い立っても無駄である。本作のピーター・オトゥールのように、若い頃はバリバリで、かつまた深い教養と人脈を備えていることが必須だ。極端に腰が曲がっているのもNGだし、加齢臭プンプンで身だしなみに気を遣わないのは論外。老年になる前にそういう状態にならないようにちゃんと準備しておかなくてはならない。

 そして、押しつけがましいのはダメだ。その良い例が主人公の友人である。彼は田舎からロンドンに出てくる姪の娘のためにあれこれとセッティングするのだが、したたかな彼女はその夜郎自大な魂胆を見抜いて辛く当たり、くだんの友人は音を上げてしまう。対してオトゥール翁は余裕たっぷりで、ターゲットと付かず離れずのインターバルを取り、自分の持ち味を小出しにして、相手が興味を持ってくるように仕向ける。

 そして一番大切なことだが、自分と付き合ってくれる見込みのある対象を選ぶことだ。本作に出てくる新人ジョディ・ウィッテカー扮する若い娘は、容貌はせいぜい“中の上”であり典型的な美少女タイプではない。しかし、磨けばそれなりに光る素材だ。向上心もある。それでいて孤独で満たされない日々を送っており、何かとアドバイスしてくれる大人を(無意識ながら)求めている。百戦錬磨かつ軽妙洒脱なオトゥール翁にとっては絶好の相手だ。これがかなりナイスなルックスを備えた自信たっぷりな女の子にちょっかいを出してしまうと、いかに元「アラビアのロレンス」といえども玉砕必至である(爆)。

 さて、今回で8回目のアカデミー賞ノミネートとなったオトゥールだが、若い娘とのアヴァンチュールの中で上品なユーモアと適度なスケベ心を披露している反面、老いの哀しみをひしひしと出していて圧巻だ。特に友人とドヴォルザークの「スラヴ舞曲」をバックに踊るシーンは涙なくして見られない。ヴァネッサ・レッドグレーブ扮する別れた妻との逢瀬、そして最後のキスの場面も泣かせる。

 ロジャー・ミッシェルの演出は「ノッティングヒルの恋人」の頃よりも洗練されており、画面の密度も高い。寒色系を活かしたハリス・ザンバーラウコスのカメラ、デイヴッド・アーノルドの音楽。コリーヌ・ベイリー・レイによる主題歌が美しさの限りだ。
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ケン・グリムウッド「リプレイ」

2007-11-26 06:49:58 | 読書感想文
 世界幻想文学大賞を受賞したケン・グリムウッドの86年の作品。冒頭、ラジオ局のディレクターである主人公が心臓発作のため43歳で死亡する。しかし気付くと彼は18歳の大学生の自分に逆戻りしていた。彼はもう一度人生をやり直すが、また43歳になったとき死亡。そして再び若い頃の自分に戻ってしまう。

 映画「恋はデジャ・ブ」や「ターン」で描かれた“時制ループ”が25年のタームで起きるという話だ。結局“人生は一度きりだからこそ価値がある”という普遍的なテーマを扱っているのだが、この小説は主人公が“リプレイ”するたびに数々の出会いと別れを経験することで、人の世の玄妙さや歴史の重さなどに向き合い、次第に人間的成長を遂げてゆく様子を丁寧に描いており好感が持てる。

 各“リプレイ”ごとにドラマティックな展開が用意されており、娯楽作品としても秀逸。読み手の予測を何度も裏切るストーリーで、最後までイッキに読ませてしまう。ラストも味わい深い。
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「ナルコ」

2007-11-25 07:41:33 | 映画の感想(な行)

 (原題:Narco )感心するような出来ではないが、ちょっと気の利いた佳作と言えよう。ナルコレプシーという病気で、時と場所を問わず突発的に眠りに落ちてしまう男を主人公にしたフランス製コメディだが、面白いのは“イレギュラーな存在である彼自身と実世界とのギャップをベースに笑わせる”という常套手段を取っていないこと。

 彼の周りは決してノーマルではなく、けっこう異様である。それならば主人公と現実社会との落差が生じてこないではないか・・・・ということは決して無く、周囲の方が主人公よりはるかに常軌を逸しているように描かれている。つまりは“単にイレギュラー”と“さらにイレギュラー”との落差で笑いを狙おうというのだ。

 主人公が味わうどん底感のさらに下に、またどん底があったという、シニカルで痛々しい構図。これを嫌味やわざとらしい説明的シークエンスを巧妙に避けてドラマを最後まで引っ張っていくトリスタン・オリエ&ジル・ルルーシュ監督の腕前は、けっこう非凡かもしれない。

 ナルコレプシーに冒されているギョーム・カネ扮するギュスという男は、大事なところで眠り込んでしまうため、まともに仕事も出来ない。そのため夢の中の出来事を漫画にして売ろうと考えるが、これも窮余の策でしかなく、本当は一般世間並みの平凡な暮らしをしたいのだ。

 ところが彼の父は女房に逃げられたほどの現実逃避型のオタクだったし、妻は自堕落そのもので、空手道場をやっている親友は誇大妄想気味、担当の精神分析医に至っては狂気の世界に一直線だ。ところ構わず眠ってしまうことを除いて、まったくの正常である主人公に比べると、おかしな夢を追っているという意味で本当に“眠って”いるのは彼らであるという逆転の図式。しかも、彼らの病み方が観ている側にも少し共感するところがある点も実にキツい。

 そして“まともな生活”の方が、刹那的で自堕落な生き方よりも将来を展望できる“夢”をたくさん見られるといった正論が、こういう設定であるからこそ無理なく伝わってくる。これを平易な展開の中で叫ばれたのでは臭くて見ていられなかっただろう。

 出てくるキャラクターはみんな濃くて笑わせてくれるが、驚いたのは主人公の親友の自称“空手家”の心のスターであるジャン=クロード・ヴァン・ダムが本人役でゲスト出演しているところ。ハリウッド製B級活劇で見かけることが多い彼だが、本来は由緒正しいヨーロッパの俳優であることを再認識出来た(笑)。
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「病院へ行こう」

2007-11-24 15:45:01 | 映画の感想(は行)
 90年作品。典型的仕事人間の若手コピーライター新谷(真田広之)がある晩帰宅してみたら、妻(斎藤慶子)が中年花火職人の如月(大地康雄)を連れ込んで野球ケンの真っ最中。大ゲンカとなった新谷と如月はそのまま階段からころげ落ちて(ここのシーンはスゴイ)重傷を負い、病院にかつぎこまれる。ところが新谷の治療にあたったのが注射もロクに打てない研修医のみどり(薬師丸ひろ子)で、ちっとも大丈夫じゃないくせに“大丈夫ですよー”と言うのが口ぐせ。“大丈夫ですよー”“大丈夫ですよー”“大丈夫ですよー”というみどりのセリフと新谷の悲鳴が重なりながら画面がフェイドアウトしていく。

 最近はすっかり職人監督の一人として安定した(?)評価を得ている滝田洋二郎だが、この監督はピンク映画時代に「痴漢保健室」とか「桃色身体検査」みたいな病院や学校の保健室を舞台にしたハチャメチャ・コメディを作っている。本作はそれらよりはヴォルテージは落ちるが、一般映画としては比較的同監督の特質を出した作品だと思う。

 だいたい病院ほど一般常識のない世界というのもめずらしい。看護婦の挨拶がわりともいうべき“大丈夫ですよー”“頑張ってくださいねー”ほど無意味なセリフはないのではないか(頑張ってほしいのは医者の方だろーがっ)。この作品でも医者にちょっとでも気に入られようとしてソデの下を渡す患者とか、末期ガンの患者を見て優越感にひたる奴とか、仕事しているより入院している方が収入がいい公務員とか、人がスパゲティを食っているときに寄生虫の話を熱心にする研究医とか、とんでもない連中ばかり出て来る。

 で、新谷と如月はなぜか同じ病室に入れられ、険悪ムードいっぱいになるが、間男というのが誤解だったことや、如月がみどりを好きだということもわかって、二人の間に友情が生まれる。ある日、二人は車イスのまま病院を抜け出し、豪遊して朝帰りする。その帰り道に如月が新谷にことの真相を打ち明けるシーンはなかなかよろしい。

 だが、成行きでみどりと一発やってしまった新谷とは対照的に、ガンの疑いをかけられる如月はさえない。それでも後半は自前の花火を片手に一人舞台の大活躍になり、ドタバタの末にめでたしめでたしの大団円。ハチャメチャで笑わせておいて最後にホロリとさせる滝田監督の人物描写はなかなかのものがある。近年毒にも薬にもならないシャシンばっかり撮っている同監督の得意技を活かしたコメディをここらで企画してほしいものだ。
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「ボーン・アルティメイタム」

2007-11-23 06:39:06 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Bourne Ultimatum)ポール・グリーングラス監督の名人芸が堪能できる一編。思えばこのシリーズの第一作「ボーン・アイデンティティ」はよくあるアクション編の一本としての印象しかない。そこそこ良くできてはいるが、特筆すべき物はあまりなかった。しかしその後第一作の監督ダグ・リーマンからバトンタッチされたグリーングラスは二作目「ボーン・スプレマシー」を快作に仕立て上げた。硬派な実録物である「ユナイテッド93」を経て、今回の第三作はひとつのピークに達していると言ってよい。

 同監督の特質は、並はずれた臨場感の創出にある。目まぐるしい場面展開と素早いカメラワークを駆使した即物的な映像。ただし凡庸な演出家が伊達酔狂に、あるいは一人で興奮してカメラをぶん回しているのとは次元が違う。必然性のあるシチュエーションで、段取りやカッティングなどの巧妙な計算が成されている。全編ドキュメンタリー・タッチの緊張感溢れる画面の連続ながら、観ていてほとんど疲れないのは、常に観客の視点に立った効果的な画面を作ろうと腐心していることだろう。

 白眉は、モロッコのタンジールでの立ち回り。主人公ジェイソンとヒットマンが狭い空間で丁々発止と肉弾戦を繰り広げる。格闘手順のセッティングの舌を巻くほどの上手さに加え、二人が手にする武器がそこに存在する“日用品”ばかりで、真の殺し合い(相手を殺すためには何でもする)の実相がヴィヴィッドに描かれていて圧巻だ。

 このシリーズは昨今アメリカ製活劇があまり取り上げなくなったカーアクションを大々的にフィーチャーしているのが特徴だが、今回も凄い。終盤のパトカーを奪っての爆走など、あまりのリアルさに震えが来るほどだ。

 実を言えば、ついに明かされるジェイソンの“正体”と、彼が“誕生”する経緯についてはあまり興味の持てるものではない。予想通りというか“ありがち”な種明かしだ。しかし、それまでの迫真力で引っ張られる展開で、そんなことはどうでも良くなってくるのも確か。ラストの処理は“お約束”ながら後味がよろしい。

 マット・デイモンは普通の人間なら百回は死んでいるような修羅場を平然と切り抜ける無敵のスパイを違和感なく演じている。デイヴィッド・ストラザーンの悪役も良いし、ジェイソンをフォローするCIA幹部役のジョアン・アレンはクール過ぎる好演だ。ジョン・パウエルの音楽も快調。久々に入場料分しっかりと楽しめるアクション映画の佳篇と言えよう。
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「ペリカン文書」

2007-11-22 06:43:25 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Pelican Brief )93年作品。だいたいジュリア・ロバーツが法学部の学生を演じること自体笑っちゃう。ちっとも頭良さそうに見えないんだから。ともあれ、「ザ・ファーム/法律事務所」の原作者ジョン・グリシャムの小説をアラン・J・パクラ監督が手掛けたサスペンス編。連邦最高裁の判事2人が何者かによって殺される。それを題材にロバーツ扮する法科学生が仮説を立て、その論文“ペリカン文書”が恋人でもある教授(サム・シェパード)の友人のFBI職員の手を経て、政界に広まってしまう。思いがけずその内容が真相をついていたため、事件の黒幕から彼女は命を狙われるハメになる、という話。

 アラン・J・パクラといえば、ウォーターゲート事件を扱った「大統領の陰謀」(76年)を思い出すが、あれほどの緊張感は求めるべくもない。あの作品のポイントは、大事件を解明したのがフツーの新人記者であったことを、実に地道に描き通したことだ。ヒーロー性を排除し、名も無き市井の人々が大事件の真相に一歩一歩近づく様子を淡々としたリアリズムで描いた。D・ホフマンとR・レッドフォードという大スターをキャスティングしていながらそれをやり遂げたことは注目に値する。

 対して、「ペリカン文書」にはそのスタンスがまるで欠如している。「ザ・ファーム」もそうだったが、グリシャムの作品は観ている間は退屈しないが、観たあとはきれいに忘れてしまう。ストーリーが「ザ・ファーム」よりスケールが大きく、政界・財界はもちろん、大統領のスキャンダルにまで発展する筋書き。かなりインパクトのある題材であるにもかかわらずである。第一、最初からロバーツが主演することを前提に書かれたらしい原作と、デンゼル・ワシントンの新聞記者のスマートすぎる活躍ぶりは、単なるサスペンス劇の域を出るものではない(まぁ、敵方のマヌケな追跡ぶりにはあきれたけど)。少しも観客の胸に迫るとか、問題意識を提示するようなものではないのだ。

 単純な娯楽映画として作られたものだから、そこまで求めるのは酷だろうが、エンタテインメント性を正面に押し出すにしては、パクラ監督特有の暗さが鼻についてしまい、面白さが観たあとまで持続しない。ところで、公開当時に“ジュリア・ロバーツはオードリー・ヘプバーンの二代目を目指している”などと雑誌に書いた某評論家は、ヘプバーンのファンの袋だたきに遭ったことだろう(^_^;)。
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「この道は母へとつづく」

2007-11-21 06:42:00 | 映画の感想(か行)

 (原題:ITALIANETZ/THE ITALIAN)ベルリン国際映画祭での少年映画部門グランプリ受賞作とのことだが、実話をネタにしたわりには地に足が付いていないような出来だ。

 ロシアの片田舎を舞台に、顔も知らない母親を探すために養子に貰われる寸前に孤児院を脱走した6歳の少年ワーニャの逃避行を描くはずが、その前段に孤児院のさして面白くもない“内実”や、養子斡旋業者の海千山千ぶりなどの余計な付帯物が散見され、純然たるロードムービーとして楽しめないのが痛い。そういうのはサッと流して、ロシアの大地を一人で彷徨する少年の孤独感と、その中で出会う人々との触れ合いを、バーンと引いたカメラでストイックに映し出して欲しかった。

 主人公の置かれている立場は確かに辛いものだが、孤児院の状態は特別に悲惨でもなく、どこの国でもありそうな設定だ。これだと“ロシア映画ならでは”の特殊性は出しにくい。そもそも彼には生みの母が存在していることが中盤で明かされることにより、その後のハードな展開が期待(?)できなくなり、映画的興趣からは遠い予定調和に収斂されることが早々に割れる。これでは感動できない。

 これがデビュー作となるアンドレイ・クラフチューク監督の演出タッチは妙に通俗的で、あえて言えばメロドラマ方面に振っている。主人公が孤児院を抜け出して目的地までに行き着く過程には、ありがちの臭いモチーフに寄り添ったようなエピソードが続くのみ。ひょっとして悲劇に終わるのではないか、彼の身にもっとシビアなことが起こるのではないか・・・・といったスリルとは、まるで無縁。

 カメラの動かし方も、何やら登場人物にまとわりつくような感じでテレビドラマのような印象を受け、微温的な音楽がそれに輪を掛けて画面を盛り下げてくれる。さらにラストの処理は明らかに“狙いすぎ”。撮ってる方は“決まった!”と思っているのだろうが、観ている側は不完全燃焼以外の何物でもない。

 まあ、それでも良かった点はある。まずは冬から春にかけての美しい自然の風景。そして何と言ってもワーニャに扮する子役のコーリャ・スピリドノフの素晴らしさだ。俗っぽい演出の中にあってそれとは一線を画したような、決然とした健気な表情と、子供らしく愛らしい仕草が絶妙の味わい。“凡作!”と切って捨てられないのは、ひとえに彼のおかげである(笑)。
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