元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「夜が明けるまで」

2020-03-30 06:30:57 | 映画の感想(や行)

 (原題:OUR SOULES AT NIGHT )2017年9月よりNetflixにて配信。実に味わい深いヒューマンドラマであり、鑑賞後の満足感は大きい。また、ロバート・レッドフォードとジェーン・フォンダというスターを配していながら、どうしてネット配信の扱いで終わってしまったのか解せない。全国拡大公開は無理でも、このクォリティならばミニシアター系での粘り強い興行は可能だったと想像する。

 コロラド州の田舎町に住むルイス・ウォーターズは、妻を亡くしてから一人で老後の日々を送っていた。ある日の晩、近所に住む未亡人のエディーが彼を訪ねてくる。彼女もまた夫に先立たれてから長らく一人で暮らしていた。エディーはルイスに“ときどき、うちに来て一緒に寝てくれないか”と頼むのだった。もっとも、それはあくまでプラトニックな関係で、孤独を癒すために語り合う相手が欲しかったらしい。唐突な申し出に面食らうルイスだが、結局はその提案を受け入れる。だが、周囲の者は2人が懇ろな関係になったのではないかと、いらぬ詮索をするのだった。

 ある日、エディーの息子ジーンが7歳になるジェイミーを連れてくる。彼は妻に逃げられ、慣れない育児に窮しており、母親に助けを求めたのだ。エディーはジェイミーを預かることにするが、ルイスも子守を担当する。だが、エディーとルイスの関係を知ったジーンは、すぐさまジェイミーを引き取りに来るのだった。ケント・ハルフが2015年に上梓した小説の映画化だ。

 主人公2人の逢瀬は、単に“独居老人同士が、たまたま近くに住んでいたので急接近してみた”という下世話なレベルの話ではない。エディーとルイスには、それぞれ拭いきれない過去への悔恨がある。そして今も家族に対する屈託を抱えている。一人きりでは押し潰されてしまうような懊悩の中で、価値観を共有する“仲間”を求めた結果なのだ。過去及び家族に今一度向き合い、何とか残りの人生を乗り切るためのモチベーションを見つけるため、2人はあらためて困難な道を歩み出す。その見事な決意表明には感服するのみである。

 印象的なシークエンスはいくつもあるが、その中でもエディーとルイス、そしてジェイミーがキャンプに出掛けるくだりは素晴らしい。心を閉ざしていたジェイミーが自然の中で自分を取り戻し、祖母たちと新たな関係性を見出すシーンは、美しい映像も相まって大いに共感した。もちろん、これはレッドフォードとJ・フォンダという華のあるスターが演じているからこそ説得力があるのだが、たとえ一般の市井の者でも年を取ってから斯くの如き“転機”を迎える可能性があるのではないかと思い至り、観ていて表情が緩んでしまう。

 主演の2人は言うこと無し。老いても存在感は失っていない。マティアス・スーナールツやジュディ・グリア、ブルース・ダーンといった脇のキャストも手堅い。エリオット・ゴールデンサールの音楽とスティーヴン・ゴールドブラットの撮影は見事だ。監督のリテーシュ・バトラは現時点で40歳そこそこだが、それでいて人生のベテランたちを動かす術に長けているのには感心する。演出力も「めぐり逢わせのお弁当」(2013年)の頃よりもアップしているようだ。
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「レ・ミゼラブル」

2020-03-29 06:58:36 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LES MISERABLES)第72回カンヌ国際映画祭で審査員賞を獲得し、世評も悪くない作品だが、率直に言ってそれほどのシャシンとは思えない。理由は、脚本およびキャラクター造型に難があるからだ。何やら、ハードな題材を選べば事足りているという印象で、その次元に留まっている。とにかく、物語の練り上げが無ければ映画として成り立たないのだ。

 パリ市警で勤務することになったステファン巡査長が配属されたのは、ヴィクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」の舞台となった郊外のモンフェルメイユであった。そこは、不法移民や低所得者が多く住む危険な地域である。犯罪防止班に新たに加わった彼は、2人の仲間とともにパトロールするうちに、2つのギャングのグループが緊張関係のまま均衡を保っていることを知る。



 そんなある日、サーカス小屋からライオンの子供が盗まれるという事件が発生。ステファンたちは犯人と思われる少年たちを追うが、同僚の一人が誤ってイッサという少年に怪我を負わせてしまう。しかも、その現場を別の少年が操縦するドローンが撮影していた。そこはギャングのボスたちが仲介して何とか事態を治めたと思われたが、後日大変な騒動が起きてしまう。

 本作を観て思い出したのが、リオデジャネイロ郊外の貧民街を舞台にしたフェルナンド・メイレレス監督の「シティ・オブ・ゴッド」(2003年)である。だが、出来はあの映画には敵わない。一番の問題点は、ステファンという良心的なキャラクターを画面の真ん中に置いたことだ。つまりは“良識”によって一応事態は収束されるはずだといった、道理的なスタンスを打ち出している。

 しかし、ちょっと見れば分かるようにこの映画で描かれる世界は常識は通用しない。食うか食われるかのワイルドな状態だ。それを新任の警官がどうこう出来る余地は無い。しかし、作者自身がリベラルとも言えるスタンスを取ってしまったが故に、終盤には結末をあらぬ方向へ“丸投げ”するしかなかった。これでは消化不良だ。

 対して「シティ・オブ・ゴッド」のアプローチは、痛快なほど素材の残虐性をエンタテインメントとして昇華している。“良心”なんか、最初から存在しない。あの映画に比べれば、この「レ・ミゼラブル」は随分と甘口に見える。

 しょせん、貧困と暴力が支配する地域を対処療法的に何とかしようとしても無駄なことなのだろう。私なんか、こういう極悪なガキどもは機銃掃射で一斉駆除してやれば良いとも思ってしまうのだが(苦笑)、そうもいかない以上、ステファンの同僚たちのように現状を追認して上手く立ち回る方が得策だという、脱力するような結論に行き着くしかない。

 そもそも諸悪の根源は、貧民街を存在させているグローバリズムをはじめとする国家施策の数々だ。この問題を解決するには、現場の個人の努力ではどうしようもない。監督のラジ・リはそのことに気付いているのか。いや、たぶん気付いてはいるのだが、何か出来るはずだという願望を抱いているだけだろう。
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「アースクエイクバード」

2020-03-28 06:56:57 | 映画の感想(あ行)

 (原題:EARTHQUAKE BIRD )2019年11月よりNetflixにて配信。食い足りない箇所もけっこうあるのだが、蠱惑的な吸引力のあるサスペンス編で、鑑賞後の印象は悪くない。特にラストの処理は秀逸で、この一点だけでも十分に存在価値のあるシャシンである。

 1989年の東京。日本での生活が長いイギリス人女性ルーシーは、ある日突然警察から参考人としての取り調べを受ける。東京湾で見つかった女性死体が、彼女の友人で行方不明になっていたリリーではないかという疑惑が持ち上がったのだ。刑事からの質問を受ける間、彼女はリリーと知り合った頃を思い出す。

 ルーシーはミステリアスな雰囲気を放つカメラマンの禎司と出会い、惹かれるものを感じていたが、リリーもどうやら禎司が好きらしく、いわば三角関係が出来上がっていた。彼らは一緒に佐渡に旅行に出掛けるが、現地でのちょっとしたアクシデントにより、ルーシーの内面の屈託は一層大きくなる。日本在住経験のある作家スザンナ・ジョーンズによる同名小説の映画化だ。

 ルーシーがどうして禎司を好きになったのか、その過程にあまり説得力がない。禎司はカメラの腕は相当なものだが、プロになる気は無く、普段はそば屋で働いている。過去の女性関係も何やら怪しい。このような素性の分からない男に、なぜ主人公(およびリリー)が本気で惚れたのか不明だ。事件そのものの全貌も、一向にハッキリしないまま映画は進む。ルーシーは過去のトラウマを抱えているが、いくらそれが終盤の伏線になるとはいっても、取って付けた感は否めない。

 しかし、この映画には独特の魅力がある。それは“異界”としての日本の描写だ。製作総指揮をリドリー・スコットが務めているが、彼が89年に手掛けた「ブラック・レイン」では大阪の街が未来都市のように扱われていた。だが、本作ではハリウッド名物“えせ日本”が「ブラック・レイン」よりもさらに抑えられているにも関わらず、作品空間のエキゾティックな捉え方は昂進している。

 何より、チョン・ジョンフンのカメラによる映像の喚起力が大きい。かなり陰影の強い絵作りで、色彩も濃厚。特に闇の描写は印象的であり、その暗い深淵の中では何が起こっているか分からない不安感を観る者に与える。バブル期の東京の風俗表現も上手いし、佐渡の神秘的な風景も捨てがたい。

 またアッティカス・ロスにクローディア・サーン、レオポルド・ロスによる音楽が効果的で、ニューロティックな雰囲気を盛り立てている。そして、冒頭に述べたラストの扱いは、劇中でヒロインの眼前で起きる“事故”についての“結論”を示唆することにより、人生の出来事の多様性を導き出すモチーフになっており、これは相当巧みな処置と言って良い。

 主演のアリシア・ヴィキャンデルは相当に役を作り込んでおり、驚くほど流暢な日本語を話し、着物姿もよく似合う。リリー役のライリー・キーオの主人公とは対照的なキャラクターも面白い。祐真キキに岩瀬晶子、佐久間良子といった日本人俳優も頑張っているが、禎司に扮する小林直己は演技が硬い。EXILE一派からの起用は考え直した方が良いのではないだろうか。ウォッシュ・ウェストモアランドの演出はもう少しテンポの良さを求めたいが、「アリスのままで」(2014年)の頃よりは随分と達者になっている。
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「ラスト・プレゼント」

2020-03-27 06:56:21 | 映画の感想(ら行)
 (英題:Last Present)2001年韓国作品。私は2002年のアジアフォーカス福岡映画祭で観ている。本国では大きな話題を呼んだらしいが、なるほど誰でも楽しめるラブコメディ(兼悲恋もの)に仕上がっており、鑑賞後の満足度も決して低いものではない。ただし、設定自体に長所と短所が混在しており、諸手を挙げての高評価は差し控えたいと思う。

 お笑い芸人のヨンギは、才能はあるがさっぱり売れない。来る日も来る日も、演芸番組の“前振り”で客席をある程度盛り上げるような“裏方”の仕事をこなすのみだ。妻のジョンヨンは甲斐性の無いダンナにウンザリしており、いつもケンカばかり。しかし、実はジョンヨンは重病に冒されており、余命幾ばくも無いことを隠していた。やがて偶然その秘密を知ったヨンギは、彼女のために一世一代のネタに挑む。



 監督は当作品がデビュー作となるオ・ギファン。主人公の夫婦を演じるのはイ・ジョンジェとイ・ヨンエで、この二人の人気俳優の共演は、韓国の映画ファンに多いにアピールしたという話だ。ヨンギをコメディアンにしたことがこの作品の長所であろう。

 頻繁に挿入されるギャグシーンは、絵に描いたような“お涙頂戴もの”のルーティンを巧みに緩和して、少々不自然な展開や、ヒロインの初恋の人を捜すシークエンス等のまどろっこしさも、文字通り“笑って済ませる”ことが出来る。加えて主演二人の存在感。イ・ジョンジェは以前の作品群とはうって変わった好漢ぶりで、コメディアンとしての舞台場面もまったく違和感がない。イ・ヨンエも従来のイメージを覆し、終始スッピンを通した形振り構わぬ大熱演だ。特に両親の墓の前で独白するシーンにはグッときた。

 しかし、終わってみれば、主人公の成功の影に妻に関する悲話が付きまとうことが今後の彼の在り方の障害になることは確実である。どんなにコメディアンとしての才能に恵まれようが、世に出るきっかけが妻との悲恋とセットで語られてしまっては若手喜劇人として致命的(笑わせなきゃならないのに、泣きが先行してどうするんだって感じだ ^^;)。あまり感動できないのはそのためで、それがこの映画の短所でもある。

 クォン・ヘヒョやイ・ムヒョンといった脇の面子は万全。イ・ソッキョンによる撮影、チョ・ソンウの音楽も悪くない。なお、本作は2005年に日本でテレビドラマ化されている。私は見ていないが、脚本が岡田惠和で堂本剛と菅野美穂が主演とのことなので、けっこう出来は良かったのではないかと想像する。
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「黒い司法 0%からの奇跡」

2020-03-23 06:33:00 | 映画の感想(か行)

 (原題:JUST MERCY)正攻法の社会派映画で、観た後の充実感が大きい。この作品がアカデミー賞候補にならなかったことが不思議だ。そして、ここで描かれたことがほんの30年ばかり前の出来事であることも驚く。アメリカという国は、まだまだ底知れぬ闇を秘めているのだろう。

 80年代後半のアラバマ州。林業に従事していた黒人男性ジョニー・Dことウォルター・マクシミリアンは、突然逮捕される。白人の少女を殺害したという容疑だ。ところがウォルターは全く身に覚えが無い。彼は激しく否認するが、法廷は死刑判決を下す。そんな中、ハーバード法科大学院を出たばかりの新人弁護士ブライアン・スティーヴンソンは、大手事務所のオファーを断り、死刑囚の支援をしているNPOのあるアラバマ州に赴任する。

 ブライアンは刑務所でウォルターと出会い、彼が有罪である証拠がほとんど無いことに驚愕する。ブライアンはNPOのスタッフであるエヴァと協力して法律事務所を設立。ウォルターを救うべく、本格的に活動を開始する。ブライアン自身の手によるノンフィクションの映画化だ。

 アラバマ州といえば、ロバート・マリガン監督の「アラバマ物語」(1962年)の舞台になった場所だ。あの映画の時代設定は1930年代で、同じく主人公は弁護士。白人女性殺害の容疑で黒人男性が起訴されるという設定も似ている。ところが「アラバマ物語」の時代から半世紀以上経っても、事態はあまり変わっていないのだ。

 ウォルターの有罪を示すものは、たった一人の証言のみ。それもかなり怪しい。何しろ物的証拠さえ存在しないのだ。ブライアンが黒人であるという理由で、弁護士であるにも関わらず刑務所で身体検査される屈辱。黒人への差別を隠そうともしない地元の警察と検察。さらには新たな証人も別件で逮捕されるという、理不尽な出来事のオンパレードだ。

 ただし、本作の内容は不正を告発するだけに終わっていない。法曹関係者としてのブライアンの矜持をはじめ、ウォルターのプロフィールとその家族の描写、逆境に負けないエヴァのプライド、さらには他の死刑囚の心情に至るまで、各登場人物の掘り下げが実に深いのだ。特に、ウォルターの独房の両隣にいる囚人の扱いや、根拠薄弱な証言をした者の屈折した内面など、見事な洞察と言うしかない。

 デスティン・ダニエル・クレットンという監督の仕事ぶりを今回初めて見たわけだが、隙の無い作劇で高い手腕を感じさせる。ラストシーンの扱いと、それに続く各キャラクターの“その後”を紹介する幕切れの処理は、大きな感銘をもたらす。主演のマイケル・B・ジョーダンとジェイミー・フォックスの演技は素晴らしい。ティム・ブレイク・ネルソンにロブ・モーガン、ブリー・ラーソンといった他のキャストも万全だ。ブレット・ポウラクのカメラが捉えた、南部の気怠い雰囲気。ジョエル・P・ウエストの音楽および既成曲の使用も万全だ。
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「神経衰弱ぎりぎりの女たち」

2020-03-22 06:32:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Mujeres Al Borde de un Ataque ed Nervious )87年作品。スペインの“巨匠”と言われて数々の賞をモノにしているペドロ・アルモドヴァル監督だが、個人的にはその作風は肌に合わない。有り体に言えば、どこが良いのか分からないのである。しかし、本作だけは別だ。筋書きの面白さもさることながら、独特のヴィジュアルが劇中シチュエーションと各キャラクターにマッチしている。快作と呼んでも差し支えが無い。

 同棲中の俳優のペパとイヴァンは、映画の吹き替えで何とか生計を立てながら暮らしていた。ある日、イヴァンが失踪。思い出の詰まった部屋で一人で住むのは辛いペパは、部屋を貸すことにするが、イヴァンが新しい女と懇ろになっているという噂を聞いてしまう。そんな中、友人のカンデリャが、男関係のトラブルで彼女のアパートに転がり込む。



 さらに、部屋を借りたいという若いカップルがやってくるが、男の方はイヴァンの息子である。しかしペパはその事は知らない。そして20年前にイヴァンの恋人であったルシアが精神病院を退院してくる。彼女はイヴァンを忘れるには彼を殺すしかないと思い込んでおり、銃を片手にイヴァンを追い回す。

 映画が進むごとに出てくるキャラクターの危なさが昂進し、騒ぎが幾何級数的に大きくなる様子は、まさに壮観だ。それを盛り上げるのがこの監督独特の美的センスである。特に赤色の使い方は非凡だ。女たちのルージュの赤から衣裳をはじめトマトスープやCMの中のワイシャツに付いた血など、これでもかとケバケバしい赤の洪水が押し寄せる。

 そして舞台の大道具・小道具もキッチュかつ繊細に練り上げられており、観ていて飽きることがない。女たちの造型もキレまくっており、大きすぎる口や長すぎる鼻、デフォルメされた顎など、まさにピカソの抽象画と見まごうばかりの大胆さだ。現在進行形で恋に生きるペパたちと、20年前に時間が止まったまま恋の幻を追いかけるルシアとの対比も強烈。それぞれ見据えるものが違うが、どちらも周囲が見えなくなるほど猪突猛進な暴走を展開する。

 ペパ役のカルメン・マウラをはじめ、フリエタ・セラーノ、マリア・バランコら女優陣はいずれも快演。いつもはアクの強さを見せつけるアントニオ・バンデラスが、ここでは何となく地味な印象を受けるのもおかしい。ホセ・ルイス・アルカイネによるカメラと、ベルナルド・ボネッツィの音楽も快調。“神経衰弱ぎりぎり”どころか、それを超越した次元に突き抜けた、パッショネートな逸品である。
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「ジュディ 虹の彼方に」

2020-03-21 06:56:57 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JUDY)かなりの力作で、キャストも熱演だ。見応えはある。しかしながら、物足りなさも感じた。それはひとえに、肝心な部分を描いていないことに尽きるだろう。米アカデミー賞では主演女優賞以外はノミネートされていない理由も、案外そんなところにあるのかもしれない。

 1968年。かつてミュージカル映画の大スターとして名声をほしいままにしたジュディ・ガーランドだったが、問題行動を重ねるあまり仕事が激減し、住む家も無いまま巡業で食い繋ぐ日々を送っていた。そんな中、ロンドンでの興行の話が舞い込む。ハリウッドでは“過去の人”扱いだが、英国ではまだ人気があったのだ。



 元のダンナに幼い娘と息子を預けて渡英するジュディだが、プレッシャーでステージになかなか上がれない。それでもひとたび舞台に立てば、素晴らしいパフォーマンスを発揮して観客を魅了。ショーは大盛況で、新しい恋人も出来て彼女の人生は久々に上向いたように思われたが、子供と離れていることによる心労で徐々に酒とクスリに溺れ、ついには舞台でも取り返しの付かないミスを犯してしまう。

 冒頭、少女時代のジュディが事務所関係者らによって芸能人としての“カタにハメられる”様子が描かれる。このモチーフは劇中何度か出てきて、彼女は十代の頃から私生活など無いに等しい状況だったことが示される。しかも、当時は合法だった薬物によって心身共にボロボロだ。作者は、若い時分から酷使されたことによってジュデイは不遇な晩年を送る羽目になったと言いたいようだが、残念ながらそれだけでは不十分なのだ。

 この頃のハリウッドスターは、程度の差こそあれ若手時代は皆ジュデイと似たような境遇ではなかったのか。彼女が落ちぶれたのは、自身が元々メンタル面で不安要素があったと思われること、そして親との関係が正常ではなかったこと、さらにはアカデミー賞で本命視されていたにも関わらずオスカーを獲得できなかったことなど、いくつもの要因が重なった結果だろう。にも関わらず映画はデビュー当時と晩年しか描いておらず、その間がスッポリと抜けている。

 だから、ロンドン公演での彼女の言動には共感できないのだ。これでは、周囲を困らせるただのオバサンではないか。いくらステージ上ではカリスマ性を発揮しようと、役柄の上では魅力を欠く。そもそも本作は、ピーター・キルターによる舞台劇の映画化であり、正攻法の伝記映画ではないことも影響していると思われる。

 主役のレネー・ゼルウィガーはさすがの演技で、本人による歌唱も堂に入ったものだ。ジェシー・バックリーやルーファス・シーウェル、ロイス・ピアソン、マイケル・ガンボンなどの脇の面子も万全。そして、少女時代のジュディを演じるダーシー・ショウのフレッシュな魅力も忘れ難い。だが、作劇面で踏み込みが足りないため、全体的にいまひとつ訴求力が高まらない。なお、劇中のナンバーのほかにもオリジナルスコアを提供したガブリエル・ヤレドの仕事ぶりも印象的だ。
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ギュスターヴ・ル・ボン「群衆心理」

2020-03-20 06:36:22 | 読書感想文

 フランスの社会心理学者ル・ボンにより1895年に書かれた文献だが、少しも古びていないどころか、21世紀の現在においてもその論旨は立派に通用する。言い換えれば、近代民主主義が誕生してから長い時間が経過したにも関わらず、我々は何も進歩していないのだろう。

 著者によれば、いわゆる“群衆”とは同一の基盤に準拠した集団で、その基盤とは民族とか国民とか、時には宗教とかいったものだ。対個人では論理や道徳は通用するかもしれないが、共通した基盤を持つ人間が集まって“群衆”を形成してしまうと、理屈は無力になる。では“群衆”は何によって動かされるのかというと、過激な感情のみである。そして、その感情を捉えて上手く扇動する者が現れると、一斉にその方向へ突き進む。

 アジテーションの方法は実に単純明快で、内容空疎な(なおかつセンセーションな)スローガンの連呼で事足りる。“群衆”がそのスローガンを支持する際は、責任の所在などには考えが及ばないし、どういう結果に行き着くかも脳裏に無い。

 このロジックを“実行”して成果を上げた者がヒトラーであり、彼は早くからル・ボンのこの著書を知っていたという。ヒトラーの企みは敗戦によって塵芥に帰すのだが、ドイツ国民という“群衆”は責任を全てナチスに押し付けた。問題の当事者でありながら最終的には責任を放り出す“群衆”の論理は、難民問題に揺れる現代でもしっかりと息づいている。しかも、デイヴィッド・ヴェンド監督「帰ってきたヒトラー」(2015年)でも示される通り、インターネット社会では“群衆”に対するアジテーションの伝播は広範囲かつ高速におこなわれる。

 本書は“群衆”の生態については解説されているが、“群衆”の暴走を防ぐ処方箋は明確に提示していない。ただし、そのことが決して瑕疵にはならない。大切なのは“群衆”の何たるかを知った上で、我々個人がどう対峙するか、それを見極めることだと思う。翻訳(桜井成夫による)のせいか、文章は硬くて取っつきにくい面もあるが、一読に値する内容だ。ましてや我が国では、何の具体性も無いシュプレヒコールの連呼によって“群衆”が動き、なおかつ政治の中枢部は責任が存在しないという空虚な状態が20年以上も続いているのである(呆)。
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「ザ・ピーナッツバター・ファルコン」

2020-03-16 06:35:15 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE PEANUT BUTTER FALCON)共通性を指摘されるであろう、トラヴィス・ファイン監督の「チョコレートドーナツ」(2012年)よりは良い出来だ。だが、飛び抜けて上質ではない。有り体に言えば“中の上”というところか。やはり、劇映画としてはこの題材を扱うことはハードルが高いのだと思う。

 ジョージア州サバンナにある養護施設で暮らすダウン症の青年ザックは、子供の頃からプロレスが好きで、いつか憧れの悪役レスラーが経営する養成学校に入ることを夢見ている。そのため、施設を脱出する機会をいつも窺っていた。そしてある日、同室のカール老人の助けを得て脱走に成功。そしてひょんなことから漁師のタイラーと出会う。タイラーはしっかり者の兄を亡くしてから自暴自棄になり、漁師仲間の仕事を妨害して追われる身になっていた。いつしか意気投合した2人は、レスラー養成所のあるノースカロライナ州へと向かう。養護施設のスタッフであるエレノアは何とか2人に追いつくが、成り行き上、期限付きで彼らと行動を共にする。

 訳ありの3人が旅をするハメになるというロードムービーの設定は盤石で、舞台になるアメリカ南部の風情も捨てがたい。二転三転する筋書きは飽きさせないし、出来過ぎと思われがちな終盤の処理も観ていて決して悪い気はしない。とはいえ、無理筋のプロットも散見されて評価するのを躊躇わせるのも確かだ。

 タイラーは劇中では“活躍”するものの、いくら兄を失ったことでヤケになっていたとはいえ、やったことは窃盗と器物損壊だ。そのため感情移入しにくい。エレノアはザックを施設に引き戻す手段を失ってしまうが、だからといって“前科者”のタイラーに付いていくのは理解しがたい。ザックに関しては、果たしてこの行程をこなせるのかハラハラしてしまう。

 そもそも、ザックが施設を抜け出すくだりで、段取りの悪さからパンツ一枚で外を走り回る様子からして実に危うい。ハッキリ言って、ダウン症患者でなければならない理由があまりない。別の“重い境遇”を背負ったキャラクターを出した方がスンナリドラマが進むのではないか。

 ダウン症患者に限らず、知的なハンデのある者を物語の主軸に据えるのは難しいと思う。なぜなら、映画として内面を掘り起こすことが容易ではないからだ。「チョコレートドーナツ」だけではなく、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の「八日目」(96年)もその轍を踏んでおり、上手くいっていない。

 とはいえ、ザック役のザック・ゴッツァーゲンはイイ味を出しており、タイラーに扮するシャイア・ラブーフも(何やら彼自身の素行の悪さを反映しているような役柄だが ^^;)好演だ。エレノアを演じるダコタ・ジョンソンは「サスペリア」(2018年)とは打って変わって、とても魅力的に撮られている。くれぐれも私生活では母親(メラニー・グリフィス)のマネをせず、真っ当に女優業に励んで欲しい。
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「グエムル 漢江の怪物」

2020-03-15 06:31:21 | 映画の感想(か行)
 (英題:THE HOST)2006年作品。決して出来の良い作品ではないが、ポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」(2019年)に繋がる製作動機のバックグラウンドを探る意味で興味深い映画である。しかも、怪獣映画という娯楽作品としての体裁を保ちつつ、作家性の発露にも手を抜いていない姿勢は認めて良いと思う。

 在韓米軍が主宰する研究所が、余った有毒物質を大量に漢江に投棄した。やがてソウルの漢江河畔に、正体不明の巨大生物の目撃例が報告される。そして休みを過ごす家族連れ等が川辺に集まった日、漢江から突如両生類に似た怪獣が上陸して人々を襲う。河川敷で売店を営むパク一家の末娘ヒョンソも、そのモンスターにさらわれてしまった。



 死んだと思われたヒョンソだが、怪物の巣である下水道から携帯電話で助けを呼んでいることが判明。パク一家は救出作戦に乗り出す。一方、在韓米軍は怪物は未知の病原菌を持っていると宣言。感染したとされるパク家の長男カンドゥを捕えようとする。

 怪獣映画にしては、タッチが暗い。もちろん、やたら明るくする必要は無いのだが、この辛気臭さはやりきれない。パク一家は当局側から追われながら怪物を退治しようとするのだが、設定こそスリリングながら演出のフットワークが重い。そして展開が遅い。終盤になってようやく盛り上がるが、そこまでの段取りがまどろっこしいため全体的な評価を押し上げるには至らず。

 しかしながら、この映画の設定にはこの監督らしさが出ている。パク一家の境遇は「パラサイト」の主人公たちと似ており、地下道の場面に多くが割かれているのも共通している。家族愛を前面に出していることも同様だ。カンドゥたちは金持ちに“寄生”したりはしないが、代わりに韓国社会にしっかりと“寄生”しているものが描かれている。それは米国だ。

 米軍は自らの失敗を覆い隠すように、病原菌だの何だのといったデマを流す。そして当然のように韓国側の捜査陣を牛耳る。このあたりの裏事情がパク一家によって明らかになるという展開は、韓国の観客にとって一種のカタルシスになるのだろう。彼の国では観客動員数1,300万人を突破し、歴代観客動員数第6位を記録したというのも納得出来る。

 演技陣では何といってもカンドゥ役のソン・ガンホが目立っている。ポン・ジュノ監督とのタッグも堂に入ったもので、活き活きとスクリーン上を動き回る。ピョン・ヒボンやパク・ヘイルといった脇の面子も良いのだが、デビュー作「ほえる犬は噛まない」(2000年)でも組んだペ・ドゥナの扱いは面白い。アーチェリーの選手でもあるカンドゥの妹ナムジュを演じているが、終盤にちゃんと見せ場を用意しているのは嬉しい。
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