元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「フェアウェル」

2020-10-31 06:59:01 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE FAREWELL)まあまあ面白かった。興味深いネタは扱っているが、それほど突っ込んだアプローチは成されていない。観ている者が重苦しい気持ちにならないように、ほどほどのレベルに留めている。だから出来の方も“ほどほど”なのだが、語り口は悪くないので最後までスンナリとスクリーンと対峙していられた。

 ニューヨークに暮らす中国系アメリカ人女性のビリーと家族は、中国に住む祖母がガンで余命幾ばくも無いという知らせを受け、急遽故郷の吉林省の長春に向かう。ただし本人には病気のことは一切知らせておらず、親戚一同が集まるのはビリーの従兄弟の結婚式という名目だ。ビリーは祖母にはちゃんと告知すべきだと訴えるが、本国の親族は本人がショックを受けて悲しむとの理由で反対する。彼女はモヤモヤとした気分のまま、結婚式当日を迎えるのだった。

 幼いときに中国を離れてアメリカに移住したビリーには、欧米流の合理主義が身に付いている。だから、祖母に真実を伝えない親族の様子に戸惑うばかりだ。しかし彼女は、周囲から東洋と西洋との死生観の違いを教えられる。西欧では、命は個々人のものだ。だから、運命を受け入れてどう対応するかは自分自身の問題である。一方東洋では、命は家族ひいては社会の一部と認識される。コミュニティの一部である生命を担っている者を無駄に悲しませることは、タブーなのだ。この指摘には興味を引かれる。

 とはいえ、海外で生活する中国人も増えた昨今、中国社会にもビリーのような考え方を持つ者がいることも示される。さらに従兄弟はいつもは日本に住んでいて、結婚相手も日本人なのだ。グローバル化は避けようがない。また、ビリーが子供の頃に住んでいた住宅はとっくの昔に取り壊され、あたりに過去の面影は無い。ドラスティックな都市計画が罷り通る中国の現状も紹介されている。ただし、奥深い問題提示はスルーしており、そこは物足りない。

 中国で生まれアメリカで育ったルル・ワン監督の仕事ぶりは、派手なケレンこそ無いがテンポ良くドラマを進めている。挿入されるギャグも効果的だ。主演のオークワフィナは演技はまずまずだと思うが、ルックス面での訴求力は乏しい(笑)。ツィ・マーやダイアナ・リン、チャオ・シュウチェンといった脇の面子の方が良い味を出している。しかしながら、ラストの“オチ”にはびっくりした。それまでの展開は一体何だったのだと思うほどの、いわば“掟破り”だ。鑑賞後はビリーに代わって、観ているこちらがモヤモヤとしてしまった(爆)。
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「火宅の人」

2020-10-30 06:23:30 | 映画の感想(か行)
 86年作品。御存知檀一雄の私小説とされる有名な原作の映画化だが、文芸的香りは見事なほど希薄である。代わりに何があるのかというと、全編に渡って展開されるアクションだ。たたし何も派手な活劇シーンがあるわけではない。登場人物の佇まいと言動が、ことごとくハードボイルドで即物的なのである。まさに深作欣二監督の面目躍如といったところだ。

 売れっ子作家の桂一雄は、最初の妻リツ子に死なれた後にヨリ子と所帯を持ったが、昭和31年に新劇女優の矢島恵子と懇ろな仲になる。直木賞を獲得した際にも、彼は受賞の喜びよりも恵子から褒められることを第一に考えたほどだ。恵子との不倫旅行の後、何食わぬ顔で家に戻った一雄だったが、ヨリ子は速攻で家出する。仕方なく一雄は恵子と暮らし始めるが、今度は彼女の妊娠が発覚。逃げるように東京を離れた一雄は、旅の途中でかつて自分がケガをしたとき介護してくれた葉子に再会する。早速彼は、葉子とのアバンチュールを楽しむのだった。



 一雄はとことんインモラルながら、観ている側としては世の中をひょいひょいと渡ってゆく“好色一代男”みたいな痛快さを覚える。周りのキャラクターも濃く、とても一般人とは相容れない者ばかりだが、全員が生きることに貪欲で、過剰な自己アピールを躊躇無く敢行する。その有り様は、まさにアクションだ。

 一例を挙げると、主人公が長い旅から久しぶりに愛人宅に帰ってみると恵子は留守で、次に自分の家に戻ってヨリ子に愛人へ渡すつもりだった大きな魚を差し出すと、妻がいきなり無表情で出刃包丁を取り出し、魚の頭に叩き付けるというシークエンスなどその最たるものだ。

 恵子との緊張感をはらんだ関係もさることながら、中原中也や太宰治でさえ、登場シーンは少ないながらも今にも暴れ出しそうな剣呑な雰囲気を醸し出している。そもそも、自身の浮気話を堂々と連続小説として雑誌に載せるということ自体、実にバイオレントだ。奔放で屈託が無い葉子が、ずっとマトモに見えてくる(笑)。

 主役の緒形拳は完全に“受け”の演技なのだが、さすがの海千山千ぶりで檀一雄という男の奥深さを表現している。いしだあゆみに原田美枝子、松坂慶子といった女優陣、そして真田広之に岡田裕介、石橋蓮司といった他のキャストも手堅い。一雄の母親役で檀ふみが出ているのも驚く。木村大作によるカメラワークや、井上尭之の音楽は見事だ。
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「行き止まりの世界に生まれて」

2020-10-26 06:56:51 | 映画の感想(あ行)

 (原題:MINDING THE GAP )ドキュメンタリー映画であるにも関わらず、まるで優れた劇映画のようなエクステリアと味わいを持ち合わせた逸品であると思う。第91回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門をはじめ第71回エミー賞ドキュメンタリー部門とノンフィクション特別番組部門での候補になり、第34回サンダンス映画祭ブレイクスルーフィルムメイキング賞などを獲得した話題作で、オバマ元大統領も絶賛しているらしい。

 舞台はイリノイ州の地方都市ロックフォード。この街で暮らすキアーとザック、ビンの3人の若者の姿を12年に渡ってカメラは追っている。なお、監督と撮影は3人組の一人であるビン・リューだ。彼らは全て恵まれない生い立ちで、貧困や暴力に絶えず悩まされてきた。それでも、スケートボードに興じている間だけは辛いことを何もかも忘れて、生きている実感を味わうのだった。

 正直言って、彼らが犯罪に手を染めていないことが奇跡に思える。それだけ3人を取り巻く状況はシビアなのだ。ロックフォードの街は、かつては鉄鋼や石炭、自動車などの産業で栄えていた。しかし、現在はそれらは完全に斜陽化し、衰退の中にある。地域全体がいわゆるラストベルト(錆びついた工業地帯)に位置しており、先は全く見えない。

 そんな中で、3人は今までどう周囲に向き合い、現在はどのような状態で、将来はどうありたいのか、映画の中では明解かつ平易に語られる。それぞれのキャラクターが“立って”おり、ヘタに俳優が演じるよりも遙かに魅力的に捉えられている。

 特に、黒人であるキアーが抱くザックとビンに対する微妙な距離感や、彼の亡き父に関する思い出、身持ちが良いとは言えない母親への複雑な感情などが遺憾なく描出されているのには感心した。プライドの高いザックとその妻ニナとの関係性も、出来の良い家族劇を観ているような感触を覚える。そして映像はとても魅力的だ。沈んだような街の風景の中に、覇気の無い人々が行き来する構図は、これが若手監督の作品とは思えないほどに深みがある。

 そして圧巻なのは、3人がスケートボードを楽しむ場面だ。カメラマンを兼ねるビン自身もスケボーに乗っているため、素晴らしいスピード感が醸し出される。私はスケボーを嗜んだことは無いが(笑)、このスポーツをやっている間は世の中の憂さも吹き飛んでしまうことを想像出来るほどの臨場感だ。3人(そしてニナ)の今後の人生は楽観は出来ないが、それでも決して真っ暗闇ではない。彼らなりの矜持を抱いて事に当たれば、何とかなるのではと思ってしまう。そんな鑑賞後の印象は、かなり良好だ。
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「スローなブギにしてくれ」

2020-10-25 06:58:49 | 映画の感想(さ行)
 81年作品。正直言って出来自体は大したことがないと思う。しかし、この時代の空気感はよく出ていた。東映と角川春樹事務所による製作で、東映洋画が配給したものだが、当時は隆盛を誇っていた角川映画の中では配給収入は振るわず、何とか製作費を回収した程度だった。とはいえ、映像と音楽も効果的で、こういう“小洒落た”エクステリアを持つシャシンを手掛けた意義はあるだろう。

 夕暮の第三京浜をオートバイで走っていた青年ゴローは、白いムスタングから子猫と若い女が放り出される現場に遭遇する。それが切っ掛けになり、ゴローはさち乃と名乗るその女(そして子猫)と一緒に暮らし始める。一方、白いムスタングに乗っていた中年男は福生の旧米軍ハウスで男2人、女1人の奇妙な共同生活を送っている。しかも彼には、別居中の妻と子供がいた。ある日、同居していた男が急死してしまうと、それまで何とかトラブルなくやってきた彼らの生活が揺らいでくる。



 ゴローとムスタングの男との間を行ったり来たりするさち乃の行動は承服しがたいし、彼女をはじめ登場人物の内面描写は希薄だ。すべてがサラリと雰囲気だけで流していくような作劇は、藤田敏八監督の手による映画とも思えない。だが、捨てがたいテイストがあるのも事実。

 まるでヒッピーのような家族観を持つムスタングの男は、明らかに70年代的(それも初期)の風俗を体現化している。対して、気楽なバイト暮らしでノンシャランに生きるゴローは、ネアカ万能主義(?)の80年代の空気をまとっている。時代の変わり目をとらえたこの構図は面白い。片岡義男による原作は読んでいないが、この作家らしいスタイリッシュなタッチはよく表現されていると思う。

 キャストの中では、何といってもさち乃に扮する浅野温子の存在感が圧倒的だ。ゴローはもちろん、いいトシのムスタングの男まで振り回されるのは当然だと思わせるほど、奔放な魅力が爆発している。この頃の若手女優は、当たり前のように“身体を張って”くれたのだが、今から考えると隔世の感がある(笑)。古尾谷雅人と山崎努をはじめ、室田日出男に伊丹十三、岸部一徳、石橋蓮司、原田芳雄と、配役はかなり豪華。当時の角川映画はキャスティングも意欲的だった。安藤庄平のカメラによる清澄な映像、そして南佳孝による有名なテーマ曲も印象的。
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「はりぼて」

2020-10-24 06:57:39 | 映画の感想(は行)
 これは面白い。深刻なテーマを扱っていながら、アプローチに関してはフットワークが実に軽い。劇場内では笑いさえ起こったほどだ。また、そのライト感覚が素材の重要性をより浮き彫りにする。先日観た大島新監督の「なぜ君は総理大臣になれないのか」と並ぶ、政治ドキュメンタリーの快打だと思う。

 有権者の中で自民党員の割合が日本一である富山県で放映業務をおこなうチューリップテレビは、89年設立の比較的新しいテレビ局だ。そこの記者とキャスターが、2016年に富山市議が政務活動費を不正受給していたことをスッパ抜く。その市議は議会を牛耳る自民党会派のドンと言われていた男で、最初は否認していたものの、やがて罪を認めて辞任。後に詐欺罪で逮捕される。



 チューリップテレビは追及の手を緩めず、架空請求やカラ出張などの不正をはたらいていた議員たちを次々と告発。結果として半年の間に14人の市議が辞任するという、異常事態に発展する。そして富山市議会では、史上最も厳しいと言われる政務活動費の運用規定を設けるに至る。

 とにかく、不正に手を染める議員たちの浅はかさに絶句する。彼らはちょっと調べればすぐ発覚するような、見え透いた小細工を弄して公金を掠め取ろうとする。テレビ局の取材に対して素直に不正を認める議員など、一人もいない。見苦しい言い訳やゴマカシに走った挙げ句、逃れられないと悟ると謝罪会見を開いて殊勝なところを見せたりする。この“否認、そして追求を受けての謝罪”というパターンが、延々と続く。

 市議会の議長も辞めるハメになり、代わって任命された議長も、また辞任する。さらには、自民党議員を批判していた野党議員が“別件”で槍玉に挙げられる。ここまでくると、もはやギャグだ。もちろんこれらは笑い話ではなく憂うべき社会問題であるが、こんなにも不正が蔓延ると観ている側もマヒしてしまうのだ。



 やがて、当初は告発された議員は辞めていたが、最近では不正をはたらいても開き直って議員職にしがみつく者が目立つようになる。そんなポンコツ議員を前にしても、有権者は“謝罪したのだから禊ぎは済んだ”とばかりに再選させてしまうのだ。斯様な現実を見ると、我が国には民主主義というものは全然根付いていないことを痛感する。終盤の、事件を追いかけてきた記者とキャスターの“その後”を描く段になると、こちらも慄然としてしまう。

 チューリップテレビのスタッフでもある五百旗頭幸男と砂沢智史の演出は見上げたもので、テンポ良い作劇はもとより、カラスの大群が乱舞する市役所の情景を効果的に挿入させるなど、映像面での工夫も評価出来る。山根基世のナレーションも万全だ。なお、地方議会だけではなく政府ではケタの違う不正の疑惑が取り沙汰されているが、それを問題視する姿勢は、有権者にもマスコミにも見られない。何だが、日本全体が衰退の道を歩んでいるような気がする今日この頃である。
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「監視資本主義 デジタル社会がもたらす光と影」

2020-10-23 06:26:55 | 映画の感想(か行)

 (原題:THE SOCIAL DILEMMA)2020年9月よりNetflixにて配信されているドキュメンタリー映画。内容は題名の通りで、SNSがもたらす利点と共に、大きな問題点について言及している。そのアプローチには既視感があるし、ドラマ(フィクション)を挿入する方法もそれほど上手くいっているとは思えないが、深刻な事実の提示には改めて事態の深刻さを認識させられる。

 まず、作品ではSNSのスポンサーにとって利用者とは“顧客”ではなく“商品”であることを指摘する。それはまあ、少しでもSNSのシステムを知っていれば“常識”なのだが、映画で明示されるとインパクトが強い。SNSの参加者はネットを自身のツールとして使っているつもりだろうが、実は個人の嗜好や考え方、および行動パターンなどは運営側に筒抜けであり、その情報はスポンサーに売り渡されて利用者を“誘導”するようなコンテンツを押し付ける。気が付けば、SNSを利用するつもりが運営側の手のひらで踊らされているだけという、笑えない状況に陥っている。

 そしてSNSの利用者は“自身にとって都合の良い情報”ばかりを見せられた挙げ句、簡単にデマに引っ掛かる。結果として“事件”にまで発展したケースには、枚挙に暇が無い。また、SNSは利用者(特に若年層)を“内向き”にさせる。ネット社会の興隆に従って若者の自殺が増えていること、運転免許の取得数が減ってインドア派が目立っていることなどがデータとして示される。

 映画ではSNSをスロットマシーンや違法薬物にまで例えられているが、その指摘があながち大げさだと思えないのが、劇中に多数登場する“元SNS関連会社の主要スタッフ”たちの証言の数々だ。彼らは一様に“過去の仕事から手を引いて正解だった”と言う。勤務時間中に利用者から情報を吸い上げるような職務に専念し、家に帰れば自身がその利用者としてSNSに弄ばれる。マトモな人間ならば、その欺瞞に気付くのが当然だ。

 ジェフ・オーロースキーの演出は“再現ドラマ”の扱いこそ覚束ないが、概ね妥当な仕事ぶりだと思う。なお、私自身はフェイスブックだのツイッターだのといったシロモノには興味は無いが、本作を観ていると関心を持たなくて良かったと、つくづく思う。
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「最後の追跡」

2020-10-19 06:27:01 | 映画の感想(さ行)

 (原題:HELL OR HIGH WATER)2016年11月よりNetflixにて配信。第89回米アカデミー賞の作品賞候補であるにも関わらず、日本での一般公開が見送られた作品だが、ネット経由ながらこうして鑑賞出来るのは有り難い。内容は見応えがある。現代版の西部劇ともいえるエクステリアだが、設定や人物描写に優れたものがあり、筋書きも練られている。本国での高評価も納得だ。

 タナーとトビーのハワード兄弟は、テキサス州西部のテキサス・ミッドランズ銀行の複数の支店に次々と強盗に入る。テキサス・レンジャーのマーカスとアルベルトは、早速事件の捜査に当たる。マーカスは定年退職を間近に控えており、未解決のまま仕事を辞めるわけにはいかないと、着実に捜査を進めてゆく。

 一方ハワード兄弟はオクラホマ州にあるカジノを利用し、奪った金をマネーロンダリングして自宅に持ち帰っていた。2人には手っ取り早く金を集めなければならない事情があり、テキサス・ミッドランズ銀行を狙ったのも理由がある。だがマーカスは犯人たちが特定の銀行しか襲わないことから、行動パターンを調べることに成功。先回りしてハワード兄弟を捕まえようとする。

 粗暴なタナーと慎重派のトビーというキャラクター設定は悪くないが、それにはちゃんと作劇上の裏付けがある。2人がなぜ特定の銀行にしか強盗に入らないのか、どうして金を期限内に揃える必要があるのか、そこには悲しくも厳しい事由があった。アメリカ南部の貧困層のシビアな暮らし、しかしそれでも土地にしがみつくしかない状況、そんな現実がリアリティを伴って提示される。

 マーカスとアルベルトは失われつつある西部魂を持ち続けている存在で、愉快ならざる境遇にあっても正義を貫く心意気はある。この2つのスタンスが正面から激突する終盤近くの展開は、アクションシーンこそ少ないものの、重量感がある。さらには、余韻を持たせたラストの処理にも大いに感心してしまった。

 デイヴィッド・マッケンジーの演出は骨太で、弛緩したところが無い。また脚本担当のテイラー・シェリダン(劇中でカメオ出演している)の仕事も評価されてしかるべきだろう。マーカス役のジェフ・ブリッジスの渋すぎる演技は、長いキャリアを誇る彼のフィルモグラフィの中でも屈指の出来映えと言えよう。ハワード兄弟に扮したベン・フォスターとクリス・パインのパフォーマンスも申し分ない。ニック・ケイヴによるエッジの効いた音楽は場を盛り上げる。
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「TENET テネット」

2020-10-18 06:31:15 | 映画の感想(英数)
 (原題:TENET )クリストファー・ノーラン監督作としては、前回の「ダンケルク」(2017年)に続いての失敗作だ。とにかく“何か思い切ったことをしたい”との気持ちだけが空回りし、肝心の作劇が疎かになり娯楽映画としての体裁を欠いている。作者としては3時間以上の大作に仕上げる予定が興行面での都合により2時間半に削られたらしいが、それを勘案しても評価出来る水準には達していない。

 CIAの特殊部隊に属する“名も無き男”は、ウクライナのコンサートホールで起きたテロ事件を鎮圧すべく現地に向かう。だが、逆にテロリストに捕らえられ尋問を受ける。機密情報を敵に漏らす前に自決しようと、彼は毒薬の入ったカプセルを口にするが実はカプセルの中身は鎮静剤だった。



 船の中で目を覚ました彼は、ある男から“第三次世界大戦を阻止するため、未来からの敵と戦え”という指令を受ける。彼はある研究所で、未来人が作ったらしい時間逆行装置と“時間を逆行する弾丸”の存在を知ると共に、未来の敵を手引きしているらしいロシアの武器商人セイターに接触するため、相棒となるニールと行動を開始する。

 とにかく、劇中にはワケの分からないことが山積している。未来で起こる第三次世界大戦とはいったい何なのか、どうしてその解決を主人公は担わされたのか、なぜセイターは未来勢力の“代理店”みたいなことをしているのか、スタルスク12だのアルゴリズムだのいったモチーフの実体は何なのか等、それらに対する平易な説明は無い。

 しかし問題は“分からないことが多い”ということではないのだ。“分からないことを、(観る側が)分かろうとは思わないこと”こそが、本作の最大の瑕疵である。もちろん、この曖昧模糊とした映画の内実を何とか(こじつけを含めて)解き明かそうという向きもあるだろう。しかし、少なくとも私はそんな気分には全然なれない。なぜなら、映画全体に覇気というか切迫したものが一切感じられないからだ。

 魅力の無い登場人物たちに、イマジネーションに乏しい映像構成、特にアクションシーンの低調ぶりは目に余る。終盤の戦闘場面など、正常な時制と逆行した時間の中で活動する者たちが入り交じってバタバタしているだけで、観ていて鬱陶しい。最後はオチをつけたつもりだろうが、カタルシスは無い。

 主演のジョン・デイヴィッド・ワシントンは、見た目や演技での存在感に欠ける(父親のデンゼルの足元にも及ばない)。ロバート・パティンソンやケネス・ブラナー、アーロン・テイラー=ジョンソンといった面子も精彩がない。ただ、ヒロイン役のエリザベス・デビッキには驚いた。美人で色気があるということより、その190cmという身長には目を剥くしかない。この体格を活かして、今後も時代劇や歴史大作にどんどん出て欲しいものだ。
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「シチリアーノ 裏切りの美学」

2020-10-17 06:58:32 | 映画の感想(さ行)
 (原題:IL TRADITORE)イタリア製のギャング・ストーリーなので、血で血を洗う抗争劇とキレの良いアクション場面の連続かと期待していたのだが、それはあっさりと裏切られる。もちろん、非情な悪者どもの跳梁跋扈は見られるが、実話を基にしているだけに娯楽作品向けのケレンやカタルシスは影を潜めている。個人的には好きな映画ではない。

 80年代初頭のシチリアでは、マフィア同士の争いが激化していた。何とか各勢力を仲裁して“休戦”に持ち込もうとしたパレルモ派の重鎮トンマーゾ・ブシェッタだったが、それは失敗に終わる。彼は妻子と共にブラジルに逃れたが、シチリアに残った親族や仲間たちは敵対するコルレオーネ派により皆殺しにされる。逃亡先のリオデジャネイロから別の場所に移ろうとしたブシェッタだったが、その前にブラジル当局に逮捕され、イタリアに引き渡される。



 一方、マフィアを撲滅させようとする判事のファルコーネは、ブシェッタに捜査協力を依頼。最初は躊躇っていたブシェッタだが、判事の真摯な姿勢に動かされ、犯罪組織コーザ・ノストラの実相を告白する。80年代から90年代前半にかけて展開した、イタリア政府当局とマフィアとの“戦争”を描く実録ドラマだ。

 冒頭にも述べたように、本作にはギャング映画らしい派手な場面はほとんどない。ではその代わりに何があるのかというと、裁判のシーンだ。しかもこれが2時間40分もの上映時間のうち、かなりの割合を占める。この法廷場面はけっこう興味深い。

 広い会場には法曹関係者が数多く集められ、その後ろには牢屋があって容疑者が詰め込まれている。そして囚人たちや傍聴席からは、容赦ない突っ込みや怒号やヤジが飛び交う。実際にどうなのかは知らないが、なかなか面白い構図ではある。しかし、そこで繰り広げられる裁判劇は一本調子で工夫が無く、観ている側は眠気との戦いに終始するハメになる。

 マルコ・ベロッキオの演出は起伏に乏しく、また登場人物が多すぎて名前を覚えるヒマもなく次々と“退場”していくのだから閉口してしまう。主演のピエルフランチェスコ・ファヴィーノは面構えが良く、パフォーマンスも達者。ルイジ・ロ・カーショやマリア・フェルナンダ・カンディド、ファブリツィオ・フェラカーネ、ファウスト・ルッソ・アレジとそれらしい佇まいの俳優をズラリと並べていることは評価したいが、あまり効果的に動かされているとは思えない。
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雫井脩介「望み」

2020-10-16 06:31:33 | 読書感想文

 堤幸彦監督による映画化作品は観る予定は無いが、原作者がけっこう面白かった「火の粉」の雫井脩介なので、この原作小説に関しては楽しめるかもしれないと思って手に取ってみた。しかし、その期待はあっさりと裏切られる。これはつまらない。サスペンスにしては話にメリハリが無く、リアリティを前面に押し出すにしては絵空事の展開が目立つ。正直言って、中盤以降は読むのが辛かった。

 埼玉県の地方都市に住む建築士の石川一登は、妻の貴代美と高校生である長男の規士、長女の雅と共に平穏な日々を送っていた。9月のある週末、規士がフラリと出て行ったきり帰って来なくなった。連絡も途絶え、一登は警察に相談したが、やがて規士の友人が遺体となって見つかる。現場から2人の少年が逃走したという情報が流れるが、関係者によると犠牲者はもう1人いるという。果たして、規士は事件の被害者なのか、あるいは加害者なのか。一登と貴代美の懊悩は大きくなるばかりだった。

 まず、この主人公一家にはまったく感情移入出来ない。事件が起きる前の段階で、規士がケンカして顔に青あざを付けていても、行先を告げずに外泊しても、親はほとんど関知しない。規士は元々サッカー部だったが、ケガのためにプレイを断念しており、そのために大きな屈託を抱えているのだが、そのことについて大して親が心配してる様子はない。

 一登も貴代美も、子供のことより自身の仕事のことが大切であるようだ。雅に至っては、一応は心配するような素振りは見せるが、自身の進学のことが最優先である。事件が発覚してからも、両親はまず自分のことしか考えない。挙句の果ては、一登は息子が被害者であると決めつけ、貴代美は規士は加害者であり、それでも生きてくれればいいと思い込んでいる。

 つまりはこの夫婦は“規士が被害者であるか、それとも加害者であるか”という単純な二者択一しか頭になく、それ以外の可能性、つまり“規士は事件には関係が無くどこかで生きている”という前向きな考えを一切することがない。しかも、その姿勢を作者は批判的に描くこともない。おまけに、親戚や一登の取引先は堂々と規士を犯人と決めつける始末。こんな無茶苦茶な筋書きでは、登場人物に共感するのは無理な注文だ。

 雫井の筆致はキレが無く、犯罪ドラマらしい緊張感に欠ける。特に、過度に説明的なモノローグの多用にはウンザリだ。ラストは予想通りで何の捻りも無い。他の読者はどうなのかは知らないが、少なくとも私にとっては“読む価値のない本”だ。また、斯様なレベルの小説を映画化しても、大して成果が上がるとは思えない。
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