元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マイマイ新子と千年の魔法」

2009-11-30 06:25:41 | 映画の感想(ま行)

 とても良い映画だが、おそらくは興行面では広範囲な支持を集められないだろう。昭和30年の山口県防府市を舞台に、空想好きな小学三年生の少女・新子と東京からの転校生で田舎暮らしに馴染めない貴伊子との友情を描く、高樹のぶ子の自伝的小説を元にしたアニメーション映画。

 序盤はいかにも子供っぽい空想の世界が前面に出て、大人が観るには少しくすぐったい感じだ。ならば子供の観客はどうかといえば、現代とあまりにも懸け離れた時代背景には付いていけないと思う。時代設定が近い宮崎駿の「となりのトトロ」のようにチャーミングなクリーチャーも出てこないし、イマイチ作品に物語に没入できないのではないだろうか。

 だが、中盤から主人公達の周囲に“大人の世界”が容赦なく侵入してくるあたりから興趣は一気に盛り上がり、見応えが出てくる。でもそれは子供の観客を置き去りにすることにもなる。もちろん一緒に観ている親がフォローすればいいのだろうが、残念ながら今の小学生の親の世代でも、この映画の時代の空気は十分理解は出来ないと思う。いずれにしても、本作はマーケティングの難しさにおいて、最近の邦画では屈指であろう。

 さて本作が感動的なのは、連綿と続く人間の営みをヒロイン達が見聞きする時空間に凝縮させた野心的な作劇ゆえである。防府市は千年前に国府が置かれた場所だ。新子と貴伊子は当時生きていたらしい地方官僚の娘である薙子という女の子とその取り巻きに、自分たちを投影する。薙子と仲良くなるはずだった地元の女の子は薙子がやって来る前に死んでしまい、友達もいない寂しい生活を送っている。だが、勇気を出して外の世界を見ることによって現実社会の何たるかを自分なりに理解してゆく。

 薙子にとっての外界との接触点が何かと世話を焼いてくれる家老だったのと同様、新子には祖父という指導者がいたのだ。祖父の豊富な知識が新子の旺盛な想像力の立脚点となり、たとえ祖父がいなくなっても影響力は消えることはない。劇中に“人は死んでも誰かが覚えてくれている限り、ずっと生き続ける”という意味のセリフがあるが、この“ちゃんと伝える”ことの繰り返しが歴史そのものであるという、作者の透徹したスタンスが見て取れる。

 新子たちとは対照的に、親からは上っ面のポーズしか教えてもらえなかったリーダー格の少年の運命は悲しい。普段はクールな彼が、去って行った父親のことを思い、いたたまれない気持ちになって通りを駆け出す終盤の場面は胸が締め付けられる。

 片渕須直の演出は丁寧で、彩度を抑えた映像は美しい。時代を示す大道具・小道具の使い方が秀逸で、福田麻由子や水沢奈子などの声の出演も万全だ。いくぶん観客を選ぶ映画だと思うが、質は高く観賞後の満足感も上々である。製作元のマッドハウスは本作といい「サマーウォーズ」といい、今やスタジオジブリを凌ぐ信頼のブランドに成長した感がある。
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五家荘に行ってきた。

2009-11-29 19:18:25 | その他
 11月の中旬に熊本県の五家荘(ごかのしょう)に行ってきた。九州中央山地国定公園の中核を成す観光ポイントだが、私は足を運ぶのは初めてである。事前にネットなどで情報を集めた結果、中心地より遠く離れた場所であり、とにかく道が狭くて急勾配・急カーブの連続で、対向車とすれ違うにも難儀するようなハードな交通事情であることが判明。よって自家用車で行くことを断念し、バスツアーを利用することにした。チャーターされたのは通常の観光バスよりも二回りぐらい小さい車両。この程度の大きさじゃないと目的地まで到達しないのだという。

 熊本県八代市に近い松橋インターから、狭い県道に分け入って山岳地帯を目指す。とにかく、物凄い山奥である。1300~1700m級の山々が周囲に迫り、まさに深山幽谷だ。残念ながら今年は紅葉のシーズンが思いの外早く、行ったときには盛りを過ぎていた。それでも時折ハッとするような美景に遭遇することが出来る。



 見どころの一つは「せんだん轟(とどろ)」と呼ばれる瀑布である(写真参照)。落差は70m、幅3~4mで、滝つぼは4mもあり、近くで見ると迫力がある。そして紅葉に映えて実に美しい。近くの食堂では山女魚の塩焼き定食をいただき、大いに満足。樅木の吊橋「あやとり橋」と「しゃくなげ橋」も面白い。水面からの高さが25mで、歩いて渡るとかなり揺れる。

 五家荘は平家の落人伝説でも知られる。壇ノ浦の戦いで敗れた平家の大将の一人である平清経は、水死したと見せかけて戦地を脱出。この山奥に落ち延びてきたのだ。その後実権を握った源氏が断絶したのとは対照的に、平氏の直系の血筋は今でも存続している。歴史とは皮肉なものだ。また、それより前に菅原道真の子供達が太宰府からこの地に逃れてきたことを今回初めて知った。さらに、清経たちの時代から百年以上もこの土地に人が住んでいることが外部の者は分からなかったというのだから、本当に秘境と呼ぶにふさわしい場所である。

 近年は「平家の里」なる記念館も建てられ、昔の家屋も復元されている。そのため歴史好きの注目を集め、観光客も増えている。私が行ったときは平日だったのだが、ガイドの話によると週末にはそのバス会社だけでも車両10台ほど連ねた大がかりなツアーになるという。



 帰りには五木村にも寄り、村の御老人による正調の「五木の子守歌」を聴くことが出来た。県の天然記念物である宮園の大銀杏も見物(写真参照)。そのデカさに圧倒される。ついでにウワサの川辺川ダムの建設予定地も遠くから眺めたが・・・・まあ、この件についてはコメントを控えよう(笑)。

 九州の山岳系の観光地では阿蘇や久住、霧島などに比べると交通アクセスに難があり、またロケーションも市街地から離れている。だが、歴史マニアでなくても行く価値のあるスポットであることは確かだ。紅葉の頃がベストだと思うが、新緑の季節も良いかもしれない。夏場はキャンプをしても楽しいだろう。
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「2012」

2009-11-28 07:30:44 | 映画の感想(英数)

 (原題:2012)さすがローランド・エメリッヒ監督だ。大味で脳天気な作劇も、ここまで突き詰めてくれるとまさに“名人芸”の領域に達していると言ってよかろう(笑)。

 マヤの予言書に記述されているという世界の終わり、それは惑星直列とか太陽からの多量のニュートリノの照射とかで、地球内部のコアに影響を与え大規模な地殻変動が起こることを意味するという。これが2012年に起こるらしく、本作はその壊滅的な災難の有様を派手に描いている。要するに、従来のパニック映画で取り上げられてきたネタの数々を合体させて極限にまで拡大したと思えば良く、その方法論からしてヤケクソ的な胡散臭さを発散しているのだ。

 通常、広げた大風呂敷のサイズとドラマツルギーの綿密さとは反比例する。事実、この映画は突っ込みどころが満載だ。だいたい、カタストロフが予見されてわずか3年間弱で数十万もの人員をカバー出来るほどの“方舟”を(いくらあの国でも)あんな場所に何隻も作れるわけがない。

 危機また危機をかいくぐる主人公達には、押し寄せる火砕流や土石流も手加減してくれる。雨あられと降り注ぐ火山弾だって、勝手に狙いを外してくれる。挙げ句の果ては、とてもたどり着けない目的地も地殻変動とやらであっちの方から近づいてくる始末だ(爆)。その他、細かいところを列挙するとキリがないほど、本作にはトンデモなモチーフが山のように積み上げられている。

 登場人物もしかりで、嫁さんに逃げられてしがない生活を送る売れない作家とその“家族”を一応主人公に設定しているが、深い内面描写など皆無だ。演じるジョン・キューザックやアマンダ・ピートらも、別に彼らじゃなくても全然構わない。ステレオタイプそのものの役柄なので誰がやっても同じである。

 ところが、本作ほどエメリッヒの持ち味にフィットした題材はないのである。過去に彼が取り上げたネタは、異星人の侵略だろうと地球温暖化の行き着く先だろうとニューヨークを襲う怪獣だろうと、その“相手”が歴然としていた。そういう整然とした図式であったからこそ、辻褄の合わない部分に対して論難する余地があったのだ。ところがこの映画は、前提そのものがマヤの予言書やら何やらの眉唾的なシロモノである。最初から“相手”の造形が“なんでもあり”の状態なのだから、どんなに無茶をやろうと笑って済ます以外ないのだ。

 ただし、どんなに脚本の不備が気に入らないマジメな映画ファンでも、この映像には一目置かざるを得ないはずだ。天変地異の凄まじさをこれだけド派手に描いたシャシンは他には思いつかない。つまりは遊園地のアトラクション気分で観ればいいのであり、その意味では興行価値は高い。それにしても、普段は活躍するはずの米軍がここでは全く無力なのには笑ってしまった。おかしなところで現実を反映していると思った次第である。
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「白い船」

2009-11-27 06:26:06 | 映画の感想(さ行)
 2001年作品。島根県の小学校と沖を行くフェリーの交流を実話に基づいて映画化した錦織良成監督作品だが、物語の前提に釈然としないものを感じる。

 たとえば中盤、どうしてもフェリーに近づきたい生徒達が漁船を勝手に操縦して挙げ句の果てに遭難しかけるシークエンスがあるが、やっとのことで救出された子供達を大人は誰も叱らず、ただ“無事で良かった”と言うのみ。これはちょっと違うのではないか? まずは“皆を心配させやがって、この野郎!”という具合にビンタの一発でも入れるべきである。無事を喜ぶのはそれからだ。

 そもそも授業中に窓の外をボーッと見ているだけの不真面目な生徒の“沖合いを通る船に乗りたい”との寝言を大真面目に受け取る教師やPTAには脱力するしかなく(実話だというのなら、尚更ナサケない)、要するにこの映画はドラマの出発点からしてガキにおもねているのだ。

 中村麻美扮する若い女教師の扱いも不十分。表情に乏しく、何を考え何をやりたいのかさっぱりわからない。彼女の同僚・友人役の高橋理奈や白石美帆に主人公役を振った方がずっとマシだったろう。

 明らかな凡作だが、わずかに見所はある。中村嘉葎雄や大滝秀治、奥村公延や宮下順子といったベテラン勢がイイ味出しているし、何より映像が素晴らしく美しい。柳田裕男のカメラによる山陰海岸の美景はそれだけで入場料のモトを取れるし、クライマックスの子供達が乗ったフェリーが町の沖を通過する際に地域の漁師たちが大漁旗を掲げた船団で迎えるシーンの構図には圧倒された。角松敏生の音楽も悪くないし、私のように斜に構えた見方(笑)をしない善男善女の観客のみなさんには十分満足できよう。
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「パンドラの匣」

2009-11-26 06:29:10 | 映画の感想(は行)

 原作を十分に精査することなく、及び腰で映画化したような感じだ。元ネタは太宰治の同名小説。敗戦直後、山奥の結核療養所「健康道場」に入った年若い主人公「ひばり」の療養の日々を描いているが、どうにも面白くないのは「ひばり」がどういう人間かよく分からないためだ。

 身体が弱く戦時中は兵隊に取られることもなかった彼だが、それだけに引け目を感じており、戦争が終わったのを契機に“新しい男”に生まれ変わろうとするのだが、その“新しい男”とは一体何であるか分からずに悩むという、太宰作品らしい気弱なインテリの造型であることは分かる。だが、そんな彼がどうやって周囲と折り合いを付け、新しい時代に一歩を踏み出すようになるのか、そのあたりが描かれていない。

 人里離れた療養所は戦後の混乱が続く世の中とは隔絶された環境であり、限定された人間関係の中でどのように自己のアイデンティティを照射していくかが作品の重要ポイントであるはずだが、本作では捉え方が表面的に過ぎる。主人公と個性的な塾生(患者)たち、あるいは新任の色っぽい婦長や若い看護婦との付き合い方は、濃密になると思わせて実は淡泊な展開に終始する。

 ただし、これは作者が意図したものではなく、描写不足によってそのように見えるに過ぎない。思わせぶりな小細工に終始し、登場人物の内面なんかちっとも浮き彫りになってはいないのだ。主人公の書簡によって心情が綿々と語られる原作との折り合いが付けられなかった結果であり、ラストには何のカタルシスもない。これでは失敗作と言われても仕方がないだろう。

 冨永昌敬の演出は目に余る破綻もない代わりに、さほどのインパクトもない。せいぜいが、川上未映子扮する婦長に“床を雑巾がけする四つん這い姿”をさせて劣情を誘う程度である(爆)。主演の染谷将太はナイーヴな持ち味を出して悪くないし、友人役の窪塚洋介は飄々とした雰囲気を漂わせて久々に良かった。残念ながら婦長役の川上は演技が硬くて感心しなかったが、若いナースを演じる仲里依紗は奔放な魅力で観る者の目を釘付けにする。

 小林基己のカメラによる淡い暖色系の画調も見事だ。そして何と言っても菊地成孔の音楽が素晴らしい。このジャズ畑の異才は映画音楽を担当することは珍しいが、ここではクールかつ柔らかいメロディ・ラインを連発させて単調な作劇をカバーしていたと思う。

 とはいえ作品自体は“若者フィーリング映画(謎 ^^;)”の域を出るものではなく、少なくとも太宰治のファンからは敬遠されること間違いなしだ。いわば「やっとるか?」と聞かれて「(まあまあ)やっとるぞ」とは答えるが、「がんばれよ!」と声を掛けても「よしきた!」と言えるほどの気合いはなかったという映画だろうか(暗然)。
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「ビューティフル・マインド」

2009-11-25 06:18:52 | 映画の感想(は行)
 (原題:A Beautiful Mind)2001年作品。実在の天才数学者、ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアをモデルにした主人公の数奇な運命を描く、第74回米アカデミー賞作品賞の受賞作である。

 監督はロン・ハワードだが、彼は実に達者な演出家である。技巧だけに限って言えば世界屈指だろう。まさに一分の隙もない精密機械のようなドラマ運び。しかし、観客の情感に訴えるようなアプローチは皆無である。無味乾燥と言っても良い。ただしこの作品について言えば、巧みな脚本とキャストの血の通った演技が怜悧なハワードの演出と程良くブレンドされて誰もが納得できる娯楽作に昇華されている。

 中盤までの、まるでデイヴィッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」と同系統かと思われるルール違反の展開も、並みの監督が手掛けるとドラマが空中分解してしまうが、ハワードは愚直なまでに精巧に物語を綴るのみ。おかげで話が全然嘘っぽくならない。何より、ノーベル賞学者の内的苦悩という、まるで浮世離れした題材を真っ当なエンタテインメントに仕上げてしまうハリウッドの力技には舌を巻く思い。

 ラッセル・クロウの賞狙いの演技は感心しないが、エド・ハリスやジェニファー・コネリーら脇のキャストがすこぶる良い。ジェームズ・ホーナーの音楽、シャルロット・チャーチによるエンディングテーマ曲が美しさの限りだ。

 ただひとつ難を言えば、劇中主人公が碁を打つシーンがあるが、石の並び方がなっていない。あれは対局中ではなく地並べ(終局)の盤面だ。いま一歩のディテールの詰めが欲しいところ。
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「スペル」

2009-11-24 06:19:58 | 映画の感想(さ行)

 (原題:DRAG ME TO HELL )素晴らしく楽しい、ホラーの快作だ。何よりサム・ライミ監督が“本業”に復帰したのが嬉しい。

 彼が世間に知られるようになった「スパイダーマン」シリーズを、私はまったく評価していない(そもそもアメコミのヒーロー物の映画化自体に意味がないと思っている)。しかしながら単に“名前を売る”には恰好のネタであり、ドル箱映画の監督という評価は一生付いて回るし、ハリウッドのプロデューサー達が嫌うと言われる“作家性”を発揮しても文句は言わせない立場を手に入れた。その上で満を持してのホラー回帰である。期待しない方がおかしいし、作品の内容もそれに応えて余りあるヴォルテージの高さだ。

 不気味な老婆からのローン延長願いを断ったことで呪いを掛けられた女子銀行員の受難がメイン・ストーリーだが、ヒロインにはほとんど非はないところがポイントだ。明かな“不良債権”を、銀行側としては“それ相応の扱い”をして当たり前。しかもこの老婆は身寄りのない独居老人ではなく、親戚筋も大勢いる。いくらサブプライムローンの影響があったとしても、無条件で銀行が応じる道理はないのだ。

 ましてや主人公はローン延長を却下したことを反省してさえいる。どう見ても落ち度はないのだが、この“罪のないキャラクター”を徹頭徹尾イジメまくるあたりがライミ監督の真骨頂だ。

 地下駐車場での老婆との大々的なバトルを皮切りに、神出鬼没で現れるババアの怪物ぶりは怖さを通り越してほとんどギャグである(特に物置でのスラップスティックな格闘は大爆笑)。さらには魔界からモンスターまでやってくる。それに対して主人公側はおどろおどろしい屋敷での悪魔祓いや、深夜の“墓あばき”など古風な仕掛けで戦うのも楽しい。

 ライミの演出リズムはまったく淀みが無く、全編に渡ってスムーズ。安易なスプラッタ場面に頼らずに、シチュエーションのみでホラーの意匠を形成しているのはサスガと言うしかない。ラストのオチなんて、まさに“これしかない!”という感じのブラックなもの。小道具を前振りに使っているのも、実に上手い。

 主演のアリソン・ローマンは、女優の趣味が最悪だったライミ監督にしてはまあまあのルックスだ(笑)。何となく幸薄そうなところも作品にピッタリ。ジャスティン・ロング、アドリアナ・バラーザなど他の面子も悪くないのだが、何と言っても老婆に扮するローナ・レイヴァーが強烈だ。今後ライミ作品の常連にして欲しいほどの存在感である。とにかく明るくポップな怪異譚で、よほどのホラー嫌いを別にすれば幅広く奨められる。ユニバーサルスタジオ・ジャパンに同映画のアトラクション施設を作って欲しいぐらいだ。
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「なごり雪」

2009-11-23 06:58:48 | 映画の感想(な行)
 2001年作品。フォークの代表曲「なごり雪」をモチーフに、50歳を迎えた中年男たちの青春の悔恨と惜別を描いた人間ドラマで、監督は大林宣彦。結論から言うと、上等なシャシンではない。この観賞後の居心地の悪さは、私のこの曲に対する思い入れがゼロであるからだけではないだろう。

 大林の作品は出来不出来が激しいが、言うまでもなくそれは舞台となる場所にドラマが密着しているか否か、つまり地に足が着いた作劇をしているかどうかの差である。その意味で尾道や柳川、浅草といった土地柄を前面に出している場合は成功だし、同じく尾道を舞台とした「あした」が駄作だったのはドラマのほとんどを“抽象的な場所”に設定してしまったせいである。

 この作品は大分県臼杵市という地方色豊かな街を題材にしているので、一見映画は成功するように思える。しかし、方言の意図的な排除に代表されるように、今回作者は場所柄を無視し、普遍的なドラマにしようと画策している。それはアプローチの一方法であるのは間違いないものの、おかげで臼杵の風景も“日本のどこにでもある田舎町”にしか見えなくなった。これは大林としては失敗ではないか。

 物語自体も単純な三角関係でしかなく、いかにノスタルジックに過去を回想しようが、それが現在の登場人物の苦悩と関連している限り、シビアな語り口が必要なはずだが、微温的な大林の手法では多くは望めない。それをカバーするために挿入された大量のモノローグも効果がなく、単にうるさいだけだ。歌詞をそのまま台詞に持ち込むのも異論が出そうである。

 三浦友和やベンガル等のキャスト陣は手堅いけれど意外性はない。ヒロイン役の須藤温子は初々しい魅力があるが、現時点では他の映画でも活きる素材とは思えない(事実、彼女は本作以降は目立った活躍がない)。
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「母なる証明」

2009-11-22 20:39:00 | 映画の感想(は行)

 (英題:MOTHER)脚本に難がある。韓国の地方都市を舞台に、無実の罪で逮捕された知恵遅れの息子を救うため母親が奔走するという本作、その前提からしてクエスチョンマークが付く。

 だいたいこの事件、警察が目撃者の話をちゃんと聞いていれば直ちに解決したのではないか。それも“目撃者に何か事情があって真相を明かすのは憚られた”という設定でもない。そもそも証人が取り調べの際に事実を喋らない道理が全くないのだ。見たままを述べればよく、目撃者がそれを忘れていたという筋書きもあり得ない。加えて、警察が被害者の身辺を洗い出したような形跡が見当たらない。素人のオバサンが真相究明に乗り出して初めてその不透明な背景が浮き彫りになるというのは、いくら何でも無理筋である。

 そして終盤近くに起きる“第二の事件”の扱いも噴飯ものだ。いかに一見“事故”に思われようと、警察は現場検証ぐらいするだろう。当然ながら遺留品をチェックするはずだし、犠牲者の死因についても詳しく調べられるはずだ。ところが本作にはそれが全然無い。その“全然無い”ことを前振りにしてラストのオチが成り立っているのだから、開いた口がふさがらない。

 監督のポン・ジュノは以前「殺人の追憶」でも警察の不甲斐なさを描いたが、今回は呆れることに“警察が無能であること”を周知の事実としてドラマを組み立てている。韓国の警察というのはこんなにも信用出来ないのか? そうではあるまい。事件が起こった際に警察が目撃者に事情を尋ねるということは、民主主義国であろうとなかろうと世界中どの国でも共通しているのではないか。ましてや一応法治国家である韓国に限って“それが無い”というのは考えられないのだ。この映画の作者はキチンとしたミステリーのプロットも組み立てられないまま、漫然と撮影に臨んでしまったとしか思えない。

 母親を演じるキム・ヘジャと、兵役後5年ぶりの映画出演となるウォンビンは確かに好演。特にキム・ヘジャが原野の真ん中で踊るファーストシーンには引き込まれる。しかし、この二人が出演していることでだいたいの筋書きが分かってしまうのだ。予告編なんてほとんどネタバレだろう。いずれにしても、作劇の説得力を完全にネグレクトして、手練れのキャストが織りなす“情念の世界”に丸投げしてしまった時点で、本作の失敗は確約されたと言える。

 ただし撮影と音楽だけは素晴らしい。ホン・クンピョのカメラによる登場人物の心情を象徴するかのような画面構築は見事だし、ギター独奏によるメイン・テーマをはじめとするイ・ビョンウのスコアは、本年度屈指のサウンド・デザインである。だから“観る価値が全くない”とは言えない。ただし映画自体の出来に期待するのは間違いだ。
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「ブラックホーク・ダウン」

2009-11-14 07:36:43 | 映画の感想(は行)

 (原題:Black Hawk Down )2001年作品。1993年のソマリアで起きた壮絶な市街戦の模様を生々しい体感映像で再現。監督がリドリー・スコット、製作はジェリー・ブラッカイマーという、一種“好戦的”な面子によって作られている(笑)。

 序盤の兵士たちの日常を追った展開は退屈。戦闘シーンに入ると緊張感が出てくるが、正直言って、ヘリコプターの編隊飛行の場面を除けばそれほど特筆できる描写はない。何よりも兵士側に目立ったキャラクターが皆無で、しかも映画が中盤に達すると、誰が誰で何をしているのか判然不能になってしまうのには閉口した。それぞれの小隊の位置関係もさっぱりわからず、戦況の推移もほとんど掴めない。

 もちろんこれは意図的なもので、観客にも兵士と同様に混乱や混沌を体験してもらおうとの狙いがあるのは確実だが、それが劇映画として面白いかというと大いに疑問。この点、出来自体は特定の登場人物に絞り込んでドラマを進めた「エネミー・ライン」や「プライベート・ライアン」の方が上だ。

 それにしても、こういう題材の映画を観ていると、人命の価値には歴然とした格差があることを痛感せざるを得ない。この戦闘で死亡した19人のアメリカ兵は映画の終わりに実名をあげて追悼されるが、ソマリア人の犠牲者は、「千人以上」という数字が提示されるのみ。パックス・アメリカーナに反する者は人間ではないと言わんばかりだ。

 しかし、ここでいきおいヒステリックで近視眼的な反米スタンスに走るのも利口ではない。結局、アメリカが介入しようが撤退しようが、ソマリアみたいな自助努力の欠けた国は永遠に混迷の中を歩むしかないのだ。戦後、欧米諸国以外の敗戦国・新興国で自らによって立つことのできた国は日本や西ドイツをはじめごくわずか(しかもアメリカの援助によって)。あとの多くはズンドコだ。欧米主体の価値観に反感を覚えつつも、“アメリカ抜きでは世界秩序は語れない”という冷徹な事実に、我々は諦念を持って、また冷静に対処するしかないのであろう。
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