元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マークスの山」

2006-03-31 06:55:24 | 映画の感想(ま行)
 95年作品。動機不明の連続殺人事件は、76年、南アルプス・北岳に登った5人の大学生が犯した殺人が引き金となっていた。直木賞受賞の高村薫の原作を崔洋一が監督。

 この監督にしては、まあマシな部類ではある。犯人を追う刑事たち(中井貴一、萩原流行ら)の露骨な縄張り意識や、暴力シーンの強烈さ、モノトーンに近い寒々とした映像など、ただごとでない雰囲気は伝わる。しかし、それがミステリー映画のプロットとして機能せず、ハッタリめいた“見せ場のための見せ場”に終始してしまうのは、あの長い原作を2時間あまりにまとめようとした無理があるからだ。

 刑事たちはなぜ不毛なセクトの争いに終始するのか。76年の事件の被害者はなぜ危ないことを承知で山に登ったのか。容疑者の一人(小林稔侍)はなぜ犯人(萩原聖人)の息の根を止めないのか。犯人を慕う看護婦(名取裕子)はどうして彼に惹かれたのか。そして何より、犯人はどうして殺人を重ねるのか(精神障害者という設定だが、それなりの理由も語られない)。大事なことは全く描かれていない。これでサスペンス映画といえるのか。

 謎解きの顛末をセリフで滔々と述べろとは言わない(それやるとシラける可能性大)。ただ、観客にインスピレーションをもたらすような暗示なり含みは絶対必要だ。原作が長いからそれが出来ないというのであれば、最初から映画化なんて考えないことだ。

 ・・・・と、観た当初はこう思ったのだが、その後原作を読んでみたら、非常に薄い内容でガッカリした。映画版の方が観客側に話を分からせようといる点では上であろう(暗然)。
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「プライドと偏見」

2006-03-30 06:45:03 | 映画の感想(は行)

 (原題:Pride & Prejudice )「いつか晴れた日に」や「エマ」などのジェーン・オースティン作品の映画化なので、展開や結末は観る前から分かっている。だから“語り口”こそが映画のポイントなのだが、その意味では本作は成功だ。

 これが監督デビューとなるジョー・ライトの演出は堅実かつ端正で、向こう受けを狙ったケレンや臭みは皆無。会話の軽妙さとテンポの良さ、緩急使い分けた自在な作劇で観客をグイグイと引っ張ってゆく。さらに目の覚めるように美しい田園風景や、堂に入った歴史公証、そして舞踏会のシーンをはじめとする万全の衣装・美術もドラマを盛り上げる。

 それにしても、女性は結婚して家庭に入ること以外に生き方の選択肢がなかった封建的な時代(18世紀末)にありながら、それでも自らの矜持を捨てずに理想の相手を求めようとするヒロインたちの奮闘を見るにつけ、社会的制約など恋愛には関係ないのだという思いを強くする。むしろ、ハードルの高さをバネにしているかのようだ。条件の困難さばかりに目が行くようでは、それは恋愛を成就できないことのエクスキューズではないか・・・・そういうことも伝わってくる。

 主演のキーラ・ナイトレイは天晴れだ。リベラルな考え方をする一方で、好きな相手に恋い焦がれるヒロイン像を実に魅力的に実体化させている。相手役のマシュー・マクファディンも好演だが、母親役のブレンダ・ブレッシンと父親役のドナルド・サザーランドが素晴らしい(特にラストのサザーランドのセリフには泣けてきた)。さらには後半にはジュディ・デンチも貫禄たっぷりに出てくるのだから、実に嬉しくなってしまう。

 とにかく今年度前半を飾る秀作であり、年末のベストテン選考でも上位に食い込むことだろう。
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「フォレスト・ガンプ 一期一会」

2006-03-29 06:47:47 | 映画の感想(は行)
 今年のアカデミー賞は「クラッシュ」という、たぶん候補作の中で一番“生ぬるい”であろう作品が大賞を獲得し、何やら鼻白む思いだったが、釈然としないという意味では、この95年のオスカー受賞作もひけをとらない。

 知能指数は低いけど、飄々と生きる青年ガンプとしっかりした母親の人情ドラマとしてはまあ悪くない出来だ。ただそこに50年代から80年代にかけてのアメリカ現代史がクロスオーバーしてくると、素直に喜べない。ましてや本国では記録的大ヒットで“ガンピズム”なる言葉も生まれたにいたっては、単なる人情ドラマではなくプラスアルファの要素が大きなウェイトを占めているに違いないことがわかる。

 まず舞台が南部のアラバマ州だ。主人公がよく口にする“家に帰ろう”というセリフ。保守的な臭いがする。ガンプは文字どおり波乱万丈の人生を歩むわけだが、自分から何か事を起こすことはあまりない。周囲が勝手に彼を巻き込んでいくだけだ。持ち前のマイペースさで難関をものともせず、激動の時代を駆け抜けていく。でも、彼自身は変わらない。アメリカの多くの観客が主人公に自己を投影しているというなら、どんな時代にも不変の良識と頑固一徹さへのあこがれを体現化しているのだと思う。

 “戦うヒーローではなく逃げるヒーロー”とある評論家が言っていたが、全篇主人公は速い足で逃げてばかりいる(笑)。逃げることで戦友を救い、多くの賛同者を得る。でもそれは現実逃避だとも言える。物事から一歩引いた視点で逃げ腰で見ていれば、自分は関係ない。当事者よりも傍観者が好き。そういう見方もできるのだ。

 気になるのはヒッピーおよびフラワー・ムーヴメントに対する徹底的な嫌悪感である。南部の田舎町で育った娘は、都会に出た途端ロックンロールとドラッグに毒され、自殺未遂まで引き起こすが、無垢な変わらない心を持つガンプの優しさに触れて改心しました・・・・。要するにそういうことだ。“バカというのはバカをやる奴のことさ”。ガンプ得意のセリフだが、この言葉通りだと、一番バカなのは恋人のジェニーのことではないか。なぜヒッピーか、なぜドラッグかという考察は微塵もない。たぶんヒッピーの側から描いたアメリカン・ニュー・シネマなど知ったことではないだろう。

 かなりの迫力で見せるベトナム戦争の場面。でも、敵であるはずのベトコンは姿を見せない。アジア人観客に遠慮したから? いえいえ、作者にとってベトナム戦など思い出したくもない悪夢。敵対するアジア人など顔さえ見たくないのかも。

 JFK暗殺、ウッドストック、ビートルズ・ブーム、反戦運動、ウォーターゲート事件etc.その当時騒いでいた連中はごく一部で、大部分の“良識的アメリカ人”は確固とした自分の生活を守っていたのだ、とでも言いたいのだろうか。外の世界ではいろいろと面倒なことばかりだが、南部のスイートホームに帰ればひと安心なのだろうか。数々のスキャンダルにまみれたアメリカ現代史の、自分たちもその一部であることをあえて無視したいのだろうか。ベトナム戦争も人種問題に対しても“自分たちは無罪だ!”と宣言したいのだろうか。無垢で純真なガンプが自分たちの分身? そんなことを考えるのは自由だが、このようにあけすけに言ってほしくない。

 ・・・・まあ、観たときはこういう結論(?)に達してしまったが、本当のところアメリカ人じゃないと真の面白さはわからないだろうし、逆に言えばアメリカ以外じゃ高く評価されない映画だろう。

 ロバート・ゼメキスの演出はさすがに退屈させないし、冒頭とラストに舞い上がる羽毛のCGや、ニュース・フィルムとの合成は見事。足を切断したゲイリー・シニースの患部もCG合成だと知ってびっくりした。でも、トム・ハンクスの演技は予想通りだし、満載の当時のヒット曲も見ようによっちゃ図式的だし、何より主人公がすべての大事件にかかわっていく展開はワザとらしい(いくらフィクションとはいえ)。まあ、それが“安心して観られる”という評判につながったのかもしれないが。
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“機会の均等”なんて幻想だ。

2006-03-28 06:52:23 | 時事ネタ
 小泉首相は2月1日の参院予算委員会で、小泉改革に伴う社会格差拡大などの「光と影」論議について「格差が出るのは悪いことではない。能力を生かせる機会が提供されることが大事」と述べた。また、今をときめくUSENの宇野社長の持論は「努力した人間が成果(金銭、地位他)を得るのが公平な社会である」というものらしい。

 なるほど「努力した者が報われる社会こそが望ましい」というフレーズそのものに異議を唱える者はいないだろう。だが、その「努力」の具体的中身は一体何だと問われれば、誰しも言葉に詰まってしまうのではないだろうか。

 たとえば、小さな町工場を切り盛りし、寝る間も惜しんで働く中小企業のオヤジがいたとしよう。たぶん彼の「努力」は相当なものだ。しかし、そんな「努力」も取引先の勝手な都合によりアッという間に水泡に帰してしまうという例は数知れない。あるいは駅前商店街の各商店主は地元の顧客を繋ぎ止めるためにかなりの「努力」をしているだろう。だが、近くに大型ショッピングセンターでも出来ようものなら、そんな「努力」など消し飛んでしまう。

 反対に、ネット取引により一日で巨額の株売買益を得た若者は、いったいどれだけの「努力」をしたのだろう。株分割で利益を大きく見せかけてM&Aの足がかりにした新興ファンドは、その件に関してどの程度の「努力」を払ったのか。さらにUSENの宇野社長は二代目である。彼が今の地位を手に入れるための「努力」と、裸一貫から企業を立ち上げた経営者の「努力」とは、いったいどちらが大きいのか。小泉首相だって親が政治家であり、地盤と看板とカバンは生まれながらにして約束されている。彼が政治家になるために払った「努力」と、元手がなく地方議員の秘書から成り上がった叩き上げの政治家の「努力」とは、どっちが上か。

 卑近な例を出すと、膨大な量の書類の整理に追われて日々残業ばかりのサラリーマンと、ハッタリと舌先三寸で雑事を他人に押しつけて、オイシイ仕事だけしかやらないサラリーマンとは、どっちが「努力」の量が多いのか。

 こう考えると、しょせん「努力」なんてのは抽象的な言葉に過ぎず、その「努力」の中身と方向性は、各個人が置かれたケースによってまったく異なることが分かる。場合によっては、無駄な努力をしない方が上手くゆくこともあろう。要するに「成果(金銭、地位他)を得た人間」すなわち「勝ち組」と「負け組」との「格差」は、「努力の量の多寡」だけで片づけられるものではないのだ。そこには「努力」以外に「才覚」や「運」というものが大きくモノを言う。「努力」をするだけで許されたのは、せいぜい学生時代までだ。

 小泉の言う「誰にでも能力を生かせる機会が提供されること」つまりは「機会の平等」というのもスローガンに過ぎない。どこの世界に「誰しも機会を均等に与える」みたいなスキームを達成した国があるのか。人間ひとりひとりは持って生まれた能力も違えば、環境も違う。もちろん個々のケースにおける「運不運」も厳然と存在する。それでも「機会を誰にでも均等に与えるのがベストな方法だ」というのなら、共産主義みたいなのに移行するしかない。

 あえて言ってしまおう。社会をマクロで見た場合、大事なのは「機会の均等」ではなく「結果の均等」である。

 もちろん、社会主義国家みたいに「すべての結果を均等にする」というテーゼはナンセンスだし、いくら「努力」の中身が千差万別だと言っても、あまり「努力」をしない人間にある程度の「結果」をタダで進呈してやる筋合いはない。私が言いたいのは、まっとうな社会人としてまっとうに生き、それなりの「努力」を怠らない人間に対して、最低限の「結果」は保証するような社会が望ましいってことだ。

 そこそこの学歴でそこそこの実力を持っていれば、誰しもそこそこの人生が送れる・・・・それが王道だ。この「そこそこの人生」ってやつこそ有り難いものはない。何しろ世の中のほとんどの人間は「そこそこ」のクラスなのだから(爆)。いくら頑張っても「成果主義」の名のもとに各人の経済状況を勘案せずにリストラされ、あるいはまっとうな大学を出ても就職もできず、「そこそこの人生」でさえ送れないような社会・・・・そういうのはダメだ。

 最近はフリーターやニートの連中に向かって「しっかりしろ!」と叱咤激励するような風潮があるようだが、まっとうな社会人が「そこそこの人生」からも見放される例が後を絶たない今、どこにフリーターやニートや「負け組」が「努力目標」を見出す余地があるのか。まずは「努力すれば手に入れられるカタギの働き口」のパイを大きくすることから始めるべきではないのか。

 小泉および宇野をはじめとする一部の「勝ち組」が唱える「機会の平等」「努力した者が報われる社会」というのは、現在の「勝ち組」の「特権」を限りなく認め、その他の連中に「努力不足」のレッテルを貼って永遠に「下流」のレベルに押し込めようという、極めてエゴイスティックなものでしかないと思う。
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「青春のつぶやき」

2006-03-27 06:53:13 | 映画の感想(さ行)
 97年台湾作品。金持ちの娘で、台北のマンションに住む女子大生メイリ(ルネ・リュウ)と、田舎に住む下層階級の娘メイリ(ツェン・ジン)。同じ名を持つ二人のヒロインの生き方を平行して描く。監督は「春花夢露(浮草人生)」のリン・チェンシェン。

 前作「春花夢露(浮草人生)」が素晴らしかったので期待していたが、見事な失敗作であった。ヒロイン二人は映画後半で偶然出会い、それぞれの過去を引きずりながら深い間柄になっていくという展開だが、そこに行くまでが滅茶苦茶タルい。

 60年代の台湾の田園地帯を舞台に“家族の肖像”を大河ドラマ的に描いて観客に深い感銘を与えた前作だが、そこで顕著だった“カメラ引きまくりでセリフ極少、ドキュメンタリー・タッチで淡々と進む”という手法が今回は悲しいほど題材に合っていないのだ。前作のようにノスタルジックな素材をバックにするならば絶大な効果を発揮しても、現代の台北を舞台にモダンなコンテンツを配した現在進行形の青春ドラマでは、ドラマの進行を妨げることにしかならない。

 カメラをぶん回してケレン味たっぷりにスピーディに演出しろとは言わないが、もう少しテンポ良くやってもいいのでは・・・・と思っても、それではこの監督の作風にマッチしないし、第一こういうネタはエドワード・ヤンなんかの得意科目で、リン・チェンシェンとは対極にある題材であると言わざるを得ない。

 ま、あまりケナしても何だから良かった点もあげると、田舎に住むメイリの家族の描写が的確だったことか。両親は単純労働者で子供たちに自分たちが味わった苦しみを味あわせたくないと思っている。家長は口数は少ないが威厳のある祖母だが、彼女の人生は苦労の連続で、昔死んだ夫の思い出が胸をよぎり、老後を楽しめないでいる。静かだがそれぞれの悩みにとらわれて毎日を送る人々の生活が等身大に迫る。ところが、娘のメイリの悩みは学業についていけないとか片思いの彼氏に友人が先にモーションかけたとかいうつまんない話であり、家族と同程度に扱うのは無理があり過ぎる。都会のメイリの悩みにいたっては“両親がよそよそしい”とかいったどうでもいいものであり、何でもう一人のヒロインと平行して描かなければいけないのか理解に苦しむ。・・・・おっと、結局ケナしてしまったぞ(^_^;)。
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スピーカーの置き台に砂を詰めてみた。

2006-03-26 09:35:45 | プア・オーディオへの招待

 以前もちょっと述べたけど、先月購入した新しいスピーカー(KEF社のiQ3)の置き台(B&W社のSTAV20B)には剛性を高めるために「中に砂を詰める」というオプション的方法がある。で、先日それを実行してみた。

 まずは近所のホームセンターにて園芸用の川砂を調達。セメント袋と同じ大きさのパッケージに入って約400円也。ただしこれをそのまま入れてはいけない。まずはメーカーのホームページの説明書きに「よく洗え」と書いてあるので、米を研ぐ要領で砂にまとわりついた泥を出来る限り取り除くことにした。けっこうな重労働(爆)。さらに「よく乾かせ」とあるが、なかなかこれが乾かない。朝ベランダに干しても、帰宅するまでに雨でも降ったら元の木阿弥だ。嫁さんに「取り入れ」を頼もうにも、元より「こういう趣味」に冷たい視線を投げかける彼女が引き受けるはずもない(笑)。結局天気の良い休日をまるまる潰して「乾かす作業」を完了。

 やっとのことで砂を注入する段階になったものの、入れる穴が小さくてやりづらい。それでも時間をかけて置き台ひとつ当たり5キロ強の砂を詰めることが出来た。

 さて、セッティングをやり直して音を出してみる。置き台がシッカリとなったので音も変わるはずだが・・・・正直言ってビックリするほどは変わらなかった(激爆)。まあ、今回の場合オーディオ・アクセサリーに関してはスピーカーケープルや電源コードや、置き台そのものを取り替えるほどには目立った効果がないってのは分かっていたけど、労力を費やした割にはこの程度なのでちょっと残念。

 それでも良く聴くと低音は多少締まってきたようだ。音像も心なしか前に出ているようにも感じる(一ヶ月間のエージングのせいもあるだろう)。スピーカー購入時にはロック系のソースはまるでダメだったけど、ちょっとはマシになったみたい。KOЯNとかリンキン・パークのようなハード路線も、とりあえずは鳴らせる。まあ、BOSEだのKlipshだのといった派手目の音を出すスピーカーのユーザーからすれば「まるでパンチのない音」だと思われるだろうけど、これはこれでイイんじゃないかと必死で自分に言い聞かす(ロックばかり聴いているわけじゃないんで・・・・汗 ^^;)。何より台を叩いてもカンカン響かなくなったのが精神衛生上好ましい。

 しかし、少しは改善されたといっても、相変わらず低音はゆるい。アンプのキャラクターも出ているのだと思う。今度アンプを買い替える際は、もっとスッキリとしてタイトな音の製品を選ぶことにしよう。

 余談だが、スピーカーの購入元のディーラーに勤めるニイちゃんが、同様の「砂を詰めて剛性を高める置き台」を使用しているとのことだが、彼は「川砂を洗って詰めろ」という注意書きを無視し、海辺の砂をそのまま注入しようとしたとか。そうすると中から「海の生物」(たぶん、ヤドカリやゴカイやフナムシなんかだと思う)がゾロゾロ出てきて大変な目に遭ったそうだ(^^;)。どんな物でも、マニュアルはちゃんと読んだ方が良いようである。
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「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」

2006-03-25 07:54:37 | 映画の感想(は行)

 (原題:Proof )デイヴィッド・オーパーンの戯曲「プルーフ/証明」の映画化で、監督は「恋におちたシェイクスピア」などのジョン・マッデン。晩年には精神を病んだものの若い頃には学会を席巻した天才数学者、及びその娘を取り巻く人間模様を描く。

 並はずれた才能は、本人を幸せにするとは限らない・・・・という真実を改めて思い起こさせる作品だった。

 ある意味父親以上の頭脳を持っていながら、父親の死後もその影響から逃れられずに、若くして半ば世捨て人のように生きるヒロイン。彼女が外の世界に踏み出すことは、難解な数学理論を確立するよりも遙かにハードルが高い。彼女にとっては人間関係の再構築こそが自己の“証明(プルーフ)”なのである。逆に言えば、人間関係すなわち自己証明の基盤である。

 映画は“自分には学問があるのだ!”というエクスキューズにともすれば埋没しそうになりながらも、主人公が手探りでアイデンティティを形成しようとする過程を丁寧に追うが、さらに父親と妹をシカゴに残したままニューヨークでキャリアウーマンとして腕をふるっている姉を登場させ、父親を最後まで世話したヒロインとの対比により、主題を一層普遍的に扱うことに成功している。

 舞台版も手掛けたというマッデンの演出は多分に演劇的で、観る者によっては若干の息苦しさを覚えるかもしれないが、登場人物に逃げ場を与えない密度の濃さを作劇に与えている。

 主演のグウィネス・パルトロウは正直言って好きな女優ではないが(笑)、かなりの好演であることは間違いない。アンソニー・ホプキンス、ジェイク・ギレンホール、ホープ・デイヴィスといった他のキャストも万全で、観て損のない佳作だと言えよう。
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河盛好蔵「人とつき合う法」

2006-03-24 17:31:13 | 読書感想文
 いわゆる“人付き合いのハウツー本”であるが、巷に溢れるこの手の書物がどれも薄っぺらく見えるのは、書いている本人に貫禄がないからだ。いくらもっともらしいことを述べても“では、そういうアンタはどうなのだ”と切り替えされればオシマイ(爆)。

 だが、これが我が国を代表するフランス文学研究者であり文化勲章も受賞している河盛好蔵の論述になると、説得力が大幅アップする。

 作者本人が(謙遜はしながらも)相当“人付き合い”に長けた人物であることが垣間見え、しかもその“付き合う相手”とは戦後を代表する文壇・論壇のVIPばかり。これ見よがしの“オレはこんな偉い奴らと付き合ってるんだぞ”という態度は微塵もなく、自身もまたVIPであるだけに、付き合う相手との適度な距離感やまったく嫌みにならない“余裕”というものが感じられ、実に読んでいてリラックスできる。

 内容の“人と付き合う法”そのものについては別に言及するほどでもない。誰でも分かっていることなのだ。その“誰でも分かっていること”を実行するのがいかに難しいか。それを河盛のような傑物に説かれてこっちも満足げに頷くか、あるいは細木○子みたいな胡散臭い山師のようなのに説教されて無理矢理納得しようとするか、そのへんの“絶対的な差”について想いを馳せるだけでも読む価値はある。
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パトリシア・コーンウェル「検屍官」

2006-03-24 06:45:49 | 読書感想文
 人気シリーズの第一作で、数々の賞を取っているそうだ。なるほど、事件記者および検屍局でのプログラマーの経験を持つという作者ならではの精緻なディテールは読み応えがある。

 連続猟奇殺人を追う主人公・女性検屍官ケイ・スカーペッタのキャラクターも悪くない。特に身持ちの悪い妹からいつも押しつけられる姪との関係は、親密だけど所詮親子ではないという切ない状況をうまく掬い取っている。

 だが、ミステリー小説としてはまったくダメだと思った。

 何より犯人の出現の仕方はこの手の作品として失格。言うなれば読み手の“犯人捜し”の醍醐味を完全に奪ってしまう“反則技”である。さらに終盤ヒロインの自宅で三流ホラーもどきの“活劇”が展開されるに至っては脱力するしかない。

 読み終えて感じたのは、ハリウッドで濫造されるお手軽サスペンス映画と実に似た雰囲気を持っているところだ。登場人物の設定だけしっかりと押さえて、あとは御為ごかし的なプロットを申し訳程度に並べるだけ。これならいくらでも“続編”は作れるな・・・・と思ったら、御存知のように長寿シリーズになっている。逆に言えば、その中の一冊でも読めばあとはどうでもいいってことだろう。暇つぶしのお供にはちょうどいいとは思う。
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「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」

2006-03-23 06:52:32 | 映画の感想(あ行)
 69年東映作品。近年逝去した石井輝男監督の、あまりにも有名な一作。いちおう江戸川乱歩の「パノラマ島奇談」が原作ということになっているが、「孤島の鬼」をはじめ「人間椅子」「屋根裏の散歩者」なんかのネタが脈絡もなくぶちこまれているのが石井作品らしいウサン臭さだ(笑)。

 しかし、意外にも脚本はマトモに近かったりする。記憶をなくし、精神病院から脱走する青年(吉田輝雄)が殺人事件に巻き込まれ、ひょんなことから孤島に住む富豪の跡目争いの中心人物になってしまう・・・・と書けばいかにもストーリー支離滅裂みたいだが、珍しく演出の手際の良さもあって実際観てみると違和感はそれほどでもない。ラストにいきなり登場する明智小五郎もご愛嬌ってとこだろう。

 ただし、この映画を“カルト映画のキング”たらしめているというラスト20分間の奇形人間一斉登場のシークエンスは、正直言ってそれほどでもないのだ。暗黒舞踏の第一人者であった土方巽プロデュースの作品発表会って感じで、稚拙なメイクと大仰な動きで必死になってグロさを出そうと努力している印象を受け、見ていてほほえましくなってくる(おいおい ^^;)。もっとも、ラストの“おかーさーん!”(謎 ^^;)のシーンは別で、あまりの破天荒ぶりにブッ飛んでしまった。

 私は当作を数年前におこなわれた特集上映で観たのだが、映画本編よりも気になったのは観客の反応ぶりであった。“カルト作品”という触れ込みだけが先行していて、明らかにハズしている場面やどうでもいいシークエンスでもワザとらしい笑いが巻き起こった。カルトとして有名だから観客もそれなりの反応をしないといけないという風潮でもあったんだろうかねぇ(爆)。
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