元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ザクロとミルラ」

2009-09-30 06:26:52 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Al Mor wa Al Rumman )アジアフォーカス福岡国際映画祭2009出品作品。珍しいパレスチナの映画だが、残念ながら出来は良くない。伝統舞踊の女性ダンサーのアマルは、広大なオリーブ畑を所有する青年ザイドと結婚する。今期の収穫を終えて家族で祝杯をあげている最中に、突然イスラエル兵士が乱入。農園を没収しようというのだ。抵抗したザイドは逮捕され、敷地にはイスラエル人が勝手に入植し、残された家族は迫害を受けるようになる。

 面白くない原因は、女流監督ナジュワ・ナッジャールの力量が未熟だからである。ヒロインが舞踏に打ち込んでいるのならば、民族の悲劇と伝統芸術とのコラボレーションにより主題をヴィヴィッドに描くという方法を取られるべきだし、事実本作もそのスキームによって映画を動かそうとしている。しかし、ダンスの描写が限りなく淡白なのだ。

 カメラの前でポーズは取ってみせるものの、横溢するパッションや匂い立つエロティシズムといったものは最後まで感じさせなかった。これではダンスというせっかくの素材が本編の添え物に過ぎなくなってしまう。

 ならば映画の本筋に興味が持てるかというと、これも不発。ヒロインが嫁ぎ先と実家との間を、大した理由もなく行き来するシークエンスに代表されるように、物語のポイントがほとんど見えてこない。プロットを強固に積み上げることが出来ないから、ラストの感銘度もほとんどない。それほど長い映画ではないものの、観ている間には眠気さえ催してしまった。

 それにしても、映画でも取り上げられたようにイスラエルの傍若無人ぶりは目に余るものがある。さすがのアメリカも最近ではオバマ大統領の“イスラエルはパレスチナ自治区への入植を見合わせるべきだ”とのコメントに代表されるように、距離を置いたスタンスを取るようになった。元よりイスラエルそのものがイギリスの無軌道な外交に端を発して作り上げられた“人工国家”である。実体的な伝統に準拠しない独善的な国の設立は、その成立時点から矛盾を内包していた。パレスチナ問題はその最たる物だろう。

 ただし、我々がこの状況に対して一方的な見方をしないためには、イスラエルとパレスチナ双方の好戦的分子のプロパガンダに惑わされないような冷静さを持たねばならないのは、言うまでもない。
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「幼獣マメシバ」

2009-09-29 06:25:00 | 映画の感想(や行)

 アジアフォーカス福岡国際映画祭2009出品作品。ポスターや惹句から想像される“動物映画”では全くなく、ペーソスに溢れた人間喜劇として評価したい一作だ。

 主人公の芝二郎は35歳にもなって自宅から半径3kmのエリアから出たことがない引き籠もり気味のニート。父親の四十九日の法要も他人事で、雑事は親戚に任せっぱなしだ。ただ最近家出した母親の行方だけは気になるようである。とはいっても愛情を感じているわけではなく、身の回りの世話をしてくれる人間がいなくなるのが困るからだ。その母親から暗号めいた葉書が届く。居場所を突き止めたかったら謎を解いてみろという挑戦状のようだ。仕方なく二郎は生まれて初めて“外の世界”に飛び出すことになる。

 映画は予想通り、社会から隔絶されていた主人公の成長物語という図式で動くが、これを直截的に描いてもあまり面白くはない。本作の特色は、多種多様なキャラクターと小道具を配して起伏のあるドラマ作りを実現させている点だ。

 主人公と現実世界との接点になるのが、タイトルにもある豆柴の子犬である。こいつが尋常ではない可愛さで(笑)、どんな冷血漢でも心を許してしまうだろう。さらに“ペットの合コン”で知り合った若い女が彼の手助けをする。当初はどうして彼女が二郎みたいな痛々しい奴と行動を共にするのかと疑問に思うが、終盤に明かされるその理由は実に切ない。そして共感してしまう。彼女の親族も“香ばしい”キャラクターが揃っているし、二郎の両親に至ってはとんだ食わせ物だ(笑)。

 では二郎はどうかというと、これが主役にふさわしい強者(?)である。演じる佐藤二朗の特異すぎる個性が全面展開していて、行く先々でおちゃらけのオーラを放ち場を盛り上げる(爆)。減らず口を叩きながらも、けっこう(彼の立場としては)筋の通った物言いをしているあたりも可笑しい。ヒロイン役の安達祐実をはじめ渡辺哲、佐藤仁美、西田幸治(笑い飯)と多士済々な面子が持ち味を発揮し、笹野高史と藤田弓子の海千山千ぶりは言うまでもない。

 亀井亨の演出はオフビートながらツボを押さえた玄妙なもので、最後までテンションが落ちない。そして痛快なラスト。人間、いかに不遇な状況でもやる気とチャンスさえあれば何とかなってしまうものだという、作者の楽天性が垣間見えて微笑ましい。聞けばTVドラマからのスピンアウト企画だというが、これだけ楽しませてくれれば“テレビ番組の二次使用は遺憾だ!”などと野暮は言うまい。とにかく観て決して損はしない快作である。
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「あなたなしでは生きていけない」

2009-09-28 06:27:04 | 映画の感想(あ行)

 (原題:No Puedo Vivir Sin Ti )アジアフォーカス福岡国際映画祭2009出品作品。何だか、気が滅入ってくるような映画だ。冒頭、台北の市街地で幼い娘を抱えて飛び降り自殺を図ろうとする中年男が映し出される。それから映画は時制を巻き戻して、その自殺騒動に至った過程を描くが、どうもこれが観る者を納得させるような筋書きにはなっていない。

 高雄市の港湾地区に住むこの親娘は、古びた船に許可無く勝手に入り込んで寝起きしている。父親はモグリの潜水夫で、生活はその日暮らしだ。この娘は父親が既婚者の女と同棲していた時に出来た子供で、件の彼女はとうの昔に彼を捨てている。だから娘には戸籍が無く、小学校にも通えない。父親は戸籍取得のために奔走するが、役所も警察も政治家もマトモに取り合ってくれない。悲観した彼は前述の暴挙に出るわけだが、困ったことに観る側にとってこの主人公には感情移入できないのだ。

 彼はとことん愚かである。自らの置かれた立場を理解せずに、厚い行政の壁にぶち当たっては跳ね返され、挙げ句の果ては騒ぎを起こして収監されるまで我に返ることはない。もちろん、愚かな人間を描くこと自体は問題はない。ただし、そこに作者の“普遍的な視点”がなければならない。たとえば徹底的に突き放したり、逆に大いに共感を示したり、その上でどういう方向に人間描写のステージを上げていくか、そういうスキームが必要だ。

 ところが本作にはそういう映画作りの“戦略”が感じられない。愚かな人間に対して漫然とカメラを回していれば、何か描けると思っているようだ。どうせならば自殺騒動そのものを全編に渡って引っ張り、警察との駆け引きの中で回想場面を挿入していく方法を取った方がまだ良かったのではないか。

 あまりケナすのも何なので、良かった部分も指摘しておこう。それは本作がモノクロで撮られているところだ。もしもカラーだったら主人公の惨めな生活がリアルに迫りすぎて、観る側の忌避感はもっと増していたことだろう。また、親娘が高雄と台北とをバイクで行き来する際に、イメージショット的な風景の点描が違和感なく織り込まれるが、これが白黒画面らしい清澄な美しさを醸し出していた。

 ただし、バックに流れる音楽はセンチメンタルに過ぎる。全編BGM無しで貫いた方が効果的だったと思う。監督はレオン・ダイという人物だが、取り立てて才能のある作家ではないと見た。主演のチャオ・ヨウシュエンは好演。子役も達者だ。しかし、それだけでは評価出来ない。
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「マチャン/大脱走」

2009-09-27 06:48:33 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Machan)アジアフォーカス福岡国際映画祭2009出品作品。いまいち視点が定まらない映画だ。コロンボのスラム街に住む食い詰めた連中が、海外への出稼ぎを目論んでドイツの労働査証を申請するが、当然の事ながら却下される。ところが偶然ドイツでハンドボールの国際大会が開催されることを知った彼らは、国の代表なら招待されると踏み、ハンドボールの何たるかも知らないまま人数をかき集めて“スリランカ代表チーム”をデッチ上げる。

 何やら英国流下層階級コメディ(なんだそりゃ ^^;)と「クール・ランニング」を合わせたようなネタで、しかも実話を元にしている。上手くやれば痛快爆笑編と相成ったところだが、どうも段取りがよろしくない。

 確かに、登場人物の置かれたシチュエーションは実にヘヴィである。絶望的なまでの貧富の差。彼らにはまともな職もなく、日雇いの仕事でもらった金はバクチでスッてしまう。さらには実質的なアパルトヘイトもどきの人種隔離状態が存在し、この閉塞感は並大抵のものではない。

 しかし、登場人物達のスリランカでの境遇を描くパートが必要以上に長いのだ。描くに値する題材であることは分かるが、本作は“ハンドボールの国際大会云々”というネタがしっかりと控えており、それに向かって全てのモチーフをテンポ良く滑走させなければならない。その意味でスリランカでの苦境を突っ込んで描くことは、作劇全体に負担が掛かるのだ。

 しかも、何とかドイツに入国したはいいが逃げる間もなく試合に駆り出された彼らの行動は一貫していない。一度は愛国心に燃えてプレイしようと誓うが、その舌の根も乾かないうちに自分勝手な振る舞いに走る。要するに、作者自身が登場人物達の心境を測りかねているのだ。たぶん彼らは“いちおう国の代表だから・・・・”なんてことを思ったことは全くないのだろう。如何にしてトンズラを決め込むかということしか頭にない。

 ならば愛国心がどうのといった小ネタを披露する必要はなく、試合会場からの脱出作戦を面白可笑しく描けば良かったのだ。たぶんこれは監督が外国人(イタリアのウベルト・パゾリーニ)だというのも関係しているとも思われる。国の代表たる自覚が少しは芽生えるはずだという希望的観測を、何とかして挿入したかったのだと想像する。

 ところが、当事者としてはそんなことは知ったことではない。そのあたりの見識の甘さが作品自体の居心地の悪さに繋がっている。なお、実際の彼らはいまだ行方不明だという。国も家族も捨てて恥とも思わない連中のことを取り上げる必要があったのか、それも疑問ではある。
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「(ハル)」

2009-09-19 07:05:52 | 映画の感想(は行)
 96年作品。おそらく世界初の“パソコン通信を題材にした映画”である。東京に住む食品会社勤務の昇(内野聖陽 ID:ハル)と盛岡在住の美津江(深津絵里 ID:ほし)は映画フォーラムのチャットで知り合い、メール交換を始める。最初は本音を隠して相手の出方を探る二人だが、次第に惹かれ合うようになる。監督はお馴染みの森田芳光。

 これは実にチャーミングな佳篇である。しかし、勝因はなんと“パソコン通信を題材にしようとして原案を練ったわけではない”ということなのだ。“映画において文字を読ませるにはどういう方法があるかと考えたときに、パソ通があるなと思いついた”(by 森田)。映画のテーマは通常は演技や映像、セリフによって語られるが、もし文字によってそれが可能ならば従来とは違うテーマの切り口が得られるのでは・・・・と考えること自体がノーマルな映画人らしい野心の持ち方であり、決してマニアのそれではない。

 単なるパソコンおたくが映画を作るとメカやネットワークに対する説明に終始し、ストーリーもナゾのオンラインソフトをめぐるサスペンスものとか、回線を通じてのゲーム合戦とか(笑)、どうやっても“ネットワーキングの映像化を目指す”ことを出発点にしているため狭い世界に入りこんでしまうと思う。対してこの映画はマニア的趣向を排除し、メニューもチャットと電子メールしか出てこない。

 根底はラブストーリーであり、ネットワーキングは二人のコミュニケーションの手段であり、それが文字だけであるため様々な誤解を生むが、逆に気持ちを文字として整理するため心情の揺れが的確に表現されてしまう。特に前半、ほしはネット上で男だと名乗っていて、それはウソなのだが文面に自分を偽る痛々しさが出ていて、それがハルによって頑なな心が和らいでいくプロセスをこれまた文字だけで表現していく展開には、作者のコミュニケーションに対する真摯な態度が窺われてこころよい。

 映像的仕掛けの面白さは全盛期の森田をほうふつとさせる。ディスプレイ画面の描写が全篇の半数以上を占め、一見そっけないが、文字の出てくるスピードや行数などに細心の注意が払われており、見ていてあまり疲れない。新幹線に乗ったハルと線路の近くにいるほしがハンカチを降り合ってお互い知らせる場面は特に素晴らしい。顔は知らなくても確実に相手は存在している、そんな不思議な感覚が画面を覆い、ビデオの粗い映像と共に強く印象に残る。

 目からウロコが音をたてて落ちたのは、主人公の二人が過去に送ったメールのタイトルをスクロールするところ。二人の心境の変化の履歴が一目瞭然で、まさにネットワーキング以外では不可能なアプローチだ(たとえば手紙ではこうはいかない)。あと作劇面では、エッチなことばかりメールに書いてくるヘンな女の子(戸田菜穂 ID:ローズ)が主人公二人にからむくだりが面白い。反面、ほしに結婚を迫る屈折した青年実業家や彼女の昔の恋人(事故死している)の友人が出てくる場面はつまらない。奇をてらってハズしてしまうこの監督の悪い癖が出ている。

 文字だけで真心が、好意が、賛同が、批判が、そして恋愛感情さえもが伝わってしまう電脳メディアの不思議。またそれを可能にしてしまう人間の心の奥深さ。今日のようなインターネットが普及する以前に、通常の意志伝達の手段とは別のコミュニケーションの方法を持ってしまったネットワーカーの幸運(あるいは不運?)を実感せずにはいられない。野力奏一の音楽と高橋比呂志の撮影も要チェック。
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「キラー・ヴァージンロード」

2009-09-18 06:31:29 | 映画の感想(か行)

 上野樹里の存在だけが、何とか最後まで映画を保たせていたという印象だ。岸谷五朗の初監督作(脚本も担当)であるこの映画は、とにかく作劇がお粗末だ。何より、作者が“こうやると、観客は面白く思うはずだ”と一人で勝手に合点している様子がミエミエなのである。例えるならば“ジョーク言ったぞ、さあ笑え!”という三流芸人みたいな思い上がりが前面に出ている。

 結婚を目前に控えた冴えないOLのヒロインが、ひょんなことからアパートの大家を誤って殺害。死体をスーツケースに詰めて富士の樹海に“捨て場所”を求めるが、そこで出会ったのが自殺願望がありながら肝心なところで死にきれないというヘンな女。人を殺した女と、人から殺されたい女との珍道中が始まるが、それからの筋書き・段取りが退屈極まりない。

 おかしな暴走族とのからみや若い警察官との追いかけっこは必要以上に長く、謎の凶悪犯二人組のエピソードは不良消化で、ヒロインの祖父との思い出話なんか話のツボが見えない(いや、実際は見えているのだが、見せ方が平板に過ぎるため、結果として見えないのと一緒)。いわばつまらない話をカバーしようと、さらにつまらぬ話を重ねたような工夫の無さが鑑賞意欲を減退させる。

 そもそも、冒頭のミュージカルシーンからしてダメだ。振り付けも画面処理も素人レベル。楽曲もパッとしない。それでもこのミュージカル路線を全編引っ張ってくれれば愛嬌があったのだが、これ以後はショボい歌と踊りのシーンが数回出てくるだけで、ラスト近くになると影も形もない。ならば同様に最初の方でしつこく挿入される不条理的ヘンタイ路線はどうかというと、これもいつの間にやら立ち消えだ。ドラマツルギーに一貫性が無く、行き当たりばったりに与太話を垂れ流す。世間を馬鹿にしているとしか言いようがない。

 それでも、我が国が誇る若手コメディエンヌ・上野の頑張りは観客を中座させないだけの価値はある。出てくるだけで周囲におちゃらけの空気を充満させる存在感は、いつもながら大したものだ。対してヒドいのが相手役の木村佳乃。以前からも言ってるが、木村は女優を辞めた方が良い。彼女のように色気も演技力もスクリーン映えするオーラもない“単なるタレント”が出る余地は、本来日本映画にはないのだ。

 それと気になるのが、あまり意味もなく出てくる眞木大輔。またしてもEXILEのメンバーの登場だが、当方はこのグループにはこれっぽっちの興味もない。映画に出演させる価値のある俳優は他にもたくさんいるはずだが、今回どうして彼なのか、実に理解に苦しむところである。
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「オーシャン・オブ・ファイヤー」

2009-09-17 06:23:02 | 映画の感想(あ行)
 (原題:HIDALGO)2004年作品。全然面白くない、腑抜けた映画だと思う。19世紀アラビアで行われていた沙漠横断レースに参加したアメリカのカウボーイと野生馬・・・・という、いくらでも面白くなりそうな題材を取り上げながら、主眼のレース以外のネタがあまりにも多く、さっぱり盛り上がらない。

 部族長の跡目争いだの主人公の出生の秘密だのというエピソードを大幅に挿入する必要はない。単純にレースそのものをケレン味たっぷりに追えばよかったのである。おまけにコースの地理的状況も詳しく描かれず、話がどこまで進んでいるのか全く把握できない。そもそもジョー・ジョンストン監督が得意とする“空撮シーン”がラストを除いて皆無で、どうして彼が起用されたのか理解不能だ(マイケル・ベイだとかローランド・エメリッヒだとか、もっと適任の者が他にいたはずだ)。

 キャスト面でも、主演のヴィゴ・モーテンセンと久々登場のオマー・シャリフはまあ良いとして、それ以外のキャラクターがほとんど印象に残らない。しかも女優陣が不細工揃いで鑑賞意欲も減退。一番目立っていたのが野生馬のヒダルゴ君だったというのは、笑うしかない(それが狙いだったのかもしれないけどね)。ジェームズ・ニュートン・ハワードの流麗な音楽だけが救いである。
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「サブウェイ123 激突」

2009-09-16 06:29:51 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The Taking of Pelham 123)観ている間は退屈しないが、劇場を後にすると忘れてしまうような映画である。もっとも、それが悪いわけではない。観ているときには楽しませて終わったら後味スッキリというのが娯楽映画の王道パターンである。ましてや監督がトニー・スコットだ。後々尾を引くような作劇の深さとは無縁なのは仕方がない(笑)。

 74年に作られた「サブウェイ・パニック」のリメイクだが、前作は私は観ていない。だから“前と比べてこう違う”なんてことは言えないが、単体としてはまとまった出来だと思う。ニューヨークの地下鉄が乗っ取られ、巨額の身代金を要求される。たまたま犯人からのメッセージを受信した運行担当者が、最後まで事件に付き合わされることになるが、まず考えられるオチとしては“この地下鉄職員は犯人とグルではないのか”ということだ。しかし、劇中の警察もそれを疑うものの、実はそうではなく単純な追跡劇だったというのは芸がない。

 犯人はかつてバブル期に大儲けした金融マンという設定ながら、それが犯行にどう結びつくかというと、実はそのあたりは練られていない。さらに期限内に身代金を持ってくることが困難であることが予想されているにもかかわらず、ヘリコプターで運ばずに車を使用するなんてのも噴飯ものだ。

 だが、これらの不手際をカバーすべくこの監督は徹底して映像ギミックを挿入する。観客がチラチラとした画面に気を取られている間に、脚本の詰めの甘さは忘れてもらおうという作戦らしい(爆)。また、今回はそれが功を奏しているのだから面白い。不運な地下鉄職員に扮するデンゼル・ワシントン、屈折した犯人役のジョン・トラボルタ、両キャラクターとも内面描写はほとんどされていないが、役者の面構えで乗り切ろうとしたようだ。終盤にもう一捻りした展開を望みたかったが、これはこれでまあ許せる。

 ストーリー面で興味深かったのが、ワシントン演じる職員が業務上収賄を疑われていること。車両の調達に関してメーカーから賄賂を貰ったのではないかと、内部調査が行われているのだが、この業者が日本の企業で、しかも他の調達候補もすべて国外なのである。いつからアメリカは地下鉄の車両ひとつ作れない“製造業後進国”に成り下がってしまったのだろうか。産業の空洞化とマネーブローカーの暗躍。何やら米国の明るくない将来を象徴しているようである。
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「閉ざされた森」

2009-09-15 06:17:25 | 映画の感想(た行)
 (原題:Basic )2003年作品。パナマの森林地帯で訓練中の米陸軍レンジャー部隊行方不明事件にまつわるミステリーを描くジョン・マクティアナン監督作品。ひとつの事件について関係者の証言がまったく異なっていくというシチュエーションは黒澤明の「羅生門」と同じだが、今回は現場が山の中で、しかも土砂降りの雨という設定も「羅生門」と共通で、バックに流れるのが「ボレロ」なのだから、これは相当に「羅生門」を意識した作りだ。パクリと言ってもいい。

 ただし、出来映えにはかなりの差がある。第一に、キャラクター設定が未消化だ。レンジャー部隊の人数が多すぎる上に、当然ながら皆同じ服を着ているため容易に見分けが付かず、そのため各証言が他とどのように違うのかハッキリしない。少なくとも、もっと名の知れた俳優を多く起用して観客にも人物関係を分かりやすく説明するべきではなかったか。

 “探偵役”として登場するのがジョン・トラボルタというのも胡散臭いが、一癖ありそうに見えてラスト近くには“やっぱり”と思わせて実は・・・・といったオチも、何やら“ドンデン返しのためのドンデン返し”とも思えて、どうも釈然としない。麻薬にまつわるエピソードも取って付けたようだ。

 とはいえ、マクティアナン作品にしてはマシな部類に入るし、上映時間も犯罪的に長くないので、観賞後はそう気分が悪くなることはなかった。ビデオで細部を何度も確認しながら見る方がピッタリくるような映画だと思う。
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「3時10分、決断のとき」

2009-09-14 06:58:55 | 映画の感想(英数)

 (原題:3:10 to Yuma)この映画の作劇上のハイライトは、それまで人畜無害に思われた街の連中が端金に目がくらんで易々と悪党団の話に乗り、主人公達を追いつめる側に回ってしまうという終盤近くの短いシークエンスだ。

 本作でのメイン・プロット、つまり借金を返すため不自由な足を引きずりつつ容疑者の護送を買って出る主人公ダンと、護送される強盗団のリーダーであるベン・ウェイドとの奇妙な連帯感を綴ったくだりは、正直言って説得力があるとは言えない。いくら拘束されているとはいえ、相手は凶悪なギャングのボスだ。事実、道中何度か単独行動に出て周りの者を殺しまくっている。

 人生の達人という触れ込みで、時折含蓄のあるセリフを吐き、切迫した事態に直面しながらも手近な風景をスケッチする余裕も忘れない傑物のベンだが、しょせんはお尋ね者だ。凡夫ながらも逆境に耐えて地道に生きようとするダンの方がよっぽど偉い。

 本来は交わることのない二人が、少しばかりハードな遠乗りを一緒に経験したぐらいで、そう簡単に共感し合うわけがない。ところが、冒頭述べたような場面を挿入することでダンとベンとの曖昧な関係が強固なものに思えてくるのだ。欲得尽くで簡単にポリシーを変える愚民達よりも、損得を超えた男同士の絆が実に良く光って見える。逆に言えば、このシーンがなければ元々骨太のドラマなんか生まれない設定だ・・・・ということにもなり、そのあたり微妙なものを感じないでもない(^_^;)。

 ジェームズ・マンゴールドの演出は弛緩したところのない堅実なもの。ストイックなまでにシークエンスを積み上げ、終盤の活劇シーンも緊張感たっぷりだ。アクション場面自体が独立的に観客を楽しませるものではなく、ドラマの流れの中で登場人物が切迫した状態になった結果引き起こされるというスキームを経ているため、重量感とキレの良さが程よく加味されている。

 主演のクリスチャン・ベイルとラッセル・クロウは好調。特にクロウは映画によっては役柄よりも役者自体の存在感が前に出てしまうことがあるが、本作では抑制されたパフォーマンスに専念していて好感が持てる。脇の面子も悪くない。

 なお、この作品はエルモア・レナードの原作による「決断の3時10分」(57年製作)のリメイクである。前作は観ていないが、当時は西部劇の全盛期であったことから日本公開もスンナリ決まったのであろう。ところが、この再映画化は完成してから2年間も輸入されなかった。今更ながら我が国における西部劇の興行的地位の低下を目の当たりにするようで、ちょっと寂しい気持ちになったものである。
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