元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「最初の晩餐」

2019-11-30 06:56:59 | 映画の感想(さ行)
 先日観た市井昌秀監督の「台風家族」と似た設定の映画だが、出来映えは圧倒的に本作の方が良い。これは題材をオフビートに捉えて向こう受けを狙っただけのシャシンと、多少変則的なシチュエーションながら正攻法に徹した作品との差である。つまりは作者の意識の高さの違いだ。特にこの映画の監督である常盤司郎はこれが長編デビュー作であり、今後を期待させる。

 闘病中であった東日登志が亡くなり、東京でカメラマンとして働いている息子の麟太郎と長女の美也子は福岡県の実家に帰ってくる。通夜が執り行われる中、母のアキコは仕出し屋に注文していた弁当を勝手にキャンセルしていた。代わりにアキコの作った料理は、目玉焼きだった。呆気にとられる一同だが、それは日登志が昔子供達に初めて振る舞った料理でもあった。日登志は遺言状に通夜に出す料理を指定していたのだ。



 父親ゆかりの料理が次々と出される中、麟太郎と美也子の胸に家族の思い出が去来する。実はアキコは後妻であり、麟太郎と美也子の“兄”にあたるシュンという連れ子がいたのだが、長らく音信不通だ。折しも台風がこの地を通過し、居合わせた者達が容易に外に出られない状況の中、濃密な人間ドラマが展開する。

 料理をトリガーとして登場人物達の過去が明らかになってゆく点は妙味だが、それだけでは物足りない。ヘタするとただの“思いつき”に終わる。そこで本作は今までの軌跡と現時点での彼らの立ち位置までを長いスパンで総括するという、厚みのある作劇を用意した。

 麟太郎は仕事が上手くいかず、美也子は育児と家事に忙殺されて周りを見渡す余裕が無い。それが今回封印されていたエピソードが明らかになることにより、父親との関係性を改めて確認し、自らの人生にプラスとしてフィードバックしてゆく、その過程には無理がなく、観る側の感性にスッと入るのだ。「台風家族」のような悪ふざけは皆無で、どのモチーフも自然体で捉えられている。

 常盤の演出はこれが第一作とは思えぬ落ち着きを見せ、ドラマの破綻は見られない。染谷将太に戸田恵梨香、窪塚洋介らのパフォーマンスは万全。日登志に扮した永瀬正敏の存在感が光り、斉藤由貴が久しぶりにマトモな演技をしているのにも感心した(笑)。撮影担当の山本英夫と山下宏明の音楽は言うこと無し。また、出てくる料理の描写も見逃せない。
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ホークスのパレードを見に行こうとしたが・・・・。

2019-11-29 06:58:33 | その他
 去る11月24日(日)に福岡ソフトバンクホークスの日本一祝賀パレードが行われた。早速私も見物するため当日勇んで家を出たのだが、あいにくの雨模様。それでもめげずに歩を進めるが、ますます雨はひどくなり、落ち葉を巻き上げるほど風は強くなった。さらには雷まで鳴りだし、これは無理だと思い回れ右して帰宅。疲れだけが残った一日だった(苦笑)。荒天のため沿道に詰めかけたファンは約25万人と昨年よりも少なかったらしいが、この球団の人気は不動のものだと思う。

 今年(2019年)のペナントレースは故障者が多くて調子が出ず、終わってみればホークスは2位だったが、プレーオフに入ってからは無類の強さを発揮。日本シリーズでは二部リーグの金満球団をまったく寄せ付けず、最後は貫禄勝ちである。ケガ人が戻ってきて“完全体”になったこのチームはまさに敵無しだ。

 さて、くだんの二部リーグの優勝チームの監督が“パリーグに拮抗するためにDH制をセリーグにも導入すべきだ”とか何とか述べたみたいだが、近年日本シリーズでセリーグが勝てないのはDH制の有無が原因ではない。金満球団にぶら下がっていれば何とかペイしてしまうリーグと、客を呼ぶためチーム強化と営業努力に邁進しているリーグとの差が顕在化しているだけだと思う。たぶん、ホークスの代わりにリーグ優勝したライオンズが日本シリーズに出ても、結果は同じだったと予想する。

 昔は“人気のセ、実力のパ”などという物言いが罷り通っていたが、そもそも実力が伴わない人気など、まったく意味が無いと思う。まさしく球界の盟主はパリーグに移りつつある。しかし、日本シリーズの中継を見聞きすると、依然としてマスコミの趨勢は巨人一辺倒であることが見て取れ、暗澹とした気分になる。

 それにしても、一頃プロ野球チームを16球団に増やすの何だのといった話が出ていたが、立ち消えになったのだろうか。球団が増えればホームグラウンドも多様化することになり、幅広いファンにアピール出来ると思う。しかし現状は球団の新規参入には30億円という“預かり保証金”が必要で、しかも外資の参入は規制されており、ハードルはとてつもなく高い。巨人を中心とした既存の興行権益に依存する体質を温存する限り、日本プロ野球の将来は決して明るいものではないだろう。
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「ラスト・ムービースター」

2019-11-25 06:39:18 | 映画の感想(ら行)
 (原題:THE LAST MOVIE STAR )バート・レイノルズの全盛期を少しでも知っている映画ファンならば、感慨深いものになること必至だ。しかも、先日観たロバート・レッドフォード主演の「さらば愛しきアウトロー」がレッドフォードに馴染みの無い観客は“お呼びでない”といった内容だったのに対し、本作はたとえレイノルズの映画を観たことが無くても、その良さは伝わってくる。鑑賞する価値のある佳編だ。

 かつて一世を風靡したアクションスターだったヴィック・エドワーズは、老いた今ではロス郊外の自宅で一人暮らしだ。ある日、ヴィックは国際ナッシュビル映画祭とかいう聞き慣れないイベントの招待状を受け取る。その映画祭では彼に功労賞を渡すらしく、過去にはロバート・デ・ニーロやクリント・イーストウッドも賞を受け取っているという。



 取り敢えずその映画祭に参加したヴィックだったが、国際映画祭とは名ばかりの小汚い居酒屋での映画鑑賞会だったことを知り憤慨。途中で帰ろうとするが、偶然そこは彼が生まれ育ったノックスビルの近くだった。ヴィックの胸に、青春時代や最初の妻と出会った頃の思い出が去来する。

 2018年に世を去ったレイノルズの遺作だが、主人公ヴィックは彼自身を投影している。また、劇中でヴィックがレイノルズの若い頃の諸作の中で“共演”を果たす場面があるが、ヴィック(レイノルズ自身)のそれまでの俳優人生を振り返る意味で、実に効果的だ。

 レイノルズはデ・ニーロやイーストウッドのようなレベル(主要アワードの常連)に達することは出来なかった。しかし、アクションスターに徹して観客を楽しませた実績はとても大きなものだ。たとえ片田舎のマイナーな映画祭だろうが、熱心なファンに囲まれることによって、彼は自らのコンプレックスを克服しキャリアをポジティヴに振り返ることが出来た。終盤で彼がつぶやく“人生、これからだ”というフレーズには感動がわき上がる。



 もちろんレイノルズはもういないのだが、彼の作品群は次世代のファンに半永久的に支持されるのだ。全ての映画好きに“これからもずっと楽しんでくれ”と告げているようで、観ていて胸が一杯になる。ヴィックの世話係になった若い娘リルはメンタル面で問題を抱えているが、彼と行動を共にすることによって人生を前向きに捉えるようになる。それは映画祭に集う連中にしても同じことで、あこがれの映画スターが同じ時代を生きたことを再認識し、改めて今後に向き合ってゆく。

 レイノルズは好演で、この映画でキャリアを終えたことはある意味幸せだったのかもしれない。リル役のアリエル・ウィンターをはじめ、クラーク・デュークやエラー・コルトレーン、チェヴィー・チェイスなど他の面子も良い仕事をしている。それに「ヘアスプレー」のニッキー・ブロンスキーが久々に映画に出ているのも嬉しい。
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「レッド・ドラゴン」

2019-11-24 06:26:21 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Red Dragon)2002年作品。ジョナサン・デミ監督「羊たちの沈黙」(91年)よりも以前のエピソードを描く“レクター博士三部作”の一作目。リドリー・スコット監督の「ハンニバル」(2001年)も含めたハンニバル・レクター・シリーズの中では、一番楽しめる。トマス・ハリスによる原作の第一回目の映画化であるマイケル・マン監督の快作「刑事グラハム 凍りついた欲望」(86年)にも匹敵する出来だ。

 元FBI捜査官のウィル・グレアは、元上司ジャック・クロフォードから満月の夜に発生した一家惨殺事件の捜査を依頼される。期間限定で現場へ復帰したグラハムだったが、なかなか糸口が掴めない。そこでかつて自分が逮捕した天才的な連続殺人鬼“人食いハンニバル”ことレクター博士に助言を求める。一方、古びた屋敷に一人で住むフランシス・ダラハイドは、自らの不遇な生い立ちを克服するため、超人願望に憑りつかれていた。



 私は世評の高い「羊たちの沈黙」を全然評価しておらず、単に奇をてらったB級映画としか思っていない。「ハンニバル」に至ってはイタリアの観光映画でしかないと断言する。対してこの作品はハンニバル・レクターの存在を“事件関係者の一人”という次元から一歩も逸脱させない。あくまでもメインはエドワード・ノートン扮する捜査官とレイフ・ファインズの異常犯罪者との争いである。

 そういうサスペンス映画の王道に徹しようとしているところが実に心地よい。もっとも、マイケル・マンによる前回の映画化もそういうテイストが前面に出ていたので、これは原作の手柄だと言ってもいいだろう。監督は「ラッシュ・アワー」のブレット・ラトナーだが、メリハリを付けた手堅い仕事ぶりで、予想以上の健闘を見せている。また、ラストの処理も気が利いている。

 主演の2人をはじめハーヴェイ・カイテル、メアリー・ルイーズ・パーカー、フィリップ・シーモア・ホフマンなど、キャスト面はいずれも良好。特に盲目の女を演じたエミリー・ワトソンは儲け役で、ファインズとのぎこちないラヴシーンは絶品だった。ダンテ・スピノッティのカメラによる奥行きの深い映像、ダニー・エルフマンの音楽も要注目だ。
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「永遠の門 ゴッホの見た未来」

2019-11-23 06:53:27 | 映画の感想(あ行)
 (原題:AT ETERNITY'S GATE)誰でも知っている著名な画家を主人公にした映画(ドキュメンタリーを除く)は、やはり作るのが難しいのだろう。画家の業績を示す数々の名画は、それ自体が“ヴィジュアル”であり、映画の映像はそれらと対峙しなければならない立場上、明らかに分が悪い。映画の作り手がどんなに意匠を凝らして“ヴィジュアル”を作り上げようとも、名画一枚の存在感が上回ってしまうのだ。残念ながら本作も、その轍を踏んでいると言わざるを得ない。

 1887年、ファン・ゴッホはパリのクリシー大通りのレストラン・シャレで展覧会を開くが、絵画界ではまったく評価されずに終わった。偶然出会った画家ゴーギャンの助言に従い、翌年ゴッホは南仏のアルルに居を移すが、封建的な風土には馴染まない。そこにゴーギャンがアルルを訪れ、ゴッホは彼と一緒に創作に励む。だが、所用でゴーギャンはパリに戻ることになると、ゴッホの精神状態は途端に不安定になる。



 普通のアプローチではゴッホの人物像に迫れないと考えたのか、監督のジュリアン・シュナーベルは全編これ手持ちカメラを使用し、不安定な画面構成に終始する。主人公の揺れ動く内面を表現したかったのかもしれないが、結果として観ていて目が疲れるだけだ。何ら強いメッセージ性も感じられない。

 加えて、意味不明の繰り返しのショットやシークエンスが散見され、いい加減面倒臭くなってくる。結局、策を弄したものの、ゴッホの絵の持つ存在感に映画のヴォルテージが全然追いついていない。ラストのケレン味も空振りだ。ゴーギャンや弟テオをはじめとする周囲の人間との関係性も深く突っ込まれていない。

 主演のウィレム・デフォーは頑張っているが、劇中では30歳代であるはずのゴッホを60歳をとうに過ぎた彼が演じているのは違和感がある。ルパート・フレンドやマッツ・ミケルセン、マチュー・アマルリック、オスカー・アイザックら他の面子も印象が薄い。しかしながら、タチアナ・リソフスカヤによる音楽だけは素晴らしい。最初聴いたときに既成曲を起用したのかと思ったら、すべてオリジナルだという。流麗極まりない旋律の連続で、大いに堪能した。サントラ盤はオススメだ。
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大根役者を持て囃す愚。

2019-11-22 06:57:50 | 映画周辺のネタ
 先般の沢尻エリカ容疑者の逮捕により、彼女が重要な役で出演する2020年放映予定のNHK大河ドラマの取扱いが難しくなっている。以前より疑惑があった沢尻をわざわざキャスティングしたNHKの脇の甘さは問題だが、やっぱり無節操に長年薬物を使い続けた本人の責任は逃れられない。残念ながら、彼女が第一線に復帰することは不可能だろう。まさに“後悔先に立たず”である。

 さて、この件に関する言説で私が最も違和感を覚えたのが“(沢尻は)見た目の良さもさることながら、才能があった”とか“実力派女優だった(だから惜しい)”とかいうマスコミや識者等の物言いである。

 確かに、沢尻のルックスは華やかで見栄えがするが、私が彼女の演技に感心したことは、ただの一度も無い。有り体に言えば、かなりの大根である。もちろん、デビュー時から実力を発揮する天才肌の俳優は限られているし、多くは駆け出しの頃は未熟だ。しかし、努力を重ねて場数を踏めば、誰でも次第に上手くなってくるのだろう。そういう例はいくらでも見ている。また、たとえ現時点で努力が報われていなくても、懸命に頑張っていれば応援したくなる。

 だが、沢尻はデビューしてから15年も経ち、出演作も決して少なくない。にも関わらず、演技面で大きな上達は見られないのだ。これは即ち、彼女にはもともと才能が無いか、または努力を怠っているか、あるいはその両方であると断言せざるを得ない。

 そんな彼女を“才能があった”とか“実力がある”とか言って持ち上げる向きは、いったいどこを見ているのだろう。彼女と同じ世代には蒼井優や満島ひかり、宮崎あおい、貫地谷しほり、安藤サクラなど、実力派がそろっている。彼女たちと比べて、それでも“沢尻は実力がある”と言い切ってしまう神経が分からない。

 思えば、沢尻が井筒和幸監督の「パッチギ!」(2004年)で新人賞を総なめにした時点で、違和感を覚えた。大した演技でもないのに高く評価されたのは、何かの“裏”があるのではと思ったほどだ。ひょっとしたら、若い頃の分不相応な高評価が彼女に道を誤らせたのかもしれない。

 さて、今の邦画界において“明らかな大根”あるいは“大根なのに、それを自覚せず精進を怠っている”と思われる役者が散見されるのには愉快ならざる気分になる。まあ、私も時折たとえば“朝ドラ大根三銃士(または四銃士)”みたいな言い方で茶化したりはするが(笑)、本当はそれじゃダメなのだ。人前に出る以上、それにふさわしいパフォーマンスを見せる(または、見せるように努力する)ことは当然である。そのことをスッ飛ばして表面的なルックスやキャラクターだけで持ち上げる風潮は、日本映画にとってマイナス要因にしかならない。

 ひるがえってハリウッドでは、たとえルックス面では好き嫌いが分かれるとしても(笑)、演技力も存在感も持ち合わせない俳優がスクリーンに陣取っている事例には、お目にかかったことは無い。各人が大勢の前でパフォーマンスを披露することの重要さを自覚している、あるいは自覚しなければ通用しないシステムが出来上がっているのだろう。こういうところを日本映画は見習わなければならない。
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「楽園」

2019-11-18 06:30:55 | 映画の感想(ら行)
 本年度の日本映画を代表する力作である。本作を観て“ミステリーの体を成していない(だからつまらん)”とか“辛気臭いだけの映画”とか“何が言いたいのか分からない”とかいう感想しか述べられないのならば、それは“鑑賞力”が低いのだと思う。そもそも原作者が吉田修一だ。単純明快なミステリー劇を期待するのは適当ではない。

 長野県の山村で、女子小学生の失踪事件が発生。警察や村人が総出で捜索するが、結局行方は分からないままだった。12年後、事件の直前まで被害者と一緒にいた友人の湯川紡は、いまだに心の傷が癒えない。ある日彼女は、事件の少し前から村に住みついていた孤独な青年・中村豪士と知り合う。そんな中、再び少女が行方不明になり、疑いの目は豪士に向けられる。



 一方、村はずれに暮らす養蜂家の田中善次郎は、数年前都会からUターンで村に戻ってきた。彼は村おこしを提案し、一度は村の長老たちも同意する。しかし、彼の作る蜂蜜が評判を呼ぶようになってから、周囲の態度は急変。善次郎は村八分にされ孤立していく。

 前述したように、本作の主眼は犯人探しではない。犯罪が起きた背景ひいては社会全体を覆う閉塞感の描出だ。劇中、姿を消した少女の親族が“あいつが犯人だと言ってくれ!”と叫ぶシーンがあるが、それが本作のテーマの一端を示している。誰かをスケープゴートに仕立て上げることにより、周りの者たち及び共同体は“安心”してしまう。それで追い込まれていく者の辛さなど、知ったことではない。

 この映画のタイトルである“楽園”の意味の一つは、気心の知れた者たちだけの集合体であり、少しでも異質な考えや風体を持つ人間をとことん排除・弾圧する世界のことだ。まさに村の長老にとって住みやすい“楽園”そのものである。しかし、多様性・発展性を捨象したコミュニティは縮小均衡を余儀なくされ、いずれは消え去る運命にある。それは映画の舞台になった限界集落だけではなく、世の中全体にも言えることだ。



 そして“楽園”のもう一つの意味は、紡をはじめとした若い世代に託された、互いに価値観を認め合う“より良い社会”のことだ。しかし、それは実現が不可能に近い。何しろ紡自身が、都会に出てからも故郷のしがらみや辛い記憶から逃げられないのだ。ただし、少しでも他人の考えに対する許容性があれば、それは真の“楽園”にわずかでも繋がってゆく。映画は絶望の中にもそんな切ない希望を横溢させ、大きな感銘をもたらす。

 瀬々敬久の監督作としては「ヘヴンズ ストーリー」(2012年)に通じるものがあるが、テーマは普遍性を増している。本作での演出はパワフルで、一部の隙も見せない。綾野剛や杉咲花、佐藤浩市、村上虹郎、片岡礼子、黒沢あすか、柄本明など、演技派が揃うキャスティングは申し分ない。鍋島淳裕の撮影、上白石萌音によるエンディング・テーマ(作:野田洋次郎)も、大きな効果を上げている。
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「戦場のピアニスト」

2019-11-17 06:38:00 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Pianist )2002年作品。ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、シュピルマンが戦時中に体験する苦難を描いたドラマだが、ロマン・ポランスキー監督の映画に月並みな“感動”などを求めるのは筋違いだと思う。この作品のクライマックスは“主人公が音楽好きのドイツ将校の前でショパンを弾き、戦争のため長らく忘れていた芸術家としての魂を取り戻す場面”ではない。

 実話に基づいているのでこのエピソードを挿入するのは仕方がないが、作劇的には“取って付けたような”印象しか受けない。作者が描きたかったのはその前段、つまり慣れない逃亡生活を強いられた主人公が過度の緊張により精神的に追い込まれて行くプロセスである。



 一歩も外出できない狭い部屋の窓から見えるのは、ワルシャワ蜂起をはじめとする市街戦により人間が虫けらのように殺されてゆく場面ばかり。ナチスの手入れにより隠れ家を後にした主人公を次々と危機が襲う。もはや彼がピアニストであることは単に“収容所行きを免れた理由のひとつ”でしかなく、ドラマの核心ですらない(演奏場面のヴォルテージが意外に低いのもそのためだ)。

 この追いつめられた人間の神経症的な葛藤を描くことにかけては、まさにポランスキーの独壇場だ。しかし、そのニューロティックな展開が過去のポランスキー作品に比べて格別に優れているかといえば、そうでもない。少なくとも「ローズマリーの赤ちゃん」(68年)や「反撥」(65年)などの過去の作品には負ける。そして初期の「水の中のナイフ」(62年)の足元にも及ばない。まあ「死と処女(おとめ)」(94年)や「フランティック」(88年)よりはマシだろうか。要するにその程度だ。

 もっとも、映像に関してはポランスキーのフィルモグラフィの中では最良の出来を示している。パヴェル・エデルマンのカメラによる深々とした奥行きのある画面には舌を巻くし、特殊効果の使い方も堂に入ったものだ。特に終盤近くの廃墟と化したワルシャワ市街の情景は素晴らしい。主演のエイドリアン・ブロディも好演。昔からポランスキー作品を丹念にチェックしていたファンにとってはちょっと物足りない出来かもしれないが、観る価値はある。
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「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」

2019-11-16 06:25:20 | 映画の感想(英数)

 (原題:T-34)突っ込みどころはけっこうあるが、それを忘れてしまうほどの面白さ。戦車が“主役”になった戦争アクション物の代表作として、映画ファンの記憶に残るのではないだろうか。少なくとも、アメリカ映画「フューリー」(2014年)なんかより、はるかにヴォルテージが高い。

 第二次大戦における東部戦線。対ソ戦を開始したドイツ軍を食い止めるべく、新米士官イヴシュキンは初めて前線に出るが、敗れて捕虜となってしまう。数年後、イヴシュキンと戦ったイェーガー大佐は、収容所で行われている戦車戦演習のため、戦地で確保したソ連軍の戦車T-34の操縦をイヴシュキンとその仲間に命じる。しかし、そのT-34は実弾を装備しておらず、演習では敵の攻撃から逃げることしかできない。助かることが不可能に近い状況の中で、イヴシュキン達は通訳をしていたアーニャの協力を得て、演習中での脱出計画を立てる。

 ドイツ軍が収奪したT-34には、乗員の遺体と共に砲弾が放置されていたというモチーフは、まさに噴飯ものだ。イェーガー大佐はイヴシュキンが脱走することを予想していて収容所の周囲に地雷を多数設置するが、それがストーリーに絡んでくることは無い。またアーニャは容易く所長の執務室に忍び込んで地図を盗み、危険であるはずの演習当日は外出許可さえ与えられるというのは、明らかにおかしい。斯様に筋書きには随分と無理があるのだが、いざ戦闘シーンに突入すると、そんなことはどうでも良くなってくる。

 序盤の平原での戦いは迫力満点だが、どこか既視感を覚える。同じようなシチュエーションの映画は過去にもあった。しかし、後半の市街戦には度肝を抜かれる。道幅の狭い街中で、どうやって複数の敵戦車を駆逐するのか。その方法論は理詰めでありながら、実際は想定外の事態にも遭遇。あの手この手を使って危機を突破する主人公達の奮闘には、思わず手に汗を握ってしまう。イェーガー大佐との対決なんかまるで西部劇の世界で、苦笑しながらも大いに感心した。

 特殊効果が上手くいっており、特に砲弾の軌跡の描写はケレン味たっぷりながら観ていて盛り上がる。またT-34の本物の車体を使用し、ドイツ軍の戦車もリアリティのある造型が施されているのも嬉しい。アレクセイ・シドロフの演出は幾分泥臭いがパワフルで、最後まで飽きさせない。

 アレクサンドル・ペトロフにユーリイ・ボリソフ、ビクトル・ドブロヌラボフといったロシアの俳優陣は馴染みが無いが、皆良い面構えをしている。イェーガー大佐を演じるビツェンツ・キーファーは憎々しくて存在感があり、アーニャに扮するイリーナ・ストラシェンバウムの美貌も印象的。アクション映画好きならば要チェックだ。
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「トラヴィアータ 椿姫」

2019-11-15 06:53:55 | 映画の感想(た行)
 (原題:La Traviata )82年作品。アレクサンドル・デュマ・フィスの原作によるヴェルディの著名なオペラ「椿姫」の映画化だ。19世紀中頃のパリの社交界を舞台に、真実の恋に生き死んでゆく花形娼婦ヴィオレッタの姿を描く。とにかく、その絢爛豪華な美術に圧倒される。胸を患ったヒロインのヴィオレッタのはかない人生とは対称的に、オペラの中の夜会や仮装舞踏会は華やかで享楽的な空気が横溢しているという設定だ。

 もちろん見どころは、この舞踏会のシークエンスである。監督のフランコ・ゼフィレッリとジャンニ・クァランタによる舞台美術、エンニオ・グァルニエリの流麗なカメラワーク、そしてダンスの躍動感は、ゼフィレッリの師匠であるルキノ・ヴィスコンティの「山猫」(63年)の一場面を思い起こさせるほどの、目覚ましいヴォルテージの高さを見せる。ハッキリ言って、この部分だけで入場料のモトは取ってしまうだろう。



 さらに、歌劇とは異なる映画独自の仕掛けが成されていることも見逃せない。本作ではオペラの序曲に当たる部分には、賑々しいクレジットを表示したりはしない。代わりに、昔日の面影のない荒れ果てたヴィオレッタの館から家具や装飾品が運び出される場面が映し出される。ローマのチネチッタのスタジオに組まれた館の広間は、そのあり得ないほどの広さがヒロインの孤独を象徴していると言えよう。

 そこに手伝いにやって来た少年がふと壁に目をやると、ヴィオレッタの肖像画が掛かっており、彼はそれに見とれてしまう。すると、誰もいない大広間が、突如として煌びやかな夜会へと変わる。つまり、ラストから先に見せて映画は回想形式で進むという段取りを踏んでおり、それが実に効果的なのだ。

 ゼフィレッリの演出はさすが“本職”だけあって、抜かりがない。音楽と映像とのバランスは絶妙で、良く知られた“乾杯の歌”が鳴り響くシーンは大いに盛り上がる。主演者としてテレサ・ストラータスとプラシド・ドミンゴという稀代の歌手を起用しており、他にもコーネル・マクニールやアラン・モンクといったオペラ畑の人材を採用しているが、皆映画俳優としても全く違和感のないパフォーマンスで感心する。ジェームズ・レヴァイン指揮のメトロポリタン歌劇場管弦楽団の演奏も見事なものだ。
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