元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「スコア SCORE」

2007-09-30 07:44:54 | 映画の感想(さ行)
 95年松竹作品。東南アジアの某国で宝石強奪事件を起こしたのは、出所したばかりの強盗のプロ(小沢仁志)ら4人の日本人ギャングであった。郊外の廃工場に逃げ込み、ボスの到着を待つ彼らだが、早速仲間割れの気配。そこにあらわれたのが宝石横取りを狙うイカレた若いカップル。死闘が始まる。

 クエンティン・タランティーノがこれを観て“It’s Cool”と言ったらしいが、私に言わせれば平気で見せるその神経がわからない。だってこれ、まるっきり「レザボアドッグス」じゃないか。某雑誌では“タランティーノ作品にオマージュを捧げている部分がある”なんて書いてあったが、世間の常識ではこういうのを“オマージュ”とは言わず“モノマネ”という。話の設定からラストの処理までまったく同じ。登場人物の衣装もそっくりなら、本名を明かさずニックネームで呼び合うところも一緒。主人公なんて、髪型や演技までハーヴェイ・カイテルの形態模写やってる。

 タランティーノ得意の“三すくみ状態で拳銃かまえる”シーンも堂々とやってるし、ギャングの一人が裏切り者だという部分もそっくり。くだらない会話を積み上げて無理矢理に盛り上げようとする手口もそのまんま(残念ながら日本語でやってもサマにならないが)。

 封切り当時には“「レザボアドッグス」がアクション・シーン抜きで快作に仕上がったのに対し、これは設定だけ借りてアクションを満載にしている点が特徴”なんて書いている評論家もいたが、バカ言っちゃいけない。アクション抜きでドラマのエッセンスだけ抽出したところに「レザボアドッグス」の凄さがあったのだ。対してこれは、アクションの口実に“本家”の設定をパクっているだけじゃないか。最初からアクション満載にするつもりなら、タランティーノがああいうシチュエーションを考えるわけがない。アクションを削って作劇を練った結果があの映画の設定である。その設定にまたアクションを上乗せしていったい何になるんだ。やってて恥ずかしくないのだろうか。

 若いカップルを出したり敵側の殺し屋が大挙してあらわれたり、いちおう“本家”と違う部分はある。でも、正直言って取って付けた印象しかない。アクション場面は邦画にしては頑張っている方だが、いくら撃たれても死なない奴と一発撃たれてすぐ死ぬ奴とのギャップが大きすぎるのではないか(爆笑)。それをやるなら嘘臭くならないように演出の大風呂敷をもっと広げて欲しい。下手だよ、この監督(新人の室賀厚)。タラン氏が“Cool!”と言ったのは、“サイコー!”ではなくて“何か冷え冷えするなぁ”という意味ではないかと思ってしまった(^_^;)。
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「殯(もがり)の森」

2007-09-29 06:59:41 | 映画の感想(ま行)

 正直な話、本作がカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を獲得しなければ、まったく観る気はなかった。観た結果も“良くも悪くも河瀬直美監督の映画だなァ”という感慨以外は別に何もない。

 まず良かった点からあげると、映像の美しさだ。神秘的な冒頭の葬列のシーン、および養護施設の周辺にある茶畑の幾何学的な構図の素晴らしさをいったい何と表現すればいいのか。・・・・さて、良い点はそれのみである。あとは全部“悪い点”だ。

 33年前に亡くした妻を忘れられぬままボケてしまった老人と、彼が入居する施設に幼いわが子を亡くしたトラウマを抱えたまま赴任してきた若い女性介護士とが山奥に迷い込んでスピリチュアルな(?)体験をするという、作者の独りよがりな思い付きによるストーリー(らしきもの)が冗長なタッチで続くだけの映画である。

 何よりダメなのはキャスティング。老人役のうだしげきはプロの俳優ではなく素人だ。もちろん、作品の狙いにより素人を起用することのメリットは過去のいくつかの作品で十分に証明されているが、それらはあくまで素人を“本人役”あるいはそれに近い役柄に設定することによって効果を生み出していた。しかし本作は、うだ自身とはおそらく関係のない役で、しかも演技力を要求される仕事である。その意味では彼のパフォーマンスは失格だ。どう見たってボケ老人とは思えない。完全に目が“正常人”だ。ちゃんとした俳優にちゃんとした演技指導して臨むべきではなかったか。

 ヒロイン役の尾野真千子は一応本職の女優だが、役柄と同様にぼーっとしているだけで演技のカンも何もあったものではなく、こっちも“素人”だ。手持ちカメラと即興的演出をメインにした作品であるからこそ、キャストに力がないと画面が保たないのだが、作者はそんな基本的なことに考えが及んでいない。とにかく“アタシの撮りたいように撮ってるだけ。少しでも共感できるところがあればそれでいい”といった“投げやり”とは紙一重の芸術家肌スタンスでカメラを回しているだけなのだから、何言っても無駄だろう。

 なお、この映画の上映は国際映画祭出品ヴァージョンだと思われる“英語字幕付き”であるのが鑑賞する上で助かった。とにかく、セリフ回しが怪しいのだ(特に終盤)。作者にとってはセリフなんてどうでもいいと思っているのかもしれないが、よく聞き取れないのは観客側にストレスが募るだけ。英語の字幕でも、ないよりずっとマシだった。
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「ブローン・アウェイ 復讐の序曲」

2007-09-28 06:43:54 | 映画の感想(は行)
 (原題:Blown Away)94年作品。 ボストンを舞台に展開する、狂的な爆弾魔(トミー・リー・ジョーンズ)と警察の爆発物処理官(ジェフ・ブリッジス)との戦い。監督は「ジャッジメント・ナイト」などのスティーヴン・ホプキンス。

 ハリウッド製のアクション篇だから結末はわかっている。要はどう目新しいモチーフを展開させて作品に付加価値を持たせるかである。ここではズバリ、手を変え品を変えて登場する爆弾テロの手口に注目したい。

 まずパソコンにセットされた爆弾は、スイッチを入れたら最後、絶えず同じフレーズを同じ速さで入力しなければ爆発する。手を休めれば即あの世行き。まったく“冗談じゃねーぜ”と言いたくなる仕掛けだ。次に登場するのはヘッドフォンに仕掛けられた爆弾。いったん音楽を聴き始めたら中止できない。頭から外せば爆発する。音楽好きなら“ふざけんな”と叫びたくなるシロモノ。さらに金属の棒を絶えず水平に保っておかないと爆発する仕掛けが出てくる。これが両手両足椅子に縛られた状態で背中の部分にセットしてあり助けるに助けられない。平衡感覚がイマイチの人なら“何考えてんだー”と目を覆いたくなるだろう。

 これら以外にも、車にセットしてブレーキを踏んだら爆発するやつとか、爆弾を処理しに来た警察の車に逆に爆弾を仕掛け返す(?)とか、ビリヤードみたいに爆風の反射方向を計算して避難地帯にダメージを与えるなど、爆破工作のテクニックの豪華揃い踏みといった感じだ。“同じ手口は二度と使わない”という偏執的爆弾魔の面目躍如である。

 後半になってくると、トミー・リーおじさんの変態度はスケール・アップ。街で見かけたブリキのおもちゃやドミノ倒しなどの小道具を爆弾にプラグ・インさせて独自の世界に突入してしまう。クライマックスの廃船での大爆発の仕組みは圧巻で、昔、「トム&ジェリー」であったような実に長ったらしくて手の込んだバカバカしくも大仰なメカニズムが登場。実は直接マッチで点火した方が早いということに気がついていない。これを大マジメに演じてサマになるのはトミー・リーおじさんしかいない。「逃亡者」や「天と地」での演技に匹敵するパフォーマンスである。

 敵対する2人が実は昔IRAの同志だったとか、警察の同僚(フォレスト・ウィティカー)との友情だとか、サブ・ストーリーも悪くないが、この映画は日常生活に忍び寄る爆弾テロの恐怖を一般市民の視点で捉えていることに尽きるだろう。アイルランド・フレーバー溢れる音楽(byアラン・シルヴェストリ)も印象深い。
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「マイ・マザー・イズ・ア・ベリーダンサー」

2007-09-27 06:46:59 | 映画の感想(ま行)

 (英題:My Mother is a Belly Dancer)アジアフォーカス福岡国際映画祭2007出品作品。香港の九龍地区にある団地に住んでいる冴えない主婦たちが、ベリーダンス(中近東発祥の伝統舞踊)にのめり込んでいくという話。この設定だけを聞くと、誰しも「フラガール」や「スウィングガールズ」の“おばさんダンス版”みたいなスポ根仕立ての映画かと思うだろう。事実、映画祭のリーフレットにも“元気と幸せを与えてくる作品”と書いてある。しかし、観た印象はそれとは大違い。これは本当に厳しい映画だ。

 描写が実にシビア。しがない主婦たちの、その不甲斐なさを徹底したリアリズムで綴ってゆく。彼女たちは夫や子供にバカにされ、あるいは甲斐性のない旦那に悩まされ、鬱屈した日々を送るのみ。それは彼女たちの家族や周囲の人間が悪いのか? いや、一概にそうとも言えない。本人にも責任がある。そんな状況を招いたのは、自らの考えが足りなかったのだ・・・・しかし、それを言っちゃオシマイである。誰でも自分の欠点ぐらいは分かっている。それでも“どうしようもない”のが大人の現実ってものなのだ。

 この映画には彼女たちがベリーダンスの大会などで特訓の成果を披露して盛り上がるといったシークエンスはない。そういう場もないほど追いつめられている。ダンスや何かによって自己をアピールし、それによって大きく成長してゆくといった筋書きが通用するほど、彼女たちは若くはない。それは青春映画の範疇での話だ。

 でも、どんなに逆境にあえぐ毎日であっても、理屈抜きで楽しめることを見つければ、ほんの少し(本当に、ほんの少しなのだが)現実をポジティヴに捉えることが出来る。そういう可能性を高らかに謳いあげる作者の優しさがしみじみと伝わる佳篇である。

 四方をビルに囲まれた集合住宅は登場人物たちの逃げ場のない人生を象徴していることは確かであるが、だからこそ団地の屋上でダンスの練習をする場面や、暗い中庭で踊る彼女たちに上空から一筋の光が射し込んで来るという感動的なシーンがテーマを素晴らしく浮かび上がらせる。

 リー・コンロッの演出はリアリスティックなタッチの中に美しい場面を自在に織り込むという面で実に達者だ。エイミー・チョム、クリスタル・ティン、ラム・カートンら女性陣は皆好演だし、製作も手掛けているアンディ・ラウが顔を見せるのも嬉しい。一般公開が待たれる秀作である。
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「永遠探しの3日間」

2007-09-26 06:50:11 | 映画の感想(あ行)

 (原題:3 Days to Forever )アジアフォーカス福岡国際映画祭2007出品作品。裕福な家庭に育った19歳のヒロインは、姉の結婚式を手伝いに行く前夜に遅くまで遊び呆けたため、翌朝目覚めると家族は彼女を置いて飛行機で出発した後だった。仕方がないので居合わせた大学生の従兄と2人で、姉が嫁ぐ街まで3日かけて車で行くことにする。インドネシアの若手リリ・リザ監督による青春ロードムービー。

 前に観た「逃亡くそたわけ-21才の夏」と似た設定のドラマである。あの映画とは違って本作の主人公二人は健常者だが、ハネッ返りの彼女と気弱な彼氏という構図は一緒。そして旅の途中で繰り返される対立と和解を通じて、自分を見つめ直し成長していく筋書きも同じだ。何かがきっかけとなりアイデンティティを確立してゆくというパターンは青春映画の王道だが、この映画もその定石をしっかり守っていて好感が持てる。

 ただし、東南アジア映画特有のタッチというか、テンポがのんびりしていて、まだるっこしい点が多々あるのは仕方がないか。観客の多くはジャワ島の地理に疎いため、彼らがどこへ向かっており、今どのへんにいるのか分からないのも辛い。地図を挿入するとか、字幕で説明するとかの工夫があっても良かった。それでもインドネシアの地方の風景や伝統行事が紹介されるのには興味深かったし、特に観光名所になっている墓地があるのには驚いた。ムスリムなのにカソリックの学校に通っていたというヒロインの屈折ぶりも面白い。

 見逃せないのは、旅を終えた二人がその9か月後に再会するラストシーンだ。実にホロ苦い幕切れながら、二人は特段いきり立つわけでもなく互いにそれを肯定してしてまうのは、間違いなくあの3日間の“成果”である。こうしたクールなスタンスを崩さないところは作者の賢明さの現れであろう。主演のアディニア・ウィラティとニコラス・サプトラは好演。特段持ち上げたくなるような傑作でもないが、観賞後の印象は決して悪くない。
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「陸(おか)に上った軍艦」

2007-09-25 06:51:14 | 映画の感想(あ行)

 アジアフォーカス福岡国際映画祭2007出品作品。邦画界が誇る超ベテラン映画監督・新藤兼人の軍隊経験を、新藤組の助監督である山本保博が映画化したもの。新藤兼人は昭和19年に32歳で海軍に招集されている。戦況が逼迫してきて若者だけでは兵員が足りず、30歳以上の社会人の男性までが兵役に付くことになったのだ。

 彼が配属されたのは、兵庫県宝塚市にあった海軍航空隊。宝塚は海に面してはいないが、海軍は宝塚歌劇団の施設を接収しており、そこでは海上と同様の訓練がおこなわれていた。まさに「陸に上った軍艦」である。映画は新藤監督に対するインタビューと、それを元にしたドラマが平行して展開する。

 脚本としての「陸に上った軍艦」はもともと新藤が自分の体験をもとにした劇映画用として書き上げたものであり、ドキュメンタリー映画としてのシナリオではない。だが彼の作風を考えると、それをそのまま劇映画として製作したところで、大して面白い映画になるとは考えにくい。たぶんマジメだけど重苦しい、観る者を選ぶような教条的な作品になることは想像に難くない。それをインタビューと劇映画との“二本立て”にしたことで、一本調子になることを巧みに回避すると共に、それぞれの相乗効果により主題を浮き彫りにすることに成功している。これはアイデア賞ものと言えるだろう。

 この作品を観ると、旧日本陸軍に比べて海外事情に明るく垢抜けていたと言われる海軍も、しょせんは愚かな軍人の集まりであったことがよく分かる。海のない内陸部でのナンセンスな“海上訓練”をはじめ、理不尽なイジメやシゴキは日常茶飯事。さらには本土決戦を前にした愚劣極まりない“特殊鍛錬”など、こういうことをマジでやっているようじゃ勝てる戦争も負けるよなァ・・・・と思ったが、逆に言えばこういう事態は“貧すれば窮す”の典型ではなかったか。最初から負けるような戦争に引きずり込まれたこと自体がおかしいのだ。勝つ見込みと余裕があったのなら、もっと合理的な(訓練を含めた)戦略を立てていたはずだ。

 新藤と同期だった100人の兵のうち、生き残ったのは彼を含めて6人だけ。あとは死亡、しかもそれは“戦死”ですらないのだ。戦地に着く前に敵潜水艦の攻撃により海の藻屑と消え、あるいは敵機が飛び交う中に移動を敢行し、無駄に命を落としていったのである。国のために敵軍に一矢たりとも報いることが出来ずに死んでいった彼らのことを思うと、胸が張り裂けそうである。

 話は少し脱線するが、私は“戦争は絶対悪だから徹頭徹尾否定すべし。戦争のことを考えるのも厳禁”といった左派の言い分も“あの戦争にはアジア解放を名目とした大義があった。肯定すべき戦争だった”という右派の物言いも、両方100%信用しない。戦争が外交の最終的手段であるならば、大事なのはイデオロギーや感情論ではなく“勝ち負け”である。センチメンタリズムに浸るヒマがあったら、どうして日本は負けたのかを徹底的に理詰めで検証することだ。そして誤解を恐れずに言えば、次はどうやったら勝てるかを考えるべきだ。

 話を元に戻す。若い頃の新藤を演じる蟹江一平をはじめ、ドラマ部分のキャストは好調。特にあらぬ疑いを掛けられて神経に変調を来す若い一等兵役に扮する大地泰仁の演技は要注目だ。大竹しのぶのナレーションも悪くない。山本保博の演出はインタビュー部分は手堅く、ドラマの方はメリハリをつける等、助監督としてのキャリアを感じさせるソツのない仕事ぶり。後方の一兵卒の目から捉えた戦争の真実をヴィヴィッドに描出させた秀作であると思う。
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「逃亡くそたわけ-21才の夏」

2007-09-24 07:24:11 | 映画の感想(た行)

 アジアフォーカス福岡国際映画祭2007出品作品。福岡市の百道浜にある精神病院を抜け出した若い男女が、車を駆って九州縦断の旅に出る。メンタル面でハンディを背負った二人のロードムービー。しかも、ヒロインの方は毎日のように幻覚に悩まされており、人格崩壊の危険性さえあるようだ。彼女が抱くイメージもケレン味たっぷりに映像化されており、主人公二人のあざといキャラクター設定と大仰な画像のエクステリアからすれば、地に足が付いていない雰囲気だけのキワ物になってもおかしくないのだが、これがなかなか感動的な映画なのだ。

 若い二人は“正常人”ではないが、作者は彼らをアイデンティティの確立に藻掻き苦しむ普遍的な青春像の象徴として捉えている。彼女の場合、不安定状態にあるのは元々の“病状”のためというより、かつて付き合っていた男が病名を知って一方的に別れを告げたことが大きい。そのため、いつ周囲の人間が自分を裏切るかと、死ぬほど悩んでいるのだ。それが初めて等身大で付き合える相手(道中を共にする彼)と出会い、少しずつ自分を取り戻してゆく。

 彼の方はといえば、名古屋出身なのに初めての勤務先が東京だったため、必死に“オレは東京人だ”と思い込もうとしている、屈折した内面の持ち主だ。九州で生まれて、今後もずっと九州人としての矜持を持ち続けようと心に決めている彼女とは正反対である。

 二人とも精神病院に入っていたとはいえ、症状は彼の方がずっと軽い。退院間近ということもあり、見た目は立派な健常者だ。しかし、自らのフランチャイズを獲得しているという意味では、彼は病状が厳しい彼女に大きく遅れを取っているのが面白く、この旅によって彼もまた彼女から生き方を学び取るのである。

 彼女が自己の幻覚と敢然と向き合うシーンは盛り上がるが、それよりも彼らの成長を表現するかのように、次々と美しい姿を見せる九州の風土・自然の情景が素晴らしく効果的だ。

 慣れない博多弁と格闘しつつ(笑)、壊れそうなヒロイン像を切迫した演技で実体化した美波と、ノンシャランな自然体でドラマを支える吉沢悠、主演二人のパフォーマンスには瞠目させられる。我修院達也(若人あきら)や大杉漣、中島浩二にガッツ石松といった脇のキャラクターが濃くて実に良いし、田中麗奈までゲスト出演しているのには嬉しくなる。

 本橋圭太の演出はギャグの扱い方も含めてテンポの良い名人芸。主人公二人のキャラクターには、原作者である絲山秋子の、首都圏出身で就職時に福岡に配属され、出生地と活動する場との二つのグラウンドを自分の中で上手く折り合わせた経験が大きく投影されているのだろう。異色の青春映画の秀作で、観る価値は大いにある。
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「ドン」

2007-09-23 07:56:31 | 映画の感想(た行)

 (原題:Don )アジアフォーカス福岡国際映画祭2007出品作品。インドとマレーシアを股に掛けて暗躍する巨大な麻薬組織カルテル。その影で“荒仕事”を一気に引き受けるシンジケートの裏のボスである“ドン”が、逮捕された後にケガが元で死亡。担当警視は彼にそっくりな男を見つけ出し、“ドン”に成りすませて組織に送り込み潜入捜査を行おうとするが、事態は複雑な様相を呈してゆく。2006年製作、上映時間168分のインド娯楽大作だ。

 ボスに瓜二つの男に、さらに身体的特徴を最新医学で刻み込むという設定は、何やら「フェイス/オフ」を連想させるし、彼が潜入捜査していることは警視一人しか知らないというプロットは明らかに「インファナル・アフェア」からの拝借。さらに「007/ムーンレイカー」からの堂々たるパクリのシーンもある。敵の首魁が自らの正体をモノローグで披露するのに驚いていると(爆)、ラストの超強引なオチには茫然自失だ。しかし、かような胡散臭いネタが満載の作劇にもかかわらず、インド製娯楽映画というフィルターを通してしまうと、すべて許したくなるのだから不思議なものである。

 ハードなクライム・サスペンスであるはずの題材なのに、妙に明るいのも“インド映画だねぇ~”と納得。そして例のごとく脈絡もなく挿入される大仰なミュージカル・シーン。ブツ切りのシークエンス構成とアクション場面でわざとらしく展開する画面分割も力任せで乗り切り、冗長な最初の30分を除いては、ジェットコースター的にエンドマークまで持っていく監督ファルハーン・アクタルのマッチョぶりには呆れつつも感心してしまう。

 主演はお馴染みシャー・ルク・カーン。相変わらずイモ臭い容貌ながら(失礼 ^^;)これが歌と踊りの場面になるとスターのオーラがパァーッと輝き出し、観客の目をスクリーン上に釘付けにする。格闘シーンも頑張っていて、特に終盤での高所での一対一の対決は手に汗を握ってしまった。ヒロイン役のプリヤンカー・チョープラーは素晴らしい美人だし(踊りも上手いぞ)、クアラルンプールの名所もフィーチャーされ、観光気分も味わえる。

 一時期“マサラ・ムービー”の名でこういったインド娯楽作品が持て囃されたが、最近はなかなか輸入されなくて寂しい限り。何も考えずに楽しめるという意味では御涙頂戴の韓国映画よりも数段アピール度が上だし、年に数回はこういう映画も見せてもらいたいものだ。
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「HERO」

2007-09-15 07:18:44 | 映画の感想(英数)

 中盤、木村拓哉扮する主人公の検察官が、やっと見つけた証拠品である犯行に使った車の傷を得意満面で法廷にて披露するが、松本幸四郎演じる弁護士から“それは犯行時に付いた傷とは限らない”と一蹴されてショゲてしまうシーンがある。プロの法曹人ならこの程度の“反論”があることは予想するはずだが、それすら考慮していないような脚本の拙さに閉口した。この場面に代表されるように、この映画の筋書きは甘い。それも大甘だ。

 傷害致死事件が大物代議士のスキャンダルとリンクしているという設定は決して悪くないが、それを法廷ドラマとして大人の観客の鑑賞に堪えうるような作品に練り上げられているとは、とても言えない。プロットは御都合主義的で各キャラクターのメンタリティは子供並み。韓流ファンにも色目を使った釜山ロケなんてナサケなくてタメ息が出る。

 元ネタとなったテレビドラマは見ていないが(はっきり言って、見る気もなかったが ^^;)、人気ドラマを映画化することについては否定するものではない。ただし、おそらくは元ネタではお馴染みの登場人物やモチーフを“お馴染みのまま”に挿入してテレビ視聴者に媚を売って肝心の映画の質を貶めるようなマネをすることは、断じて納得できない。たぶん検事仲間のわざとらしいケレン味や綾瀬はるかと中井貴一のシークエンスなどがそれに当たるだろうが、それらは話の流れを阻害するだけで何ら作劇上のメリットになっていない。わざわざ劇場まで足を運んでくれるテレビドラマのファンに対し、映画ならではの骨太の展開を見せつけ、イッキに邦画好きにしてしまうような前向きの根性を見せろと言いたい。

 主演の木村は、ヘンに気取ったいわゆる“キムタク臭さ”が全開で、見ていて辛いものがあるし、松たか子の地に足が付いていないコミカル風演技も願い下げ。他のキャストについてはコメントさえしたくない。結論として本作は、熱烈なキムタクのファンか、10年に一回程度しか映画館に行かない層か、あるいは小中学生以外には奨められないシロモノである。良かったのは服部隆之の音楽ぐらいで、とっとと忘れたい映画だ。
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「日の名残り」

2007-09-14 06:41:08 | 映画の感想(は行)
 (原題:Remains of the Day)93年作品。ジェイムズ・アイヴォリィ監督の出世作「眺めのいい部屋」(86年)は若いカップルの恋愛騒動を明るく楽しく描いているように見せながら、本当の主人公はジュリアン・サンズのノー天気な若者でも、ヘレナ・ボナム・カーターのハネっ返りの女の子でもない。ダニエル・デイ=ルイスの若い貴族である。新しい時代・風俗に適合できずに、ひたすら内省的・厭世的に落ち込んでいく貴族階級を描き込み、そこに人間の根源的な哀しみを映し出す、というところにこの作家の真骨頂があるのだ(興味深いことに、アイヴォリィはイギリス出身ではなくカリフォルニア生まれである)。

 さて、この「日の名残り」もまさにアイヴォリィでしか撮れない作品だ。戦前のイギリス上院議員(当然、貴族である)のカントリー・ハウスを切り盛りする執事が主人公。雇い主である主人には絶対服従。同じ屋敷で働く父親が危篤になっても持ち場を離れない。その屋敷では開戦前夜の緊迫した会談が行われるのだが、政治的内容についてはまったく関心を示さない。若い女中頭(エマ・トンプソン)が彼に興味を持つ。彼の部屋に花を飾ろうとする彼女を“気が散る”と追い返し、恋愛小説を読むところを彼女に知られたくないため四苦八苦する。彼にとって職務を忠実に遂行するために邪魔と思えるものは排除して当然なのだ。

 しかし、彼女にいつしか恋心を抱いている自分を否定するのに必死でもある。戦争も終わり、主人である上院議員(ジェームズ・フォックス)は落ちぶれ、屋敷はアメリカ人の富豪(クリストファー・リーブ)のものになる。主人公は休暇をもらい、かつて愛した女中頭に会いに行くのだが、はかない期待を持った彼を待っていたのは、シビアーな現実であった。自分が信じていた主人、社会制度、職務etc.などが時の流れの前にもろくも崩れさっていく無常。自由に生きようとして果たせなかった主人公のペシミズムが絶妙に表現されていて、圧巻だ。

 病的にまでストイックでマゾヒスティックな主人公を演じるアンソニー・ホプキンスは素晴らしい。「羊たちの沈黙」のレクター博士よりよっぽど変態(おいおい)。しかもそこに何とも言えない“男の純情”が感じられて出色である。美術・音楽など、舞台装置にはいつもながら手抜きはない。演技陣も充実し、これだけの渋いドラマをモノにできるアイヴォリィの手腕には感心してしまう。
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