元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「トランスフォーマー」

2007-08-31 06:44:14 | 映画の感想(た行)

 (原題:Transformers)基本的にお子様向けの映画であるが、それに専念していないところに居心地の悪さがある(-_-;)。

 冒頭、中東のカタールの米軍基地が突如突然二足歩行ロボットに変形した軍用ヘリコプターにより壊滅させられる場面があるが、このシークエンスはかなり怖い。なぜならこの“油断しているとやられる”という構図は現在のイラクなんかの状況(自爆テロなど)と変わらないからだ。そして、生き残った米兵がサソリ型のロボットに追われて小さな村に行き着くと、そこは反政府ゲリラの巣窟だと思われても仕方がないほど武器が満載だったというのも相当キツい。もちろん宇宙からの強大な敵を前にしてはアメリカだアラブだと言っていられる余裕はなく、共同して何とか撃退はするのだが、こういう現実を照射したようなモチーフには全編に渡るハードな展開を期待させるものがあった。

 が、面白かったのはそこまでだ。気弱な男子高校生(シャイア・ラブーフ)と、学園のアイドル的存在の女学生(ミーガン・フォックス)とのラブコメに移行すると一気に映画は失速。そして彼が父親に買ってもらったポンコツ車が“善玉のトランスフォーマー”たる正体を現すシーンからは、子供だましのおちゃらけにレベルダウンしてしまう。あとはテレビのロボットアニメのごとく、組んずほぐれつのバトルが延々と続くのみ。

 元はタカラの人形シリーズであり、それが低年齢層用のテレビアニメに移行したシロモノの実写映画化なので、幼稚な作りになっても仕方ないのかもしれないが、一応大人の観客も劇場に足を運ぶのだから、もうちょっと話を練り上げるべきではなかったか。

 異星からの侵略に右往左往しているのがアメリカだけという不思議、ストーリーの鍵を握る“キューブ”とかいう物体の位置づけの曖昧さ、重要な小道具になっているはずの“星間座標が焼き付けられた骨董品のメガネ”についても扱いが尻切れトンボだし、何より侵略の“主要メソッド”である地球上のあらゆる機械をトランスフォームさせるという企みが中途半端に終わっているのが痛い(描きようによっては高インパクトの展開になったはず)。

 肝心のロボット同士のアクション場面も“ああ、しょせんCGね”と軽くあしらわれるような芸の無さだし、第一ガチャガチャとうるさいだけで何がどうなっているのかよく分からない。少しは引きのショットを多用して情勢を具体的に示すような工夫をしろと言いたい。このあたり、マイケル・ベイ監督&スティーヴン・スピルバーグ製作総指揮という、脳天気コンビの資質が全開していると言えよう(爆)。子供を連れての夏休みの家族サービスには向いているが、少しでもマジメに接するとバカを見る映画だ。
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「ユマニテ」

2007-08-30 06:51:47 | 映画の感想(や行)

 (原題:L'Humanite)99年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞したブリュノ・デュモン監督作品。主演のエマニュエル・ショッテとセヴリーヌ・カネルも主演男優賞と女優賞を受賞。

 たぶん何の予備知識もなくこの作品に接したならば誰でも“暗くて長くて退屈な映画”だと思うはず。しかし前項の「ジーザスの日々」とセットで観ると主題が明確に浮かび上がってくる。「ジーザスの日々」が“イエスが降臨しても救えないであろう世界”をミクロ的に描いたのに対し、この作品は“降臨したイエスが世界を救えず立ち往生する様子”を具体的かつマクロ的に描いているのである。

 そのイエスとは、フランスの田舎町で起きた幼女殺人事件を捜査する主人公の刑事である。それは美術館で彼がキリストの生誕と殉教の絵の間に立っているシーン、そして空中浮揚するかのごとく荒野を一睨する場面等で明示されている。彼と女友達との間柄は、キリストとマグダラのマリアとの関係を表しているのだろう。彼は有能な警官には見えないが、捜査の途中で出会う人々の心の痛みを共有し、抱きしめて慰めることが出来る。しかし、それ以外は何も出来ない。被害者の遺族や精神病院の看護人の苦悩がわかっていても、彼はただ涙を流すばかり。そして真犯人の心も救えない。

 ここにはアンドレイ・タルコフスキー監督の傑作「サクリファイス」のように、自分を犠牲にして世界を救おうとするような殊勝な登場人物は出てこない。それどころか劇中で頻繁に出てくる教会にさえ誰も(主人公でさえ)足を運ばない。すべてが腐って沈んでいくだけだ。宗教の無力性と神の不在。どうしようもない人間たちを前に、降臨したイエスは哀しみと諦念を胸に佇むだけである。

 絵画的な画面構成、そして自然の風景の素晴らしさは相変わらずで、それだけに荒涼とした登場人物の内面が強調される。「ジーザスの日々」と同じく観ていてちっとも楽しくない映画だが、作者のシビアな問題提起がいつまでも尾を引き、その点がキリスト教人種(欧米人)に評価されたのだろう。ただし、考えようによっては作者の独善に過ぎないのかもしれないけどね。
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「ジーザスの日々」

2007-08-29 06:37:23 | 映画の感想(さ行)

 (原題:La Vie de Jesus )97年に製作されたブリュノ・デュモン監督のデビュー作で、同年のカンヌ映画祭でカメラドール(新人監督賞)を受賞している。

 退屈な田舎町に住む失業中の少年がバイクとセックスに明け暮れた末、破滅していく話。映画を観たら誰しも“これのどこがキリスト(ジーザス)の話なんだ?”と疑問を持つと思うが、よく考えると納得できないこともない。主人公の友人の兄はエイズで死にかけているのだが、その病室にかけられている絵が「ラザロの復活」。そして一番のポイントが主人公が「てんかん持ち」だということだ。

 キリスト教に限らず、宗教に付き物の“奇跡”とは、「てんかん持ち」の熱狂的な信者が発作時に見る幻覚だという説があるらしい。この症状に似たようなのが“臨死体験”とか“宇宙人に誘拐された体験談”なのだという。そして「てんかん」の患者にとって発作とそれからの回復は小さな“死と再生”を経験するということらしい。作者はこの“死と再生”をキリストの殉教と復活になぞらえているのかもしれない。

 ただし、主人公はキリストとは違い、自分も周囲の人々もまったく“救われない”状況に置かれている。こんな世界にたとえイエスが降臨しようと、何も変わらないし変えようがない・・・・そんな諦念と無常感が作品を覆っているかのようだ(もっともその無常感は登場人物の個々の内面に起因しているだけで、世の中全体がマクロ的にそうだと言ってるわけではないのだろうけど)。

 観ていて全然面白い映画ではないが、主題について観客が考察する機会を与えるという意味では存在価値はあるのかもしれない。あと、古典派の絵画を思わせるような映像の構築力も見逃せないところ。
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「リトル・チルドレン」

2007-08-28 06:43:56 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Little Children )ボストン郊外の住宅地を舞台に、そこに住む人々の不倫や家庭内不和などをはじめとする小市民ぶりを容赦なく暴くトッド・フィールド監督作だが、ケイト・ウィンスレット扮する人妻のよろめきドラマなどは正直どうでもいい。本作で一番重要なのは小児相手の性犯罪歴のある中年男(ジャッキー・アール・ヘイリー)とその母親(フィリス・サマーヴィル)とのエピソードである。

 性犯罪の前科のある人間を公表することの是非はここではクローズアップされていない。ハッキリ言って公表されて当たり前だと思うし、それが成されていない我が国の状況こそがおかしいとは思うが、それはさておき、本作で重要視されているのはこの親子と周囲との対比の方だ。

 いくら不倫に溺れようがアダルトサイトを見ながらの痴態を暴露されようが、それは公園での奥さん連中による井戸端会議の延長線上でしかない、まったりした日常のほんの少しのイレギュラーな“寄り道”である。それを端的に示すのが、パトリック・ウィルソン演じるウィンスレットの不倫相手が、大事なところで道ばたのスケボー少年達に気を取られてバカなことをやってしまうくだり。結局、ヨソの奥さんとよろしくやる行為など、リクリエーションのひとつではないかといった作者の皮肉な視点が見て取れる。

 ところが前科者とその家族にとっては、平穏であるはずの日常が犯罪行為によってとうの昔に反古にされている。その絶望的な格差。一般市民の“刑務所帰りの人間を疎外させる”といったナイーヴな意識も正常な日常を確保している上での話だ。実は映画全編において前科者とその母親とが扱われるパートは時間的に少ない。しかしそれだけ小市民たちの倦怠にあふれた日々を長く映し出すことにより、終盤での前科者の行動が凄まじいインパクトを持って迫ってくるのも確かである。

 そして彼を糾弾する急先鋒になっていた元警官も、とてつもなく暗い“過去”を抱えていたことが明らかにもなるのだが、とにかくあり得べき“日常”を手にしている者とそうでない者との救いようのない断絶を明らかにしたフィールド監督の人間観察は、前作「イン・ザ・ベッドルーム」より一段と研ぎ澄まされていると言えよう。

 スタッフ面で感心したのが、撮影のアントニオ・カルヴァッシュ。彩度を落とした殺伐とした印象の画面作りが、登場人物たちの満たされぬ心象を的確に表現しており、秀逸であった。
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CD生誕から25周年。

2007-08-27 07:54:37 | プア・オーディオへの招待

 今年で音楽用CDが出来てから25年経つという。25年前の82年8月17日、蘭フィリップス社が世界初のコンパクト・ディスクを西ドイツ・ハノーヴァー近郊の工場で製造。最初にプレスされたのはABBAの「The Visitors」だったらしい。同社のプレーヤー第一号機「CD100(写真参照)」をはじめ、各社のCDプレーヤーは同年末月に日本でも発売され、同時に150タイトルほどが発表された。それ以後、CDの世界での累計販売枚数は2千億枚に及んでいるという。

 私が初めて聴いたCDプレーヤーが、その82年末に出た製品群であった。期待して接したのだが、印象は最悪。ギスギスした、それでいて情報量は少なめの、要するに“ボケた音”でしかなかった。少なくとも、まともなアナログプレーヤーで鳴らすレコードの音の足元にも及ばない低劣なものである。ところが、新しいメディアというものはイノベーションも早いのか、翌83年から発売されるようになった第二・第三世代のプレーヤーは格段に聴きやすい音になった。第一世代のプレーヤーはカセットデッキと同じようにCDを縦に装着する形式が多かったが、第二・第三世代からは現在と同じようにディスクをトレイに横向きに載せて装着するシステムになり、たぶんこの方が動作中のディスクが安定するからという理由もあったのかもしれない。で、我が家にCDプレーヤーが入ったのは84年からである。

 そのプレーヤー(ONKYO製)は定価が14万円ほどだったと記憶しているが、それでも当時の相場では安価な部類であった。その頃で一番安いのがSONYやYAMAHAの10万円弱の製品で、一般ピープルが気軽に買えるような機器ではなかったのだ。

 その状況が一変したのが85年である。この年、蘭フィリップス社がベルギーの工場で生産し、MARANTZブランドで売り出したCD-34という画期的な機種が出現する。価格は誰でも手が出せる59,800円。幅が32センチという今で言うミニコンポのサイズでありながら7kgもの自重で、振動対策にも気を遣ったガッチリとした構造を持つ、オーディオマニアも納得する仕様を誇った。当然の事ながら、この商品は爆発的に売れ、他のメーカーも一斉にその価格帯に追随したので、CDプレーヤーは音楽ファンの必需品としてまたたく間に認知されることになる。そしてはじめは一枚3千5百円、中には4千円以上のものもあったCDソフトの小売価格も、リーズナブルな線に落ち着いていく。

 マニアの間では“CDの出現が我が国のピュア・オーディオの落日をもたらした”との定説があるらしいが、私はそうは思わない。もちろん、よく調整されたアナログプレーヤーで鳴らすレコードの音は今でもヘタなCDの音を凌駕することが少なくない。しかし、一般ピープルがそういうまともなアナログプレーヤーを入手することは、CDの出現前でさえ難しいことだったのだ。対してCDプレーヤーはディスクを入れてスイッチを押せば、レコードみたいな傷や静電気によるノイズもなく、内周で音が劣化することもなく、A面が終わったらディスクをひっくり返す手間もなく、どんな安いプレーヤーでも最低限の音は出てくるという意味で、インターフェースの簡便化による音楽ファンの裾野を広げた功績は大きいと思う。

 当初、周波数特性が中途半端(高域が20KHzまで)である点が取り沙汰され、私もそれは問題だと思ったのだが、通常CDでもプレーヤーを追い込めば素晴らしい音が出てくることは実証済みだし、何よりスペック面をあげつらうより先に“取り扱いが便利”ということで膨大な数のソフトの量が流通してしまったことで“勝負あり”になってしまったのだ。

 次世代音楽ソフトと言われたSACDやDVDオーディオがさっぱり普及しないのも、現行CDと比べてインターフェース面で変わらない点が原因である。そもそもソフトの数ではSACDやDVDオーディオは微々たるものだから、それらが主流になるはずもないのである。ちなみにDVDオーディオはすでに絶滅状態、SACDも撤退の噂を聞いている。

 さて、本当に日本のピュア・オーディオの落日をもたらしたものは、CDの出現ではなくインターネットである。その要因は、アナログレコードもCDも、曲がりなりにもマスターテープの音を忠実にリスナーに届けようという意図で製作されたものであるのに対し、ネットからのダウンロードは、当初から圧縮されたスカスカの音である点だ。つまり“安かろう悪かろう”の商品が大手を振ってまかり通っているわけだ。しかも、CDとは違ってショップに行ってディスクを購入する必要もない。簡便性において他のどのメディアよりも勝っている。

 “悪貨が良貨を駆逐する”という状況が音楽ソフトの世界でも起こっているわけで、しかも圧縮されたソースが幅広く流通するのならば最初から圧縮されてもいいようなスカスカの音造りをした楽曲しか送り手がリリースしないのも道理だ。昨今のJ-POPの絶望的なまでの録音の悪さ(まあ、すべてではないけど ^^;)もそれで頷ける。

 欧米でも当然ネットからの音楽ソース提供は大きなトレンドになっているハズだが、ピュア・オーディオが大きく斜陽になったという話は聞かない。それどころか、次々と新しいメーカーが紹介されている。これは結局、音楽そのものが“文化”として根付いているかどうかの違いであろう。圧縮音源ではとても聴けないような“まっとうな音楽”を愛する者の絶対数が、日本と欧米とでは大きな差があるということだ。

 まあ、別にネット配信が主流になろうと、音楽ファンにとっては関係ない。どんな音を好もうと、個人の勝手だ。しかし、それによりCDの小売市場が縮小してしまうのは、困る。CDはネット通販でも入手できるが、やっぱり現物を手に取って見たいし、話題の新譜をちゃんとした環境で心ゆくまで試聴したい。

 CDが誕生して25年。たぶん“店で売られるパッケージ音楽ソフト”としてはCDが最後の形態になるだろう。いずれにしろ、大きな曲がり角に来ていることは確かだ(←何だか、ありがちな締めになって恐縮至極 ^^;)。
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「怪談」

2007-08-26 07:53:26 | 映画の感想(か行)

 三遊亭圓朝の代表作「真景累が淵」の(たぶん)4回目の映画化。何やらピンと来ない作品だ。そもそも話の辻褄が合っていない。

 冒頭、一龍斎貞水による講壇で物語の前段となる高利貸しの宗悦が債務者である侍の新佐衛門に取り立てに行ったところ逆ギレした相手に斬り殺されてしまうこと、そして後に新佐衛門は乱心して妻を斬った挙げ句に自殺してしまうくだりが語られる。時が経って、宗悦の娘と新佐衛門の息子が互いの生い立ちを知らずに恋仲になることで惨劇の幕が上がるのだが、困ったことに宗悦の受難のエピソードがその後の展開にまったく絡まない。

 当初は原作がそうなっているからだと思ったのだが、過去3回の映像化作品(いずれも未見だが ^^;)の粗筋を読んでみると、どれもちゃんと宗悦と新佐衛門の関係がストーリーのバックグラウンドとして機能しており、ならば今回は脚色のミスであると言うしかない。これでは、暗い因縁を持つ男女がその業から逃れられずに堕ちてゆくという骨太の物語性は希薄になり、単に深情けの年増女に捕まった若い男の不条理的な苦労話でしかなくなってしまう。

 監督は中田秀夫だが、おそらく彼はヒロインを「リング」の貞子のような災厄を無差別テロのように振りまく怨霊として捉えているのだろう。宗悦と新佐衛門との怨恨話には直接関係のない登場人物たちが主人公と関わったというだけで次々と死んでゆくあたりも、それで説明がつく・・・・ように見えるが、それならそうで、ヒロインをもっと常軌を逸した存在として練り上げる必要があったのではないか。そのへんがまるで不発。結局、序盤の講壇仕立ても取って付けたようで、ラストもそれで締めていないのも、むべなるかな・・・・である。もちろん、往年の怪談映画のような様式美もどこにもない。デビュー当初は瞠目させられた中田監督のホラー演出も今では完全にヴォルテージが落ち、ゾッとさせるシーンなど皆無。呆れるほどの平板な展開に終始している。

 それでも主演の2人は頑張っていて、黒木瞳の熱演はひとまず評価はしたいし、そして特筆すべきはこれが映画初出演となる尾上菊之助だ。粋な着流しとエロい目つきは危険なオーラを発しつつ、見当違いの純情ぶりで破滅に向かってひた走る自暴自棄な若者像をうまく表現している。本作は彼一人で支えられていると言ってもいいだろう。

 なお、川井憲次の音楽は秀逸。しかし、エンディングに流れる浜崎あゆみの下卑た曲ですべてぶち壊し。いくら利害関係があるとはいえ、プロデューサーは少しは映画の雰囲気ってものを考慮すべきではないのか。
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「河童のクゥと夏休み」

2007-08-11 07:18:12 | 映画の感想(か行)

 アニメーションに似合わない2時間18分の長尺だが、中身は濃い。出来も“夏休みの子ども向けアニメ”の枠を超えた充実ぶりだ。かつて劇場版「クレヨンしんちゃん」シリーズの「嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」「嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」という二大傑作をモノにした原恵一監督は、やっぱり端倪すべからざる才能の持ち主だ。

 木暮正夫の児童文学を原作に、江戸時代に仮死状態になったがひょんなことで現代に蘇った河童のクゥと小学生・康一との関係を描くアウトラインは、平凡な家庭の中に異分子が紛れ込んで騒動を起こすという「オバケのQ太郎」なんかを嚆矢とするマンガ・アニメの黄金パターンであり、しかも康一の家庭は「クレしん」の野原一家と同じ構成で、ペットもやはり犬である(爆)。イザという時には必要以上に団結して気勢を挙げるあたりもそっくりだ。

 しかし、クゥ以外のキャラクターデザインがデフォルメされておらず、かといって劇画調でもなく、実に自然なリアリズムに準拠しているのは、本作の性格をよくあらわしている。つまり、ファンタジーではあるが多分に現実側を描こうという作者の意図が反映されているのだ。

 康一の家庭は典型的な小市民で、一家の主は会社勤めであり一軒家に住んではいるが場所は都内とはいえ外れの東久留米市。もちろん康一自身も平凡な小学生だ。ただし、平凡であるが故に子供を取り巻く普遍的な状況が映画の中ではよく見えている。他愛のないイタズラやからかい、そして深刻なイジメも容赦なく描かれる。複雑な家庭を持つ同級生の女の子がイジメられ、康一は彼女を意識はするものの、はじめは具体的に救いの手を差し伸べることはない。それがクゥとの付き合いを通して他者を思いやることの大切さを学び取り、敢然とイジメっ子に立ち向かうようになる過程は説得力がある。

 たまたまクゥは超自然的なモチーフとして登場するが、実際は物の道理を教え込む人間であれば誰でもいいわけで、それとなかなか巡り逢うことが出来ない現在の子供事情を暗に指摘していると言えよう。クゥの存在が世間的に知られるようになり、マスコミやら野次馬やらに追いまくられる一家の辛酸と、周りの人間の無責任さとの対比は社会風刺として上手くいっている。もちろん、河童が住めなくなった現代の環境問題に対する言及も忘れてはいない。

 映像面は見事と言うしかなく、岩手県の遠野に出かけた康一とクゥが川で泳ぐ場面のスピード感と浮遊感、ラスト近くの夕焼けをバックにした切ないシーンの空間の切り取り方など、思わず見入ってしまうレベルの高さだ。間違いなく本年度の日本映画の収穫であり、子供だけではなく、子供を持つ大人に是非観てもらいたい秀作だ。
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「シラノ・ド・ベルジュラック」

2007-08-10 06:54:58 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Cyrano de Bergerac)90年作品。エドモン・ロスタンによる有名な戯曲をジャン=ポール・ラプノーが演出。主演はジェラール・ドパルデュー。17世紀フランスを舞台に、文武に秀でていながらデカすぎる鼻のため深刻なコンプレックスを持った軍人シラノ・ド・ベルジュラックの生涯を描く。

 「フランスの忠臣蔵」ともいえるほどポピュラーな物語である「シラノ」の正攻法の映像化ということもあって、ドパルデューの演技は力がこもっている。特に冒頭、悪徳貴族の御用役者とその劇場との破壊者として、あの巨体がさっそうと過激に登場するところなど見事なもので、アカデミー主演男優賞にノミネートされたのも十分納得できる熱演である。

 しかし、映画自体は絶賛するほどの出来かといえば、残念ながらそうはいかない。同じように古典を映画化したケネス・ブラナーの「ヘンリー五世」と比べると、少々物足りない。それは、ブラナー版が誰にでも知られた原作を(しかも、ローレンス・オリビエによる傑作がありながら)あえていま映画化した理由が、そこに大きな今日性を持たせることにあったのに対し、この「シラノ」はあくまでも原作そのままのウェルメイドな映像化だけに専念している点だ。

 主人公シラノは確かに並の人間ではない。だが、恋がたきのためにラブレターの代筆やデートの替え玉まで引き受け、挙げ句の果ては不幸な最期を迎えねばならないヒーロー像が、いま現在どれほどの共感を得られるのだろうか。さらに、その悲劇の理由が少しばかり大きい鼻、たったそれだけとは。(少なくとも私には)全く納得できない話である。そのへんをもっと突っ込まなければ。さらに悪いことにロクサーヌ役の女優(アンヌ・ブロシェ)があまり魅力的でなく、シラノを悩ませる恋の対象としては役不足である。

 カメラや美術は実に優秀で、力のこもった作品には違いないのだが、いまいちこちらに迫ってくるものが感じられなかった。舞台を現代に置き換えてハッピーエンドにしたスティーブ・マーチン主演の「愛しのロクサーヌ」の方が好ましく思われる。
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ジェイムズ・ジョイス「ダブリンの市民」

2007-08-09 06:37:14 | 読書感想文
 二十世紀最高の作家の一人と言われるジョイスの処女短編集。最終章「死者たち」はジョン・ヒューストン監督「ザ・デッド」の原作である。英国支配下で生きる気力を失い「麻痺的」な状況に陥ったアイルランド市民に向けて、警鐘を鳴らす目的で書かれているらしく、巻末には各編の地理的・宗教的な暗喩について詳しく説明した注釈が付いている。

 だが、そういう「作品が書かれた背景」を抜きにしても、本書は実に面白い。誰もが持っている見栄や傲慢さ、的はずれの思い込みに筋違いの願望、欺瞞や自己憐憫etc. そんなマイナス方向の心理を平易なシチュエーションで手加減なく暴いてみせるジョイスの筆力には脱帽だ。

 どの短編もヒリヒリした痛みに満ち、最後の「死者たち」に至っては、長年の精進により劣等感やつまらないプライドなどを克服したかに見えた主人公が、ひょんなことから自分は全然成長していないことを思い知らされて絶望するという容赦のなさ。

 この“失意と無力感のオンパレード”もここまでくると、エンタテインメントの次元にまで昇華されていると言っても良く、拍手さえ送りたくなってしまう。さらにその裏に、ダブリンの惨めな小市民たちを憎みきれない作者の信条が垣間見えるのも玄妙である。ジョイスの代表作「ユリシーズ」は未読だが、機会があれば接してみたいものだ。
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「父と暮せば」

2007-08-08 06:45:08 | 映画の感想(た行)

 2004年作品。季節柄・・・・というわけでもないが、原爆をテーマにした井上ひさしの戯曲を映画化作品を取り上げてみた。戦後3年経った広島で焼け跡の家に一人暮らしをする女主人公と、原爆で死んだ父親の幽霊とのやり取りが延々と続く。

 途中にヒロインが思いを寄せる青年(浅野忠信)がちょっと出てくるものの、基本的には登場人物は二人だけだ。あまりにも舞台劇を意識した展開に面食らうが、最初は娘の“恋の応援団”として出てきた筈の父親が、次第に原爆の悲劇を体現した主人公の“内面の具現化”として機能し、葛藤がギリギリにまで深まってゆくという作劇においては、このような限定された映像空間は有効であろう。そして物語自体が火曜日から金曜日までのわずか四日間の出来事を追っていることもドラマの密度を上げることに貢献している。

 死んでしまった者への悲しみと生き残ってしまった者の苦悩、それが主人公を取り巻くミクロな状況を超越して、あの時代を生きた日本人の普遍的な真実(そして未来)へと、わずかながらの希望を伴って広がり昇華していくようなラストシーンは圧巻だ。黒木和雄の演出は「美しい夏キリシマ」に続いて目を見張る求心力を発揮している。主演の宮沢りえ(白いブラウスが印象的)と原田芳雄の演技も素晴らしい。
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