元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ネオン・デーモン」

2017-01-31 06:26:35 | 映画の感想(な行)

 (原題:THE NEON DEMON)単に“小手先のギミック”を漫然と積み重ねているだけで、何ら求心力を持ち得ていない。デンマーク出身のニコラス・ウィンディング・レフン監督は「ドライヴ」(2011年)や「オンリー・ゴッド」(2013年)で高い評価を受けたらしいが、私は同監督の作品を観るのは初めてだ。しかしながら、このレベルならば大した作家ではないと感じる。

 南部の田舎町からモデルを夢見てロスアンジェルスにやってきた16歳のジェシーは、偶然にカリスマ的なカメラマンに見出され、大手事務所と契約することに成功する。仕事は順調で、著名なデザイナーやフォトグラファーとの共同作業も全て上手くいく。だが、当然のことながらライバルたちは嫉妬にかられてジェシーを引きずり降ろそうとする。彼女たちの企みに翻弄されていくうちに、ジェシーも内に秘めたドス黒い感情が表面化し、終わりの無い疑心暗鬼と葛藤に苛まれることになる。

 ストーリーらしきものがあるのは中盤までで、あとは作者の手前勝手なイメージの映像化に終始する。もちろん、それ自体が悪いということではなく、映像の組み立て方が面白ければ見応えが出てくるものだが、これが全然ダメだ。どうしようもなく陳腐で、美しくもなければ挑発的でもない。映画学校の学生の習作といい勝負であろう(あるいはデイヴィッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」のパロディか)。

 狂言回し役のメイク係の女や、ジェシーが宿泊するモーテルの怪しげなオーナー、そしてなぜかジェシーの部屋に侵入してきたピューマなど、思わせぶりなモチーフは散りばめられているが、まったく映画的興趣として機能していない。どれもただの“思いつき”程度である。

 しかも、演出テンポが悪いために各々のネタの練り上げ不足が露呈しているようで、観る側としてはアクビを噛み殺すばかりだ。映画作りを放り出したと思われる無駄にグロいラストまで、居心地の悪い時間が流れるだけである。

 ただし、主演のエル・ファニングの存在感は出ていると思った。もっとも、内面的演技がどうのという次元の話は今回は埒外であり、本作に限っては見所はスタイリッシュな外観のみだ。自慢のモデル体型が、人工的で底の浅いセットにも十分映えている。一方、クリスティナ・ヘンドリックスやジェナ・マローン、アビー・リーといった他の面子はどうでもいい。さらに脱力したのはモーテル支配人に扮していたキアヌ・リーブスで、何かあると思わせて実は何もない役もよく引き受けたものだと思う。カメラワークは平凡。使われている楽曲もセンスが古くてタメ息が出てきた。
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バスケットボールの試合を観戦した。

2017-01-30 06:35:08 | その他
 去る1月29日、プロバスケットボールの試合を見に行った。対戦カードは地元チームのライジングゼファーフクオカと、愛知県の豊田合成スコーピオンズである。2016年に発足したプロリーグ(Bリーグ)のゲームであるが、両チームとも三部リーグ(B3)に属している。なお、私はプロバスケットボールの試合を実際に観戦するのは初めてだ。



 結論から言うと、とても楽しめた。何より、選手と観客との間にあまり距離がないのが良い。特に今回は一階の試合コートと同じフロアで観戦したせいか、素晴らしい臨場感を味わうことが出来た。スピード感溢れる選手達の動きを間近で追うことが出来るのはもちろん、彼らの鍛え上げられた肉体が軋む様子や、汗のにおいまで感じ取れるようだ。

 また、試合を盛り上げるための運営スタッフの努力も見上げたものだ。元気いっぱいのMCのしゃべりは初めは少し饒舌すぎると思ったが、試合が進むと気にならなくなる。応援のメソッドまで“指導”してくれるのも有り難い。あと下世話な物言いで恐縮だが、チアリーダー達を至近距離で見られるというのも堪えられない(爆)。



 試合は前半はスコーピオンズが押し気味だったが、後半はライジングゼファーがペースを掴んで逆転。さらに点差を広げ、結果は90対74で勝利した。これでライジングゼファーは8連勝でリーグ首位。来期のB2昇格も見えてきた。

 会場は福岡市中央区薬院の九電記念体育館だったが、建てられて50年以上経過しており、老朽化が目立つ。ただしここをチームがフランチャイズとして使うわけではなく、現在は福岡県内の各体育館を転戦しているのが実情である。いずれは正式なホーム会場が必要になるだろうが、しっかりとファンを獲得して盛り上げて欲しいものだ。ちなみに今回の観客動員数は1800人あまり。それでも広くはない会場にあっては空席はそれほど目立たなかった。福岡市内で試合がある際は、これからも足を運びたい。
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「あずみ」

2017-01-29 06:48:11 | 映画の感想(あ行)
 2003年作品。戦国時代、母を失い孤児となった少女・あずみが刺客の養成所に入れられ、過酷な運命をたどる様子を描く。小山ゆうによる同名コミックの映画化だ。

 出来としてはどうも釈然としない。当時のプロデューサーの弁によると、冒頭近くの仲間同士が殺し合うシークエンスを観客に納得させるため何度も脚本を書き直したらしいが、映画を観てもそのあたりは全く解決していない。誰がどう考えても、5人より10人で行動する方が目的達成の上では効率的ではないか。それを登場人物たちは“使命のためだから”と何の疑問も持たず友人を手にかけてしまう。



 ならば映画は“その使命とは何か”を徹底的に描き出す必要があろう。しかし、ここには“平和のためのテロ”という御為ごかしのスローガンが提示されるだけで、それを登場人物たちがどう咀嚼して折り合いを付けているのかさっぱりわからない。

 しかもその頃の雑誌記事によれば、主人公たちが初めて人を殺した時に見せる苦悩や、裏社会を生きねばならない自らの運命を受け入れる場面なんかをすべてカットしているらしく、代わりに敵方の権謀術数やキャラクター説明など、不必要だと思われる部分を延々と流しており、その結果が2時間半という時代活劇にしては長すぎる上映時間に繋がっている。これは明らかに脚本と編集の不備だ。

 アクション場面についてはさすが「VERSUS」(2001年)などで定評のある北村龍平監督らしく、スピード感のある仕上がりになっている。特に終盤の“縦方向360度カメラ移動”には驚いた。しかし、往年の時代劇に比べると随分と物足りない。クライマックスの“二百人斬り”にしても、たとえばかつて「大殺陣 雄呂血」(66年)で市川雷蔵が見せた阿修羅のような立ち回りなどには遠く及ばない。邦画界にまともな殺陣が出来る人材がいなくなったことの現れだろう。

 主演の上戸彩は熱演だが、当時の彼女はこういうハードな役柄をこなすにはまだ“可愛すぎる”。それより敵役のオダギリジョーの悪ノリぶりには大笑い。演じていてさぞかし楽しかっただろう。また小橋賢児や成宮寛貴、金子貴俊、瑛太、小栗旬といった後年活躍する人材を並べているのも興味深い。
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「疾風スプリンター」

2017-01-28 06:55:37 | 映画の感想(さ行)

 (原題:破風 To the Fore)何やら連続テレビドラマの総集編を見ているような感じだ。フィルム撮りではなく、いかにもデジカムで間に合わせたような、奥行きの無い平板な画面がそれを強調する。上映時間が長すぎるのも愉快になれない。ただし、香港のアクション派の最右翼であるダンテ・ラム監督の持ち味は出ていると思う。その意味では観る価値はあるかもしれない。

 台湾の自転車レースチーム“ラディアント”はアジアリーグの上位を狙う強豪だ。主力はジウォン、ミン、ティエンの3人。巧みなチームプレイでライバル達と激闘を繰り広げる。だが、スポンサーが手を引いたことから“ラディアント”は経営難に陥り、やがて破綻する。3人は別々のチームに移り、今度は競争相手として相対することになる。ミンは移籍先でもエースになるが、暴力事件を起こし出場停止に。その間にティエンが新チームの中心になりレースで結果を出す。彼らが思いを寄せる女子選手のシーヤオとの関係を描きつつ、映画はリーグ最終戦と、その後の3人の軌跡を追う。

 活劇シーンには定評のあるラム監督らしく、レース場面はかなりのものだ。張り詰める筋肉と上昇する心拍数。体力の限界に挑む選手達の緊張が伝わってくる。この競技は個人の記録よりもチームとしての成績が重視される。さまざまなフォーメーションを繰り出し、相手チームを牽制しつつ、風などの気象条件も勘案して、最良の条件を形成するべく緻密な作戦を練る。そのプロセスは面白い。

 街中のレースはもとより、カーブやトンネルが連続する山岳コースや、開放的な海浜コース、さらには砂嵐が吹き荒れる沙漠のレースなど、舞台にヴァラエティを持たせているのも良い。さらには競輪やトラックレースも紹介され、作者のサービス精神が横溢していると言えよう。

 ただし、見せ場を盛り込みすぎたため、どこがクライマックスなのか分からなくなってくる。個々のレースの描写は優れているが、同程度のヴォルテージが連続している感じで、作劇にメリハリが無くなった。ここは登場人物達が最も重要視する大会をメインに持ってきて、物語全体をそこに集約させた方が興趣が高まったはずだ。そして主人公3人はタイプが違うことが示されてはいるが、意外なほどキャラクターの描き分けが成されていない。もっと個性の違いを際立たせるエピソードがあっても良かった。

 主役を務めるチェ・シウォン、エディ・ポン、ショーン・ドウは健闘していて、本物の自転車レーサーに見えるような肉体を作り上げていることは評価出来よう。ヒロイン役のワン・ルオダンも清楚な感じが印象的で、ヘンリー・ライの音楽も悪くない。それだけに一本調子の展開は残念である。
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「てなもんやコネクション」

2017-01-27 06:31:27 | 映画の感想(た行)
 90年作品。何とも珍妙なタイトルだが、実際に観てみると見事に“てなもんや”の部分と“コネクション”のパートが存在し、それが融合していることに驚き笑ってしまう。脚本家でもある宇野イサムの原作を映画化したのは山本政志監督で、彼のフィルモグラフィの中でも大きな存在感を見せる快作だ。

 香港でガセネタ商売に明け暮れる李九扇はクイズに当たり、日本旅行をゲットする。しかし来日してみると迎えに来たのはデタラメな広東語しかできないクミという若い女。おまけに極端に経費を切り詰めたツアーで、宿泊はカプセルホテルに押し込まれる始末。何者かに荷物を盗まれてしまった九扇とクミは、その犯人のオバサン・茜となぜか意気投合。3人で東京ディズニーランドに行くはずが、手違いで目的地が浅草花やしきになってしまう。



 そこで百万人目の来場客になってしまった彼らは、商品として“香港旅行ご招待”を獲得(爆)。九扇はクミや茜と共に香港に戻るが、いつの間にか九扇の家は日本の大企業による地上げのターゲットになっていて、理不尽な立ち退きを迫られることに。九扇たちは持ち前のバイタリティでこれに立ち向かう。

 日本での珍道中を経て思いがけず香港に帰還するまでが言うまでもなく“てなもんや”編で、往年のテレビ番組「てなもんや三度笠」にも通じる関西風ギャグが大々的に散りばめられている。大企業とのバトルが展開する後半は“コネクション”編であり、「フレンチ・コネション」ばりのサスペンス・・・・は無いものの(笑)、国際的陰謀が登場する段になると、なぜか観る側はリッチな(?)気分になってしまう。

 もちろんこの2つのネタは水と油であるはずだが、そこに違和感を抱かせないのが語り口の巧さであろう。それが顕著に現れるのが“コネクション”編では鈴木みち子扮するオバサンであった茜が、“コネクション”編になると室田日出男演じるオジサンに勝手に変身してしまうというモチーフだ。主要登場人物の外観を途中で大胆にチェンジするのは奇手だが、これが作品世界の変化の発火点になるように位置づけられているのは効果的である。

 本作が製作されたのはバブル時代で、日本と世界との立ち位置が変わってきた時期だ。現在はまたそれから二転・三転しているが、そのパラダイムシフトを笑い飛ばしてしまおうという魂胆は悪くない。主演のツェ・ワイ・キットと新井令子は好演だが、それより目立っていたのが、地上げ屋の先鋒を務める英語ペラペラで国籍も分からないナゾの男。これが音楽も担当している近藤等則だというのだから面白い。

 余談だが、私はこの映画を福岡市中央区天神にあった“西通りキノ”で観た。作品選定は先鋭的でコアな映画ファンに人気はあったのだが、設備面での不備が響いたのか、いつのまにか閉館してしまった。このエリア(天神西通りの南地区)には現在も映画館が存在していない。それを考えると寂しい気分になってくる。
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「ヒトラーの忘れもの」

2017-01-23 06:38:36 | 映画の感想(は行)

 (原題:LAND OF MINE)乱暴な言い方かもしれないが、本作に似ている映画を挙げるとすれば、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の「恐怖の報酬」(53年)だと思う。いつ地雷が爆発するか分からない恐怖そして緊迫感が全編に横溢しており、ハイレベルのサスペンス空間を創出する。とにかく、見応えたっぷりの秀作だと思う。

 1945年5月にナチス・ドイツが降伏し、ヨーロッパでは第二次大戦は終わりを告げた。しかし、戦争中にドイツ軍はデンマークの西海岸に200万個もの地雷を埋めていた。その撤去に駆り出されたのが捕虜のドイツ兵たちだった。大半が10代の少年兵であり、申し訳程度の爆弾処理訓練を受けた後、ただちに命がけの作業に当たらねばならなかった。

 海沿いのある村で指揮を執っていたデンマーク軍の軍曹ラスムスンは、戦時中のドイツ軍の狼藉を忘れてはいない。いくら少年兵といっても、相手はかつてのドイツ軍の一員だ。ロクに食事も与えないまま毎日浜に向かわせ、辛く当たる。作業が進む中、地雷の暴発や撤去失敗により、少年たちは次々と命を落としていく。彼らのそんな不憫な姿を見るうちに、ラスムスンは頑なな自身の態度を改めるようになる。だが、彼のそんな思いとは裏腹に、事態は逼迫していくのだった。実話に基づいており、第89回米アカデミー賞外国語映画賞のデンマーク代表に選出されている。

 とにかく、不運にも地雷が爆発してしまうタイミングと段取りが“絶妙”だ。序盤の、訓練時の暴発の場面は(予想は付いていても)かなりの衝撃。ドイツ軍も地雷を通り一遍に設置したわけではなく、除去作業の裏をかくようなトラップも仕掛けられており、それが発動するシーンのショックは筆舌に尽くしがたい。

 さらに、少年兵の一人が窮地に陥っていても(周りに地雷が埋まっているため)別の者が容易に助けに行けない掻痒感は、観る者の心胆を寒からしめる。また、少年兵は作業に入る前から空腹と絶望と望郷に苛まれており、そのシビアな境遇の描出は身を切られるようだ。

 軍曹は非道でもなく、少年兵たちが悪いわけでもない。デンマーク軍の上官たちが特別阿漕なことをしているのでもない。本来平和に大過なく暮らしていけたはずの彼らの人生を、容赦なくねじ曲げる戦争という名の不条理。その歴史の真実が、重くのしかかっていく。それだけに、ラストの扱いは御都合主義的に見えようとも、違和感が無くスッと受け入れられる。

 マーチン・ピータ・サンフリトの演出は余計なケレンに走らず、対象を冷静に見つめるスタンスに好感が持てる。第28回東京国際映画祭に出品され、ラスムスンを演じたローラン・モラーと、少年兵の一人を演じたルイス・ホフマンが最優秀男優賞を受賞しているが、それも頷けるほどの好演だ。カミラ・イェルム・クヌーセンのカメラによる、北欧の海辺の茫洋とした風景。スーネ・マーチンの音楽も印象的だ。
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「キンダガートン・コップ」

2017-01-22 06:56:06 | 映画の感想(か行)
 (原題:KINDERGARTEN COP)90年作品。大柄なタフガイが幼稚園児にキリキリ舞いさせられるという設定だけで、すでにギャグの基本が出来上がっている。しかも主演はアーノルド・シュワルツェネッガーで、役柄は刑事だ。そのシチュエーションならばいくらでも笑いのネタが提供でき、作品の失敗は回避されたようなものである。

 ロス市警のジョン・キンブル刑事は4年もの間、麻薬シンジケートのボスであるクリスプの行方を探っていた。苦労の末、クリスプの身柄を確保することに成功したが、家を出て行った彼の妻子を証拠固めのために事情聴取する必要が生じ、キンブルは妻のレイチェルがいるというオレゴン州のアストリアに向かう。



 ところがレイチェルの息子がいるという幼稚園に入り込んで本人を特定せねばならず、やむを得ずキンブルは教師を装って園児の相手をするハメになる。当然、慣れない環境にキンブルは右往左往するばかり。そんな中、クリスプは証拠不十分で釈放され、その足でアストリアヘやってくる。そして幼稚園に侵入し、子供を拉致。キンブルはクリスプとの全面対決に臨む。

 シュワ氏の悪戦苦闘ぶりは哄笑を誘い、飽きさせない。しかしながら、麻薬が絡む犯罪が子供までも巻き込んでいくという、社会派の視点も忘れていないところがアッパレだ。クリスプ(演じているのはリチャード・タイソン)が大変なマザコンで、母親に頭が上がらないところが面白い。母親に扮するのがキャロル・ベイカーというのもケッ作で、この存在感はシュワ氏とタメを張れる(笑)。主人公の同僚の女刑事にパメラ・リード、園長先生にリンダ・ハントというキャスティングも万全。ヒロイン役のペネロープ・アン・ミラーも彩りを添える。

 監督はアイヴァン・ライトマンで、やや大味な作風が目立つ彼にしては、演出のテンポが良い。特に、園児の母親たちの自然な描写には感心させられた。ユーモアのセンスがあるシュワ氏だが、本作以降のコメディ作品は思い付かない。年齢をものともしないアクションの披露も良いけど、余裕とおかしみが滲み出るような落ち着いた役柄も見てみたいものだ。
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「私の少女時代 OUR TIMES」

2017-01-21 06:31:20 | 映画の感想(わ行)

 (原題:我的少女時代 Our Times)内容の割には上映時間は長いし、ドラマ展開は冗長で余計なシーンも散見されるのだが、年甲斐もなく“胸キュン”してしまうところも多々あり(大笑)、見終わっての印象は良好だ。最近観た「若葉のころ」や「共犯」等の出来の良さも考え合わせると、台湾製の青春ドラマというのは、侮れないレベルに達しているのではないだろうか。


 主人公チェンシンは仕事も恋も上手くいかない、不器用で損ばかりしているOLだ。ある日彼女は昔大好きだったアンディ・ラウの歌がラジオから流れてくるのを耳にして、高校時代を思い出す。90年代、男っ気の無い学園生活を送っていたチェンシンにも思いを寄せていた男子がいた。それは、男前の優等生フェイファンだった。

 ところがひょんなことから“不幸の手紙”を受け取った彼女は、それを3人の相手に転送。うっかりその中に不良のタイユイの名もエントリーさせてしまったことから、チェンシンは送り主をすぐに突き止めたタイユイに奴隷のようにこき使われるハメになる。一方フェイファンは同級生の美少女ミンミンと仲良くしているが、2人の意味ありげな会話を盗み聞きしたフェイファンとタイユイは、思わず狼狽えてしまう。こうして男女四人の一筋縄ではいかない関係が始まった。

 映画のシチュエーションに新味は無い。ヒロインは一見冴えないけどオシャレすると見栄えがするタイプ。相手役は不良ぶっているが実は昔起こった悲劇によりグレてしまっただけで、本当は頭が良くて優しい(また、けっこう二枚目で腕っ節も強い)。フェイファンは実はタイユイの中学生時代の友人で、優男のように見えて芯がある男という、これもよくある設定だ。しかし、この話を90年代という、大昔でも数年前でもない“程良い過去”に持ってくると、途端に輝き出す。誰しもノスタルジックな感慨を覚えるあの頃に物語を放り込んでしまえば、多少の欠点もカバーされてしまうのだ。

 もちろん、懐古趣味に乗っかっただけのシャシンではなく、手を変え品を変え、各エピソードを積み上げていく。その中には正直つまらないものもあるのだが、フェイファンとタイユイのいじらしい純情ぶりを強調するパートになると、観る側のヴォルテージも上がっていく。特にレコード店でアンディ・ラウの立て看板に見とれるチェンシンの姿を目にしたタイユイが一肌脱ぐというくだりは、扱いはベタなのだが語り口の巧さによってしみじみとした感慨をもたらす。

 フランキー・チェンの演出は才気走ったところは無いが、同じく90年代を舞台にした「あの頃、君を追いかけた」にあったような余計なケレンを廃し、地道にストーリーを追っている。チェンシンに扮するビビアン・ソンは美少女タイプではないものの、豊かな表現力で役柄を自分のものにしており、なかなかの逸材だと感じた。タイユ役のダレン・ワンやディノ・リー、デヴィ・チェンといった他のキャストも万全だ。また時制が現在に戻る終盤には思わぬゲストが登場し、場を盛り上げる。

 それにしても、劇中の“女の子が言う「大丈夫」は大丈夫じゃない、「なんでもない」は大アリだ”というセリフはまさに至言だ(笑)。クリス・ホウによる音楽とヒビ・ティエンの主題歌も良い。
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「太陽は夜も輝く」

2017-01-20 06:32:18 | 映画の感想(た行)
 (原題:IL SOLE ANCHE DI NOTTE)90年イタリア作品。監督はパオロ&ヴィットリオのタヴィアーニ兄弟だが、カンヌ国際映画祭で大賞を獲得した「父/パードレ・パドローネ」(77年)を撮った後は、彼らは長らくスランプに陥っていたと思う(巷の評判が良かった87年製作の「グッドモーニング・バビロン!」も個人的には評価しない)。本作もそれを示すかのような冴えない出来である。

 中世イタリア。ナポリの士官学校で優秀な成績を収めていたセルジョ・ジャラモンド男爵は国王シャルル三世の副官として仕えることになるが、田舎貴族の出身である彼は公爵の娘クリスティーナと結婚するように王に指示される。しかし彼女は王のかつての愛人だった。そのことを知ったセルジョはショックを受けて故郷に帰り、近くのペトラ山で世捨て人のような生活を送るようになる。



 ひたすら信仰にすがる彼は、近隣住民の悩みを聞いているうちに、いつしか奇跡を起こす聖者として知られることになる。ある日、ナポリの商人が多額の寄付と共に訪れ、闇の中でしか目を開くことのできない娘マティルダを助けて欲しいと頼む。しかし彼女はセルジョを慕うようになり、彼も思わずそれに応えてしまう。トルストイの中編「セルギイ神父」(私は未読)を、舞台を南イタリアに移して映画化したものだ。

 この主人公のスタンスがハッキリしていないので、観ていて不満が募るばかりだ。王家への士官を希望したということは世俗的な欲求があったのだろうが、クリスティーナとの一件があってから急に信仰に生きる人間に豹変してしまうのは解せない。

 しかも彼の聖人君子ぶりも腑に落ちるようなものではなく、行き当たりばったりに行動していたら何となくそういう評判が立ってしまったというレベルである。当方が宗教に疎いことを勘案しても、納得のいく作劇とは思えない。自己陶酔的な場面があるかと思えば、若い女の子と懇ろになってしまうくだりもあり、キャラクター設定に一本筋が通っていない。

 タヴィアーニ兄弟の演出は冗長で、余計なシーンも多い。主演のジュリアン・サンズをはじめ、ナスターシャ・キンスキーにシャルロット・ゲンズブールなど、この監督にしては場違いなほど豪華なキャストを擁しているのも違和感がある。タヴィアーニ兄弟の真骨頂であるドキュメンタリー・タッチが復活するのは2012年の「塀の中のジュリアス・シーザー」まで待たなくてはならないが、2014年にも一本撮っており、どういう出来映えになっているか興味のあるところである。
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「四十二番街」

2017-01-16 06:32:50 | 映画の感想(や行)

 (原題:42nd Street )1933年ワーナー・ブラザーズ作品。ハリウッド製ミュージカル映画の嚆矢として知られる作品だが、私は福岡市総合図書館の映像ホールにおける特集上映で、今回初めて観ることが出来た。映画としては時代を感じさせるほどの脱力系のドラマ運びながら、ラスト15分間のミュージカル場面の盛り上がりは目覚ましく、個人的には観て良かったと思っている。

 金持ちの老人アブナー・ディロンは女優ドロシー・ブロックに御執心で、彼女を主演に据えたミュージカルを作るために出費することになった。演出を担当するのはかつて名声を得たジュリアン・マーシュだが、実はスランプ気味でメンタル面も危ない状態。それでもカネのため無理して製作に乗り出す。

 一方、ドロシーが本当に好きなのは昔から仕事上のパートナーだったパット・デニングであった。そのパットは駆け出し女優のペギーと懇意になっていたが、ドロシーが痴話喧嘩の果てに怪我を負ってしまうと、ペギーに主役の座が回ってくる。すったもんだの末にキャストが決まり、開演まで時間がない状況で一同は稽古に励むのであった。

 正直言って映画の大半を占める誰と誰が惚れたの何だのといった展開は、退屈極まりない。ロイド・ベーコンの演出は冗長で、山らしい山もないまま時間だけが過ぎていく。しかしこれは、製作年度を考えると仕方がないかもしれない。当時はこのぐらいのマッタリした流れが丁度よかったのだろう。

 ところが、クライマックスのミュージカルの実演になると、一気にヴォルテージは上昇。高名な振付師であったバスビー・バークレーによる見事なステージは、観る者を瞠目せしめるだろう。特にフォーメーションを上からのカメラで捉えるシーンは、上演する劇場の観客が絶対に見ることができない光景であり、映画におけるミュージカルの可能性を示したことで、映画史に残る金字塔だという評価もうなずける。

 ジュリアン役のワーナー・バクスターをはじめビービー・ダニエルス、ジョージ・ブレント、ウナ・マーケル、ルビー・キーラーといったキャストは(あまりに古い映画であるため)馴染みがないが、申し分のない仕事をしていると思う。

 特筆すべきは脇役としてジンジャー・ロジャースが出ていることで、後年のMGMミュージカルで神業的なパフォーマンスを見せる彼女と同一人物とは思えないほど、身体が絞れていない(笑)。でもまあ、この時代ならば仕方がないだろう。それどころか、早い時期から彼女を起用したプロデューサーの慧眼を認めるべきなのかもしれない。
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