元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「Shall we ダンス?」

2014-11-30 06:56:41 | 映画の感想(英数)
 96年作品。先日公開された「舞妓はレディ」のレベルの低さを見ると、周防正行という監督には才能のカケラも無いような印象を受けるが、十数年前にはこれほどの快作を撮っていたのだ。月日の流れというのは残酷なものである。

 マジメだけが取り柄の経理課長の杉山(役所広司)は、念願のマイホームも手に入れ(都内ではなく埼玉県だが)、平凡だが不安もない毎日を送っていた。ある日、ビルの窓から物憂げに外を見つめる美女・舞(草刈民代)を通勤電車の窓より目撃してから、彼女のことが気になって仕方がない。そのビルが社交ダンス教室であると知った杉山は、気がついたら入会していた。

 そこにはダンスをやってることを周囲に内緒にしている同僚の青木(竹中直人)や、元気のいい未亡人・豊子(渡辺えり子)、糖尿病対策でダンスを始めた田中(田口正浩)、関西出身で調子のいい服部(徳井優)など、個性的な面々が集まっていた。舞との接点を求めて入門した杉山だが、次第にダンスそのものの魅力にのめり込んでいく。



 作劇は完璧ではない。上映時間2時間16分は長すぎる。説明的なセリフや思わせぶりな場面も多い。あと20分カットすればさらに得点はアップしたはず。しかし、そんな欠点を認めつつも、この映画は光り輝いている。最初はステップも踏めなかった主人公は、目当ての舞にフラれてしまえば目的を失ってダンスをやめるというのが作劇のルーティンだと思われるのだが、ここでは舞に交際を断られてからも、ダンス自体のとりこになっていくところが面白い。

 たとえは悪いけど、この頃までの周防監督の映画は“おたく野郎の逆襲”だったと思う。当時何かの雑誌にも書いてあったが、80年代をリードしていた“バブル時代のミーハー”は役割を終えて、世の中のハヤリすたりに無頓着でも特定の分野に精通している“おたく”こそが真に必要な人材になる・・・・とかなんとか(もちろん、陰にこもるタイプのおたくではなく“情報発信力のあるおたく”である)。

 必要な人材かどうかは別として、何かに熱中してのめりこんでそこにアイデンティティを求めることの有効さを彼は言いたいのではないかと・・・・。女にフラれたぐらいですぐ投げ出すような軟弱なミーハー野郎は、最初から彼の映画ではお呼びでない。

 キャスティングの素晴らしさ。無駄なキャラクターが一人もいない。みんな水を得た魚のように楽しそうにスクリーンを闊歩する。特に竹中の怪演。職場の中をスイングしながら登場するシーンから、カツラを被って情熱のラテンダンサーに変身するまで、まさしく独壇場だ。役所と渡辺えり子がメインになるダンス教室の場面でも、脇で柱と戯れている(笑)竹中の方が気になってしまう。踊ることで初めて生きる自信を持った田中に扮する田口(涙ながらの独白場面にはグッときた)。そして映画初出演の草刈も、この時は十分魅力的だった。

 そして映像もすこぶる出来が良い。慣れない主人公が「王様と私」の登場人物よろしく見よう見まねでステップを踏むと、カメラがさーっと引いてフロアで乱舞する人々をマスで捉えるショットに切り替わるとき、久々に“映像に酔う”瞬間を味わった。クローズ・アップとロング・ショットの巧妙な積み重ねによってダンスの呼吸とリズムをスクリーンに刻むテクニック。踊るということはこんなにも楽しく素晴らしいということを何のてらいもなく観客に差し出す作り手の確信犯ぶりに嬉しくなる。

 この映画を観ると、現在の周防監督の、不調の原因が分かるような気がする。これより後の作品は、明らかに“楽しんで”撮っていないのだ。ヘンな気負い、おかしな思い込み、柄にもない義務感みたいなもの等、そういう余計なファクターが映画製作に臨む姿勢を歪なものにしているのではないか。今一度肩の力を抜いて、本当に好きな題材に真っ直ぐに向き合えば、ひょっとすると復調もあり得ると思う。
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「福福荘の福ちゃん」

2014-11-29 06:47:35 | 映画の感想(は行)

 良く出来た人情喜劇だ。単に笑わせるだけではなく重いテーマも内包していて、鑑賞後の満足度は高い。作者の冷静な人間観察眼にも感心してしまう一作である。

 古びたアパート福福荘に住む福田辰男は32歳の塗装工だ。仕事熱心で面倒見が良い彼は皆から“福ちゃん”と呼ばれて親しまれている。ただしなぜか女性に対しては奥手で、同僚がお見合いをセッティングしても完全に逃げ腰だ。一方、写真家の登竜門となる賞を受賞したOLの千穂は、プロになるため会社を辞めて大御所カメラマンに弟子入りするが、早々に露骨なセクハラに遭い、逃げ出してしまう。

 自分の進む道を失ったまま無為に日々を送っていた彼女は、ひょんなことから福ちゃんと出会う。彼を絶好の被写体だと思い製作意欲が湧いてきた千穂はモデルになってくれるように頼み込むが、実はこの二人は、過去に浅からぬ因縁があったのだ。

 千穂は福ちゃんを女性恐怖症にした張本人である。かつて二人は同じ中学校に通っていたが、学園のマドンナだった千穂に対し、福ちゃんは太って垢抜けない生徒でしかなかった。千穂とその仲間は、福ちゃんに陰湿なイジメを仕掛ける。かなりの心理的ダメージを負った彼は、それ以来女性にまともに向き合えなくなっていた。

 ところが千穂は、そんな事実を(占い師みたいな変なオバサンに指摘されるまで)忘れていたのだ。このあたりの作者の視線は鋭い。イジメ問題が深刻なのは、イジメられた方は一生かかっても癒えないような心の傷を抱えるのに対し、イジメる側は何とも思っておらず、時が経てば都合よく失念してしまうことだ。昔クラスメートに向かって心ない悪口を吐いた者が、それを今ではきれいに忘れて“イジメは犯罪だ”とか“イジメっ子は精神破綻者だ”とかいう利いた風な口を叩いているのを見ると実に嫌な気分になる。

 福ちゃんの隣人たちのキャラクターも、それぞれのトラウマと共に深く掘り下げられており、単なる“笑わせ要員”(?)に終わっていない。藤田容介の演出は前作「全然大丈夫」から格段の進歩を遂げ、ギャグの振り方やシークエンスの繋ぎ方などにまるで無理がなく、最後まで楽しませてくれる。

 福ちゃんを演じるのは大島美幸で、頭を丸刈りにし、体重を増やして冴えない男を実に上手く演じる。女が男の役柄を担当すること自体はいくつか前例があるが、本作では愛嬌たっぷりの主人公の造形に大いに貢献していた。千穂役の水川あさみは利己的かつ不器用なヒロイン像を上手く表現し、今までの彼女の仕事の中で一番良い。

 あと荒川良々や芹澤興人、飯田あさと、平岩紙、山田真歩、北見敏之、真行寺君枝といったクセの強い脇の面々には楽しませてもらった。特に、インド料理店の変態マスターを演じる古館寛治はケッ作。福ちゃんの仕事仲間に扮した徳永ゆうきが歌う演歌や上條恒彦&六文銭の「出発の歌」などの昭和歌謡の起用も嬉しい。
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ホークスの優勝パレードを見に行った。

2014-11-28 06:33:08 | その他

 先日(11月24日)、今期の日本シリーズを制した福岡ソフトバンクホークスの優勝パレードが福岡市内で行われた。好天にも恵まれ、前回(2011年)を上回る35万人が集まり、沿道は黒山の人だかり。人混みが苦手な私としてはあまり行く気は無かったのだが、嫁御からの誘いを断り切れずに、パレード開始の1時間以上前から満員電車状態の歩道に立って待つハメになった(爆)。

 しかしまあ、いざ選手達の喜びの表情を間近に見ると、けっこうテンションが上がる。パレードが終わると、ちょうど昼食時だったせいで、この大観衆のかなりの部分が近くのレストランに移動したようで、どの店も長蛇の列だ。なお、並んで待つのが嫌いな私は早々に帰途についたことは言うまでもない(笑)。

 2014年度のホークスはシーズン終盤に負けが込んだものの、下馬評通りのリーグ優勝。日本シリーズではタイガースを一蹴して強さを見せつけた。ただし、秋山幸二監督が退任してスタッフが一新される来期もこの勢いが続くとは言い難いだろう。何しろ就任予定の工藤公康は監督どころかコーチの経験も無い。新米指揮官が就任してスグに結果を出せるほど、この世界は甘いものではないはずだ。

 いずれにしろ、ホークスには次年度以降も頑張ってもらいたい。親会社の豊富な資金力で有力選手を集められる強味もあるが、生え抜き選手も良いのが揃っているようなので、期待は持てるだろう(たぶん ^^;)。
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「暗黒街のふたり」

2014-11-24 06:48:26 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Deux Hommes Dans La Ville )73年フランス作品。我が国における60年代末から70年代後半までの洋画興行界では、アラン・ドロン主演作は一種のドル箱であった。今から考えるとフランス映画が各シーズンの目玉作品としてラインナップに挙がっていたことが信じられないが、それだけこの役者の観客に対する吸引力は絶大だったのだ。私が観ることが出来たこの頃の彼の作品の中で、この映画は強く印象に残っている。

 主人公ジーノはかつて銀行強盗の首領として逮捕されたが、保護司のジェルマンの尽力もあり出所することが出来た。彼がシャバに戻ったことを知った昔の仲間が再び手を組んで大仕事をしようと持ちかけるが、ジーノは断り、愛する妻との慎ましい生活を選ぶ。ところがある日、交通事故に巻き込まれた妻は死亡する。さらに昔彼を逮捕した警部ゴワトローがジーノの更生を疑い、また犯罪に走るのではないかと執拗に監視する。



 月日が流れ、新しい仕事と新しい恋人ルシーを得て平穏な生活を手に入れたかに見えたジーノだが、昔の仲間が銀行を襲ったことを切っ掛けにまたゴワトローが彼に付きまとうことになる。ルシーにまで手荒なマネをはたらいたゴワトローに対し、ジーノの怒りが爆発。しかしそれによって、彼の人生はまたも暗転する。

 ジーノとゴワトローの関係は「レ・ミゼラブル」におけるジャン・ヴァルジャンと警官ジャヴェールとのそれに似ているが、現代劇である本作の方が迫真性がある。一度過ちを起こしただけで、何をやっても上手くいかず、坂道を転がるように逆境にハマり込んでいく主人公像を、ドロンは懸命に演じる。

 ジョゼ・ジョヴァンニの骨太な演出は、この犯罪ドラマを古典的な悲劇のような次元にまで昇華させており、特に痛切極まりないラストには胸が締め付けられた。

 ジェルマンに扮するのは名優ジャン・ギャバンで、ドラマをシッカリと脇から支えている。ミムジー・ファーマーとイラリア・オッキーニの女優陣も美しい。フィリップ・サルドの流麗なスコアと共に、私にとって忘れられない映画である。
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「イコライザー」

2014-11-23 06:53:53 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE EQUALIZER )クロエ・グレース・モレッツが太っていたのには愕然とした(大笑)。売春婦役ということで色気を前面に出すための“役作り”なのかもしれないが、油断していると撮影後も体重が元に戻らなくなる可能性もあるので、気を付けてもらいたいものだ。

 ボストンのホームセンターで真面目に働く中年男マッコールは、実は元CIAのエージェントで、ならず者の悪行を目の当たりにすると夜は“仕事人”に変身して悪者どもを片付ける。眠れない夜は深夜営業のカフェで読書をする彼だが、そこで知り合った少女娼婦のテリー(モレッツ)がロシアン・マフィアから酷い目に遭っていることを知り、早速アジトに殴り込んで一味を全滅させる。マフィア側も黙っておらず、最凶の殺し屋ニコライを送り込み、マッコールを亡きものにしようとする。

 元々は80年代のテレビドラマで、加えて監督がアントワン・フークアなので、作劇は随分と大雑把だ。いくら元CIAで当局側にコネがあるとはいえ、これだけの大暴れを警察が黙認出来るはずもない。対するマフィアも各方面に手を伸ばして容易に捕まらないように裏工作をしているが、それでも警察が本格捜査に乗り出す気配も無いのは違和感がある。

 さらに終盤には主人公が勝手に“海外出張”するに及び、マッコールの持つ“特権”は一体どのぐらい大きいのだろうかと呆れるばかりだ。しかもこの男、強すぎる。ピンチらしいピンチもなく、テキパキと相手を始末していく。要するにスティーヴン・セガールの「沈黙」シリーズと同じ展開なのだが、演じているのが大根のセガール先生とは違うデンゼル・ワシントンという芸達者なので、それほど腹も立たない。

 しかも、キャラクター設定は手が込んでいる。マッコールは修行僧のようなストイックな生活を送り、亡き妻の言いつけを守るように古典文学に親しんでいる。“仕事”を行う際は自分から銃を用意せず、現場にある物を上手く使って合理的にやり遂げる。特にクライマックスのホームセンターでの決闘は、店頭に並べてある物を適当に利用して最大限のパフォーマンスを発揮させている。

 敵役のマートン・コーカスも凄味があって良い。続編を作るような雰囲気も感じられるが、この調子ならば回を重ねられるだろう。音楽の使い方も気が利いていて、特にグラディス・ナイト&ザ・ピップスの往年のヒット曲「夜汽車よジョージアへ」の使われ方には感心してしまった。
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国産の高級スピーカーを試聴した。

2014-11-22 09:58:06 | プア・オーディオへの招待
 去る11月1日から3日まで北九州市小倉北区のAIMビル(アジア太平洋インポートマート)で開催された第28回オーディオ&ヴィジュアル展示即売会に足を運んでみたが、そこで聴くことの出来た国内メーカーのスピーカー2機種のインプレッションを書いてみたい。

 ひとつは、PIONEERのハイエンド部門のブランドであるTADの新型スピーカー、Compact Evolution One(CE1)である。TADの製品は過去に何度も試聴しているが、いずれも印象は最悪であった。作り手に音楽好きが一人もいないと思われるような無味乾燥な音で、長い時間聴いていられない。だから正直、本機にもあまり期待していなかった。



 ところが、この新製品はだいぶん様子が違っていた。実に聴きやすいサウンドなのである。高音も低域も十分に伸びた情報量の多い展開だが、その中でイヤな音は一つとして見当たらない。全てが滑らかで品位を感じさせる。もちろん欧米ブランドのような明るさや色気は希薄だが、聴感上の物理特性の高さと同時に、ハイファイ度をいたずらに強調したような外連味も無く、各音像を整然と送り出してくる行儀良さが心地良い。

 このTAD-CE1は、TADのコンシューマー向け製品の中では一番安い。とはいってもペアで160万円だから一般ピープルには縁の無い商品なのだが、同ブランドの上位機種みたいに犯罪的な高価格ではない。しかも、新開発のユニットやスリット形状のバスレフポートを本体側面の両側に配置する独自の規格を採用するなど、明らかに従来とは違う設計コンセプトが見受けられる。

 おそらくは同価格帯の海外製品と比べても、十分な競争力を持ちうるモデルかと思う。このノウハウを普及機種にも応用してもらいたいものだ。

 もう一機種は、岐阜県中津川市にあるガレージメーカー、KISO ACOUSTICが去年(2013年)リリースしたHB-X1である。以前同社のHB-1を聴いてその能力の高さに舌を巻いたが、この新作はそのブラッシュアップ版だ。外観は前モデルとあまり変わらないが、内部設計は根本から見直されているという。



 実際聴いてみると、サウンドも進化していることを実感出来た。アンプに海外ブランドのハイエンド機を持ってきている影響もあるだろうが、片手で持てるようなサイズのスピーカーが広大な音場を創出していることに驚愕する。聴感上のレンジは広く、大編成の音源を大きなヴォリュームで鳴らしても、まったく破綻が無い。しかも、前作には無かった音色の明るさや艶も感じさせ、まさにコンパクト型スピーカーの究極の形を見るようだ。

 価格は170万円と、HB-1の130万円よりもさらに高額だが、値段に見合った価値を見出す(金回りの良い)ユーザーも少なくないと思う。もちろん、TAD-CE1同様に欧米ブランドとも真正面から勝負出来るだろう。

 いつもは国産スピーカーに関しては辛い点数を付ける私だが(笑)、この2機種については及第点だ。優秀なエンジニアが、明確なコンセプトの元で真面目に仕事をすれば、納得出来る製品を作り上げられるということを実感した(まあ、高すぎて私には買えないが ^^;)。

 フェア会場ではジャズシンガーのミニライヴやオーディオアクセサリーの聴き比べなどのイベントが行われていたようだが、時間が無く見られなかったのが残念。特に指揮者の北村憲昭の講演は聞きたかった。福岡市で行われる春のフェアでも興味深い出し物を期待したい。
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「ジェラシー」

2014-11-21 06:27:52 | 映画の感想(さ行)

 (原題:LA JALOUSIE )独特の雰囲気は捨てがたいが、逆に言えば“雰囲気だけ”で終わっている映画で、あまり面白くはない。作品の空気感の醸造なんてものは、描くべきものを描いてからやってほしいものだ。

 舞台俳優のルイは妻と娘と暮らしていたが、まとまった仕事にはありつけず、実質的にカミさんに養ってもらっている状態だ。ある日、彼は浮気相手である俳優仲間のクローディアと暮らすため、家を出る。しかし、女優としては限界を感じてカタギの仕事に就こうと思っているクローディアは、夢を語るばかりのルイに愛想を尽かして、何かと彼女の面倒を見てくれる建築家の男になびいてしまう。傷付いたルイは自殺未遂騒ぎまで起こすが、それでも事態は変わらない。

 フィリップ・ガレル監督の作品を見るのは初めてだが、彼は“ヌーヴェルヴァーグ次世代の旗手”として知られているそうだ。なるほど、過去のヌーヴェルヴァーグの諸作に通じるモチーフはふんだんに出てくる。主人公は典型的な芸術肌のパリジャンで、彼の言動は過度に主観的に捉えられ、勝手に無軌道に振る舞い、勝手に悩んで追い込まれていく。

 ところが、そのヌーヴェルヴァーグっぽいエクステリアを取り去ってしまえば、何とも中身の無い展開に終始している。各登場人物の内面がほとんど明示も暗示もされておらず、具体的に誰の誰に対する“ジェラシー”をメインに扱いたいのか分からない。上映時間は77分と短いが、これはストイックに尺を削ったということではなく、単にそれ以上描けるものが無かったから打ち切ったというのが実状だろう。

 主演のルイ・ガレルは監督の息子であり、監督の妻であるキャロリーヌ・ドリュアス=ガレルが脚本に参加しているというから、作者の自伝的要素も入っているらしい本作は、意地悪な見方をすれば“若い頃はこんなにも無頼を気取っていたものだ”という送り手の鼻持ちならない言い分を家族ぐるみでトレースしただけのシャシンであるとも言える。

 とはいえ、ウィリー・クラントのカメラによるモノクロ映像は大層美しい。また、画面の構図もスタイリッシュで、そのあたりは観て損は無い。またクローディアに扮するアナ・ムグラリスは魅力的だし、主人公の娘を演じる子役のオルガ・ミルシュタインがとても可愛い。ジェン=ルイ・オベールによる洗練されたスコアも要チェックだ。
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「蕨野行」

2014-11-20 06:31:27 | 映画の感想(わ行)
 2003年作品。題名は“わらびのこう”と読む。江戸時代の東北地方の山村を舞台に、60歳になると慣習により「蕨野」と呼ばれる村はずれの荒れ地に強制移住させられる老人たちの姿を追う。村田喜代子の同名小説の映画化で、監督はベテランの恩地日出夫。

 今村昌平監督の「楢山節考」と同じネタなのだが、独自性を際立たせているのが台詞回しである。方言と文語調を組み合わせた独特のもので、非常に格調が高い。女主人公レンと若い嫁ヌイの「おババよい・・・」「ヌイよい・・・」という文言から始まるやり取りを聞くだけで、映画の世界にイッキに引き込まれてしまう。日本語とは、こんなにも美しい言語だったのかと、深く感じ入ってしまった。



 年寄りを捨てるまでのプロセスを描いた「楢山節考」とは違い、この映画では「蕨野」での生活を克明に追う。老人たちはそれまでの名を抹消され「ワラビ」という匿名の存在になる。ワラビたちは村人と会話することも許されない。たとえ死んでも葬式さえ出してもらえないのだ。

 まるで救いのない残酷な話にもかかわらず、映画自体は透徹した輝きを放っているのは、共同体と一緒に生き、また共同体のために殉じてゆく主人公達の生き様に日本民族の原風景を見るような気高さと美しさを感じるからである。それが最もよく示されているのは、レンが妹のシカと別れる場面である。

 シカはかつて村から追放され、獣のように山の中で生き抜いてきた。シカは姉に「冬が来る前に蕨野を出て食べ物が豊富な別の山で一緒に暮らそう」と申し出る。しかしレンはそれを断る。共同体での掟を破ることは、自分が共同体の中で暮らした意義を反故にすることになるのだ。自らの運命を受け入れたレンの強い意志が示されるこのシーンは実に感動的だ。

 本作を観ていると、的はずれな「人権」ばかりを振りかざして自分勝手に生きることを奨励しているかのような「戦後民主主義」がいかに矮小なものなのかを実感する。人間は共同体を逸脱しては「人間」として生きていけないのである。

 レン役の市原悦子、嫁のヌイに扮する新人の清水美那、年寄り達を演じる石橋蓮司、中原ひとみ、李麗仙、左時枝など、いずれも好演。ロケ地になった山形県の山麓風景のなんと美しいことか。この時期の日本映画を代表する秀作だと断言したい。
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「幻肢」

2014-11-19 05:56:08 | 映画の感想(か行)

 お手軽なホラー・サスペンス編だが、キャラクター設定にはいくらか興味を覚える。出来は平凡でも、観る側が少しでも共感出来るモチーフがあれば、けっこう忘れがたい映画になるものだ。

 運転していた車の転落事故で重傷を負った医大生の雅人が昏睡状態から目覚めてみると、彼は事故当日のことを全く覚えていない。どうやら同乗していたのは恋人の遙らしいのだが、彼女に関する記憶も丸ごと欠落している。友人の亀井に勧められ、雅人は彼自身が研究していたという、脳に磁気刺激を与えるTMS治療を試すことにするが、その直後から彼の前に遥の幻が出現するようになる。その幻に励まされて次第に雅人は元気を取り戻していくが、同時に明らかになっていく事故の真相は、彼のアイデンティティを揺るがすような忌まわしいものであった。

 タイトルの幻肢というのは、手足などの身体の大切な部分が欠けてしまうと、脳はまだそれがあるかのような幻覚を作り上げることであるが、この映画の内容にそれほど関係しているとは思えない。大切な人を失って、それを受け入れられない防御本能がリアルなイメージ(幽霊)を喚起させるのも“幻肢の一種だ”と言いたいらしいが、何やらこじつけ臭い。まあこれは島田荘司による原作(私は未読である)がそうなっているのだから仕方がないが、違和感を覚えるのは確かだ。

 この事故は実は雅人が遥を亡きものにしようと図った殺人なのか、あるいは無理心中未遂なのか、それとも別の事情があったのか等、いろいろな憶測を呼ぶ。しかし、いずれにせよクローズアップされるのは、雅人の底無しのヘタレぶりだ。交際相手の一挙手一投足に過剰に反応し、勝手に疑心暗鬼に陥り、同時に自己嫌悪に浸る。そのため勉学にも身が入らない。まったくどうしようもない奴だが、困ったことにこれが説得力を持ってしまうのだ(大笑)。

 実を言えば、私の若い頃も似たようなものだった。優柔不断で、自分一人でウジウジ悩み、それでいて根拠の無いプライドにしがみついて虚勢を張ったりする。この主人公を見ていると、そんなかつての自分を投影してしまい、思わず苦笑してしまった。

 演じる吉木遼はそれほど上手くはないが、根性無しの雰囲気を良く出していたと思う。藤井道人の演出は映像処理に凝ったところを見せるものの、取り立てて光る箇所は無く平板に流れる感じだ。遥に扮する谷村美月はさすがに演技は達者で、平凡さと神秘性を両立させたキャラクター創出に貢献していた。

 遠藤雄弥や宮川一朗太といった脇の面子も悪くない。あと佐野史郎が教授役で出てくるが、“何かある”と思わせて肩すかしを食らわせるあたりは笑ってしまった。
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「ガメラ2 レギオン襲来」

2014-11-18 06:35:30 | 映画の感想(か行)
 96年作品。金子修介監督による平成ガメラ三部作はどれも評判が良いが、このパート2はその中でも質が高い。何がいいかといって、話が理詰めに展開することだ。異星からの侵略者レギオンはなぜ日本にやってきたのか。どうして大都市ばかり狙うのか。なぜ3段階に変態するのか。以前の怪獣映画が行きあたりばったりに舞台を都会に持ってきたのとは違い、実に筋の通った説明が付けられている。

 次に、話が整然としているから、キャラクターも実に無理のない存在感を発揮している。永島敏行と石橋保はまさしく自衛隊員だ。特に永島は威厳と行動力を持ったエリート軍人を見事に体現化している。水野美紀の学芸員も当時のネアカぶり(?)を抑えて的確だし、前作に続いての藤谷文子をエキセントリックな方向に行かせなかったのも正解(ガメラとの交信が薄れてきたという設定が効いている)。そして吹越満のNTT職員がいかにもサラリーマン然としているのには笑った。要するに、全体として無駄なキャラクターがいない。



 そして何といっても自衛隊の大活躍である。今まで映画の中の自衛隊といえばロクな扱われ方をされていなかった。特に特撮映画では“何となく現れるが、いつの間にかやられてしまう”という地位に甘んじていた。ところが今回はどうだ。レギオンとの戦闘シーンはガメラよりも自衛隊の方が長いのだ。

 ガメラを援護したり、“羽根レギオン”を全滅させたりする見せ場もあるが、出てくる自衛隊の誰もがヒネたりおちゃらけたりすることなく、真に“国民の生命・財産を守るのだ”という使命感にあふれ、綿密な対レギオン戦の計画を練り実行していく様子は、これこそ自衛隊のあるべき姿ではないかと感動さえ覚えてしまう。“防衛庁全面協力”のキャッチフレーズもうがった見方抜きにして納得できる。

 さらに映画としての絵作りの上手さ。戦車の進軍に揺れる無人のレストランや、ビルの窓への兵器群の映り込み、戦いの最中にフッと田舎の路傍の風景を挿入させるショットなど、日常と非日常との目を見張るコントラストは凄い(いかにも「パトレイバー」の伊藤和典の脚本らしい)。

 ガメラとレギオンが対峙する時の距離感や、バトルシーンの段取りなど、従来のモンスター映画(ハリウッド製も含めて)では考慮されていなかった点にも目が行き届いているし、派手さはないが的確なSFXも言うことなし。金子修介の久々に弾ける演出で、ラストまでグイグイ引っ張ってくれる。

 今年(2014年)に公開されたハリウッド版「ゴジラ」もまあ悪くはなかったが、この映画に比べれば見劣りがする。とにかく、怪獣映画の何たるかを理解した日本の監督がアメリカで堂々と大作を撮る日を待ちたいものだ。
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